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2021/11/30/火曜日/日差しは暑い⚫️虎ノ門金毘羅宮なんとまあビルの狭間に鎮座まします。四百年の風景の変容にさぞや驚かれている事だろう。幾星霜、庶民の心の拠り所として今に至っても参詣者は途絶える事なく。ご祭神は大物主神と崇徳天皇丸亀藩藩主が藩内に鎮座していた金毘羅さまを江戸屋敷に分霊したのが始まり。当初は芝にあったものが1679年、今の虎ノ門の場所に遷宮したという御朱印は定額ではなく自分で志を納める式、というのは初めての体験。この社の豊かさから来るおおらかさ哉境内には百度石が据えられている。港区内には珍しいものらしい。祈り願い参る、それが堅固なモノに形となる。金毘羅離宮は火消しと関わりが深く、関東大震災の火災の中、宮の上には叢雲立ち上がり、白髭の翁が火の粉を払う姿を宮司たちが認めた逸話もある。⚫️愛宕山神社愛宕山は自然の造形としては都内で一番高い山!なのだそうです。目もくらむような急な階段は「出世の石段」。馬で駆け上がり駆け降り将軍に梅を献じた逸話はこの石段であるか。その馬乗り名人武士が、先述の、この社に程近い金毘羅宮の丸亀藩士、曲垣平九郎とはよくできた話。そしてまた、このご祭神は火伏せの神、火産霊命であれば金毘羅さんと同じく火消しにご縁がある。いい男たちのお社ね境内末社にある太郎坊神社のご祭神は猿田彦神で、旅の神と聞く。第二次世界大戦時の大空襲でお山は灰塵に期すも、太郎坊神社のみ無傷だったとか。拝し奉る。⚫️天徳寺浄土宗のお寺門は開かれていたので、中に入れさせて頂く。商売繁盛?なにぎわう寺社もあれば、ひっそり佇むところもあり、そういう古刹に惹かれるのだけれど。果たしてよいお顔の観音さまが庭隅に。
2021.12.04
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2022/12/06/火曜日/まだ晴れない寒い朝土曜日、晴天の下川越市立美術館の小茂田青樹展に出かけた。美術館滞在時間の倍以上を我が家からは往復に要するため、腰が重いけれど、明日までの公開なので決意。尤も川越は大好きな鰻が旨い街でもあり、それも私を引率するのである。電車に乗る前に念願の 東屋 に予約電話してみる。はーもちろん予約一杯小川菊も林屋も電話つながらず。ダイレクトに赴くしかない。11時半には既に店頭30人以上待ち、これでは美術館の時間が無くなる!駅から遠くなればなるほど空いてるかも、と伝米へああヽ(;▽;)入れました、ラッキー鰻が熱々!お米がつぶつぶ、イキイキ!タレの煮詰めがハンパでない炭焼きの苦味と甘味のハーモニー卓の山椒が香り高いお漬物の昆布佃煮すんごく美味はー満足満足え?何しに来たんだっけ。そうそう美術館へそれにしても第8波をモノともせず、相変わらずの観光客で賑わう、人を惹きつける川越美術館まで来るとさすがに幅地元のみなさんの日常姿が多くなる。これこれ。実は私はこの画家を全く知らなかった。今回川越市政、美術館開館記念特別で川越が生んだ小茂田青樹をまとめて観る機会に恵まれ、その姿が具に見られた。青樹初期の作品を原三渓が買い上げ、一躍画壇に知れ渡る。その2点はこれからの彼の絵画の方向を示すようでもある。しかし評価に恵まれず、武蔵野の山奥でひたすら自然觀照に至った大正後半の「麦踏」←埼玉県立近代美術館蔵に足が止まる。ミレーの晩鐘が想起されるけれど、明らかに自然に対する人の姿が異なる。あー、なんてよいのだろう。夫婦と思われる2人の素朴さ、包み込む自然の緑の布団、二人のの足元にほのかに光る麦すべてが愛おしくなる風景無名性の中に自然も生き物も溶け合う厳かさは深い宗教感を見るものに教える。この絵で青樹がいっぺんに好きになるスケッチ集を見て驚く。大変な才能技量なのに、実際に仕上げた絵はその技量を捨て素朴なのである。稀に「緑雨」や「菊」「葡萄」に隠しようもなく漲るけれど、全体に技術に溺れず、ユーモアとか朗らかさが拡がる。↑未完の最期の作品41歳の若さで没したことがかえすがえす残念な。この倍は生きて作画を続けていたら、日本画壇がまた違って見えたことだろう。びっくりするのは彼のハガキや箱書きの書の美しさツイこの前の昔日の人びとの教養品性を知り、我が身を恥いるばかり素晴らしい作品をたっぷり味わった悦びの後、指定文化財の展示に合わせた文化財保護学芸員の方のレクチャーが始まり参加させて頂いた。①木造天海僧正坐像と②堀川夜討図①は県の指定文化財。寄木の緩みから彩色剥離が生じどのように修理したか、またこの坐像がどのような経緯を持つのか。天海僧正に関しては上野寛永寺界隈のお寺縁起などで知った。彼は108才まで生き3代の将軍に仕え、宮廷との外交もこなした。故の、日光は輪王寺の天海像であるわけで、それは京仏師の作品であるらし川越喜多院の坐像は作者不詳もしも輪王寺と同じ仏師であれば、管轄文化財の行政が上位になるとかや非常に不思議の人である。いつかこの人について読んでみたい。②堀川宮に仮寓する義経を、兄頼朝が梶原景時に命じ討伐の図時間の流れを六双の屏風で一意に見渡す面白さしかもいかにも天の上からのメタ認知細部を眺め飽くことなし、なんだけど。無知の悲しみ、知りたいことが募るばかり文化時間のあとのお楽しみおあつらえのように和菓子の道灌さんが並びにあるではないか!名前を失念したけれど、芋もちクリーム冷凍品帰途、すっかり溶けたところをぱくぱくうわーん、美味しい。お土産は道灌まんじゅう黒糖のしっとり生地にくるまれた品の良い粒あんと濡れ甘納豆渋茶若しくはコーヒーと頂く
2022.12.06
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2025/04/08/火曜日/朝から晴れ間3/23(日) 毎日が未知なる旅の経験の積み重ね本日は自分史上一度は訪ねたかったベストテンの高千穂峡へ行く日西熊本駅からはほぼ真東の、日向国高千穂峡。その道程の高千穂寄りにある幣立神社に参拝する。九州に来られた事、懐かしい人に会えた事へ感謝。機会にも天気にも恵まれ、罹患した帯状疱疹T^Tも何とか治り、当地に立てた喜びを一体誰に、何に伝えるのか。そんなとき。地域のあちこちにお社が点在する有り難さ、手を合わせる場所に事欠かない。古代の人は素晴らしい。現代の都市計画では物はあってもモノがない。ところでこの神社、神宮と入り口にあるが?それに表記内容を読むとはてな?と思うことも幾つか。文章そのものも理解しづらい。御神木が台風で倒れたそうだが、その事実のみを伝えるので十分。災害の年代表記がないのも不思議。教訓めいた内容が神話的に加味されたようでいささか抵抗を覚えた。「千木高知る」は、饒速日=徐福、の母の高木神を彷彿とさせる。出雲口伝によれば、徐福来航はおよそ紀元前200年前後という。15000年?のご当地神木と重ねるのは無理があるけれど。あるいは神木の樹齢が2300年くらい?さて徐福、その前の上陸地出雲での失策から、北九州統一へと目標を変更し筑後平野で勢力を伸ばした。ハタ族は吉野ヶ里中心に拡大説したという。この頃には北九州で徐福系もハタ族も出雲系も血が混ざり合う。徐福は日本で王となる野望を果たせなかったが、370年ほど後、すなわち倭国動乱の192年に彼の子孫イツセは第一次物部東征を敢行する。彼らモノノベは出雲系王朝の血を濃く引く、宗教的権威モモソ姫をくじくことはできなかった。彼女こそ一番目のヒミコと言われる。その時に徐福系の人びとは、ヤマトのあちこちを巡り開拓して棲みついた。更に九州に残ったり、舞い戻ったモノノベは北九州の古い豪族の宇佐国と結びつき、第二次物部東征を3世紀前半に開始した。この戦争をリードしたのが第二のヒミコ、宇佐神宮の姫巫女の豊姫だった⁈この時に出雲王国倒れる。その期間、徐福は彼らの宗教的根源ともなったろう。モノノベは戦術を磨き、兵を鍛えて諦める事なく機会を待ち受けたのだろう。やがて彼らは北九州を去りヤマト朝廷を築く。漢字で書かれた日本書紀は大国、中国向けに編纂した国史であればこそ、日本の中枢である皇統が斉国王の血統らしい徐福の血脈を含むことは、たとえ遠い昔にしても記載できなかった説は道理だ。記紀が徐福を消去した分、彼を租神として祀る物部一族には格段に配慮した物語構成なのだ。出雲王国史は記紀から疎外されている。なので、ヒミコも書けず、豊姫に至っては月を奉斎する宗派の宇佐神宮の姫巫女なので、ヒミコに比定不能。月読命の影の薄さも頷ける。祭神の多さ、そのカテゴリーの広さと神社に関わる人の思惑が雑多に混じり合いすぎている印象。日向神話冊子をさっと目通しすると、薩摩と日向で天津神の天降りの場所を論争している様子。出雲口伝に出会って私は古事記世界がかなりすっきりしたのだが。異端扱いなのは残念。この地に幣を立てたのは、神武天皇の孫にあたる方と聞く。天津神と同時に地祇も祀った、という御由緒に温かさを感じた。日子八井命の名からは、ヒコ=徐福系と八=出雲系の融合を覚える。◼️高千穂神社西熊本駅から南阿蘇を東へ東へと日向かう。幣立神社からは1時間と掛からず高千穂神社へその間、道路沿いにみる地名がうるわしい。御舟、山都、稲生野、高千穂、阿蘇、竹田、玉来高千穂神社は先の幣立神社と比べると、明るくさっぱりとしている。高千穂峡からも歩ける距離ではあり、。九州の神社はこれで二つ目。天津神たちはこの地に天降りし、ヤマトを目指したと記紀にいうが、それならなぜ直接ヤマト近くの山に降りなかったのか不思議。徐福が再び、3000余名の秦族の童男女や武人、熟練工らを連れて伊万里!の波多津に上陸したとのは紀元前2世紀。 さぞや古代人の度肝を抜く光景だったろう。 しかも滑るような速さで押し寄せる構造船なのだ。 海人の磐船、アマノイワフネ それから1800余年、秀吉が波多津から朝鮮出兵する歴史の振り子は実に感慨深い。彼らの祖神饒速日(徐福)は、船で佐賀の波多津に渡った。天のアマではなく、海のアマから、である。そんな渡来神たちが去っていった、いわばウツロになったお社に変わらず地の神、精霊たちは善男善女の祈りに耳を傾けているだろう。幣立神社も高千穂神社も皇祖神を打ち出しながら、その内実がなぜか薄くしか感じられない。 もしこの場所に邇邇芸が、(ましてそれはアマテラスの孫ではない)居たとしてもそれは長い時間ではないに違いない。 「地よりや生まれけむ、天よりや降りけむ」 なる古い神さびた空気は、私には出雲のものだ。二つの神社にそれを感じた。今旅では吉野ヶ里と徐福長寿館は訪ねなかった。
2025.04.08
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2024/11/13/水曜日/少し暑くなるらしい晩秋お風呂開始時間から少し経って行くと既に浴槽前に三人待ちだ。脱衣カゴが満杯になると浴室前に並ぶのがルールみたい。浴槽は小さめが二つあるので、8人くらいいけそうだけど、セーブしてくれていて落ち着ける。お風呂で手足を伸ばせる有り難さ。韓国人グループの方も説明に耳を傾け、それでもいいじゃないとばかりに仲間に入るよう促す人、笑って待つ人、それぞれ。韓国人グループとはハイキング中に沢山出会った。どうやら韓国で尾瀬がブーム?私なんぞが知らない日本の良いところを海外の人の方が知ってる時代なんだろう。宿には小学校低学年くらいの子どもたちや若い親御さんも数組。子どもらは元気いっぱい大騒ぎだったり、疲れたのか不機嫌気味でも、宿で働く人にきちんと挨拶する。自然を大切にすることも身についている。眩しいなあ。親から子へ、山の楽しみがリレーされていく。夜は早々と床につき、朝は一早く食堂に降りて、普段以上にご飯をしっかり頂く。お昼ご飯を鳩待峠の食堂で食べる予定。見晴十字路から西北へ、東電小屋をとおりヨッピ川沿いに尾瀬ヶ原を一周するルート7:00 小屋を出る。尾瀬ヶ原にはモーニングデューが降りている。徐々に霧が上がり始める。霧がすっかり腫れ上がり、9月末なのにアケボノソウが姿を見せてくれた。
2024.11.13
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