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2025/11/25/火曜日/市ヶ谷決起から55年出版社 翰林書房著者 木谷真紀子2007年12月5日 初版第一刷〈私的読書メーター〉〈特殊で異様な幼少年期を過ごした三島にとって中学時代に出会った歌舞伎の目眩く艶やかさは、砂漠を彷徨う旅人が出会った聖烈な一杯の水、彼を生き延びさせたと想像する。「地獄篇」から最後作品「椿説弓張月」まで6作の戯曲が生まれた背景や原作への遡り、また当世事情や風俗、三島の状況などを丹念に収集網羅している。今現在浮遊する国立劇場の、その創立時に歌舞伎復興を期して魂を打ち込まんとした三島の息遣いが感じられる。曰く〈歌舞伎とは魑魅魍魎の世界、その美はまじものの美でなければならず、その醜さには悪魔的蟲惑〉そは沙翁である。〉お能舞台はせいぜい年に一度ほんとはもっと出かけたいのだが、何しろ他にやるべきことが多すぎる。大好きな文楽に至っては、常設劇場が東京にはない!現状である。悲惨やなぁ〜日本文化国立劇場がふらふらしていて、落ち着いて文楽を楽しめる機会が得られず、勢い足が遠ざかる。その問題の国立劇場。この本からは今、封鎖中の国立劇場新設に寄せる三島由紀夫の並々ならぬ熱情が感じられる。今は昔。それは圧倒的に歌舞伎に寄せられたものだけど、読み進むほどに何やら歳月の過ぎ去った、熱の冷えた芝居の残り香を覚えて寂しい。『三島由紀夫の来た夏』にしても、安部公房や寺山修司や唐十郎にしても、あの時代の芝居には何やらすごい勢いがあったのだなぁ。そんな中で今一つ着火されていない芝居、歌舞伎にひとしお愛着を持っていた三島由紀夫が、ぞっこんだった女形の歌右衛門に照射し、歌舞伎ルネサンスを始めたのは戦前からの必然の流れだった。彼のことだからもちろん山気ぷんぷん。ステージのスペクタクルに斬新さは表れた。それが先代の猿之助の舞台に昇華したのだろう。私ですら、二、三回は彼の舞台を観た。どちらかといえばその名を継いだ、不可思議な事件を犯した、あの猿之助が私は好みだったけれど。考えてみれば、『国宝』の驚きのヒットは三島歌舞伎の花道をみる心持ちだ。冒頭、主人公の父親の任侠世界の命の捨て所的な様式美。手を合わせるのは悪魔か鬼か。歌舞伎世界の魑魅魍魎が割合に描けていたではないか。三島由紀夫が嫌ったという太宰治しかし私には同心円の距離を持つ。その名を聞いては何やら穏やかでいられなくなる2人の作家だ。1人は情死、1人はハラキリ後世の人は何やら意味付けを盛んにしているけれど、やはり本当のところは当人にしか、いや当人にも判然とはしないのかもしれない。ただ、『豊饒の海』で大神神社を取材したなら、縄文まで駆け上がっても良かったろうに。10代で欧州美術界に飛び込んだ岡本太郎が、日本のオリジナルを求めて沖縄の御嶽や縄文に辿り着いたこと、官僚から民俗学に進んだ柳田国男しかり、歌人折口信夫しかり、である。そういえば、歌舞伎演目のために沖縄の斎場御嶽にも取材したことを本書で知った。三島が縄文に飛び込んでいたら、もっと豊かな水平線を見出したのではなかろうか、と嘆息。
2025.11.25
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2025/11/24/月曜日/山は晴れ、朝からシカ三頭何となく三島由紀夫まつりを一人でやっている。別に特段のファンというわけでもなく。淡々と。数ヶ月前に予約していた、国立劇場主催の『椿説弓張月』講座を、日にちを間違えてポカしてしまった∑(゚Д゚)ことに気づいた。あーあ、『三島由紀夫と歌舞伎』まで読んで予習をしていたのにねえ〜その補償行動に走ったか。渋谷の映画館に土曜朝9時に駆けつけてしまった。たまたま、渋谷シネマヴェーラで三島由紀夫生誕百年記念映画祭がある事を講座ポカした日に知った。ってすごいタイミングだし。三島の『近代能楽集』から「葵上」と「卒塔婆小町」が当日の1番2番のプログラム。これは次にでも読みたいと考えていた作品だ。おまけに「葵上」の後には根岸監督と中谷美紀さんのトークショーがあるという。「葵上」の舞台は病院の一室。若い妻は病室の寝台で寝ている。これ、原作でもそうなのかしら。夫である若林光、すなわち光源氏を柄本佑が演じる。もちろん、この時点で彼が大河ドラマで光源氏を演じるなんて未来は見えていない。 それって根岸監督のキャスティングセンスが抜群にヒカル…って、なんで稀代の色男が柄本佑なの⁈もっといないのかねえ、知性も品性も備えた貴公子を演じられる俳優が!日本には!ところが中谷美紀演じる六条御息所、六条康子が素晴らしい存在感を放っていた。彼女のあらゆる語り口、所作の美しさの中でも取り分け、手袋を脱ぐ姿の良さに魂消た。テーブルに置かれた黒いレースの手袋は康子が病室を出た後、更に生きているかのように存在感を放つのは根岸監督の手腕か。光が忘れた手袋を手に康子を追いかけ姿を消すと、葵はこと切れる。葵上の真の主人公は六条御息所である。ヨットのシーン、しのつく雨の深夜の病室、康子の登場、うなされる葵の姿、照明の効果がほぼ能舞台のようなワンシーンセットをドラマチックに際立たせていた。時間の経過、天候の具合まで変化させるかのよう。撮影から10年を経て、中谷さんもプライベートの変化を思えばさすがに年月を思わせるのでは?との予想は大きく覆る。本当に美しい!そして知的『近代能楽集』をみなさんもぜひ声に出してみてください、おすすめします とか。映画は監督、スタッフ、役者だけでなく見られることによって完成する とか。彼女の言葉には非常な説得力があった。ザルツブルクに持っていかれるなんて。やはり日本には光源氏はいないのね。『卒塔婆小町』は芸達者なお二人だったけれど、鹿鳴館の舞踏会の花の寺島しのぶが、どう見ても梨園の雰囲気が出過ぎていて、監督としてはそれが狙い目かもしれないけれど。20年前くらいの大竹しのぶならどうだったろう。役者というのは無味無臭で空っぽでなければ役にぴたりと当たることが妨げられるというか。役を離れてそれでも尚社会人、市民として、自身の思考、思想をもつ生活を一方で貫くのは舵取りの難しいものだろうなあ。三島由紀夫は三島由紀夫という役柄を生き抜いたのか、どうか。
2025.11.24
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2025/11/20/木曜日/立冬もトウ立ち出版社 新潮社著者 三島由紀夫豊穣の海・第二巻新調文庫昭和五十二年八月三十日 発行平成十四年十二月五日 四十三刷改版平成十七年十月十五日 五十一刷〈私的読書メーター〉〈奔馬。ケイソウウマなる新語が宮の内側から湧いて著者は草葉の陰から何想う。フォーエバーヤング、おめでとうと脈絡も無し。暁の寺→春の雪→本作と読み来、19の年で繰り返しこの世の命果てるフーガ、フォーエバーヤング。法体系の確固たる建築からはみ出す本多とは別の世界の潮流あり。私はね、この戯作中、最も蔵原を好いていた。国民の究極の幸福、って何ですかと問われ、それはね、…通過の安定ですよ。日本国民とは何ぞや…身を守ることすら知らぬ国民は美しい。いみじくもご本人は未来の話として語り、それを終章に交点させる三島の術よ。〉先日読んだ『三島由紀夫の来た夏』によると、豊饒の海の第一巻『春の雪』は、読者サービス⁈のための書き下ろし。なんですと。三島の一番伝えたい、書きたい事は第二巻の本書である。とのことだ。とにかくサービス精神の旺盛な人であった事は『三島由紀夫の来た夏』によってよく理解できた。同時に、けばい気味の洒落振りはフランスよりもイタリア寄りなんだなとか、そのルネッサンス好みと対比を為す、湿った異様な尖った暗闇。下田の夏と奥まった暗い座敷で祖母と暮らした日々が彼の心身に共存していたのだということ。生前に「『奔馬』を読めば僕のことが分かる」と話していたそうで、なるほど。三島は元大蔵官僚であり、小説とはいえ『神風連史話』を崇める右翼の少年によって、大蔵大臣であった蔵原を誅殺する、という設定は激しい。蔵原のいうインフレの恐ろしさを日本国民は知らない、というのが予言になりませんように。くわばら、ツルカメ。三島は本書のために大神神社でも取材したようだが、大神神社の御神体に感応したならば、果たして勲は荒ぶる神に憑依されるだろうか。私にはこの神は非常に和らいで受け止められる。のだけれど。同時期に取材したという熊本の二つの神社は、私には知る由もないけれど、それらは神風連と関わりがあるという。考えてみると、『春の雪』は命掛けの想い人、恋心に翻弄される清顕の「真心」『奔馬』では、腐敗した政財界を刀で潔斎しようとした勲の思想的「義」満で二十歳になる前に消えた命は、二十歳の前にそれを繰り返す。第三巻『暁の寺』ではジン・ジャンは蛇に噛まれて死ぬ。それらの人物と関わり、ある意味自分の人生を歪めてもひたすら観察する者であった本多が、ジン・ジャンの閨房の秘事を周到に覗き込むという、これは「非礼」なのか、観ることへの執徹の「礼」か。二十歳に到達せずに虚しくなる若い命のリフレイン徴兵を免れるために身体検査を巧んだ二十歳の三島由紀夫の慙愧の念が、幾度生まれ変わっても真の死処を見出さずにおれない、という情念に結んだか。
2025.11.20
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2025/11/14/金曜日/小春日和〈DATA〉出版社 扶桑社著者 横山郁代2010年11月10日 初版第一刷発行〈私的読書メーター〉〈今年は三島由紀夫生誕百年。敗戦を20歳で迎え戦後を25年生きた。大蔵省を辞め文学に生きた年月は、思えばさほど長くない。しかし文筆に留まらず歌舞伎、能楽、映画出演!もの熱量。自刃までの7年間、毎夏下田に逗留し来訪者を歓待し、中学生だった著者らの尾行を巻き楽しんだ文豪。日に焼けた笑顔、白い歯、ただならぬオーラに焦がされ彼女はミシマの衛星のような人生を生きる。往年の港町下田、船乗りや酒場の女たち、文化や芝居を愛する風土。時代とその盛夏の饗宴の主人公、三島が世界一と喜んだマドレーヌの洋菓子店の娘さんが著者である。〉読後に俄然、下田に行きたくなる。尤も今現在の下田ではない。ミシマが度々訪ねて心から解放されていた時代の下田に行きたいのである。港町の夜の顔、朝の顔、マドロスさん、劇場、新し物好き、洋行帰り、伊勢海老、海の幸、避寒地、明るい顔。年寄り、子ども、お祭りわっしょい。何といっても美しい海、海越しに見える富士。伊豆というのは中々興味深い地域だ。土地の名の響きも興趣が湧く。出雲、伊勢、伊豆。イズモ、イセ、イズラーン、クルッツ、クルッツ伊賀、伊予、五十鈴イガ、イヨ、イスズクルッツ、クルッツ、ラーン著者の名前、郁代を三島は誉めたという。馥郁の郁、の字かな?と問われ、高校生の彼女はフクイクを文字変換出来なかった。郁の字は三島好みなのだとか。小説に登場する女性によく与えたらしい。著者は郁の名を持つ小説を軒並み調べ上げ、読み込む。天晴れ。娘の名はたいてい親が与える。洋菓子店にいつも立っているのは著者の母、である。娘時代から文学好きだった。三島は家族のいる時は大抵、外で待たせて「来ましたよおー」と朗らかに店内に入って来た。1人の時は両手にお菓子の紙袋をずしりとぶら下げ、逗留先のホテルまで長い上り坂を歩いて帰った。「また来年も来ますねー」と明るく下田を去る三島が、昭和45年の夏。「僕はこれからとても忙しくなるので来年は来られません。でも家族はここに来ますからそのときはよろしくね。どうぞお体を大切に。お元気で」と著者のお母さんに告げる。とても心揺さぶられるミシマの挨拶だ。何と正直な。美しい嘘をまぶした真実であることか。私は固く信じるのだけれど、著者のお母さんと三島由紀夫は一つの琴線で感応しあっていたのだ。文学好きな少女の、文学への憧憬の綺羅きらしいほそい糸の輝きを三島は認めたのだ。彼は感応の天才だ。著者とお母さんに何度も逗留先に遊びにいらっしゃいと三島は応接してくれたという。下田の人の中には訪ねて行った人もいくたりかあったが、お母さんはいつも遠慮されて写真を共に撮る事もなかった。著者は吉田松蔭と三島由紀夫と昭和天皇をつなぐ下田の海について述べる。松蔭の海は密航という「命懸けの海」三島由紀夫の海は「心象風景の海」ひたすら眺め、感じ、深く入ってゆく小説の源流だった。…海は三島さんの繊細すぎる神経に太陽という最高の処方箋を与えた。昭和天皇に置かれては「海洋生物の研究の海」だった。ここに御用邸を望まれたのも、下田の海が気に入られたからという。須崎御用邸は昭和46年に完成した。ーその前年に三島由紀夫は自決したのか著者生家の日清堂菓子店は祖父の代、父の代に昭和天皇と貞明皇后に生菓子を献上したという。下田に御巡幸の折には、昭和天皇に直接、生菓子をお渡ししたという。敗戦後間も無くは、皇室と市民はそんなにも距離が近かった。昭和天皇は「朝早くからごくろうさま」と労ってくださった。父は沖縄戦を戦ったので、「沖縄でご奉公して参りました」と心の中で言って陛下のお顔を見つめると、涙が溢れそうになったという。「天皇という人は、とてもなつかしい、亡くなった祖父に会うような感覚のお人だよ」と言っていた。著者のお父さんもお母さん同様に、招集され沖縄戦の事を決して陛下の前で口には出さなかった。しかし、その目を見つめれば、お互い通う心が確かにあるのだ。日本人はそのように心をつなげて生きてきたように思う。この本には懐かしくなるような日本の市井のひとがたくさん登場する。原爆投下を正当化した米国人男性に啖呵を切る著者は男前だ。港町の女はこうでなくっちゃ。
2025.11.14
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2025/11/5/水曜日/晴れ、秋短し読んだのは秋分の頃なので、デンマーク行きの前となるのか、記録に至るまで随分時間が経過した。〈DATA〉 出版社 新調社 著者 三島由紀夫 豊穣の海・第一巻新調文庫 昭和五十二年七月三十日 発行 平成十四年十月十五日 五十四刷改版 平成二十七年二月二十日 八十一刷 〈私的読書メーター〉〈『暁の寺』からこちらへ。庭に造作された滝に引っかかり絶命した黒い野犬と宮家も招客となる豪邸での観桜会の落差で幕は開いた。登場者はまるで焼けた靴を履かされたように生命尽きるまで踊らねばならぬ。過剰なほどの振れ幅と風景や心象の描写の夥しいトリルに惑わされ、舞台を観る読書子も共に揺さぶられ続ける。シャムの王子らと過ごした鎌倉の海辺の夜の美しさ。しかしそこにも奈落が仕掛けられ、いよいよ非業の美が若さを逆巻く波のごとく駆逐する。若さの絶頂で本田の分別の傍観者役割よ、欲望に焼かれて尚毅然と立つ聡子の益荒男ぶりよ。〉尼寺へ行けとハムレットに再三言われたオフィーリアは、ハムレットの態度の急変から神経の平衡を病み、ついには花に縁取られ黄泉の国へ渡ってしまった。2人はかつて甘やかな恋を分ちあっていた。聡子と清顕はこれはどうであったのか。2人もまた幼馴染だった。思春期を過ぎ、ぎくしゃくとするが、やはり、骨の骨、肉の肉、鏡合わせなのだ。清顕は、不吉感さえ漂わせる美少年であり、年端も至らぬ頃に見た皇太子妃のうなじに美を感得するような唯美至上主義者である。年上の聡子はその名の通り聡明で美貌の女性である。序盤、年長の聡子の方が清顕に傾く。2人の間に交わされる手紙。それがまるで意思を持つかのように2人を翻弄し、波頭のマックスから奈落へ、2人の運命を弄ぶ。運命。。。万事がしどけない清顕ではあるが、終局聡子への一途な恋焦がれでとうとう身を儚くする。聡子は自らの決断で尼寺に行く。そしてがんとして清顕にその姿を現さない。不思議は、全くもって常識の人、本多が受験を目前にして清顕を救いに奈良まで旅する場面だ。それは友情なんぞとは言えない。見る、という運命に現実的、合理的な彼が身を投げ出す、そのことで清顕の輪廻転生に絡む縦の糸になる。本多もまた美に、否、美を見ることに貪欲な人、なのだ。清顕は美を生きた人。聡子は束の間美に生きたが、清顕は死を持って永遠に美に生きたのだ。清顕はある意味宗教的であり、聡子は尼寺に赴きながらも人間の業というものを見せる、と私には感じられるのである。
2025.11.05
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2025/10/24/金曜日/霜月感の10月↑夜間飛行を待つ間、充電を済ませておく。ついでに木村屋の焼きカレーパン、マカロン、焼きそば、コーヒー、ぱくぱく。この時間だとラウンジも混雑無しの羽田第3ターミナルあら、もう帰って来ちゃったよ?ほんとに行ったんだっけ⁈みたいな、時空間歪み?やたら機内滞留の長い8日間ではあった10/6〜13↑ヘルシンキはハブ空港ロシアがウクライナに侵攻する前は、確か飛行時間は7時間くらい?日本から一番近いヨーロッパと言われていたヘルシンキも今回は13時間弱!昨年のKLM利用の方がデンマークには近い印象を持った。夜間飛行ではあっても眠れない。編み物セットを持ち込んではみたけれど、夜間シフトの暗がりが老眼を悩ます。↑あーあーこの色の配置配色、ニットパレットに加えたい。翼よ、我らは北極点を見る。そんな時のための映画、である。お、観たいかな?の「コンクラーベ」が心掴まれながらも、出来の悪いとうもろこしみたいに幾つか寝落ちでシーンが飛んでしまった。それで、復路も見てしまった。特にしっかり観たいと思ったのが、ローレンスが自名投票券を壺に落とすシーン。天窓の劇的な破裂落下共時性の瞬光のワンシーン壺中居の矛盾を鋭く諭す西欧の厳父なる神の轟だ。そこに見られる監督の明瞭な意図すなわち〈眼前で何が起きているのかを個人の正義の埒を超えて見よ、認識せよ〉カメラの目とはそういうことでもあるのだろう。監督の意図に引っ張られ、ドキュメンタリーを見ているような印象を持つのである。監督の目→カメラの目→観客の目↓主人公ローレンス役はレイフ・ファインズ/王立演劇学校→ロイヤルシェイクスピアカンパニー。威風堂々のキャリアスタート。どの教皇候補も帯に短し襷に長しと思いつつも、前教皇の改革を退化させてはならぬ思い故、有力な候補者に投票し続けるローレンス。自身はバチカンからは退いて小さな村の教会に赴きたい心情であった。それが何故⁈コンクラーベが長引くほどに凄まじい権力闘争の背景や教皇候補の人間剥き出しの姿を見せつけられ、とうとう投票券にヨハネとでも書くか、と自嘲するに至るローレンスであったはずが何故!彼はついに投票券にローレンスと記入するのである。神はまるでそれを引き裂くような憐れみでローレンスの過ちを裁断した。世間的にはイスラム過激派の自爆テロではあった。が、この出来事の本質を唯一、言葉に置き換えることができたのは、あたかももう一人いた!的な存在者、ベニテス枢機卿。メキシコ出身のカルロ・ディアスが演じた。彼は俳優であり建築家!おおヨゼフよイエスよ。先住民の血を濃厚に漂わせる風貌は、中東の人にも通うものがあり、イエスが生きた時代の人物像に近いのでは?と怪しむ。人種性別を超えたというか全てを含んだその存在を彼のアピアランスが説得力を与えるのだ。彼に限らず、それぞれの人物像に対して適材適所という点で見事な作品である。その彼の独白は、心に響く。戦争はどこにあるか、ここにあるのだ、とハートの場所を押さえる。私はならば問い、応じたい。平和は神はどこにあるのだ、やはりここにあるのだ。とハートを押さえたい。それを確認したくて、やれやれ往復観た。
2025.10.24
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2025/10/16/木曜日/雨がち晩秋そういえば、近年稀に見る実写版ヒット上映作品「国宝」を観たのは公開6/6から間もない6/17ヒットの背景には理由がある。はず。朝日新聞連載からほど無く公開の広告効果?文壇1番のハンサム?文士、吉田修一配役がハマる吉沢亮と横浜流星という美男の流れ美しいものが見たい要求!脇を固めるベテランがさもさも憶測を呼ぶ配役。渡辺謙、田中泯、永瀬正敏、寺島しのぶ役なの実生活なの、ほんとはどうなのを知りたい!「フラガール」で細やかな感情を掬い取った李 相日(イ・サンイル)なる在日監督が歌舞伎の世界にどう取り組むのか。概念化しうるのか、我らは特殊か。周囲のアジア系風貌の人の何割かが確実に多言語を普通に話す今日の日本で!などなど関心のうずき所は随所にあった。さて。映画は私には非常に几帳面でそれ故にやや古臭いアングル、カット、編集であると先ず感じた。尤もその手法が時代背景に馴染むのであり、今や多民族国家日本の先住民には多少の郷愁を誘うものであり、鑑賞は感傷と同音異義、なんぞと。濃厚な、才能豊かな配役が畳みかける映画の中にあって、儚げでいて強かで、感情豊かでありながら将来を見越した計算高さも見せる高畑充希。彼女は素晴らしい。身体、表情、仕草から発する全てのニュアンスにおいて最上級の役者である。裏主役である。国際舞台で彼女のように振る舞えば、ナントカ生き延びやしないかニッポン、みたいな監督のメッセージさえ受け取ってしまった。私は。組の内紛で、雪舞う中を弾き持つ輩に刀剣で立ち向かう父親の孤独な唐草モンモン。唐突にキラキラとした輝きが主人公の瞼に焼き付けられる。父の酷い死を前にしてさえ、名状し難い美に襲われたのである。そのデモーニュッシュな力が彼を人間国宝へと押し上げる。彼はただ、もう一度でいいからあのキラキラを身体ごと覚えたいのだ。どんなに犠牲を払っても。芸の道ならばそれは許されるみちおのサクリファイス
2025.10.16
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2025/10/14/火曜日/秋、寒露↓一目惚れしたクロシェちゃんとくまタンRed Cross Shop/Tannisbugtvej 44, 9881 Bindslev, デンマークのっぽのサリーはおパンツのまま、早くナントカ!と思っていたのが梅雨の頃。「梅雨がないまま、連日暑くおまけに台風接近のジメジメがたまらぬ。課題に追われる棒針入門コースと並行しながら、月イチのN先生クラスもやって来る。合わせて週一のオイリュトミーレッスン!それに仕事。ツメ過ぎΣ(゚д゚lll)コロナの反動か、旅心も騒がしい。5月は松本と台湾、6月は尾瀬、末には東北も予定。これに日帰りのお出かけも加わる。合間に青梅、梅干し、甘酒何が犠牲になるかといえば読書、である。めっきり本が読めないなあ。」なんて呟いていたら、8月にタイ、10月に入ってどどど〜んとデンマーク行き。一体今年はナニ⁈帰る頃は少し涼しいかも、と昨年イサガージャパンなワークショップで編んだスワッチをケープ代わりに掛けて出かけた。糸始末もしてない(>人<;)とりあえずの日々が続く昨日夕方の帰国で、ぼんやりだるだる。しかし本日ニットのクラスの新たなスタートなのだ。お蕎麦食べてがんばる
2025.10.14
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2025/10/05/日曜日/曇りのち晴れ26時間滞在の京都でもっとも期待されたのが、早朝の竹林の散歩だった。なぜかこの2ヶ月ばかりずっと竹林の道に恋焦がれて、海を懐かしむ貝殻の心地だった。6時15分頃ホテルをでたのだが、もっと早く出るべきだった。外はこんなに明るい。円町からは何と3駅目。市中にいると遠いイメージの嵯峨野嵐山も円町からは8分ほど。渋滞もない。下車すると、勝手知ったるかのごとく欧米系観光客方が、すごい勢いで運命づけられたように一つの場所へと急ぐ。は、はーんと尾行する私。あっという間に竹林の入り口へ身体の芯が静寂の音を知る感覚。汚れのない真っ直ぐな青のトンネルを歩く感覚8月にタイで歩いたヘルファイヤーパスの重さが払われるような、禊の感覚↓20250810あの道はこの道へ私を運んで、深呼吸させてくれたのだなあ。↓20250810質問に答えてガンジーが言った。平和への道などというものはない。平和こそが道なんだ。↓20250810どこかに通じてる大道を僕は歩いてゐるのぢやない僕の前に道はない僕の後ろに道は出來る高村光太郎「道程」から私も私の足で一歩ずつ平安の足跡になる道を歩くのだ。
2025.10.05
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2025/10/04/土曜日/秋雨コノシマニマスアマテルミタマ神社、通称はコノシマ神社、を辞してほぼ真西、広隆寺の弥勒菩薩さまに会いに行く。久しぶりに訪れると、かつては吹きさらしの粗末な納屋のような場所に陳列されていたと記憶する、仏様方が、豪奢な宝物館に安置されておられた。私はかつて、を愛する。弥勒菩薩像が、ここに来訪したヤスパースというドイツ哲学者から、人間実存の最高の姿と称された紹介も掲げられていたことも記憶に鮮やかだ。この菩薩を愛してやまない若者が菩薩に抱きついて指を折られた逸話などを父が万感込めて話してくれたことも懐かしい。真言オンマイタレイヤソワカ御マイトレーヤだろうか。オンはアウムだろうか。マイトレーヤとは弥勒菩薩の原語と思われる。ソワカ?よく聞くけど何だろう。検索。成就されますように、の意だという。一切の穢れを払うこのふくよかな微笑の先にある深い思考の姿。有難い。オンマイタレイヤソワカ。↑聖徳太子と大日如来の扁額も。地名太秦には秦の字があるように、ここは渡来人秦氏の開拓した土地だ。コノシマ神社との由来を寺務所で尋ねるとなんと!電話で上の方に繋いでくださった。女性だった。その方は神社との由来と聞いて、大酒神社との習合を説明して下さるが、私はコノシマ神社の案内板で、この神社がユダヤ由来であると表記されていたことについて尋ねたのだった。両社は秦氏建立だ。お寺では、そのような記載は現存しうる過去からの資料に全く触れられてない、ときっぱり仰った。清々しい認識で、寺の持つ清潔さが伺われた。通りすがりの観光客の一人にすぎない私にさえ、丁寧な対応である。それでも気になる蛇塚古墳。地図を見てほー。コノシマ神社、大酒神社、広隆寺は東西一直線に並び蛇塚古墳のウシトラすなわち鬼門に広隆寺が配置されてある。小住宅の並ぶ細道に忽然と現れる。剥き出しになった石舞台らしき大岩の構造物。鍵穴の穴だけを残して周囲は丸く細道で縁取られ日本で4番目の大きさの石舞台古墳であった事が記される。7世紀に五つの指に入ろうかという豪族の墓なのである。わずか40年前、人家は今よりは大きい規格で、かつての前方後円墳に沿って配置されていた。今を生きているものに利用されるが道理。朝刊の斉藤美奈子、旅する文学コラムは京都編「古都特有の閉塞感と排他性」それそれ!これこそ文化骨頂の羊水にして揺籃。その典型をこの地に垣間見る。岩を割いて、樹木は空へ最寄り駅まで歩いて12分。2駅目が円町。良い場所にホテルを得たもの。
2025.10.04
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2025/10/03/金曜日/蚊が元気な秋の始まり概ね、行きつけの二軒の蕎麦屋をローテーションして、暑い夏をやり過ごす。しかし、いつもの蕎麦にも小さな、鮮やかな変化はあるのだった。この2ヶ月はふじやで夏新そばにありつけた。相変わらず私好みの コシが強い中細の、スキッとした旨さ。でも時々冷水シメがゆるい時も-_-b蕎麦湯がぬるい時も( ̄^ ̄)初訪問は5軒♪◼️手打ち 如月 徳荒川区 町屋十割蕎麦と炊き込みご飯セット 1050円お腹が空き過ぎてご飯も。炊き込みご飯を蕎麦湯で薄めたツユと頂くのは好ましい。清潔で蕎麦もツユも文句は無い。優等生的なお蕎麦やさん◼️ 手打ちそば処 久霧大宮市これはびっくり!とても美味しいお蕎麦屋さん近所ならば毎日でも通いたい。そばがきがある、というのは私にとって蕎麦の良心があるのに等しい。しかもそれが頗る旨い!十割蕎麦と粗挽き、そばがきの3点セットあじくらべ値段を失念、1500円くらい?こんなに食べて!店主の心意気が見える蕎麦やさん◼️ 手打そば 奥藤本店 国母店甲府市甲府といえばほうとう小麦文化が根強いが、山の方へ行けばやはり蕎麦中心、とはいえ蕎麦はほぼ二八。でも蕎麦屋に必ずあるのが県民食のトリモツ。モツは苦手なのだが、なぜかこれだけは食べられる。二八とも相性が良い。ご飯も付いた蕎麦定食、甲府鳥もつ定食1400円◼️ 安曇野そば処 双葉安曇野双葉セット 1650円半天丼とせいろに刺身こんにゃく、お漬物。信州のお漬物の美味しさは天才である!刺身こんにゃくも実にすずしい。それに別途ニジマスの円ツブラあげ残念ながら蕎麦は二八新そばシーズン時には十割も打つとのこと。ツユは良い鰹節を引いてるのが分かる。山岳美術館後に立ち寄る。◼️ 㐂道庵神田神保町自家製分。客の回転良く、働くおばさま方が元気あふれる。ヒキタテウチタテウデタテッ!てなノリです。が、二八なんだなぁもり680円、えーじゃないか。今夏も美味しいお蕎麦をみなさま有難うございます!
2025.10.03
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2025/10/02/木曜日/朝夕は秋らしくあるべきやうは、の明恵上人の言葉はさすがに現代の思考からは乖離があるなぁと思いながら、市バス26号に乗る。円町エンマチに程近い御室オムロに所用があり、京都に出向いたが、円町のビジネスホテルはJRもバス停も至近、エアコンがうるさくてオフにしないと眠れなかった以外は清潔で便利でお得だった。せっかくなので円町を中心に関心の向く所を探してみる。嵯峨野の竹林は外せない、というか、ここ3ヶ月ばかり竹林の空気が吸いたくてたまらぬ〜という焦燥感に駆られていたのだった。所用は後から付いて来た。なんと。どうせ観光客でごった返すのだから、寺は入れなくてもどうでもよろしい、明日の朝一番で竹林を目指す。円町からは何と!6分で嵯峨嵐山駅に着くのだ。円町を中心に地図を眺めていると、木嶋坐天照御魂神社という社名が。天照大神アマテラスオオミカミではなくアマテルミタマ。男神だろうか?予備知識もないまま、黒橋バス停から少し西南方向に歩くと鬱蒼とした樹木がやや荒れ気味に茂るままになっている区画が塀に囲まれている。キジマニイマスと手前読みしたら、コノシマニマスだった。コノシマは此のシマ?島?やはり御祭神は天照大神ではなく、性の区別もない造化三神の初めの神、アメノミナカヌシと他4柱。しかし延喜式内社にアメノミナカヌシを祀る神社は存在しない。この神に注目が集められるのは江戸時代後期の平田篤胤を待たなくてはならない。広隆寺創建と関わるのであれば、秦河勝の時代だろうか。秦氏の技である、機織り。美しい絹織物で宮廷人を綺羅綺羅しく艶やかに演出したことによる莫大な富の集積を想像する。大いに勢力を得、平安京への道を築いた。蚕の社もある。道理。ところで皇后の養蚕は明治になってからと始まったと聞く。そんな古式めいたことを近代化明治に新たなしきたりとしたのは何の謂れだろうか。元糺の森ならぬ元糺の池、もある。元は湧水だった。いつ枯れたのだろう?下鴨に撰した、とあるが泉が枯れて撰したのは、御祭神か禊神事か。御祭神の空席をアメノミナカヌシが埋めたのか。下鴨神社御祭神、賀茂建角身命カモタケツヌミノミコトが初めはコノシマニに鎮座していた?撰した先で秦は鴨になった?しかし一般的には、下鴨神社の方が歴史は古いと言われている筈だ。興味は尽きない。社務所はあれど、お守り朱印などは無し。観光神社となることを拒絶する姿は好ましい。枯れた池の中に現れる石製三柱鳥居これとよく似た鳥居が露伴の蝸牛庵があった向島の三囲神社ミメグリジンジャにもあった。三井の江戸での家社で、本拠地京都のこのしま神社の三柱鳥居を写した。その事実はこのしま神社には掲示がなく、三井家の歴史から伺える。神社敷地の西南にはお稲荷さまらしき祠が東面して鎮まる。大国御霊も祀る。大国主命だとしたら出雲系への崇敬もあるのか、或いは供養祈祷をしているのか。
2025.10.02
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2025/09/27/土曜日/夏の戻り昨日8:21新横浜発のひかり503で京都駅下車、山陰線円町のビジネスホテルにともかくも荷物を預けバス停へ。ふと横を見れば目的のJRバスが∑(゚Д゚)これを逃すと30分以上待つことになる!バスと一緒に走り、駆け込み乗車。なんと午前の内に、栂尾高山寺に辿り着いていた。慣れない山陰線利用、おまけにホテルを探し荷物を預け、バス停を探す、などの手続きが無ければ、もっと早く辿り着いたかもしれない。金曜日のせいか不便な場所ゆえか、観光客は私を含め3.4名の静かさである。創設は案内によれば774年。平安京よりも20年も早い。いつの間にか荒ぶれていたろう当地を明恵上人が後鳥羽上皇の肝煎で1206年、鎌倉幕府成立後間も無く、華厳宗の修行学問所として再興した。寺領内の建物の内、奇跡的に当時の、すなわち鎌倉時代初期の寝殿風住宅建築、石水院が今に伝わる。後鳥羽院の賀茂別院を移築したのだとか。国宝である。撮影はできない。ばちばちスマホ撮影している女性もいたが。上人愛玩の子犬の像が愛らしいが、石水院に渡って直ぐの、一間に置かれた善財童子像が実に実に素晴らしい。鎌倉時代の仏師の力量に目を見張る思い。やはり、その場に身を置いて知ることは多々ある。樹上で瞑想する上人の姿、国宝「紙本著色明恵上人像」には鳥やリスが描かれているそうだが、どんなに眺めても鳥1羽しか認められない。次回の宿題か?明恵上人の事は河合隼雄を通して知った。寺は鳥獣戯画であまりにも有名だが、私にとっては明恵上人の夢日記の関心が今もって高い。栄西から茶の種を分けてもらい、この地で茶の木を育て茶道普及にも大いなる影響を残した。昨今では、上人と聖フランシスコとの共通点を思う人びとの尽力で宗教を超えてフランシスコ会とのブラザーフッドが結ばれたのだとか!河合隼雄の夢⁇かつて確かに明恵上人なる優れた方がこの場所に暮らし、そしてこの世を離れられたということをしみじみ味わいながら山道を歩く。上人は北山杉を背まくらとしておられた。美しい廟である。
2025.09.27
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2025/09/25/木曜日/30度以下なら過ごしやすい5日ばかり留守にしていた自宅玄関前におびただしい羽毛の中にこんもりと横たわる鳩の遺骸ドアの真ん前、ど真ん中その位置があまりに出来過ぎ猛禽類が家前の林に棲んでるとはツユにも知らぬ。見上げれば2階の玄関真上ガラス面に鳩横向きシルエットがくっきりと転写されている。これは何事ぞ。何かに追われたか。援けを求めて戸口を叩いたか。翌朝出かけた先の神田川の橋の欄干に、1羽の鳩が止まっていた。近づいても逃げない。心の中で、お前さんのお仲間が昨日酷い死に方をしていた。あんたはよく気をつけて長生きしなさいね。と語りかける。鳩は豆鉄砲を喰らったように、まん丸く見開いた目のフチを赤くして、白目の中にグレーな点を灯し耳を傾けている風情何となしほろりとする。ででっぽでっぽ。〈DATA〉出版社 新調社著者 三島由紀夫新調文庫昭和五十二年十月三十日 発行平成十四年十一月十五日 四十二刷改版平成十七年十月十五日 四十九刷〈私的読書メーター〉〈穏当に読むなら『春の雪』からなのだろうけれど「豊饒の海」全体が輪廻転生のテーマを持つのであれば、自由なアクセスが許されるはず。文頭から引き込まれた。何といっても文の巧みさが読み手を離さない。中年クライシスの手前辺りか、語り手の本多は、小乗仏教タイに身を開いて大乗仏教の哲学を苦悶していた。自分は日本人の生まれ変わりと泣き叫ぶ月光姫と敗戦後の日本で再会する後半部。老醜を晒す本多の、谷崎潤一郎ばりの展開と見事に成長した月光姫の生命の横溢。奈落の底には水か炎か。投じられたエメラルドの指輪は本多にとり秘仏に等しい。〉読み終えてひと月ばかり過ぎた。三島の事件後、読んだと思われる豊饒の海について、或いは輪廻転生について或いは阿頼耶識、末那識について亡父が話してくれたことを時々、夢の形見のように思い出す。人が死ぬとはどういうことだろうか。冗談を言う前の、鼻の周囲に浮かぶ密やかな笑い、そんな父の表情が鮮やかに蘇るとき、父は当にここにいる、のだ。ところが現実世界ではその姿は求められない。意識の世界ではありありと像を結ぶのだが。月光姫の脇腹の3つ並んだ黒子も意識と現実の行き来をするかのようだ。この黒子はオリオンの三つ星の隠喩なのだろうか。
2025.09.25
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2025/09/21日/日曜日/山から降りてまた山に◼️8/3 加賀井の湯夏がどんどん暑くなっていく。比例するかのように源泉掛け流しへと足繁くなる。のかどうか。かなりディープな日帰り温泉を訪ねた。松代温泉郷の一角にある加賀井の湯。温泉が目的、の日は浅けれど、私が浸かった湯の中でも、大地からのパワーというか賜物というか、泉質の次元が異なる濃厚さを覚えたのは増富温泉と恐山温泉とここのお湯。今のところ三大関か。入湯前に管理人の方から説明事項を受ける。内湯は別だが、露天風呂は混浴なので、女性は外では必ず湯浴み衣着用のこと⁈大丈夫、当店にて購入可能。撮影不可。混浴露天風呂があり、かつ湯治場なのであるから当然の理だと思う。源泉は内湯のすぐ脇で、とにかくフレッシュな湯である。そのため、10米はある湯船の下手で掛け湯をした後、徐々に湯本に移動するよう求められる!湯から排出される鉱物が堆積して、複雑な紋様と色彩のアートが床一面に展開されている。そんなに熱くない。と記憶。42度前後?露天風呂は38度くらいで、ずーっと寝ているおじさんがいた。内湯と泉質が異なるのではというくらい色も温度も当たりも違う。住宅地にありながら秘湯感満載。また夏に寄りたいもの
2025.09.21
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2025/09/013/土曜日/今朝方つよい雨◼️8/12 ピン川のほとりカンペンペットに行ったらこのレストランは外せない、という人気のお店がある。バーンリムナァム 川辺の食堂、の意味らしい。席に着いた頃にはもう日は沈んで、空と川の色が暮色に包まれ始めていた。食堂に集う人びとはみな、ゆったりとこの場所を占め、確かに心ここに居りて、食事を風景を、それらのまとまりを楽しんでいることが見て取れる。この立派な食堂はかつては辺鄙な小さな賄い屋であったと聞く。ただそこの女主人は地元の、昔からある健康な食材を用いてみんなが喜ぶ一皿を、日々工夫し素晴らしいレシピを考案した。↓彼女を見ていると私はなぜか涙ぐむその女主人は82歳の素晴らしく可愛いらしい控えめでたおやかな女性だ。若い頃はさぞや男性陣にプロポーズされたことでしょう?と尋ねると、昔は若い娘は屋外に出る事は殆ど無かったそうだ。美しさの秘訣は若い頃から手作りしているパック! なのだという。 何でもマンゴスチンの外皮の内側を干して粉にし、ココナッツミルクと混ぜたものを長く愛用とか。そして今でも新しい料理を試作している。↑食堂に行けばマストの一皿、マヨネーズチキンこれが人気だけれど、供されるオリジナルは殆ど彼女が作り出したもの。そんな彼女は、結婚して家計を助けるためか未亡人となったか。若い娘では外に出られない時代に、近所の食堂で働き始める。そこで料理のノウハウを学び、料理を提供する喜びに目覚めたのだろうか。時が来て、自分で小さなお店を始めた。それを子どもたちが支え、お婿さんたちも、孫たちも協力して益々発展している様子。できればこれ以上拡大させずに女主人のレシピを守り抜いて、この川の側でいつまでも輝いてほしい。彼女はこの土地を愛し土地からも愛された。↑10年前にベトナム民族博物館で出会った、少数民族の女性のポートレート。本当に惚れ惚れする。意志と知性の顔の佇まい。アジアの女性は美しい。
2025.09.13
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2025/09/08/月曜日/暑すぎ、神田〈DATA〉出版社 フィルムアート社 著者 上羽陽子・山崎明子編 執筆者 蘆田裕史/五十嵐理奈/金谷美和/木田拓也/ 斎藤玲子/塩本美紀/新本万里子/杉本星子/ 中谷文美/野田凉美/平芳裕子/ひろいのぶこ 南真木人/宮脇千絵/村松美賀子2020年9月25日 発行 2020年11月25日 第2刷発行 〈私的読書メーター〉〈表紙作品の手袋インパクト!編み物だけやっていては生まれて来ない地層から出現している。作者は野田凉美さんという今をトキメクアーティストで研究者の方らしい。その手袋に重なる「ものづくりの意味を問い直す」の文字。あら学術研究的な?はい、ある意味そうでした。手芸、かつて女子の嗜みと見做されていた趣味レクリエーションを時代や少数民族の世界から深掘り、現在どんな様相を呈しているか。掴みどころのない厄介な代物をジェンダーやコミュニティからも研究。野心的、逸脱あり、の人間臭いガクモン。あ、高校生男子、キミこそ面白い!〉ニット作品における作家のオリジナリティと汎用性の問題は大きい。真にオリジナリティをもつ作家は膨大な時間を費やし、試行錯誤しながら一つの完成形の解を得る。どこかのデザインの焼き直しならともかく、無からのスタートであれば、沢山の時間と材料の浪費の果ての結実である事は想像に難くない。そんな作品は例え冊子掲載であっても、自分一人で楽しむ或いはプレゼントにする事は許容されても、販売が拒否されるのは理解できる。これはサイチカさんと暮しの手帖のケース。能く編める方が、これ売れないのよねとやや不満な面持ちで、編み上げたルームシューズを見せてくれた。実は私はサイチカさんのお店で直接教わった。そのデザインの掲載の暮しの手帖も購入して、更に参加費用も支払うのである。毛糸の開発、卸売もしている人気のイサガーのケースでは、レシピに応じた糸の購入で、編み図←英語若しくはデンマーク語の文章パターンである←が希望者に付帯してくる。キット型販売。なので、各個人において作品の販売、或いはそれを用いたワークショップはイサガージャパンに確認の上、おそらく可能と思われる。。しかしニットの世界で個人が確実に利益を得ようとするなら、デザインよりもオリジナルなヤーン販売が得策しれない。原毛に近い上質な糸を仕入れて草木染めなどして付加価値を付けて販売する方が、個人事業としては成立しやすいように思う。ニッチな市場ではあっても、世界に一つ、の歓びは手仕事をする者には価値が大きいのだ。マイクロロットの糸は手編みとフィットしやすい。沢山の染色家がインスタなどSNSで活発に発信している。見つけた側からソルドアウトオンパレードなのである。それとても、それで生計を得るという訳にはいかないだろう。2次的な収入源くらい?ヤーンの開発元になれるような作家、マリアンネ・イサガーならばいざ知らず。コピー作品を売る売らないは個人の倫理に従うしかないのだけれど、手編みを愛する者の矜持としてはデザイナーのオリジナリティを守りたい。私は思うのだけれど、好きな作家の作品模倣を量産するだけ、というのはやがてつまらなくなる。でもレシピから外れると、成功は偶然で大体がっかりすることが多い。昔は解くのに抵抗があったけれど今は解くことこそより良い一歩と心から思う。うーん、成長したなあー自分積ん読と編んでは解く日々。1日48時間ほしい。
2025.09.08
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2025/09/05/金曜日/もう9月なのだーさて。先月半ばのタイ紀行は 振り返りみればタイ訪問の4日目、これからスコータイ方面へ大移動開始3泊したJ2ホテル界隈。昨年も感じいったが、台北もバンコクもすっかり大都会になった。学生時代にインドへのトランジットで往復一泊した時のホテルを、何とスワナンプームからのタクシーで発見!未だ潰れてなかった!↑その名もフロリダホテル。往来で求めたマンゴーの美味しさに陶然とし、ドアボーイの愛らしさに驚嘆した。随分古ぼけてしまったね、お互いに。8/12 J2ホテルを7時出発。今回は車をチャーターしての移動。運転してくれるのはバン・ヤーさん。名前の前にバンを付けるのは、(タイでは少数の)ムスリム男性だから、という風に聞いた。寡黙ですこぶる安定感のある運転だった。↑とあるお宅のドラゴンフィッシュ今晩はカンペンペット泊だが、ストレートに行っても車で5時間は掛かるという。スコータイにも空港があるにはあるが、料金は高め設定らしく。ラッシュのバンコクを抜け、私たちはまず人気の、サーマチュック百年市場に立ち寄った。日差しと陰。横たわる、いやさ陳列された食べ物の色、湯気、煙、匂い、買い物客、売る人、売り言葉、賑やかな喧騒、バイク自転車。騒音。意識が身体から離れてモーロー歩き。一体何軒ひしめき合っているのか。↑下右のお煎餅みたいなのも扱っているお店が多い。食べ続けるワタクシ。下画像の青い硬いスパイシーな葉で絡んだオモチが私の好み。私は以外はイマイチ。お魚のすり身のお団子↓画像左上、が名物。大団子を食べるふりの撮影OK⁈カゴが気になる。最近はナイロン製が増加中みたい餅米のちまきも美味しかった。中華おこわ。↓日本語の解説があった!川の付近でよく見られる魚のリリースによる功徳。魚を放つために金銭で贖う。これを行うと心身が清らかになった気がする、と笑顔で答えていたタイの暮らしのドキュメントを見た↓画像下中生活雑貨などは中国由来のものが殆どのように思える。その昔、代官山に文化生活雑貨店があったけれど、そこに並んでいたようなお皿や魔法瓶がまだ!歩きながら味見するだけで満腹になる。ローガンのフレッシュジュース飲みながら歩いていると、橋の手前で振る舞いパッタイを貰う。これはTha Chin という川。調べてみるとチャプラヤー川の支流らしい。ピン川とナン川が合流してチャプラヤーとなるが、それはまだずっと北の方。ここは大きな意味でチャプラヤー流域の町。ここを下った南、バンコク寄りにアユタヤはある。シナ・チベット語族のタイ人は11世紀、中国南西部から山を越えピン川を下り民族移動して来た。北部に行けば行くほど、食も人の様子も中国の度合いは強くなる。タイでは若い人も働きながらサイドビジネスをする人が多い。商魂逞しいのである。自分たちは元は中国の山岳民族、の気持ちもあるようだ。しかし明らかに異なるのが宗教的背景。この国は仏教がいまだに日常に根付いている。台湾は道教のお寺が大多数。中国本土はどうなのか。道沿いの売店。ナツメが何種類も!美味しい。マンゴーは路上では殆ど見かけないけれど、百年市場で購入済み。今晩のデザートになるハズ。◼️お昼はトンタコップというレストランで地元で人気らしい。え!まだ食べるのかーもちゃりとしたエビが多い中、ここはぷりりとしていたような記憶がメニューはこんな感じ。Google翻訳に頼るかお嫁ちゃんのアドバイスを受ける。このお店もお魚料理がよい。しばらく移動する内に田んぼカフェがある、というので寄ってみる。カフェではなく、レストラン。私たちはお腹がくちいので、コーヒーだけのつもりだけど、そのサービスは無いみたい。気持ちよく写真OKとのこと。右奥の山は登山者に人気らしい。上級者向きかな?聳り立つ岩盤。タイでは山小屋はないので、一切の荷物を携行するため、シェルパを頼む必要があるそうだ。スコールの後で稲が青々としている。自給率は何%だろう。年中好きな時に稲を植えて実れば刈り取る。そんなコメ作りなのだ。目印があまりないけれど、道路沿いに車が停まっているので、何となく分かる。↓田んぼレストランのオーナー?さんが店前の道路で何やら焼いていた。車から降りて買う人多し。田んぼの風景の中を車は北上、カンペンペットには夕方少し前にホテル到着。やれやれ。ベランダに出れば川が臨める。ホテルはリバーサイド、J2ホテル
2025.09.07
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2025/08/31/日曜日/夜には虫の音8/13 カンペンペットにもスコータイ同様、訪れたい歴史公園がある。それに博物館もある。今日はそれらを朝の内に訪ねて、スコータイに移動する日。こじんまりとしている。昨年1月に訪れたアユタヤより、よほど涼しいのはなぜか⁈ずらり並んだ象の姿は迫力満点。象へのオマージュを強く感じさせるのは、この地で王都を守った武士たちが、馬ではなく象に乗って戦った証だろうか。全体に華美、優美よりも質実剛健な雰囲気と菩提樹泰山木が沢山植樹されて花盛りこの花の姿と香りが優雅古の戦士を慰める後に見るスコータイの遺跡のように復刻が叶ってない仏像の、かつてそこにあったろう痕が風雪を呼び覚ます。見るものにイメージを喚起させる。逞しい上半身を持つ仏像仏さま、時の流れのままに少しずつ風景に溶けてゆく姿こそ尊しやところで、この仏さまは私に7月初めに訪れた下諏訪の万治の石仏を思い出させた。歴史公園から少し離れた場所に国立博物館がある。カンペンペットは県庁のある市らしく、スコータイではなく当地に置かれているのかしらん。 規模的には小さな町の博物館くらいかな。博物館入り口には、少数山岳民族の写真と共に多分シリキット王太后の肖像。公の建物などでは王室の方々の肖像をよく見る。多分、が付くのは年代により王太后の顔が変わるので。一番美しい頃?整形か、複雑なお化粧か?↓縄目紋様の土器も。下左は菩提樹の葉だろうか。プンミン前国王と結婚されたばかりの頃の、野生の子鹿みたいな、一重のまなこがきりりと涼しい、スレンダーな彼女が、私的には一番好き。↓仏像の御守りが、沢山この地域で発掘されたのも、兵士の町の所以か。長寿や武運を祈ったか。タイでは前国王がいまだに崇敬されている。シリキット王太后も然り。タイの母の日は彼女のお誕生日の8月12日なのだ!現国王は人気がない。↓左、美しい、精緻な仕上り。王太后も記念の年には、このお守りの限定数販売があった。理由は明白、能力無しのただの助平。タイ国内でそんな事言えば刑務所送りかも⁈そんな不敬罪が罷り通る。しかし、人びとの心から王室が離れて行けば、徐々に人口に膾炙されるだろう。外付けの権威は剥がれ落ちるのだ、かくて王様は裸となりぬ。↑どことなくクメール的な顔。唇薄く、鼻も顔も長い。↓左の仏像は、完成度の高さが他を圧倒している。均整がとれている。右、土着的な、人間的な可愛らしさあふれる。首長族?仏は性を超越している、いやさ人間を超越する。その民族が最も喜ばしく嬉しく美しいと思える姿で顕現あそばす。↓展示数が少ない。少数精鋭。そういえば、館内で一人旅のリタイア?男性と遭遇!恩師からスコータイに行くなら必ずカンペンペットに寄るように助言されたのだとか。民族衣装や手仕事作品をもっと沢山置いて欲しいです。やや片手間な印象。時代が古ければ古いほどモン族の刺繍は細かく美しい。古いものはバンコクのアンティーク店で高価な値が付いていた。欲しい、高い、うらめしや〜 あたしゃヴィトンもエルメスも要らぬ。モンのボロきれが欲しいのよーみなでお茶とスイーツを楽しんでスコータイまでのドライブ1時間とちょっと。ホテルで荷物を解き、スコータイの伝統的な陶芸、サンカロークのお店に出かける。店舗の奥では作陶室や、電気窯もあり、焼き物の数もアイテムも膨大。タイでは入り口で靴を脱ぐ式。リゾートのホテルでも、ウエスタンスタイル以外ではそうする。焼き物とねこちゃん。おいたはしない。人懐こい私たちを案内してくれた高齢の女性自身、作陶家だった。前国王の末娘、チュラポン王妃も、ここでその作陶家の指導のもと、サンカローク焼きを体験したそうだ。雰囲気はどことなく沖縄のやちむん。元々、泡盛はタイの大甕で熟成させていたのだ。沖縄とタイは近い。鎖国下でも交易は続いた。盛んだったサンカロークも今では2軒?その内の一軒は通りを挟んで目の前の息子さんのお宅だとか。お嫁ちゃんが購入したので、親の私たちにプレゼントしてくれたトリとネズミ?↓しばらくして夕ご飯は地元で評判のシンワナー大きなレストラン。お客さんはまばらだけど、どれも美味しかった。もう全然思い出せないけれど。食後、スコータイのランタンで有名な橋を眺めながら夜店をぶらり散歩こちらに並ぶ夜店はガツガツしてない。どことなくオーガニックな風合いレモンと自家製蜂蜜のドリンク。サービスしてくれる女性の仏顔の美しさにびっくり七輪の上で蓋されて焼かれているものは一体何⁈と眺めていると、ご親切にも開いて見せてくださったおじさん。食べたばかりでもう一寸の余裕もない、ごめんなさい!買わなくてもちっとも気にしない。なんだか穏やかな空気に包まれた不思議な夜市明日の夜はここで、水のほとりに座って頂くのもいいねえ、と言いながら、翌日プールで出会ったご同輩から勧められた食堂に行ってしまった。↓茹で卵の中を抜いてまたスタッフして焼く、手の込んだ串焼き、らしい。画像を見直すと、お嫁ちゃんがお勧めしたここで夕飯食べればよかった、と後悔しきり。老いては同輩より嫁に従え、の一件。
2025.08.31
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2025/08/28/木曜日/少し過ごしやすい8/13 本日は朝からカンペンペットの町を堪能し、午後にはスコータイへ移動するため、スーツケースもあまり開かず一泊したJ2ホテルを離れる。↑白い建物がJ2ホテル。ホテルの朝食は摂らずに、カンペンペットのソウルフード、オリジナルラーメン?を食べに市内中心部へ移動する。提供する食堂がずらりと並ぶ。↓地元の方オススメ Uud Rot Det Restaurant7時オープン、朝ラーメンいかが。あっさり、少量で身体に優しい。香味野菜は好きなだけセルフで盛れまする。夕べ食べ過ぎてムリ、と言いながら完食∑(゚Д゚)↓こちら肉好きメンバー発注、ロブロだっけ?豚ミンス↓汁なし麺もあった。好みで色々トッピングする仕組店内はどうやらロック好きオーナーの趣味が反映されている。スッキリとはしつつ隅っこにやや埃が◼️カオラームの衝撃朝食後にはデザート⁈え、ムリムリ。と言いながらも餅米やココナッツミルク好きの私の食い意地が胃袋の大きさを凌駕する。こ、これはうますぎる!控えめな甘酒を彷彿とさせる旨味と甘味、竹筒の中で、炭火で焼かれた餅米よ、バナナの皮の蓋よ!それらの香ばしさが口内に広がります。餅米周りの白い膜はココナッツミルク。お水も加えて、オマケに竹エキスの蒸し焼き!画像下は、このお店が初めて作ったという、お菓子。今や町のあちこちで売られている。お米や雑穀、ナッツ類がたっぷりと飴でまとめられた柔らかいオコシ。カンペンペット産が最上と言われるバナナにこれを乗せて、更に甘くして食べるって(@_@)これだけで食べてもクセになる美味しさ。雑穀とナッツゆえ〜カンペンペットはスコータイと同じくピン川沿い。スコータイが王都なら、カンペンペットは王都を守護する武士たちの街だったという。スコータイの影になって霞みがちではあるけれど、ここにもパゴダを中心とする素晴らしい遺跡がある。これから街の歴史公園へ。
2025.08.28
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2025/08/27/水曜日/秋を知りたい◼️ 8/14 夕焼けどうでしょう日が傾き始めた頃、水に浮かぶワットサシーを再び訪れた。夕焼けを背景にした仏さまが格別ときく。残念ながら見事な夕焼け、というシーンにはならなかった。タイは今、雨季なのである。今まですこぶる好天に恵まれたのが奇跡的と言っても良いのだ。ところが坐仏に近づくと、西の空が柔らかいオレンジと黄色、タイの仏教カラーがさしてきた。低木の梢という梢には白鷺厳かで静かで自分の中心点も鎮まるような日が沈む直前、坐仏が浮き上がるような錯覚をもつワットサシーを離れ、振り向けば日没の入日は刻々と色彩を変化させる。明日が平和で美しい日となることを約束するような日の名残り荘厳なひと時が過ぎれば、やがてナントカ落としの時間になる、のも面白い。昨晩、この周辺の屋台で買い食いのつもりが、結局ホテルのプールで相客になった人が教えてくれたSureerat Restaurant ร้านอาหารสุรีรัตน์ โภชนาという食堂へ行ってみることに。私たちの前には誰もいなくてがらーんとしていた。本当に人気?でもまあ、そこそこ美味しいねぇ、などと話している内、あれよあれよと満席に。欧米系観光客に人気らしい。飲み物はシンハービア。シンハーはタイで虎の意。沖縄のシーサーと同じ、語感も近い。そこに海洋民族のつながりを確かに覚える。私のDNAの塩基の一部に確かにあるだろう、海原の民の、海の水への近しさ。
2025.08.27
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2025/08/26/ 火曜日/確実にバンコクより暑い◼️8/14 お昼は地元で人気?バーンクルーイウホテルは歴史公園に程近いので、新市街のレストランまでは車で20分弱。少し離れている。バーンのエアコンルームは予約で満席だった。半屋外のテーブル2つに6人が別れて座る。スコータイもアユタヤと同じく川エビ川魚が人気で有名。しかし川が違う、水が違う。スコータイが面する川はピン川アユタヤはバンコクと同じチャプラヤー川。ピン川を含む四つの川が合流し、大河チャプラヤーになる。合流点上部は北、下部からバンコクの湾まで中部、というのがタイの地理イメージらしい。スコータイはさしずめ京から見た鎌倉?時代的にも丁度鎌倉時代に付合している。お料理全般に日本人の口に合うように感じた。濃いめ味付けのピラフに魚、マスかな?の乗った、珍しい一皿はタイで初めて食べた。北部の料理は辛さと酸味が控えめで、濃いめの味付け。それでもタイ料理らしく甘さはしっかり。お腹も満たされ、再度寺院遺跡へ向かう前にスコータイならではのシルクのお店を見学。◼️Thailand fabric store house閉まっていたけれど私たちの車が着くやシャッターが上がる。店内はクラシックな作り。セレモニーなどで、伝統衣装でアルバムを作るのはタイも同じ。そんな時に利用されるお店かな。一見無地に見えるが伝統の綾織がなされている綿のショールを購入、これはシルクと異なりお安い。↓二人で半分こして食べられる蝶々のアイスキャンディー◼️歴史公園の車通り西側、ワットシーチュムどうやらチケットは当日有効らしく、出入り自由、園外でも食事や休暇ができた。ここには途中まで車でアクセスできた、と記憶する。↑前日見学したカンペンペットの遺跡より繊細なレンガが積まれている。↓坐像は近年修復された。破壊されたというよりも経年劣化が進んだらしい。大きな坐仏が、まるで〈針の目〉から覗き見え。印象的な出会いが待っていた。遠くから、なんと大きな目!と見えて、実は半目に閉じられた瞼の上にススか何かの汚れが付着しているのだった。何とも艶福、美男におわす。修復直後は白く輝いていた事だろう。キングダムの王毅将軍彷彿唇が山と河のカタチ指先のそりはタイの舞踏で大切なポイント、坐仏も長く細い指が能くしなっている。寺院入り口あたりには樹齢200年を越す、古代種のマンゴーの大木が生えている。バンコクという都市名を中国ではマンゴーの呼び名を用いるとか。タイの人にとってはバンコク、ではない。かなり長くて私には復唱不能。青いマンゴーのサラダもタイで好まれる。次男が、今回の訪タイ初日に買ったカレンシルバーリングを失くした。ホテルに置き忘れたようだが、部屋には無いとの回答。心残りな次男に、お嫁ちゃんがシルバーウェアのお店を探す。お目当て店は閉まっていたが、別に小さなショップを見つけた。結局、お嫁ちゃんのピアスを買うハメに)^o^(私は私で像のブレスレットをスコータイの記念に。まあ、こんなものである、なぁ息子よ。
2025.08.26
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2025/08/23/土曜日/ツクツクボーシの声8/14(水)スコータイで初めて迎える朝スコータイはタイ王国発祥の地、とタイ史で定義され、タイ人にとって心の故郷的な街らしく 現在使用の文字もスコータイ時代に作られたとか。 タイ語族は中国雲南の山岳地帯から南下して、先住のモン、クメールを排斥しながらタイに沢山の小国を五月雨のように築いていった。小国=むあん、は転変しながらまとまりを持ち、スコータイに規模の大きな国が作られ、これがタイの初国しろしめす所となった。ところで中国雲南にはシーサンパンナというタイ族優位な街があるという。スコータイが衰退するとアユッタヤー朝、そして現在のラッタナコーシン朝へと続く 。アユッタヤー朝は交易で発展し、そこには日本人街もあった。山田長政! 沸騰する東南アジア海域の交通時代。その後大陸から流入した華人がタイ人と混血する。街を歩けば、多様な民族の国であると分かる。日本人みたいな人もインド的フィリピン的な人も 雲南からはカレン、リス、アカ、モンなど山岳民族も南下したが固有の文化を守り続ける部落もある。本日の予定はスコータイ歴史公園をゆっくり巡る美味しいランチを食べる。手工芸をみる←これこれ!歴史公園までは車移動、公園内はガソリン駆動の乗り物が規制されている。都合7名で電動のトゥクトゥク形タクシーを利用。運転手さんがガイドも。ただしタイ語。英語も堪能な様子だったけれど自分の足だけで歩くとなると、丸1日をここで過ごしお弁当も必要と思われる。◼️ワットマハータートスコータイ遺跡の中でも一番の目的地水辺越しに見えて来た。屋根を失って天蓋を得た。平安な心地、穏やかさが辺りを包んでいる。穏やかな飾りのない、心の迷妄から離脱したそんなカンバセ園内には126の大小な寺院があるとか。中でもマハタートは1番大きく立派な寺院だ。↓園内にあるラームカムヘン大王この寺院を中心とするスコータイの都を建設したラームカムヘン大王は克明な日記を残し、園内の樹木のあり様も記述に従い復元できたそうだ。どことなくヘレニズムな印象はスリランカ由来の影響だろうか。坐仏の側には立ち姿の仏様。修理もされたらしく、きれいに残る。立ち姿の仏像の所で、お坊さまに遭遇する。スマホを向けると優しい笑みが広がる。お坊さまは、仏様の左手にご自分の右手を繋いで、お経を短く唱えられていた。お経の後合掌をされている姿タイのお坊さまのタブーは確か200を超える。信仰と共に厳しい生活が伺えるが、堕落した仏教界の改変が近代になり、王家の手で実行された。◼️ワットシーサワイスコータイ王朝の前にここを支配していたクメール時代のヒンドゥー寺院それらも打ち壊される事なく残されたということ。仏舎利塔であるパゴダは当然ながらない。◼️ワットラパングーン心なしか、私のイメージするクメール風な仏様◼️ワットサシーこのパゴダの均整のとれた美しさはどうだろう。まるで今にも大きなお釈迦さまが手に取り、空に鈴の音を響かせそうだ。鈴を背景に浮かび上がる仏像もまた素晴らしく調和している。スコータイの中で1番好きかもしれない。さて、ガイドの方の時間を1時間も延長した私たちは、遅いお昼をとりにスコータイ中心地へと移動したのだった。
2025.08.23
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2025/08/22/金曜日/涼しいと思った朝が32°8/15/木/敗戦記念の日/スコータイまだ朝日は上らないワットトラパントーン朝6時、お坊さんへの喜捨体験をしようと、お寺に出かけた。地元の人や観光客が既に沢山並んでいる。13人のお坊さんに渡るようにセットになったお供えを購入する。これだけのお坊さんが揃うことはバンコクでは見られないとか。朝のお経が唱えられる。場合によってはお供えの品にお金を載せて、お坊さんの籠に入れる。直接手渡ししてはいけない。女性はお坊さんに決して触れてはいけない。どうやらお坊さんに伝える言葉も特別にあるらしい。儀式が終わり、すぐ側のマーケットをひやかす。ホテルの朝食前⁈の軽いブレクファスト∑(゚Д゚)夜から朝へ、日を継いでひたすら食べ続けている、飲み続けている。時間のチューブも消化器官チューブも際限なしに一本のよじられた管の日々。お坊さんも美味しい喜捨が喜ばしい。たこ焼き状のココナッツミルク焼き、香ばしい。世界中どこでも、マーケットは一番好きな場所だ。↓外国人ツーリスト専用のコールナンバー、さすが観光立国だ。ホテルに戻り、パッキングする。左、昨日の鮮やかな蓮、右、今朝まだ散ってない。今日辺り4日目なのだろう。今回、スコータイで2泊したScent of Sukhothai Resort お安い(ToT)プール付きで4,000円しない。タイ旅で初めてプールで泳いだかも。やはり2泊はのんびりできる。そのプールで居合わせたタイ人ご夫婦に、地元で人気の昨夜食事したレストラン、スリラットを教えてもらった。全般にスコータイまで来ると何かと割安。庶民的なマッサージルームもあり、私はオイルマッサージ施術。1時間三千円くらい(ToT)ほーんと都会がイヤになっちゃう。バンコクなんて空気も悪くて人多くてここよりずっと暑いし。↑左、昨日朝の蓮のつぼみ。右、今朝は開いた。お昼はカンペンペットのバーンリムナムで↓先日の夕飯以来二度目。小さな街だけれど、このレストランがあることで、沢山の人が訪れるらしい。オリジナメニューはレストランを開いた高齢のオーナー夫人が考えたという。特に有名なのが、画像左下のレモンソースチキン。添えられたタイケールの素揚げと素晴らしく合う。洗練されている。↓ロンガンのジュース、赤いの何だっけリムナムで頂いたピッパーツのスムージーとココナッツミルクデザートが忘れられない。ピッパーツの画像は忘れた!
2025.08.22
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2025/08/20/水曜日/初めてエアコンオフで眠る8/16(金) Sala Arun に泊まる。↓ホテルのルーフトップバーでは宿泊者にウェルカムドリンクサービスあり。バーは観光客で満席、ドリンク1つで粘り、インスタ映え賑わいの展覧強い風、やがて驟雨。屋根付きの椅子席へ避難。ウェルカムドリンクはノンアル。結局カクテルを注文して、残り半分は結局部屋で落ち着いて楽しむ。↓雨の中、息子夫婦が買出し(ToT)コップンカァみんなでワットアルンを眺め食事ホテル階は建物の3.4階。小さいフロアーに3ルーム。エレベーターなし、ボーイが運べばチップも発生。これで5000バーツ超え!めちゃくちゃ高い。それでもこの辺り並びのホテルの中では格安∑(゚Д゚)なぜこんなに高い⁈なぜならワットアルンが、チャオプラヤー川越しに部屋の片面全面窓ガラスにその姿を絵のように眺められるから。いわば芸術と信仰と歴史の窓が付随するから、だ。タイ滞在最後の夜なので奮発した。私は殆ど窓辺の景色を見て一晩過ごした。旅に伴った文庫本。『暁の寺』とはワットアルンのことだ。三島由紀夫もやはりこの辺りの一番良いホテルに滞在したのに違いない。因果応報、輪廻転生、雨季に決壊氾濫する水、夥しい水の流れは全ての境界を曖昧にする、自我と無我の間さえも。タイの風土気候は、言語中枢とイマジネーションの異様な発達の持ち主を、北と南の仏教伝来の水脈をも氾濫させながら、生と死の渾然一体の地点へ飛躍させ、駆け上るように相乗していく。雨は止み、明かりも消え、5時には渡し船が通い始めた。早朝の渡し船には沢山のお坊さんが往復していた。6:05暁は臨めず。7:30渡し船で対岸へ。1人20バーツ現金払い水生植物が川の流れで海に運ばれる。2分とかからず対岸へ8:00 Openとのことだが、もう少し早く開いていた。エトランジェは有料、200バーツ大変混むお寺らしいけれど、この時間は空いてる。ゆっくり堪能できる。朝日に輝いたらどんなにか眩しいことだろう。中国の影響、西アジアの影響、ヒンドゥー、混然としている。大きなストゥーパ?、ラーマ1世を祀る大伽藍の上には彼自身が戦さの勝利で持ち帰ったエメラルド仏の像が装飾されている。エメラルド仏は現王朝の国体にして、タイ人にとってもアイデンティティのようなものらしく、仏のまとう物語はあたかも神話の如し大伽藍から見て川の方前面に、に小さな平屋の建物がある。そこに、一切の業を払う潜り抜けのお祓いのできる台座がある。かつてラーマ1世がその上で瞑想したと伝えられる。↓潜り抜けては仏に祈りを捧げること三度出口に向かう所にお坊さんがいらして、竹筒のようなもので頭に3度水をかけたあと、頭を軽く叩く。それから、腕に成就の印?腕に飾りを付けて下さる。何やら母の胎内から産道を出てくるような、生まれ変わりの体験を3度味わうのである。まだ、腕にしっかり結ばれている。
2025.08.20
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2025/08/18/月曜日/タイより暑い神田でもう仕事08/16/土曜日/雨季、スコール、涼しい深夜、もう帰国便を待つスワナンプーム空港。夜に見るブルーサインは垢抜けている。私はMRTでいいのだが、1日残るお嫁ちゃんがアプリでタクシーを手配してしまう。バンコク市北部から500バーツ。およそ50分のドライブ。高速代25バーツ!は現金渡し。chatuchakmarket に行く予定がすっかり疲れて息子夫婦のホテルの部屋で、デリバリーマンゴーライスをデザートに食べる。このマンゴーは今回2位のお味驚くべきカラフルな餅米は全て自然素材、ハーブや花の色彩ですと!さすが南国。これにココナッツミルクを垂らし頂く。甘い、とろり、もっちりのめくるめく口腔世界。噂に聞く、土日オープンのチャトチャック市場に寄れないほど疲れたのは、タイのディープカルチャー闘鶏を3時間ばかり初体験したことによる。スワナンプーム空港に程近いらしいが、場所はよく分からない。とにかくだだっ広い野原の駐車場にぎっしりの車。大きな建物の中のセンターでは特別な試合が行われているらしい。公営闘鶏ギャンブル、である。荷物検査などを受けて↓このような記入できるブックが配給される。確か女性は無料だが、男性は300バーツの入場料が必要。だったような。あなたのID番号ルール、規制1.アイデンティティブックをまったく変更しないでください。2.あなたとあなたの身分証明書は、破損を防ぐためにシステムに記録されます。3.あなたが演じる人の身分証明書の数字の文字。4.リフトごとにセカンダリーあたりの価格を確認または確認する必要があります。5.あなたは自分自身に責任を持たなければなりません。お金を貯められないと主張しないでください。6.判断は、フィールドの発表されたルールに基づいています。7.フィールドは競技の主催者にすぎません。Google翻訳がさっぱり要領を得ない。ただ、このIDを失くすと、ここから出してもらえない⁈くらい厳密、と脅かされる。ヒヤヒヤ。2坪ほどの円形リングに、体重や骨格、筋肉のつき方などのマッチングを見極めた上でファイティングするらしい。23分ラウンドを3回、もしくは4回闘うようだ。ラウンド間は割と長めの休憩があり、4時間前後の長丁場になるらしい。闘う鶏たちは、コトの前は驚くほど大人しい。ところがリング?に立つや、戦闘モード満開。トサカ周辺の羽毛がエリマキトカゲの如く逆立つ。鶏たちの変化は、オーナーや賭博者たちのオス由来ホルモンを誘因し?ギャラリーの集合的沸騰が、タイ語を理解しない私へ、訳のわからないエネルギーの渦となって襲いかかるのである。1ラウンド観ただけでへとへと、退散して遅い昼食を摂りにバンコク郊外、ObAroi へ。プーパッポンカリーは3皿。シューマイ風はカニ肉のロール揚げ 他に野菜料理2品、大きなお魚の唐揚げ、白身魚のトムヤム、摂り忘れたもの幾つか。6人でビールなども飲んで、一人当たり3千円くらい。カセサート大学から車で20分ほどの魚介類レストラン。地元で人気の様子だった。↓食後に知人のお守りコレクションを見る。カンペンペットの博物館には、その街の橋工事で古いお守りが沢山発掘され、コレクションがある。タイのみか、東南アジアにはかなりの数のコレクターがいて、稀少価値の高いものはなんと何千万円⁈ホント?で売買されるらしい。先程の闘鶏は野生と俗が、ここにおいて聖と俗がねじれる。この日の朝にはワットアルンのお寺で、俗世界の垢を祓う儀式をしたのだったけれど。
2025.08.18
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2025/08/14/木曜日/スコータイは強い日差し今朝のホテル中庭で、夕方には散りそうな蓮7月7日 行田市の古代蓮を見に知人と蓮は午前だけ花開くとか。始発の電車で待合せ駅まで2時間ほどで到着↓右下のトンボの青紫の羽の不思議な造形。丁度昨日、カンペンペットの遺跡で同型の黄色のトンボを見た。何万本の世界の蓮と古代蓮に迎えられる。蓮の豊穣な香りがカタチを持ち圧力を感じるほど小さなせせらぎの緑陰の元、知人の奏でるライアーの楽曲に合わせ鳥たちも歌いだす。アオサギが悠々と蓮池を散歩する。地上に晴れやかに明かりを灯す蓮の花は4度開いて花びらを散らしていくという。4のリズム。↑中、ハートの形で蜂たちを迎えいれる、メシベ。乾燥させればお茶の香り付けになる。明日朝に花開きそうな今朝の蓮、ホテル中庭サワディカー♬
2025.08.14
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2028/08/13/水曜日/カンペンペットのピン川に朝日が昇る6/29 日和山公園 東北旅の終了日ビックリハウスのお姉さまご推薦、日和山公園に早朝散歩した。日和なる名を冠する地名は、船の往来に関する天候などを観測する場所に付けられたものらしく、江戸時代の物流発展から生じた模様↑当時の千石船の復元天石船と西廻り航路を再現河村瑞賢と湊町酒田の繁栄寛文十二年(1672) 徳川幕府は急増する江戸の人々への食料供給として、出羽の御城米を江戸に運ぶことを屈指の豪商である河村瑞賢に命じた。瑞質はここ日和山に御米置場を設置し、酒田から江戸に回する西廻り航路を開発し、米穀・紅花などの流通と海運の向上に大き<貢献した。これにより酒田の名声は全国に高まり、日本海有数の良港として繁栄をもたらす基礎が築かれた。修景池 日本海 酒田新潟 西廻い航替 河村瑞賢像 酒田繁栄は先ず河村瑞賢の手に拠った。その名はかすかに覚えがあったけれど…一方で、これら海岸を含む飛砂の防砂林←その風害は、私に『砂の女』を思い出させた。大勢の先人が艱難辛苦した果てに、失敗を克服し大変な財産を投じて成功をおさめたのが本間家三代目当主の光丘であった。光丘は、農閑期その他で仕事のない民百姓らに米俵袋に砂を入れさせ、それを購入し、大勢の人足を雇い、丘を築いた。公共事業で民に金を回し、飛砂の被害に苦しむ酒田住民の環境を著しく向上させ、港湾事業で潤し、今に至るまで、誇りと憩いの風景をもたらした。経世済民とはこういうことではなかろうか。そんな丘を愛して松尾芭蕉をはじめ多くの文人墨客が訪れた。幸田露伴の歌碑を探したが果たせず。↑日本の初期西洋式灯台光丘の事業、一族の成し得たことを何一つ知らなかった。私たちはどうして知らされてなかったのだろう。私だけが無知だった⁈光丘を偲び名付けられた光丘文庫を外から見学。内部は今は公開されていない。 一時期は図書館として利用された模様↓右上の酒電マークはこの建物が電気販売をしていた事実を示すのだとか。自家発電と驚くべき進取性さらにそのすぐ側にゆかしくも立派な日枝神社が。隨神門ふとだまのみこと神社の尊厳と境内の警護を願い太玉命こやねのみこと戸屋根命の神像を安置する。この門を潜り参道が曲折しているのは俗界と聖境を区分し参拝者の精神統一をはかったものである。天明七年本間光丘建立のものが明治二十七年十月二十二日酒田大地震にて全漬。現在の門は八年をかけて材質を吟味し工匠の術を集めて明治三十五年本間光輝が再建したものである。楼門二層造総欅材で威厳と優美の調和が特徴と云われる。門の中央で拍手を打つとこだまが返るが、天井の微妙な湾曲による反響であり「鳴き天丼」は名工の秘術とされ反響の大小により神意を伺ったとも云う。「至誠通神」の掲額は東郷平八郎元師の親筆であり神参拝の本義を示している。 日枝神社日和山懐の日枝神社、働き者のお猿さんしっかり支えるは尊き道しるべ。辰、申ときて、子は俵の中?酒田の米倉、飢餓民衆をすくう。火事にも地震にも凶作にも米倉の扉はわれら民衆に開かれた。本間様には及びもせぬが、せめてなりたや殿様にうた詞は知っていたが、さっぱり知らなかった本間家のこと。中でも三代目光丘の事蹟はやはり酒田に来てみて、しみじみと身に染みた。一時期、日本一の地主となり北前船の交易で大変な財力を得た本間家はその財力を用いて公益のために蕩尽した。個人の豪奢な贅沢なんぞハナからお呼びでないのだ。世のため人のため。大金持ちになれたらば、そう生きなくて何の生き甲斐があるものかは。時代の魂を大きく前進させる、そんな仕事を為さなくてはお金は腐りまする。お金の原資は大衆の、積もり積もった汗の結晶に他ならないのだから。誰もが等しく益を被るものに。
2025.08.13
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2025/07/31/木曜日/山に来たら夜は寒いニット教室の日によく利用する松翁いつも受講前のため、ざるをちゃっと食べて仕舞い。20分とかからない。千円。◼️今月の初めて/松翁で天ぷら蕎麦ところが先月末、午前の用事が早めに終わり、初めてランチサービスの天ぷら蕎麦を食べた。味わって食べるなら小1時間は必要な3500円なり。海老か鮎か。鮎一択なのである。天ぷらをつまんだ箸先の油がツユを汚すので、基本的には好まないけれど。鮎と青梅、青いもみじの一幅の画にっぽんの夏、手打蕎麦◼️今月の初めて/新潟駅チカ長岡小嶋屋へぎそば、というのが実は私は好みではない。しかし新幹線人身事故の発生で?飲食店に人が押し寄せ?回転の良さげな蕎麦やに並ぶ。喉ごしが極端によさげなツルツル麺がやだ。お蕎麦の香や甘味が感じられないことも拍子抜けやはり、水と空気だけを含ませたような蕎麦粉のみの蕎麦が食べたい。口に合わない蕎麦を食べた後ほど蕎麦が食べたくなります(*´Д`*)◼️今月のお久しぶり/そば処とみや上諏訪駅の線路沿いの蕎麦やいかん。ここの蕎麦は私好みと真逆のお店だった。全然フツーの、町の蕎麦屋。いえいえ、これなら箱そばの方が美味しい。ツユが極端に薄く江戸風好みの自分には馴染まない。これで何故行列なのか分からない。週末はとにかく私のような、蕎麦を求める観光客が多いため、並の店にも押し寄せる結果なのだろうか◼️初訪問 しのうちさいたま市緑区知人に連れられて。行田の古代蓮を楽しんだ後の昼食をとる。あーお蕎麦そのものの写真を撮り忘れる!空腹過ぎた/(^o^)\ニハですか?と聞くと殆ど九割くらいとのこと。十割蕎麦好きにはナンだけれど、全体に蕎麦の甘味と丁寧な心意気を感じ、何よりお安い!せいろ600円(T-T) 感謝お値打ちそして店内の雰囲気が良い。◼️いつものふじた私の行動範囲内の蕎麦ではここが一番好みだが、半年くらい前から十割のざるが塗りになって、蕎麦の香りが損なわれた。おまけに気のせいか量が減った。量のことはお店の人に伝えてみた。気のせいか、やや盛り返した?1080円。頼みます!
2025.08.01
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2025/07/30/水曜日/空気が薄くなるくらい暑い6/28 土門拳写真美術館で三館チケット3千円お得!の声に惹かれて購入してしまう。ビンボー人のサガである。酒田市美術館は目と鼻の先というくらい近いし、そうねえ、旧本間庭園も観られるみたいだし。いいかな。チケットを買うことで予定が定まる。調べてみると3館で三千円は600円のお得であった。市立美術館も本間美術館も企画展毎に値段が変わるみたいで、掴みにくい設定ではあるけれど。土門拳さんから坂道を自転車で。美術館に到着したその時、一瞬だけ鳥海山の頂上が見えたのだった!秋田から酒田への列車移動中に期待した鳥海山は裾野しか臨めなかったので嬉しい 贈り物だ。確か新見美術館コレクションをレンタルしての特別展。普段、日本画をじっくり見る機会は少なく、良い時間だった。山陰華楊、小野竹喬、田渕俊夫、森山知己、平松礼二、らに刺激を受けた。お師匠さんが予想できるような手元もあれば、初めから独自性が伺えるものも一番すてきに感じたのは西田俊英の「五月雨」丘の上の市立美術館は静謐な印象。それは土門拳写真美術館から続く。前者は水が、後者は周囲の緑と溶け合い、清々しさを覚える。まだ日差しの強い中、街中へと戻る途中、セカンドハンドショップのビックリハウスにドロップインする。目ぼしいものは無くて(´Д` )、、←古着好き美魔女な仲良し経営者のお姉さま方に、酒田でおすすめの場所を伺えはと日和山!とのこと。自転車方向転換する。も。上り坂にめげて明日早朝へと変更。かつて一番賑やかであった商店街は九割方閉まっている模様。通りがかりの、やはり自転車の男性が、酒田の大火事やかつての賑わいを話してくれた。銀座のキャバレーがあった話も!従業員募集の看板がそのままに廃業していた。♬みんな何処へ行った?ビックリハウスの美魔女さんも、やはりその大火事で、商店街が焼け失せてしまったことを話してくれた。新しい商店街に生まれ変わったけれど、以前の華やぎと賑わいが戻ることはなかったのだとか。その酒田大火から来年は50年酒田は紫陽花とお寺も多い。
2025.07.30
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2025/07/26/土曜日/もっぱら灼熱できればホテルは避けたい。 個人経営のこぢんまりした古い宿が好みである。 そんな志向の著者がセレクトした宿の一つらしく、 今回お世話になった最上屋旅館の部屋の卓上に、自嘲気味に↓本が。豪華である必要はなく、ただ清潔で静かな環境が望ましい。できれば源泉掛け流しの外湯が近くにあり、朝な夕なにふらり出かけられれば最高。申し分ない。清潔、静かも、上記条件は泊まってみなければ分からない。↑床の延べ方が好ましい。畳を縦に半畳空いている古い、確か今年竣工から100年と聞いた。ご主人のお祖母さんが始めた当初は下宿屋だったとか。嫁いだ先が工務店か何かで、下宿屋にしてはかなり道楽な材料仕様のように見受けられる。確か朝食付きで1人8500円ほど。お安い分で、東北旅の最後の夕飯は少し奮発↑上喜元雄町、珍しい名前の日本酒。美味しい。にぎりにしっくり合います。1人分で軽く宿代超えますが、都内なら軽くその2倍はしそうな内容。年配大将の寿司にかける情熱がこちらまで幸せにしてくれる。宿に戻り、例年より早い終了のさくらんぼを何とか入手し、太宰治をぼんやり思い出しながら味わう。旧下内匠町元和五年(一六一九)に町作りされ、肝煎斎内匠が頭取として尽力したことから、老をとって町名とした。五丁目迄あり、二丁目迄を上、それ以後をだとした。下内に町は明暦頃には四十八軒、天和三年(一六八三)には三丁百十四軒とある。 平成十七年九月 酒田市宿のあるこの界隈、実のところ歓楽街。土曜とて終夜若い人たちの大声が、風を通すためにすかした窓へ押し寄せるおまけ付き。お若い方には同慶の至ながら、夜は静かにあらまほしきものよ。
2025.07.26
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2025/07/14/月曜日/台風影響の雨混じり6/29 酒田土門拳写真美術館企画展はスナップショット戦後間もない、明るい顔の子どもが振り返りお迎えおてんとさまの道を行こうよ、きみもって言ってるみたい。美術館建物はストイックな気配の漂う水とモノクロの空間。風景のフレーミングも低い位置に「風貌」からの展示は一つもなかったが、どこか伸びやかな、それでいて敗戦の悲しみも忍ばせるモノクロ画像のショットに見入る。傷痍軍人のお父さんに負ぶわれる子銀座の靴磨きの男の子こうやって我らは命を今日につないで来た。80年。愚かさと悲しみと逞しさを行きつ戻りつモダンな清洲橋は、木下杢太郎実兄による。木下杢太郎記念館で当時の立面図など数枚が見られる。撮影した土門拳はその事を知っていたろうか。兄、太田圓三は関東大震災後の帝都復興のため、隅田川の架橋デザイン施工を短期間に信じられないスピードで実現させた後、自殺に至る。その事実が美しい架橋の背後にある事を、土門拳は。しかしこれはまた別のナラティブなのだ。↑右上の書は、右半身が不自由になった土門拳が左手で書いた。大川の橋の下を水は流れ、橋の上を雲が行く。やはり土門拳は感じ取っていたのだろう。はて、はて。稀なる表現者も稀なる芸術家も子どもたちにはかないっこない。そして忘れない。あの日の子ども写真がとてつもなく強烈に光を放つ土門拳写真美術館当日はたまたま、お抹茶カフェが開かれていた。水辺の向こうには鮮やかな紫陽花の公園色と味が身体に戻り来る。
2025.07.14
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2025/07/10/木曜日/一雨あるか?6/28 6時半前の電車に乗り、弘前駅離れる。弘前から直接酒田まで行く特急電車ってあるんだろうか?酒田での滞在時間を少しでも多くしたい。でも秋田乗り換えの上、特急電車連携は望めず、秋田からほぼ各駅停車状態となる。とはいえ!秋田乗り換えで買った↑さきほこれ、というお弁当がたいへん美味しくてびっくりした。ほぼ5時間。酒田駅到着立派な駅だ。往来の賑わい場所は駅からは少し遠い。そして行きたい場所は歩けばここから50分は超えそう。チャットgptくんが無料レンタル自転車を勧めてくれたので、目の前のミライニという複合ビルへ。観光案内やレンタルサイクル受付、ロッカー、図書館、おみやけ、カフェ、ホテルも?などなど図書館はイベントも多いみたいで、なかなかに攻めている。若い人も年配の方も集えていい感じ。自転車でGO♬↑酒田繁栄の往時を偲ばせる米蔵。山居倉庫さて、この人の『風貌』という作品にガツンとやられていた私は、とうとうこれから自転車で25分くらい離れた所にある土門拳記念館→土門拳写真美術館(202504から名称変更)へ行くのだ。移動中、小さな川を渡ると右手にたいそう素敵な建物群が。これが有名な山居倉庫。久しぶりの自転車と暑さにめげて、しばしこちらで憩う。倉庫は米の品質を守るため、越屋根風の構造による通風換気が施され、欅の街路樹も暑さ避けであったとのこと。自然の力を応用する工夫は目にも良し。敷地内の三居稲荷神社はその名にし負う。しめ縄が米俵のカタチ。どうかお稲荷さま、民の竃に煙の絶えることなかれ山居倉庫からすぐ、長い長い橋が見えて来た。これがまあ、かの最上川!暑き日を海に入れたり最上川 芭蕉気分はそれだが、私が好きな最上川の句は五月雨や大河を前に家二軒 蕪村芭蕉の 五月雨を集めてはやし最上川 よりも秀逸に感じるのだが。漕いでも漕いでも出口は遠し最上橋強風であれば、橋の一部細い所を対向自転車とすれ違うのが心許ない。本日は風も水面も穏やかで、ただし日差しは強烈だ。息上がりつつ漕ぐこと15分余り。迷いながら到着土門拳写真美術館へ
2025.07.10
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2025/07/05/土曜日/ねっとり暑苦しい東北3泊の2泊目は弘前。弘前市は駅からちょっと離れたお城跡周辺が良いのだけれど、希望の宿は満室だった-_-bしかし考えてみれば弘前は13時間ほどの滞在。宿は寝るだけ、なのだった。結局駅近の弘前屋さんへ。便利、安い、地元感満載。ミネラルウォーターサーバーがフロアに設置されていて、必要分だけ飲めるのがよい。コミックも沢山設置されていたっけ。お昼ご飯を摂る時間もなかった本日。ツレの予約した津軽三味線ライブが聴ける居酒屋さんは、ほぼお城跡に近い。どことなく美しいなあ、弘前。大好きな街の一つ。ここで太宰治をほんのり見知って、結局金木にまで出かけたのだ。津軽も熊本や長野みたいに馬刺しが食べられる。中段の馬刺しは、ルイベに近い仕立て。薄切りで少しシャリシャリしている。マグロは大間。馬刺しは金木が本場とか。津軽三味線も太宰も馬刺しも金木!演奏前には揚げ物焼き物のオーダーは終わり?おやまあ、厨房にいた人やスタッフが実は演奏者であったとは!↑金木名物の甘露梅。右下の、賞味期限の短い方が断然美味しい。シソとあんこと求肥のハーモニー明日は早朝に宿を出て、5時間以上の列車長旅となる。夜は早々と眠る。
2025.07.05
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2025/07/03/木曜日/えろう暑おす6/27 金木かなぎは、昨日は激しい雨だったとか。本日は曇り。最初のV字道を左に行くとすぐ、太宰一家が疎開した太宰治疎開の家/旧津島家新屋敷がある。実は当地に来るまで、この家のことは全然知らなかった。もとよりガイドブックの類を持ち歩かなくなって久しいので、実は情報貧民かもしれない。出会えても出会えなくても、の旅がらすは偶然を愛するのであった。こちら入館料は千円。強気な設定かもと思いながらも、是非どうぞお入りください、と迎えてくれる館員らしき人の佇まいが好くて入館する。ここでは館員の方のガイドがありました!↑太宰の長兄が蒲柳の質の風情で文学青年然としている。早稲田の文学に進み同級が井伏鱒二だった!左、太宰治。疎開の家は、長兄の新婚屋敷(=新屋敷)として普請された。斜陽館から新屋敷の一角は元は全て津島家の本邸の土地だったという。油の小売から始まり瞬く間に青森県内の大地主になり、貴族議員にまでなった父と若くして家督を継いだ兄も政治に関わっていく。斜陽館を見れば一目瞭然。貧富の格差なんぞという言葉すら穏やかに聞こえる。もはや人種が違うような差異に、多感な少年太宰の含羞が屋敷の洋間の硝子に歪む風景と重なるようだ。↓疎開の家が、これである。たまたま案内をご一緒した、太宰治ファンらしき女性が熱心に質問され、澱みなく応える館員の説明、太宰治への距離の保ち方などとてもよかった。宮沢賢治との対比なども。或いは空襲のこと。↑滞在したのは1年半ほどか。その間に実に23作品も成した。背の高い太宰は片膝を立て、右手で原稿を覆うようにして、この小さな机で書き上げた。机上にはゴールデンバット。ここにはいつも大勢の来客があり、太宰治に憧れる地元文学青年もいれば、酒をねだりに来る輩も。井伏鱒二がどれだけ太宰治の面倒をみたか。兄の存在、交情があったのかもしれない。太宰治の家族関係や地元の人との交流など、現場の中での案内は、太宰治の人となりが目に浮かぶようで、実感が伴うものだ。それに比べると確かに斜陽館は大きいなあ、豪勢だなぁ、と見上げて通りすぎるようで、ここには太宰治の印象が伴わない。コメが不作の年、借金した百姓は自分の田畑を担保にする。翌年返済できないならば、田畑は取り上げられる。そうして大地主が登場した。社会正義に目覚めた少年は出自のカラクリを知り、狼狽え、傷ついた。米一俵で買われていく少女を、その貧しさの本質を見て。理解できる。共感できる。やがて自堕落な生活に身をやつし、情死の相手のみを死なせてしまう。その罪禍も兄の政治力で薄められ、挙句病院で投薬された薬の中毒に陥る。大金持ちの、甘ったれたヤクザ息子。故郷金木ではみなにそんな目で見られ、また扱いを受けたろう。当人もそんな故郷に帰る気は無かった。しかし、母の危篤を聞いて妻美知子が背中を押したのだ。↑客間に比べると、意外にも質素な主人室。床さえなく、小さな書架が置いてあるだけ。夫人室の方が大きく明るく上等だった。『銀河鉄道の父』ならぬ『走れメロスの父』は刊行されないのか。斜陽館を後にして、目の前の津軽三味線会館の、2時からのライブへ。うーむお昼を逸してしまった。今まで知らなかったけれど、ここ金木が津軽三味線発祥の地、だそうだ。力強く若い奏者、難曲もこなす穂積さん。拍手を入れる箇所などのレクチャーもしながら。↓空腹を潤うおやきを産直メロスで購入。今晩の宿泊先である弘前へ津軽鉄道と五能線を乗り継いで。
2025.07.02
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2025/07/02/水曜日/蒸し暑い6/27 やまびこ9:44発に間に合い、ほっと一息する間もなく。あっという間に新青森駅に到着。ここから最短での金木着は、弘南バスで50分ばかり揺られて、五所川原から津軽鉄道を利用するルート憧れのストーブ列車の津軽鉄道、初乗り。跨線橋の手前は五能線、奥が津軽鉄道。乗り合わせたた太宰号はアテンドが入り、太宰作品の「故郷」の朗読付き!できれば津軽弁で聞きたかった。単車内の装飾も手作り感満載。津軽の四季を象徴する林檎、雪、桜…夏は何だっけ?その順番が、勘当された太宰が再び故郷に戻り、金木に滞在した期間を表すのだとか。魂こめた展覧に、津軽の人の大切な大切な列車であることがひしひしと染み入る。ここまで来る時間を思えば、五所川原から金木まではたかだか20分ほどの旅。緑のトンネルを車両は枝木を擦りながら、窓外の楽しい風景、魅力的で素朴な駅舎を過ぎていく。金木には何がある?斜陽館がある。そこで成長した太宰治の、記憶が残る風景がある。青年太宰は何を憎んだのか。一度は訪ねてみたい場所だ。今回持参した書物は私は『斜陽』ツレは『ヴィヨンの妻』既読を忘れ携行-_-b情けなや〜太宰ファンではないけれど。まあ、何度読んでもこれならそんなに嫌ではない。
2025.07.02
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2025/06/28/金曜日/晴れと曇りと東北旅の1日目宿泊は、恐山から車で45分ほど、細いヘアピンカーブを下りながら、太平洋側に降りて下風呂温泉へ。なぜこの土地か。格別な理由はないのだけれど、小さな町に3つの源泉があると知り、レンタカーを返す八戸からは距離があるのだが、ここに決めたのだ。ところが温泉宿はどこも予約満室。結局温泉無しの民宿に泊まることに。しかしこれも正解だった。海峡の湯なる、清潔で新しい、海の見える日帰り温泉の入湯券のサービスあり。宿からは徒歩2分ほど。目と鼻の先だ。サンダル借りて傘差して♬源泉掛け流しのあまりの熱さ←大湯は46度超え-_-bびっくりしていると、本日はいつもより熱いらしく、透明なはずの新湯が大湯のように白濁しているとか。自然相手なのでねえ、と会話も弾む。津軽の人がこの湯に浸かると熱さに呆れるので、あちらはぬるい温泉なのだろう、とか。元々古い湯治場だったのだとか。さっぱりして宿に戻ると夕ご飯。極楽だ〜いや、極楽はご当地のウニであった。そんなに沢山のウニを食べたわけではないけれど、今まで食べた中では最高に美味しいウニだった!気仙沼や釧路の魚市場で開けてもらったウニよりも極上。驚きのフレッシュなねっとり甘さは鶏卵とご飯とワサビのハーモニーゆえか⁈↑なんとウニ・アワビの二色丼( ;∀;)いつかは行きたい、ゆかい村花火翌朝は幻の大間鉄道線路予定地にある足湯へこれがまあ気持ちの良いこと。潮風と林に囲まれて丁度良い湯加減に足を浸せば、なんと!我が敬愛の菅江真澄候もこの地に親しみをお持ちだったのだ。菅江 真澄 1754 -1829秋田県立博物館所蔵本名は白井英二。三河に生まれ、本草と国学を学ぶが、30の歳に旅発ち、北海道へ渡ったあと、南部・津軽・秋田と歩く。地誌を編む旅の途上、角館で病歿。享年、76歳。人生の過半を旅に過ごし、その旅を日記に綴った。その土地の風土・慣習を、その土地の人びとの見方に沿って書き留め、のちに柳田國男に「民俗学の祖(おや)」と評された。寛政4年10月(1792年)に奥戸湊(大間町)に上陸したのち、寛政7年3月(1795年)に津軽へ旅立つまでの2年半を下北で過ごし、『牧の冬枯れ」・『蝦夷が歳」(未発見)・「奥の浦々』・『牧の朝露』。『尾駮の牧』・『奥の冬籠』・『千引の石』(未発見)・『牧の夏草」(未発見)・『奥の手風俗」を書いた。さて、幻の大間鉄道とは大正11年(1922)公布の改正鉄道敷設法で大湊線(野辺地駅までの50km)の途中駅である下北駅から本州最北の大間町まで(49.7km)としてあげられたのが大間鉄道の始まりとなった。第1期工事分の大畑線(下北から大畑までの18km。)が昭和⬜︎大田線として開業し、引き続き大間までの工事が続けられ当初、下北半島の林産資源や水産資源の開発。又、本州と北海最短路線として期待された鉄道であったが、太平洋戦争に突入し、太選の事事施設の為の重要路線として完成が急がれる事となった。⬜︎・本間間29kmのうち⬜︎までの16kmの基礎工事が完成した⬜︎948)2月突として工事が中止となり、数十年の間放置され現在に至っている。と碑文から少し読み取れる。この足湯に10分弱ほど浸かって足をタオルで拭うと、ポロポロと垢のようにヒフ?がとれる。昨晩温泉でよく洗ったのに。軽石効果?↑坂口恭平してる小屋さて、八戸のレンタカーに車を返し、やまびこで新青森へ。そこから弘南バスで五所川原へ、そして津軽鉄道で金木へ。しかし!恐ろしい真実を宿の女将さんから聞く。どうして八戸?下北駅の方が近くてはるかに便利なのに?どうしても新幹線を利用したいのなら、七戸駅ならまだ理解できるのだけど…事前の計画の杜撰さよ!下北駅にも当然レンタカー社は存在するのだった!下北半島から津軽半島へ移動のレンタカー利用の場合、下北駅経由がベストである。因みに恐山も下風呂温泉もバス便がある。事を後に知った。この教訓を得て私たちは、来る時に遭遇した事故渋滞が起きないように、スムーズなガソリン補填ができるように、心から祈った。万事悪く承知するクセのツレは予防線を張るように、まぁ津軽は次でもいいや。最悪、弘前で泊まって民謡酒場、ともそもそ言うのである。はあ?弱気を叱咤激励、ベストな行路、ベストなガソリンスタンドを何とか見出し、そして奇跡のようにやまびこに乗り込んだのであった( ;∀;)
2025.06.27
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2025/06/27/金曜日/下北半島は曇り津軽は薄日6/26 13:30頃到着小雨ぱらつく。我が家からほぼ13時間弱で恐山菩提寺に到着するのだから、日本に秘境はもはや無いのか?恐山奥の院地蔵菩薩は中心にして不動阿字の本体なり若し衆生有って是の心を知らば決定して成就す「仏説延命地蔵菩薩経」より不動明王、奥の院釜臥山嶽大明神本地釈迦如来が一直線上に奉納され三者が一体であることを意味しております。当山は伽羅院山地蔵大士を本尊に仰ぐ霊場であります。地蔵菩薩の「地」という文字は大地をあらわし「蔵」は生命を産み出す母胎、母の心をあらわしております。人に踏まれても、ひたすら人をささえていく大地と子の痛みを我が痛みとしてしかとうけとめてくれる母の心こそ地蔵菩薩そのものなのであります。即ち、釈迦如来の附属を受けた本尊の慈悲心と一切の煩悩を打ち砕く確固たる小動化の現が運華の花びらのような八峰(地蔵山・鴨頭山・大尽山・小豆山・北国山・釜成山・屏風山・剣の山)に囲まれた蓮華台の如き恐山そのものなのであります。ご参拝の皆様には「釈迦地蔵不動一体議」の元、右の三聖地をお参りなされる事によって、当山参拝の結願が決定成説されるのであります。霊場忍恐山菩提寺拝案肉図 鶏頭山恐山に関心を抱いたのは、ここにカリプソな風景がある、青森県庁勤務の英国人女性から聞いた話がきっかけ。彼女とは数年前に大津の宿で出会った。それまでの恐山のイメージは、イタコの口寄せであったり、水子供養や寺山修司的世界だったのでカリプソの言葉に激しく動揺した。動揺すれば振動が。振動は時宜を得て、足は向かうよ下北半島へ、恐山へ。不思議な感懐を抱く場所であり、寺領だ。一方でどう見ても山=御神体がある。神域だ。習合している。箱根の地獄谷みたいなモノトーン世界に、不釣り合いな、しかし奇妙にマッチするカラフルなプラスチックの風車が、あるものは激しく回転し、あるものはぴくりとも動ぜぬ。硫黄臭とけぶりと雨。元天台、今曹洞、それより古い信仰と民衆信仰混然となって不穏だ。雨も強くなって来た。風景が混じり合う。背後に山並み、全面に宇曽利山湖。どこまでが境内でどこからは異なるのか。杳として伺えない。区画の域も曖昧に一続きのあの世とこの世であるか。そして。どうやらカリプソに辿り着く。晴れていればどんな色を湛えるのか、しのつく雨越しに白砂の湖を見る。背景の色彩のためか、風車さえも軽やかに。そして何とまあ!恐山には参道両脇に温泉建屋が設置されている。本日は本堂に向かい左が女湯、右が男湯↑女湯は2棟。古滝の湯、向かいには冷抜の湯熱い。しかし水でぬるめるのは惜しい。我慢して3分ほど。冷やしてもう一度。湯上がりは身体が随分軽く感じる。ほわほわする。降り頻る雨水も軽やかなり。ご本尊のお地蔵さま妾、ここに至るまで何と多くの生命を滅ぼさんや。アリ、カなどの小さい虫は言うに及ばず食事に衛生に免疫に、細菌ウィルスの類まで数えれば億を優に超える生命をば。生命を保護し生かしてこその生き物の長、人間でありながらとふと感じた。一切合切お救いくださいお地蔵さま
2025.06.27
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20252025/06/26/木曜日/曇天の下北半島始発のバスに乗り、私鉄→JRと乗り換え東京駅発のやまびこ3号7:32発に乗る。ここまで1時間30分。長い。八戸駅まではやぶさでおよそ3時間。余り長く感じない。冊子トランヴェールの充実に驚き、一冊頂く。特集、民謡。レンタカーに向かう途中に後ろ髪惹かれるメニューが。しかし、本日の目的地は恐山。昼は休憩兼ねて道の駅よこはまで、と目論む。八戸最寄りの高速乗り口はスマートインター、だった。ツレがETCカード要らないと宣った前夜を思い出す。えー、入れないよ、どうするよ⁈どこからか「お客様、こちらはETC専用の入り口ですので、お持ちでないと通行できません。一つ先の八戸北インターにお回りください。」の天の声ガードが上がり、脇道から退出。あーあ。どこよ、北インター。カーナビには道の駅が入力済み。北インターを探せど、カーナビもGoogleも揃ってスマートインター入り口を案内するわけで。勝手分からぬ迷い羊は迷いに迷い、殆ど野性の勘で、Googleも渋々北インターを示す位置へ-_-b迷路脱出成功。その間、判断が悪い、うるさい、これで行くのか、駅に戻る、のすったもんだは、しかし道の駅でホタテ丼と菜の花ソフトクリームを頂く頃には、何のこと?みたいに綺麗さっぱり、忘れている。↓売店には恐山参りのお香、マッチ、草鞋、手拭いのセットも並ぶ。↓壁のポスターに、下北半島に来たんだと実感が。菜の花で有名な横浜町からむつ市へ。沿道に美しいバラを咲かせるおうちが多くある。やがてむつ湾と別れ、山のくねくね曲がりの細道を雨混じり、ひたすら上る。ふと開ける湖、その名も宇曽利山湖。ハートの形。目にした途端、締切った車窓も関わらず、猛烈な硫黄臭が車内を取り巻く。恐山内よりも、山から出た途端が強烈だった。匂いがガツンと来る体験は30数年前の富良野のラベンダー畑を思い出させる。匂いは違えど。小雨はやがて本降りに。
2025.06.26
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2025/06/23/火曜日/梅雨前線ではなく台風らしい今月半ば、子どもら夫婦2組と2度目の尾瀬へ。草紅葉の尾瀬が格別だったので、水芭蕉にぎりぎり間に合う予定で再訪問。水芭蕉は先週が素晴らしかった、とのことだった。前回は造成中の山小屋by星野リゾート、姿が現れ。前回は休憩所裏手のそこそこ険しい登りから見晴らし小屋へ出たのだが、今回は穏やかな道からのアプローチ。↑山の鼻ビジターセンターで昼食後の花豆ソフト水芭蕉だけでなく、高山植物がさまざまに見られる。カッコーのなく野山を愉快に歩く。梅雨中にお天気も上々↑山ツツジ?やガクアジサイ?リュウキンカ?私にはキンポウゲに見えてしまう。草の花ばかりでなく、木の花も賑わっていた。なんて可憐な桜でしょう。ミツガシワ、覚えた側から名前を忘れ。ワタスゲも、ところどころポワポワと。おー、ポッカ仏の五十嵐さん!前回に続きまたお会いしましたー。きっと運んで頂いた食材を本夕と朝食、お弁当でも頂けるはず。いつもありがとうございます♪え?こんな楽ちんだっけ?なルートで見晴らしの、尾瀬小屋到着。前回は、弥四郎小屋。お風呂が小さいと聞いていたので、先ずお風呂。湯船は3人入れば満員。それよりもお湯の出るカランブースが一人分のみ。これを4人でローテーションしながら使用する。ボディソープは設置、シャンプーの類は無いので必要なら持参する。お風呂は弥四郎小屋がまだ広いかな?お湯のカランが4つあったと記憶。しかし、こんな場所でお風呂を使える有り難さを皆が感じるのみ!カフェで湯上がり一杯を楽しむ。高原の、燧ヶ岳から渡る風を感じて木道をすれ違う人びと、殊に男性たちの笑顔が柔らかいことにゆるむ。お食事に力を入れている印象。平日だったおかげで予約が取れたみたい。夜には尾瀬沼ビジターセンターの方が尾瀬に関するレクチャーをして下さる、とのこと。尾瀬の自然に力を注いで来た長い歴史を知る。ところで、尾瀬の年間気温平均は札幌よりも低い!水芭蕉の実を食べたツキノワグマのフンのおかげで湿地以外の意外な場所に水芭蕉が咲いているのだとか。花芯のような所は実だった。お天気は曇り、満天の星は見えず。明日は雨になる模様。8時いきなり消灯となるが、玄関は24時間オープン
2025.06.24
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2025/06/21日/土曜日/夏至、やや風あり〈DATA〉出版社 中央公論社著者 柳宗玄中公文庫1994年6月25日 再販〈私的読書メーター〉〈カッパドキアならぬカッパドキヤ、である。トルコ東部の峡谷に遺跡調査隊が乗り込んだのは敗戦からわずか21年のこと。当時の日本人のレジリエンス振りに頭が下がります。というか、敗戦前から台湾森林調査、ダム建設を始めとする東アジアでのインフラ構築や独立支援の一面はきちんと検証してほしい。先人の土台あればこそ自前の機材が用意でき、当地での研究成果を上げる事が可能だった筈。先駆け仏人レポートの誤りを指摘さえできた。著者は名前から判然できるように柳宗悦の息子さん。飾らぬ正直さ直情、手仕事への関心と愛着。血は水より濃し。〉もうひと月ばかり前に読んだのに、日常の折々にふと、著者の60年前の、山藤章二似の近影画像とトルコ中央南部のカッパドキアの風景が目に浮かぶ。トルコ旅の前に読む予定が帰国半年も過ぎてようやく読めたのである。柳宗悦の息子さんたちはインダストリアルデザイナーの長男宗理さんと美術史家の次男宗玄さん、園芸家の三男宗民さんと、其々に父上の業績を継承されているのだなぁ。戦後の日本近代デザインの画期、宗理氏のバタフライスツールはニューヨーク、パリ、ロンドン、ミュンヘンの美術館博物館でも所蔵されている。デザイン学校で学んだ私には馴染みのフォルムだ。用と美の具現という点で父譲り。宗民さんの園芸家という生き方は、宗悦の民藝思想の根本が、野山に咲き乱れる多様な花々のハーモニーを根底点にする事と通底している。何より園芸家は思索家、哲学者、という点で父譲りところが宗悦の霊的な系統を強く覚えたのは、本書読後、著者の宗玄氏であるように感じた。氏の筆致からは、以下のような気質、性分がまるで宗悦に生写しのように思われたのだ。パイオニアであること。行動すること。水平に眺め、垂直な直感に従うこと。意地と矜持、頑固さ。手仕事への愛着、収集癖なとなと。そんな彼ならではのフィールドこそ、まだ手付かずに近い、迫害を逃れたキリスト教隠者の隠れ里、カッパドキアなのだった。元々は東大法科で学びながら法曹界、まして官吏になる道を選択せず美学に身を投じて、ルオー研究の第一人者となった。つまり、好きに生きた。その姿勢は、スキを窺い流れる水の奔流の如し。奔流に削られるのは、何も石灰質の奇岩ばかりではない。人間の姿、風貌、人生、膨大な時である。村人や役人、はしっこい悪童らとのやりとり、滑稽でありながらも始源に近い暮らしの人間の勁い生命力を前にして、弱き文明人が一歩も引かず対峙する姿や、天晴れ、である。◼️旅メモ弾圧されたキリスト教徒、シナイ砂漠に逃れた。エジプトの次にギョレメには10軒の修道院が並んでいた。隠遁生活、隠者が一軒の中、30から40人が瞑想した。撮影は禁止カッパドキアを全部見たいなら1週間あっても足りない、500軒以上今でも残っている。東ローマ帝国時代、隠遁生活者は税金を納めなくてよかった。それが一番の理由千年前ここはイスラム支配が始まる。壁のフレスコは祝福されたので薬の目的で削られたバルバラ教会、リンゴの教会、蛇の教会、二つの門カッパドキアとは綺麗な馬の国、イラン古語。イランの支配、税金を馬で収めた。ヒッタイトで南北を下上という。6000万年前火山活動始まった。硬い石、一万年で1センチ侵食された。妖精の煙突←トルコの人ウチサールという洞窟マンションは初め城塞だった。ムスタファさんのおじいさんは絨毯屋さん、トルコのパブロピカソヘレケの絨毯は元々王族のもの、共和国になって庶民が買えるようになった。トルコ絨毯はアート、日本の帯や着物と同じ200年前、クリシェルの街トルコの赤河、緑河、その間からヒッタイトが生まれた。パッシャバ将軍の葡萄畑、むかしは隠者の谷と呼ばれた地下都市地下一階は動物家畜、2500年前くらい前にはあった。東ローマ帝国時代に使われた。キリスト教徒トルコ人農民たちは戦争できないので避難所として使用された。1923年キリスト教トルコ人はギリシャにキズワリ赤い谷、レッドバレーウチサール、一番高い岩カッパドキアの古語名エルデキュレル、大地母神の国の意味。日本公園がどこにもある。イスタンブールには4件の日本公園がある。数秘術?チューリップの数字66、トルコ石も66ペルガモン、カッパドキア、アララット山、この三箇所でトルコ石がとられる。他人の悪意から守るとトルコ人は考えているので、お守りとして身につける。最も価値あるトルコ石は透明ギョレメの谷、ウチサールでは10世紀から戦争がなかった。洞窟マンションとして使われた。鳩の谷では、野生の鳩が巣を作り、そのフンを肥料にした。一年に一度だけ採集をしたのは野生の鳩が人間の匂いを嫌うため洞窟で暮らしていた人たちが道路沿いに家を建てはじめた。塩湖、アング珍しい鳥、パートナーが亡くなると横で死ぬまで見ている。
2025.06.21
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2025/06/18/水曜日/晴れ過ぎ先月末の台北、つづくそういえば、5月末なのに寒過ぎた台北6月半ばなのに暑すぎる日本。うーん。↑遅めのお昼を軽く食べた食堂 大橋頭米粽米粽と牡蠣のスープ。ツレは魚ボールたっくさん入った牡蠣は小粒で臭みなく、生姜たっぷりであっさりしている。自家製ラー油もウマし、お土産に。台湾で初めて牡蠣のスープを食べたかも。↑昨夜の夜市に出店していたお店の本店でお土産用に幾つかパイナップルケーキ買う。ただ今絶賛、台北の安くて美味しいお店を物色中やっぱりサニーヒルズが美味しいかなあこの辺りは淡水川に掛かる台北橋の台北市側。迪化街の北側。小吃したいお店が沢山ある。さて、探せどお目当てのカフェislandが見当たらない。↓あれ?これ何やら感じる!↓廃墟かと思ったら、どうやらこちらが!カフェ屋内にはぼんやり灯る明かり恐る恐るノックしたけれどお返事なし(;ω;)残念。この辺りには興味惹かれるカフェは他になし仕方なくマンゴーでも買ってホテルへ帰ろう。アップルマンゴーとドラゴンフルーツを買う。マンゴーの旬には早いけれど、台北ではもう並ぶ。あーし、あ、わ、せ(≧∇≦)ご飯要らない、と言いつつ。↓カラスミ炒飯、どこまでもごろごろカラスミ店内は地元の人の予約で一杯、いいかも!と入ったレストラン。儷池海味美食館。急遽路上にテーブルセッティング味は口に合います。支払いで気になったのが、明細なし、紙切れに2000元丁度の請求手書き、一万円なり。どこかのバーみたい。ちょっとぼられた?隣のテーブルのみなさんと盛り上がり、まあねえ。機嫌良く帰りま〜す。小腹が空けば、胡椒餅。福州世祖胡椒餅は大変美味しいけれど、↓黒老板胡椒餅もなかなか。生地はサクサク系
2025.06.18
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2025/06/09/月曜日/曇り、小雨迷走の末、辿り着いた大渓老街は、雨にけぶる中ひっそりとしていた。はるか下に川を眺めながら公園へ各博物館が休館のためか、観光客も殆どいない。午前中は商店街も全滅かと思ったが、お昼頃になるとポツポツと開く所も。日本統治時代の建物も綺麗に修理保存されている。この辺りは見晴らしの良い、緑陰もある公園残念なことに休館( ;∀;)↑平屋の二段構えの屋根の意匠。下屋部は出窓、地袋か。見てみたい!建物群の一つはスタバなので、入ることはできるけれど、スタバのコーヒーが余り好みではないのでスルーする。ところで観光案内所なども見当たらず、観光マップの入手もできなかったΣ(゚д゚lll)Googleに仕込んでいた情報がなぜか反映されず全て消失。どこに行くべきか?街は半分まどろんでいる。↑なんて素敵な路地だろう。誘われるなぁ思ったより寒くお手洗いが気になる。こんな時頼りになるのはお寺!幸い老街メインストリートに面して立派なお寺があった。見学方々訪ねる、乞う。感謝!お昼は唯一はっきり記憶していた(*⁰▿⁰*)渓友縁風味料理餐庁。尤も客家料理店としての記憶。ここもお休みだと、かなり味気ない滞在であったはず。私たちだけかと思いきや、地元の団体客らしき集団は階上にお部屋があるみたい。薄味、ローカロリー、地場野菜、山草を中心とした料理。筍はまあまあ。マヨネーズソースが無ければ良かった山草の一皿、仙草のスープは抜群に美味しい。豚脂身は脂は落ちているけれど、私は箸が進まない。ツレが喜んでパクつく。それからサービス?の仙草ゼリーとタピオカ!幾らでもお代わり可能!店内もお手洗いも清潔。サービスのために離れて立っているお店の方がハエ叩きを持ち注意を向けているのが和む。昔飼っていた猫ちゃんそっくりの仔がいてうるる不思議な帽子屋さんが何店舗か。ピーナッツときなこの餅飴の実演販売中これ、すーごく美味しかった。餅米?の自然な甘味がよく引き出されている。↓日持ちのする乾いた、同様のヌガーぽいのは甘過ぎた。この地域の名産らしい。作り立てより2日ほど経って噛みごたえとしっとり感が増すといよいよ旨し通りにはファサードに見合ったような、どこか懐かしいおもちゃ屋さんが幾つか。台北市内からも近い。もう一つの不思議な魅力の街
2025.06.09
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2025/06/07/土曜日/晴れのち曇り◼️台北の3日目、本日も雨降り先月末の台湾旅はずっと雨。雨で月曜日はお散歩に不向き。博物館、美術館が一斉に休館。東京では月、火曜休館が混在しているので、旅行者にはありがたい仕組も、台湾にはないのだった。それならば。予定変更で、街のストリートが博物館のような大渓老街ダーシーラオジエに出かける。↓永楽バスステーション710か710Aで、Aの方が停留所が少ないみたい。老街までおよそ50分の旅程。300円くらい。バスは安い!始発でもない限り、手を挙げて乗ることをアピールしないと素通りされる。合理的。実はこのバス停に来るまでが、一苦労だった。前夜にGoogleさんで調べると青MRTの終点、頂埔ディンプウ下車、すぐ裏手にバス停がある、とのガイド。しかし駅出ると全くウソのように何も無い(T-T)直前に思い立ち、眠りこけて調べたのがミソ!私たちが携えた古いガイドブックでは青MRTは永楽ヨンニン駅まで。頂埔駅まではまだ無い。どうやら新しく延長された駅らしい。老街へは大きな河を渡る。大漢渓しかし、未だに永楽駅に長距離バスステーションもタクシー乗り場も敷設されていて、ある意味終着駅の機能を果たしているのは終点手前の永楽駅だ。悔し紛れに永楽駅までバスに乗る。これがまぁ、道路混雑で中々進まず、MRTなら3分ほどの行程を10倍以上掛けて、迷い迷いの冒険の果てにバスに乗る。思ったより頻繁に発車の模様。ここは空港のある桃園市。清時代に漢人が入植して林業でひと財産築いた。清朝は満州族の王朝なので、漢民族は官吏として出世が期待できず、外地へ志を持ち飛び出した歴史的背景が思い浮かぶ。そして彼らは成功した。そんな羽ぶりの良い時代や日本統治の面影の残る街区を老街と呼ぶ。特に桃園市は客家の人が多く、客家料理店も沢山あると、客家の知人から聞いた。
2025.06.07
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2025/06/04/水曜日/たまに日差し強い故宮博物館で私なりの民藝品さがし◼️ガラス壺、ではなく…かと思いきや、これは水晶製!民藝というより美術工藝品。清朝。ならば乾隆帝コレクション?山中商会の蔵買いの時代、清朝の膨大な工藝品が世界を巡った。この水晶の花瓶にも背後には驚嘆すべき物語が横たわるのだろう。↓おお、これは!造形的には窯変天目茶碗である。素晴らしく美しい。気品がある。 やはり!の建窯ケンヨウ。これも、ずばりの美術品。無いのか民藝は…これ、いいなぁ、色もカタチも大きさも!民藝に近くない⁉︎なんて撮影したら…後日、これも博物館コレクションの名品なのだと知る。うーむ。無知なりに良いものにはハッと足が止まる、目が止まる。息も止まる。中国、宋時代の五大名窯の一つ汝窯ジョヨウ、なのだそう。ナルキッソスとあるからスイセンを生ける花器と思われる。これに白と黄色とグリーン!素晴らしい溶け合いだなぁーおお、これこれ。これはどうじゃ。民藝している。これもまた、名高い定窯の作陶。ホーローにしか見えないけれど-_-bいいなぁ、この色、この肌、この意匠なんと紀元前5〜3世紀の戦国時代の作品だったとは。文化の進み方が早いぞ大陸日本では弥生土器が青森の三内丸山遺跡から発掘されているが。時代が随分下り、唐の時代。これぞ民藝、ともいえるような作風の皿と壺。フタ以外は素朴な作柄。掛け釉?飛び鉋ではないけれど、半島の雰囲気も漂う。おっとりしていて微笑ましい。↓特別展↓刺繍画、緻密すぎる!絢絢しい。漢字の国の書印刷本の国の書膨大な量なので、直感で好きな字を見つけ、その書をゆっくり眺める若いカップルで賑わっていたのが紅楼夢の部屋。なぜ?ここでも刺繍。清朝の貴婦人の匂い袋?↓チャイニーズなインテリア
2025.06.04
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2025/05/31/土曜日/うすら寒い雨ふりそぼる4月半ばのお散歩日和の美しい日に、小田原に引越したメンバーの案内で歩く。お城→小田原城のお堀、桜は辛うじて残っていた。お堀を渡ると元小学校校庭広場を抜けて旧図書館の思い出を聞く→一つの地域が、優れた図書館館長の元、どんな風に発展していくのか。多くの市民の暮らしをどのように豊かにしていったか。故郷を誇らしく感じられるか。行政に関わる人にはぜひとも聞いてほしい話。隣接する報徳二宮神社→初宮参りのご家族もちらほら。知人もその娘さんもやはりここにお参りしたのだ。ご祭神は二宮金次郎翁!石碑に金次郎の格言、「経済のない道徳は戯言。道徳のない経済は犯罪」を仲間が後から指摘してくれた。私もまた、初めてこれを見て、江戸末期の貧しい農村青年が抱いた感懐の近代性に感じ入ったのだった。さて、ここから目指すのは我らならではの小田原文学記念館元は田中光顕別邸。建物は南国ヴィラ風コロニアル?全体的に質実剛健で士族出身らしさ滲む。唯一感心したのは屋根瓦と外構タイルの色目土佐勤王党の彼は寺田屋事件のとき、いち早く現場に駆けつけたとか。明治天皇すり替えについて晩年に発言したとか。その一件が半ば信用されるのは、知りうるポジションにあった、という事なんだろうと想像する。屋上テラスのペントハウス風小部屋には赤い鳥復刻版が設置してあり、閲覧できた。みな、夢中で見入ってしまう。このセンスの良さはどうしたことか。↓絵も作家も一流の揃う大正ロマン1.2階フロアでは小田原に関係のあった作家や地元文人の作品や原稿資料が見られる。戦前の小田原には多くの文人、文化人、実業家が揃った。関東大震災で壊滅的な被害を被り、そのムーブメントは下火になったか…北原白秋も被害にあったが、彼の足跡は大きい。↑田中光顕別邸和館は現在、北原白秋童話館として運営されている。表洋館はいかにも応対するため裏和館はいかにも家族の寛ぎのため↓展示されていた北原白秋"木兎の家"敗戦直前に亡くなった北原白秋は幸運だったかもしれない。戦後には表現者としての戦争責任を追求されたやも…藤田嗣治のように。およそ芸術に身を投じる人が何で好んで戦争、しかもアジア独立を謳いながらその実態は侵略の戦争、を進んで賛美するものかは。戦利品を得る事に狂喜乱舞した大衆、万歳を連呼した大衆は8.15を境に一億総被害者に態度を豹変して恥じない、その事を忘るべからず、である。そんな事をつらつら考えながら木兎の家、と名前を付けた白秋の小さな茅葺き小屋の模型をしみじみ眺めいる。本宅もこの小屋も今はない。その中で確かに楽しい団欒はあったのだろう。ここで、白秋は童謡の半分ほどを創作したというのだから。私たちはその後、外郎やさんに立ち寄りめいめい買い物をした。申し出れば、蔵の中の見学もできる事を知った。外郎売の歌舞伎との縁がずっと繋がっているなども興味深い。その後遅いお昼ご飯はだるま食堂へ。文人仲間の小田原訪問では何はともあれ、だるまへと言われた、知る人ぞ知る食堂である事を文学館で知って、案内者に是非にと頼んだのだった。まさに食堂、の風情と働くおばちゃんがきびきびと清潔(^^)自前の新鮮なネタ、小さめシャリ。早川の漁港にもお店があるらしい。
2025.05.31
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2025/05/27/火曜日/曇り、やや蒸し暑い雨、日曜日、25日 台北台湾はこれが8、もしくは9度目なのに、実は故宮博物館を訪ねたことがないのだった。雨だし、猫空をやめて博物館へ行くことに。日曜日で雨である。混雑が予想され、前夜の内に私のスマホ、カードを駆使して予約を入れる。しかし、カード会社のSMがなぜか受け取れない!混乱その1当日朝、ホテルフロントに相談するとコンビニで予約できる、とのこと。コンビニに走る。しかし、外国人向けの故宮博物館画面はない!とのこと。混乱その2結局、ホテルに戻りツレのスマホから予約QRコードをゲット。やれやれ。ホテルからはバス二つ乗り継ぎで行けるはず。ところがバス停が見当たらない!混乱その3道路工事中の人に尋ねると、MRTを勧めるのである。はあ。青ライン乗り換え、シーリンからバスなんとか辿り着いた場所は本当に気持ちが良い風、空気の流れ、鳥の鳴き声、小雨にけぶる緑と喜ぶ。アプローチの長さが大人である。御神体は後背の山、みたいな配置。きっと風水に叶う場所なのだろう。↑人だかりの例の白菜。わ、小さい。コオロギみたいな小さい虫も!周囲も散策したいねえ、などと余裕だ。さて、QRコード予約者の入口へ。あれ?スマホ保持者のツレしか入れない!混乱その4↑道祖神のような菩薩さますったもんだの挙句、一人分の購入であったことが判明する。ツレの作業を引き継いだところ、人数は1名にリセットされたらしい。↓超古代の二人◼️白石女神紀元前5500~4000年頃興隆窪文化後期から紅山文化初期まで故宮博物館のヴィーナス、と呼びたい。私にとっては特急品因みに縄文のヴィーナスはBC3000年が古い値画像/東京国博↓さすが質が良い。ミホミュージアムも良いものがあった結局、窓口で私の分を買う。予想された混雑はない!混乱その5これら混乱1〜5で、惜しげもなく時間を費やす。コレクションを眺める頃にはエネルギーの半分ほどは消費済み-_-b確かにゆっくり見たいなら2日ほど必要だし、事前の予習も欠かせない。事を学ぶ。撮影OKとはありがたい。
2025.05.27
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2025/05/26/月曜日/日がな雨来たと思えば、もう帰る台北。ホテル空港間の送迎バスが付いているだけの、お安い3ナイトツアー。↓ナリタエアポート↑成田のレートは円安う〜。ツレが欲するウィスキーの小瓶ならぬ小ペットボトル?は免税ショップの並ぶ、南ウィングから見れば最北スミの柱陰のコンビニでようやく。初めて利用したスクート機内サービス無し、お水を買っておく。機内寒い。毛布も買取式。持参していた新聞紙ブランケットが活躍-_-b↓寒いし編み物気分は上がる。機内に持ち込みせっせと編んだだよー♬旅程は24日土曜日のお昼頃、成田出発明日早朝便で成田復路台北のホテルには現地17:00を軽く過ぎて到着。時差1時間。3.5時間の飛行。↑桃園空港のバゲージクレーム内よりも外に出て目の前のエクスチェンジが一番レートがよい。証拠写真右上、あらら消えたところをパチリ。手元計算では4.75つまり5290円で1000元あげます、成田。4750円で1000元あげます、桃園。*手数料無視初めて台湾訪問した頃はレート2.5くらい?何もかも安いイメージだったのに、今では台湾の方が高いと感じるものもある。特に魚介類。台北を外せばもう少しリーズナブルかも、だけど。台湾の方から、火曜日に今台北はすごく暑い!と聞いていたのに、まさかの21℃が続く。薄目のレインコート持ってきて良かった。ホテルは緑線MRTの松江南京駅ソンジャンナンジン至近。これはとても便利だった。今回は❶猫空の1日訪問❷碧潭水岸辺りを散策❸客家レストランに行くそれに早いかもだけどマンゴーも食べたいなぁくらいが目的。ところが。寒い雨模様の毎日で、急遽予定変更に。とりあえず夕飯。初日夜は近場の寧夏夜市で過ごす。小吃ショーチー 2人で千円ほど( ;∀;)こういう台湾がいい!あーあ、それなのに。余りに巨大なデザート、豆花トーファア、いく。初日にしてお腹、苦し過ぎ腹八分目のできる人間になりたい…
2025.05.26
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2025/05/22/木曜日/どんより暑い松本の5月は工芸の幕開けその5月も小満になりぬ。4月末の市内の博物館でも手仕事展がいち早く開催されていた。フロア別に常設展と特別展江戸時代、足袋作りが評判をよんだという。元々緻密な手仕事、工夫のある土地柄なのだろう。大黒さまと恵比寿さま私には大名持命と少名彦命の二柱でございます〜道祖神があちこちに存在している事も喜ばしい。お城下らしいあめ市の賑わいには、商店の子どもたちが先頭に立ち商いをしたとか。開けている風土が感じられる。博物館の一番の見どころは、正確に再現された松本城下の模型パノラマだろうけれど町民の暮らしに基づく細部を見ていくとあっという間に時が過ぎる。下級武士は半農半侍であることが模型からも理解される。それに比して大店の暮らしぶり豊かなことよ。松本市内にはたくさんの温泉がある。そういえば、浅間温泉の日帰り湯で出会った女性はその温泉が上高地の泉質に近いと教えてくれた。白骨温泉も意外や松本市なのだった。泉質が特異なのも心惹かれる。温泉地と泉質の比較が一意につかめて良い。↓この観光案内マップを再現してくれないかしら意匠に目が止まる、足止まる。松本の七夕人形は、その時節に市内のあちこちで見受けられる。お人形文化がある。その姿は手足が長い。脛が長い。別フロアーの特別展では地元の作家作品が、過去の工芸と並列展開して展覧中ガラス作品の光の透過が美しい。作家の方↓カゴ好き!にはみすず細工の今昔みすず細工の最後の作り手が亡くなったのち、志ある方々が学び合い教えながら自分たちの手で取り戻したことは喜ばしい。時代の中、多くの手仕事は失われた。復元を願う人が集えれば、再び息を吹き返す。松本はそんな気持ちの苗床のような街なのだろう。復元といえば、沖縄、喜如嘉の芭蕉布は特別な技術が必要だが、みすず細工は農家の必要から生まれた生活道具で、誰でも始められる。意欲があれば。ずっと神棚と小さな厨子がほしいとおもっている。さて、それらにどこで出会えるか。彷徨うしかない。
2025.05.22
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2025/05/18/日曜日/蒸す。南九州既に梅雨入り土曜日は雨、と聞いて咄嗟に映画予約お目当てはガールウィズニードルデンマーク映画とは珍しい。↓これは昨年過ごしたデンマークの、宿舎ダイニングの壁のポスター、関係は何もないけれど。時代は第一次世界大戦ヨーロッパの人びとにとって最も忌むべき、 夥しい数の若者の犬死にの、虚しい記憶。 場所はコペンハーゲン かつては大きな領土をもつ、近代はヨーロッパの中でも貧しい、北欧寄りアンデルセンな小国の首都 そこそこに恵まれたアパートの家賃のツケが払えず急遽追い出されるハメに陥ったカロリーネ没落貴族風の寡婦親子が部屋を借りようと下見する。ぐずれば、品も教養もありげな母親から激しく打たれる幼な子。 裕福な親戚の援助でもなければ、女一人生きて行くことは困難な時代にまして子どもの権利なぞ、欧州人も未だ発見していないのだ。❶カロリーネは女一人で、なぜそんなアパート暮らしができたのか。ともかく、アパートを追い出された彼女はへこたれない。 縫製工場で働き口を見つけ、水道もない屋根裏の間借りの唯一の窓をこじ開けたとき、彼女は編み針と編みかけの毛糸を持ち出し屋根の上で編む。屋根の上のニッター。 束の間の開放感と自立。 彼女はおそらく手製のニットキャップとマフラーが繋がったような不思議な帽子を被り工場へ通う。❷きちんとしたツバ付き帽子の大勢の女性労働者たちとは明らかに異なり、際立つ個性。 それは何を意味するのか。 夫が戦死した寡婦のための手当ての手続きを経営者に願い出るなどを通して、惹かれ合う二人。それがまあ。いきなり街の路地の奥で立ったままで。思春期のホルモン犠牲者のような、手続きなし欲望を果たすのみ、な行為に唖然とする。避妊もへったくれもない。 これを恋というのか疑問は残るが、欲望のストレートさは肉食人種のそれ、と理解する。そうそう。イタリアの安宿の隣室の凄まじさに驚天動地したことを思い出す∑(゚Д゚) カロリーネ、やはりの妊娠。経営者に堂々結婚を求める。その態度は他の女性と同じ帽子を被るようになっても、見えない特別のシャポーを感じさせる。これぞ❷の解か。今のカロリーネは目には見えねど内在させた独自の個性が息づく。 そんな矢先、戦死したと思っていた夫が現れる。 顔の半分以上が破壊されて。なるほど❶の疑問氷解する。彼女は戦前はゆとりある暮らしの主婦だったのだろう。しかし身の処し方は粗野で、細いのに強靭さがある彼女は都会育ちではないのだろう。 それまで殆ど肉声の乏しかったカロリーネが、凄まじい大声で夫を拒絶する。自分は豪奢な館の女主人になれるのだ。徴兵を免れる、ドレスをプレゼントしてくれる夫を得たのだ。 という泡沫のゆめ。なのかどうか。 結婚を承諾する彼は、財産所有者である母親からの財産放棄を明言され、結婚を取りやめてしまう。当時にあっても資本力の前に男女の格差はない。 しかし身分制度は厳然とあった。 ここで描かれる世界観よ。人びとを不幸に閉じ込める檻よ。 雇用も解かれ、体よく捨てられた彼女は湯屋の湯船で一人、金属の編み針で堕胎を試みる。湯船から彼女を掬い上げた女性こそ、闇で子を間引いていた砂糖菓子屋!の女主人であった。砂糖、苦いかしょっぱいか。 もちろんその事実は徐々に分かるのであるが、これは当時の実話に基づくものという。ところでこんな湯屋が当時コペンハーゲンにあったのだなぁ。トルコ式風呂のようでもあるけれど、それに湯船が付随している。パリかどこかでそういうお風呂に入ったレポートを読んだ記憶がある。堀内誠一さんかな?男風呂は同性愛者の巣窟だったみたい-_-b 裸は人を本来の姿にし、根源的な欲求に委ねさせるように思うけれど、それさえも道に描く日本映画、なかなか。大きなお腹を抱えながら肉体労働で糊口を凌ぐカロリーネが、サーカスの見せ物として登場する夫のおぞましい顔に口付けする場面はキリスト者の勁さと愛を覚える。 それでもああ、路上で妊娠した娘を路上で産み落とし、翌日には養子縁組斡旋の、砂糖菓子マダムの店に向かい、結局は家を飛び出すのだ。夫が新生児のためのベッドを買ってくる姿を建物の陰から見やりながら。 砂糖菓子店で居候しながら、新生児を連れてくる女たち。その赤ん坊にしばらく乳を含ませる生業?を得てマダム親子とカロリーネの生活が始まる。彼女は乳を含ませる内に母性愛を発露させていく。自身の娘に対しては持てなかった愛情が花開くのである。 健やかな母子の関わりはなんと言っても母親を脅かすものが無い場所でこそ。心身に対して根源的に素直で開かれたカロリーネは、養子縁組と表層されていた事実を知り、錯乱の末、薬物の影響もあってか屋根から身を投げてしまう。まさにその時に、警察官の立入がありマダムは逮捕される。娘は孤児院に引き取られる。ぼろぼろのカロリーネは野外のサーカステントに辿り着く。薬を発する彼女に、夫は哀れみを持ちながら拒絶する。彼もかつては戦争PTSDでモルヒネ常用者だったのである。 マダムの裁判を傍聴するカロリーネはそこでマダムのおそらく血のつながらない娘への親子の情愛を発見する。その眼差しが尊いのだ。36人もの嬰児×シ。善男善女の罵詈雑言、糾弾。 もしも自分には全く罪がないと思うものは、この女に石を打ちなさい。 ああ。正義とか平和とか、そんな我らの肩に掛かっているのだ。そんな高等な理念に値するのか我ら。さて、それからしばらく時が経ち。聖家族が一つ地上に誕生する。この映画はハッピーエンド、希望が見出せる。
2025.05.18
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