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子供が物心がつきますとすぐ、 「私の責任=責任解除」
という教育が、殆ど無意識のうちに徹底的に行われます。日本人のうち、子供のときに(私の責任です)ゴメンナサイ(またはスミマセン)と言ってあやまりなさい。そうすれば(そのことの責任は追及せず、無条件で)ユルシテあげます」と言われなかった者は一人もおらず、いわばこの考え方は、「子供のとき尻から叩き込まれている」のです。
もし子供が、その行為に対して、むしろそれに相当する処罰を受けた方が良いと思って、「ゴメンナサイ」とも「スミマセン」とも言わなければ、この「ゴメンナサイ」とも「スミマセン」とも言わないことに対して、「強情な奴だ、ゴメンナサイといえ」といって、ゴメンナサイというまで処罰が続けられることはありますが、この処罰はあくまでも 「ゴメンナサイ」と言わないことに対してであって、そのもととなった行為に対して処罰が下されているのではない
のです。【引用元:本多勝一/殺す側の論理p103~】
確かに自分も無意識のうちに子供に対してそういう躾を施してますね(電ボも典型的日本人というわけです
)。山本七平は、最初にこのことを指摘したのが夏目漱石だと紹介し、次のように「坊ちゃん」の登場人物である狸校長や赤シャツ教頭を引用しながら説明を加えていきます。
狸校長も赤シャツ教頭も、ともに私が引用したように「慙愧の念に堪えん」「謝罪しなければならん」と、いわば「明治語」で「ゴメンナサイ、私の責任です」ということによって、当然のこととして、責任が解除されている、という態度を(少しの疑念もさしはさまずに)とっていることです。
漱石の卓見はこれを、 「私の責任・イコール・責任解除」
と把えたことでした(誤解なきよう「責任回避」ではありません)。~中略~
「私の責任=責任解除」は責任回避の意味ではないと書きましたが、~中略~
日本人の責任回避は、いわば「ほおかぶり」で、徹底的に応答を拒否するという形になりますが、~中略~
「ゴメンナサイ=私の責任です=責任解除」はもちろんこれとは別で、私はこれを 日本教=人間教における一種の「懺悔→告解」
と解しております。
いわば「相互懺悔⇔相互告解」ともいうべきもので、お互いに「私が悪かった」「いや私が悪かった」「ゴメンナサイ」「いや私の方こそゴメンナサイ」という形で、ちょうど「私は罪を犯しました‥‥」に始まるカトリック教徒の 懺悔を「人間相互」に行うという形
になり、それにより「和解」が成立する、といえると思います。それゆえ「私の責任=責任の解除」が成立するわけです。【引用元:殺す側の論理p141~】
そして、山本七平は、この論理を 「狸の論理」
と名づけてこのあと論理を展開していくわけです。
まあ、全て謝れば許されるわけじゃないとは思いますが、日本人には確かに一種の暗黙の了解として「いさぎよく謝れば許す」というメンタリティがありますね。話はそれますが、この間の亀田家の父親の謝罪が受け入れられず叩かれることになってしまったのも、このメンタリティによるものでしょう。
それはさておき、山本七平は、この「狸の論理」を通して何が言いたいのか?ということについては次回のエントリーで紹介していこうと思います。
「狸の論理」と戦争責任論【その2】 2007.11.15
やっぱり本多勝一は屑だった【その2】 2007.09.08
やっぱり本多勝一は屑だった【その1】 2007.09.08