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2005/10/14
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フリーページに書いてある戦国大名のプロフィルを

全ての人物は無理ですが大体の人物は調べられます。

見本として2~3人のプロフィルを紹介します。


浅井 長政(あざい ながまさ、天文14年(1545年)
- 天正元年9月1日(1573年9月26日))は戦国時代の戦国大名、
武将である。

家系としては、浅井氏は藤原姓を称するが、学説的には
実際は現地の土着豪族の出かといわれている。


兄弟に浅井政元。室は織田信秀の娘のお市。
嫡子万福丸は滅亡時にとらえられ処刑された。女子に豊臣秀吉の
側室となった茶々、京極高次の室となった常高院、徳川秀忠の
室となった於江与。

はじめ六角義賢の一字を貰い賢政と名乗り、六角氏の家臣平井定武の
娘を室とする。しかし六角氏への臣従に不満を持つ家臣らにより
父の久政が隠居させられ、家督を相続する。長政は六角氏から離反し、
1560年(永禄3)には野良田の戦いで六角氏を撃破し、足利義昭を奉じる
朝倉氏と同盟して独立した。

美濃国の斎藤氏を破り国境を接した尾張国の織田信長と同盟を結び、
1567年(永禄10)に信長の妹のお市を妻とする。信長の上洛の際には、


1570年(元亀元)、信長が琵琶湖西岸を通過して越前の朝倉方の
城を攻め始めると、長政は朝倉氏との同盟関係を重視して、
織田軍を攻撃したが、信長は苦戦しながらも近江を脱出した。

同年6月には長政は朝倉軍とともに姉川の戦いで織田・徳川連合軍と
戦うも破れる。その後は小谷城を中心に抗戦するが、信長軍は巧みな

ついに1573年(天正元)、本拠の小谷城(滋賀県湖北町)を攻められ
父や家臣とともに自害した。享年28。



朝倉 義景(あさくら よしかげ、天文2年9月24日(1533年10月12日)
- 天正元年8月20日(1573年9月16日))は戦国時代の越前の戦国大名である。

1533年9月24日、越前の戦国大名で朝倉氏の当主である
朝倉孝景の嫡男として生まれた。このとき、父の孝景は41歳で、
しかも唯一の実子であったため、長夜叉という幼名を名付けられた義景は、

父に甘やかされて育ったともいわれる。

1548年に父の孝景が死去し、家督を相続して5代目当主となる。
正室として初めに迎えた細川晴元の娘は、女子を一人産んで亡くなり、
後に前関白近衛前久の妹を正室として迎えた。

当初は延景と名乗ったが、1552年に室町幕府の第13代将軍・
足利義輝より「義」の字を与えられ、義景と改名することになり、
左衛門督に任官。家督を相続したものの、義景は一族の最長老である
朝倉宗滴に政治や軍事の一切を任せて、遊興に耽っていたという。
1559年、従四位下に叙せられる。

1565年、義輝が松永久秀らによって暗殺された。このとき、義輝の弟で
京から逃げ出した足利義昭(義秋)を越前一乗谷に迎えて保護したが、
幕府再興を目指す義昭が望む上洛は、
義景の行動力不足と優柔不断さで実現されず、しびれを切らした
義昭は、美濃を支配下において勢いに乗る織田信長を頼って
越前から去ったという。

1567年には家臣の堀江景忠の反乱を鎮圧する。
毛利元就らと通じあって信長包囲網を形成する。このとき、
義景も反信長勢力の一員として義昭に与する。

しかしそのため、1570年(元亀元)に織田信長と徳川家康の
連合軍からなる越前討伐軍に攻められることとなる。
追い詰められたが、浅井長政が織田軍の背後を突いてくれたため、
何とか窮地を脱している。

そしてこれより、朝倉氏は浅井氏と共同戦線を張って、
織田信長と抗争することになるのである。
同年に織田軍との間に起こった姉川の戦いには、
浅井長政に援軍は送ったが自身は出陣せず、一族の朝倉景鏡を
代理の総大将として派遣しているのである。

この頃、義景は小少将という美女を妻に迎えて、その美貌の虜に
なるとともに、酒宴に溺れていたのである。
1573年4月、信長にとって強敵であった武田信玄が病死し、
信長包囲網の一角が崩れた。

8月、信長は3万を号する大軍を率いて近江に攻め入る。
これに対して、朝倉義景も浅井長政の度重なる要請もあって、
ようやく自らが総大将として2万の軍勢を率い、浅井氏の援軍として
近江に出陣する。朝倉軍は刀禰坂の戦いで織田軍の猛追撃を受けて
壊滅し、義景は命からがら、越前一乗谷に落ち延びたのである。

一乗谷もやがて織田軍の追討を受け、義景はわずかな家来を連れて
越前大野郡の賢松寺に身を隠した。しかしそこで一族の朝倉景鏡の
裏切りにあった義景は、自害を余儀なくされたのである。享年41。
ここに朝倉氏は滅亡した。

法名:松雲院殿太球宗光大居士  墓所:福井県福井市一乗谷 
また福井県大野市泉町一乗寺(義景公園)



蘆名氏(あしなうじ)は桓武平氏系統の三浦氏から興った氏族である。
芦名氏、葦名氏と表記される事もある。初代当主は三浦義明の
七男・蘆名義連。

室町時代より蘆名氏は自らを「会津守護」と称していた。
そして戦国時代に英主・蘆名盛氏が現われ、蘆名氏は最盛期を迎えた。
これにより、奥州で伊達氏と並び称される大大名にまでのし上がった
のである。

しかし、蘆名氏は猪苗代氏をはじめとする豪族の統制に苦慮し、
さらに盛氏の晩年には後継者問題も発生した。そのため1580年、
盛氏の死とともに蘆名氏は次第に衰え始める。

盛氏の死後、後を継いだ蘆名盛隆は1584年に家臣に暗殺され、
その後を継いだ盛隆の幼児も1586年に夭逝。そして家臣団が
揉めに揉めた末、佐竹義重の子・蘆名義広を蘆名家当主に迎えたが、
盛氏の死から10年を経ずして3人もの当主が入れ替わったことは、
蘆名氏の衰微を象徴するものであった。

1589年、奥州統一を目指す伊達政宗に摺上原の戦いで大敗した
蘆名義広は常陸に逃走し、ここに蘆名氏は没落する。
実家の佐竹氏に戻った義広は名を「蘆名盛重」と改めて、
常陸江戸崎城次いで出羽角館城主となったものの、盛重の息子が
相次いで病死したために家系は断絶して蘆名氏は名実ともに滅亡した。






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最終更新日  2005/10/14 09:11:03 AM
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