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背番号22(その3)背番号22の第3回目です今回は昭和30年代半ばから40年代半ばまでのあいだに背番号「22」を着けた3選手を紹介するけど たぶん3人ともあまり知られていない選手だとおもう「22」を着けた期間もそれぞれ3年 2年 2年だから 当時リアルタイムで見てた人であってもほとんど印象がないんじゃないかな ただし谷本さんはスカウトとして有名なんだよ室山皓之助(こうのすけ) 外野手岡山県出身で高校は倉敷工業。1957(昭和32)年の選抜大会にセンターとして出場しベスト4。卒業後は法政大学に進む。東京6大学リーグでは4度の優勝を経験。1960(昭和35)年春季では首位打者になっている。また同年の大学選手権でも優勝している。1960年春から1961(昭和36)年春にかけて3季連続でベストナインにも選ばれた。リーグ戦には通算68試合に出場し、232打数69安打26打点2本塁打、打率.297の成績だった。 1962(昭和37)年にタイガースへ入団。実際は阪神電鉄に入社しタイガースへ出向という形をとっており、ドラフト制度以前のタイガースでは大卒の選手を獲得する場合はこのパターンでの入団が多く村山実なども同様だった。背番号は「22」で入団から3年間着け、その後の2年間は「28」に変えている。右投げ右打ちの好打者としてキャンプで認められ、開幕から1軍で起用されて52試合に出場していたが、8月15日の大洋ホエールズ戦で近藤昭仁のフライを追っている最中にアキレス腱切断というアクシデントに見舞われる。1年目は97打数17安打5打点2本塁打、打率.175の成績のところでリタイアを余儀なくされた。 それでも翌1963(昭和38)年には復帰して自己最高の81試合に出場しており、スタメン3番を担うこともあった。打撃成績も153打数32安打45打点3本塁打で、打率.209と向上している。 しかし、当時のタイガースの外野陣にはソロムコ、並木、藤井と好選手がそろっていたため、その牙城は固く、レギュラーの道は開けなかった。 そして1964(昭和39)年はわずか4試合の出場に終わっており、背番号を「28」に変えて臨んだ1965(昭和40)年には再びアキレス腱を切断してしまう。 1966(昭和41)年、またも復活はしたが19試合出場にとどまって現役をあきらめ引退している。通算では182試合303打数59安打17打点5本塁打67三振、打率.195の成績しか残せなかった。 1967(昭和42)年、引退後は電鉄社員に戻り、ホテル阪神に勤務したのち、1979(昭和54)年から今度はタイガースフロント入りし、日本一になった1985(昭和60)には吉田監督付き広報という立場だった。谷本 稔 捕手愛媛県八幡浜市出身で高校は八幡浜高校。高校1年時の1952(昭和27)年に父親を亡くして母子家庭となって経済的に厳しい時代を過ごす中でプロ野球入りを意識することになったと言う。 八幡浜高校の野球部監督だった徳田節次郎が、当時大映スターズの監督だった藤本定義の実兄である縁で、1955(昭和30)年に大映に入団している。 大映には1957(昭和32)年まで準レギュラー級の捕手として在籍したが、球団合併によって1958年からは大毎オリオンズの選手となる。 オリオンズでは7年間プレーし、そのうち4シーズンで100試合以上の出場実績があり、安定して2割7分程度の打率も残し、ほぼレギュラー級捕手として定着していた。大毎オリオンズ時代 右が谷本 左はエースの小野正一 しかし1964(昭和39)年は88試合の出場にとどまり、それまで8年連続で記録していた本塁打も0となって醍醐猛夫にポジションを奪われてしまう。 1965(昭和40)年、大映時代の監督だった藤本定義が監督を務めているタイガースへ牧勝彦とのトレードにより移籍し、室山から譲られた背番号「22」を着けた。 3年間プレーしているが、1967(昭和41)年からブルペンコーチ兼任になって背番号も「53」となり、同年に引退している。 プロ通算成績は1099試合2759打数708安打360打点46本塁打236三振、打率.257。 引退後も1974(昭和49)年まで2軍バッテリーコーチとして残り、1979(昭和54)年から1981(昭和56)年まで1軍バッテリーコーチ、1982(昭和57)年は2軍監督を務めた。 その後はフロント入りしてスカウトとして敏腕をふるい、嶋田兄弟や藤川球児を入団させている。特に藤川は線が細くまだ球速も出なかったため「1位でとるほどの投手じゃない」という声があったが谷本の強い推しで1位指名となっている。想像だが、のちに藤川が「22」を着けたのは谷本の着けていた番号だったからかもしれない。(藤川は2005年から7年間、2009年のWBC、メジャーから戻った2017年から4年間と3度の機会で「22」を着けている)西村公一 内野手・外野手 (再掲) すでに背番号8-3で紹介しているが、最初に着けた番号が「22」であるため少し詳しく再掲する山梨県大月市の出身。高校は地元の甲府工業で1966(昭和41)年の夏の選手権で甲子園を経験し、ベスト8になっている。 1955(昭和30)年にタイガースへ入団していきなり22勝で新人王に輝いた西村一孔(背番号「20」で紹介済)は実兄である。1966年の二次ドラフト1位でタイガースに入団し2年間「22」を着けるが田淵幸一に譲り、その後「8」→「43」と変えている。兄の一孔は1960(昭和35)年に引退しており同時に在籍していた期間はない。 ルーキーだった1967(昭和42)年は10試合で10打席に立ったがノーヒットで4三振に終わっている。 翌1968(昭和43)年が16試合、1969(昭和44)年が23試合、1970(昭和45)年も12試合と出場機会は増えない。 1971(昭和46)年にようやく52試合に出場、打数も101と三桁になったが打率は,168。入団以来、公式戦の打率が2割に届いたことがない。 1972(昭和47)はファームでは本塁打王になったが1軍のゲームに5試合しか出場できず、翌1973(昭和48)年は公式戦出場が0となって自身の限界を感じ引退した。 同僚の江夏豊によると、「試合に出たくて骨折していても隠してプレーしていた」というほど根性のある選手だったようで、内外野どこでも守ったのも試合に出たいがためだった。しかし選手としてプロのレベルにはついていけなかったようだ。 通算118試合170打数26安打7打点2本塁打61三振、打率.153という数字が残る。引退後はプロゴルファーに転身した。まとめ今回はの3人は背番号「22」を着けた期間が短い人ばかりだったね 選手としての知名度はというと 谷本さんはパリーグでかなり活躍してるようだけど 他の2人はちょっとわかんないだろうねタイガースでの谷本さんはスカウト時代が一番有名みたい とくに藤川球児投手を1位指名した功績が大きいわよね 室山さんは2度もアキレス腱切ってしまってはさすがに断念だったよね 2度とも復帰はしてるから努力家だったんだろうねさて次回はいよいよ3代目ミスターと言われる田淵幸一さんの登場だよ!この人はエピソード盛沢山すぎて単独掲載になるよ背番号22の4へ続く
2024年05月28日
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背番号22(その2)背番号22の第2回目です今回は昭和20年代半ばから30年代半ばまでのあいだに背番号「22」を着けた3選手を紹介するよ すでに3人ともお亡くなりになってます3人の中にはタイガース史で絶対外せない大物2人がふくまれてます 一人目はダイナマイト打線の一員として活躍し監督も2回就任したことがある後藤次男さん後藤さんは背番号「8」や「12」で掲載済みで3度目の登場になるわね でも皆さんによく知ってもらいたいのでコピペでわるいけど再々掲載しました 読んでね次の田宮謙次郎さんも背番号「6」で紹介済み でもこの人も大物だからコピペで再掲載します もう一度「28」でも登場するんだけどね3人目は初登場の人ね この人はよほどのタイガース研究家でないとわかんないとおもう 2代目もまったく知らなかったよ後藤次男 外野手(再々掲)山口が退団したあと背番号8は後藤次男が引き継いでいる。ダイナマイト打線の一翼を担い、のちにタイガースの監督も務めた愛称「くまさん」だ。熊本工業時代に3度の甲子園を経験、選抜ベスト4の実績がある。卒業後は法政大学に進学し4番打者として活躍した。大学の先輩である若林忠志監督の誘いで昭和23(1948)年に大阪タイガースに入団。ルーキーの年と翌年の2年間は背番号「8」。1950(昭和25)年から2年間が背番号「22」。その後1952(昭和27)年から引退する1957(昭和32)年までは「12」を着けた。ルーキーイヤーの1948年、後藤はセカンドで全140試合に出場している。511打数129安打36打点5本塁打で打率.252というまずまずの成績を残しているし、俊足を生かした27盗塁も光った。後藤は好きOBとしてチームにかかわり続けた2年目の1949(昭和24)年から3年間は、10本、15本、13本と二けた本塁打を記録、入団時から5年連続100安打、2年目から4年連続3割以上も記録しており、ダイナマイト打線の一員として活躍しているが、記録を見る限り強打者というより巧打者の印象だ。また、2リーグに分裂した1950(昭和25)年には多くの選手がパリーグに移る中、タイガースに残った。しかし、1953(昭和28)年、まだ29歳だったが、鎖骨を折る大けがを負い、完治しないまま試合に出たため何度も折れて手術を受ける。この無理が祟って、翌1954(昭和29)年は試合に出ることができなかった。ケガの影響は深刻で、1955(昭和30)年以降も影響を残しており ケガをする前のようなプレーができなくなる。出場試合数も毎年100試合未満になってしまった。通算成績は949試合3260打数923安打355打点51本塁打113盗塁160三振で、打率.283は立派だ。 ダイナマイト打線 左から2人目が後藤1957(昭和32)年に限界を感じて現役引退。翌年からは一軍打撃コーチ~二軍監督~一軍ヘッドコーチを経て1969(昭和44)年に一軍監督に就任している。一軍打撃コーチ時代は藤本勝巳、遠井吾郎、藤田平などを指導し成長させた功績がある。 1968昭和43)年をもって7年間監督を務めていた藤本定義が退任し、次期監督が決まらないままタイガースは秋季キャプに入る。11月19日、当人不在のまま阪神電鉄本社で記者会見が開かれ、ヘッドコーチ後藤の監督昇格が発表された。簡単に後任監督の調整ができない状況で時間は経過していくばかり。やむを得ず後藤に白羽の矢が立ってしまったというのが実情らしい。 1969(昭和44)年のシーズンは、江夏豊が成長期にあり、後藤の母校法政大から田淵幸一が入団、前年好結果を残したウィリー・カークランドを4番に据えて5月までは首位を走った。しかし6月に入って打線が湿りだし巨人に抜かれると、ジリジリと差を広げられていき、6.5ゲーム差の2位に終わっている。 後藤は「自分はあくまで繋ぎの監督」と認識していた。翌1970(昭和45)年には村山実が現役監督に就任することで1年で交代している。 1978(昭和53)年には、史上最低勝率を記録した吉田監督が退任。選手と首脳陣もギクシャクした状態で監督の引き受け手がない中で2度目の監督として引っ張り出された。 就任の会見ではチームのキャッチフレーズを聞かれ「みんな仲良くボチボチと」、目指す野球はの問いには「お祭り野球」と答え、これにはさすがのタイガースファンも拍子抜けとなった。 安芸キャンプで新旧主砲に囲まれて シーズンに入ると選手にやる気は見られず、後藤監督も注文をつけないというダラダラ野球が展開されるなか、ブリーデン、ラインバック、掛布など主力の故障も相次ぎ最下位を独走することになる。 前年、吉田監督は4位で勝率.466だったが、これがタイガースの史上最低勝率だったことで退任している。しかし、後藤監督はこれを1年で大きく更新し、41勝80敗9分の.339という悲惨な勝率で終わり1年で退任させられており、まさに「貧乏くじ」だった。 ちなみに後藤は、引退翌年の1958(昭和33)年のコーチ就任の年は現役最後の「12」のまま、1959(昭和34)年は「60」、1966(昭和41)年から第1期監督も含め4年間が「55」、第2期監督時代は「71」を着けた。 入団からタイガース一筋。いつも後輩の選手を見つめる視線は暖かかった。過渡期には汚れ役と分かっていてもタイガースへの思いから監督を引き受けるなど「タイガース愛」にあふれた人で誰からも愛されていた。その功績は大きくタイガース史に刻まれている。2016(平成28)年、92歳で逝去されている。田宮謙次郎 投手・外野手(再掲) 田宮は茨城県下館高校から日大を経て1949(昭和24)年に大阪タイガースへ入団している。中学時代は柔道に熱心で足腰が鍛えられており、高校に入ると真剣に野球に取り組むようになって投手として目を引く存在になる。日大に入ると左投げ左打ちで投手と外野手を兼任し、打っては首位打者を獲得、投げてはノーヒットノーランも達成した万能選手だった。本当に戦前から戦後のこの時期は二刀流が多い。田宮の能力を高く評価したタイガースは、大学を中退してのプロ入りを熱心に勧めた結果、田宮も決断し獲得に成功している。 タイガースでの1年目の背番号は「28」。翌年の1950(昭和25)年から2年間が「6」、1952(昭和27)年から1958(昭和33)年には「22」を着けている。 1年目の田宮は投手として34試合に登板しており、11勝7敗159回2/3を投げて防御率4.56という成績だった。ほかに野手として6試合に出ており、登板した試合を含め打撃成績は66打数12安打6打点1本塁打、打率.182である。 その後プロ入り4年目までは投手を続けたが肩を痛めていたため、1950(昭和25)年が1勝2敗、1951(昭和26)年は0勝1敗、1952(昭和27)年も0勝2敗に終わって投手を断念し、松木監督の奨めでシーズン途中から外野手に転向することになった。この1952年の打撃成績は94試合190打数47安打34打点7本塁打で打率.247だったが、野手としてやっていける足掛かりになった。 写真は左から大津淳、吉田義男、田宮謙次郎 1954(昭和29)年、125試合に出場して初めて3割を打ち、実力が開花する。この年を含めて1958(昭和33)年までの5年間はセンターのレギュラーとして活躍、そのうち4シーズンで3割を越えている。タイガースでの最後の年となる1958年には打率.320で、タイガースでは戦後初の首位打者に輝いた。 ホームランはシーズン最高でも12本という中距離打者だったが、確実にミートする技術があり、二塁打や三塁打が多い。首位打者になった年は勝負を嫌がられ、リーグ最多の20回も敬遠で歩かされている。また当時のタイガースでは吉田義男に次ぐ俊足で、1953(昭和28)年を皮切りに8シーズン連続二けた盗塁を記録しており、その中でも1957(昭和32)年には自己最多の37盗塁を決めている。全くタイプは違っていたが藤村引退のあと4年間4番打者を担った。藤村という長距離打者の代わりがいなかったためであり、本来なら1番や3番に適していた打者だろう。左から小山正明、田宮謙次郎、江藤慎一昭和33年オフ、A級10年選手制度の「ボーナス受給権」を行使しようとしたが金額的に球団と折り合わず決裂すると、やむなく「自由移籍権」を行使して大毎オリオンズへ移籍する道を選んだ。オリオンズでは5年間プレーしたが すべて130試合前後に出場しており、そのうち3シーズンで打率3割を記録。好打者ぶりは健在だった。現役最後となった1963(昭和38)年も132試合に出場して103安打で打率.278の成績を残したが、本堂監督の起用法によってスタメン出場が減り規定打席に届かなかったことを不満としてきっぱり現役引退している。 通算成績は1488試合4807打数1427安打597打点106本塁打190盗塁416四球467三振、打率.297であり、特にレギュラーになった1954年から引退までの10シーズンのうち7シーズンで3割をマークしている。走攻守そろった一流の選手だった。引退後、1988(昭和63)年には第2期村山実監督の1年目にヘッドコーチに就任してタイガースに復帰したが、シーズン中に村山監督と意見が合わなくなり6月に退任し、そのままフロント入りした。OB会長を18年間つとめ、監督や指導者に厳しい意見を言いながら、選手たちを応援していた。2002(平成14)年には野球殿堂入りしている。2010(平成22)年5月5日、82歳で逝去。古川啓三 捕手岡山県倉敷市出身。倉敷老松高校に進むが全国大会出場の経験はない。卒業後は法政大学へ進学する。目立った成績はないが、東京6大学リーグのベストナインに一度選ばれたことがある。その後社会人の川崎コロムビアに進み、1957(昭和32)年~1958(昭和33)年の2年連続で都市対抗本線に出場して捕手としての評価が高まった。1959(昭和34)年にタイガースへ入団し、オリオンズへ移籍した田宮が着けていた背番号「22」を継承。 即戦力捕手として期待された1年目は14試合14打数4安打、打率.286と冴えず、2年目の1960(昭和35)年は出場わずか4試合になって一軍戦力とは程遠い存在になる。 3年目の1961(昭和36)年も10試合14打数4安打に終わって現役を続けることができないと引退する。 1962(昭和37)年は肩書こそ「1軍ピッチングコーチ」だったが、ひたすらピッチャーのボールを受け、その調子を監督に報告するブルペン捕手の役目を担う。 1963(昭和38)年から1966(昭和41)年までは2軍のバッテリーコーチの肩書で事実上ブルペン捕手を務めていたが、これにも体力の限界を感じて辞職している。 1984年10月6日、54歳の若さで亡くなった。まとめ後藤さんや田宮さんはオールドファン(80歳以上かな)には忘れられない選手なのよ 実際にタイガース史を語るときには必ず登場する人物ね逆に古川さんは歴史に埋もれた選手という感じかなあ おなじプロの飯を食ったと言っても 大スターもいれば1度も公式戦に出ないうちに引退する人もあるわけよ古川さんは明らかにプロとしては力不足だったようね でも試合に出たことがあるだけでもましなのかもしれないよ 写真は見つからなかったなあ背番号22の3へ続く
2024年05月21日
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背番号22(その1)みなさんこんにちは 背番号史忘れてないよね? 前回が5月6日だったからちょうど1週間たっちゃいました 試合がある日以外でも書きたいことが飛び入りであったりしてなかなか進まないけど 週1回のペースは守っていきたいなとおもってます 忘れずに見に来てね 背番号22の第1回目です 「22」は球団創設の1936(昭和11)年は誰も着けてないのね 設立2年目から塚本博睦さんという方が着けたのが始まり第1回目は塚本さんから始まって2リーグ分裂直前の1949(昭和24)年までにこの番号を着けた4名の選手を紹介するね塚本博睦(ひろよし)外野手(再掲)すでに背番号「21」で登場しているがあらためて掲載する。広島県呉市出身。地元呉港中学時代はのちに職業野球に進む藤村冨美男(大阪)、や原一朗(大阪)、田川豊(南海・太陽・近鉄・大映)などとチームメイトで甲子園でも活躍した。1934(昭和9)年の夏には全国制覇、1935(昭和10)年夏も出場しベスト8になっている。 1936(昭和11)年、立教大学へ進学したが、先にタイガース入りしていた藤村から誘われ、年末に大学を中退して大阪タイガースに入団し、タイガースで初めて背番号「22」を着ける。 公式戦には1937(昭和12)年から出場しているが、同年春が12試合、秋は6試合、翌1938(昭和13)年も春に11試合、秋にも15試合で、主に代打や守備固めにとどまっている。 しかも20歳になったばかりの1938年末に陸軍に召集されて3年間中国北部で軍務についており大きなブランクとなった。 軍務を終え除隊となって復帰した1942(昭和17)年はレギュラー外野手として94試合に出場、309打数66安打20打点1本塁打で打率.214を記録、盗塁も20個決めている。 1943(昭和18)年は81試合、1944(昭和19)年に31試合に出たところで、戦争激化のため職業野球が中断となる。なお、1944年から背番号を「21」に変えて退団するまで着けた。 戦争が終わり1946(昭和21)年のシーズンから元の背番号「22」で復帰。1947(昭和22)年には106試合347打数104安打34打点17盗塁でリーグ第4位の打率.300を記録、中心選手として活躍する。 しかし、年俸など金銭面での待遇に不満を持っていたため、1947年暮れに退団してしまい、阪急ブレーブスへ移籍し、以後は毎年のように球団を渡り歩くことになる。 1948(昭和23)阪急で135試合に出場、139安打を放ち39盗塁を記録するが1年で退団。 1949(昭和24)年は東急フライヤーズで113試合に出場。122安打で盗塁も24個を記録するが1年で退団。 1950(昭和25)年、2リーグ制になると西日本パイレーツ、1951(昭和26)年には西鉄ライオンズ、1952(昭和27)年に広島カープに移ってプレーし、同年に引退している。なんともあわただしい選手生活だった。 引退後は社会人チームの監督を経て、1960(昭和35)年にタイガースに戻って2年間2軍監督兼打撃コーチを務めている。 通算成績は実働12年885試合2824打数712安打219打点17本塁打170盗塁229三振で打率252。典型的な俊足の中距離ヒッターで2番を打つことが多かった。森下 博 投手愛知県出身で東邦商業(現東邦高校)時代の1940(昭和15)年に選抜大会に出場しベスト8の経験がある。森下に関しての情報は極端に少なく、戦争中にどうしていたかもよくわからない。戦争が終わって職業野球が再開されたが、戦地から復員していない選手が多く、各チームが選手不足で困っていた1946(昭和21)年の6月、貴重なサウスポーとしてタイガースへ入団し、背番号「22」を着けている。この年、公式戦に3試合登板し投球回数6回、被安打6、与四球7、奪三振0、自責点7、防御率10.50というのが残っている数字のすべてだ。1年で退団しており、その後社会人の今泉産業や富久山日東紡でプレーしていたという情報は確認できるが詳細はわからない。当然ながら写真等の資料も一切見つからない。長原 孝浩 投手 広島県出身で呉港中学。1947(昭和22)年に読売ジャイアンツへ入団しているが、登板は1試合のみ。2/3を投げただけで打者5人に対し3四球、暴投1の記録が残る。なぜか失点・自責点とも0。1年で自由契約。 翌1948年はタイガースに入団、森下の退団のあと1年間空き番だった「22」を着けた。 タイガースでは2試合に登板、2回2/3で打者16人に対し被安打2、6四球、奪三振3、暴投1、失点・自責点4、防御率9.00という数字のみが残っている。 その後はタイガースでバッティング投手を務めたらしいが、詳細な情報は皆無である。江藤 正(晴康) 投手 福岡県八幡中学(現八幡高校)の出身で法政大学に進む。右投げ本格派の投手で活躍しているが学徒出陣で軍に召集され、台湾で終戦。 終戦後は社会人野球の門司鉄道管理局や大洋漁業で投げていたが、1949(昭和24)年に大阪タイガースと南海ホークスとの間で獲得合戦が起こり、4月2日、タイガースはすでに南海ホークスと仮契約を済ませていた江藤と強引に契約書を交わし二重契約問題が勃発してしまう。これを知った南海は江藤の身柄を確保し潜伏させる対抗措置をとる。 タイガースは「1949年だけはタイガース所属でプレーし、翌年ホークスに譲る」という妥協案を提示したがホークスは拒否して連盟に提訴した。 結局連盟の裁定は、「一度タイガースへ形式的に入団した形をとり、即時ホークスへトレード」というものだったが、この二重契約の当事者である江藤には1年間の出場停止のペナルティがつき、1949年はまったく試合に出られないという厳しいものとなった。 ということで江藤は背番号「22」の選手として一瞬だけタイガースに在籍したことになる。まったく試合にも出ていないがタイガースの在籍名簿に残ることになった。 江藤は1950(昭和25)年から南海で4年、1954(昭和29)年には高橋ユニオンズに移って1年、1955(昭和30)年は東映フライヤーズに1年在籍したのち引退しているから短命な選手だった。しかし、南海在籍中の1951(昭和26)年には45試合25勝5敗、268回2/3を投げて奪三振100、自責点68、防御率2,28という成績を残し、最多勝のタイトルを取っている。まとめ初期のころはいろいろあったんだね塚本さんは戦争に3年も行ってるけど戦前戦後それぞれである程度の数字も残せたのはまだ恵まれていたのかもしれないね めまぐるしく移籍を繰り返してるのは本人の意思だったのかしら?森下さんなんて記録に数字が残ってなかったら誰も覚えていないかもしれないよ長原さんはプロ野球現役2年で3試合の実績しかないのに 巨人と阪神に在籍した記録を持ってるなんて他に聞いたことのない珍事じゃない?それぞれの球団で公式戦出てるし江藤さんは2リーグ分裂前後のどろどろとした大人の争いに巻き込まれちゃった感じよね それにリーグの裁定は江川さんのときとなんとなく似てるね ペナルティは江藤さんのほうが重いなあ 江藤さんのケースはタイガースが強引すぎるとおもう 2リーグ制になって球団が増えたから人材不足なのはわかるけど 昔は汚いことやってたんだ背番号22の2へ続く
2024年05月13日
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背番号21(その7)背番号21の第7回目です 5月6日の広島戦が雨天中止になったの久しぶりに背番号史を挿入しますね 「21番」も残すところ3人となって今回が最終回 登場する3人はみんな投手よ それぞれ活躍したピークの時期があって それなりに貢献した選手たちです前回のクリーク投手以来5人続けて投手がつけてるから 最近では背番号「21」は投手の番号として認識されるようになってるねでは最後の3人を見ていきましょう 今回はちょっと長くなるよ お付き合いのほど!吉野 誠 投手埼玉県さいたま市出身のサウスポー。大宮東高時代は県内有力とみなされながら甲子園出場はできなかった。卒業後日本大学へ進学すると2年にはエースとなり、東都大学野球1部昇格の原動力になる。1部リーグに上がってからは38試合14勝15敗192奪三振で防御率2.24を記録している。1999(平成11)年のドラフト会議ではタイガースの2位指名を受けて入団、背番号「21」の継承者となる。 ルーキーイヤーの2000(平成12)年は、当時の野村監督がほぼ中継ぎ専門で34試合に起用しており、0勝4敗、防御率3.99の成績だった。ところが翌2001(平成13)年は15試合に終わって投球回数も半減、防御率も4.12と成績を落としている。 2002(平成14)年、星野仙一が監督に就任し、佐藤義則がピッチングコーチとなって転機が訪れる。高校時代からオーバーハンドで通してきたが、これという特徴もなく、このままではプロとして厳しいと判断され、サイドスローへ転向したのが吉と出る。 この年は35試合すべてリリーフに起用されて27回を投げ奪三振33、防御率は1.33と飛躍的に成績が伸びた。投球回数が登板試合数を下回っていることが示す通り、左打者へのワンポイント起用でも結果を出している。奪三振も初めて投球回数を上回った。 続く2003(平成15)年はリーグ優勝した年で、吉野はすべてリリーフでチーム最多となる56試合に登板し貢献している。日本シリーズは惜しくも3勝4敗でダイエー・ホークスに敗れたが、吉野らしい使われ方をされ、しっかり期待に応えた。全7戦のうち6試合に登板し次の成績を残している。第2戦 1回 12球 打者4人 被安打0 1四球 1奪三振 失点0第3戦 3回 36球 打者9人 被安打1 3奪三振 失点0第4戦 1/3回 3球 打者1人 被安打0 失点0第5戦 1/3回 6球 打者2人 被安打1 1奪三振 失点0第6戦 1回1/3 16球 打者5人 被安打1 失点0第7戦 1回1/3 16球 打者5人 被安打1 失点0 ロングリリーフあり、ワンポイントあり、イニング跨ぎありと、あらゆるリリーフ形態で使われ6試合で無失点、第3戦では勝利投手になっている。しかし大車輪の活躍は疲労を残し、次のシーズンにも影響していく。 2004(平成16)年は岡田彰布が監督に就任、4月7日の横浜ベイスターズ2回戦で悲劇が起こった。試合のスコアは次の通り。阪神 000 000 000 0 横浜 011 232 08X 17 この試合の8回に登板したのが吉野で、スコアは0-9とうこともあり敗戦処理の意味もあるが、この回がおそらく横浜最後の攻撃となることから調整登板だったと考えられる。 ところが吉野が打たれだして止まらない。1イニング打者14人に対し被安打9で8失点、1イニングに投じた64球は今もプロ野球記録だ。監督は大敗濃厚の試合の8回を吉野でさっさと終わらせるつもりでマウンドに送ったが、ポカスカ打たれ続けて代え時を失い、結果的に「晒しもの」にしてしまった。この試合は吉野にとって相当なトラウマになったかもしれないし、岡田監督への不信感が生まれたかもしれない。この年は23試合の登板に終わり、防御率は16.76と桁違いの不振に終わった。 以後、2005(平成17)年が12試合、2006(平成18)年は背番号「21」をルーキーの岩田稔に譲って「47」に変わり8試合、2007(平成19)年は7試合と低迷を続け、浜中おさむとともにオリックスへ放出されてしまった。オリックスでは1年目の2008(平成20)年に43試合の登板したもののその後2年間は低迷。ところが2010(平成22)年に就任した岡田監督のもと、2011(平成23)年に復活を遂げ、50試合に登板し防御率1.19というプロ入り以来最高の投球を見せた。その翌年も40試合に投げて貢献したが、2013(平成25)年は開幕戦のリリーフに失敗して2軍暮らしとなり、シーズン途中の7月にソフトバンクホークスへトレードされる。ホークスでも登板機会はなくシーズン終了後戦力外となって引退した。通算成績は340試合4勝11敗1セーブ26ホールド 250回2/3を投げて奪三振197、自責点109、防御率3.97である。岩田 稔 投手岩田は大阪府守口市の出身で大阪桐蔭高校へ進んでいる。高校2年生の冬に1型糖尿病を発症、病気を理由に社会人野球部への内定を取り消されるという仕打ちを受け関西大学へ進学する。病気と闘いながら野球を続け、大学通算23試合6勝10敗143奪三振、防御率2.11の成績を残した。迎えた2005(平成17)年のドラフト会議では当時タイガースのスカウトを務めていた山口高志の強い推しで「希望入団枠」によりタイガースへの入団が実現したものの、1年目の2006(平成18)年が1試合0勝1敗、2年目の2007(平成19)年が4試合0勝1敗と壁に当たる。 2008(平成20)年、岡田監督が先発ローテーションに組み込んで辛抱強く起用すると、27試合10勝10敗、防御率3.28と覚醒する。しかしながら病気を持ちながらの選手生活は厳しいものがあり、以後二けた勝つことはできなかった。それでも2009(平成21)年から引退する2021(令和3)年までの13年間で168試合に登板しているが、そのうち162試合に先発しており、貴重なサウスポーとして選手生活を全うしたと言えるだろう。ほとんどが先発起用だったことには、1型糖尿病の影響で疲労回復に時間がかかり、毎日投げなければならないリリーフを務めることは難しかったこともあったと思われる。通算でも負け越しており、中6日でも厳しかったのかもしれない。 150キロ前後のストレートが微妙に揺れる「ムービングボール」を武器に、スライダー、フォーク、チェンジアップなどの変化球も多彩で、三振もとれる投手だった。岡田監督は岩田の能力を高く評価しているし、病気がなければ100勝はしていたのではないかと思うと残念だ。岩田は同じ1型糖尿病と闘う人たちへの支援活動も行うなど社会貢献が評価され、2013年には球団から「若林忠志賞」を送られている。1型糖尿病患者の人たちへの支援活動は現在も続けられている。 通算成績は200試合(先発193)60勝82敗、1178回2/3を投げて854奪三振、自責点443、防御率3.38という立派なものだ。現役16年間を背番号「21」で通し、タイガースでこの背番号を背負った最長の選手でもある。秋山 拓巳 投手香川県丸亀市出身だが父親の仕事の関係で愛媛県西条市に転居している。少年時代から投打に優れた才能を発揮し頭角を現すのは早かった。高校は地元の西条高校へ進み、当然のように1年生でエース兼4番としてチームの中心になり、3年時の2009(平成21)年には春夏とも甲子園に出場し、長身から投げ下ろす本格右腕としてプロの評価も高まった。一方左打者として高校通算48本塁打を記録したようにバッティングもポテンシャルは高かった。2009年のドラフト会議ではタイガースが4巡目に指名して入団しており、最初にもらった背番号は「27」だった。高卒新人投手は通常30番台から40番台が普通なので、秋山への期待の高さがうかがえる。 ルーキーイヤーの2010(平成22)年8月21日の東京ドームでの巨人戦で初登板初先発のチャンスが来る。秋山は5回まで3-2とリードをもらうが6回に2失点で負け投手になる。成績は6回打者27人に対し6安打3四球5奪三振4失点だった。一週間後の8月28日のヤクルト戦では5回1失点でプロ初勝利を挙げている。前回登板に続き4四球と制球には課題が残すが、9月12日のヤクルト戦では制球も修正され被安打4奪三振3でプロ初完封勝利を飾っている。 1年目は7試合に登板しすべて先発で4勝3敗、40回1/3を投げて奪三振23、自責点15防御率3.35の成績で、近い将来ローテーションの柱になるのではという期待が膨らんだ。 ところが2年目から6年間に及ぶ長期の低迷期に落ち込んでしまう。その間の成績は次のように寂しいものだった。 2011(平成23)年 2試合0勝1敗 7回1/3 防御率6.14 2012(平成24)年 2試合1勝1敗 8回 防御率9.00 2013(平成25)年 8試合0勝3敗44回2/3 防御率3.83 2014(平成26)年 2試合0勝1敗 6回2/3 防御率20.25 2015(平成27)年 3試合0勝1敗14回1/3 防御率4.40 2016(平成28)年 8試合1勝1敗20回 防御率4.05 高校時代には剛腕を誇った秋山だったが、プロ入り以降は一向に球速が上がってこない。平均球速が130キロ台の投手のままで、これではストレートと変化球のスピード差による緩急がうまく使えない。この6年間は自分の投球スタイルをどうしていくか模索と苦悩の連続だった。 そうした中で投げ込んでいるうちに増してきたのが制球力。非常にコントロールが良くなって、きわどいコースの出し入れが自在になってきた。これが武器になっていく。 2017(平成29)年は背番号が「27」から「46」に変えられたが、秋山は1年間ローテーションを守って25試合25先発、12勝6敗、159回1/3を投げて規定投球回数もクリア、与えたフォアボールがわずか16個というのはリーグ最少だった。奪三振123は自己最多、自責点53で防御率は2.99。ぎりぎりだが2点台を叩き出し、大変身を遂げた。 2018(平成30)年から2019(令和元)年には、打線とかみ合わないめぐりあわせが多く、5勝10敗、4勝3敗と低迷する。 しかし、2020(令和2)年はローテーションの一角を守って11勝3敗と2度目の二けた勝利を挙げ、防御率も2.89で内容は安定していた。 続く2021(令和3)年もローテーションを死守し、10勝7敗で2年連続二けた勝利。防御率も2.71と自己最高を記録している。シーズン終了後の契約更改ではプロ12年、30歳にして1億円プレーヤーとなった。 2022(令和4)年には岩田の引退により背番号「21」を引き継いでいるが、一方でチームの編成方針が変わってくる。近年ドラフトで投手を上位指名してきており、選手起用を見ても投手陣全体の若返りにシフトしたような様相である。 秋山は開幕早々2連敗すると4月10日に登録抹消され、28日に復帰して1勝するがまた打ち込まれて抹消。その後は2軍でシーズンを終え、公式戦は5試合1勝3敗で防御率5.48に終わっている。2023(令和5)年に岡田昭信監督が就任すると若手優先の傾向が強まり、秋山は1年間の大半を2軍で過ごした。テスト的に開幕直後と8月の2度先発の機会が与えられたが0勝1敗で、結果が出ないとすぐ抹消されている。それぞれ1試合のみで判断されて即抹消というのは残酷に感じるが、チーム方針が決まって、伸び盛りの若手投手がひしめいてきている状況では仕方ないのだろう。厳しい世界である。結局2試合0勝1敗で、オフにはトレード候補や現役ドラフト候補などと周囲からささやかれたが残留。2024(令和6)年は進退のかかった正念場を迎えたと言っていいだろう。まとめ皆さんどう?3人の投手思い出した?吉野さんは先代に聞くとほんの1~2年だけど ものすごいキレのあるボールを投げてたんだってね でもこういう変則の左横手投げタイプは故障しやすいんだって 田村勤投手とか榎田さんなんかもそんな感じだったそうね ウィリアムスさんは頑丈だったみたいだけど岩田さんは病気を抱えながら16年間もよく頑張ったとおもう 同じ病気の人のために役に立とうという気持ちも素晴らしいな そんななかでの通算60勝はすごい数字なんだけど 病気がなかったらとおもうとホントに残念だわ ココリコの遠藤さんに似てるって言われたんだってね 確かに似てるわ秋山さんはツイてないことが多いのかな 高卒ルーキーで4勝したあとの長い低迷が痛いなあ 2023年までの14年間で49勝44敗と勝ち越してるのはいいけど いろんな歯車が合っていれば80勝ぐらいできたんじゃないかなって思うこれで背番号「21」は終わりです。次の「22」は田淵幸一さんに代表される番号ね 新しいところでは藤川球児さんも付けてたわ 期待して待っててね!背番号22へ続く
2024年05月06日
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背番号21(その6)2024年4月29日18時開始予定だったマツダスタジアムの広島-阪神戦は雨天のため14時45分に中止が決定しました ということで背番号史を掲載するよ 背番号21の第6回目です 3人の選手を紹介するけど それぞれ1年ずつしか背番号「21」をつけていませんこういうこともあるのね 3人のうち2人が外国人選手よ これは仕方ないかもね 多分使いもにならなくて1年で解雇されたんじゃないかって想像つくから3人目は期待されたのに大物になれなかった投手ですでに背番号17その5で紹介してるよ そう山村宏樹投手よねダネル・コールズ 内野手・外野手アメリカ合衆国カリフォルニア州サンバーナディーノ出身。1980(昭和55)年にオレンジコースト大からドラフト1巡目(全体6位)という高評価でシアトル・マリナーズに指名されプロ入り。メジャー時代はファースト、サード、ショート、レフト、ライトの守備経験があり、これを見ればユーティリティプレイヤーのように感じるが、どこを守ってもそれほど守備はうまくなかったようだ。メジャー実働14年で957試合2891打数709安打368打点75本塁打20盗塁445三振、通算打率.245という数字は平均よりやや下くらいかというレベルだった。中日へは1996(平成8)年に入団し130試合に出場、ほぼ1年間トップバッターとして起用されサードを守っている。打撃成績は513打数155安打79打点29本塁打で打率.302を記録した。 しかし、トップバッターなのに試みた盗塁はたった3回で、しかもすべて失敗しており相当な鈍足。サードの守備も動きが悪く20失策を犯すなど、翌1997(平成9)年から本拠地がナゴヤドームになる中日にとっては不要とみなされ、契約延長はなく1年で解雇される。1997年のタイガースは3度目の就任となった吉田監督をバックアップするため、超大物のマイク・グリーンウェルを獲得したが、出場わずか7試合で負傷し、5月14日に引退会見して帰国してしまった。 4番候補の突然の引退で頭を抱えた球団は、前年の実績を過信してコールズに目をつける。事情が事情だけに深く吟味する時間的な余裕もなかったのだろう。5月24日、コロラド・ロッキーズに在籍していたコールズを金銭トレードで急遽獲得することになる。背番号は「21」。 タイガースではファーストを14試合、サードを23試合、外野を20試合守ったが、足の故障もあってどうしても守備は三流で、エラーの次の打席に必ず凡退するという悪循環もあった。 打撃成績も63試合231打数56安打28打点7本塁打、打率は.245と期待外れに終わり次期戦力構想から外れて解雇された。ダグ・クリーク 投手アメリカ合衆国バージニア州フレデリック郡ウィンチェスター出身。メジャーでは通算279試合に登板しているが先発は3試合のみ、ほぼリリーフ専門で、主として中継ぎやセットアッパーとして過ごした。1998(平成10)年、2年目となる第3次吉田監督は先発投手不足を解消しようと、左の速球派投手として獲得したクリークをメジャーで先発経験が3試合しかないにもかかわらずのローテンションに入れざるを得なかった。 4月5日の横浜ベイスターズ戦で初先発し7回1/3で1失点と好投して期待を持たせたが、その後6試合に投げて4連敗。28回2/3で24三振を取るが、フォアボールも25個出すなど不安定さが目立ち、防御率5.65。7試合で見切りをつけられ1か月で2軍落ちしてしまう。 その後はファームの試合でローテーションを守って投げ続け、17試合に先発し9勝1敗、防御率2.16の成績を挙げてウェスタンリーグ優勝に貢献した。勝率1位のタイトルもとっている。 しかしファームでは1試合に11個の四球をという当時の新記録を作るなど制球の不安定さは相変わらずで、1軍では危なくて使えないとみなされ、シーズン終了後に解雇された。 アメリカに戻ると5球団を渡り歩きながら2005(平成17)年までリリーフ専門として現役を続けたのち引退している。 タイガースでの成績は7試合0勝4敗、28回2/3で被安打23、25四球24奪三振。自責点は18で防御率5.65だった。山村宏樹 投手(再掲)山村は背番号17-5で紹介しているが若干の変更を加えて再掲する。山梨県敷島町の出身で高校は甲府工業に進む。2年生の夏に甲子園に出場しすでにエースで4番という中心選手だった。1回戦で完投勝ち、2回戦敗退。3年次は県予選ベスト8で敗退している。高校生の投手としては、ストレートの伸び、変化球のキレともに高レベルでフィールディングのレベルも高く、「江川2世」と評判になり、1994(平成6)年のドラフト会議でタイガースに1位指名されて入団している。背番号は「17」。 もともと細身で入団時はまだプロの身体ではないと判断されており、1年目の1995(平成7)年はファームでの12試合に登板して0勝2敗、防御率6.49でもっぱら体力づくりに専念している。翌1996(平成8)年も一軍に上がることはなく、ウェスタンで3試合投げただけ。1勝0敗で防御率は1.13。非常に大事に育てられていたことがわかる。1997(平成9)年になるとファームでは7勝7敗、防御率も3.12と力を出し始め、6月には初めて一軍に呼ばれ中継ぎで5試合に投げた。しかしすぐにファームに戻され、一軍では0勝0敗で防御率は4.82という数字を残しただけだった。1998(平成10)年は一軍で10試合に登板し先発も5試合経験する。9月17日には広島戦でプロ入り初勝利も飾っている。しかしここまで順調に階段を上っていると思われた山村が、突然自律神経失調症を発症して心身のバランスに変調を来たし、まともに野球ができる状態ではなくなってしまうのである。 当時のタイガースでは(あえて実名で書くが)中込伸によるチームメイトへの嫌がらせが横行していると噂されていた。真相は当人たち以外には分からない。山村は「後頭部踏みつけ事件」もう一人中谷仁の「携帯眼球直撃事件」という報道があったのは事実である。しかし中込が故意に起こした事件なのかどうかや、山村のケースではそもそも中込がやったのかどうかも霧の中だ。 山村は精神的な立ち直りを期して1999(平成11)年に背番号「17」を返上し「21」に変えている。 しかし背番号を変えたくらいで気分が晴れることはなく、ファームの試合ですら投げられないほどになってしまい、オフに戦力外とみなされて自由契約選手となる。タイガースでは5年間で公式戦では1勝を挙げたのみ、事実上のクビだった。背番号「21」は1年着けただけで終わった。 この状況に救いの手を差し伸べたのが近鉄バファローズの一軍監督に就任したばかりの梨田昌孝だった。梨田は直前まで近鉄の二軍監督に就いており、ウェスタンで山村の投球を間近に見ていたため「潜在能力は持っているから環境が変われば再生できるはず」と山村を獲得している。 2000(平成12)年、近鉄に移った山村は27試合(先発24)に投げて6勝9敗、翌2001(平成13)年は23試合(先発16)で7勝6敗とローテーションの一角でそれなりに結果を残すことができた。環境が変わったことで精神的に回復してきたのかもしれない。2002(平成14)年から2004(平成16)年までの3年間は1勝しかできず厳しい状況になるが、2004年の近鉄球団消滅による分配ドラフトで東北楽天ゴールdンイーグルスに移籍が決まるとまた復活する。2005(平成17)年は16試合(先発11)で2勝7敗だったが、2006(平成18)年には30試合(先発22)に投げて7勝10敗と頑張りを見せている。 その後はブルペンに配置されて2012(平成24)年まで18年に及ぶプロ野球生活を全うした。引退セレモニーではチームメイトに胴上げされている。 通算成績は225試合(先発90)31勝44敗2セーブ20ホールド330奪三振、671回1/3を投げ自責点374、防御率5.01だった。 なお、チーム内の嫌がらせ事件については、文春オンラインの記事(「ドラ1クラッシャー」中込伸は中谷仁の左目になぜ“至近距離から”携帯電話を投げたのか…元エースが語り始めた“24年前の真相” | 文春オンライン (bunshun.jp))が詳しいので参照してほしいが、やや中込を弁護するような内容になっており、これも真相かどうかは確かめようがない。まとめ思った通り両外国人選手は役立たずで終わった部類ね 1年で解雇の外国人選手って多いのよね山村投手は17-5で紹介済みだけど 改めて考えると あの事件がなかったらタイガースのエースになってたかもしれない素材だったとおもうなあ密室の事件は真相がわからず 当時のタイガースはかなり中込投手の方に目をかけてたようだし 握りつぶされてしまった事件かなこれについて先代に聞いても「うわさみたいな話で、ウヤムヤのまま終わったなあ。中込犯人説は確かにあったけど、どうやって終結したのかもよくわからないよ。最後は中込も干されて台湾へ行っちゃったし」と言ってるわ背番号21の7へ続く
2024年04月29日
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背番号21(その5)背番号21の第5回目です1週間ぶりね 前回までの選手覚えてる? ここまで見てきて 確かに金田正泰元監督や米田哲也さんのような大物も着けた番号なんだけど 金田さんは1年 米田さんも1年 この番号をつけた状態で長年活躍できた選手は出てないのよね今回は3人紹介しますが3人ともトレードを体験し それぞれが特徴ある野球人生を送ってて面白いよ! ちょっと長いけど最後まで読んでみてね プロ野球選手の生き方も色々っていう実感がわくとおもうよ山内新一 投手島根県出身で高校は県立邇摩(にま)高等学校。高校時代は全く無名の投手で卒業後は三菱重工三原へ入社している。1966(昭和41)年の都市対抗野球でベスト8、産業別大会では1試合11三振の好投を見せたことからプロからも認められるようになり、同年秋のドラフト会議で読売ジャイアンツから2位指名を受けて入団している。1年目の1968(昭和43)年は一軍での登板はなく、2年目の1969(昭和44)年8月18日が1軍初登板だった。すでにシーズンも終盤に近く、結局7試合の登板で1勝1敗、防御率6.35に終わっている。1970(昭和45)年はおもにリリーフとして41試合に登板し8勝4敗、防御率1.78と頭角を現す。続く1971(昭和51)年も33試合で5勝5敗の数字を残すが、この年に右肘を壊してしまう。 1972(昭和47)年、故障の影響が長引き11試合0勝1敗、防御率9.00と落ち込むと読売は早々に見切りをつける。長嶋茂雄が衰えてきたことから後継の三塁手を確保したい読売は、南海ホークスの富田勝に目をつけ、松原明夫と山内を交換要員としてトレードが成立、山内は南海へ移籍することになった。1973(昭和48)年、移籍先の南海の監督は現役捕手兼任の野村克也だった。肘を故障してストレートに威力がなくなった山内に、「変化球を軸にコントロールを磨いて武器にすればまだまだやれる」と助言し、山内は軟投型投手へモデルチェンジしていく。移籍1年目のこの年、野村監督は読売でリリーフ専門だった山内を30試合に先発させる。見事に技巧派へ変身した山内は期待に応え、ローテーションの軸として20勝8敗、防御率3.30の好成績を挙げてリーグ優勝の立役者となった。南海では11年間プレーし、309試合に登板、そのうち303試合に先発で起用され、二けた勝利が8度、1973年と1976(昭和51)年には20勝を記録しており、エースとして君臨している。1983(昭和58)年、山内は13試合2勝9敗に沈み防御率も8.55と落ち込んで戦力外のにおいが漂っていた。そこに目をつけたのが、小林繁が引退して先発投手陣が手薄になってきたタイガースだった。 山内は83年のオフ、無償トレードの形でタイガースに入団することになる。背番号は益山の引退で空いた「21」を継承した。 1984(昭和59)年、安藤統男監督は「5イニング限定の先発投手」と割り切って山内を起用。25試合すべて先発登板した山内は期待に応え、7勝9敗、防御率4.74の数字ながら1年間ローテーションの一角を守った。タイガースでの2年目は日本一になった1985(昭和60)年だったが、さすがに力尽きたか登板はわずかに5試合、1勝1敗、防御率7.45に終わった。それでもリーグ制覇の一員に連なり、10月24日の対読売シーズン最終戦が引退試合となった。通算成績は17年で431試合に登板し143勝142敗、2459回で774奪三振、自責点1021、防御率3.74だった。150勝近く勝っている投手としては、1試合当たりの奪三振が2.83個と極端に少ない。これは読売時代に痛めた右肘がまっすぐ伸びないためキレのあるストレートが投げられなかったからで、変化球を駆使した配球、そして絶妙のコントロールを武器に凡打にさせることで生き延びてきた証でもある。遠山昭治 投手熊本県芦北郡田浦町出身。八代第一高校では全国大会こそ出れなかったがエース兼4番打者としてチームを引っ張った。投打ともに優れた才能があり、ノーヒットノーラン通算11回や1試合18奪三振など投手としての記録のほか 打者としても対外試合通算35本塁打を打ち4割以上の高打率を残している。1985(昭和60)年11月20日、日本一の興奮冷めやらぬ中で行われたドラフト会議で、タイガースは1巡目に清原和博を指名するも6球団が競合し、抽選に敗れて指名したのが遠山だった。ちょうど山内の引退で背番号「21」が空いたため継承することになる。ルーキーの1986(昭和61)年は4月27日に1軍抜擢されて中日戦で初登板。5月1日のヤクルト戦では初先発を経験し、5月14日の広島戦で9回2失点の好投を見せてプロ初勝利を飾っている。 この年のタイガースは先発投手の絶対数が不足しており、遠山は27試合に登板、しかもそのうち24試合が先発で、ほぼローテーション投手の働きをしている。成績も8勝5敗、128イニングで自責点60。防御率は4.22だったが、高卒1年目ルーキーとしては近年にない活躍だった。しかし翌1987(昭和62)年は1年目の頑張りの反動が出たのか早くも左肩痛を発症し、9試合0勝3敗に終わる。1988(昭和63)年に就任した村山監督は、遠山をリリーフに配置換えすることで復活させ42試合に登板、2勝9敗ながら防御率は3.84を記録した。しかし1989(平成元)年になると、故障した左肩は短いイニングすら満足に投げられず10試合で2勝1敗。1990(平成2)年には7試合0勝0敗、防御率9.00と使い物にならなくなり、オフに高橋慶彦とのトレードでロッテ・オリオンズへ移籍する。ロッテでは投手として4年間過ごすが白星はなく、その後打者に転向してみたがこちらも1軍で通用せず、1997(平成9)年にはついに出番がなくなって戦力外、自由契約となった。現役を続けたい遠山はタイガースの入団テストを受けたところ、入団当時も監督だった吉田監督から「投手として投げてみろ」と要望され、投げてみると好い球が来るし痛みもない。野手として過ごす間に自然に肩痛が回復していたようで、投手として古巣に復帰することができた。1998(平成10)年、11試合の登板に終わっているが、新しく就任した野村監督が「左投手は手放せない」と球団に申し入れたことで戦力外をまぬがれ、ワンポイントのサイドスロー投手に変身、これにより運命の扉が開けた。 1999(平成11)年63試合、2000(平成12)年が54試合、2001(平成13)年が52試合と3年間ワンポイントリリーフでファンを沸かせた。左打者に対してリリーフで登場し、右打者になると葛西が登板し遠山は1塁守備、さらに左打者で遠山が再登板という「遠山・葛西スペシャル」は、巨人の松井を完璧に封じるなど野村タイガースの見せ場となった。ところが星野監督が就任した2002(平成14)年になると坐骨神経痛が悪化、23試合で12回1/3しか登板できず、戦力外通告を受けて引退。通算成績は393試合16勝22敗5セーブ、480回1/3で283奪三振、防御率4.38というのが投手成績。打撃成績は408試合90打数14安打1打点、打率.156である。数字だけを見れば平凡以下かもしれないが、タイガースファンには大きな印象を残した選手だった。タイガースには通算10年間在籍し、背番号「21」はルーキーから5年間、ロッテから復帰した後の5年間は「52」をつけている。関川浩一 捕手・外野手遠山がロッテに移籍した翌1991(平成3)年に背番号「21」を受け継いだのは関川浩一。東京都調布市の出身。神奈川の桐蔭学園に進むと1年時の1984(昭和59)年の夏の選手権に外野手で出場、2年生になると捕手に転向している。 強肩の捕手で好打者かつ足もあり、駒澤大学に進むと東都大学リーグ通算50試合161打数42安打13打点3本塁打、打率.261の成績を残している。大学ベストナイン捕手にも2度選ばれるなど評価は高かった。1990(平成2)年秋のドラフト会議では、タイガースから2位指名を受け入団している。しかし1年目となる1991(平成3)年はまだ木戸克彦の存在が大きく、そこに山田勝彦が台頭してきたところで、捕手としての関川の出番はほとんどなく出場10試合に終わる。2年目の1992(平成4)年も31試合にとどまるが、1993(平成5)年になると山田から正捕手の座を奪い、出場数は89試合に伸びた。 さらに1995(平成7)年には124試合に出場して規定打席もクリアし、打率も.295と大活躍、完全にレギュラー捕手の地位を獲得している。1996(平成8)年と1997(平成9)年は、規定打席こそ足りなかったが2年続けて打率3割を超え、好打者としてもチームに貢献している。 ところが1997年オフ、晴天の霹靂のような電撃トレードで久慈照嘉とともに中日ドラゴンズへ放出されてしまう。これはタイガースファンにとっても驚きだった。中日は1997年から本拠地がナゴヤドームに変わったが最下位に低迷。野球観が変わり、広さに対応した俊足・好守の選手を必要としていた。 一方3度目の就任となった吉田監督で戦ったタイガースは貧打に泣いて5位と低迷し、大砲を欲していたため大豊泰昭と矢野輝明の獲得となり、両チームの利害が一致するトレードとなった。 1998(平成10)年、中日に移った関川は星野監督に重用され、トップバッターとして起用されると125試合に出場して規定打席に到達、打率.285と活躍し、もともと速かった足も生きて15盗塁を決めるなど、チームの2位躍進に貢献する。 1999(平成11)年には135試合に出場、キャリアハイの172安打を放ち、打率も.330、20盗塁を記録して11年ぶりのリーグ優勝の原動力になった。 しかしこの年をピークに力が落ちていき、2004(平成16)年には12試合で無安打に終わると、無償トレードで新球団東北楽天ゴールデンイーグルスに移籍することになる。楽天での3年間は控えの外野手で過ごし、2007年のオフに引退。その後は楽天、阪神、ソフトバンクでコーチを歴任している。通算では1408試合3953打数1129安打324打点24本塁打91盗塁702三振、打率.286と立派な成績を残した。まとめ今回の3人は記憶に残る選手たちかな巨人で戦力外とみなされた山内さんを復活させたことで野村監督が「野村再生工場」とよばれるようになったって言われてるんだよ遠山さんもタイガースに復帰して野村監督のアイデアである「遠山・葛西スペシャル」で一世を風靡したわこうしてみると野村さんは監督としてやっぱりなかなかのものねそして関川さんは野球センスが抜群なことが災いして器用貧乏になってたんだけど 中日へ移って 関川さんの素材を見抜いていた星野監督に起用されることで一流選手として開花できたのよ監督に恵まれるってこういうことかな 背番号21の6へ続く
2024年04月22日
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背番号21(その4)背番号21の第4回目ですちょっと間が空きましたが続けていくので忘れないでね なかなかスター選手が生まれない背番号「21」だけど 今回最初に登場する投手が 初めて「ドラフト1位入団の選手」として着けます 結果はどうでしょうねこの第4回では3名紹介しようとおもうんですが 実は3人のうち2名がドラ1入団なのよ さらに残りの一人は日本歴代2位の通算算350勝を誇る鉄腕投手だよ 皆さんわかるかな?ではもったいつけてないで本文に進みますね五月女 豊 投手栃木県鹿沼市出身で高校は鹿沼農商高校。3年時の1967(昭和42)年に夏の選手権で甲子園に出場するが1回戦で今治南に0-3で敗れている。 高校卒業後1968(昭和43)年から社会人の日本石油に籍を置くが、プロが目をつけるほどの目立った存在ではなかった。ところが1972(昭和47)年の日本産業対抗野球大会が運命の転機となる。2回戦の対日本生命戦でノーヒットノーランを達成、準決勝では当時の強豪大昭和製紙、決勝では鐘淵化学を連続完封して優勝。五月女は最優秀選手賞に輝き、一躍ドラフト候補となった。1972年のドラフト会議でタイガースが1位で指名し入団、引退した山尾の背番号「21」を引き継ぐ。 しかしプロの壁は厚く、ルーキーイヤーの1973(昭和48)年は公式戦わずか3試合の登板で0勝2敗、防御率6.00の成績で終わっている。2年目の1974(昭和49)年は先発した8月8日の大洋ホエールズ戦で7回4失点ながらプロ初勝利を挙げるが、シーズンを通して9試合しか使ってもらえず1勝0敗、防御率3.00だった。3年目も10試合で0勝0敗に終わる。シュートやシンカーなど右打者のインコースへ投げる変化球は好いものを持っていたが、肝心のストレートが二級品なため変化球も生きてこない。タイガースは3年で見切りをつけ1975(昭和50)年オフ、太平洋クラブライオンズの片岡新之介とのトレードにより放出している。 ライオンズではおもに中継ぎとして貴重な戦力となり、在籍5年間で111試合に登板8勝8敗1セーブ、279回2/3を投げて自責点127、防御率4.09の数字が残る。 1982(総和57)年には大洋ホエールズに移籍しており 3年間で9勝をマークするなどやはり中継ぎとして貢献したが、タイガース戦ではよく打たれたという。通算235試合18勝17敗1セーブ207奪三振 475回で自責点215、防御率4.07。米田哲也 投手鳥取県西伯郡大篠津村(現米子市)出身。少年時代は捕手だったが境高校に進学すると地肩の強さと顔の怖さを買われて投手に転向。いつもあと一歩で甲子園出場を逃していたが、剛腕投手としての評判は出場組をしのいでいた。1956(昭和31)年に阪急ブレーブスと契約するが、その後地元後援者の策動によって大阪タイガースとも契約してしまい、二重契約問題が起こる。この問題は最終的に井上コミッショナーの裁定によってブレーブスへの入団で決着するが、事前にコミッショナーから聴取された米田が「背番号18」を確約してくれたブレーブスを希望し、その意向を汲んでの結論だったようだ。この時点ではタイガースとは縁がなかったということだろう。米田の実績を書き連ねると簡単に終わらない。大投手であることは、多くの通算記録のベスト10に登場していることからわかる。これから主だった数字を見ていくことにする。 通算登板試合数は949。岩瀬仁紀が抜くまで歴代1位だった。岩瀬は99.9パーセントがリリーフ登板なのに対し、米田は66パーセントが先発という中で達成しておりタフで頑丈だったことがわかる。通算勝利数350。金田正一の400勝に次ぐ歴代2位。通算先発数626試合。歴代1位。通算完投数262。上には上がいてトップは金田の365。米田は歴代8位。通算完封勝利64。トップはスタルヒンの83で米田は歴代7位。通算投球回数5130回0/3。金田の5526回2/3に次ぐ歴代2位。通算奪三振3388。金田の4490に次ぐ歴代2位。通算失点1940。歴代1位。通算自責点1659。歴代1位。 あだ名が「ガソリンタンク」「人間機関車」など 丈夫なうえに力持ちという印象があったのだろう。ほかにも驚くような記録を残している。19年連続二けた勝利。これは現在も日本記録。いかに故障が少なく長く働いたかの証明だ。今はこれほどの投手なら途中でメジャーへ行ってしまうから今後誰も破れない途方もない記録だ。20勝以上は8シーズンあるが、最多勝は1度(1966年25勝)しか取れなかったのは不思議なくらいである。また高校時代からバッティングにも自信を持っており、打率は低いが長打力は相当なものだった。通算本塁打33本は1位・金田正一の38本、2位・別所毅彦の35本に次ぐ歴代第3位である。また、満塁本塁打とサヨナラ本塁打の両方を記録したことのある唯一の投手でもある。阪急には1956(昭和31)年から1975(昭和50)年の途中まで足かけ20年在籍し、902試合338勝278敗1セーブの数字を残している。1975年は登板数が減ったため、シーズン途中に自らトレードを申し出てタイガースに移籍してきた。背番号は「38」。 この時のタイガースは第一次吉田義男監督の1年目で、投手コーチに通算320勝の小山正明がおり、350勝を目指す米田の登板間隔などに気を使いながらバックアップしたため、移籍後に22試合8勝3敗1セーブの数字を残し、阪急で挙げた2勝を加えて年間10勝を達成している。350勝まであと4勝となって迎えた1976(昭和51)年、米田は達成を期して背番号を「21」に改めてシーズンに臨んだ。この年のタイガースはラインバックやブリーデンの加入や掛布の成長などでチーム力が上がり、終盤まで読売との優勝争いを繰り広げた。小山に代わって就任した皆川睦男投手コーチも、優勝争いの中では現実主義にならざるを得ず、衰えの目立つ米田の登板機会は大幅に減ったため13試合2勝2敗に終わっている。350勝まであと2勝とはなったが、シーズン終了後にタイガースは米田に戦力外を通告する。背番号「21」は1年間しかつけなかったことになる。 自由契約選手となったが、現役をあきらめきれない米田に手を差し伸べたのは、阪急時代の監督でもあった近鉄バファローズの西本幸雄だった。1977(昭和52)年、西本監督のもとでコーチ兼任で臨んだ米田はなかなか勝てなかった。シーズン終了間近の10月7日、西宮球場での対阪急戦。ここまで11試合1勝2敗で迎えた米田は、監督の計らいで6-1と近鉄が5点をリードした状況で4回裏に登場し2イニングを投げ1失点で降板、勝利投手の権利を得る。残り4イニングを3人の投手がリレーして逃げ切り、悲願の350勝達成となった。さすがに納得できたのか10月18日に米田は引退を発表している。米田が再度タイガースとかかわりを持つのは、あの日本一に輝いた1985(昭和60)年のことだ。2度目の監督に就任した吉田義男は西本幸雄からの推薦を受け、米田を一軍ピッチングコーチに迎える。米田は苦しい台所の投手陣を預かって何とか恰好をつけ、シーズンを戦い抜いて日本シリーズも制した。 ただし、徐々に吉田監督と意見が合わなくなり、1986(昭和61)年にはブルペン担当に配置換えされてシーズン終了後に退団している。現役22年間の通算成績は949試合350勝285敗2セーブ、被安打4561(これも歴代1位)、3388奪三振、5130回で自責点1659、防御率2.91という素晴らしいものである。益山性旭(せいきょく) 投手兵庫県宝塚市出身だが、高校は大阪府の福島商業(現履正社高校)に進んでいる。全国大会には縁がなかったが速球派サウスポーとしてスカウト等には知られた存在だった。1972(昭和47)年のドラフト会議では大洋ホエールズから4位指名を受けたが、入団を拒否して帝京大学へ進学する。大学では速球に磨きがかかり首都大学リーグ戦通算78試合29勝31敗の数字を残す。援護に恵まれず負け越しているが防御率は1.65である。速球で奪った通算三振はそれまで上田次郎(東海大~阪神)が持っていた393個を大幅に更新する450個を記録し、50年近く経った現在もリーグ記録として破られていない。1976(昭和51)年のドラフト会議では文句なく1位候補となり、タイガースが1巡目指名して入団が決まる。背番号は自由契約となった米田がつけていた「21」を継承。入団時には「巨人戦で王・張本から連続三振を取りたい」と抱負を語っている。1年目の1977(昭和52)年から1軍公式戦で使われており、6月にデビューして以降28試合に登板し、6度の先発も経験した。結局3勝3敗、77回2/3を投げて65奪三振、自責点35防御率4.04の成績だった。1978(昭和53)年、タイガースは後藤監督の下、史上最低勝率で初の最下位の屈辱を味わったこともあり、投手陣は軒並み援護のない状態で成績を落としている。益山は45試合に投げ1勝10敗、防御率5.40と散々だったが、7月2日の広島戦では9回一死までノーヒットノーラン、惜しくもその後1安打1点を失ったが、北別府に投げ勝って初の完投勝利でこの年唯一の白星を挙げている。スピードはあるが制球がままならず、突然コントロールを乱して勝手に崩れてしまう。この状態が治らないまま1979(昭和54)年から1982(昭和57)年までの4年間は1勝5敗1セーブ、0勝0敗、3勝3敗、3勝6敗と低迷が続き立ち直れない。1983(昭和58)年はついに1軍登板がなく現役引退、翌1984(昭和59)年はバッティング投手として過ごす。ところが打撃投手をしているうち、徐々に制球力がついてきたのと、チームに左投手が少なかった事情もあって、1985(昭和60)年に現役復帰。優勝争いをするチームにあって、中継ぎとして微力とはいえ8試合に投げ優勝メンバーに名を連ねることができた。それで満足したのかやはり限界だったのか、シーズン終了後には改めて現役引退している。 背番号「21」は7年間着け、打撃投手時代は「95」、現役復帰後は「39」を1年だけ着けた。現役通算成績は167試合11勝27敗1セーブ、414回を投げて262奪三振、自責点213防御率4.63だった。まとめ三者三様で悲哀を感じさせるなあ五月女さんと益山さんは同じドラフト1位で似たとこもあるけど、五月女さんは他球団でかなり貢献してるよね益山さんはタイガース一筋 しかも一度引退して打撃投手になってからまた復活の現役復帰 しかも最後はいちおう優勝の一員に加わってもう一度引退というのもどう言ったらいいのか ツイてるって言えないこともないか・・・米田さんは打者でいうと野村さんみたいな感じかなあ 野村さんは「ONの陰に咲く月見草」なんて自嘲してたみたいだけど、米田さんは「金田さんに追いつけないナンバー2」って感じよねでも記録を見ればすごいよ 今の選手じゃまねできない もっとリスペクトされてもいい投手じゃないの? 22年間これだけ投げて 特にケガも故障もないなんて秘訣を聞いてみたいよ 背番号21の5へ続く
2024年04月15日
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背番号21(その3)背番号21の第3回目です今回最初に登場するのは横山光次さんなんだけど皆さん知ってた?この方は10年間「21」を背負ったのよ 10年以上着用した選手はこの番号では初めてねここでネタばらししてしまうと 横山さんの後も10年以上つけた選手はなかなか出てきません 2人目は岩田稔投手なのよ 岩田さんは16年も着けました そして10年以上着けたのは横山さんと岩田さんの2人だけなんだよ背番号「21」も紆余曲折の番号なのよね横山光次(よこやまこうじ) 投手・外野手大阪府東淀川区の出身。扇町商業高校(現:扇町総合)時代の1951(昭和26)年にエース兼4番打者として選抜大会に出場しベスト8。高校時代から非凡なバッティングは評価が高かった。 1952(昭和27)年にタイガースへテスト入団、最初の背番号は「43」だった。登録は投手で最初の2年間は1軍に上がれずファーム暮らし。打撃センスを買われて外野手に転向した1954(昭和29)年に初めて1軍に上がるも6試合9打数1安打0打点で、ようやく「1軍を経験した」という程度だった。1955(昭和30)年、背番号を「21」に変更すると1軍に定着、69試合に出場するが打率.207ではレギュラーを取るまでの数字ではない。 1956(昭和31)~57(昭和32)年も常時1軍におり、並木輝男との併用ながらスタメン機会も増えてくるが、2年続けて打率が1割台に低迷してポジションをつかめない。 1958(昭和33)年に初めて100試合を超える113試合に出場すると、翌1959(昭和34)年には田宮謙次郎の移籍で空いたライトでレギュラーとなり、123試合に出場してプロ生活唯一の規定打席にも到達、407打数104安打37打点8本塁打、打率.256を記録して活躍した。 しかし、1960(昭和35)年にマイク・ソロムコ、1962(昭和37)年には藤井栄治が入団すると、徐々にスタメン出場数は減っていき、そのかわり代打での活躍が目立った。 通算8本の代打本塁打を記録しており、引退した1964(昭和39)年には球団史上2人目の代打満塁ホームランも記録している。 現役通算は888試合2041打数471安打191打点37本塁打57盗塁326三振で打率.231である。滝川博已 外野手和歌山県出身で高校は南部高校。4番センターの中心選手として活躍し、1960(昭和35)年にタイガース入団。最初の背番号は「53」をもらった。非常に珍しい左投右打ちの選手(タイガースではのちに紹介するハロルド・ブリーデンがいる)だった。 入団して3年間は1軍に上がることはなく、4年目の1963(昭和38)年に初めて昇格するが2試合2打数1安打0打点1三振に終わっている。 翌1964(昭和39)年も16試合12打数2安打1打点3盗塁3三振で打率は.167と伸びた様子が感じられない。 1965(昭和40)年には背番号を「21」に変えて臨んだが、21試合6打数1安打で代走要員といった位置づけになっている。 1966(昭和41)年は背番号を「31」に変えて自己最多の57試合に出場する。と言っても48打数7安打3打点で打率.146ではもう戦力外と見做されても仕方がないだろう。シーズンが終わると引退している。 通算では96試合68打数11安打5打点8盗塁22三振で打率.162。プロでホームランは記録できなかった。山尾孝雄 投手・外野手(再掲)山尾はすでに「背番号14-3」で紹介済みだが若干の修正をしたうえで再掲する。大阪府大阪市出身で明星高校から同志社大学に進む。高校時代から投手として活躍。大学3年時に肩を痛め一時はボールが投げられないほどだったが4年時にはある程度回復する。通算55試合に登板して24勝10敗、防御率1.19の好成績を残したが、投手としての伸びしろは失っていたと思われる。 1963(昭和38)年にタイガースへ入団し本間勝から背番号「14」を譲られる。1年目に3試合に投げているが防御率6.30と打ち込まれて自信を無くし、1964(昭和39)年には早々と野手に転向した。 ただし、野手転向といっても簡単ではなく、1968(昭和43)年までの5年間は満足な出場機会に恵まれない状況に甘んじている。この間、1965年まで3年間着けた「14」を本間に返し、1966(昭和41)年から「21」に代えて引退するまで7年間背負っている。 1969(昭和44)年には71試合に出場して初めて100打席を超え、翌1970(昭和45)年は94試合、1971(昭和46)年も98試合とセンターで準レギュラー級として働いた。しかし守備や足は好かったが打撃に関しては目立った成長が見られなかった。 1972(昭和47)年、ドラフト3位で望月充(立教大~大昭和製紙)が入団するとポジションを失い、わずか19試合の出場に終わったことから現役を退いた。通算10年で448試合に出場、792打数176安打49打点12本塁打7盗塁174三振、打率.222という数字が残る。投手としては1年5試合0勝1敗、10回を投げ奪三振3、自責点7で防御率は6.30だった。まとめ今回の3名を見ると 背番号「21」としては比較的長く着けた人が2人いるよね 横山さんが10年 山尾さんが7年 でも成績はどうかというと「レギュラー近くまで行ったかな」という程度で華々しい活躍はできずスターとは言えないよね 実際今回の3名は顔がわかるような写真が残ってないわ それ以前の選手でも残ってる人は多いのによ 山尾さんのユニフォームの写真しか見つからなかったのは残念ね というわけで強引だけど桜の写真を添えさせていただきました さて次回の予告だけど 山尾さんのあとに着けるのは1972(昭和47)年秋のドラフト会議で1位指名で入団した投手なのよ 初めて「21」が脚光を浴びるときが来たわ 誰だかわかる? 次回をお楽しみに!背番号史を読んでくれてるみなさんへ 公式戦が始まってしまったので週1回ペースになりそうなの なかなか進まないけど隙間を見つけてアップしていくから待っててね背番号21の4へ続く
2024年04月08日
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背番号21(その2)背番号21の第2回目です一人目の谷田さんは3度目の登場になります この人は「21」を最初の2年だけ着けてたんだよね二人目は金田正泰さん ご存じのとおりダイナマイト打線の中軸だった選手でのちには監督も務めてるけど 「21」を1年だけ着けてるのよ三人目の河野さん 四人目の弘瀬さんもそれぞれ1年間しか着けてないわ 最初のころの「21」は短命な番号になってるんだよね谷田比呂美 捕手・内野手(再掲)谷田は1948(昭和23)年の入団。最初の背番号は「21」で次に「12」かわり、「14」は3番目に着けた番号。若い番号から順に紹介しているためすでに「12―2」で登場しており、そのままを再掲する。兵庫県の旧制尼崎中学を卒業後、社会人野球鐘紡に所属していたところ陸軍に召集され、戦後もシベリアに抑留された経験を持つ。帰国後には社会人の鐘紡に戻り、1948(昭和23)年にタイガースへ入団している。最初に着けた背番号が「21」だったが、入団から2年間だけで変えており、「6」をつけて出場したのは2年間で12試合に過ぎない。1年目は6試合5打数0安打。2年目も同じく6試合5打数0安打と大した戦力にはなっていない。 3年目となる1950(昭和25)年に「背番号12」に変更すると33試合に出場が増え60打数11安打を記録。4年目の1951(昭和26)年に84試合に出てからは第2捕手の位置づけとなっている。1952(昭和27)には背番号を「14」に変えており、「12」は2年間着けただけだった。選手としての特徴は、出場試合数に比べて打席数が少ないことがあげられるが、これは谷田がブルペンで準備する投手のボールを受けるブルペン捕手としての役目が多かったことと、右の代打の切り札的存在だったことによる。1953(昭和28)年の対大洋13回戦では、セ・リーグ初の代打サヨナラホームランを記録しているように、1打席での勝負強さがあったのだろう。タイガースでの最後の年となった1955(昭和30)年には自己最多の104試合に出場している。安打数や打点もキャリアハイだったが、同年オフに国鉄スワローズに移籍した。タイガースでは8年間プレーしたことになる。国鉄に移ると、金田正一との相性がよく、ほぼ専用捕手としてマスクをかぶる存在だった。ちなみに金田が新人の長嶋茂雄から4打席連続三振を奪った試合でもバッテリーを組んでいた。国鉄では5年間プレーし、1960(昭和35)年のシーズンを最後に現役を退き、その後数年国鉄でコーチを務めた。13年間で823試合に出場、通算成績は1511打数339安打170打点22本塁打7盗塁284三振、打率.224だった。金田正泰 外野手(再掲) 金田は1942(昭和17)年の入団。タイガースにおいて背番号「7」を外野手の番号として認識させた人物と言えるだろう。現役通算15年をタイガース一筋で通し、首位打者を獲得するなど非常に高い出塁率を誇る俊足好打の名外野手。背番号は最初が「28」、次いで「7」に変え、なぜか1950(昭和25)年だけ「21」を着け、その翌年から引退まではまた「7」を着けている。すでに紹介済みだが、タイガースの球団史においては重要人物であるため詳しく再掲する。金田は当時日本統治下だった朝鮮の出身、昭和24(1949)年に日本人女性と結婚して帰化している。京都平安中では春夏合わせて5回甲子園に出場する。左投げ左打ちで俊足の好選手だった。昭和16(1941)年に1週間ほどタイガースの松木謙次郎が平安中野球部をコーチをしたことがあり、当時キャプテンだった金田を高く評価している。その縁もあって昭和17(1942)年にタイガースへ入団することになった。最初につけた背番号は「28」。「7」に代わるのは昭和19(1944)年からだ。途中でなぜか昭和25(1950)年だけ1年間「21」を着けたが、翌年から引退までまた「7」を着けた。 戦前は3シーズン経験しているが芽が出ていない。昭和17年から19年までの3年間のトータルの数字は、170試合432打数88安打24打点4本塁打で、打率は.203に過ぎなかった。足が使えて積極的に盗塁を仕掛けているが、3年間で26回試み、成功15失敗11と成功率は高くない。選手として開花するのは、終戦の翌年、昭和21(1946)年からだった。この年の金田は人が変わったように打ちまくり、438打数152安打61打点1本塁打、打率.347で首位打者になっている。まだ1リーグ時代で152安打は当時のシーズン最多安打の新記録だった。 ダイナマイト打線 左から2人目が金田 この年を含め、昭和30(1955)年まで10シーズン連続で100試合以上に出場しレギュラーを守り、そのうち6シーズンで3割をこえている。しかしながら、二けたの本塁打を打ったのは現役中に1シーズンしかない。在籍16年、実働15年の通算では、1476試合5354打数1527安打568打点55本塁打187盗塁457三振、打率.285という立派な成績を残している。もっぱら1番を打つことが多かったが、俊足は盗塁よりも、広い甲子園を十分に生かした三塁打に現れており、通算103本という数字は、2023年現在でも、福本豊の115、毒島章一の106につぐ歴代3位の大記録だ。1シーズンに18本(これは現在もNPB最高記録)も打ったことがあるだけにベースランニングも上手かったと想像される。昭和31(1956)年は、有名な「藤村排斥事件」の首謀者とみなされ、出場機会が失われていき、翌昭和32(1957)年を最後に現役生活を終えている。引退の翌年、昭和33(1958)年には二軍監督に就任、翌年途中から一軍コーチとなっている。この2年間も背番号7を引き続き着けていた。昭和35(1960)に一軍監督となって背番号は「30」に代わる。この番号はタイガースでは創設以来金田まで、監督が着ける番号だった。この年はなんとか3位Aクラスで終わったが、翌昭和36(1961)年は開幕からチーム状態が悪く最下位を低迷する状態になり、6月6日に球団から「休養」を命じられて事実上の退任、シーズン終了後に退団し評論家生活となる。昭和47(1972)年、プレーイングマネージャーとなった村山監督の強い要請でヘッドコーチに就任し、ここから3年間「73」を着けた。開幕から波に乗れない村山監督が4月21日に指揮権を返上して現役一本に絞ると宣言したため、事実上の監督となる。ただし、表面上の監督はあくまで村山のままだった。成績が5割に戻った5月13日に金田は指揮権を村山に戻すことを球団社長に申し出たが、戸沢一隆社長は受け入れず、そのままシーズン終了まで金田に事実上の指揮をとらせた。一方の村山はこのシーズンを最後に監督を辞任、現役も引退する。これが金田に追い出されたように見える形となったため、藤井栄治、権藤正利、江夏豊などの村山シンパから反感を買うことになる。昭和48(1973)年、正式に監督に就任した金田は、ペナントレースでは首位から最下位までが6.5ゲーム差のなかにひしめく混戦で優勝争いを展開した。そんな中で村山シンパの選手たちとは冷え切った関係になり、特に権藤、藤井、江夏とはお互いにマスコミを通して批判を言い合うほど関係が悪化していき、逆に上田次郎をかわいがって偏重に扱うようになる。残り2試合でマジック1となった10月20日の中日戦、金田監督は中日キラーの上田ではなく江夏を先発に起用し、2-4で敗れる。1日空けて甲子園でのシーズン最終戦、巨人の高橋一三の前に散発4安打完封負け。目の前で巨人の優勝が決まった。胴上げを阻止しようと観客がグランドになだれ込み、巨人の選手に暴行を加えるなど球場は大騒乱状態になったため巨人は胴上げができず宿舎に帰った。なんとも後味の悪い幕切れだった。 中日戦で江夏、巨人戦で上田という起用は、様々な批判や論争を巻き起こしたが、金田は首脳陣と相談の上「後半戦の上田は不調で大きく負け越しており、エースである江夏の実績とプライドに賭けた」と言っている。また江夏も「大事な試合では勝ち星の多いほうを選ぶのは当然。自分の先発が間違っていたとは思わない 打たれた自分が悪い」と語っており、この一件に関しては「決してわざと負けようとしたわけなどない」と両者納得しているようだ。シーズン終了後、11月23日のファン感謝デーで権藤が金田に対し暴言の謝罪を求めたが応じられなかったため殴りつけるという事件が起きる。権藤はそのまま引退を宣言。藤井栄治はトレードされる。権藤を慕う江夏はこの件で「金田監督とは一緒に野球ができない」と言ってトレードを志願するが、球団は認めず残留、金田監督も翌年の指揮を執ることになる。 昭和49(1974)年のシーズンは出足好調だったが失速して4位。史上最低勝率だったこともあって退任する。この年、入団1年目の掛布雅之を周囲の反対を押し切って1軍で積極的に起用して定着させる。同期ドラフト1位の佐野仙好とサードのポジションがかぶっており、1位を差し置いて6位の掛布を使うことにはフロントからも強い批判が出たようだが、金田は無視して使い続けた。もちろん金田が見た第一印象も「体も目立って大きくないから、正直なところ2、3年ファームで体を鍛えて、いずれ守備要員でもなればと、そういう感じの選手でしたな」というものだった。しかしすぐに掛布の資質を見抜いて、批判されながらもシーズンで使っていった金田の目は確かだった。掛布自身も「金田監督がいなかったらのちの自分はなかった」とまで語っている。河野 博 外野手金田が着けたあと1年間空番になっていた「21」を受け継いだのが河野博。兵庫県出身で神戸二中(兵庫高校)時代には2年時、3年時と二年続けて4番打者として選抜大会を経験している。高校3年時に大阪タイガースの入団テストを受けて合格し入団する。1年目の1950(昭和25)年は背番号「43」で、3年目の1952(昭和27)にちょうど空いていた「21」を継承するが、この年のオフに引退しているので1年間しかつけていない。タイガースには3年間在籍しているが1軍の公式戦に出たのは2年目だけで、それもわずか10試合にとどまる。そのためこれというエピソードも残っていない。通算成績は実働1年10試合6打数0安打0打点1三振というさびしいもので、プロでヒットは打てなかった。1953(昭和28)年から神戸製鋼に入社して社会人野球でプレーした。弘瀬昌彦 投手背番号「21」は、河野の引退の翌年は空きとなっている。1954(昭和29)年に受け継いだのが弘瀬昌彦。高知県高知市出身で高校は高知商業。高校時代はファーストを守っていたが社会人野球の土佐電鉄に進んで投手に転向する。社会人時代には1953(昭和28)年に都市対抗本戦に進出してベスト8の経験を持つ。当時は「南四国のサブマリン」と異名を持つ下手投げの好投手という評価だった。1954(昭和29)年にタイガースへ入団。開幕2日目の洋松ロビンズ(現横浜DeNA)戦のリリーフでいきなりプロ初勝利を挙げる。しかしこの年5試合に登板しただけで、まだシーズンも終わらない夏に病気療養を理由に退団する。後に本人が明かしたところでは、魚とパンしか食べられない極度の偏食が原因で体力が続かなかったという。遠征先では食事に注文も付けられず、満足に食べることができないため夏場になって完全にバテてしまったようだ。タイガースでは1年5試合1勝0敗、15回1/3で自責点3、防御率1.69という数字しか残せなかった。故郷の土佐電鉄に戻って野球を続けていたところ、同郷で高校の先輩だった岩本章が当時広島カープのマネージャーをしており、その誘いがあって1957(昭和32)年に広島へ入団してプロへ復帰する。 広島では1964(昭和39)年まで8年間プレーしており、333試合43勝61敗、999回で自責点369、防御率3.32。1963(昭和38)年には50試合で先発も26試合務めて200イニングを超え、自己最多の10勝を記録するなど頑張った。しかし偏食は相変わらずで夏場以降はほとんど勝てなかった。1965(昭和40)年には阪急ブレーブスに移籍して10試合に投げるも0勝0敗に終わって2度目の引退となった。まとめ なんだか「21」は雑に扱われてる気がするよね今回の4人が着けた期間は 谷田さんが2年 金田さん河野さん弘瀬さんは1年づつ 4人で5年間ってあまりに少ないなあ 弘瀬さんは変わってるよね 偏食が理由で引退なんて初めて聞いたなあ あとで復帰してるけど偏食って治らないんだね・・・4人のうち投手は1人だけね のちには投手の番号に定着していくんだけど この当時はそういう意識も無かったんだろうね背番号21の2へ続く
2024年03月27日
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背番号21(その1)背番号21の第1回目です「21」は球団創設当時に選手が着けたなかで一番大きい番号ね これより大きい番号は監督が着けた「25」と「30」だけです創設年の1936(昭和11)年は監督が途中で交代してるから「25」と「30」なんだね これはまたそれぞれの番号で紹介します第1回目は戦前に背番号「21」を着けた5人の選手を一気に紹介するよ小島利男 内野手愛知県名古屋市出身で愛知商業学校時代には2年生だった1928(昭和3)年夏に始まり、1929(昭和4)年選抜、1930(昭和5)年春と3年続けて甲子園に出場している。2年時にはサード、3~4年時はセカンドだった。大学は早稲田大に進み、1934(昭和9)年に首位打者、1935(昭和10)年秋にはリーグ最初の3冠王になった。卒業後1936(昭和11)年に実業団の三菱鉱業へ入社するが同年8月に退社して、創設間もない大阪タイガースへ入団した。背番号は「21」。この年は秋季から公式戦に出場し31試合117打数30安打18打点、打率.256の成績を残している。小島は早稲田大の先輩である森茂雄監督を慕ってタイガース入りを決めたが、森は1936年7月29日に突如解任されており、小島が入団した8月には2代目の石本秀一監督に代わっていた。これを不服とした小島は何かにつけて石本監督と対立してしまい、球団からチームワークを乱すと判断されて、1937(昭和12)年春季の途中に突然イーグルスへ移籍することになる。ただし、イーグルスでは前年タイガースを解任された森が選手兼任監督となっていたため、ある意味で念願がかなった。イーグルスでは1937年の春季の途中から終戦まで所属しているが、1939(昭和14)年から1940(昭和15)年に1度目の応召、1941(昭和16)年から1942(昭和17)年にかけて2度目の応召、さらに1944(昭和19)年から終戦まで3度目の応召、ほとんどの期間を戦争に翻弄され続けた。1946(昭和21)年、プロ野球が再開されるとパシフィックに所属してプレーしたが、八百長が蔓延していることに嫌気がさして途中退団し、引退してしまう。1947(昭和22)年に電通に入社し3年間籍を置いていた。1950(昭和25)年に西日本パイレーツに招かれて選手兼任監督を務めたが1年で辞め、電通に戻った。その後は実業界に身を置き、文化放送を経てフジテレビの役員を務めた。1969(昭和44)年、55歳で逝去。プロ通算成績は276試合949打数215安打120打点4本塁打26盗塁103三振で、打率227だった。比留木虎雄(ひるきとらお) 内野手長崎県出身で長崎商業学校時代には1933(昭和8)年の選抜大会で甲子園を経験している。当時はセンターを守っていた。1936(昭和11)年11月にタイガースと契約。1937(昭和12)年が1年目のシーズンだが、当初背番号は無く、小島が移籍した春季リーグ途中時に「21」を継承し、おもにサードで起用されている。この年は春季・秋季合わせて8試合に出たが14打数0安打1打点でヒットは出なかった。1938(昭和13)年1月早々に応召すると約3年間軍隊生活をおくる。1940(昭和15)年の秋に復帰して7試合13打数2安打2打点、翌1941(昭和16)年には背番号を「27」に変えたが17試合で29打数3安打0打点に終わって引退した。 その後、高校野球の指導者に転じ、監督として母校長崎商業を率いて1952(昭和27)年の夏選手権、1953(昭和28)年の春選抜に甲子園出場を果たした。プロ通算は実働3年32試合56打数5安打3打点1盗塁9三振、打率.089である。木下 貞一(旧姓:松本) 投手・内野手・外野手愛知県出身で東邦商業時代には春の選抜で3回、夏の選手権で1回の甲子園出場を経験しており、1939(昭和14)年の選抜大会ではエース兼3番打者として優勝。甲子園通算10勝1敗の成績を残すスター選手の一人だった。内外野どこでも守れる万能選手だが、投手としては、ハエがとまるような超スローボールを織り交ぜながら打者を翻弄する巧みなピッチングで人気を集めたという。1941(昭和16)年にタイガース入団。背番号は比留木から「21」を受け継いだ。この年、16試合に登板して2完封を含む4勝4敗、73回2/3を投げて自責点13、防御率は1.58という数字を残すとともに、外野手としても11試合に出ている。 1942(昭和17)年は本格的に野手に転向したため投手としては1試合に投げただけで0勝1敗だった。セカンドとして起用され61試合203打数47安打9打点で、打率.232を記録している。ところがこの年木下家の養子となると、木下家の希望にしたがってシーズン途中で現役引退している。戦後は社会人野球の愛知産業に所属して主軸として活躍し、1953(昭和28)年には名古屋ドラゴンズでプロ野球に復帰する。ドラゴンズでは非常に成功率の高い代打専門の選手として「日本一のピンチヒッター」と呼ばれ2年間過ごしたのち引退している。その後は妻の実家の瀬戸市で陶磁器製造業を営んでいたが2007年12月に88歳で逝去。大橋 棣(やすし) 投手・内野手大阪府出身、旧浪速中学から関西大学へ進み遊撃手として活躍。卒業後は門司鉄道管理局に所属し、1942(昭和17)年10月にタイガースへ入団している。背番号は引退した木下の「21」を引き継ぎ2試合に出場した。1943(昭和18)年は5試合に出場、そのうち投手として1試合に投げたが、同年オフに退団してしまう。その後はアマチュアの指導者となり、1954(昭和29)年には監督として米子東高校を夏の甲子園に導いている。プロ通算成績は、打撃が7試合8打数0安打0打点、投手として1試合防御率4.50だった。塚本 博睦(ひろよし) 外野手広島県呉市出身、旧制呉港中学私大の1934(昭和9)年には藤村富美男などと共に春選抜に出場し全国制覇している。卒業後は立教大学に進んだが、先にタイガースに入団していた藤村の誘いを受けて中退し、1936(昭和11)年12月17日、タイガースと契約した。最初の背番号は「22」で、この番号を着けた最初の選手である。1937(昭和12)年に6試合、1938(昭和13)年に15試合とレギュラーに慣れないうちに同年末に応召され1941(昭和16)年まで3年間の兵役を務めることになる。1942(昭和17)年に復帰すると94試合に出場、主に1番センターとして20盗塁を決めるなどレギュラー選手となった。1943(昭和18)年も81試合に出たが打率は1割台で、どちらかと言えば「守備の人」のイメージだったが、1944(昭和19)年は打率が2割5分台になって向上したが、戦争の激化で31試合しか出場機会がなかった。戦後にプロ野球が再開されると、1946(昭和21)年にタイガースに復帰し背番号を「21」に変える。1947(昭和22)年には106試合347打数104安打34打点17盗塁で打率も3割を記録して優勝に貢献したが、金銭面などの待遇で球団に不満があり、オフに自由契約を希望して阪急ブレーブスに移籍してしまう。1948(昭和23)年、阪急では135試合に出場し536打数139安打48打点4本塁打、39盗塁を決める大活躍を見せたが1年で退団。 1949(昭和24)年は東急、1950(昭和25)年は西日本パイレーツ、1951(昭和26)年は西鉄ライオンズ、1952年は広島カープと渡り歩いて引退している。通算成績は885試合2824打数712安打219打点17本塁打170盗塁229三振、打率.252である。2009年8月20日、90歳で逝去。まとめやっぱり戦争の影が色濃く影響してるなあ小島さんは野球やってる期間より戦争に行ってる期間のほうが長いくらいだし比留木さんに至っては3回も応召してる やってらんないよね 4人の写真が残ってるっていうのは奇跡に近いわこれまでの背番号史を振り返っても 戦前の選手たちはホントについてないわ 戦争によって人生を台無しにされた人が多いのよ でもこういう人たちがつないでくれたから今のプロ野球があるわけね 塚本さんは戦後毎年のように球団移ってる こんなんで落ち着いて野球できたのかな? でも戦後のほうが成績は好いのよね背番号21の2へ続く
2024年03月18日
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背番号20(その8)背番号20の最終回第8回です ようやく最終回にたどり着いたね 今回は4人です 10年以内のことだから皆さん覚えてるよね?球団創設から現在の森木大智投手を含めて26名の選手が「20」を着けました 背番号「19」は16名だったから10人も多いのね10年以上着けたのは(その5)で紹介した伊藤文隆さん一人だけで それもちょうど10年間だったのよ ということは「20」を着けた人には長期にわたってチームを支える中心選手がほとんどいなかったことになるわ 森木投手は高校から入って2024年が入団3年目になるけど、今季は一軍でバンバン投げてほしいよね ずっとファームにいてはファンが「20」を見る機会が遠のいちゃうからねロマン・メンデス 投手ドミニカ共和国サンペドロ・デ・マコリス出身。2007(平成19)年7月にボストン・レッドソックスとマイナー契約してプロ入り。2010(平成22)年にトレードでテキサス・レンジャースに移り、2014(平成26)年に初めてメジャーに昇格し30試合で0勝1敗、防御率2.18の成績を残したが、2015(平成27)年の途中にボストン・レッドソックスへ移籍。日本へ来る前年の2016(平成28)年はメジャー昇格がなく、3Aポータケットで32試合に登板。4勝2敗2セーブ59奪三振・防御率3.38という数字が残っている。 2016年11月27日に1年契約でタイガースに入団。背番号「20」が与えられた。外国人投手はランディ・メッセンジャーとマルコス・マテオがすでに契約済みで、ラファエル・ドリスは手術後の状況が不明なため未契約。その保険としてメンデスと契約したようだ。 191センチの長身から投げるストレートは威力があり、触れ込みでは最速162キロという剛腕が自慢の右本格派投手というものだった。 しかしドリスが春季キャンプに間に合ったため、外国人投手が4人になってしまった。外国人投手の一軍登録枠は3名という規定があり誰か1名は外れることになる。 シーズンに入るとマテオとドリスの調子が上々だったため、メンデスは7月中旬までファーム暮らしとなるが、ウェスタンで38試合に登板して19セーブを稼ぎアピールを続けていた。 その甲斐あって、腰の張りによってマテオが抹消されると7月22日に一軍登録されて5試合に登板し1ホールド1失点の結果を残す。しかしマテオが回復すると7月31日には登録抹消されてしまう。 8月11日にメッセンジャーと入れ替わって再び登録され3試合に登板するも計8失点と打ち込まれ、わずか5日で抹消されてしまった。 その後もウェスタンでは投げ続け、最終的にリーグトップの23セーブを記録したのは評価できる。まだ27歳で伸びしろも感じられるためシーズンが終わるとフェニックスリーグに派遣されて出場しており残留の可能性があると思われた。しかし結局12月2日に自由契約となって退団している。 タイガースでの成績は8試合0勝0敗1ホールド9奪三振、9回2/3を投げて自責点7、防御率6.52だった。ウィリン・ロサリオ 内野手ドミニカ共和国ボナオ出身。2006(平成18)年にコロラド・ロッキーズとマイナー契約しプロ入り。アメリカ時代は主として捕手だった。 2011(平成23)年に初めてメジャーに昇格し16試合に出場している。2012(平成24)年から2014(平成26)年までの3年間は、いずれも100試合以上に出場し、本塁打も28本、21本、13本と長打力も見せており、メジャー5年間で71本塁打を放っているところは大きな魅力だ。2015(平成27)年には出場が87試合に減ってしまい、韓国に新天地を求めて海を渡る。2016(平成28)年はハンファ・イーグルスに所属し、127試合に出場、打率.321、33本塁打、120打点と大活躍。 続く2017(平成29)年も119試合の出場で、打率.339、37本塁打、111打点、10盗塁という好成績を挙げている。シーズンが終わると当然ハンファ側は引き留めたがロサリオは退団を申し出る。 2017年12月13日にはタイガース入団が決まり、背番号「20」を着けることとなった。年棒3億4千万円+出来高の1年契約。マイク・グリーンウェルの3億3千万円を上回る新外国人最高額となった。 韓国での2年間の成績が抜群なだけに、タイガースではファーストを守り開幕から4番に起用されたが、そのバッティングは期待を大きく裏切る結果となる。他の外国人選手と同様にインコースを攻められたあと、外へ逃げるスライダーに対応できない弱点を露呈し、5月には4番を外されてしまう。打率は2割5分に届かない上にホームランも期待ほどでないことから6月3日にロサリオの登録を抹消し、同月15日には新たにエフレン・ナバーロを獲得している。ロサリオは7月17日に再登録されたが打撃は精彩を欠き、8月27日に再び抹消されるとそのままファームでシーズンを終えている。成績は75試合281打数68安打40打点8本塁打71三振、打率.242では1年で解雇もやむを得ない。韓国での数字は何だったのか?とファンのガッカリ感は半端ではなかった。 背番号「20」は、ロサリオ退団の翌2019年は空き番となっている。中田賢一 投手福岡県北九州市出身で県立八幡高校から北九州市立大学へ進む。高校時代は130キロ程度だった球速が大学で150キロまで上がり、リーグ通算300奪三振を記録してドラフト候補へ成長すると、2004(平成16)年のドラフト会議で中日ドラゴンズに2順目で指名され入団している。ルーキーイヤーの2005(平成17)年は開幕からローテーション入りし、15試合で8勝3敗、防御率3.63の好成績を挙げる。3年目の2007(平成19)年には28試合14勝8敗1ホールドで自己最多勝を記録した。中日には9年在籍し186試合61勝51敗1セーブ16ホールドの成績を残し、2015年11月6日に国内FA権を行使する。タイガースは熱心に獲得に動いたが、結局は故郷に近い福岡ソフトバンク・ホークスを選択して移籍している。ソフトバンクでは移籍1年目の2016年に自身2度目の二けたとなる11勝を挙げるなど、6年間在籍して39勝26敗の成績で先発投手として貢献したが、年々成績は落ちており、2019(令和元)年に公式戦わずか1試合の登板に終わると戦力外を通告された。 2020(令和2)年、タイガースに無償トレードで移籍し、中日時代に着けていた背番号「20」がちょうど空き番だったので継承する。 この年には3試合に先発したが0勝1敗で防御率も7.95と復活できず、2021(令和3)年は一軍に上がることもなく、ファームで調整を続けるうちに限界を感じたため9月28日に引退を発表した。 一度はFAで蹴られた選手だけに、タイガースファンとしては後味の悪い最後だったのではないか。 通算成績は297試合100勝79敗1セーブ16ホールド、1550回1/3を投げて1350奪三振、防御率3.75である。森木大智 投手高知県土佐市出身。高知高校時代に甲子園出場はなかったが、3年時にはストレートの最速が154キロに達してプロ注目の投手の一人となっている。 2021(令和3)年のドラフト会議でタイガースは1巡目に小園健太を指名したが横浜DeNAと重複し抽選に敗れたため、改めて森木を指名して入団が決まり背番号「20」の継承者となった。 1年目の2022(令和4)年はファームで14試合4勝2敗、53回を投げて自責点24で防御率は4.08だったが、投球回数を上回る58個の三振を奪っており、期待は膨らんだ。1軍でも2試合いずれも先発で起用されたが0勝2敗、計8回2/3を投げて自責点6で防御率は6.32だった。 2年目の2023(令和5)年は投手陣が充実しており、優勝へひた走っていたこともあって1軍での登板機会は与えてもらえなかった。 ウェスタンでは15試合に登板し3勝4敗。52回2/3で自責点36、防御率は6.15と精彩を欠き、三振も34個しか奪えず1年目の勢いがなくなってしまっている。 2024(令和6)年は3年目。まずプロ初勝利を挙げたいが、そういう機会が与えてもらえるかどうかは本人次第だろう。まとめ メンデス投手は保険として契約した感じで、結局は余剰戦力になってしまったようね ファームではかなり好い成績だったのに残留すらできず 何しに来たのやら分からないまま解雇ってちょっとかわいそうだった ロサリオ選手はとんでもない結果に終わったね とにかくメジャーで71発打ってるし韓国での数字が抜けてるから手拍子で3億4千万円も出しちゃったけどドブに捨てたなあ 最近の日韓のレベル差って相当開いてるんだろうね・・・ 中田さんは一度FAで阪神を袖にしてるのによく来れたなあっておもった ソフトバンクで通算100勝を達成してたから 阪神で一つでも上積みしたいって会見で言ってたけど1勝もできずかっこ悪かったよ 森木君は期待の投手 どちらかというとパワーピッチャーです 184センチ93キロの体格も立派 才木君や湯浅君のように速球で押せる投手になってほしいわ これで背番号「20」は終わりです 読んでくれてありがとう背番号21に続く
2024年03月08日
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背番号20(その7)背番号20も第7回になりました各選手の着けてる期間が短いことも多くてその分人数が多いよね 今回を含めてあと7人残ってますが 結論を言うと約90年の歴史で一流と呼べるほどの人は着けてません まだこれから育てないといけない番号なのよ金沢健人 投手茨城県北茨城市の出身で県立磯原高校時代は全く無名の投手だった。卒業後NTT関東に入社し、1998(平成10)年の日本選手権で優勝。金沢は抑え役として活躍している。この年NTTグループの再編によりNTT関東が消滅し野球部も廃部となったため、規定より1年早くプロ入りが認められる。ドラフト会議ではタイガースへ逆指名2位で入団。背番号「20」を継承した。 187センチ90キロの大型右腕でポテンシャルが高く、タイガースでは大切に育成する方針となって2年目まではファームで鍛えられた。 一軍デビューは3年目の2001(平成13)年8月。この年12試合にすべてリリーフで登板したが0勝0敗、13回を投げて自責点10、防御率6.92に終わっている。 2002(平成14)年にはフォークボールを習得し、新しく就任した星野仙一監督が積極的に起用したため50試合で5勝4敗1セーブ、防御率4.33の成績を挙げ、1年を通じて貴重な中継ぎで活躍した。49試合がリリーフで先発は1試合だけだったがその試合で勝利投手になっている。 2003(平成15)年はすべてリリーフで36試合に投げ、防御率2.75と安定した成績でリーグ優勝に貢献した。日本シリーズでは1試合に登板しているが2回8失点と炎上して貢献できなかった。 2004(平成16)年には右ひじの故障で23試合1勝1敗にとどまりオフには手術を受ける。 2005(平成17)年は故障の影響で一軍での登板は無く、ファームの9試合で投げただけだった。 2006(平成18)年には復活して25試合に投げ3勝1敗7ホールドの成績を挙げたが、防御率は4.78と信頼性が無くなってしまったため、2007(平成19)年の開幕直前に、正田樹との交換トレードで日本ハムファイターズへ移籍することになる。背番号「20」は入団から移籍するまでの8年と約2か月付けた。 2007年と2008(平成20)年は日本ハムでプレーしたが、2年で戦力外。2009(平成21)年は入団テストに合格したオリックスで5試合に起用されるも2010(平成22)年4月にソフトバンクへトレードされてしまう。 ところがソフトバンクに移ると38試合に起用されて防御率2.89と覚醒する。移籍1年目の2011(平成23)年には53試合1勝1敗3セーブ16ホールドで防御率1.66と生涯最高の成績を挙げる。 2012(平成24)年も49試合で防御率2.44と安定した数字を残しており、まさに「晩成」と言っていい。 2013(平成25)年、27試合で防御率も3点台に低下して衰えが顕著になると10月に戦力外通告を受ける。合同トライアウトに挑戦したが獲得球団はなく引退に追い込まれた。 通算成績は332試合15勝11敗4セーブ32ホールド287奪三振、412回1/3を投げて自責点171、防御率3.73だった。正田 樹(いつき) 投手金沢健人とのトレードで2007(平成19)年4月にタイガースへ入団し、背番号も金沢から「20」を受け継いでいる。群馬県太田市出身で188センチの大型左腕。1999(平成11)年、桐生第一高校の3年時にエースとして夏の選手権に出場し群馬県代表として初優勝を飾る。正田も3完封と活躍してプロ注目の投手になり、同年のドラフト会議では日本ハムファイターズから1位指名されて入団している。 プロ1年目の2000(平成12)年に5試合、2年目の2001(平成13)年に1試合と一軍を経験するが勝ち星は付かなかった。3年目の2002(平成14)年、ローテーション投手に抜擢されて23試合に投げると規定投球回数をクリアして9勝11敗、防御率3.45の好成績を挙げ、最優秀新人に選ばれている。2003(平成15)年から2005(平成17)年までの3年間はすべて先発で起用されたものの5勝、8勝、2勝と伸び悩み、2006(平成18)年はついに一軍登板なしで終わってしまう。既述のように2007年4月に金沢に代わってタイガースへ移籍したが、在籍2年間で一度の一軍登板もないまま戦力外通告。2009(平成21)年から2年間は台湾にわたって興農ブルズでプレーし、2011(平成23)年に日本に戻って独立リーグの新潟アルビレックスBCで地区優勝に貢献するピッチングを見せた。2012(平成24)年にはヤクルトスワローズに入団してNPBに復帰。2年間中継ぎとして39試合に登板し1勝1敗4ホールド、防御率2.85と働いたが戦力外。 2014(平成26)年には再び台湾に渡り楽天モンキーズに入団するも5月には解雇されて日本に戻り、四国アイランドリーグplusの愛媛マンダリンパイレーツに入団し、2023(令和5)年までプレーして引退した。NPBでの通算成績は123試合25勝38敗4ホールド263奪三振、486回1/3を投げて自責点254、防御率4.70だった。筒井和也 投手(再掲)筒井投手は背番号「19」で紹介済み。再掲する。愛媛県伊予市出身、松山北高校から愛知学院大学へ進む。大学時代には2年時の大学選手権での8連続三振を記録。大学通算29勝4敗で防御率1.04の成績を残すとともに、リーグ戦で24連勝を記録するなど、三振が取れる速球派の大型サウスポーとして注目を浴びる存在となった。2003(平成15)年のドラフト会議では自由獲得枠(逆指名1位)でタイガースに入団、最初は川尻が着けていた「19」を引き継いでいる。鳴り物入りで入団した筒井だったが大きく期待を裏切り、1年目に1勝しただけでプロ入り5年間は芽が出ていない。2004年 1試合 1勝0敗 5回1/3 自責点1 防御率1.692005年 1試合 0勝0敗 3回 自責点2 防御率6.00 2006年 一軍登板なし2007年 4試合 0勝0敗 5回 自責点6 防御率10.802008年 3試合 0勝0敗 4回 自責点1 防御率2.25筒井はこの間に事件も起こした。2005(平成17)年1月、兵庫県内の中国自動車道で自家用車を運転中に、83キロオーバーの速度違反で検挙される不祥事を起こし、球団から50万円の罰金と当面の対外試合出場禁止、自動車運転の禁止という重い処分を受けている。芽が出ない筒井は2009(平成21)年、背番号を「20」に変え、一応一軍のブルペンにいたものの当初は敗戦処理だった。7月にプロ初ホールドを記録したあたりからようやくエンジンがかかり、結果的にこの年45試合に登板して53回1/3を投げ、防御率3.71を記録している。 本当の意味でブレイクしたのは2012(平成24)年のことで、すでにプロ入り9年目。キャリアハイの58試合に登板して2勝1敗2セーブ18ホールド、50回46奪三振、自責点18防御率3.24という成績だった。その後の2年間も39試合、28試合とそこそこ働いたが、2015(平成27)年が6試合、2016(平成28)年には1試合となって引退。 通算成績は221試合8勝6敗3セーブ29ホールド、242回を投げて215奪三振、防御率3.87だった。背番号「20」は8年間背負った。まとめ 金沢さんはフォームに問題がったのかヒジを壊したんだよね それまではボールのキレが抜群だったらしいよ でもソフトバンクでは完全復活できて好かったよね 高校時代の正田さんは凄い投手だったんだね プロでも3年目に新人王になって日本ハムでエースになりそうな雰囲気だったのに そこをピークに下降してしまうのよ タイガースでは何の役にも立たなかったわ筒井さんは背番号「19」で紹介済みだけど 湯浅君の担当スカウトだったのよね 今の湯浅君を見てると心配してるんじゃない?何かアドバイスしてあげてほしいよ背番号20-8に続く
2024年03月05日
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背番号20(その6)背番号20の第6回目ですここまで見てきても「背番号20」はタイガースでは地味系な感じがしてならないよね今回の最初の人も「誰だろうね?」となってしまうんだけど だんだんと時代も新しくなって来てるからそれなりに「ああいたよね」って名前を思い出す選手も出てくるよ眞鍋勝已 投手・捕手・外野手岡山県倉敷市の出身で高校は関西高校だったが全国大会などとは無縁。1986(昭和61)年のドラフト会議でタイガースから6巡目に指名されて入団。最初の背番号は「57」だった。1年目の1987(昭和62)は秋季オープン戦の巨人戦で好投して1勝をあげると、この秋に就任したばかりの村山実監督が惚れ込んで背番号「20」へ変更させている。「20」で臨んだ1988(昭和63)年はカリフォルニア・リーグの1A、フレズノ・サンズへ野球留学するが目立った成果がなく、帰国後一軍に上がることはできなかった。 1989(平成元)年には、背番号「20」を渡辺信彦に譲り、「55」に変えて臨んだがウェスタンで1試合に投げただけで肩を壊してしまう。 投手として投げられなくなり、1990(平成2)年は捕手に転向したが、ファームですら試合に出れず、もっぱら受けるだけのブルペン捕手に終始している。 1991(平成3)年に外野手へ転向。結局ウェスタンの試合にすら出場できずにオフには引退している。在籍5年間で一軍公式戦の出場はできなかった。 1992(平成4)年、ブリンクマン・フローミング審判学校で学んだ後、セントラル・リーグの審判部に採用されて関西審判部に入局。 2021年4月6日、甲子園での阪神VS巨人伝統の一戦で通算2500試合出場を達成している。現在では最古参の審判員である。2020年の東京オリンピックでも審判を務めた。 眞鍋は6回だけストライクのコールが変わる。このイニングだけ天を見上げ両手を上げるのだが本人はそのわけを明かさないという。渡辺伸彦 投手兵庫県尼崎市で生まれだが島根県邑智郡石見町へ引っ越したため高校は島根県の益田高校。高校時代に捕手から投手に転向している。3年時に社会人王子製紙米子のテストに落ち、広島の常石鉄工に入団した。 1988(昭和63)年の都市対抗予選での活躍が認められて同年ドラフト会議でタイガースの5位指名を受けて入団している。眞鍋から背番号「20」を引き継ぐ。 ルーキーイヤーの1989(平成元)年、5月31日のヤクルト戦で一軍公式戦初登板を果たす。この試合の6回、渡辺はラリー・パリッシュの頭部へデッドボールをぶつけた。激怒したパリッシュがマウンドへ突進し、止めに入った捕手の岩田徹の頭を空手チョップで叩いたことで両軍が入り乱れる乱闘に発展した。この結果パリッシュが退場し、渡辺は続投するが、乱闘直後に中西親志の頭付近へまたも危ないボールを投じたことから再び大乱闘になり外野を逃げ回る醜態を演じた挙句、セ・リーグでの危険球退場適用第1号になった。(パ・リーグでは1982年の井上祐二が初)それでもこの年は30試合にリリーフ登板し防御率3.70と戦力になっている。 2年目の1990(平成2)年にはパリッシュが移籍してきてチームメイトになったため無事に和解する。5月1日のヤクルト戦でプロ初勝利を挙げたが、この試合ではパリッシュが第6号ホームランで援護している。 渡辺は41試合に登板して先発も4回経験するなど65回1/3を投げ、2勝1敗2セーブで防御率は5.10だった。 ところが1991(平成3)年が8試合、1992(平成4)年も11試合と登板機会が減り、1993(平成5)年には背番号「20」を郭李健夫に譲って「41」に変えたが21試合0勝2敗に終わっており、オフには古溝克之との交換トレードでオリックス・ブルーウェーブへ移籍する。 オリックスには1997(平成9)年まで4年間在籍し、すべてリリーフで121試合に登板 通算7勝7敗13セーブ防御率2.98の成績を残しているが自由契約に。 1998(平成10)年はテストで横浜ベイスターズに入団したが登板は無く、在籍2年目に5試合で6イニングを投げたが、7失点で防御率10.50に終わり、2000(平成12)年に引退した。 2002(平成14)年にタイガースへ復帰して2019(平成31)年までバッティング投手を務めていた。郭李建夫(クォリー・チェンフー) 投手台湾平鎮市の出身。 中華高給高校からノンプロ栄工棒球隊や俊国棒球隊に所属。速球主体の本格派右腕として1992(平成4)年のバルセロナ五輪ナショナルチームのエースとなり銀メダルを獲得している。 五輪後、日本のプロ野球入りを希望し、激しい争奪戦となったが子供のころからのタイガースファンであったこともあり、在籍中のオマリー、パチョレックに次ぐ「第3の外国人」として入団している。背番号は渡辺から「20」を引き継いだ。 当時一軍公式出場選手登録の外国人選手枠は2名で、郭李の出場機会が少ないことを分かっていながら(PKO問題)、このタイミングでタイガースは野田浩司を放出してしまうという矛盾を犯している。それだけ郭李に期待していた裏返しではあるのだが・・・ そんな状況だった1年目の1993(平成5)年、郭李は27試合に登板、そのうち24試合がリリーフだったが5勝4敗2セーブで防御率3.68という数字を残す。51回1/3で48奪三振も期待通りだった。 1994(平成6)年は49試合47試合がリリーフ。7勝5敗2セーブで防御率3.14と数字を伸ばしている。 1995(平成7)年は待望の先発ローテーションに入りも果たし、30試合のうち17試合の先発があったが、成績は5勝12敗と大きく負け越してしまった。ただし防御率は3.37でそれほど悪くなく援護に恵まれなかった面はある。1996(平成8)年にはチーム事情により途中からストッパーに配置転換されながらも、46試合で8勝9敗15セーブとよく働いている。1997(平成9)年は故障などでわずか5試合しか登板できず、ファームでも13試合で1勝6敗1セーブと低迷した。 1998(平成9)年も11試合2勝1敗と奮わず、この年で解雇されて台湾に戻った。タイガースでは在籍6年間を通して背番号「20」を背負った。 台湾に戻ると大信ホエールズで5年間プレーしたのち引退している。 NPB通算成績は167試合(先発28)27勝31敗19セーブ299奪三振、375回で自責点146の防御率3.50。 入団当初から期待が高く150キロを超えるストレートで三振を奪う力もあったが、何度もフォームを修正させられるうちに成績が伸びなくなっており、使われ方も先発とリリーフのどっちつかずで大成できずに終わったのは残念だった。 まとめ 一人目の眞鍋さんは多分タイガースファンの記憶にほとんど残ってないんじゃない?でも審判として大成できたのは凄いよ 選手だけが人生じゃないのよ 渡辺さんはなんだかわけがわからない選手ね コントロール悪かったのかな 強気でインコース攻めておいて相手が怒ると外野まで逃げていくってなんなの??? 郭李さんは当時を知る人に聞くと期待度は凄かったみたいね 確かに体つきもがっしりしてるし 剛速球投手ってイメージは分かるな でも台湾で育ってるから 日本の指導者から見るとフォームに色々欠点があったらしいのよ いじられてるうちに混乱して大きく伸びることができなかったようね 素材は一級品だったのに惜しかった投手だわ背番号20-7に続く
2024年03月03日
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背番号20(その5)背番号20の第5回目です多くの選手の着けた期間が短いという特徴のある背番号「20」だったけど前回は石川緑さんが6年 辻恭彦さんが7年で すこし落ち着いてきた感じがしたよね今回は3人を掲載するけど 3人目に出てくる伊藤投手が唯一この番号を10年着けた選手 その選手のおかげで「20」が投手の番号に定着したともいえるかな? 伊藤さんは「14-5」で登場済みだけど再掲するよ笹本信二 捕手・外野手徳島県板野郡松茂町出身で高校は鳴門高校。3年時の1970(昭和45)年の選抜大会に4番・捕手・キャプテンとして出場しベスト4、卒業後は同志社大学に進学する。大学では1年春から4年秋まで、リーグ戦の全試合に出場して優勝4回、ベストナイン4回。特に一学年下のエース田尾安志とバッテリーを組んでいたころは無敵の強さだった。通算95試合346打数86安打8本塁打、打率.249の成績を残している。 1974(昭和49)年のドラフト会議でタイガースから3位指名を受けて入団、辻恭彦の着けていた背番号「20」を受け継いだ。 右投げ左打ちでバッティングフォームは掛布と似ておりパンチ力もあったが確実性に欠けるところがあった。 即戦力捕手と期待がかかっているが、1年目の1975(昭和50)年当時はまだ田淵幸一がマスクをかぶることが多かったため33試合にしか出ていない。しかも代打や守備固めがほとんどで25打席に立っただけだ。成績も23打数5安打5打点9三振で、打率は.217と寂しい。 2年目の1976(昭和51)年には阪急ブレーブスから片岡新之介(タイガース背番号史 13の3 | タイガース非公式サイト2代目 - 楽天ブログ (rakuten.co.jp))が移籍してくる。当時のタイガースは基本的に一軍ベンチの捕手は2名体制だったため、ますます出番が減って14試合13打数1安打4三振、打率.077という数字しか残せなかった。 そのため1977(昭和52)年のシーズン開幕直前に、竹村一義・新井良夫との1対2の交換で阪急へ放出されてしまう。 移籍先の阪急には正捕手の中沢伸二がおり、笹本は控え捕手に甘んじている。それでも打力が向上して1979(昭和54)年は68試合ながら打率.327、翌1980(昭和55)年は79試合で7本塁打と貴重な戦力になっていた。1977年4月24日のロッテ戦では5度の盗塁阻止を記録。これは2024年現在でも1試合における盗塁阻止数の日本プロ野球タイ記録である。 ところが1981(昭和56)年に片岡新之介がタイガースから戻ってきたため余剰戦力となり、1982(昭和57)年のシーズン序盤で読売ジャイアンツへトレードされることに。二度も片岡に追い出された格好になった。 読売には山倉和博という正捕手がいたためまた控えに甘んじ、4年間在籍したものの111試合の出場に終わって、1985(昭和60)年を最後に現役を退いた。 通算成績は462試合598打数145安打20打点16本塁打98三振、打率.242。竹村一義 捕手・外野手高知県安芸市出身。安芸高校ではエースだったが全国大会には縁がなかった。それでも1967(昭和42)年のドラフト会議では大洋ホエールズから7位指名を受けプロ入りする。大洋では3年目の1971(昭和46)年に38試合登板して103回2/3を投げ2勝5敗、防御率2.86と働いたが、5年在籍中の勝利はこの年の2勝のみ。5年目の1973(昭和48)年シーズン途中に阪急ブレーブスへトレードで移籍する。 1973年の途中からとはいえ、移籍先の阪急では先発要員に抜擢され8勝3敗で防御率2.93と結果を出す。 1974(昭和49)年も先発機会が多く、31試合9勝3敗で規定投球回数に達し、最高勝率のタイトルを獲得した。 1975(昭和50)年には26試合で11勝6敗とプロ生活唯一の2桁勝利を挙げて貢献している。 1976(昭和51)年には有名な事件があった。6月17日の日本ハム戦の4回、ウィリアムスの後頭部へ死球を投じ、続く5回にも上垣内誠へ顔付近への死球を当て、怒った日本ハム監督の大沢啓二が一塁コーチャーズボックスから駆けつけて殴打した。 ウィリアムスと大沢の2人は退場処分となったが、当時は危険球退場の規定はなく、抵抗しなかった竹村は処分を受けなかった。一方で退場となった2人は罰金5万円と一週間の出場停止の処分も追加されたため大沢は「危険な投球に対しては退場処分を下す」ように主張を続け、その後危険球退場制度へつながっていく。 結局竹村はこの年0勝に終わり、1977(昭和52)年の開幕直前に前述の笹本とのトレードでタイガースに移籍することになる。 このシーズンは13試合0勝3敗、防御率5.82と戦力になれず自由契約となり、日本ハムファイターズの入団テストを受けるも不合格となって引退に追い込まれた。 通算成績は172試合(先発79)30勝23敗290奪三振、609回を投げて自責点255、防御率3.77で勝ち越しているのは評価できる。伊藤文隆(「伊藤 弘利」「伊藤 宏光」) 投手(再掲)背番号14ー5で登場済みだが再掲する 愛知県名古屋市出身で大同工業高時代に予選決勝まで進んだことで注目され中日から5位指名を受けたが拒否。明治大に進むも中退して社会人三協精機に入部している。1977(昭和52)年の都市対抗での好投が評価され、同年秋のドラフト会議でタイガースが1位指名し入団することになる。もらった背番号は「20」で10年間着けており、1988(昭和63)年から引退までの4年間は「14」を着けた。 入団当時はタイガースで一番ストレートが速いと言われた本格派右腕で期待されたが、1年目の1978(昭和53)年は18試合で1勝1敗に終わると、2年目が1勝3敗1セーブ、3年目が4勝6敗と期待を裏切り伸び悩んだ。4年目の1981(昭和56)年に33試合で8勝を挙げ、ようやく頭角を現してくると、1982(昭和57)年には10勝をマークしてエース級に成長するかに見えた。ところが日本一になった1985(昭和60)年は5勝に終わり、翌年に8勝と持ち直したものの、1987(昭和62)年は0勝9敗と白星を挙げることができなかった。1988(昭和63)年、心機一転を期して八木から背番号「14」を譲り受けて臨み、開幕から2連勝をいずれも完封勝利で飾る。しかし、4月27日の大洋戦で右踝をスパイクされて重傷を負ってからほぼ1年を棒に振った。翌年からは3勝8敗、2勝4敗、0勝1敗と活躍することはできず、1991(平成3)年のシーズンを最後に現役を退いた。 ストレートは速く威力があり、好調時には手のつけようがないと感じさせるほどのピッチングを見せるが、あっさりとノックアウトされたり突如制球を乱すなど波が激しいのが特徴だった。通算成績は14年間で320試合に登板し54勝81敗4セーブと大きく負け越しており、防御率も4.43だった。エースを期待されながらなり切れなかった投手である。まとめ 笹本さんは巡り合わせが悪かったというのもあるけど 実際には実力不足だったんだろうね でもドラフト3位で入れといて2年でトレードって ちょっとかわいそうだよね 竹村さんはその笹本さんとのトレードできた投手 タイガースではもう晩年で1勝もできずに1年で終わっちゃったから 余計に笹本さんが気の毒におもえるわね 伊藤さんは背番号14ですでに紹介してるけど タイガースは先発ローテを守る投手になってほしかったようね でも評価ではストレートがすごく速いということみたいだから リリーフ専任で試してみるのもありだったんじゃない? 1イニング限定にしてあげれば先発と違ってペース配分もないからバンバン速球で攻めて三振取っちゃうほうに向いてたんじゃないかなあ背番号20-6に続く
2024年02月28日
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背番号20(その4)背番号20の第4回目です最初に出てくる伊奈さんは背番号17-2で紹介済み 中日から来たんだけど背番号「20」は1年しかつけなかったんだよねその伊奈さんから背番号を引き継いだ石川緑さんも中日からの移籍組なんだけど この人はタイガースでも割と活躍してるのよ石川さんの次は辻 恭彦さんで「ダンプ辻」と呼ばれたキャッチャーね伊奈 努 投手(再掲)愛知県御津町(現豊川市)の出身。豊川高校では左のエース級投手である一方で一塁手もこなし地区予選ベスト4が認められて、1953(昭和28)年に名古屋ドラゴンズへ入団し、プロ入り後は投手に専念する。 1957(昭和32)年には36試合(うち先発19)に登板して12勝12敗・防御率2.67と活躍してオールスターにも出場。この年から登録名を「勉」から「努」に変えている。 1959(昭和34)年には57試合(うち先発23)で267回を投げており、先発とリリーフでフル回転して16勝14敗・防御率2.53の好成績を挙げた。ドラゴンズには8年間在籍し46勝46敗453奪三振、800回2/3で自責点264、防御率2.97だった。この数字を見ると、安定感はあるが結局は勝ち負けの数がほぼ同じくらいの平均点的な投手だったようだ。ケガなどもあって1960(昭和35)年は2勝5敗で防御率6.75と振るわず、オフにタイガースへトレードされてしまう。 1961(昭和36)年、タイガースに移ると背番号「20」を着ける。この年は30試合に登板しており先発も14試合あった。かなり期待はされていたが、4勝9敗で防御率も3.62と結果を出せずに終わる。翌1962(昭和37)年には、後を追うように中日から移籍してきた石川に背番号「20」を譲り、自身は「17」に変えて2年間着けている。タイガース在籍の3年間で61試合に登板しており、そのうち31試合は先発だったことから、ローテーションの穴を埋める貴重な左投手という位置づけだったことが想像される。しかし1年目が4勝9敗、2年目は3勝2敗、3年目は0勝5敗に終わっている。とても役目を果たせたとは言えない。この成績では引退もやむを得なかった。 タイガースでは3年間で61試合(先発31)7勝16敗、168回1/3で奪三振86、自責点90防御率4.81に終わっている。 1984(昭和59)年9月1日49歳で逝去。石川 緑(みどり) 投手本名は「伊藤緑郎(いとうろくろう)」。伊奈努と同じ愛知県豊川市出身。県立国府高校を経て1954(昭和29)年に中日の入団テストを受けて合格し入団したサブマリン。2年目の1955(昭和30)年に10試合(先発6)を投げて3勝2敗、防御率3.51の成績を挙げたがその後は伸び悩み、1956(昭和31)年から1959(昭和34)年までの4年間には1勝しかできなかった。1960(昭和35)年、61試合(先発22)とフルに使われたことでようやく自分の投球をつかんだのか13勝12敗、197回1/3を投げて防御率2.36の好成績を残す。ところが1961(昭和36)年は3勝1敗と落ち込み、シーズン終了後には時季戦力構想から外れ、8年間在籍した中日からタイガースへ金銭トレードされてしまう。 中日で落ち目となってタイガースへやってきた石川だったが、先発投手としてかなりの戦力になった。伊奈から受け継いだ背番号「20」は入団から自由契約になるまで6年間背負っている。 移籍1年目の1962(総和37)年は5勝4敗ながら19試合の先発をこなし、リーグ優勝に貢献している。 3年目の1964(昭和39)年には10勝3敗と二けた勝利を挙げ、防御率も2.90と上々で、村山実、ジーン・バッキーの陰ながらリーグ優勝の重要なパーツになった。日本シリーズでも3試合のリリーフ登板がある。 次項に出てくる「ダンプ辻」の証言によれば「立ち上がりでその日の出来が分かる人で、1回からつかまることも多かったけど、1回を過ぎたら必ず5、6回は投げられる人でした。だから僕がブルペンにいたときは、「先発・石川」となったら最初から緊迫状態です。何も言われんでもピッチャーをつくっておかなきゃいけないですからね。ただ、そこを抜けたらもう大丈夫。2回以降はのんびりやっていたのを思い出します。」というタイプだった。 1965(昭和40)年も10勝10敗、防御率2.91と2年連続で二けた勝利したが、1966(昭和41)は6勝13敗と勝てなくなり、1967(昭和42)に1勝4敗となったところで自由契約を言い渡される。タイガースでは6年間で41勝42敗の成績だった。 1968(昭和43)年は東映フライヤーズに拾われて1年間在籍したものの27試合1勝3敗に終わって現役を退いた。 プロ通算成績は実働14年で374試合62勝60敗547奪三振、1169回1/3を投げて自責点432防御率3.32である。2004(平成16)年4月20日に69歳で逝去。辻 恭彦(やすひこ) 捕手愛知県名古屋市出身。高校は愛知4商の一つに数えられる名門享栄商業(現享栄高校)。高校では1960(昭和35)年の夏に甲子園に進んだが1回戦で敗退。高校を卒業すると岐阜県の実業団・西濃運輸へ入社。打線の中軸として1962(昭和37)年には都市対抗本戦に出場し、同年タイガースへ入団している。もらった背番号は「67」だった。入団した年には試合に出ることは無かったが、なぜかジーン・バッキー投手の入団テストの捕手役をやっている。どっしりとした体つきに加え運送業の西濃運輸からの入団ということもあって「ダンプ辻」の愛称がつき、同時期に在籍した捕手の辻佳紀(ヒゲ辻)と識別された。1967(昭和42)年までは芽が出ないままで、一軍公式戦は同年の29試合出場が最多で6年間もくすぶっている。この間の1963(昭和38)年には背番号を「44」に変えたが効果は無かった。 伸び悩む中で前項の石川緑から「お前、これから長いことやりたいんだったら、毎年一人、いい若いピッチャーをつかまえて教育しろ」という金言をもらったことで覚醒していく。1968(昭和43)年、退団したその石川から背番号「20」を引き継ぐ。辻は藤本監督から入団2年目の江夏豊の相手を任されたことを契機にして、「もっと三振を取りたい」という江夏の希望をかなえていくためにアドバイスを送ってサポートし、「俺が投げる大事な試合はダンプさんにしてくれ」と言わせるまでになる。江夏はこの年25勝12敗で最多勝、日本記録の401奪三振と大化けし、辻も自らの存在感を高め、86試合に出場した。 1971(昭和46)年には田淵が体調不良で長期離脱し復帰してもファーストや外野を守ったため、辻は全試合出場を果たしている。 1972(昭和47)年は田淵が正捕手に復帰したあおりで58試合、1973(昭和48)年は24試合、1974(総和49)年も23試合と出番が激減し、オフには辻佳紀とのトレードで大洋ホエールズへ移籍する。入れ替わったヒゲ辻は出戻りでのタイガース復帰だった。 大洋では出場機会は多くなく、最高でも75試合と控え捕手に甘んじているが、貴重な戦力として1975(昭和50)年から10年間在籍し1984(昭和59)年に引退する。頑丈な身体で大きなけがもなく、プロ野球生活は実に23年に及んだ。 通算成績は974試合1998打数418安打163打点44本塁打353三振、打率.209。 引退後も大洋(のち横浜ベイスターズ)に残って1998(平成10)年までコーチを務め多くの選手育成に貢献した。イップスで満足な送球ができずに悩んでいた若手時代の鈴木尚典を指導してのちに2年連続首位打者への道を開いた実績もある。まとめ 4回目になってようやく背番号「20」にも光が差してきたかなでも伊奈さんと石川さんは中日からの移籍だし ダンプさんは大洋へ出て行っちゃったから 3人ともタイガース一筋で現役生活を全うしていないのよね 投手2人のあとまた捕手が着けてるから まだポジションもはっきりした決まりがないよ 予告だけど次回の最初に登場するのは捕手兼外野手よ さて誰でしょう?背番号20-5に続く
2024年02月24日
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背番号20(その3)背番号20の第3回目です前回までに7名の選手を紹介してますが 成功したと言えそうなのは藤村隆男さんだけね しかも藤村さんが「20」を着けたのはたった1年だけ なんだか「不幸の背番号」みたいになってるねさて3回目となる今回はどうかな? 3名の選手を紹介しますが今回もすっきりしない内容になってるわ阪田正芳 内野手大阪府出身だが兵庫県神戸市生まれとも言われる。いずれもプロ選手となった阪田3兄弟の次男で、長男の清春は滝川中から阪急・南海でプレーした捕手、三男の芳秀は波華商から毎日へ進んだ捕手。阪田正芳は167センチ66キロと小柄だが、波華商時代は投手。1946(昭和21)年の夏は控え投手として全国制覇を経験しており、1947(昭和22)年の選抜にはエースとして出場したが2回戦で、さらに1948(昭和23)年の選抜では弟・芳秀とバッテリーを組んで再度出場するも1回戦で敗れた。卒業後は実業団の郡山日東紡績に進み、1950(昭和25)年にタイガースへ入団し1年目は背番号「33」を着けた。 タイガースでは内野手(主にショート)に転向したが打力がなく守備要員に甘んじていたようだ。 1950年は背番号を「20」に変え、41試合に出ているがスタメンは4試合、58打数15安打3打点で打率.259に終わっている。 1951(昭和26)年は38試合で24打数3安打2打点、打率.125と打撃に進歩はなく、1952(昭和27)年はわずか4試合の出場しかできず、結局3年間の在籍で退団に追い込まれた。 退団後は社会人に戻り、松下電器に入社。1992年8月20日に64歳で亡くなっている。内山 清 投手(再再掲)先代が背番号3-1、2代目が背番号5-2で紹介しているが改めて詳しく掲載する。阪田の退団後、1953(昭和28)年は背番号「20」は空き番となる。次に「20」を背負った内山清は和歌山県西牟婁郡上富田町の出身。167センチ56キロという小柄な投手で、県立海南中学時代は無名の選手。海南日東紡績を経て、1948(昭和23)年7月にタイガースへ入団し、最初は背番号「3」を着けている。1年目はシーズン途中からの出場となったが、15試合に登板して54回を投げており2勝3敗で防御率4.50の成績を残す。2年目の1949(昭和24)年は30試合で先発も8試合あり、105回2/3を投げて5勝5敗。防御率は5.94ながら戦力になってきている。1950(昭和25)年は背番号を「5」に変えて開幕投手を務めるなど主力投手として47試合に登板、そのうち22試合が先発だった。キャリアハイの220回を投げており、12勝15敗で防御率は4.46だった。1951(昭和26)年も42試合登板で10勝5敗、防御率3.34と2年連続で二けた勝利を挙げている。 ところが1952(昭和27)年になると登板は20試合に減る。投球回数も33回1/3にとどまり、1勝1敗で防御率3.71の成績に終わった。 1953(昭和28)年はさらに衰え、3試合で1勝0敗となり、1954(昭和29)年には背番号を「20」に変えてみたが成績は振るわず2試合0勝0敗、ファームでは内野を守っていた。シーズン終了後に引退。 引退後はアマチュア野球の指導者となり、埼玉県で高校野球日の監督を48年間も務めた。市立川口高校ではのちに読売でエースとなる斎藤雅樹を育てている。西村一孔(かずのり) 投手山梨県大月市出身。都留高校時代には2年時に夏の甲子園に捕手として出場するも1回戦で敗退、卒業後は社会人・藤倉電鉄に入社。1954(昭和29)年の都市対抗では3試合連続完封、27イニング連続無失点の大活躍で準優勝に貢献してプロ注目の選手となり、争奪戦を経て同年タイガースと契約する。契約金、年俸ともに新入団選手の中では最高で背番号は引退した内山から「20」を引き継いだ。 1955(昭和30)年、藤村隆男、渡辺省三、小山正明などの諸先輩を差し置いてルーキーながら開幕投手に抜擢されると6回2失点でプロ初勝利を挙げる。 地肩が強く、先輩投手たちが目を丸くするほどの剛速球だったため、だれからもルーキーの開幕投手抜擢に文句は出なかったという。 その後も投げまくって勝ち星を重ねていき、オールスターにはファン投票で選出されている。次の写真は1955年のもので向かって左が西村、右が小山。 1年目は60試合に登板。うち先発が20試合で12完投5完封。22勝17敗302奪三振、295回1/3で自責点66の防御率2.01という素晴らしい成績を挙げている。302奪三振はのちに権藤博に破られるまで新人選手の最多記録だった。 この成績で文句なしの新人王に輝き、一気にエースの座へ駆け上ったかに見えた西村だったが、1年目に肩を痛めていた。 1956(昭和31)年は肩の故障の回復が思わしくなく、開幕に間に合っていない。7月から公式戦に投げたが、今度は盲腸炎を発症してしまう。優勝もあり得たチーム事情から、薬で痛みを散らしながらシーズン終了まで投げ切ったが、23試合で7勝3敗に終わり貢献できなかった。それでも104回1/3で自責点16、防御率1.38という数字は大したものだ。 しかし盲腸炎をこらえながらの投球がたたって、オフに手術をしたものの2カ月も入院生活を送ることになる。 もともと地肩の強さにものを言わせての「担ぎ投げ」、力任せに上半身だけで投げてくるフォームは我流で、3年目に肩は完全にパンクする。実際に投球フォームはひどいもので、次の写真のようにリリースのとき顔はまったく下を向いてしまってホーム方向を見ていない。(元読売の岡島投手に似ている) 1957(昭和32)年は、わずか5試合のリリーフ登板のみで0勝0敗、18イニングしか投げられなかった。 1958(昭和33)年、肩が回復する見込みがないまま12試合の登板で2勝0敗に終わっている。 1959(昭和34)年~1960(昭和35)年は一軍に上がれないまま故障と戦ったが回復できず、6年間の現役生活を終えた。 プロ通算成績は100試合31勝20敗419奪三振、443回1/3で自責点96、防御率は1.95である。 小山正明は入団した当時に西村の剛速球に驚いたが、その投球フォームから「いつか肩を壊すんじゃないか」と予想していたという。 我流フォームを修正する暇もないうちに、1年目から好成績を出してしまったことが却って短命に終わる結果に直結したようだ。当時を知る人たちから「優に150キロを超えていた」という証言もあるだけに、無理のないフォームに直せていたら「伝説の剛腕投手」で終わることは無かったのではないか。まとめ 球団創設から25年 まだまだ背番号「20」は厳しい時代が続いてるよね西村さんがこれまでの最長になる6年間「20」を背負ったわけだけど、1年目にいきなり22勝で新人王になったまでは好かった でもそれでほぼ終わっちゃったのね 2年目には病気と肩の故障で潰れてしまいましたこれまで10名の選手が「20」を着けたなかで10年以上プレーできたのは藤村隆男さんだけね・・・先に言っちゃうけど実はタイガースでこの番号を10年以上付けた選手は一人しかいないのよ 今着けてる森木君は大丈夫かなあ・・・背番号20-4に続く
2024年02月22日
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背番号20(その2)背番号20の第2回目です1回目を見る限りでは なんだか「不幸の背番号」みたいになってる創成期の「背番号20」 内訳は4人のうち3人が内野手で1人が投手だったね今回もあまりいいお話は出てきません・・・星沢 純 投手・外野手宮城県宮城水産高校出身。1941(昭和16)年の夏には予選を勝ち抜いて東北代表になったが瀬能のため本大会が開催されず涙を呑んでいる。そのご社会人の石巻日和クラブに所属してプレーしていたところ、1947(昭和22)年、当時タイガースの監督だった若林忠志にスカウトされて入団し、背番号「20」を着ける。1948(昭和23)年が公式戦デビューとなったが、9試合登板0勝1敗、21回を投げて防御率4.29の数字しか残せなかった。また、1試合のみ外野手としての出場があり、打撃成績は投手としての打席もふくめ9打数2安打3三振という数字が残っている。これ以上の資料はどこを見てもなく、生年月日は1924(大正13)年1月3日とのことだが、現在の情報はなく生死不明であるが、タイガース在籍時代のブロマイドの画像が残っている。名前はかろうじて星澤投手と読める。藤村隆男 投手(再再掲)藤村弟についてはすでに「背番号2-1」及び「背番号9-1」で紹介済みである。背番号「20」は1年間しか着けていない。ミスタータイガース藤村富美男の4歳下の実弟。兄と同じ呉港中学の出身で昭和15(1940)年に大阪タイガースに入団している。すでに兄・富美男は兵役に行って不在だったが、この年監督になった松木謙次郎に素質を見込まれ可愛がられた。1年目に7勝すると2年目の昭和16(1941)年には12勝10敗と成長を見せたが、大東亜戦争が始まり、昭和17(1942)年は3勝5敗で軍に徴集されて中断してしまった。結局背番号9を着けたのは戦前の3年間だけだった。昭和21(1946)年、パシフィック(のち太陽ロビンス)で現役復帰を果たすもののすぐに肩を故障し翌年退団に追い込まれる。仕方なく昭和23(1948)年には大分で白石勝巳が創設した社会人植良組に入部するが、別府温泉に入り浸るうちに肩の調子が回復してきたこともあって、昭和24(1949)年に大阪タイガースに再入団できることになった。復帰後の1年目にいきなりチーム最多の16勝を挙げると、翌昭和25(1950)年以降も、11勝、16勝、25勝(最高勝率)、21勝、11勝と二けた勝利を続けており、2リーグ分裂で貧打となったタイガース打撃陣を補う存在として活躍している。 昭和31(1956)年、3勝に終わると自由契約となり、翌年は広島カープでプレーしたが、わずか1勝しかできず引退している。 引退後は広島や近鉄を経て、昭和44(1969)年からタイガースに復帰、二軍投手コーチ、二軍監督、スカウト、一軍投手コーチなどを歴任し、多くの選手を育てた。背番号は戦後にタイガースに復帰した昭和24年に1年間だけ「20」を着け、その翌年の昭和25(1950)年から退団する昭和31年までは「2」を着けている。 通算では414試合に登板し、135勝97敗、2104回を投げて自責点620、防御率2.65というもので、兄弟選手として立派な成績である。 平成5(1993)年12月25日、73歳で逝去された。島田吉郎 内野手大阪府出身で市岡中時代には遊撃手として甲子園も経験している。その後早稲田大学を経て社会人の桑名組に進み、1949(昭和24)年に大陽ロビンスに入団した。ロビンスでは一軍に上がることはなく、二軍での出場にとどまっていたところ、タイガースの森田忠勇二軍監督の目にとまり、1950(昭和25)年に移籍、背番号「20」を着けることになる。しかしタイガースでも公式戦の出場は代打の1打席のみで三振に終わり、1年で解雇されてしまう。その後は大阪ガラスや日鉄三瀬などの社会人チームで野球を続けたようだが詳しい情報は無い。まとめ 星沢さんのブロマイドは奇跡的!この程度の実績でよく作ってもらえたなってね・・・ 藤村さんは以前に紹介しているしかなり成績を収めた投手だったけど 「20」を着けたのは1年だけだわ でもその年は47試合で16勝13敗の成績だからちょっとは番号に箔が付いたかな? 島田さんはこれまた情報が少ないよ 1年だけしかも1打席だけだからなあ・・・ということでなかなか「20」が好い番号になってこないよね 次回3回目こそ誰か主力級が出てこないかなあ・・・背番号20-3に続く
2024年02月20日
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背番号20(その1)背番号20の第1回目ですいよいよ20番台に突入です この番号も球団創立時から着けられた背番号なんだけど やっぱり最初のころは名前すら知らなかった選手が多いよまず戦前に着けた4人を一気に紹介しますが そのなかで4人目の川北さんは昭和19年の入団なんだけど最初は「背番号なし」だったらしいわ??? 戦後になって「背番号20」を貰うんだけど 一応戦争を挟んでることになるのかな⁇加藤信夫 捕手・内野手愛知県出身で強豪中京商業(現中京大中京高)から専修大学に進む。 1936(昭和11)年、タイガースは入団契約を締結したはずの滝野通則が無断で法政大学に入学して契約不履行を犯し職業野球連盟から除名されたため内野手不足となった。このとき加藤が専修大を中退し同年7月に入団している。背番号は「20」 セカンドがメインのポジションだが投手だった藤村がコンバートされたため、サードに回り、時にはキャッチャーも務めた。 初年度は春季秋季合わせて8試合しか出番がなく3打数0安打だが2打点が記録されている。 翌1937(昭和12)年は春季に6試合3打数1安打0打点、秋季は4試合で2打数1安打0打点に終わって、1938(昭和13)年1月早々に応召。 戦死と伝えられるが没年月日は不明。非常に不遇な選手だった。朴 賢明(パク・ヒョンミョン) 投手1911(明治44)年朝鮮生まれ。前年に日韓が併合しており当時は日本国籍だった。平壌高等普通学校から社会人全京城に進む。1938(昭和13)年の都市対抗で準優勝、朝鮮に遠征した明治大野球部を7回ノーヒットに抑えて評価が高まり、同年途中にタイガースへ入団して背番号「20」を着けた。 今回の4人は写真など残っていないと思ったが、朴投手だけは奇跡的に出てきた。これは日本の記事ではないようなので、ご覧になりたい場合は次のURLを参照いただきたい。【北朝鮮】北朝鮮史上初の日本人プロ野球選手 ---パク・ヒョンミョン(박현명)@棒球運動推廣 ハラバン - バハムート (gamer.com.tw) ストレートも変化球も好く、制球力もあったと伝えられるが、投手陣が充実していた当時のタイガースではほとんど出番は無く、1年目は打撃投手のような存在だった。 1939(昭和14)年に2試合登板の記録が残っているが0勝1敗、8回1/3で自責点1、防御率1.08というもので、これが職業野球における成績のすべてだった。 1940(昭和15)年には朝鮮に帰り、戦後は北朝鮮に住んだ。没年月日は不明である。平林栄治 内野手 長野県出身で松本商業(現松商学園)では1940(昭和15)年の春夏甲子園に出場しており夏はベスト4。当時は名ショートと評価も高く、サードの土屋亨(のち南海・中日)と組んだ三遊間は有名だった。1941(昭和16)年にタイガース入団。前年空き番になっていた背番号「20」を着ける。当時タイガースにはショートのレギュラーに皆川定之(背番号29で紹介予定)がいたため、セカンドに回っている。1年目は13試合に出場したが、13打数1安打1打点で打率.077に終わった。1942(昭和17)年になると皆川が退団したため出番が増え、39試合に出場している。しかし内容的には83打数15安打4打点、打率.181とさびしい。1943(昭和18)年には18試合に出たところで応召。同年の12月に戦死と伝えられる。川北逸三 内野手和歌山県海草中学出身。戦争も佳境になった1944(昭和19)年にタイガースに入団しているが、同年は背番号が与えられていない。ただし1試合の出場記録が残っており、3打数0安打だった。公式記録が残っているからには選手登録があったということのはずだが、背番号なしでの支配下登録・公式戦出場という事例は他に聞いたことがない。こんなことがありえたのか不思議である。NPBの選手名鑑には右投げ右打ち、164センチ60キロ、海草中とあり、上記の打撃成績が記載されている。戦後になって1946(昭和21)年、背番号「20」の選手として登録されたが、結局出場機会はなく、同年で退団しており没年も不明である。 まとめ 第1回は悲しくなるほど不幸な選手ばかりでしたね 4人の選手それぞれがもし現代で何の不自由もなく野球ができてたらどんな人生になったんだろうって考えると身につまされるわ こういう時代もあったんだと胸に刻まないといけない・・・4人のうち3人が没年すら不明なのよ ちょっと酷すぎるよね 背番号「20」は大変な滑り出しだったというほかない第2回の予告をしておくけど 紹介するのは3人 「20」を着けた期間はそれぞれ2年・1年・1年なのね 「20」の冬の時代は簡単には終わらないのよ背番号20-2に続く
2024年02月16日
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背番号19(その6)背番号19の第6回目 最終回です最終回は3名の紹介になるんだけど「19」は創成期からある割に着けた人数は通算16名で 意外に少なかった感じがする 藤井栄治さんあたりから長い期間付ける人が多くなったんだよね小林さんが投手の番号として確定させたのはの間違いないわ そのあとは投手以外は着けてません 2023年は欠番状態になって、今これを書いてる2024(令和6)年はルーキーの下村海翔投手が着けることになりました蕭 一傑(しょういっけつ) 投手台湾の屏東県屏東市出身。郭泰源に憧れていた蕭は日本で野球をやりたい思いが強く、2002(平成14)年に宮崎県の日南学園に野球留学する。奈良産業大に進むと3年まで主にリリーフだったが4年時に先発に回ってエースとなり、通算16勝1敗、防御率0.63という高い数字を残すまでになった。一般のファンの認知度は低かったが、各球団のスカウトは上位指名候補にリストアップしていたようだ。台湾出身ではあるが5年以上日本の学校に在籍たことでドラフトの対象選手になる。2008(平成20)年のドラフト会議で、タイガースは松本啓二朗(早大・外野手)、藤原紘通(NTT西日本・投手)を次々と抽選で外し、外れ外れ1位で蕭一傑を獲得している。背番号は筒井和也から「19」を受け継いだ。 1年目の2009(平成21)年はファームで育成され、ウェスタンリーグの16試合に登板、7勝1敗で防御率2.26の好成績を残している。フレッシュオールスターでは優秀投手賞を受賞している。蕭はどちらかというとアーム投法で肘のしなりが少ない。そのためスピードも140キロ台後半がたまに出る程度で、変化球もカーブ・スライダー系しかもっていなかったため、配球にも幅がなかった。2010(平成22)年9月に初めて一軍登録されるが、チーム事情で登板機会がないまま抹消されている。ファームでは16試合で5勝2敗、防御率3.13と安定した働きを見せていただけに惜しかった。2011(平成23)年8月、ようやく一軍で初登板初先発できたが5回1失点で敗戦投手に。結局2試合で抹消され0勝1敗に終わった。 2012(平成24)年はファームでも17試合で1勝3敗、防御率4.15と結果が残せず戦力外通告を受け、シーズン終了後に自由契約となる。 2013(平成25)年はソフトバンクに育成選手として拾われたが、結局伸びしろがなく、同年1年限りで戦力外となった。 翌年には台湾に帰って義大ライノズに入団し4年間プレーして引退。 2019(令和元)年には日本ハムファイターズで王柏融の通訳を務めたのち帰国。翌2020(令和2)年から味全ドラゴンズで投手コーチを務めている。藤浪晋太郎 投手大阪府堺市出身で大阪桐蔭高校に進み2012(平成24)年の春・夏連覇を達成しドラフトの目玉となった。当時197センチの長身から投げ下ろすストレートはMax153キロを計測し、花巻東高の大谷翔平と並んで高校球界の2大怪物と称されている。ちなみに藤浪と大谷は選抜1回戦で当たり9-2で大阪桐蔭が勝ったが、藤浪は大谷にソロホームランを打たれている。高校野球時代に「ホームランを打たれたことがない」という藤浪が許した唯一ともいうべき一発だった。 注目されたドラフト会議ではタイガースのほかヤクルト、オリックス、ロッテが1巡目で入札して抽選となったが、和田豊監督が引き当てタイガースに入団が決まる。背番号は退団した蕭一傑から「19」を引き継ぐことになった。 1年目の2013(平成25)年は、開幕3戦目3月31日のヤクルト戦でプロ初先発。高卒ルーキー投手の初先発最速記録を塗り替える。 4月14日の横浜DeNA戦でプロ初勝利すると月間3勝を挙げる。背中の張りで5月には2週間ほど登録抹消されたが、再昇格してからも高卒新人とは思えない並外れた投球を見せて勝ち星を積み上げていった。 最終的に惜しくも規定投球回数に届かなかったものの24試合(先発23)10勝6敗126奪三振、137回2/3を投げて自責点42、防御率2.75という素晴らしい成績を残す。高卒新人の1年目での10勝到達は1967(昭和42)年の江夏豊以来の快挙だった。ただしリーグワーストのワイルドピッチ8個という課題も残している。 2014(平成26)年には投球回数163回を上回る172三振を奪うなどさらに凄みを増し、8月1日の横浜DeNA戦では球団タイ記録の7者連続三振も記録している。25試合すべて先発して11勝8敗だが四死球から失点することが多く、防御率は3.53で1年目よりかなり悪かった。与死球は11個でリーグ最多を記録している。 2015(平成27)年はNPBにおける藤浪のピークとなった。28試合すべて先発、3年連続の二けた勝利となる14勝7敗の成績で大きく勝ち越しており貢献度は高い。しかも防御率も2.40と自己最高を記録、199回で221個の三振を奪い最多奪三振のタイトルを獲得している。 一方で与四球82、与死球11、ワイルドピッチ9個はいずれもリーグ最多を記録し、制球の面は相変わらず課題が解決できないままとなった。 2015(平成27)年、制球の悪さを改善するために首脳陣はインステップの投球フォームを矯正しようとするが、もともとオーバーハンドではなくスリークォーターの藤浪の腕の振りまでは替えられない。ますます制球は不安定になり、右打者へのデッドボールからトラブルが多発してイップス状態に陥る。 落合博満は「インステップで右打者の内角を攻めるのが藤浪の持ち味なのにそれを無くしてしまった」と言っている。長所を伸ばすのではなく短所として矯正しようとしたのが間違いだという指摘だろう。このあたりは関係者のみならずファンも巻き込んで議論が巻き起こったが、藤浪本人にも制球難の原因はよく判らず、日本人離れした長身のため身体のバランスがズレていると指摘され肉体改造にも取り組んでいくことになる。 結局26試合で7勝11敗、相変わらず四死球は多く、防御率も3.25に落ちてシーズンを終えたが、翌年から泥沼にはまっていく。 2017年 11試合3勝5敗 防御率4.12 2018年 13試合5勝3敗 防御率5.32 2019年 1試合0勝0敗 防御率2.08とうとう1勝もできなくなってしまい、ほとんどをファームで過ごす状態にまで落ちている。 2020(令和2)年、先発で負けが続いてついに中継ぎに配置転換されると、7ホールドを挙げてやや復活の兆しも見えた。(24試合1勝6敗7ホールド) しかし2021年(令和3)年は21試合3勝3敗4ホールド、2022(令和4)年も16試合3勝5敗で、結局タイガースも匙を投げるところまで来てしまう。 ストレートは相変わらずメジャーでも最速クラスの160キロ近くを投げることができることから、藤浪は2022年オフにポスティングシステムでのアメリカ行きを決意し、2023(令和5)年1月14日、オークランド・アスレチックスへの入団が発表された。 アスレチックスは藤浪を当初先発で起用するが、制球難から大量失点が続き、ファンからの猛烈な批判もあってリリーバーに配置転換する。34試合で5勝8敗3ホールドを記録したところで、ボルチモア・オリオールズからのオファーに応え交換トレードで放出した。 藤浪はオリオールズで64試合に登板、7勝8敗2セーブ5ホールドの成績を残し(防御率は7.18)、11月にはFAとなり、2024(令和6)年はニューヨーク・メッツと契約した。下村海翔 投手 甲子園球場のある兵庫県西宮市出身。九州国際大学付属高校では最速149キロを記録する速球派としてエースになるが甲子園出場はできず、青山学院大学へ進む。 大学ではひじの故障もあって2年時には投げていない。通算16試合7勝3敗1セーブ、100イニングで83奪三振、自責点18防御率1.62の成績を残す。4年時には全日本大学選手権で優勝、最速152キロを出している。 2023年のドラフト会議でタイガースが1位指名して入団。174センチ73キロで投手としては小柄だが、制球力とキレで勝負する投手であり、大学時代は先発でも中継ぎでも安定した力を発揮している。まとめ 蕭一傑さんはドラフト上位候補ではあったけど1位までの投手じゃなかったとおもうな 「外れ外れ1位」だったのをみても ものすごく期待されてたってわけじゃないのよ ストレートは「普通」 変化球も多くなく 制球力も「普通」 結局はプロでたった2試合しか投げられず、0勝1敗という残念な成績で終わってるね藤浪さんはいろんな人がいろんなことを言ってるけど 2代目個人としては日本の野球におさまる器・規格じゃなかったとおもうのよ この人こそ最初からアメリカへ行くべき投手じゃなかったかってね藤浪さんはいろんな人が口出しする日本のプロ野球向きじゃないのよ 2代目はメンタル以前に投手としてのポテンシャルは高くても それを生かすだけの技術が足りていないんだとおもうのね だから周りが口出ししたがるわけよ 日本にいると外野がうるさくて迷ってしまうから 科学的な分析が日本よりはるかに高度なアメリカでなら早くに技術的な部分を解析して「違う藤浪」になってたんじゃないかなあ 下村選手はまだわかりません 体格的には村上様に近い感じだし ボールの質やコントロールがどれくらいかにかかってる 先発・リリーフ共に人材が豊富な今のタイガース投手陣では一軍枠に食い込んでいくのは容易じゃないけど期待はしてますよ これで背番号「19」はおしまい 読んでくれてありがとう背番号20へつづく
2024年02月13日
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背番号19(その5)背番号19の第5回目です小林さんのインパクトは凄かったんだね 江川事件もさることながら移籍1年目の大活躍がタイガースファンを熱狂させたこともあって「背番号19」が一気にメジャーな番号になったし 「投手の番号」のイメージにもなりました 小林さんのあとに「19」を引き継ぐには相当な覚悟がいるだろなっておもうけど ドラフト1位ルーキーが着けます そしてそのあとの2人ももちろん投手ですよ中西清起 投手中西は高知県宿毛市出身で高知商業高校時代に4季連続で甲子園に出場し、1980(昭和55)年の選抜大会ではエース兼4番打者として優勝している。中西の活躍から水島真司が「球道くん」のヒントにしたと思っていたが、漫画の「球道くん」は1977(昭和52)年から連載されており、実際はこの主人公「中西球道」にちなんで、甲子園で優勝した高知商の中西が「球道くん」の愛称で呼ばれるようになったようだ。 高校からすぐにプロ入りすることなく社会人のリッカーに進む。1981(昭和56)年の都市対抗ではベスト8に進み「若獅子賞」を受賞。1982(昭和57)年は明治生命の補強選手、1983(昭和58)年は熊谷組の補強選手として3年連続で本大会に出場している。1983年のドラフト会議でタイガースが1巡目で指名し入団が決まり、引退した小林繁から「19」を受け継ぐことになった。もともと中西は「剛腕」と呼ばれるようなストレートは持っていない。カーブ、スライダー、パーム、ナックルなどの変化球を駆使したコンビネーションとコントロールで抑えていく投手だ。ルーキーの1984(昭和59)年、6月に一軍に上がると安藤監督は先発として起用するが結果が出ないところからリリーフへ配置転換する。このシーズンは33試合(先発9)で1勝6敗、67回1/3を投げて自責点50、防御率5.35と期待を裏切った。1985(昭和60)年、監督に復帰した吉田義男は、山本和行をストッパーに固定し、中西をセットアッパーとするダブルストッパーでシーズンをスタートさせた。強力打線にけん引されたタイガースは優勝争いを展開するが、9月4日の中日戦で山本がアキレス腱を断裂して戦列を離れてしまう。以降、吉田監督は中西をストッパーに指名、10月16日のヤクルト戦では引分ながら優勝が決まり、中西が「胴上げ投手」になっている。この年19セーブを挙げ最優秀救援投手のタイトルも手にした。 吉田監督は引きつづき1986(昭和61)年と1987(昭和62)も中西をリリーバーとして固定しており、第2期吉田監督時代の3年間では一度も先発していない。1988(昭和63)年には村山実が監督に就任し、この年は中西をストッパーに起用しており、46試合で15セーブを挙げている。1989(平成元)年になると、先発陣の駒不足から中西もシーズン途中から先発に回る。34試合登板のうち18試合に先発しており10勝10敗5セーブと、初めて二けた勝利を記録している。1990(平成2)年に初めて大きな故障を経験し、オフには右ひじのトミー・ジョン手術を受けている。その後もチーム事情によって先発に回ったりリリーフに戻ったりの年が続いたが、1995(平成7)年になると急速に力が落ち、リリーフ専門でありながら防御率が6.63と極端に悪くなってしまった。1996(平成8)年には登板数がわずか3試合、防御率9.82と完全に衰えてしまった。こうした状況から球団は引退してコーチに就任することを薦めたが、中西はあくまで現役にこだわり、横浜ベイスターズや福岡ダイエーホークスの入団テストを受けたが不合格となり、引退に追い込まれた。入団から13年間の現役時代に一軍で投げなかった年はない。この間「19」を背負い続け、通算477試合に登板、63勝74敗75セーブ633奪三振、986回2/3を投げて自責点461、防御率4.21の成績を残した。引退後は評論家・解説者の仕事を経て、2004(平成16)年に監督に就任した岡田彰布に招かれ、一軍投手コーチとしてタイガースに復帰する。ブルペン担当でJKFを使いこなすなど2005(平成17)年のリーグ優勝にも貢献。2015(平成27)年まで一軍・二軍で投手を指導した。川尻哲郎 投手背番号「19」は、中西が引退した翌年の1997(平成9)には空き番となっている。そして1998(平成10)年からこの番号を受け継いだのが川尻である。東京都中野区出身で日大二高に進むが甲子園経験はなく、亜細亜大学へ進学する。大学時代は小池秀郎や高津臣吾の陰に隠れた第三の投手で、東都大学リーグでは通算4勝しかできなかった。社会人日産自動車に入社して1993(平成5)年にサイドスローに変えてから頭角を現し始める。この年の日本選手権では準優勝ながら「敢闘賞」を受賞、1994(平成6)年も準優勝に貢献してワールドカップ代表にも選ばれた。1994年のドラフト会議でタイガースが川尻を4巡目に指名して入団が決まるが、最初の背番号は「41」だった。 ルーキーイヤーとなった1995(平成7)年、二軍スタートだったがいきなり4月のウェスタン月間MVPを獲得すると即昇格。4月28日のヤクルト戦で中継ぎながらプロ初登板初勝利を挙げた。そのまま一軍に定着すると29試合(先発20)で8勝11敗、148回と規定投球回数にも到達して自責点51、防御率3.10という期待以上の結果を残した。2年目の1996(平成8)年は、シーズン当初はブルペンに配置されるものの、中継ぎではいい結果が出ない状態が続いたため先発に回る。すると19試合の先発で13勝(9敗・1セーブ)を挙げ、防御率も3.26という活躍で、一躍エース級投手に駆け上がった。このころはサイドハンドながらストレートが140キロを超えており、球威で押していける投手だったが、3年目くらいからスピードが落ち、変化球主体に変わっていく。1997(平成9)年には開幕投手に抜擢されたが、脱税事件のペナルティで3週間の出場停止処分を受けるなどの影響で調子が上がらず、5勝14敗と大きく負け越し、防御率も3.92と低迷している。1998(平成10)年、川尻は心機一転、背番号を「19」に変えて臨み、25試合すべてに先発で起用されて10勝5敗、防御率2.84と復活している。また5月26日の中日戦ではノーヒット・ノーランを達成している。シーズンオフには日米野球でも9回一死まで0封する快投を見せ、当時、螺旋状に旋回する成分を持ったいわゆる「ジャイロボール」を投げていると大きな話題にもなっている。ところが1999(平成11)年に野村克也監督が就任すると18試合で3勝5敗、2000(平成12)年が10勝7敗、2001(平成13)年が1勝6敗と、1年おきにしか好い成績が残せない特徴が顕著になってきた。 1勝しかできなかった2001年のオフ、川尻は突然ポスティングシステムでのメジャー行きを希望して球団と揉める。日米野球でのあわや完封で自信を持ったのだろうか?年が代わっても契約更改せず粘っていたが、星野監督が水面下で説得し1月24日に無事更改した。しかし星野監督時代は2002年(平成14)年が5勝4敗。2003(平成15)年はリーグ優勝した年だが、川尻は登板わずか2試合で1勝1敗、日本シリーズでの出番もなく、オフには前川勝彦との交換トレードで近鉄バファローズに移籍することになった。2004(平成16)年、近鉄に移った年は球界再編問題で翻弄され、20試合に先発したが4勝9敗と結果を残せず、シーズンが終わると近鉄球団消滅に伴う分配ドラフトにより、東北楽天ゴールデンイーグルスへ行くことになる。2005(平成17)年はもはやお荷物扱いだったのか2試合登板に終わり0勝1敗。わずか1年で戦力外となって引退している。通算成績は11年で227試合60勝72敗3セーブ744奪三振、1083回1/3で自責点439、防御率3.65だった。筒井和也 投手愛媛県伊予市出身、松山北高校から愛知学院大学へ進む。大学時代には2年時の大学選手権での8連続三振を記録。大学通算29勝4敗で防御率1.04の成績を残すとともに、リーグ戦で24連勝を記録するなど、三振が取れる速球派の大型サウスポーとして注目を浴びる存在となった。2003(平成15)年のドラフト会議では自由獲得枠(逆指名1位)でタイガースに入団、川尻が着けていた「19」を引き継いでいる。鳴り物入りで入団した筒井だったが大きく期待を裏切り、プロ入り後5年間は芽が出ていない。2004年 1試合 1勝0敗 5回1/3 自責点1 防御率1.692005年 1試合 0勝0敗 3回 自責点2 防御率6.002006年 一軍登板なし2007年 4試合 0勝0敗 5回 自責点6 防御率10.802008年 3試合 0勝0敗 4回 自責点1 防御率2.25筒井はこの間に事件も起こした。2005(平成17)年1月、兵庫県内の中国自動車道で自家用車を運転中に、100キロ制限のところを83キロオーバーの速度違反で検挙される不祥事を起こし、球団から50万円の罰金と当面の対外試合出場禁止、自動車運転の禁止という重い処分を受けている。 前年には上坂太一郎が同様の違反で神戸地裁から懲役6月、執行猶予2年の判決を受けており、度重なる不祥事に沼沢正二管理部長もけん責処分となる始末だった。芽が出ない筒井は2009(平成21)年、背番号を「20」に変える。一応一軍のブルペンにいたものの当初は敗戦処理だった。7月にプロ初ホールドを記録したあたりからようやくエンジンがかかり、結果的にこの年45試合に登板する。 本当の意味でブレイクしたのは2012(平成24)年のことで、すでにプロ入り9年目。キャリアハイの58試合に登板して2勝1敗2セーブ18ホールド、50回46奪三振、自責点18防御率3.24という成績だった。その後の2年間も39試合、28試合とそこそこ働いたが、2015(平成27)年が6試合、2016(平成28)年には1試合となって引退。 通算成績は221試合8勝6敗3セーブ29ホールド215奪三振、242回を投げて自責点104、防御率3.87である。引退後はそのまま球団フロントに入りスカウトとして現在に至る。筒井自身が担当した選手で初めてドラフト指名されたのが2018年6位入団の湯浅京己だった。まとめ中西さんは好いときに入ったよね 社会人から入って1年経験したあと2年目にあの日本一に貢献できたっていうのはツイてる その年にタイトルも取ったし 先代は「甲子園で人気者にもなったけど大した投手じゃなかった」と言ってるけど運は好かったかな 以下 先代のイメージを聞いて書いてるよ 川尻さんは「19」のイメージが強いんだって というか「41」のイメージが無いみたい 活躍したころは「19」に変わってたんだろうね ノーヒットノーランやった時も「19」だしなあ 同じく筒井さんも背番号変えてるけど、この人は「19」のイメージじゃないみたいなのよ 芽が出たのは「20」に変えてからなんだって それにしても筒井さんは湯浅君の担当スカウトだったのねえ 筒井さんにしてみたら湯浅君には「19」か「20」を継いでほしいんじゃない? でも「20」は森木君が着けてるし、藤浪さんのあと空き番になってた「19」は今シーズンからルーキーの下村投手が着けちゃったね こうなったらしばらく「65」のままでいくしかないのかな?背番号19―6に続く
2024年02月10日
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背番号19(その4)背番号19の第4回目です前回までで9名の選手のうち投手は2名に過ぎないのよね しかも西村さんが3年間 工藤さんも4年間 いたって短い期間しかつけていなかった2代目は 工藤さんのあとに今回紹介する小林投手が着けたことで「投手の背番号」という位置づけが決定的になったんじゃないかっておもうのよ みなさんはどう感じますか?今回は小林さん一人を取り上げることにしますが すでに語りつくされた感もあるし先代も初期のころに書いたりしているので エピソードではなく成績の部分もしっかり見てみることにします 長いけど完読してね! お時間のある方は先代が書いた連載記事「空白の一日」も参照してみてね(空白の一日(連載第1回) | タイガース非公式サイト2代目 - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)小林 繁 投手鳥取県東伯郡赤碕町(現・琴浦町)出身。中学生時代から投手で、由良育英高校に進んだときはまだオーバーハンドで投げていたが、スピードも球威も人並みと自覚していため高校2年時に自らの判断でサイドスローに変える。小林の場合、腕を横振りにしたことで球威が増し、シュート系の変化球が投げ易くなったことが野球人生の転機になったと言えるかもしれない。結局甲子園とは縁がなく、大学進学を目指して関西大学のセレクションを受け推薦がほぼ決まるが、突如推薦制度が廃止されて入学できず、社会人野球の全大丸への入社の道を選ぶことになる。社会人野球時代には、よりアンダースローに近いフォームへと改良を加え、球種を増やすなど工夫を重ねている。片足の状態で一旦止まり体を沈ませていくことで「タメ」を作るいわゆる二段モーションで この「タメ」の部分の時間の長短で打者のタイミングをずらす狙いがあった。王はこのモーションが苦手で、小林が打撃投手で投げるとバッティングが崩れると嫌っていたし、阪神に移籍して対戦相手になると極度な苦手意識から二本足で打ってきたこともあり、その画像も残っている。子供のころから胃腸が弱く細身であったため、本人にはプロ入りという意識は無かったようだが、巨人の伊藤スカウトから熱心に誘いを受ける。小林が「プロ入りの意志はない」と伝えても、1971(昭和46)年のドラフト会議で巨人は6位で指名し交渉権を獲得した。しかしすぐに契約することはなく、交渉権を持ったまま翌年の都市対抗本戦が終わるまで契約交渉は据え置かれる。全大丸は3年ぶりに都市対抗本戦まで進出し、7月の本大会で活躍した小林はプロ入りへの自信が持てたとして大会終了後に入団を了承する旨を伝えた。こうして1972(昭和47)11月に巨人と正式に契約して入団している。この時にもらった背番号は「40」だった。ルーキーイヤーとなった1973(昭和48)年は、大半をファームで過ごしている。イースタンリーグでは7勝5敗10セーブで防御率2.43の好成績を挙げており、9月末に一軍に呼ばれた。一軍では6試合にリリーフで登板し、11回1/3を投げて無失点。これでプロでの手ごたえをつかんだという。2年目の1974(昭和49)年はプロ入り初勝利を含む8勝を挙げているが、登板した44試合のうち先発は9試合だった。当時の巨人はリリーフエースや火消し役が固定されておらず、小林は巨人在籍の間、先発ローテーションで回りながらリリーフも掛け持つ過酷な使われ方をされ続けている。 3年目の1975(昭和50)年は5勝に終わり、長嶋新監督の率いた巨人は最下位に沈み、その反動でオフの秋季練習は厳しいものとなった。その中で不真面目な練習態度を杉下投手コーチから叱責され、雨中で3時間を超えるランニングをさせられたことにキレた小林は、前任の宮田コーチに電話して「引退してプロゴルファーを目指す」と宣言して勝手に練習を休み、実際にゴルフ用具を買い込むなどの行動を起こしたことで大騒動になってしまう。同僚の高橋善昌から説得されて思い直し、小林は杉下に謝罪して引退を撤回して練習に復帰したが、この行動と言動は球団から「我儘で扱いにくい奴」と受けとられ、のちのトレードに影響した可能性は否定できない。4年目の1976(昭和51)年、巨人は前年最下位から一気にリーグ優勝に返り咲くが、小林は43試合に登板して18勝8敗2セーブで防御率2.99という成績を挙げ多大な貢献をしている。しかも先発が29試合、リリーフも14試合というフル回転を強いられる中での数字である。翌1977(昭和52)年も18勝8敗7セーブで防御率も2.92と連続優勝に貢献しており、42試合のうち30試合に先発しつつ、12試合のリリーフ登板があった。この小林の熱投は高く評価され、ベストナイン、セ・リーグMVP、沢村賞を受賞している。1978(昭和53)年も43試合に登板しているが、さすがに2年続けてフル回転してきた勤続疲労があったのか13勝12敗2セーブで防御率4.10と成績を落としてしまう。日本シリーズでもよい結果を残せなかった。そしてそのオフに「江川問題」が起きる。これについては先代が詳しく書いているので参照していただきたい。ここではざっとした流れを記述する。(空白の一日(連載第1回) | タイガース非公式サイト2代目 - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)ドラフト会議の前日、巨人が協約の紳士協定を一方的な解釈で破り、江川卓と入団契約を締結。コミッショナーはこれを認めず、巨人は翌日のドラフト会議をボイコット。巨人不在の中で行われたドラフト会議で、阪神が江川を強行指名して交渉権を得る。社会では江川や巨人に対する怨嗟の世論が沸き起こる一方で、ドラフト制度が「職業選択の自由」を侵す人権問題として国会でも取り上げられるなど混乱を極め、収拾がつかない状況になった。年の瀬も押し迫った12月21日、金子コミッショナーは「巨人と江川の契約は無効」「ドラフト会議を有効」とする裁定を下す。しかし舌の根も乾かない翌12月22日には、巨人に対して阪神とトレード交渉を進めるよう「指令」を出す。さらにその一方で江川には阪神と契約するよう「強く要望」した。ドラフト会議を有効と認めながら巨人が江川に対して権利を持っていることも認めたもので、矛盾を孕んだ苦しい裁定だったが、裏交渉の結果ともいえる。端的に言えば、一旦は江川に阪神と契約させたうえで、改めてトレードによる巨人入りを可能にして収拾を図ろうというものだ。新入団選手の選手登録の期限は1月31日に迫っており、ギリギリの判断だった。このあたりの段階では、まだ小林にとっては他人ごとであり「江川も大変だな」くらいの感覚でしかなかった。1979(昭和54)年1月31日の朝、宮崎キャンプへ向かうために羽田に現れた小林は球団職員によってハイヤーに乗せられ昼頃にホテル・ニューオータニへ到着、12:00過ぎに長谷川代表から「阪神へ行ってくれ、日が替わる前までに決断してほしい」と通告を受ける。同日15:00頃から阪神と江川親子の交渉が始まり16:00時に契約締結、16:10から入団記者会見が開かれた。江川の結論が先に出てしまって小林は逃げ場を失い、23:00ごろ球団社長に「お受けします」と伝えている。時系列から見て、阪神と江川の交渉が始まるより前に小林がトレード通告をされているという事実から察すると、すでに巨人と阪神の話し合い(裏取引?)の中で「江川の阪神入団~小林とのトレード」は決定済みで、小林だけが何も知らないうちにすべてのレールが敷かれていたと言わざるを得ない流れだった。ニューオータニに就いたときにはすべての外堀が埋まっており、小林にはトレードを拒否して引退するか、黙って阪神入りするかの二者択一しかなく、「野球が好きだ」という小林は後者を選ぶ以外なかった。すぐに移籍の契約書にサインし、日付が替わった2月1日1:00ころ記者会見している。小林の内心はともかく、さわやかな表情で阪神入りを受け入れた態度は絶賛された。しかし、江川の巨人入りのために阪神も加担し、小林獲得という利を得たという点では巨人・阪神とも同じ穴のムジナのようで後味は最悪だった。 1979年2月10日、正式に小林の阪神入団記者会見が開かれた。背番号は本人が巨人時代と同じ「19」を強く要望したため、工藤一彦が譲る形での継承となった。同年、小林は37試合に登板、22勝9敗1セーブ、防御率2.89という成績を挙げ、最多勝のタイトルのほかベストナイン、セリーグMVP、2度目の沢村賞などを受賞している。特に巨人戦に合わせてローテを組んでほしいとブレイザー監督に直訴していたこともあって、9試合に先発して8連勝無敗と捻じ伏せ、タイガースファンを狂喜乱舞させた。しかしこの結果について小林は「悔しさをぶつけただけの自分のためだけのあざとい野球で全然ダメ、なのにファンもマスコミも俺が巨人に勝つたびに大騒ぎをする。世の中が、そんな風に動くのが嫌だった。『あんたら馬鹿か』と思いながら、それでも、俺は巨人に負けたくないと思って必死に投げていたんだ。結局、世間に踊らされていたんだよ」と語ったという。1980(昭和55)年8月16日には因縁の江川との直接対決が実現するが、3失点で完投した江川に対し小林は5回4失点で降板、試合は巨人が勝利し江川が勝利投手となっている。これについては「こういうことはね、早く終わったほうがいいんだよ。大体、ふたりの投手が投げ合っただけじゃない。それなのにカメラにずっと追いかけられて、無駄な写真もいっぱい撮られて晒し者にされたような気分だったからね。……まぁ、僕の野球人生における煩わしいことが、これで終わった。あの子(江川)が勝ってよかったのかもしれない。負けていれば、何を言われるかわからないしね。」と江川に対する同情も含めたコメントをしている。この年からタイガースのエースの扱いとなって開幕投手も務めたが、前年の燃焼がすさまじかった反動もあるだろう、小林は15勝14敗と成績を落とし、ホームランはリーグ最多の36本を浴びている。移籍1年目のような熱投が見られなくなっていた。1981(昭和56)年は16勝10敗2セーブと持ち直したが、1982(昭和57)年は11勝9敗に落ち込んだため、シーズン終了後に「来年15勝できなかったらユニフォームを脱ぐ」と宣言する。小林は1978年から肘の状態が悪く、無理を重ねてさらに悪化してきたことや、タイガースという球団の体質になじめなかったこと、チームとして勝ちたいという優勝を目指すムードが感じられないこと等々、大好きな野球をやるという意識が持てない状況だったことも影響しているようだ。1983(昭和58)年での引退については、当時広報担当だった本間勝さんが月間タイガース2011年9月号の「本間勝交遊録」のなかで回顧しているので原文のまま引用する。「人騒がせな男ではあったが、この時ばかりは本当に驚いた。1983年の夏場だったと思う。つかつかと歩み寄ってきたかと思うと『本間さん。僕、もう今年でやめますから』突然の出来事だった。どちらかと言うと、冗談をよく口にする小林氏だが、顔は真面目そのもの。まさか…。と思いながらも『何言うとんねん。まだまだいけるやろ』一応、私の意見を話してみたが、同氏の表情はいつもとは違って硬い。これは、私が結論を出せる問題ではない。慌てて当時の安藤監督を呼びに行ったが、同監督の説得にも気持ちが揺らいだりすることはなかった。その後も、小津社長(故人)はじめ、球団は総力を挙げて慰留に努めたが『外角へのコントロールがままならなくなった。自分の思うように体が動いてくれなくなった』と言い残してユニホームを脱いだ。性格からしてこの男、一度口にしたことを撤回することはない。」実際は10月2日の中日戦で15勝目を挙げて、昨年目標に挙げた勝ち星をクリアしたが、一度引退と決めた意志は変わらなかったようだ。のちに次のように語っている。「肩も肘もきつかったけど、騙し騙しやれば、次のシーズンも10勝はできたかもしれない。それに技巧派にスタイルを変えるという手もあったはずだと思う。結局、あのトレードから、人の評価に振り回される僕の人生が始まった。自分のやりたいように生きていなかったね。周りの評価ばかり気にして、そんな自分が嫌で、つかれて、もう野球から離れたかったんだと思う。」 波乱の野球人生だった小林だが、非常に気が強く信念を貫く姿勢や意地にこだわる一面についてはもう一度本間さんの回顧録を引用したい。「負けん気の強い男だった。信念を持った選手だった。早々とユニホームを脱いだのは小林流の男の美学だろうが、巨人に対しての反骨心と言おうか、わだかまりは最後まで消えることはなかった。同氏がOBになってから、何試合かの阪神─巨人のOB戦を行ってきたが、一度も巨人のユニホームを着ることはなかった。常に縦縞のユニホームに袖を通して、さっそうとマウンドに上がっていた。 骨っぽい男。反骨精神旺盛な男。鼻っ柱の強い男。等々、表面に出ていた行動を中心に記載してきたが、本来の小林繁氏、普段はおくびにも出さなかったが、実に几帳面な性格だった。まわりが乱雑な中、同氏のロッカーは、いつも整然としていた。」 小林の通算成績は11年で374試合に登板139勝95敗17セーブ1273奪三振、2029回1/3で自責点718、防御率3.18である。引退後は野球評論家や解説などの仕事の傍ら、飲食店経営や不動産事業などをしていたが、1997(平成9)年に近鉄バファローズの一軍投手コーチに復帰することで、14年ぶりに現場に戻る。5年間在籍して退団し福井県でゴルフ場の支配人を務めるなどしていたが2009(平成21)年に日本ハムファイターズに二軍投手コーチとして招かれ、翌年は一軍の投手コーチに昇格する。ところが間近にキャンプを控えた2010年1月17日、福井市内のマンションで「背中が痛い」と変調を訴え救急搬送される。病院到着時には心肺停止状態で、急性心筋梗塞による心不全で亡くなってしまった。まだ57歳だった。まとめ小林さんについては先代の資料も一杯あるし ご本人の自伝もあるし 様々な人が回想したり証言したりしてるから今回は端的にとおもったんだけど やっぱり長くなってしまったわね 江川さんとの事件がなければ 巨人で順風満帆な野球人生が送れたのかもしれない でもこのトレードでタイガースに戦う姿勢というものを持ち込んでくれたんじゃないかな?小林さんは引退したけどその2年後に優勝、日本一になったんだから なお 江川さんとは2007年に黄桜酒造のCMで共演した際にお互いのわだかまりが無くなったことで一応の「和解」ができたんだって いま振り返って当時の資料など見てると ホントに球界どころか日本中を揺るがす大事件だったんだね 背番号「19」はこの小林さんが着けたことが起点となって タイガースでは投手の番号に定着したんだなって実感があるわ タイガースの選手にも球団にもそしてタイガースファンにも とてつもないインパクトを与えた存在だったのよ!背番号19―5に続く
2024年02月08日
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背番号19(その3)背番号19の第3回目ですさて前回予告した通り 7人目として「19」を着けたのはまたまた野手(外野)の藤井栄治さん しかも12年間着けるんだよね しかも藤井さんのあともまた外野手なのよ いったいどうなってるの?というわけで今回も3人を紹介するけど 3人目にやっと投手が出てくるよ!藤井栄治 外野手大阪府出身で登美丘高校から関西大学に進む。高校では投手だったが大学に入ると打撃のセンスを買われて外野手に転向している。大学通算では68試合213打数64安打29打点で打率は.300。ただしホームランは無く、どちらかというとミートの上手い巧打者タイプだった。1962(昭和37)年にタイガースへ入団すると1年目からライトのレギュラーに抜擢される。期待に応えた藤井は127試合405打数97安打38打点2本塁打、打率.240を記録している。怪我も少なく1969年まで新人から8年連続100試合以上に出場してレギュラーを守り、1964(昭和39)年と1965(昭和40)年は2年連続で全試合に出場するなど不動の5番打者としてチームを支える存在になった。並べてみると1963年 133試合484打数145安打54打点8本塁打 .3001964年 140試合527打数140安打58打点9本塁打 .2661965年 140試合499打数119安打54打点8本塁打 .2381966年 125試合441打数124安打51打点9本塁打 .2811967年 125試合459打数122安打52打点9本塁打 .2661968年 113試合377打数101安打40打点4本塁打 .2681969年 112試合373打数 88安打25打点2本塁打 .236この間にオールスターにも3回出場するなど人気選手として活躍しており、数字を見る限りでは成績の波の振幅が小さく安定しているのがわかる。 それでも1968年から徐々に力が落ちてきており、1970(昭和45)年にはついに出場試合が75と二けたになってしまう。これを機に成績が下がり続け、タイガースでの最終年となった1973(昭和48)年は金田正泰監督との確執も生じて44試合しか出れなかった。シーズンオフになると「出場機会は減ったがまだまだ自分はやれる」という思いと金田監督への嫌悪から藤井はトレードを直訴し、阿部良男との1対1の交換トレードで太平洋クラブライオンズへ移籍している。タイガースでは入団から移籍までの12年間、背番号「19」を背負い続けた。ライオンズでの1年目となった1974(昭和49)年は、久々に105試合の出場を果たし320打数74安打38打点4本塁打と気を吐いたが、翌年には90試合、さらに59試合と出場が減ると、大学の先輩である阪急ブレーブスの上田利治監督の要望もあって無償トレードで移籍する。阪急では背番号をタイガース時代と同じ「19」をもらって2年間プレーしたが、さすがに力は衰えており、1978(昭和53)年のシーズン終了後に現役を退いた。プロ生活17年間の通算成績は1650試合5173打数1344安打545打点73本塁打で打率.260だった。藤井はバットを折らなかったことが有名で、年間を1本のバットで通し、秋にはミートポイントのところだけ少しくぼんでいたという信じがたい逸話が伝わっている。それほどミートが上手かったということだろう。また現役時代は非常に無口な選手であったため「鉄仮面」の異名も付いている。外野守備は強肩で、常に片手キャッチながら失策は少なく、外野手として817守備機会連続無失策は2024年2月現在もセ・リーグ記録である。引退後は西武、阪神、近鉄でバッティングコーチを務め、卓越したミートのセンスに基づいて後進を指導した。ただし、近鉄時代に鈴木啓示監督が就任すると意見が合わず、開幕わずか5試合で辞表を出して辞任している。阿部良男 外野手宮城県石巻市出身。県立宮城水産高校から社会人全常磐に入社している。1968(昭和43)年のドラフト会議で西鉄ライオンズの4位指名を受けて入団、1973(昭和48)年まで5年間在籍している。 1974(昭和49)年、藤井栄治とのトレードでタイガースに移籍し、藤井の着けていた背番号「19」を着けることになった。 しかし当時のタイガースの外野は世代交代期にあって、使いたい若手が多くひしめいており、阿部にはあまり出番が回ってこない状況であった。実際に11試合の出場にとどまっており、11打数1安打0打点4三振の記録しか残っていない。結局1シーズンで自由契約となり、ロッテオリオンズに拾われたものの1975(昭和50)年は一軍に上がることもできないまま引退している。その後は少年野球チームの指導などで野球に携わっていたが、2017年6月29日に71歳で逝去された。工藤一彦 投手茨城県筑波郡谷田部町の出身で高校は土浦日大高校。中学時代から知られた存在だったが、ある日土浦日大の見学に行くと監督から「工藤君ちょっと投げてみろ」と言われてマウンドに立たされた。工藤は当時の土浦日大レギュラーを相手に9連続三振を奪って監督をうならせ、「俺たちと一緒にやろう」と誘われて入学を決めたという話が残っている。高校時代は銚子商業の土屋正勝、横浜高校の永川英植、鹿児島実業の定岡正二とともに高校四天王と呼ばれ、1974(昭和49)年は甲子園に春夏出場しているがともに2回戦敗退。ただし秋の国体では銚子商に勝って優勝している。同年のドラフト会議ではタイガースの2位指名で入団し、背番号「19」を背負う2人目の投手となった。ドラフト1位は丸善石油の古賀正明だったが、球団の期待度は工藤のほうが高く、示された契約金や年俸も2位の工藤より安かったために入団を拒否、翌年改めて太平洋クラブライオンズの1位指名を受けてプロ入りするという波紋も残した。1975(昭和50)年、実際にプロ入りしてみると186センチ90キロの堂々たる体格の割に工藤のストレートは130キロ台半ば程度に過ぎず、どちらかというと回転数が少ない球質だった。しかしほかにこれという変化球もない状況では、すぐ使える投手ではなかった。 まずプロ入りから3年間は一軍登録すらされていない。4年目の1978(昭和53)年8月にようやく初登板したが、投げたのは2/3イニングのみ。しかも5安打を浴びて5失点、防御率67.50という不名誉なシーズンに終わった。1979(昭和54)には背番号を移籍してきた小林繁に譲って「26」に変更し、ここからブレイクしている。31試合(先発18)に登板して7勝8敗の成績で完投も2試合あり、防御率は4点台ながらものらりくらりと抑えてしまうという特徴を見せた。芽が出ない間にフォークボールをマスターしたことがこの年の転機になったと言われている。1980(昭和55)年は引き続き先発とリリーフ掛け持ちで使われ5勝10敗と負け越してしまう。しかしローテーション投手として固定された1981(昭和56)年に9勝9敗、1982(昭和57)年には念願の二けたとなる11勝8敗でオールスターにも出場、さらに1983(昭和58)年はキャリアハイの13勝10敗と好成績でエース級の働きをしている。 1984(昭和59)年に肘を痛めて7勝5敗に終わると、1985(昭和60)年に就任した吉田義男監督は工藤を中継ぎに戻すがローテーションの谷間では先発もこなしている。この年にはもともとスリークォーター気味だったフォームをサイド気味に変えたが6勝どまり、翌年が5勝、そして1987(昭和62)年の3勝を最後に勝ち星と縁が無くなる。その後も肘の状態は回復せず、1990(平成2)年まで在籍したものの3年間白星がないまま引退に追い込まれた。通算成績は308試合66勝63敗4セーブ623奪三振、1186回2/3で自責点533、防御率は4.04というもので、勝ち越しているのは立派だ。高校時代に騒がれた四天王のうち工藤だけがドラフト2位で、他の3人はいずれもドラフト1位だった。しかし他の3人のだれよりも現役年数が長く登板数や勝ち星も一番多かったことを思えば、よくやったほうだと言えるかもしれない。まとめこれまでの3回で9名を紹介したんだけど投手は2人に過ぎません でも西村さんと工藤さんはそれなりに成績を残した投手だよね 今回の1番目、藤井さんは押しも押されもしないタイガースの名外野手。山内一弘さんや並木輝男さんなどと共に、巧打を兼ね備えた外野陣を形成した時期があったんだよね阿部さんは必要がなかった選手だとおもうんだけど 藤井さんほどの選手を出す見返りに一人ぐらいは貰っておけということだったらしいわ タイガースではほとんど試合に出てないからライオンズ時代の写真しかありませんでした工藤さんは甲子園で騒がれた選手だったんだけどプロで一流と言われるまでには成れなかったわね コントロールの良さと要所で使うフォークボールでなんとなく抑えていくのが特徴で とらえどころがないタイプだったそうです 完封も6試合あるし、術中にはまるといつの間にか抑えられてしまうって感じかな?背番号19―4に続く
2024年02月05日
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背番号19(その2)背番号19の第2回目です1回目に創成期の3人を紹介したけど3者3様だったよね 今でこそ投手の背番号として定着した「19」も初期はどちらかというと野手の番号だったのよ2回目の今回も3人を掲載しますが投手はいないのね 2人が内野手で残りの一人は外野手です 多分3人ともみなさんご存じない選手かもしれないよ西江一郎 遊撃手・二塁手・三塁手土井垣遺跡の翌年から「19」を引き継いだのが西江一郎。福岡県飯塚市出身で社会人日鉄二瀬から1948(昭和23)年に入団している。最初に着けた背番号は前年空き番になっていた「12」だった。戦後再開された職業野球ではあったが、まだ選手不足が続いており、投手が野手を兼ねることが当たり前の時代に入団してきた。タイガースも内野手が足りず ショートを投手が守る状況だったため西江の入団が決まったわけだが、同期入団の名手白坂もショートが専門で、いきなりポジション争いをする羽目になる。 1年目の1948年は31試合の出場にとどまるも、2年目の1949(昭和24)年には72試合へと出場数を伸ばす。1950(昭和25)年には背番号を「19」に変更して勢いがついたのか、白坂とのポジション争いに勝ってショートのレギュラーをつかみ、137試合に出場して488打数122安打51打点3本塁打の成績を残している。 しかし、一方でセリーグのショートでは1シーズンの最多記録となる71失策を犯してしまい、翌1951(昭和26)年には守備の好い白坂にポジションを明け渡すことになる。 それ以降は守備のユーティリティ性を生かしてセカンドやサード・ショートを守る控え選手という立場でチームに貢献していたが、1954(昭和29)年には出場が24試合と出番を失い自由契約選手となってしまった。 1955(昭和30)年は東映フライヤーズと契約して5年ぶりに三けたの129試合に出場、453打数127安打30打点で打率.280という好成績を挙げてレギュラーに復活する。ところが1956(昭和31)には63試合出へと激減し、わずか17安打、打率も.155と急激に衰えたため引退している。 通算成績は696試合1738打数417安打144打点6本塁打32盗塁で、打率は.240である。鹿野鉱一(かのこういち) 遊撃手愛知県名古屋市出身で高校は名門・中京商業(現中京大中京高)、1951(昭和26)年の選抜大会で甲子園出場経験がある。タイガースへは1955(昭和30)年に社会人東海電通から入団し、前年自由契約となって移籍した西江のあとを受けて「19」を着けた。しかし遊撃手として白坂がレギュラーで盤石だったため、4試合の出しかできず、5打数0安打0打点2三振という成績しか残せないまま1年で退団してしまう。その後は社会人に戻り、愛知産業を経て清峰伸銅では1959(昭和34)年に都市対抗本戦に出場している。大津 淳(あつし) 外野手兵庫県明石市出身で高校は明石高校。1947(昭和22)年には捕手として選抜大会に出経験がある。関西大学に進むと外野手に転向し、4年時の春には首位打者タイトルを獲得するなど中心選手として活躍。通算93試合319打数102安打で打率.323、3本塁打という記録を残してプロの注目選手になった。しかし大津はプロの誘いを断ると社会人日本生命に進む。1955(昭和30)年にはオール鐘紡の補強選手としてクリンナップを打ち優勝に貢献、世界アマチュア選手権の日本代表チームにも選ばれている。社会人での華々しい実績が加わって評価が高まりプロ球界でも獲得競争となったが、結局大津は大学時代から接触していたタイガースへの入団を決断する。入団は変則で、阪神電鉄に入社して「出向」の形をとっている。背番号は引退した鹿野の「19」を継承し引退までの6年間を通した。1年目の1956(昭和31)年は99試合に出場しており、344打数85安打44打点3本塁打19盗塁で打率.247の成績を残し、外野レギュラーの一角へ食い込んでいる。1957(昭和32)年には128試合、1958(昭和33)年は105試合、1959(昭和34)年も115試合と3年連続で100試合以上に出場しレギュラー外野手で活躍している。しかし、1960(昭和35)年~1961(昭和36)年にはそれぞれ92試合の出場に終わると、あっさり現役引退してしまう。このあたりは「電鉄社員でタイガースへ出向」という立場の強みで、引退後は阪神電鉄社員に戻ったのちに球団フロントに入り、営業部長時代には1985(昭和60)年の日本一を経験している。タイガース現役時代の記録は、6年間で631試合1947打数478安打194打点24本塁打46盗塁、打率.246だった。まとめ2回目までで6名の選手を掲載したけど投手は1人だけなので 「19」は球団創設期から昭和中期までは野手の番号だったと言えそうね これは意外でした今回最初の西江さんて知ってた?この人も「器用貧乏」の部類に入るのかな 活躍は1年だけで 最後は他球団で引退を迎えてるのね2人目の鹿野さんはさらにまったく知らなかった 1年しかいなかったから写真などの類も皆無 5打席しか立ってないもんなあ・・・大津さんはアマチュアでも名選手だったみたいだし それほど長くないけどタイガース時代にもある程度の数字を残せた選手ですね フロントでは編成部長や営業部長を歴任して1985年の日本一に裏方として貢献してるんださて「19」は何時から投手の番号になったのかな? 予告しておくけど 次の3回目の最初に出てくる藤井栄治さんも外野手よ背番号19―3に続く
2024年02月04日
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背番号19(その1)背番号19の第1回目です2代目の知る範囲で見聞きしてきた感覚で言うと「19」も投手の番号かな この番号も球団創立時から着けられた背番号ですちなみに最初に着けた人は佐藤武夫さんという方で捕手兼一塁手兼外野手だったのね ということでどのようにして投手の番号になっていったか興味が出てくるわよね佐藤武夫 捕手・一塁手・外野手愛知県岡崎市出身で岡崎中時代は捕手。在学中は稲葉(高塚)誠治(のちプリンスホテル監督)とともに強豪と呼ばれる時代を築いている。1936(昭和11)年に創成期のタイガースに入団、創設時には「いろは順」で背番号が着けられたが、順番では「13」となるところ、この番号を避けて「19」を着けることになった。職業野球では「弱肩、鈍足、三振」のレッテルを張られる選手として有名だったらしいが、色黒なことから「クロちゃん」の愛称で親しまれた選手。写真は見つからないが結成時のメンバーに「捕手」として名が記されている。 タイガースでは1936年の春夏季で1試合、秋季で1試合に出場しただけである。この年の通算が2試合3打数1安打0打点0本塁打0三振というものでシングルヒットを1本打っただけだ。シーズンオフには新球団のイーグルスに移籍したが、1937(昭和12)の1シーズンをプレーしただけですぐに東京セネターズに移籍する。セネターズでは1938(昭和13)年から3年間を過ごす。1939(昭和14)年に89試合、1940(昭和15)年は101試合に出場する正捕手だったが、いずれも打率は1割台。三振は1939年にリーグ最多の56個を記録するなどつねにトップクラスの数字だった。ただし、豪快な大振りが返って人気を呼び、1939~40年は東西対抗のメンバーに選出されている。1941(昭和16)年には大洋軍(のち西鉄軍)に移籍し3年間プレーするも、1941年はリーグ最多三振、打率は1割台どころか3年目の1943(昭和18)年には1割に満たず.098という数字が残っている。 現役最後の1944(昭和19)年は巨人に移籍している。通算成績は496試合1537打数262安打112打点12本塁打3盗塁、打率.170である。 戦後は社会人野球を経たのちにプロ野球審判員となったが、1962(昭和37)年に現職のまま45歳で亡くなっている。西村幸生 投手 三重県宇治山田市(現伊勢市)出身。宇治山田中学から関西大学に進んでいる。大学時代はエースとして2度リーグ優勝しており、1932(昭和7)年には東京6大学の5チームから勝利するなど無敵を誇った。 大学最終年には社会人と職業野球とで争奪戦となったが、同郷(宇治山田市出身)の巨人・沢村栄治との対戦を切望してタイガース入団を決めたという。背番号は移籍した佐藤の着けていた「19」を継承しており、タイガースの投手として初めて「19」を背負った選手である。 ルーキーイヤーの1937(昭和12)年は、まず春季が19試合9勝3敗で防御率2.24と素晴らしい。 さらに秋季には25試合15勝3敗で防御率1.48の好成績を挙げて最多勝と最優秀防御率の二冠に輝いている。しかもタイガースは巨人に7戦全勝、そのうちの4勝を西村が挙げており「初代ジャイアンツキラー」と呼ばれる。 春季優勝の巨人と秋季優勝のタイガースによる年度決勝戦でも4勝2敗でタイガースが勝っているが、西村は4勝のうち3勝を挙げている。 1938(昭和13)年は、春季で19試合11勝4敗、防御率1.58で2季連続の最優秀防御率投手となっている。秋季も20試合で9勝2敗、防御率も2.48と安定感抜群だった。 1シーズン制となった1939(昭和14)年は29試合11勝9敗、防御率2.42と安定した力を見せている。 しかしこの年、契約切れになるとタイガースを退団する。肩を壊していたという説もあるが実際の事情は定かではない。 翌1940(昭和15)年は満洲の新京電電でプレーしたが1年で引退してしまう。 1944(昭和19)年に応召し、同年フィリピンで戦死。34歳だった。通算成績は3年間で112試合55勝21敗394奪三振350与四死球、733回1/3で自責点164の防御率2.01という高い数字を残した。故郷の伊勢市には銅像が建てられている。 西村は別名「酒仙投手」とあだ名されて有名な選手だ。当時の野球評論家の大和球士が名付け親だが、決して酒豪でも酒乱でもなく、酒を飲むことを愛するいたって練習熱心な選手だったらしい。当時の石本秀一監督はのちに「自分が見た中でコントロールは稲尾と西村が双璧だ」と回想している。制球力は抜群だったという証言だが、数字を見るとかなりフォアボールは出している。判定の問題だろうか?土井垣 武 捕手 タイガース3人目の背番号「19」は1940(昭和15)年入団の土井垣武で、今度は捕手である。 鳥取県米子市出身で米子中学の最終年に主将として甲子園に出場、準決勝で嶋投手率いる海草中学に敗れた。 後にダイナマイト打線の一角として人気選手になる土井垣だが、戦前はレギュラーになれずに終わっている。 1年目はわずか20試合で41打数8安打、2年目の1941(昭和16)年が71試合194打数44安打だった。3年目の1942(昭和17)年には72試合で277打数69安打と徐々に数字は上がっているが、この年は主にショートなど内野手としての出場が多かった。シーズンが終わると応召、終戦まで軍隊生活となってしまう。1945(昭和20)年に復員し職業野球にも復帰、東西対抗戦に出場している。そして翌1946(昭和21)年から本格的にレギュラー捕手として活躍するようになる。この年は99試合412打数134安打で打率.325、打点も70を記録し、「和製ヨギ・ベラ」と異名をとるようになった。1947(昭和22)年には116試合、1948(昭和23)年が138試合と完全にレギュラーの座を守って人気選手となる。1949(昭和24)年には土井垣・藤村富美男・別当薫で強力なクリンナップを形成し、126試合473打数155安打86打点、打率.328でホームランも自己最多の16本を記録しダイナマイト打線の中軸を担った。次の写真の向かって一番左から土井垣、順に金田正泰、別当薫、藤村冨美男、呉昌征。 この年は別当が39本、藤村が46本打っており、クリンナップ3人で101本を放ったことになる。まさにダイナマイト打線の名にふさわしい数字だ。(ちなみに1985年のバース・掛布・岡田は129本、これも驚異的だ) 1950(昭和25)年、土井垣は2リーグ分裂の際の若林忠志に対する球団の姿勢に対して不信感を持ち、若林に同調する形で毎日オリオンズへ移籍してしまう。 オリオンズで4年間レギュラー捕手として活躍したのち、1954(昭和29)年には東映フライヤーズに移籍し2年間プレー、最後は阪急ブレーブスに移籍してやはり2年間プレーして引退した。 引退後は報知新聞社に入ってスポーツ記者として数年を過ごし、1963(昭和38)年に二軍バッテリーコーチとしてタイガースに復帰するも、翌年のシーズンオフに本人が「寝耳に水」と言うように突然解雇されている。通算成績は1413試合4783打数1351安打654打点79本塁打、打率.282である。土井垣は用具にも独自性をもって自分でミットの改良を重ね、捕球部分が非常に薄いものにたどり着いている。それは現代のモデルに近いもので、現行ミットの原型と言われることもあるようだ。まとめ 第1回はそれぞれに特徴ある選手がでてきたね 佐藤さんは一応捕手ということではあるけど内外野守れるユーティリティの選手だったようね 打率の低さは置いといて かなり意外性があって時に長打も出るバッターだったみたい 豪快なフルスイングの三振もご愛敬で人気はあったのよ ちょっと芸人タイプって言う選手だったのかな? 西村さんは「酒仙投手」って呼ばれていたのよね この異名は有名で2代目も聞いたことがあるわね いろんな証言から「酔っ払い」みたいな感じではなかったみたいよ 若くして戦死されてるし現役生活も短期間だったけど凄く好い成績残してるよね 土井垣さんはタイガースファンの中では超有名だよね 先代の話では漫画「ドカベン」に出てくる明訓高校の主将でキャッチャー・土井垣将のモデルになった人なんだってね おしくも2リーグ分裂で移籍してしまったけど攻守ともに名選手の部類に入るとおもう背番号19-2に続く
2024年02月03日
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背番号18(その8)背番号18の第8回目です 今回が「8」の最終回となります前回3名の投手を紹介したんだけど そのうち藪さんと杉山さんがドラフト1位だったよね今回もドラフト1位の投手が2人登場するよ やっぱり「18」は投手の番号で定着したね そして「エース候補」と言われる人が背負う番号になってるわ(結果はさておきだけど・・・)いまのところタイガースでは この「18」をエースらしいエースが着けたと言えそうなのは最初の若林さんくらいなのよね もっともっとすごい投手が出てきてほしいなっておもうのよね!二神一人 投手高知県幡多郡大月町出身で高校は高知高校。右投げ本格派投手として2005(平成17)年の夏の選手権で甲子園に出場している。高知高校は県予選の決勝で明徳義塾に敗れていたが、不祥事による明徳の出場辞退で繰り上がっての出場だった。甲子園では1回戦で日大三高に敗退。卒業後は法政大学に進学、4年間のリーグ戦通算成績は35試合9勝7敗136奪三振、防御率3.11と特に目立った数字ではない。しかし4年春に5試合4勝0敗防御率1.41で最優秀防御率のタイトルとベストナインに輝くと、大学選手権では4試合で3勝を挙げて優勝しMVP。最終年度で素晴らしい実績を作って一躍大学ナンバーワン右腕との評価が高まった。 2009(平成21)年のドラフト会議でタイガースは菊池雄星(花巻東)の抽選に敗れ、外れ1位で二神を単独指名し獲得している。背番号は杉山直久から「18」を譲られた。 プロ1年目の2010(平成21)年は春季キャンプで一軍メンバーに入ったものの3月のオープン戦で左内部腹斜筋の筋挫傷をおこしてリタイアする。この怪我の回復に時間を要したため、ウェスタンの実戦に出るのは7月になってからだった。ようやく試合で投げる機会が訪れたと安堵したところ、7月10日に右肘内側側副靱帯損傷で再びリタイア。結局ルーキーイヤーはウェスタンで1試合に投げただけで終わってしまった。二度にわたる怪我でのつまずきによる練習不足・実戦不足は、2年目の2011(平成23)年にも影響して一軍登録なし、ウェスタンでもわずか4試合で0勝2敗、防御率5.79という数字しか残していない。2012(平成24)年、腰を痛めた福原忍に代わって6月30日に初めて一軍に昇格、7月6日の巨人戦の2番手でデビューし、2イニングを被安打1の無失点で抑えた。8月16日の横浜17回戦で初先発、5回1/3を被安打5四球2三振2で3失点と無難に投げたが勝敗は付かなかった。最終的に2年目は4試合0勝1敗、12回1/3で自責点6防御率4.38という結果に終わっている。大卒ドラフト1位で4年目となる2013(平成25)年は勝負をかける年とみられ春季キャンプは一軍に入ったが、練習試合で1回5失点と炎上して降格。ファームに行くとサイドスローへの投球フォーム変更を命じられる。その後微修正を続け、スリークォーターへと試行錯誤しているうちに一軍へ上がる機会もないままシーズンが終わってしまう。ウェスタンリーグでの25試合3勝5敗1セーブ、防御率4.38というのが4年目のすべてだった。 背番号「18」を剥奪されて「66」に変更して臨んだ2014(平成26)年は一軍で11試合に投げるも0勝2敗1ホールドで防御率8.79。2015(平成27)年も12試合の登板に終わるが、防御率は2.57とやや光が見えたと思われたが、2016(平成28)年は一軍に呼ばれることもなくシーズンが終わり、10月1日の戦力外通告を受けて現役を退いている。通算成績は27試合0勝3敗1ホールド、40回2/3で37奪三振、自責点24、防御率5.31で、ドラフト1位入団としては非常にさびしい数字だった。 引退後は球団職員として残り広報を担当している。藤川球児 投手 藤川投手は背番号を何度も代えた選手で、アメリカ時代を含めると現役通算で8つの背番号を背負ってるのよね。タイガースでは「30」「92」「22」「18」と4つの背番号を着けてます。 このブログでは若い番号から順次進めているため、アメリカから復帰した年に1年だけ着けた「18」での紹介ということになります。高知県高知市出身で高知商業。高校時代は2年生だった1997(平成19)年の夏に明徳義塾を破って兄順一とともに甲子園に出場し話題になる。この時はまだ外野手兼控え投手だった。旭川大付属との1回戦では4-3の4回裏からリリーフして6イニングを無失点に抑え勝利投手になる。2回戦はエース川口知哉を擁する優勝候補平安高校と対戦、1回に自らの拙いバント処理などで4点を失い、9回完投10奪三振の力投も0-5の完封負けで大泣きしている。 1998年、タイガースは二岡智宏(近畿大)の逆指名を得ようと交渉していたが失敗し、ドラフト会議では藤川を1位指名している。入団時の監督は野村克也で背番号は「30」が与えられた。 ルーキーイヤーの1999(平成11)年、非常に細身だった藤川は身体を鍛えるところから始まっており、ウェスタンリーグでも夏場以降に3試合投げただけだった。 2000(平成12)年、開幕を一軍で迎え開幕戦横浜1回戦で初登板を果たし、リリーフで2回無失点に抑えている。この年は19試合で22回2/3を投げて0勝0敗、防御率4.76に終わっているが、投球回数を上回る25三振を奪っており、「火の玉ストレート」の片りんは見せた。 しかし翌2001(平成13)年は1年間故障が絶えず、一軍に上がることができなかった上に、ウェスタンでも14試合登板にとどまり、4勝3敗で防御率3.58の成績しか残せなかった。 2002(平成14)年、監督が星野仙一に代わると藤川は背番号を名前にちなんだ「92」に改めて心機一転、一軍公式戦では12試合すべて先発で起用される。9月11日のヤクルト戦では8回1失点の好投でプロ入り初勝利を挙げているが、全体では1勝5敗、防御率3.71だった。 2003(平成15)年はリーグ優勝した年だが、藤川は17試合(先発2)で1勝1敗、防御率3.38とほとんど貢献できず、日本シリーズでの登板もなく終わっている。ただし、この年に二軍投手コーチに就任した山口高志の指導によって球速はぐんぐん上がって、のちの活躍へつながっている。 プロ入り6年目の2004(平成16)年、岡田彰布が監督に就任、二軍監督として長く藤川を見てきており、ようやくプロらしい身体つきになり、球速も150キロを超えてきた藤川をリリーフに定着させる。藤川は26試合すべてリリーフ登板で防御率2.61と結果を出し翌年の飛躍へとつながる年になった。 2005(平成17)年には背番号を「22」に変更、ジェフ・ウィリアムス、久保田智之とともに「JFK」を形成して大ブレイクする。藤川はセットアッパーに固定されリーグ最多の80試合に登板して7勝1敗1セーブ46ホールド、防御率1.36の成績で最優秀中継ぎ投手のタイトルを獲得している。92回2/3で139個の三振を奪った速球は「火の玉ストレート」と異名が付いた。 2006(平成18)年も「火の玉」は唸る。セットアッパーとしてスタートしたが久保田が故障でリタイアするとクローザーを担い圧倒的な投球で相手を捻じ伏せていった。63試合で5勝0敗、79回1/3を投げて自責点はわずかに6。防御率0.68という驚異的な数字をたたき出して、2年連続で最優秀中継ぎ投手となった。 2007(平成19)年はクローザーに専念し、71試合で5勝5敗46セーブの成績で最優秀救援投手のタイトルを獲得。ここまで3年連続して100三振以上を奪っており、ホップすると言われたほど回転の多い「火の玉」の前に相手チームは沈黙している。 長くなってしまうので以下渡米までの5年間は数字のみ記載するが、防御率が2点を超えたのは1年だけ、しかも2.01だからいかに安定していたかがわかる。 2012(平成24)年のオフ、それまで積み重ねてきた実績を引っ提げ、海外FA権を行使し、シカゴ・カブスと2年契約してメジャーへと転身するが、アメリカでは故障に泣かされることになる。2013(平成25)年、5月13日に「右前腕部の張り」で故障者リストに入り、一度は復帰するも5月26日に再発、6月11日にトミー・ジョン手術を受けそのままシーズンを終えた。2014(平成26)年は15試合に登板して防御率4.85と復調が見られず、大半は故障者リストに入っており、シーズン終了後自由契約となる。2015(平成27)年にはテキサス・レンジャースと契約して1年契約して移籍するも、メジャーではわずか2試合で3失点したところで早々と見切られ、5月22日に自由契約選手になってしまう。失意で帰国すると6月に四国アイランドリーグの高知ファイティングドッグスに入団したが9月に退団している。 その後ヤクルトとの交渉が伝えられる中、10月17日にかつてのチームメイト金本知憲が監督に就任すると、直接藤川との交渉を進めタイガースへの復帰を決断させた。背番号は二神が剥奪されてから2年間空位になっていた「18」を着けることになった。 復帰した藤川は、クローザーを務めていた呉昇桓の残留を想定に先発として調整を開始。これは「先発で調整していれば中継ぎへの転換も容易だが、その逆はしんどい」という判断からだった。結局呉昇桓は交渉が不調に終わって退団したが、藤川は先発投手としての調整を続けていく。2016(平成28)年のシーズンを先発投手としてスタートすることになったが、ペース配分を意識したためにボールに勢いがなく、シーズン序盤に先発した5試合で1勝2敗、防御率6.12と苦しんでいる。4月10日の広島戦では自己ワーストの7失点を記録するなど散々な結果に終わり、6月からブルペンに配置転換された。リリーフでは38試合に登板しており、4勝0敗3セーブ10ホールドで防御率は3.58と貢献できている。 藤川は1年で背番号「18」を返上して、2017(平成29)年から引退までは渡米前の「22」に戻している。そして2017年は52試合、2018(平成30)年が53試合、2019(令和元)年も56試合と安定してブルペンの柱になっている。 特に2019年は16セーブと同時に23ホールドを稼ぎ、中継ぎとクローザーのニ役をこなして防御率も1.77と素晴らしかったが、一方で心中では「この先2年以内に引退」を意識した年でもあった。 40歳を迎える2020(令和2)年のシーズンで、ガクンと衰えが襲ってくる。オープン戦から調子が上がってこないままシーズンでも救援失敗が続き2度の登録抹消を経験。2度目の抹消時に引退を決断し球団に申し入れ、8月31日、球団を通じて正式に引退の発表となった。 エピソードなどは書ききれない。詳しいことは様々な媒体で紹介されているので、ここではこの程度にして終わりたい。 タイガースでの藤川の通算成績は、782試合(先発19)60勝38敗243セーブ163ホールド1220奪三振、935回1/3、自責点216、防御率2.08である。馬場 皐輔 投手 宮城県塩釜市出身。強豪仙台育英高校時代には3年春にベスト8進出、夏は2回戦で敗退したが剛腕投手として存在感を見せている。大学は地元仙台大学に進むと剛腕に磨きがかかり、4年秋には37イニングで60三振を奪う力投を見せ、奪三振率14.59の驚異的な数字を残すまでになった。 リーグ戦通算の記録は32試合15勝6敗206奪三振、167回2/3で防御率は1.34だった。 2017(平成29)年のドラフト会議ではタイガースとソフトバンクが指名重複となり、抽選で勝ったタイガースに入団が決まる。大学時代の数字から見ても、前年限りで藤川が返上して1年空いていた「18」は、馬場のために空けてあったように思える。 しかし期待は裏切られ、ルーキーイヤーの2018(平成30)年は2試合、翌2019(令和元)年も2試合しか一軍での登板がなく、足踏みがつづいて心配される。 3年目となった2020(令和2)年に32試合30回1/3を投げて2勝1敗9ホールド、2021(令和3)年には44試合47回1/3で3勝0敗10ホールドを記録して一軍のブルペンに定着するかに見えた。 ところが2022(令和4)年には7試合、2023(令和5)年も17試合と出番が減ってしまった。 馬場投手の特徴は、先発、中継ぎ、抑えのどのポジションもそつなくこなせるしロングリリーフも平気というオールラウンダーであることだ。 これが曲者で、野手にも「器用貧乏」があるように、投手でも各ポジションに好い投手が定着してくると、器用な馬場の必要性がなくなってしまうという典型的な例ではないかと感じる。 タイガースでの通算成績は106試合7勝4敗22ホールド106奪三振、118回2/3で自責点が46、防御率は3.49だった。 奇しくもライバル巨人へ行くことになったが、タイガースでの馬場は今だ本来のポテンシャルを見せていたとは言い難い。2024年、タイガースに対しどう向かってくるか、非常に不気味な存在になったと言えるだろう。まとめ3人だけど長くなっちゃったね 二神さんは「ドラ1」のレベルでの評価は高すぎたかもしれないわね 入団時点で凄い速さのボールがあるわけでもなかったし これという変化球も持ってなかった 高く評価され過ぎたことが本人も重荷になっていたんじゃないかなあ藤川さんはもう説明の必要がないわ 読んでくれてる皆さんのほうがよくご存じだと思う この先は指導者としてまたタイガースに貢献していただけるものと待ってます たった1年しか着けなかったのは残念ね馬場さんは昨年ファームの試合で何回も見てるけど ボールは速くて球威も感じたよ 上の写真でもわかるように山本由伸投手と似た腕の動き方でゆったりしたモーションだけど 投げ込むときに持ち前の馬力がプラスされる感じなのよ コンパクトな腕の振りからビュッと投げてくるのでタイミング合わせにくそうだった とても放出される選手とは予想できなかったなあ 敵に回すと嫌な投手だとおもう 背番号18は馬場さんのあと2024年は空き番のまま行くみたいだけど 次に誰が着けるのかな? 今年のドラ1候補は内野手って噂だしね・・・ではこれで背番号18は終了です 読んでくれてありがとう 次は「19」に進むよ 小林繁さんとか藤浪さんも登場ね! 背番号19へ続く
2024年01月30日
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背番号18(その7)2代目タイガース非公式サイトです おかげさまで雪も止んで交通機関も平常に戻りました スリップした車の接触などの小さな事故はあったようだけど 道路の雪も日陰以外はほぼ解けてきてるよ いちばん気をつけなきゃならないのは 昼間でも陽の当たらないとこは凍ってるからツルツルで危ないことかな 背番号18の第7回目です 前回は紹介した3人のうち最後の野田さんがドラフト1位だったよね 残念だけど「エース候補」と目されながら結局トレードで他球団へ行っちゃった・・・ 流れの中で野田投手のあと「18番」は翌年空き番となってしまったのよそして1993年のドラフト会議で1位指名された藪さんが引き継ぎます 藪さんはすでに背番号4で紹介しているから 少し加筆したりして再掲です今回は藪さんを含めて3名の選手を紹介するよ藪恵壱(恵市)投手(再掲) 三重県の御浜町出身で高校は和歌山県の新宮高校。高校時代は県ベスト8が最高で、一浪して東京経済大学に進む。どこのセレクションにも合格できず一度は野球をやめようかと思っていたところ、たまたま野村克也の講演を聞く機会があって思い直したという話を聞いたことがある。(先代の談) 東京経済大は首都大学リーグの2部リーグだったが、藪は通算36勝を記録してプロからも目をつけられる存在になっていった。 大学を卒業すると社会人の朝日生命野球部に籍を置き、保険勧誘の営業の傍ら野球に取り組んだ。藪は1993(平成15)年のドラフト会議でタイガースを逆指名して1位入団し、期待されてエースナンバーの「18」を与えられる。185センチのすらりとした長身で、入団当時から「織田裕二にそっくり」と言われ特に女性ファンの人気が高かった。入団を機に登録名を「恵市」としている。 1年目の1994(平成6)年は9勝9敗ながらもチームでは最多勝、暗黒時代の打線を背負いながら防御率も3.18という立派な成績で新人王に選ばれている。 ストレートは最速140キロ台後半で綺麗なフォームから投げる素直なボール。どちらかというと最初右打者の体に向かってからストライクゾーンへ曲がっていくキレのあるスライダーを武器としており、プロに入るとそこにフォークボールを織り交ぜることで投球の幅を広げている。 しかしながら、まともに暗黒時代と重なり合うなかで、2年目からは7勝13敗、11勝14敗、10勝12敗と3年連続負け越してしまう。1998(平成10)年にプロ5年目にしてようやく11勝10敗と勝ち越した。 ところが野村監督の3年間は、6勝、6勝、0勝と振るわず、特に2001(平成13)年の0勝は右ひじの故障による影響が大きかった。 本人も野村監督時代は「怒られてばかり」と振り返っているように、「棒球」などとなじられたり、「点が取れないんだから0点に抑えろ」と無理難題を言われたりで、精神的にかなりキツイ状況もあったようだ。実際にこのころの藪は、序盤は好投していても中盤に突如連打を浴びて崩れるパターンでファンをがっかりさせることが多かった。 2002(平成14)年、監督が星野仙一に代わり、藪も心機一転復活を果たすため川藤の奨めもあって背番号を「4」に変更し、2004(平成16)年まで3年間背負った。背番号を替えた年に10勝6敗、防御率3.14の成績で久々の二けた勝利を挙げ、カムバックしている。 2003(平成15)年は先発と中継ぎを掛け持ちしながら8勝3敗とリーグ優勝に貢献しているが、夏場に肘痛を発症したため日本シリーズでは登板機会がなかった。 その後、2004(平成16)年に取得した海外FA権を行使し、平成17(2005)年にオークランド・アスレチックスに入団し中継ぎで4勝するも自由契約となる。2006(平成18)年はコロラド・ロッキーズと契約したが3月に解雇されメキシカンリーグへと活路を求めて6月にティファナ・ポトロズと契約するも同年中に解雇。翌2007(平成19)年はどこにも所属できずに浪人となって自主トレに明け暮れるというどん底を経験した。2008(平成20)年、なんとかサンフランシスコジャイアンツと契約にこぎつけ、中継ぎで3勝を挙げたが翌2009(平成21)年7月に解雇されてしまう。さすがにアメリカでのプレーは断念し帰国すると、2010(平成22)年7月、テストにより楽天イーグルスに入団。11試合で2ホールドを挙げたが、限界を感じて同年引退した。 引退後は平成2011(平成23)年から、タイガースで二軍投手コーチ、一軍投手コーチを務めて後進を指導した。 タイガースでは通算84勝106敗と大きく負け越してしまったが、貧打を極めた最下位常連の暗黒時代にあってよく頑張った。Aクラスに定着できる時代なら勝敗の数は逆転していただろうし、もっと勝っていたに違いない。 おっとりとした印象の藪も、巨人に移籍してきた清原には強気で内角を攻め通算6個のデッドボールをぶつけている。清原が指3本を立てて「三度目やぞ」というポーズをしたとき、藪も3本指で「3億も貰ってるなら避けられるやろ」とやり返してあわや乱闘のにらみ合いになったこともある。ちなみに清原は藪に対し通算50打数8安打で打率.160と極端に苦手としていた。マーク・バルデス 投手 アメリカ合衆国オハイオ州デイトンの出身で、フロリダ州立大学を経てドラフト1巡目でフロリダ・マーリンズに入団している。メジャーでは7年間で12勝15敗2セーブの成績を残す。 2002(平成14)年1月にタイガースと契約。藪が返上した「18」を譲られている。 バルデスの特徴はいわゆる「クセ球」。まともな真っすぐという球はなく、すべてのボールが変化するため「縫い目の魔術師」と呼ばれることもあった。 星野監督は前年クローザーを務めた成本年秀に見切りをつけてバルデスを抜擢すると、内容的には十分期待に応えている。 42試合に登板して4勝3敗22セーブ、防御率も1.54と申し分のない成績と言えるだろう。球団も10月11日時点で残留方針であると公表している。 しかし、2002(平成14)年の米国視察で投球を見て以来、熱望していたジェフ・ウィリアムスの獲得に成功すると、惜しげもなくバルデスを解雇してしまった。 2003(平成15)年、バルデスは中日ドラゴンズと契約。しかし、中日は2003年にはギャラードや大塚晶則、2004(平成16)年には岩瀬というストッパーがおり、バルデスは主に中継ぎやセットアッパーに使われて、2年間で計67試合1勝4敗2セーブに終わってしまった。 2004年の中日はリーグ優勝して日本シリーズに進み、バルデスは2試合に登板して第2戦では勝利投手にもなったがオフに解雇された。 バルデスさんがわずか1年で去って、その後2003(平成15)年から「18」を背負うのはドラフト1位の杉山さんなんだけど、すでに背番号「17」で出てきてしまってるから丸ごと再掲とするね。杉山直久 投手(再掲)京都府舞鶴市出身で東舞鶴高校に進むが甲子園の経験はない。龍谷大学で頭角を現し、2年時にノーヒット・ノーランを記録すると、3年秋は4勝を挙げて防御率0.86という好成績で優勝に貢献し、MVPに輝いている。4年になると150キロを超える速球を武器に日米大学野球の代表に選らばれるなどドラフト1位候補として名前が挙がってくる。大学通算では15勝4敗で防御率1.19の数字を残した。2002(平成14)年、タイガースはドラフト自由獲得枠(逆指名1位)で杉山を獲得する。背番号は前年藪恵市が返上したエースナンバー「18」と決まった。ルーキーイヤーの2003(平成15)年は、キャンプから前半戦まで体力づくりに専念し、8月に一軍へ昇格する。結局3試合(先発2)しか登板機会は無く、0勝2敗で防御率も7.71に終わっている。2004(平成16)年6月15日のヤクルト戦で先発し5回2/3をなげて3失点でプロ初勝利を飾ったが、この年は13試合2勝2敗で防御率5.30だった。2005(平成17)年、体の開きが早かったフォームを改良してブレイクする。23試合(先発22)で9勝6敗、134回2/3を投げて奪三振103自責点44、防御率2.94の好成績を残してチームのリーグ優勝に貢献した。日本シリーズでは3連敗後の第4戦に先発したが、2回に李承燁の2ランをあびて先行を許し敗戦投手となっている。ところが2006(平成18)年からまた思うように勝てなくなる。この年17試合で4勝4敗に終わると、2007(平成19)年も20試合4勝5敗1ホールドと低迷が続く。2008(平成20)年には登板が9試合と激減し、2勝3敗の成績で一軍から遠ざかっていく。2009(平成21)年、背番号「18」を剝奪され、前年まで金村が着けていた「17」に変えて再スタートしたものの、一軍での登板はわずか2試合で0勝1敗、防御率5.40とどん底に落ちてしまった。 2010(平成22)年は一軍で7試合に投げるも先発は一度もなく終わり、2011(平成23)には一軍に上がることすらできないまま過ごして戦力外となった。 トライアウトを受けたがプロではお呼びがなく、2012(平成24)年はBCリーグの富山サンダーバーズに所属した。 現在はオリックスのチームスタッフとして裏方で汗をかいている。まとめ前にも書いてるかもしれないけど 藪さんは暗黒時代にまるかぶりで援護のない中で好く投げたとおもうよ 「エース」と呼んでいい時期もあったと言えるんじゃない?清原さんに強気で攻めてたなんてエピソードがエースの証明ねバルデス投手は結構いい数字残してるんだよね でもウィリアムス投手とは決定的な違いがあるのよタイガースでのバルデス投手は52回2/3を投げて39奪三振 一方のウィリアムス投手は7年で371回2/3で418個の三振を取ってるのストッパーに求められる特性は ここという場面で狙って三振が取れるかどうかなのよ なのでウィリアムス投手に軍配が上がったんだとおもうドラフト1位の杉山さんは怪我が原因でエースと呼ばれる投手になれなかった 「無事これ名馬」と言うように 怪我しないというのは一流になる条件ね 「ケガが多い選手は大成できない」っていう典型だったんじゃないかな背番号18-8に続く
2024年01月26日
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背番号18(その6)背番号18の第6回目です「エースナンバー」と言われながら地味な番号になってしまってた「タイガースの背番号18」1962(昭和37)年のブラウンスタイン投手以降は投手しか着けてないのよね そして今回から令和の馬場投手までの間も投手しか着けてないわどうやらピッチャーの番号に固定されたって言えそうね 今回最初に出てくる大町さんまでは地味な選手が続くけど そのあとはエース級またはエースを期待された投手が着けてるんだよ大町定夫 投手山口県光市出身で高校は柳井商業に進むが高校時代に甲子園は経験できずに終わっている。183センチの長身だが本格的な右投げアンダースローで 力強さは無いもののお手本のように綺麗なフォームの投手。ただし球速はストレートが120キロ出るか出ないかというほど遅く、「ハエがとまるボール」などと言われた。社会人の新日鉄光に入部するとプロのスカウトの目にとまるようになってくる。1973(昭和48)年のドラフト会議では太平洋クラブライオンズから6位指名を受けるが拒否。1975(昭和50)年にはロッテオリオンズの2位指名も拒否している。 1979(昭和54)年、三菱重工広島の補強選手として都市対抗本戦に出場すると決勝まで5連投で3勝を挙げ、初優勝の立役者となって「橋戸賞」を受賞する大活躍を演じた。しかし年齢が26歳に達していたこともあってか、ドラフト会議で指名する球団はなく、タイガースの渡辺スカウトが交渉してドラフト外で入団が決まる。背番号は広島へ移籍した安仁屋の「18」を継承した。 ルーキーシーズンの1980(昭和55)年は37試合に登板したが先発は2試合のみで35試合がリリーフだった。2勝2敗4セーブで71回2/3を投げ防御率2.75という数字は安定感を感じさせる。 2年目の1981(昭和56)年はすべてリリーフ登板で50試合に投げている。しかも7勝1敗8セーブと結果も出し、79回1/3で防御率も1.91と頼りになるリリーフエースになってきた。偏光サングラスをかけて表情を変えず淡々と投げるのが特徴で「村長」のニックネームも付き、ファンから認知される存在になっているが、この年が成績のピークとなった。 1982(昭和57)年は35試合に投げ、そのうち先発も9試合に起用されたが2勝3敗、防御率5.13に落ち込む。翌1983(昭和58)は登録名を「大町定生」にかえて巻き返しを図ったが役割はどちらかというと敗戦処理。21試合で0勝1敗、防御率4.61と登板数自体も激減してしまう。 1983年12月7日に自由契約選手となり、大町は4年間であっさりと現役をあきらめ、引退してフロント入りする。30歳を節目としたのかもしれない。 通算成績は143試合11勝7敗12セーブ144奪三振、250回1/3を投げ自責点94、防御率3.38である。 引退後はスコアラー、ビデオ係、ファームのマネージャーなど裏方的な仕事や広報なども担当し、その後営業部に転じた。池田親興 投手宮崎県宮崎市出身。高鍋高校時代は甲子園には縁がなかったが、1977(昭和52)年のドラフト会議でタイガースから4巡目で指名を受けた。しかし池田は進学を希望していたため入団を拒否して法政大学へ進んでいる。ただし、大学時代には常に2番手投手の扱いに終わっており、4年時に上げた2勝しかしていない。池田は社会人に進んで開花した投手だ。1982(昭和57)年に日産自動車へ入部すると、新日鉄釜石を完封するなどの活躍で都市対抗ベスト4に進んでいる。1983(昭和58)年は東芝の補強選手として出場し優勝に貢献した。その勢いでロス五輪代表にも入ったが、アジア予選決勝で台湾の郭泰源(のち西武ライオンズ)と投げ合ってサヨナラ負けしている。同年のドラフト会議では再びタイガースから2位指名を受け今度は入団。引退した大町から背番号「18」を引き継ぎ在籍7年間着けている。ルーキーの1984(昭和59)年は29試合に登板。20試合が先発で、早くもローテーションの一角を担う。成績も2完封を含む9勝8敗、152回1/3を投げて防御率3.90と上々だった。近藤真彦に似ていると女性ファンから評判になって「球界のマッチ」などと呼ばれる人気者になっている。1985(昭和60)年、開幕投手に抜擢されるなど飛躍が期待された。シーズン成績は32試合9勝6敗だが防御率は4.45。バース・掛布・岡田に代表される猛烈な打線の援護に助けられて勝ち越したという印象だ。しかし日本シリーズでは第1戦に先発し完封勝利を挙げ チームを勢いづけて日本一に貢献している。 1986(昭和61)年、5月27日の巨人戦で松本匡史に足を踏まれて骨折しシーズンの大半を棒に振って4勝4敗に終わる。 その後4年間は28試合5勝13敗、28試合7勝10敗、14試合2勝7敗、15試合2勝8敗と勝ち越しの年がなく低迷してしまったことで、1990(平成2)年のオフに4対5のトレードでダイエーホークスに移籍することになった。 ホークスでは田淵幸一監督がストッパーに抜擢したことで再生され、1991(平成3)年に6勝4敗13セーブ、1992(平成4)年も8勝4敗18セーブと活躍するが根本陸夫監督変わると低迷、1994(平成6)年オフに戦力外となりヤクルトスワローズに拾われる。 1995(平成7)年は13試合にリリーフで投げたが0勝1敗の成績では現役引退するしかなかった。 引退後ダイエーに戻ってスカウトを務めるが1年で退団。その後は評論家や解説者として活躍している。 通算成績は277試合(先発131)53勝69敗30セーブ。970回を投げ570奪三振、自責点494防御率4.58。結局プロ12年間で二けた勝利は一度もなかった。野田浩司 投手(再掲) 野田については先代が「背番号1」で紹介済みだけど、かなり簡略化しての記載になってるので詳しくして再掲するよ野田は熊本県球磨郡多良木町の出身で高校は多良木高校。高校時代は県ベスト4はあるものの全国的にはまったく無名の選手だった。1986(昭和61)年に社会人九州産業交通に進むと、2年間で22勝13敗の成績を挙げてプロ候補に数えられるようになる。1987年のドラフト会議では3球団が競合した東亜学園の川島堅投手の抽選に敗れたタイガースが「外れ1位」で指名し入団し、弘田の引退で空いた背番号「1」を着ける。投手が「1」を着けるのは1957(昭和32)年の西尾以来30年ぶりだった。 ルーキーだった1988(昭和63)年は吉田から村山へ監督が代わった年だったがチームは混乱・低迷を極めており、打線の援護が期待できない状況。野田は42試合(先発17)とよく使われたものの3勝13敗と大きく負け越してしまった。1989(平成元)年はほとんどリリーフで登板し5勝4敗2セーブという成績だった。入団した時期が悪かったと言えるのかもしれない。1990年(平成2)年には監督が中村勝広に代わるが、野田は先発10試合リリーフ27試合というどっちともつかない使われ方の中11勝12敗5セーブとフル回転で活躍し、初めて二けた勝利を挙げている。 1991(平成3)年、3年間着けた背番号「1」を新外国人選手のオマリーに譲り「18」を着けている。前年の二けた勝利によって期待が高まったため「エースナンバー」へ切り替わった考えていいだろう。中村監督もこの年は野田を28試合に先発させ、ローテーションの一角を担わせたが、成績は8勝14敗と負け越してしまった。 1992(平成4)年は新亀ブームが巻き起こって暗黒時代唯一の2位になった年で、野田も規定投球回数には少し足りなかったものの8勝9敗1セーブで防御率は2.98で、プロ入り5年目にして初めて2点台をマークしている。 ところがそのオフ、打線の中心となる打者を獲得したいタイガースのフロントは、オリックスの松永浩美との1対1の交換トレードで野田を放出してしまう。まだ24歳で三振が取れる素質のあるエース候補の放出にファンからは不満の声が渦巻いた。野田本人もトレード拒否の気持ちが強く、当時現役だった岡田彰布にも相談したが、説得されてトレードを受け入れた。投手としての能力は高く、フォークボールはヤクルトの野村監督が「お化け」と呼ぶほど落差があった野田も、タイガースでは先発・中継ぎ・抑えと何でもやらされたのが災いして5年間で35勝52敗9セーブと大きく負け越していた。 それがオリックスに移籍後した1993(平成5)年は全26試合に先発し、17勝5敗と飛躍を遂げる。225回で209奪三振、防御率も2.56と素晴らしい成績を残した。 一方でタイガースに来た松永は80試合303打数80安打31打点8本塁打、打率.294と振るわず、オフにはFA権を行使してたった1年の在籍でダイエーホークスへ行ってしまった。タイガースファンが怒り心頭となったのは言うまでもない。野田は1994(平成6)年に12勝、1995(平成7)年も10勝を挙げて3年連続二けた勝利を記録。この間、やはり3年連続で200奪三振も記録している。1995年にはロッテ戦で1試合19奪三振という日本新記録も達成しており、フォークボールを決め球に快刀乱麻の全盛期だった。1996(平成8)年から二けた勝てなくなり、肩を壊した1998(平成10)年から2年間は未勝利に終わって引退。オリックスに移ってからは故障する前までの5年間で54勝35敗と花開き、タイガース時代の35勝52敗とは数字が逆転している。通算では316試合(先発209)89勝87敗9セーブ1325奪三振、1614回1/3を投げて自責点628、防御率3.50である。引退後は評論家、オリックスのコーチ、社会人ニチダイのコーチや飲食店経営など多方面で活躍、ボーイズリーグで少年野球の指導などもしている。まとめ先代に大町さんのことを聞くと 笑って「リトルリーグの選手にも打ち込まれそうな遅さだったなあ」って言うのよねそれだけ球速がなくても好いときはちゃんと抑えてたみたいだから 独特の変化球とか配球の上手さとかがあったんだろうねと想像してます ただし4年で辞めちゃったのは本人もプロでの限界を感じてたんだとおもう池田さんは日本シリーズ初戦の完封勝利が光ってるね タイガースでの成績を見ると大したことないんだけど人気者だったみたい エースっぽいところまで近づいてるけどエースには到達できなかった投手かな野田さんは現在のタイガースで言うと才木投手みたいなタイプ 結果論かもしれないけど惜しいことをしました 先代も当時は頭に来たって言ってるよ しかも当時のファンは 野田さんを出してまで松永さんを欲しいとは考えていなかったんじゃないかって・・・ 結局は1985年の日本一から暗黒に転じて6~7年、株主総会で相当責められてたのかな?フロントの主導で大失敗を演じてしまいました背番号18-7に続く
2024年01月23日
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背番号18(その5)背番号18の第5回目です前回まで短い人が続いたんだけど 昭和40年代に入ってドラフト会議が始まり やっと「18」も落ち着きを見せてきますこの回でも3名を紹介しますが そのうちの2名はドラフト1位の投手よ!エースナンバーとして意識的にドラ1に与えられるようになったわけね石床幹雄 投手香川県の小豆島出身で高校は高松商業に進むが、投手の頭数が多く競争が厳しいと感じて1学期が終わった時点で土庄高校へ転向している。高校2年時の練習試合で岡山東商のエース平松政治と投げ合って1安打完封する。のちに大洋ホエールズでエースとなって201勝を挙げる平松はすでに全国に名が知られたドラフト1位候補だったため、投げ勝った石床にも注目が集まるようになった。 石床は3年時の1965(昭和40)年夏に北四国大会まで進んだが松山商に敗れて甲子園出場はできず、大会終了後には早々と社会人の四国電力への就職が内定している。 これを知っていたにもかかわらず、同年から始まったドラフト会議でタイガースは大方が予想していた鈴木啓司ではなく石床を1位指名して驚かせた。 初のドラフト1位入団である石床に対し球団はそれまで着けていた中井悦雄を自由契約にして背番号「18」を贈る。若林や梶岡のようなエースになってほしいという思いが込められていたに違いない。 1966(昭和41)年は高卒1年目にして一軍で14試合に登板している。すべてリリーフ登板で20イニング投げ、自責点6で防御率2.35だった。 ところが2年目の1967(昭和42)年がわずか1試合、3年目の1968(昭和43)年も1試合(先発)と壁に当たってしまう。プロ入り3年間は白星も黒星もなかった。 4年目の1969(昭和44)年は5試合に登板、10月12日の大洋戦で6回無失点に抑えようやくプロ初勝利を手にする。しかしもともと身体が強いほうではなく、このシーズンには慢性の腎臓疾患を発症してしまう。 1970(昭和45)年には故郷に戻って療養に専念している最中に肺炎まで併発して現役を続けることが絶望となり、23歳で引退を余儀なくされた。 通算成績は21試合1勝1敗25奪三振、46回2/3で自責点14の防御率2.68である。谷村智弘 投手(再掲)谷村については背番号15-3ですでに紹介しているが、ドラフト会議で1位指名されて最初にもらった背番号が「18」なので再掲する。香川県の小豆島出身で高校は高松商業に進むが、投手の頭数が多く競争が厳谷村は兵庫県西宮市出身で高校は報徳高校。3年生だった夏の選手権では2試合連続完封勝利を記録してベスト8に進んだ好投手だった。関西学院大に進むと、リーグ戦60試合に登板し20勝25敗179奪三振、防御率1.67と言う成績を残す。1970(昭和45)年は社会人鐘淵化学でプレーし都市対抗で優秀選手賞を受賞、社会人ベストナインに選ばれた。ドラフト会議ではタイガースが1位指名して入団、最初の背番号は石床の引退で空いたエースナンバー「18」で4年間着け、1975(昭和50)年から「15」に替えて5年間着けることになる。投手としては軟投型で三振をとるタイプではなく、踊るような投げ方で打たせて取るのが特徴。配球だけでなく投球フォームの中にも変化をつけてタイミングを外す変幻自在の投法で、打者からボールが見えにくく球威の無さをカバーしていた。1年目は24試合に登板し、先発が5試合、リリーフが19試合。1勝2敗で防御率3.43と平凡だった。 2年目の1972(昭和47)年に22試合に先発して11勝11敗、防御率もセ・リーグ2位の2.26とブレイクし、以後1977(昭和52)年まで毎年20試合以上に先発するローテーション投手となり、1975(昭和50)年に11勝9敗、1976(昭和51)年に12勝8敗と活躍している。1975年に広島から移籍してきた安仁屋宗八に背番号「18」を譲り、「15」へ変更している。 故障も少なく、先発をしながら毎年10~20試合程度のリリーフ登板もこなしており貢献度は高かった。その割に球団の評価が今一つだったのは地味で人気選手というわけではなかったからかもしれない。 1978(昭和53)年~1979(昭和54)年は2年続けて1勝どまりで、1979年オフに鈴木弘規との交換で阪急ブレーブスへ移籍した。 阪急では1年目に7勝を挙げて貢献したが、2年目からの5年間で9勝しかできず、1985(昭和60)年を最後に現役を退いた。 プロ通算成績は393試合72勝82敗5セーブ、奪三振512、1489回で自責点681、防御率は4.12だった。安仁屋宗八 投手 沖縄県沖縄高校出身。中学時代から野球を始めたが昭和30年代の沖縄はまだ占領下にあり、テレビ放送もなくプロ野球や甲子園大会なども見たことが無かったという。 1962(総和37)年、高校3年のときに沖縄大会で優勝して南九州大会に進み、宮崎大淀高校を破って甲子園出場を決める。それまでの沖縄代表は「招待」の扱いで出場していたが、この年に初めて実力で甲子園出場を果たした。甲子園では1回戦で広島の広陵高校と当たって敗退している。 1963(昭和38)年に高校を卒業し沖縄煙草に入って野球を続け、大分鉄道管理局の補強選手として都市対抗に出場する。1回戦で敗退したが好投を見せた安仁屋に広島が目をつけ、現役選手だった平山智をスカウトとして沖縄に送り込んだ。何度も熱心に勧誘された結果、安仁屋は広島カープへの入団を決意する。 1964(総和39)年、カープでの1年目は3勝8敗に終わっているが、弱小球団の貧打に泣かされた結果であり防御率は3.52と悪くはない。 その後も、1965(昭和40)年が9勝13敗、1966(昭和41)年が8勝14敗、1967(昭和42)年も8勝16敗であり、プロ入りから4年連続して負け越しが続いている。 ところが5年目の1968(昭和43)年に根本陸夫が監督に就任すると安仁屋は大変身する。先発・救援のフル回転で57試合313回1/3を投げ、23勝11敗と生涯で唯一の20勝以上を達成し、防御率も2.07、奪三振237個という好成績を挙げた。 その後も1969(昭和44)年10勝9敗、1970(昭和45)年も10勝14敗と二けた勝利が続いたが、1969年に発症した「痛風」に悩まされ続け、1971(昭和46)年以降の4年間は一桁しか勝てない投手になってしまう。 1974(昭和49)年にはシーズン中にルーツ監督から「アンダースローに変えろ」と命じられたことに反発して対立してしまい、成績も4勝4敗2セーブで防御率3.96と振るわなかったため、オフに若生智男との交換トレードによりタイガースへ移籍することになった。タイガースでの背番号は谷村からエースナンバー「18」を譲られ、在籍した5年間着けている。 1975(昭和50)年は吉田義男が初めて監督に就任した年で、移籍してきた安仁屋を中継ぎ専門で起用した。この年すべてリリーフで自己最多の66試合に登板し、12勝5敗7セーブの成績を挙げて規定投球回もクリア、防御率1.91で生涯唯一のタイトルを獲得するとともに「カムバック賞」も受賞している。 翌1976(昭和51)年も53試合10勝4敗10セーブで防御率2.25と安定した働きで貢献しているが、33歳となる3年目から成績は落ちていく。 タイガースでの5年目となった1979(昭和54)年にブレイザーが監督になると、配球をめぐって対立し二軍に落とされると長い二軍生活となって公式戦登板は12試合に激減。0勝2敗で防御率5.00と最低のシーズンになった。 シーズンが終わると球団から「引退して二軍投手コーチに就任しないか」と打診があったが現役を続けたい意向があって拒否。広島の古葉監督が手を差し伸べてくれたため、タイガースを退団して広島へ復帰する。 しかし広島での最後の2年間は合わせて3試合の登板しかなく0勝0敗、防御率36.00に終わっている。 1981(昭和56)年をもって現役引退。現役18年の通算成績は655試合に登板、119勝124敗22セーブ1432奪三振、2090回1/3で自責点715、防御率3.08だった。 引退後は広島で投手コーチなどを務めたのち、2006(平成18)年に沖縄で社会人野球チーム「安仁屋ベースボールTRY」を立ち上げて指導者として活動を続けている。まとめ石床さんはタイガースが鈴木啓二さんを差し置いて1位指名したほどなんだから かなり期待が大きな選手だったのね もし石床さんじゃなく鈴木さんを指名してたら・・・鈴木さんは「石床がいたから大好きだったタイガースに入れなかった」って言ってるし 江夏さんは「鈴木がタイガースに入っていたら、2年続けて高卒の左投手は取らんだろうから、阪神の江夏は存在しなかっただろうね」と言ってるよそれでもって いちばん活躍できなかったのが石床さんなんだから 人の運命って不思議なんだよね谷村さんは2回目の登場だからもう評価書かないけど 地味で目立たないわりに貢献してくれた選手です安仁屋さんは広島で主力級投手として11年働いたのちにタイガースに来たのよね 吉田監督は3年間徹底してリリーフ起用し再生しました 数字を見ても好く頑張ってくれたって分かるよね今回の3人をみても一人一人が全く違う野球人生なのよ 同じプロ野球選手と言っても 運・不運や巡り合わせ 不慮の事故や病気 監督との対立 等々 さまざまな要因で大きな差ができるのね・・・背番号18-6へ続く
2024年01月22日
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背番号18(その4)背番号18の第4回目です創成期のエース・若林さんから始まって3名の選手が着けてきたよね そのうち2名は投手で 梶岡さんもかなりいい成績を残しているわでも今回からしばらくは ちょっと冴えない番号になってしまうわ 短い期間しか着けてない選手が続くのよ みなさんこの3人知ってる?これも「タイガースの歴史」なんけどね藤重 登 捕手アメリカ合衆国ハワイ出身。ハワイ・レッドソックスから1956(昭和31)年に南海ホークスに入団している。南海には2年間在籍したが、公式戦では1956が9試合、1957(昭和32)年が24試合の出場にとどまり、2年続けて打率が1割台という成績で戦力外となり退団してハワイ・レッドソックスに戻った。1959(昭和34)年、監督でハワイの同郷でもあるカイザー田中が獲得に動いてタイガースに入団し再来日、背番号「18」を着ける。この選手に関しては資料がほとんどなく、どんなプレイヤーだったかはよくわからない。捕手としてはそれなりに能力はあったらしいが、バッティング技術が低く主戦捕手にはなれなかった。当時は山本哲也が正捕手でエース級の小山正明や村山実の投げる試合のほとんどでマスクを着けていたので、その合間で二線級以下の投手のときにしか藤重の出番はないのが実情だったようだ。タイガースでの1年目は公式戦35試合で63打数15安打0打点0本塁打で打率.238。 最も働いたのが2年目の1960(昭和35)年だったが、それでも61試合141打数34安打8打点3本塁打で、打率は.241に過ぎない。 在籍最後となった3年目の1961(昭和36)年はわずか26試合で49打数11安打3打点1本塁打とさびしい成績で打率も.224と冴えなかった。シーズン終了後に引退しハワイへ帰っている。 通算成績は5年間で155試合295打数66安打14打点6本塁打31三振3盗塁、打率.224。マーク・ブラウンスタイン 投手 この選手についてはいずれ「外国人選手史」でも紹介するつもりだが、在籍1年で公式戦出場なし、まったく戦力にならず解雇されている。 1962(昭和37)年にアメリカ・カリフォルニア大学を卒業して即タイガース入りという、ちょっとありえないような経歴で、しかも投手としてさっぱりな上に故障したためシーズン途中に野手転向を試みるなどお粗末すぎる。 期待を込めて背番号「18」を与えたのか、たまたま空いたから与えたのか不明だが、入団の経緯もよくわからないし、大型右本格派の評判とは裏腹に来日当初から球威・球速ともに期待外れで実力不足。しかも日本に来たそのシーズンに野手転向などタイガース側にも大いに問題があるケースだろう。 タイガースの「18番」の黒歴史というほかない・・・中井悦雄 投手 中井は大阪府出身で大鉄高校で2年時に選抜大会で甲子園経験があるが1回戦敗退。関西大学に進むが1年で中退し、1963(昭和38)年にタイガースに入団し背番号「18」を引き継いでいる。「18」に決まったのは担当スカウトが18-3で紹介した河西俊雄だったことも影響しているかもしれない。 ルーキーイヤーはファームで20試合13勝1敗、防御率1.17で最多勝・防御率1位・勝率1位の三冠に輝く大活躍でウェスタンリーグの優勝に貢献、9月には一軍に上がっている。 公式戦では7試合に登板し4勝1敗で防御率が1.22。4勝のうち3勝は完封勝利だった。2試合にリリーフ登板し4イニングを無失点に抑え、9月19日の大洋戦(甲子園)で初先発。8安打を浴びながら1-0で2勝目を挙げる。9月24日の国鉄戦(甲子園)では金田正一と投げ合い2-0で7安打完封、さらに9月29日(中日球場)の中日戦でも2安打に抑えて5-0で完封してしまった。10月17日の広島戦(広島球場)で2回裏に藤井弘のソロホームランを浴びて1点を失い初失点を記録したものの「デビューから31イニング連続無失点」という日本新記録を樹立した。しかし当時この記録は話題にもならず、2023(令和5)年に同じタイガースの村上頌樹が並ぶことで60年ぶりに脚光を浴びることになる。村上も抜くことはできず、中井はいまも村上と並んで日本記録保持者であり続けている。 1964(昭和39)年、前年の成績から大きな飛躍が期待されるシーズンとなった。ところが中井は開幕当初勝ち運に恵まれず、4月30日の国鉄戦でようやく1勝を挙げる。しかもこの1勝がタイガースにおける最後の白星になるとはだれも想像もしていなかった。 5月に起こったアクシデントが中井の投手晴明を奪ってしまう。ウィキペディアなどでは「交通事故による負傷」となっているが、実際は次のようなことだったようだ。 自転車で阪神電鉄甲子園戦の踏切を渡っている際に、誤って転倒し右肩を強打してしまった。「交通事故」というより自らの不注意が招いた転倒事故だ。この負傷で戦列を離れその後のシーズンを棒に振ってしまう。結局11試合で1勝2敗、防御率3.66というのが2年目の成績だった。 1965(昭和40)年、現場に復帰するも一軍では1試合わずか1イニングの登板に終わり、1966(昭和41)年は一軍で投げないまま自由契約となって退団している。 1年を経て1968(昭和43)年に再びタイガースに復帰したものの一軍での登板はなく西鉄ライオンズへトレードされてしまった。タイガースでの最後の1年は背番号「46」を着けている。 西鉄に移った1969(昭和44)年のシーズンは当初先発で起用されるが結果が出ないためリリーフに転向し35試合に登板している。2年目の1970(昭和45)年には42試合に登板し3勝0敗、85回2/3で防御率3.24と貢献した。 しかし3年目の1971(昭和46)年は17試合しか登板がなく8月でほぼ戦力外とみなされてしまい、シーズン終了後に現役を去った。 通算成績は実働6年で109試合9勝6敗145奪三振、245回2/3で自責点91防御率3.33。 その後、一般の会社に勤めていたが1979(昭和54)年に二軍投手コーチとしてタイガースに復帰する。ところが同年8月23日に突然の心不全で急逝しまう。まだ36歳という若さだった。まとめ今回の3人は三者三様という感じよね藤重さんはハワイから来て2球団でプレーしたけどパッとしないまま短期間で終わっちゃった選手 写真は南海時代の小っちゃいのが一つ見つかったよブラウンスタイン投手はもう訳が分からないわ 大学新卒のアメリカ人選手が入るってのもほぼ例がないし それがまた全く役に立たないで帰ってるのよね 「一体全体何だったのよ?」って言いたいわよね これでは写真なんて残ってるはずもなく見つかんなかったわ中井さんはツイてないって言うのかなあ・・・ 実際1年目の活躍をみると順調にいけばエース級になってたはずだとおもう それが不注意からの事故で台無しにしてしまってるのよ 不利なカウントから平気でど真ん中へ投げ込む勝負度胸があって周囲の期待は相当なものだったらしいわよ だからいまも「幻のエース」と言われることがあるみたい しかもせっかくコーチで復帰したのに早くに亡くなってしまって・・・とても残念!背番号18-5へ続く
2024年01月19日
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背番号18(その3)背番号18の第3回目です創成期のエース・若林さんから始まって3名の選手が着けてきたよね そのうち2名は投手で 梶岡さんもかなりいい成績を残しているわでも今回からしばらくは ちょっと冴えない番号になってしまうわ 短い期間しか着けてない選手が続くのよ これも「歴史」だから・・・ でも河西さんは選手としてよりスカウトになってからの功績が凄いんだけどね河西俊雄 内野手・外野手梶岡が返上した「18」を継承したのが河西俊雄で、主に内野手(セカンド)の選手である。河西は兵庫県姫路市出身。明石中から明治大学を経て1946(昭和21)年に近畿グレートリングに入団している。グレートリングというのは現在のソフトバンクの先祖に当たる球団で、遡れば1938(昭和13)年に南海電鉄が立ち上げた「南海軍」から始まっている。河西が入団したのが戦争による中断が終わり、1リーグ8球団で再開された1946年で、ちょうどこの年が「近畿日本軍」から「近畿グレートリング」に改称した年に当たる。 残された記録によると河西は164センチ56キロという非常に小柄な選手だったようだが、グレートリング時代の4年間はほぼレギュラーで通している。 1946年から1948年まで3年連続で盗塁王になっており、39個、53個、66個と相当な俊足だったことがわかる。 1950(昭和25)年、2リーグ分裂に伴い、多くの選手が抜けて内野手が手薄になったタイガースの藤村富美男から誘われて移籍することになり、背番号は「18」が与えられた。 1年目はレギュラーとして113試合に出場しているが、前述のとおり選手が不足しているタイガースだったため外野の守備にも就いている。この年は主に2番を打って351打数97安打30打点1本塁打、打率.276で23盗塁となかなかの活躍を見せた。 2年目の1951(昭和26)年も114試合385打数103安打14盗塁、打率.268でリーグトップの30犠打を記録している。 しかし1952(昭和27)年になると98試合の出場にとどまり盗塁も10個と衰えが感じられるようになってきた。 1953(昭和28)年から二軍コーチ兼任となったため、背番号を「31」に変更。コーチ業が主になったため公式戦出場は8試合に減った。 1954(昭和29)年には現役のまま二軍監督に就任、公式戦には出場していない。1955(年昭和30)年に7試合出て現役を引退している。 1956(昭和31)年まで二軍監督を続け、1957(昭和32)年には二軍コーチに戻り、1958(昭和33)年にはフロントに入ってスカウトに転じ、藤井栄治や遠井吾郎を入団させた。 その後も「すっぽんの河さん」と異名をとるほどスカウトで能力を発揮し、藤田平、江夏豊、山本和之、掛布雅之などのちのスター選手を担当して、1976(昭和51)年に退団。 通算記録は771試合2524打数652安打183打点11本塁打、打率.258、盗塁233である。与儀真助 内野手 与儀はアメリカ合衆国ハワイ準州出身で、前年先に入団していた同郷の小島勝治の推薦で1953(総和28)年に入団。河西に続いてまた内野手が「18」を着けることになった。 個人の推薦であったためタイガースは半信半疑で獲得したが、1年目の1953年は130試合に出場し、サードを守っていた藤村をファーストへコンバートさせるほどの活躍を見せて関係者を驚かせる。 この年、492打数145安打72打点14本塁打で打率.295は新人王でもいい内容だ。盗塁も19個を記録しサードのベストナインにも選ばれるなど「思わぬ拾い物」となった。 翌1954(昭和29)年も122試合に出ているが、401打数103安打37打点4本塁打で打率.257と全体に成績を落としている。ところがこのオフ、当時のタイガースは経営が苦しく、経費節減をしなければ運営が困難な状況になっていたため、ハワイの選手とは翌1955(昭和30)年の契約は更改されず、小島とともに解雇の憂き目を見てしまった。非常に残念である。与儀の退団後の1955年は「18」は空き番となった。1957(昭和32)年、活躍した当時のタイガースの監督だった松木謙治郎が大映ユニオンズの監督に就任し、与儀に声をかけて大映に入団させ日本球界に復帰する。しかし85試合の出場にとどまり、219打数44安打12打点で本塁打はゼロ。打率.201と低迷して1年で退団している。日本での3年間の通算では337試合1112打数292安打121打点18本塁打41盗塁、打率263だった。井崎(前岡)勤也 投手・外野手 井崎は三重県亀山市出身だが、スカウトにより和歌山県立新宮高校後援会の幹部だった前岡武吉と養子縁組して新宮高校へ進み、期待に応えて1954(昭和29)年春に始まって三季で甲子園に出場している。左の速球派投手で「ホップするボール」と評判になっており、藤川や村上のように回転の多いボールを投げていたと思われる。 1954年春はベスト4、夏の選手権では準決勝で延長13回を投げ抜きノーヒットノーランを記録して決勝に進出するも準優勝だった。 1955年(昭和30)年の夏は予選で2試合のノーヒットノーランを達成、甲子園ではベスト8まで進むが、準々決勝で中京商から14三振を奪いながら0-6で敗退している。 井崎自身には明治大学への進学希望があった。しかし180センチのスラリとした長身で貴重なサウスポーでもあり、高校時代の成績やスター性は高く評価されていたため、プロ球団の争奪戦に巻き込まれる。 タイガースの青木スカウトは粘り強く前岡家に通って養子離縁させ、改めて実家の井崎家と交渉するという荒業を使い、当時破格の契約金800万円で入団にこぎつけたと言われている。背番号は1年間空いていた「18」を着けることになった。下のスポニチさんの記事では「400万円内外?」となっているが様々な憶測があったのだろう。 ルーキー井崎は1956(昭和31)年2月の春季キャンプでの紅白戦にいきなり登板する。タイガースの親会社・阪神電鉄でも高校野球の大スターだった井崎への期待が大きく「早くお客さんに披露しろ」と藤村監督に強い圧力をかけており、これに抗しきれずに先発させてしまったというのが真相らしい。 井崎は初球から肩に違和感を感じてその後調子を落とすと、「フォームのせいだ」と勘違いしたコーチが改造と称していじくりまわし、ますます駄目になっていく。この様子は背番号17で紹介した源五郎丸洋とダブる。25年も前にすでに同じ失敗を犯していたわけだ。結局1年目は公式戦5試合に投げたものの、0勝1敗、19イニングで5奪三振に終わっている。せっかくの逸材も1年目で台無しとなって、2年目以降も14試合、9試合、6試合と満足に投げられなかった。 タイガースでの白星は3年目の1959(昭和34)年9月の大洋戦に完投で挙げた1勝のみ。ちなみにこの年に背番号を「48」に変え、登録名も「前岡」としている。結局「18」は3年間着けただけに終わった。 井崎は4年間で見切られて、1960(昭和35)年のオフに金銭トレードで中日ドラゴンズへ放出されてしまう。 中日に移っても肩の状態はどうしようもなく、1年目の1961(昭和36)年は8試合に投げただけで勝ち負けは付いていない。 翌1962(昭和37)年には1軍登板はなくなり、まだ25歳ということで1963(昭和38)年に外野手転向の道を選んだがこれも上手くいかなかった。 最終年となった1964(昭和39)年にはほぼ代走と守備固め専門となり、51試合に出場し8盗塁を決めているが気力は限界だったのかオフに引退している。 通算では投手として42試合1勝4敗61奪三振、108イニングで自責点50、防御率4.17だった。まとめどうまとめたらいいのかなあ河西さんは体格に恵まれなかったけど短いながらも好い成績残してる 足も速いし打線ではつなぎ役をきっちり果たしてるわ でもスカウトになって大物選手を担当して次々と獲得してきた貢献度はもっと大きいよ与儀さんと井崎さんは不完全燃焼で終わってしまった感じよね 与儀さんはチームの経営事情もあって解雇されてしまったけど続けて契約できてたらもう一度化ける可能性は十分あったとおもうな井崎さんは源五郎丸さんと同じように潰されちゃったね 高校時代の大活躍を見れば誰でもエースナンバー「18」を与えたくなる投手だったのに 長く貢献してくれるエースを育てるより 目先の一試合の観客動員しか念頭にない球団の体質が浮き彫りになってる 今は違うけど当時はタイガースに限らずこういうことが多かったみたいねさて次回の「18―4」も着けた期間の短い人が続くよ とてもエースナンバーと呼べない時代だね背番号18-4へ続く
2024年01月16日
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背番号18(その2)背番号18の第2回目です創成期のエース・若林さん着けたことで「エースナンバー」と呼ばれるようになった「18番」だけど その後の昭和の時代はあまり冴えない番号だったみたいね今回最初に出てくる山口さんは野手で戦前は「8番」 「18」は数か月付けただけなのよ まえに紹介したのが2023年3月だったのでもう一度詳しく残しておくよそれと今回もそうなんだけど 戦争を挟んだ頃は背番号を変えてることも珍しくないのね だからすでに出てきたことのある選手がまた登場することが多いわよ 山口政信 外野手・内野手(再掲)山口政信は「背番号8」で紹介済みだが要約して再掲する。山口は大阪府日新商業の出身で外野手として甲子園に3度出場している。昭和10(1935)年の夏の選手権では藤村冨美男のいた呉港中に敗れている。昭和11(1936)年大阪タイガース創設時に入団、背番号8を着ける。戦前は俊足巧打の外野手として活躍する。ホームランは少ないがプレー振りは豪快。俊足を生かした盗塁が多く、昭和12(1937)年春季には29盗塁でタイトルを取っている。また選球眼が優れており、この年には春季60個、秋季48個の四球を選びいずれもリーグ最多だった。カーブ打ちを得意としており「和製ディマジオ」とも呼ばれ、景浦將などと並んで当時の人気選手の一人に数えられる。 昭和13(1938)年に一度目の召集を受け昭和17(1942)年に除隊されて復帰して以降はかつてのプレーができなくなってしまう。昭和18(1943)年末に二度目の召集がありそのまま終戦まで軍務についた。山口は1946(昭和21)年に復帰し、短い期間だったが背番号「18」を着け、同年に復帰してきた若林忠志に明け渡して「8」に戻っている。タイガースに復帰後2年間プレーしたが、もう外野が守れず一塁手として合計71試合158打数26安打21打点2本塁打で打率.165というさびしい成績に終わって昭和22(1947)年のシーズン終了後に引退した。その後、実業団の土屋建設でプレーイングマネージャーをしていたところ、戦前のタイガース在籍時の監督だった石本秀一が2リーグ制で新しく創設された広島カープの監督に就任し、その誘いがあって昭和25(1950)年にカープで現役復帰する。カープでは2年間プレーし、129試合441打数113安打42打点3本塁打、打率.256の成績を残している。昭和26(1951)年のオフに引退。その後は野球とは一切かかわらず昭和51(1976)年に永眠。タイガース背番号史 8の1 | タイガース非公式サイト2代目 - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)若林忠志 投手(再掲)エースナンバーの元祖。詳しくは背番号18-1を参照。戦争による中断を経て1946(昭和21)年のシーズン途中に復帰したときに、山口から譲られる格好で「18」を着用する。タイガース背番号史 18-1 | タイガース非公式サイト2代目 - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)しかし、翌1947(昭和22)年には現役監督に就任したため背番号は「30」に変え、1949(昭和24)年まで3年間着けたのち、1950(昭和25)年には毎日オリオンズへ移籍した。梶岡忠義 投手(再掲)若林が1947(昭和22)年に監督になって返上した背番号「18」を引き継いだのは梶岡忠義。じつは梶岡は10年間の現役時代に4つの背番号を着けている。すでに先代が2015年に「背番号1-1」「背番号3-1」で紹介しているが(タイガース背番号史1の1 | タイガース非公式サイト2代目 - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)。)、先代はかなり簡略にして記載しているので詳細な内容を加筆して再掲する。梶岡は大阪府大阪市出身で成器商業から専修大学へ進む。エース兼4番打者の二刀流で活躍し、東都大学野球4季連続優勝の原動力となっている。大学4年時にはタイガースから声がかかっていたが学徒出陣に応召され満州で終戦を迎え、1946(昭和21)年に帰国すると一時的に社会人野球の中央工業に籍を置く。1947(昭和22)年2月、南海からの勧誘を断って、戦前に声をかけてくれていたタイガースへ入団した。背番号は兼任監督就任で若林が返上した「18」を引き継ぐことになる。投手としての梶岡は「七色の変化球」で打者を翻弄した若林と正反対で、「変化球なぞ投げられるか!」と言って全盛期は直球勝負にこだわり続けた。若いころは本当にストレートしか投げず、肘を壊してからようやくカーブも使うようになったという。ルーキーイヤーの1947年は34試合に投げている。28回の先発がありそのうち24試合で完投(5完封含む)しているところは若林譲りの「エースの仕事」と言えるだろう。この年は22勝8敗、280回1/3を投げて自責点60、防御率は1.92と文句なしの内容で、タイガース戦後初優勝に貢献している。1948(昭和23)年はさらに凄みを増し、50試合に登板して41試合に先発し35試合で完投(完封5)している。成績は26勝17敗、367回2/3で自責点104、防御率2.54である。50試合のうち43試合で勝利または敗戦投手になっており、投げた試合は最後まで責任を持つという「エースの姿」を体現している。8月24日の対南海戦ではノーヒットノーランも達成した。ルーキーからの2年間で48勝を挙げ、さすがに疲労があったのか1949(昭和24)年には肩を故障し30試合13勝10敗(防御率3.96)に落ち込んでしまった。そのためか1950(昭和25)年には背番号「18」を返上して「1」に変えているが結局は12勝9敗(防御率3.57)、1951(昭和26)年も13勝7敗(防御率3.43)と勝ち星が伸びない時期が続いた。 1952(昭和27)年、背番号を「1」から「3」に変更すると、38試合に登板して21勝8敗と復活を見せ、防御率1.71でタイトルを獲得している。しかし1953(昭和28)年の16勝13敗を最後に二けた勝利はなくなり、1954(昭和29)年が8勝、1955(昭和30)年は白星が0となった。1956(昭和31)年には投手コーチ兼任となって背番号も「32」に変更したが一軍での登板はなく、同年限りで現役を退く。そのまま1964(昭和39)年までタイガースに残って、主に二軍投手コーチなどを務めて退団しているが、引き続きOB会長として毎試合甲子園に足を運んで後進たちに声援を送っている。梶岡は直球勝負がたたって被本塁打も多く、1948(昭和23)年にはホームラン配給王にもなったりしている。しかし見るほうは爽快であり、3年間に過ぎなかったが「18」を背負うにふさわしい気質を持っていた。通算成績は299試合に登板して131勝85敗、1920㌄を投げて自責点598、防御率は2.80である。大学時代に鳴らしたバッティングはプロでも健在で、実働9年間に327試合728打数151安打66打点12本塁打6盗塁を記録しており、通算打率.207も投手としては立派なものだった。2003(平成15)年に82歳で死去。まとめエースナンバー「18」がどうなて行くか注目なんだけど 山口さんは野手だったね 戦前は人気選手だったのに残念ながら戦争の影響で活躍の時期は短かった 若林さんは18-1で詳しく紹介してるから見てほしい ホントにタイガースの功労者だよ! 藤村さんや村山さんに匹敵します梶岡さんは投手として実働期間は9年と短かかった でも20勝以上が3シーズンあるし 「ストレートしか投げない」っていう潔さがなんとも気持ちいいよね 故障が無ければ200勝近くいってたんじゃないかなと想像します 成績が落ちると背番号を変える・・・を繰り返しているのを見ると 梶岡さんはあまり番号へのこだわりがなかったのかもしれないわね背番号18-3へ続く
2024年01月13日
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背番号18(その1)背番号18の第1回目です球団創立時からある背番号よね プロ野球の世界ではいわゆる「エースナンバー」と呼ばれることが多い「18番」タイガースでは1936(昭和11)年の創立時に当時のエース若林忠志さんが着けました 実は若林さんが大活躍したことで「18」がプロ野球界で「エースナンバー」と呼ばれるようになったんだよ!その後も投手が着ける番号だったのは間違いないんだけど タイガースでは意外に大エースと呼べるほどの選手は出ていないのよ 藤川球児さんが着けてたのは覚えてる?でも1年だけなのよね とにかく順番に見ていくと若林さんのあとは「あまり知られてない人が続くなあ」って感じがするよ若林忠志 投手アメリカ合衆国ハワイ出身の日系二世。ハイスクール時代に親善試合で来日し剛速球が評判となって1932(昭和7)年に法政大学へ進む。 日本の環境に慣れてきた大学2年時の秋のリーグ戦では優勝に貢献したが、3年時には肘や肩を痛めたことでサイドスローに変え、のちに「七色の変化球」と呼ばれる技巧派への転機となった。1シーズン制となった1934(昭和9)年には全15試合に登板して11勝3敗1引分と鉄人のような活躍を見せ優勝、大学通算で87試合43勝28敗という成績を残した。大学卒業後は一旦日本コロムビアに入社する。1936(昭和11)年、職業野球の創設に伴って読売、阪急、タイガースなどから勧誘され、「契約金」を要求する若林の意向を汲んだタイガースへの入団が決まり背番号「18」を着ける。契約金は「3000円」だったという。 まず若林の現役生活において、戦前の1936年から1944(昭和19)年までの9年間の数字を見てみる。355試合に登板し、177勝86敗、2357㌄で自責点432、防御率は1.65だ。その内214試合に先発し176完投しており、完投率が8割を超えることがすばらしいし、300㌄以上投げたシーズンが5シーズンもあり、1943(昭和18)年には415回2/3で年間10完封を記録している。さらに驚くのは1943(昭和18)年は39試合に先発して39完投、1944(昭和19)年も24試合に先発して24完投。つまり先発した試合では全て最後まで投げ切っているという驚異的な数字だ。 戦前最後の1944年シーズンは35試合しか行われなかったが、そのうち31試合に登板して阪神を優勝に導き、最多勝・勝率1位・防御率1位とMVPを獲得している。この年、すでに36歳になっていたにもかかわらずチーム勝利27勝のうち8割以上の22勝を稼ぎ、2位巨人のチーム勝利数(19勝)より多かった。こんな投手は他にはいない。背番号「18」がエースナンバーと呼ばれるのにふさわしいことを数字が証明している。まさに大エースだった。後にエースとなる小山正明も先発完投にこだわる投手だったが、この若林の影響を受けているのは間違いないだろう。「七色の変化球」と異名をとっていたが、実際には4種の変化球に緩急と微妙な変化を加えて、“七色”どころか、無数の変化球があるように打者を幻惑していく「投球術」に長けた投手で、駆け引きが抜群に上手かったと言われる。1942(昭和17)年からは現役監督となって背番号は「30」を着けている。戦争による中断の間は妻の実家の水産会社に勤めており、終戦後は年齢も年齢だけにプロ復帰は考えていなかった。しかしプロ野球再開後の運営に苦しむ藤村富美男の説得に応えて1946(昭和21)年にタイガースに戻り再び背番号「18」を着ける。翌1947(昭和22)年から現役監督となって1949(昭和24)年までの3年間、背番号「30」を着けている。この3年間も26勝12敗、17勝20敗、15勝14敗の成績を残しており、1949年は41歳のシーズンだった。1950(昭和25)年、2リーグ分裂に伴ってパリーグの毎日オリオンズへ移籍する。もともとアメリカ出身だけに、2リーグ制への移行推進の支持者であったためでもあるが、当初パリーグの中心となるはずだったタイガースが豹変してセリーグに残ったことでフロントと対立し、最も高く評価してくれた毎日への移籍となったという。毎日へ移った1950年には42歳になっており、シーズンは4勝に終わったがリーグ優勝。第1回の日本シリーズでは第1戦の先発投手として日本シリーズ史上最初の勝利投手になった。第6戦では奇策ともいうべきノーアウト満塁での敬遠というこれもプロ野球初の珍プレーを記録している。毎日では3年間プレーしたが1年目に4勝したのみ、44歳で現役を退く。現役最後の年になった1952(昭和27)年に2試合登板して1三振を取り通算1000奪三振を達成している。通算成績は528試合237勝144敗1000奪三振、3557回1/3で自責点786、防御率1.99。特に327試合に先発して263試合に完投しているのは凄い。最多勝2回、最優秀防御率2回、勝率1位1回のタイトルも取っている。またタイガースで6シーズン、毎日で1シーズンの一軍監督経験があり、タイガースの監督として2回の優勝も記録している。 2リーグ分裂の際にダイナマイト打線の主力だった別当薫・土井垣武・呉昌征が若林と行動を共にしたことから、タイガースにおいては長く「裏切者」扱いを受けることになったが、タイガースにおける通算233勝は今なお球団最多勝利記録である。1964(昭和39)年に野球殿堂入りしているが、その翌年の1965(昭和40)年3月5日に57歳の若さで亡くなった。 若林は社会貢献活動の先駆者でもあった。自費で子供対象のファンクラブを立ち上げ、少年野球の発展やファンの開拓に尽力。孤児らの施設への慰問など慈善活動にも精力的に取り組んでいる。タイガースは2011(平成23)年3月5日、チーム内で多大な社会貢献をしたものを表彰する「若林忠志賞」を創設し、長年のわだかまりを払拭するとともに若林の名を顕彰している。まとめ今回はタイガースにおける背番号「18」の元祖で この番号が「エースナンバー」と呼ばれるきっかけとなった若林さんだけにしましたそれだけ輝かしい実績を残し貢献しているのよ ミスターと呼ばれる村山実さんの222勝を超える233勝をタイガース時代に記録してる大エース素晴らしい投手だったのに2リーグ分裂時のごたごたでタイガース内部では評価が下がってしまったのね 本来なら「ミスター」と呼んでもいい選手だよこれからも背番号18を背負う選手は あらためて若林さんのことを知り その遺志を受け継いでいく名選手になってほしいとおもう現役タイガース選手では2023年まで馬場皐輔投手が着けていたんだけど 現役ドラフトで巨人に行っちゃったので これを書いてる2024年1月現在は「空き番」になってる 次に誰が着けるんだろうね?簡単にはもらえない番号だし もらったら責任が重い 2代目は村上投手が適任だと思うんだけど みなさんはどう思う?背番号18―2に続く
2024年01月08日
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背番号17(その7)いよいよ背番号17の最終回ですまずドラフト1位が出てくるんだよねえ・・・すごく期待された投手よ でも結果は残せなかった そのつぎの人も投手で2年着けただけ そしてまたドラフト1位の岩貞さんが着けるのねそして今年2023年から青栁さんが着けました ということは今回出てくる4人はすべて投手ね ちょっと長くなるけど順にみていきましょう杉山直久 投手京都府舞鶴市出身で東舞鶴高校に進むが甲子園の経験はない。龍谷大学で頭角を現し、2年時にノーヒット・ノーランを記録すると、3年秋は4勝を挙げて防御率0.86という好成績で優勝に貢献し、MVPに輝いている。4年になると150キロを超える速球を武器に日米大学野球の代表に選らばれるなどドラフト1位候補として名前が挙がってくる。大学通算では15勝4敗で防御率1.19の数字を残した。2002(平成14)年、タイガースはドラフト自由獲得枠(逆指名1位)で杉山を獲得する。背番号は前年藪恵市が返上したエースナンバー「18」と決まった。ルーキーイヤーの2003(平成15)年は、キャンプから前半戦まで体力づくりに専念し、8月に一軍へ昇格する。結局3試合(先発2)しか登板機会は無く、0勝2敗で防御率も7.71に終わっている。2004(平成16)年6月15日のヤクルト戦で先発し5回2/3をなげて3失点でプロ初勝利を飾ったが、この年は13試合2勝2敗で防御率5.30だった。2005(平成17)年、体の開きが早かったフォームを改良してブレイクする。23試合(先発22)で9勝6敗、134回2/3を投げて奪三振103自責点44、防御率2.94の好成績を残してチームのリーグ優勝に貢献した。日本シリーズでは3連敗後の第4戦に先発したが、2回に李承燁の2ランをあびて先行を許し敗戦投手となっている。ところが2006(平成18)年からまた思うように勝てなくなる。この年17試合で4勝4敗に終わると、2007(平成19)年も20試合4勝5敗1ホールドと低迷が続く。2008(平成20)年には登板が9試合と激減し、2勝3敗の成績で一軍から遠ざかっていく。2009(平成21)年、背番号「18」を剝奪され、前年まで金村が着けていた「17」に変えて再スタートしたものの、一軍での登板はわずか2試合で0勝1敗、防御率5.40とどん底に落ちてしまった。2010(平成22)年は一軍で7試合に投げたが先発は一度もなく終わり、2011(平成23)には一軍に上がることすらできないまま過ごして戦力外となった。 トライアウトを受けたがプロではお呼びがなく、2012(平成24)年はBCリーグの富山サンダーバーズに所属した。 現在はオリックスのチームスタッフとして裏方で汗をかいている。伊藤和雄 投手埼玉県小川町の出身。中学までは内野手だった。県立坂戸西高校に入って投手に転向しているが全国大会とは無縁だった。東京国際大学に進んで、元広島カープの監督だった古葉竹識監督の指導を受けながら成長をとげ、4年春には3完封を含む7勝を挙げて東京新大学野球リーグでの初優勝に導くエースとなった。大学通算では16勝6敗、防御率1.61の記録を残している。 150キロを超える回転の好いストレートで押す本格派で、三振が取れる投手として注目される存在になり、2011(平成23)年のドラフト会議では、衆目が上位指名を予想した。しかし意外にもタイガースは4位で獲得している。まだ東京新大学野球リーグの評価がそれほど高くなかったからかもしれない。背番号は退団した杉山の「17」を受け継いだ。 2012(平成24)年10月に一軍登録され中日戦で初登板初先発したが、7安打3四球の乱調で4回4失点、敗戦投手になっている。1年目はこの1試合で終わった。2013(平成25)年は春に右ひじを故障し1年間をファームで過ごす。しかし、そこでも満足に投げられず12試合1勝1敗だったため、オフには育成契約となり背番号も「117」になってしまう。2014(平成26)年は春から調子を上げ、オープン戦では4イニングで8奪三振と復活した姿を見せたため4月に支配下選手に戻った。背番号は「92」で、藤川のように三振が取れる投手として開花してほしいという願いも込められていた。しかし、この年すべてリリーフで6試合に投げているが、防御率6.30と結果につながらなかった。2015(平成27)年以降、引退までの7年間で43試合の登板があるがすべてリリーフで、2020(令和2)年の6月27日のDeNA戦の6番手の投手として1イニング無失点に抑え、遅まきながらプロ初勝利を挙げている。これが唯一の白星となった。2021(令和3)年をファームで送ったのち引退、現在は球団職員。通算成績は50試合1勝3敗1ホールド、70回2/3で自責点37、防御率4.71なのだが、投球回数を上回る72個の奪三振を記録している。この才能を十分に生かせなかったのが非常に惜しまれる投手である。岩貞裕太 投手伊藤が育成選手になり、そこへ入団してきた岩貞が「17」を引き継いでいる。熊本県熊本市出身。必由館高校では全国大会に出ることもなく無名で、横浜商科大学に進んでから一気に頭角を現した。大学1年から毎シーズン白星を挙げており、2年で日米大学野球の代表入り、4年秋には6勝1敗で防御率0.42という圧倒的な数字で「大学屈指のサウスポー」としてドラフト1位候補になっている。大学通算25勝13敗、防御率1.65。 2013(平成25)年のドラフト会議では1巡目でタイガースと日本ハムが競合し、抽選に勝ったタイガースへ入団が決まる。 2014(平成26)年、キャンプでは「能見2世」などと呼ばれ期待が高まったが、左ひじ痛を発症して前半戦は治療に専念し、8月に一軍へ上がる。8月17日のDeNA戦で初先発初勝利(5回2/3、2失点)したが、結局1年目は1勝4敗で防御率4.60という不完全燃焼で終わった。 2015(平成27)年は一軍で5試合(すべて先発)しか登板機会がなく、1勝1敗で防御率4.35と伸び悩んでいる。 まだ現役の選手なので過去より今が大事。このあたりからは少し簡素化するね。 2016(平成28)年に飛躍を見せる。25試合にすべて先発し10勝9敗、防御率2.90と大ブレークの年となった。特に4月の3試合連続二けた奪三振(12個12個10個)は開幕からの記録としてはセリーグ初の快挙で月間MVPに輝いている。ところが6月から8月にかけては満塁ホームラン3発を打たれるなどまったく勝てなくなり、9月に入ってから5連勝して10勝に到達している。2017(平成29)年から2019(令和元)年までの間も先発投手として投げるが、5勝10敗、7勝10敗、2勝4敗と勢いがなくなってしまう。2020(令和2)年、矢野監督がブルペンに配置転換すると、中継ぎやセットアッパーとして能力を発揮しはじめる。もともと井川慶とタイプが似ていて、ストレートとチェンジアップを軸にした配球で三振が取れる投手。ここという場面で三振を狙って取ることができることがリリーフに回って生きてきた。2020年以降の4年間で55ホールドを記録し、特に最近の2年間は防御率も2点台と安定しており、中継ぎの柱としてチームをけん引している。2023(令和5)年は前年取得したFA権を行使せずに残留し、背番号を「14」に変更している。青柳晃洋 投手 岩貞が着けていた背番号「17」を受け継いだのは青栁で、ルーキー以来7年間着けていた「50」を返上している。神奈川県横浜市の出身で川崎工科高校へ進んだが、高校では予選3回戦が最高で全国大会は夢のままに終わっている。帝京大学に進むと1年時から公式戦に出るが3年時に右ひじの手術を受けるなど万全ではなかった。それでも4年春には6勝で最多勝・ベストナイン。大学通算37試合で15勝9敗、防御率1.91は立派である。しかし手術などの不安材料からか、各球団の評価は思いのほか低く、2015年のドラフト会議でタイガースは5巡目で獲得することができた。背番号は「50」。過去にオーバースローも試したが上手くいかなかったのは、もともと腕や肩関節が横振りに向いていたとおもわれる。サイドでもなくアンダーでもない独特のフォームは自ら「クォータースロー」と呼んでいる。本人は「みっともないフォームで嫌い」と言っているが、勝てているからそれでいい。1年目の2016(平成28)年から2023(令和5)年まで、8年間で142試合に登板してそのうち141試合が先発だが、ローテーションで安定するまでには時間がかかった。プロ入りから5年間を見ると、4勝5敗、4勝4敗、1勝1敗、9勝9敗、7勝9敗と勝ち越しが無い。防御率は毎年3点台前半で非常に安定感はあるが、今一つ勝ち切れないというのが物足りなかった。それが2021(令和3)年に確変が起き、25試合13勝6敗、防御率2.48と覚醒し、最多勝と最高勝率の二冠に輝く。さらに翌2022(令和4)年も24試合13勝4敗、防御率2.05で、2年連続での最多勝と最高勝率のタイトルに加え、防御率も1位という三冠を達成している。2023(令和5)年には、岩貞から背番号「17」を受け継いで、初めて開幕投手としてシーズンに望んだが、1年間制球に苦しんで夏場以降をファームで過ごすなど不本意なシーズンにしてしまった。18試合で8勝6敗なので恰好だけはまとめたが、規定投球回には程遠く、防御率4.57というのもプロ入り最低だった。 ただし、最後の最後、日本シリーズ第7戦での4回2/3の熱投で締めくくれたのは好かった。「17」を黒歴史に戻さないよう頑張ってほしい。まとめ 背番号「17」は今まで23人の選手が着けましたが そのうち17人が投手なのよね 源五郎丸さん以降は13人中12人が投手もう完全に投手の番号として定着したといっていいわね 今回の4人も投手です そのうち杉山直さんと岩貞さんがドラフト1位ね 移籍してきた杉山賢人さんも含めると延べ6人のドラ1が着けてます 本来なら栄誉ある番号なはずなんだけど成功した人が少ないね・・・青栁さんは「17」になって成績が落ちただけに責任重大!来季から巻き返してぜひとも「栄光の背番号」にしてもらいたいわこれで17番は終わりよ 読んでくれてありがとう!次回からは球界で「エースナンバー」と言われる「18」に進むよ!背番号18に続く
2024年01月06日
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背番号17(その6)背番号17の第6回目ですホントに短期間しか着けない人が6人も続いて 背番号「17」はすっかり沈没してしまったわね今回最初に登場するのは外国人選手! この番号の黒歴史をリセットしてくれるかどうか注目ね! なお 外国人選手については先代が別に「列伝」としてマニアックに書きためているものを紹介するつもりなので ここでは少し簡略化して記載しますトレイ・ムーア 投手ムーアは長く続いたタイガースの沈滞ムードに光明をもたらす投手だった。2002(平成14)年、星野仙一監督の1年目にアトランタ・ブレーブスの3Aリッチモンドから入団している。スキンヘッドに口髭という風貌だった。とにかくバッティングが好きで打撃練習ばかりしており、入団当時の逸話として、遠征してきた巨人の原監督が室内で撃ち込みをするムーアを見て星野監督に「今度の助っ人は凄いスイングしてて驚いたよ 好いバッター呼んだね 要注意だ!」と感想を述べ、星野監督は「バッターなんて獲ってないんだけど・・・」と困惑したという話が残っている。 1998(平成10)年、2000(平成12)年、2001(平成13)年とメジャーに上がった経験があるが、通算23試合(先発19)3勝10敗で防御率5.83という数字しか残していない。日本に来る前年はブレーブス傘下の3Aリッチモンドにおいても27試合9勝8敗、防御率3.31と平均的なレベルの投手だった。 タイガースには2002(平成14)年に入団する。投球フォームを自在に変えることで打者を幻惑する投手で、実際にオーバーハンド、スリークォーター、サイドハンドを使い分けて投げていた。得意球はサイドから投げるスライダーで、自称「スーパー・シークレット・スライダー」(SSS)と呼んでいる。 1年目は27試合すべて先発で投げて10勝11敗、181回1/3奪三振116防御率3.33とという成績で1年間ローテーションを守った。 2年目の2003(平成15)年は開幕から7連勝を飾っているが、夏場に左上腕二頭筋挫傷で戦列を離れ規定投球回数に達しなかった。それでも10勝6敗と勝ち越してチームのリーグ優勝に大きな貢献をしている。日本シリーズでは第3戦に先発すると1対1のまま7回まで好投して勝利に貢献する。3勝3敗で迎えた第7戦にも先発するが、初回に2失点、3回には井口に2ラン、松中にソロを浴びて3失点と炎上。計5失点でノックアウトされ、敗戦投手となり日本一を逃している。ムーアは原監督が一目で認めたようにバッティングセンスのほうが注目された珍しい選手だった。2002年4月6日のヤクルト戦で4打数3安打の猛打賞を記録している。そして同年8月14日の横浜戦で再び3安打猛打賞。投手の年間2度の猛打賞は17年ぶりの快挙だった。この試合の9回には打席に立ってヒットを打った後に梶原が代走に出て交代しているが、控えの野手よりバッティングが好かったことを証明している。この日には50打数15安打となって打率が3割に到達しているのも驚きだろう。 また同年には監督推薦でオールスターに出ているが、ムーアのバッティングに期待するファンが多く、一塁手部門で3位になるという珍現象に沸いた。 さらに2003年は43打数14安打5打点で打率.326という数字を残し、巧打者ぶりに磨きがかかった。ところが星野監督が体調を理由に辞任して岡田監督に代わると、タイガースはムーアとの再契約をしなかった。理由は定かではない。自由契約となったムーアはオリックスと契約し、2004(平成16)年のシーズンは7月までに6勝6敗の成績を残すも左肩に炎症が起きて帰国し、そのまま9月16日に解雇された。ジェイミー・ブラウン 投手 ムーアがいなくなった2004(平成16)年は誰も背番号「17」を着けていない。 2005年(平成17)にこの番号を引き継いだのがジェイミー・ブラウン投手だった。 この選手をどれだけの人が覚えているだろうか?アメリカではプロ入り9年目の2004(平成16)に初めてメジャーへ昇格するものの4試合のリリーフ登板で0勝0敗、防御率5.87という実績しかない。3Aでも4勝6敗で防御率4.82という成績に期待感は無かった。 そのブラウンは、開幕直前から体調不良を訴えて出遅れ、初登板が4月30日のヤクルト戦だった。この試合は試運転という意味で4番手として1イニングを投げて無失点。初先発は5月4日の広島5回戦で、5回1失点でっ勝利投手になっている。 ブラウンは見た目は右の本格派投手だが、ストレートは140キロ台前半で変化球の比率が高く、スタミナが無いため「5回で3失点」くらいの実力しかなかった。写真で見ても「おとなしいフォーム」という感じしかない。 結局11試合に投げて4勝1敗、たまにローテーションの谷間を埋めるという程度の起用で終わっている。防御率も5.18で、とても1試合を信頼して任せられる投手ではなかったため10月に解雇されてしまった。2006(平成18)年は韓国サムスンに所属し11勝9敗、防御率2.68の成績を上げたが翌年には解雇されている。金村大裕 投手大阪府大阪市出身。本名は金 大裕(キム・デユ)で在日3世。上宮高校では控え投手で大阪商業大学へ進む。関西大学リーグでは弱小チームということもあり、通算7勝20敗の成績しか残せていない。ところが2005(平成17)年のドラフト会議でタイガースから3位で指名されたため、社会人本田技研鈴鹿の内定を辞退して入団し、退団したブラウンの着けていた「17」を受け継ぐことになった。 1年目の2006(平成18)年はウェスタンで8試合に投げ、2勝1敗、防御率1.44と快調だったが故障してしまう。 2年目の2007(平成19)年も一軍には上がれず、ファームで14試合に投げたが0勝1敗、防御率9.37と酷い成績だった。2008(平成20)年はさらに悪くなり、8試合0勝1敗で防御率12.54で使い物にならなくなってきた。 2009(平成21)年には背番号を「61」に変え、5月にはプロ入り初めて一軍に上がったが、結局1試合1イニングしか投げていない(打者5人、被安打0、奪三振1、与四球2、暴投1、自責点0)。ファーム16試合でも0勝0敗だった。 2010(平成22)年には育成契約とされて背番号も「117」になってしまった。そのまま10月1日には戦力外通告を受け自由契約となって退団した。2011(平成23)年、韓国のSKワイバーンズに拾われたが、登板機会のないまま1年で解雇されている。まとめ ムーア選手はなかなか好かったんじゃない?2年続けて10勝してるのは有力な戦力と言っていいよ!バッティングも好かったんだね 2年目は打率3割以上だし なんで解雇しちゃったのかな?2年しかいなかったのは惜しかったとおもうよブラウンさんは誰も覚えていないんじゃないの?「そんなのいたっけ?」という種類の助っ人よね 逆に4勝してるのがちょっと意外だわ金村さんに関しては 先代もちょっと記憶にないって言うほどの選手 入社が内定してた社会人に進んでたほうが好かったんじゃないかなあ 指名したタイガースは罪なことをしたわけよね今回の3人を見ても「17」が浮上した感じはしないね 残るのはあと4人なので次回で一気に掲載しますね17の7に続く
2024年01月03日
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背番号17(その5)背番号17の第5回目です前回紹介した3人の選手のうちドラフト1位の2人は怪我で泣いてるし もう一人は「二軍のエース」で終わっちゃってるよねでも「17」の暗黒時代はまだまだ続くんだよ 今回の最初に登場する選手もまたまたドラフト1位なんだけど まったく残念な結果に終わってる 暗い「事件」もあったのよ2人目に出てくる人は西武からのトレードで来た選手ですが プロ入りはドラフト1位だった投手よ!ドラ1にこの番号着けさせちゃいけないんじゃないかっておもえてくるわ山村宏樹 投手 山梨県敷島町の出身で高校は甲府工業に進む。2年生の夏に甲子園に出場しすでにエースで4番という中心選手だった。1回戦で完投勝ち、2回戦敗退。3年次は県予選ベスト8で敗退している。高校生の投手としては、ストレートの伸び、変化球のキレともに高レベルで「江川2世」と評判になり、1994(平成6)年のドラフト会議でタイガースに1位指名されて入団している。背番号は「17」。 1年目の1995(平成7)年はファームでの12試合に登板して0勝2敗、防御率6.49で、もっぱら体力づくりに専念している。1996(平成8)年も一軍に上がることはなく、ウェスタンで3試合投げただけ。1勝0敗で防御率は1.13。1997(平成9)年になるとファームでは7勝7敗、防御率も3.12と力を出し始め、6月には初めて一軍に呼ばれ中継ぎで5試合に投げた。しかしすぐにファームに戻されている。一軍では0勝0敗で防御率は4.82だった。1998(平成10)年は一軍で10試合に登板し先発も5試合経験する。9月17日には広島戦でプロ入り初勝利も飾った。そんなとき「17」にまつわる暗雲が山村にも覆いかぶさってくる。この年から自律神経失調症を発症して心身のバランスに変調を来たし、まともに野球ができるような状態ではなくなってしまった。当時のタイガースでは(あえて実名で書くが)中込伸によるチームメイトへの嫌がらせが横行していると噂されていた。真相は当人たち以外には分からない。山村は「後頭部踏みつけ事件」もう一人中谷仁の「携帯眼球直撃事件」という報道があったのは事実である。しかし中込が故意に起こした事件なのかどうかや、山村のケースではそもそも中込がやったのかどうかも霧の中だ。今までの「17」にまつわる経緯やこの心身の失調を気にしてか山村は1999(平成11)年に背番号「17」を返上して「21」に変えている。「17」の黒歴史に新たな1ページが加わってしまったと言えるかもしれない。 しかし背番号を変えたくらいで気分が晴れることはなく、ファームですら投げられないほどになってしまい、オフに戦力外とみなされて自由契約選手となる。タイガースでは5年間で1勝を挙げたのみに終わり、事実上のクビだった。この状況に救いの手を差し伸べたのが近鉄の一軍監督に就任したばかりの梨田昌孝だった。直前まで近鉄の二軍監督に就いており、ウェスタンで山村の投球を間近に見ていたため「潜在能力は持っているから環境が変われば再生できるはず」と山村を獲得している。 2000(平成12)年、近鉄に移った山村は27試合(先発24)に投げて6勝9敗、翌2001(平成13)年は23試合(先発16)で7勝6敗とローテーションの一角でそれなりに結果を残すことができた。2002(平成14)年から2004(平成16)年までの3年間は1勝しかできず厳しい状況になるが、2004年の近鉄球団消滅による分配ドラフトで楽天に移籍が決まるとまた復活する。2005(平成17)年は16試合(先発11)で2勝7敗だったが、2006(平成18)年には30試合(先発22)に投げて7勝10敗と頑張りを見せている。 その後はブルペンに配置されて2012(平成24)年まで18年に及ぶプロ野球生活を全うした。引退セレモニーではチームメイトに胴上げされている。 通算成績は225試合(先発90)31勝44敗2セーブ20ホールド330奪三振、671回1/3で自責点が374、防御率5.01だった。 なお、チーム内の嫌がらせ事件については、文春オンラインの記事(「ドラ1クラッシャー」中込伸は中谷仁の左目になぜ“至近距離から”携帯電話を投げたのか…元エースが語り始めた“24年前の真相” | 文春オンライン (bunshun.jp))が詳しいので参照してほしいが、これも真相かどうかは確かめようがない。杉山賢人 投手 1999(平成11)年に山村が返上した「17」を引き継いだのは、トレードで西武ライオンズから移籍してきたサウスポー、杉山賢人である。静岡県沼津市出身で沼津学園高校から専修大学へと進んでいるが、いずれも主力投手という存在ではなかった。大学通算成績も43試合で4勝8敗、防御率3.65と全く目立っていない。飛躍するのは社会人東芝に入ってからだ。1991(平成3)年の都市対抗で3勝して優勝に貢献し「若獅子賞」を受賞。1992(平成4)年にはバルセロナ五輪の代表に入り銅メダルを獲得、日本選手権でも2勝して優勝している。これらの実績がみとめられ、同年のドラフト会議で西武からの1位指名を受けてプロ入りした。173センチと小柄だがキレがあり、1年目はリーグ最多の54試合に登板し50試合がリリーフ。7勝2敗5セーブで防御率2.80の成績を上げて最優秀新人に選ばれている。74回を投げて82三振を奪っており、三振奪取率が非常に高いのが特徴だった。 ところが1年目の54試合74㌄がピークで、年々数字が下がっていく。1998(平成10)年は44試合に投げながら投球回数は18回であり、ワンポイントの使われ方がほとんどになっていた。 1999(平成11)年、シーズン途中の6月7日に投手陣の手薄なタイガースへ平塚克洋との1対1のトレードで移籍してくる。タイガースでは16試合(先発9)に登板して2勝4敗だったが、防御率は5.08とよく打たれた印象だった。 2000(平成12)年は開幕から一軍昇格の無いまま、5月24日に吉田剛・西川慎一との交換で大阪近鉄バファローズへ移籍することになる。近鉄では27試合にすべてリリーフ登板し0勝1敗。翌2001(平成13)年4月3日には横浜ベイスターズへトレードされ、32試合に投げたが0勝1敗で、シーズン終了後に戦力外。トライアウトも受けたがどこからも話がなく引退している。通算333試合17勝13敗17セーブ、防御率は3.91だった。その中で317回1/3で295個の三振奪取は立派な記録だろう。 吉田 剛(よしだたかし) 内野手 2000(平成11)年に杉山賢人とのトレードで近鉄から移籍してきたのが吉田剛である。 茨城県取手市出身で、県立取手二高時代には2年のときに捕手として1983(昭和58)年の選抜大会に出場しているが1回戦敗退。 翌1984(昭和59)年の選抜では遊撃手としてベスト8、そして同年の夏は決勝に進み、桑田・清原のいたPL学園と当たっている。吉田は桑田からレフトへホームランを打つなどチームに初優勝をもたらした。 1984年のドラフト会議では、2位で近鉄と西武が競合し、抽選に勝った近鉄に入団する。近鉄では2000(平成12)年の途中まで、16年間在籍するがレギュラーと呼べる100試合以上出場したのは3シーズンしかない。これはセカンド、サード、ショートが守れるユーティリティさが仇になった可能性もある。 杉山の項で書いたとおり2000年5月に交換トレードでタイガースに移籍し、ショートを守って65試合に出ている。背番号は交換相手の杉山からスライドした「17」を着け、成績は149打数36安打13打点2本塁打で打率.242だった。 7月19日の甲子園での巨人戦では桑田からサヨナラヒットを打っている。この時は清原がファーストを守っており、お立ち台で16年前の甲子園決勝を思い出して感無量になっていたのが思い出深い。タイガースにおける唯一のヒーローインタビューだった。 2001(平成13)年は藤本や沖原の台頭で1度も一軍からお呼びがかからないままシーズンを終え、戦力外となって引退した。 現役16年間の通算成績は1012試合1966打数632安打166打点18本塁打125盗塁、打率.243である。まとめ 今回は何と言っていいのか冴えない3人になっちゃいました山村さんは入団した当初からタイガースという球団の空気になじめなかったようなのね 素質はあったのに発揮しないまま出て行くことになったのは残念よね 杉山さんは新人王にもなったけど1年目が一番良くてだんだん成績が落ちていったところでタイガースに来たわけ 活躍のできる状態じゃなかったんじゃないの?吉田さんも成績が落ち切ったところでの移籍 久慈さんを放出したあと穴が開いてしまった遊撃手の補強だったんだけどタイガースで実働したのは1年だけよ 本当に獲得しなければならない選手だったか疑問だわ 「17」は未だ浮上せずね17の6に続く
2023年12月25日
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背番号17(その4)背番号17の第4回目ですこれまで紹介した選手たちでレギュラー選手と呼べるのは白坂さんぐらいかなあ 門前さんや大崎さんも活躍した期間は短いからね今回出てくる3名もレギュラー級といえない人ばかり 「17」はなかなか注目される番号になってこないですね 逆に今回は雲行きが怪しくなってくるのよ源五郎丸 洋 投手1981(昭和56)年のドラフト会議、高校生では槇原寛己や金村義明に注目が集まっていたこともあり、源五郎丸が1位指名されたときタイガースファンも「誰やそれ?」となった。タイガースは右田一彦を抽選で外し、外れ1位で指名している。 源五郎丸は東京都江東区の出身だが父親の仕事の関係で佐賀県に転居し、高校は大分県立日田林工に進んでいる。県予選で敗退して甲子園の経験はなく、スカウトなどの評価は高かったが一般の野球ファンにはあまりなじみがなかった。 源五郎丸は早稲田大のセレクションに合格していたが、1位指名だったこともあってプロ入りを選択し、背番号「17」を着けることになった。 右投げの本格派で、ダイナミックなフォームから投げ込むストレートは伸び・キレとも抜群。そのため「村山2世」と持ち上げられ、名字が変わっていたこともあってファンからも注目の的になったことが悲劇につながる。 キャンプでの紅白戦で掛布を抑えるなど好投したことで人気も上がり、ファンサービスとして首脳陣がオープン戦に帯同させたのが間違いだった。しっかり身体ができていない状態で無理をさせたため、1982年3月4日、ベースランニングの練習中に右足を痛める。右大腿二頭筋断裂で全治2カ月と診断されたが、リハビリもふくめ現場復帰まで4カ月以上かかる重傷だった。 結局このけがは完治することなく最後まで源五郎丸を苦しめることになる。1年目はファームの試合すら投げることができなかった。 2年目の1983(昭和58)年、ウェスタンで17試合に投げたが2勝4敗で防御率は7.48とかつての切れ味は影をひそめる。1984(昭和59)年は20試合で3勝4敗、防御率は3.43と改善されてきたが球威は戻らなかった。1985(昭和60)年、一軍がリーグ優勝、日本一と大変な盛り上がりを見せている中、源五郎丸はファームで18試合1勝3敗2セーブ、防御率4.70と前年より悪くなっている。1986(昭和61)年、背番号「17」の雄姿を一度も一軍で見せることができないまま5年目のシーズンを終えて引退した。猪俣 隆 投手 新潟県長岡市出身で東京の堀越高校に進む。高校時代は予選ベスト4が最高だったが法政大に進学して大きく進化する。大学1年春の新人戦でいきなりノーヒットノーランを達成して驚かせ、大学4年間で4度の優勝を経験している。リーグ戦通算で43試合に登板し、20勝7敗、防御率1.87、180奪三振の好成績を挙げ、2年続けて日米大学野球の代表入りするなど、文句なしのドラフト1位候補に成長した。1986(昭和61)年のドラフト会議でタイガースに1位指名されて入団し、源五郎丸が着けていた「17」の継承者となる。 186センチの長身から投げ下ろすストレートも好かったが、最も得意な球種は揺れながら落ちる落差の大きなナックルで、三振を奪うウィニングショットに使っていた。 1年目の1987(昭和62)年はルーキーながら即戦力のローテーション投手として期待されており、22試合のうち14試合が先発だった。しかし内容的には5勝7敗とパッとせず、2年目の1988(昭和63)年には右けい肩腕症候群を発症して一度も一軍登録されずに終わっている。源五郎丸が壊れてしまったことに続き、猪俣の故障もあって「17」は縁起が悪い番号という印象になってきた。 こういう経緯から1989(平成元)年には、引退した山本和行の背番号「25」を引き継いだうえでブルペンに配置換えして気分一新を図っている。この年は一軍で54試合に登板して4勝6敗3セーブの数字を残す。 ちなみに背番号「25」は9年間着けており、猪俣といえば「25」をイメージする人が多いはずだ。逆に「17」のイメージはほとんど無い。 しかしその後も故障が多く1990(平成2)年から先発に戻り23試合5勝11敗。1991(平成3)年が27試合9勝13敗、1992(平成4)年は14試合5勝5敗と、どうしても勝ち越せない。 1992(平成4)年がキャリアハイで27試合すべて先発で11勝12敗とプロ生活で唯一の二けた勝利を挙げたものの、やはり負け越している。 1994(平成6)年以降も故障に悩まされ続け、1997(平成9)年には一度も一軍登録がないまま10月に戦力外通告、自由契約選手となってしまった。 ここで中日が救いの手を差し伸べて入団するが、在籍2年間で1度も一軍での登板機会はなく、1999(平成11)年を最後にプロ生活を終えている。 先発タイプで、立ち上がりのエンジンのかかりが悪いのが欠点。これさえ上手く切り抜ければスイスイ完投してしまう力があった。実際1990年は5勝のうち3勝が完封勝利である。 通算成績は191試合43勝63敗3セーブ623奪三振、807回1/3で自責点330、防御率3.68である。背番号「17」は最初の2年間着けただけだった。太田 貴 投手 岩手県盛岡市出身で市立盛岡高校から社会人野球の鷺宮製作所に進む。右本格派でストレートに加えてカーブ系も好く、3年目から公式試合で好投が続き、1988(昭和63)年には有力なドラフト候補となっていた。所属会社が出さない方針を公表していたため、ドラフト会議での指名にはかからなかったが、水面下で6球団が争奪戦を続けた結果タイガース入りに傾き、ドラフト外で入団している。背番号は「縁起が悪い」と猪俣が返上した「17」を引き継いだ。 1年目の1989(平成元)年は一軍で17試合(先発2)に投げたが0勝1敗、2年目の1990(平成2)年には18試合で先発も8試合に増えたが、0勝1敗1セーブに終わる。プロ入りから4年間は一軍で勝ち星を挙げられなかった。 ファームでは頭一つ抜けており、1993(平成5)年には1四球でノーヒットノーランも達成するほど寄せ付けない投球を見せる。しかし一軍では通じない状況が続いていた。初勝利はこの年で、6月の中日戦に先発して5回1失点で挙げたものだが、この1勝が最初で最後の白星となった。 1995(平成7)年には6年間着けた「17」を返上し、背番号を「30」に変更して勝負をかけるも15試合で0勝0敗に終わる。以後引退する1997(平成9)年まで一軍での登板はない。 プロ通算では78試合1勝5敗1セーブ13奪三振、150回1/3で自責点67、防御率4.01とさびしい。 1998(平成10)年から2004年(平成16)まで打撃投手を務め、その後フロントへ転じ、スコアラーなどを担当している。まとめ 今回は3人とも投手 しかも源五郎丸さんと猪俣さんはドラフト1位だったのよね ところがこの3人のせいとまでは言わないけど「17」が不吉な番号って言われ出してしまったんだって 源五郎丸さんはキャンプを打ち上げてさあこれからという所で重傷を負って それがそのまま致命傷になっちゃいました 猪俣さんは「勝ち越せない男」になって これまたケガのせいで満足に投げたシーズンがほとんど無いのよね 3人目の太田さんに至っては即戦力の大きな期待を持たれていたのに結局プロ9年で1勝しかできなかった・・・たしかに不吉な雲行きって感じ 背番号「17」の暗黒時代ね17の5へ続く 次回もドラ1が2人出てくるよ
2023年12月21日
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背番号17(その3)背番号17の第3回目です前回紹介した3名はわずかな期間しか背番号「17」を着けてなかったよねこれまでは一番最初に着けた門前さんの通算10年というのが最長ね 3回目では長い人も出てくるんだけど なかなか門前さんを超えないわ 今回の最初に出てくる富恵さんなんて今まで聞いたことなかったし富恵 一(とみえはじめ)外野手富恵は山口県出身で県立萩高校では外野手と投手を兼ねる二刀流だった。関西大学に進むと外野手に専念し、通算50試合157打数45安打で打率.287、2本塁打の成績を残している。1964(昭和39)年にタイガースへ入団するとファームで3割を超える打撃を評価され、一軍でも24試合に出ているが32打数6安打2打点、打率.188が1年目の成績。プロ入り初本塁打1本を記録しているが、実はこれがプロ在籍唯一のホームランだった。1965(昭和40)年はわずか9試合で1安打のみの0打点。1966(昭和41)年には7試合ノーヒット1打点に終わる。1967(昭和42)年にはついに出番がなくなって戦力外とされ引退している。通算40試合49打数7安打3打点1本塁打、打率.143というさびしい結果だった。プロ生活は4年間と短かったが背番号「17」で通した。1974(昭和49)年6月5日、32歳の若さで逝去。伊藤幸男 投手 伊藤は大阪府大阪市出身。大鉄高校時代に右の本格派エースとして選抜に出場するも1回戦敗退、卒業後は社会人積水化学に進む。1962(昭和37)年の都市対抗に補強選手として出場している。同年途中に近鉄バファローズに入団し、一軍のゲームに5試合登板したが勝敗は付いていない。基本的に防御率は平均4点台の投手で、近鉄での6年間で通算142試合に登板(うち26試合の先発がある)9勝16敗 340回2/3で自責点159 防御率4.20の成績だった。1968(昭和43)年にタイガースへ移籍し、背番号「17」を継承して引退まで5年間着ける。1969年には26試合(うち先発13)に登板、8勝4敗・防御率2.46と自己最高の成績を挙げる。翌1970(昭和45)年も25試合6勝2敗と働いたが、徐々に成績は落ちていく。1971(昭和46)年が25試合2勝3敗、1972(昭和47)年には6試合2勝1敗と衰え、1973(昭和43)年に一軍登板がないまま引退に追い込まれた。桑野 議(くわのはかる)外野手桑野については「脇役物語」で紹介しているが、改めて掲載する。福岡県北九州市出身。左投げ左打ちで九州工業時代は投手だった。 1967(昭和42)年のドラフト5位指名でタイガースに入団している。最初にもらった背番号は「40」。1974(昭和49)年に「17」に変えて8年間背負っている。投手としての入団だったが、1968(昭和43)年、1年目のキャンプ中に小鶴打撃コーチがバッティングの才能に着目して打者に転向させている。しかし簡単には芽が出ない。1年目は3試合出ているが4打数1安打0打点。2年目の1969(昭和44)年は1年間ファーム暮らし。3年目の1970(昭和45)年も20試合21打数4安打2打点と伸び悩んでしまう。 1971(昭和46)年にようやく70試合に出場、107打数24安打7打点1本塁打を記録したが、翌年はまた6試合出場にとどまる。その後も50試合未満の出場しかない状況が続き、だんだん先が見えて来たところ 1975(昭和50)年に就任した吉田義男監督がシャープな打撃を生かすため「代打専門」として起用すると、79試合で110打数27安打13打点3本塁打と貢献。翌1976(昭和51)年には76試合125打数33安打で21打点をたたき出すキャリアハイを記録している。打率は2割少々だが好い場面で打っているので印象が強く、代打専門になってからは非常に人気があった。1981(昭和56)年を最後に引退するが、約6年間、代打専門に近い起用をされた。タイガースの代打の系譜は桑野に始まったといえる。これは吉田監督の選手起用の特徴でもあり、第2次で川藤、第3次では八木を代打専門として再生し成功させている。脇役物語は「タイガース脇役物語9-2 代打の切り札 | タイガース非公式サイト2代目 - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)」を参照。まとめ 富恵さんはプロのレベルじゃなかったんだろうね 成績を見ても3年であきらめざるを得ないわ しかも早くお亡くなりになってるのよね・・・伊藤さんは近鉄でも大した数字を残してないし タイガースは期待して獲得したのかなあ?ちょっと良かったのは2年だけであとは下降線だった 探してみたけど富恵さんと伊藤さんは写真は残ってなかったなあ・・・桑野さんを語る時の先代は嬉しそうな顔するのよ 大好きな選手だったみたい もっとスタメンで使ってほしかったって言ってるけど 4打席立つより1打席の集中力のほうがあるって監督が見抜いてたのかもしれないね予告 次回は源五郎丸洋さんが登場するよ!17の4へ続く
2023年12月20日
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背番号17(その2)背番号17の第2回目です前回紹介した名セカンドだった白坂さんが8年着けたあと この番号は小刻みにいろんな人が着けてるのよね中には全く忘れられたというか 誰も知らない様な選手もいるよ 背番号の歴史にも浮き沈みというのがあるんだなと感じるよね大崎三男 投手(再掲)大崎についてはすでに背番号8-2で紹介している。1953(昭和28)年に明治大を中退してそのままタイガースに入った投手。入団から5年間「8」を着け、6年目の1956(昭和31)年の1年だけ「17」に変え、そのオフに近鉄へトレードされた。詳細は「タイガース背番号史 8の2 | タイガース非公式サイト2代目 - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)」を参照。石川良照 投手石川は大阪府堺市生まれ。市立酒井工業高校時代はまったく実績がないが、タイガースの入団テストを受けて合格し、1955(昭和30)年に入団している。最初の背番号は「51」だった。今でいうなら育成選手のような存在。1年目2年目は二軍生活が続いたが3年目の1957(昭和32)年に一軍に抜擢されると53試合に登板している。その内訳は先発が20試合、リリーフが33試合で、高卒3年目ながらいきなり219回2/3を投げているこの3年目の成績13勝7敗、6完投3完封、防御率2.37という数字は21歳の選手として立派だろう。1958(昭和33)年から3年間は先発ローテーション投手として頑張ったが、6勝7敗、9勝9敗、4勝8敗と勝ち星が思うようについてこないのは、貧打の野手陣にも責任がある。というのもこの3年間の防御率は、2.71、2.71、2.95と2点台をキープしているからだ。 1959(昭和34)年に背番号を「17」に変更して3年間背負ったが、1962(昭和37)年に再び「51」にもどしている。1961(昭和36)年からブルペンに回ることが多くなり、急速に力が衰えてしまう。1963(昭和38)はわずか3試合の登板で0勝0敗、防御率も12.60という成績しか残せず引退に追い込まれた。通算成績は213試合32勝35敗362奪三振、728回1/3で自責点229、防御率2.83だった。32勝のうち7つの完封勝利が光る。伊奈 努 投手石川の次に「17」を背負った伊奈は愛知県御津町(現豊川市)の出身。豊川高校では左のエース級投手である一方で一塁手もこなし地区予選ベスト4が認められて、1953(昭和28)年に名古屋ドラゴンズへ入団し、プロ入り後は投手に専念する。1957(昭和32)年には36試合(うち先発19)に登板して12勝12敗・防御率2.67と活躍してオールスターにも出場。この年から登録名を「勉」から「努」に変えている。1959(昭和34)年には57試合(うち先発23)で267回を投げており、先発とリリーフでフル回転して16勝14敗・防御率2.53の好成績を挙げた。ドラゴンズには8年間在籍し46勝46敗453奪三振、800回2/3で自責点264、防御率2.97だった。この数字を見ると、安定感はあるが結局は勝ち負けの数がほぼ同じくらいの平均的な投手に見える。ケガなどもあって1960(昭和35)年は2勝5敗で防御率6.75と振るわず、オフにタイガースへトレードされてしまう。1961(昭和36)年、タイガースに移ると背番号「20」を着けるが、翌1962(昭和37)年には「17」に変えて2年間着けている。タイガース在籍の3年間で61試合に登板しており、そのうち31試合は先発だったことから、ローテーションの穴を埋める貴重な左投手と期待もされていたのだろう。しかし1年目が4勝9敗、2年目は3勝2敗、3年目は0勝5敗に終わっている。とても役目を果たせたとは言えない。この成績では引退もやむを得なかった。まとめ いやはや 名手白坂さんのあと雲行きが変わってきたような・・・大崎さんは2年連続20勝以上したこともあるんだけど「17」を着けたのは1年だけで8勝しかできなかったシーズンなのよ石川さんはテスト入団から2年間ファームで鍛えられて順調に成長しそうだったのに 活躍は1年限りでダメになっちゃったね 「17」は2年間しか着けてないし写真も見つからないわ伊奈さんも活躍したのはドラゴンズ時代で タイガースでは7勝16敗と散々だった この人も2年しか「17」を着けてないよ 写真はドラゴンズ時代のものね「17」の危機ね!このままダメな番号になっちゃっては困るよ 次回は少し落ち着いてくるかな?17の3へ続く
2023年12月17日
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背番号17(その1)背番号17の第1回目ですこの番号も球団創立時からある伝統の背番号ね 2023年に着けてるのは誰でしょう? はい青栁さんですね 入団からずっと「50」だったのを今年から「17」に変えたのねでは「17」とはどんな歴史があるか これから見ていくよ門前真佐人(もんぜんまさと) 捕手門前は広島の広陵中学(現広陵高校)出身。中学時代からスター選手で地元では藤村富美男率いる呉港中学と凌ぎを削って何度も甲子園出場を逃したが、1935(昭和10)年の選抜大会で初めて出場すると準優勝している。同年球団創設とともに契約選手第1号としてタイガースへ入団し、背番号17を着けた最初の選手となった。身長180センチを超える当時としては超大型捕手だ。強肩を持ち味にする門前だったが、タイガースの創成期には、小川年安、(カイザー)田中義雄、土井垣武など実力のある捕手が多く、なかなかレギュラーになれなかった。 2年目の1937(昭和12)年の春季に47試合に出ているものの打率が.217と低く、レギュラーになり切れずに終わっている。1939(昭和14)年には病気療養の田中に代わって91試合に出場してレギュラーになり、324打数84安打54打点5本塁打 打率.259と活躍する。翌1940(昭和15)年に応召されて2年間従軍し、この間は土井垣武にレギュラーの座を明け渡すことになる。しかし1942(昭和17)年に復帰すると、おもに一塁手として33試合に出場した。1943(昭和18)年はレギュラー捕手として79試合、1944(昭和19)年は31試合に出場している。 1945(昭和20)年は職業野球は中止となり、戦争も終盤を迎えてきたこともあってタイガースを退団し故郷の広島へ戻った。1946(昭和21)年、地元で創設された社会人チーム「鯉城園」に入って野球に復帰し、都市対抗本戦に出場している。1947(昭和22)年は国民リーグの結城ブレーブスでプレーし、1948(昭和23)年に金星スターズでようやくプロ野球に復帰した。1949(昭和24)年にはタイガースに復帰し、再び背番号「17」を着けたが、28試合70打数16安打13打点3本塁打で打率.229に終わり、シーズン終了後には2リーグ分裂に伴ってし新しく設立された大洋ホエールズへ移籍してしまう。大洋での1年目となった1950(昭和25)年、飛ぶボールが採用されたこともあって、128試合に出場して460打数129安打110打点25本塁打、打率.280という好成績を挙げ、史上3人目のサイクルヒットも記録するなど活躍している。これは門前のキャリアハイだった。翌年も97試合に出ているが大洋には2年間在籍しただけだった。1952(昭和27)年は元タイガースの監督で1950年から広島カープの監督に就任している石本秀一の誘いで広島に移籍している。広島に移ると4年連続で100試合以上に出場し、1956(昭和31)年のシーズンを最後に引退した。戦争を挟んでプロ復帰まで苦労しているが、非常に息の長い選手で39歳までプレーしたことになる。広島でもスター選手だった。引退後は広島に残り、ヘッドコーチ、二軍監督を経て、1961(昭和36)年に一軍監督に就任、2年間務めて退団している。通算成績は1203試合3761打数892安打543打点80本塁打50盗塁、打率.237である。戦争で5年のブランクがある割に立派な成績を残したと言えるだろう。渡辺誠太郎 投手・内野手渡辺は秋田県秋田市出身。1941(昭和16)年に大阪タイガースに入団しており、最初の背番号は「23」だった。この人も門前と同様に身長182センチという大型選手だ。次の写真を見てもスラリとして背が高そうなのがわかる。 入団1年目は1試合登板しただけ。2年目の1942(昭和17)年には11試合に投げているが1勝1敗。1943(昭和18)年は4試合投げたところで応召され、終戦まで従軍している。1946年にタイガースへ復帰し背番号「17」を着けた。この年は投手として32試合に登板しそのうち先発が19試合、10勝12敗で防御率3.64の数字を残すとともに、打者としては80試合で250打数72安打33打点2本塁打と活躍し打率も.288と活躍している。ところが1947(昭和22)年は、21試合5勝4敗、防御率3.45に終わっており、起用法に不満を抱いて退団、大陽(のち大洋ホエールズ)に移籍してしまう。 1948(昭和23)年から1951(昭和26)年まで大陽(~大洋)に4年間在籍したのち引退する。この間おもに投手として4年通算で14勝15敗だった。 プロ生活通算では149試合30勝34敗、637回を投げて自責点268、防御率は3.79である。また打撃成績は219試合449打数113安打47打点3本塁打で打率.252だった。 ちなみに渡辺は、1946(昭和21)年7月26日に記録された試合時間わずか55分という日本プロ野球最短試合(大阪タイガース対パシフィック・西宮球場)の先発として88球で5安打完封勝利を飾っている。白坂長栄 内野手背番号「17」は、渡辺が大陽に移籍した翌年の1948(昭和23)年は1年間空き番となった。1949(昭和24)年には復帰した門前が再び着けたが1年で広島に移籍。1950(昭和25)年から受け継いだのが白坂長栄である。白坂は岩手県一戸町の出身。旧制福岡中学から先代鉄道局に進み遊撃手としてプレーし、応召されたのち盛岡管理局に復帰して社会人として活躍する。1947(昭和22)年には全国鉄道大会で優勝、都市対抗にも出場し名前を知られるようになる。1948(昭和23)年、タイガースの若林忠志監督が札幌遠征の途中に盛岡へ立ち寄って熱心に説得し、シーズン途中での入団が決まる。この年に着けた背番号は「27」だった。ただしこの年は1試合しか一軍での出場はない。 1949(昭和24)年、背番号を「26」に変え、遊撃手として73試合182打数39安打12打点の成績を残す。なお、この年には投手として8試合の登板記録があるが0勝2敗だった。3年目の1950(昭和25)年に、前出の渡部の移籍後1年間空き番だった背番号「17」を引き継いで139試合に出場しており、この年から3年間ショートのレギュラー選手になっている。1953(昭和28)年に吉田義男が入団してきたためセカンドにコンバートされるが、ここでも守備については一流で、吉田との二遊間コンビは息もあっており鉄壁と言われるほどだった。次の写真は向かって左が白坂、右は吉田である。 1950年から1957(昭和32)年まで8年連続100試合以上に出場しており、打撃より守備でチームを支えている。ただし、飛ぶボールが採用された1950年には生涯唯一の二けた18本塁打を記録したことがある。1958(昭和33)年には背番号を「1」に変えている。この年はのちに名手と呼ばれる鎌田実がショートからセカンドにコンバートされてくると、これに譲る形で出場が急激に減って、翌1959(昭和34)年は一軍の試合に出ることなく引退している。引退後はタイガースでスコアラーを務めたのち二軍監督も歴任した。まとめ 門前さんはなかなかの名選手!長身の大型捕手で晩年までレギュラー選手として活躍してるわね 厳しいポジションである捕手で39歳まで頑張ったのは当時では珍しいんだって 渡辺さんはタイガースでの起用法に不満を持って出て行っちゃったけど 大洋でもあまりぱっとしなかったみたいね 残っている数字を見ると打者としての才能のほうがあったんじゃないかって感じがするから そもそも原点での選択ミスだったかもしれないよ 白坂さんは伝説的な守備の名手 バッティングは非力で主に2番か下位を打ってたようだけど 守備の上手さからオールスターに4回選ばれてるんだよ17の2へ続く
2023年12月14日
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背番号16(その5)背番号16の最終回です 今回最後の3人を掲載しますが その1人目が酒井さんなんだけど 多分ほとんどの方が覚えていないんじゃないかとおもう 着けてたのは1年だけだし一軍登録もなかったしね2人目の人は 今(2023年)一軍のピッチングコーチしてるよ そして現在着けてるのが西勇輝投手ね酒井弘樹 投手酒井は千葉県柏市出身で高校は関東一高。国学院大学に進み1992(平成4)年の2部リーグではMVPの活躍でチームを1部リーグへ押し上げた。東都リーグでは13勝を挙げた。1993(平成5)年のドラフト会議で近鉄バファローズに逆指名1位で入団している。ルーキーイヤーの1994(平成6)年から一軍で投げており、この年1勝ながらも初勝利を記録。2年目の1995(平成7)年には32試合で4勝5敗1セーブと戦力なってきている。1996(平成8)年には先発ローテーションに入り、26試合に先発したが8勝15敗と大きく負け越している。酒井は力投するタイプで制球に安定を欠き、投げてみないとわからないという計算しづらい投手だった。この年も2つの無四球試合を記録する一方でシーズン17暴投(リーグ最多)と荒れる場面も目立った。1997(平成9)年から2000(平成12)年までは、1勝、6勝、0勝、1勝と振るわず、2000年オフに交換トレードでタイガースに移り、タイガース側の交換要員だった山崎一玄の着けていた「16」を継承する。 しかし、タイガースに移った2001(平成13)年はそれほど期待されていた様子もなく、まったく一軍に上がらないまま過ごし、オフには戦力外とされて自由契約選手となっている。翌2002(平成14)年は台湾プロ野球の金剛に入団したが、シーズン中に戦力外となり、帰国してオフにはトライアウトも受けてみたもののどこからも声はかからず引退した。安藤優也 投手大分県雄城台高校の出身だが、高校時代は県ベスト8が最高で、全国的には無名の選手だった。法政大学に進むが故障が多く、満足に投げたシーズンがない。大学通算も7勝4敗という目立たない成績に終わっている。一次は硬式野球をあきらめ、地元の銀行への就職も内定し、社会人として軟式野球に転じる気になっていた。しかし思い直してトヨタ自動車へ入社したことが転機となる。故障も癒えて2000(平成12)年、2001(平成13)年と都市対抗野球本戦に出場し、ワールドカップ代表やアテネ五輪代表にも選出されるなど、最速150キロの本格右腕として急速に評価が高まっていく。 2001年のドラフト会議では自由獲得枠でタイガースに入団。背番号「16」を受け継ぎ、引退まで16年間着けることになる。1年目の2002(平成14)年は星野監督が就任した年で、4月14日の横浜戦で8回無失点、見事なプロ初勝利を挙げる。しかし、投球が単調で球種も少なく、シーズンを通しては3勝5敗で防御率3.77と平凡以下の内容で終わった。2003(平成15)年、星野監督による配置転換が行われ、一度も先発はなくリリーフ専門として51試合に登板、5勝2敗5セーブ防御率1.62とリーグ優勝に貢献する。 つづく2004(平成16)年、新たに就任した岡田監督も引きつづきリリーフ専門で起用、57試合5勝8敗5セーブの成績だったが、防御率は3.58と下がってしまった。2005(平成17)年、岡田監督は藤川球児をリリーフに回し、安藤を先発に戻すという配置転換を行った。ローテーション入りした安藤は監督の期待に応え、23試合に先発、11勝5敗、146回を投げて自責点55、防御率3.39の成績を残し、最高勝率のタイトルを獲得している。翌2006(平成18)年も20試合に先発し、10勝3敗、防御率3.35と2年続けて二けた勝利を挙げ、内容にも安定感があった。2007(平成19)年には春季キャンプで足を痛め、その後肩痛も発症して2勝3敗と低迷したが、翌2008(平成20)年は13勝9敗、防御率3.20と復活する。 ところがその2009(平成21)年に8勝12敗と負け越すと 翌年から2012(平成24)年までの3年間は2勝・0勝・3勝と勝ち星が上がらない 主に先発投手として投げているが、成績は低迷してしまう。 2013(平成25)年から中継ぎに配置転換されると、4勝2敗1セーブ23ホールドと結果を出し再ブレイク。2016(平成28)年までの4年間は毎年50試合以上に登板し、計72ホールドを記録する。チームの最年長選手となった2017(平成29)年、チームの若手起用方針のためファームスタートとなり 好投はするものの夏になっても一軍からのお呼びはかからず、9月5日ウェスタン中日戦で1イニングを投げたが4失点し限界を実感、9月12日に現役引退を表明した。10月10日、中日とのシーズン最終戦が引退試合となり、公式戦で最後となる1イニングを投げたが石川にホームランを打たれている。通算成績は486試合77勝66敗11セーブ76ホールド、四死球350 奪三振822 1121回を投げ自責点444で防御率は3.56だった。 引退後は球団に残り、2018(平成30)年から2020(令和2)年まで二軍投手育成コーチ、2021(令和3)年から2年間は二軍投手コーチとして湯浅、村上、才木、浜地といった若手投手たちを鍛えている。2023(令和5)年から一軍投手コーチとなり、18年ぶりのリーグ優勝、38年ぶりの日本選手権制覇に、自らが育ててきた投手陣を率いて貢献した。西 勇輝 投手背番号「16」は、安藤の引退した翌年の2018(平成30)年には空き番となっている。そして2019(令和元)年からこの番号を受け継いだのが西勇輝だ。三重県菰野町出身で県立菰野高校では2年時からエースとなり、3年時には夏の選手権で甲子園の土を踏む。結果は1回戦敗退だったが評価は高かった。2008(平成20)年のドラフト会議ではオリックスから3位指名を受け入団する。ルーキーの2009(平成23)年の9月に早くも一軍に昇格し、3試合に登板している。勝敗とは関係なかったが、4イニングで打者13人に対して被安打0、2奪三振と内容は好く、将来が期待された。 2年目の2010(平成22)年は19試合に登板しているが18試合はリリーフ。31回2/3で31奪三振と能力の高さを見せている。3年目の2011(平成23)年にはローテーション投手として10勝を挙げ、チームの中心的存在になる。この年を含めて2018(平成30)年までの8年間で、二けた勝利を5回記録している。西はオリックス在籍10年間で74勝65敗の成績を残し、2018年のオフに国内FA権を行使する。タイガースのほかソフトバンク、DeNAが名乗りを上げて交渉に臨み、12月7日にタイガース入団が発表された。契約は4年10億円と推定された。 2019(令和元)年は援護がない中でチームトップの10勝8敗の成績で、9月には月間MVPも獲得している。2020(令和2)年は開幕投手に抜擢されるなどチーム投手陣の柱となり、11勝5敗、防御率2.26という好成績を挙げた。2021(令和3)年6勝9敗、2022(令和4)年9勝9敗、2023(令和5)年8勝5敗と二けた勝利からは遠ざかったものの要所での投球術は健在で、リーグ優勝、日本選手権制覇にも貢献した。まとめ 酒井さんははっきり言って在籍てしたのかどうか印象すらないわよね タイガースファンにとって知らないうちに来て知らないうちに出ていったって感じ 実績を見ると能力はあったんだけど出し切れずに終わってしまった投手と言えるかな?それでも写真残ってたよ! なんといってもドラフト1位でプロ入りしてるから移籍時には多少は期待されてたのかな? 結局ダメだったけど・・・ 安藤さんは好く貢献してくれた投手よね 剛腕という触れ込みだったけど そのイメージになったのはリリーフに回ってフォークボールを磨いてからかな 福原さんへつなぐセットアッパーとして大活躍だった印象が強いわね現役の西勇輝さんは一言で好投手!矢野監督時代の先発投手陣の中心として活躍してくれました 今年はもう一つ調子が上がらなかったけど 8勝を挙げてリーグ優勝や日本一にも貢献してくれたわ この投手はクイックや牽制それにフィールディングとどれをとってもそつがないのよこれで背番号「16」は終わりです 歴代13人が着けてるけど この背番号は比較的人数が少ないよね 三宅秀史さんが14年 上田次朗さんが10年 岡田彰布さんが14年 安藤優也さんが16年など 長く着けた人が多いからなのね次の「17」はどうでしょう?お楽しみに待っててね背番号17へ続く
2023年12月10日
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背番号16(その4)背番号16の第4回目ですいよいよ岡田監督の番だけど 背番号16は球団創設時からある番号なのに着けた選手は少ないのよ わりと長く着けた人がいるからね 残る選手は岡田監督を含めて5人なの と言うことで今回の紹介は2名です岡田彰布 内野手・外野手 岡田彰布の父親・勇郎さんは大阪・玉造で製紙工場を経営しており、阪神タイガース後援会の中心的人物でタニマチとして有名だったという。そういった関係で、岡田は毎試合のように甲子園で観戦し、1962(昭和37)年のリーグ優勝パレードで藤本監督の膝に抱かれたり、三宅秀史とキャッチボールをしたり、村山実の引退試合での肩慣らしの相手をしたりとタイガースやその選手たちと身近な関係にあった。この環境の中で、岡田少年はごく自然にタイガースファンとなり、将来は野球選手になってタイガースでプレーしたいと思いながら育っていく。 北陽高校では1年時にレギュラーとして夏の選手権に出場し、9打数3安打の記録が残っている。3年時に受けた早稲田大のセレクションでは15打数で14本塁打を放って周囲を驚かせた。早稲田大時代は田淵幸一の持っていたリーグ記録の通算22本に迫る20本塁打を記録するなど大活躍、リーグ戦通算88試合で309打数117安打81打点、打率は.371というハイレベルな成績を残している。この通算打点と通算打率は2023年現在もリーグ記録として破られていない。 1979(昭和54)年のドラフトの目玉となった岡田は、当然のように複数球団の指名競合が予想された。当時プリンスホテルが「意中の球団じゃなかった場合うちにこないか」と滑り止めになっていたが、岡田は「大丈夫、ボク当たりますから」と笑っていたという。そして実際に6球団が競合したドラフト会議での抽選はタイガースが引き当てている。これはもう生い立ちからしてタイガースに入る運命だったと言うほかない。背番号は憧れだった三宅秀史が着けていた「16」を希望し在籍14年間を通して着けている。 背番号については週刊ベースボールOn-Lineのコラムで岡田本人が次のように証言している。「入団時に「3」「5」「16」と3つの背番号を提示され、オレは迷わず「16」にした。いまではそれでよかったと思っているよ「16」を選んだ理由は三宅秀史さんの番号だから」 1年目の1980(昭和55)年、ブレーザー監督が自身の希望で獲得したデーブ・ヒルトンの起用にこだわり、なかなか岡田を使わなかったため「岡田騒動」が起こる。岡田は少年時代からサードで通してきたが掛布がいるため、セカンド、ファースト、外野の練習をさせられ、結局開幕はベンチ。一方ブレーザー監督の推すヒルトンはセカンドに固定されたが開幕から不調をかこう。それでも監督が使い続けるためファンのフラストレーションが爆発してしまった。 ファンの憎悪はヒルトンに向かい、ヒルトンの打席で「岡田コール」が巻き起こり、ヒルトンが球場を出ればものが飛んで来たり囲まれたりと恐怖を感じる事態になってますます調子を落としていく。見かねたフロントがブレーザー監督を呼んで話し合い、ようやく岡田を使うようになったが、今度はフロントがヒルトンに代わる外国人選手を監督に内緒でさがしはじめていることが発覚してブレーザーが激怒、辞任・退団する事態になった。これにより監督代理を中西コーチが務めることとなり、一連の騒動は終結する。 そういう中でも岡田は冷静だったようで、この年108試合に出てギリギリ規定打席をクリアし、376打数109安打54打点18本塁打、打率.290という成績を残して最優秀新人に選ばれた。ここから1991(平成3)年まで12年間で、怪我をした1983(昭和58)年を除いて100試合以上に出場しレギュラーを守ることになる。体格的には恵まれていなかった岡田は、プロに入ってからは毎年15~25本くらいが年間の本塁打数だった。その中で日本一に輝いた1985(昭和60)年だけは唯一30本を超え、35本を放っている。打率.342も生涯で最高、101打点も唯一の100点越えだった。これはチームの勢いが各選手の力を増幅させたと思うしかないだろう。 岡田は、バースや掛布が去ったあとの極度に弱体化したタイガースを真弓とともに支え続けていたが、亀山や新庄が頭角を現した1992(平成4)年から極端に衰えが目立ってきて、この年はホームランが2本しか打てなかった。翌1993(平成5)年の4月には自身の打席で亀山を代打に出される屈辱も味わう。その後代打専門に回って、シーズンの出場は42試合にとどまりホームランは1本だけに終わる。この状態を見て球団は引退を薦めたようだが、岡田は現役続行を希望して自由契約となりオリックスへ移籍していった。 オリックスでも力の衰えが隠せず、1年目の1994(平成6)年は53試合、最後の年となった1995(平成7)年は32試合に出ただけだった。この年はオリックスが10年ぶりにリーグ優勝して日本シリーズに出たが、岡田の出番はなく、現役を退く。1996(平成8)年3月26日のオリックスとタイガースのオープン戦が引退試合となった。通算成績は16年1639試合5496打数1520安打836打点247本塁打、打率.277である。引退後はオリックスに残って2年間二軍の助監督兼打撃コーチを務め、1998(平成10)年からタイガースに戻っている。タイガースでは二軍打撃コーチや二軍監督などを務めたのち、2004(平成16)年に星野監督のあとを受けて一軍監督に就任。1年目こそ4位だったが自らがファームで育てた選手たちが主力となったチームで2005(平成17)年にリーグ優勝。翌年からも2位、3位、2位と好成績を挙げている。しかし2008(平成20)年、一時は13ゲーム差をつけていた巨人に逆転優勝を許したことの責任を取って辞任した。2010(平成22)年から3年間はオリックスの一軍監督を務めたが5位、4位、6位と振るわず解任される。 2023年は15年ぶりにタイガースの一軍監督に復帰し18年ぶりのリーグ優勝、38年ぶりの日本選手権制覇を成し遂げた。山崎一玄(やまざきかずはる) 投手岡田がオリックスに移ったあと、背番号「16」を背負うことになるのは入団4年目の山崎一玄だった。山崎は静岡県静岡市出身で高校も静岡高校。高校時代に甲子園の土を踏むことはできなかったが、地元では常に上位を争う成績を残しており、プロからの評価は高かった。山崎は1990年のドラフト会議で3位指名されてタイガースに入団している。最初の背番号は「65」だった。 2年間はファームで育てられ、3年目の1993(平成5)年に初めて一軍登録される。この年は10月9日の広島戦に先発で初勝利を挙げるなど14試合に投げて2勝2敗1セーブ、防御率2.66と結果を出した。4年目の1994(平成6)年には岡田の着けていた背番号「16」に変え、24試合の登板のうち22試合に先発として起用された。 ローテーションに食い込んだ山崎は規定投球回数をクリアするとともに、2完封を含む7勝6敗1セーブ、防御率3.20の好成績を残す。甘いマスクで女性ファンからも人気が高かった。 大いなる飛躍が期待された5年目の1995(平成7)年は13試合の先発で2勝3敗、防御率3.79と落ち込み、翌年から2000(平成12)年までの5年間は、3勝、2勝、0勝、3勝、0勝と低迷が続いてしまう。2000年のオフに湯舟や北川とともに交換トレードで近鉄に移籍したが、2001(平成13)年も11試合で1勝しただけに終わり、翌年は一軍登録もないまま自由契約となった。その後タイガースに戻り2003(平成15)年から2017(平成29)年まで打撃投手を務めたのち退団した。通算成績は204試合20勝20敗3セーブ283奪三振、541回を投げて自責点222で、防御率は3.69である。まとめ タイガースファンのみなさんにとって岡田さんは 今更ごちゃごちゃ書かなくても「わかっとる」ってなりそうね 選手としても監督としてもタイガースに運命づけられたような人だから38年ぶりの日本一も当然かもしれないね そういう星の元に生まれてるんだよきっと!来年も頼むよ! 山崎さんについて 先代は凄く期待してたそうよ 高卒4年目で実績を挙げてこの先10年は主力投手としてやってくれそうにおもえたんだって それが1年だけだったのでガックリ ボールのキレはあるんだけど結構荒れ球で あまりスタミナもなかったみたい 残念ねその5に続く
2023年12月06日
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背番号16(その3)背番号16の第3回目です背番号16がようやくメジャーになる時が来ました 櫟さんのあとこの番号を着けたのは名三塁手と言われた三宅秀史さんよ 吉田義男さんとの三遊間は鉄壁を誇りタイガースの歴史に残るコンビと言われてるよね 「16」を14年間背負い続けた選手ですそのほか2名を紹介するけど そのうち上田次朗さんは「背番号15―3」で詳しく書いてるからそちらを見てね三宅秀史 内野手三宅は岡山県琴浦町(現倉敷市)の出身で、県立南海高校(現児島第一高校)当時はセカンドを守ることが多かった。チームのエースで大洋へ進んだ田代照勝を見に来ていたタイガースの青木一三スカウトが見つけ、入団契約を結ぶ。1年目の1953(昭和28)年は背番号「38」で、9月には早くも一軍に上がりセカンドとして26試合で起用されている。成績は58打数13安打7打点1本塁打7三振で、打率.224だった。2年目の1954(昭和29)年から背番号を「16」に替え、セカンドで58試合に出場しているが、84打数18安打6打点で打率.214と伸び悩んでいる。飛躍的に成長を見せたのはサードに抜擢された1955(昭和30)年だった。この年は126試合に出場、385打数95安打3本塁打、打率.247を記録し、初めて二けたの18盗塁を決めた。盗塁はこの年から8年連続で二けたを記録し、ピークの1958(昭和33)年には35盗塁と俊足を武器にしている。三宅は当時のプロ野球界のだれもが「名手」と認めるサードの守備が最大の魅力だった。フットワークが素晴らしく打球に追いつくのが速いので難しい打球も正面で取ってオーバースローで送球するという基本に忠実なプレーができる。そのうえ地肩も強いため守備範囲は極めて広い。華麗さはないが、これほど信頼できる内野守備はほかに類がなく、当時読売の監督だった水原茂が「三宅の守備に比べたら長嶋のそれは素人」と発言しているほどである。同時期のショート吉田義男、セカンド鎌田実を合わせた鉄壁の内野陣は「試合前のシートノックだけで飯が食える」と言われるほど華麗な守備を誇り、この間をゴロで抜くのは容易ではなった。もう一つ三宅が後世に影響を与えたのは連続出場記録だろう。1957(昭和32)年から1961(昭和36)年は5年連続全試合に出場している。1962(昭和37)9月5日まで、882試合連続出場と700試合連続全イニング出場を継続していたが、9月6日の試合前の練習中に悲劇が起きる。この日、外野でキャッチボールをしていた小山正明の投げたボールがそれて三宅の左眼に当たり、虹彩分離の重傷を負ってしまった。1.5だった視力は0.1まで落ちて回復することはなく、事実上選手生命を絶たれた。三宅の連続試合出場は、のちに衣笠や金本、鳥谷などに抜かれていくが、こういう記録の価値が評価されるきっかけとなったことで、三宅は「元祖鉄人」などと呼ばれることが多いし、眼の負傷が無かったら追い越すのが困難な数字まで伸ばしていたかもしれない。次の写真は記録更新の金本に花束を渡す三宅さん。 負傷後も復帰して1967(昭和42)年まで現役を続けたが5年間で29安打に終わり、現役を引退した。『哀愁のサード 三宅秀史』(平岡泰博著)によれば、平岡の「野球人生に悔いはあるか?」という問いに、三宅は「……あのね、大ありや」と答えている。1966(昭和41)年に現役コーチ兼任になっており、引退後も1970(昭和45)年まで引き続きコーチを務めた。 通算成績は1219試合3894打数1553安打376打点100本塁打199盗塁、打率.252である。打率はさほど高くなかったが、1958(昭和33)年に21本塁打を記録しているように長打もあり、同僚だった小山正明は「打球の鋭さは一級品」と評価している。背番号「16」を14年間着けた。平山英雄 投手平山は北海道釧路市出身の右投げ本格派の投手。釧路江南高校3年次に夏の甲子園に出場し、一回戦敗退ではあったが将来性を認められて1966(昭和41)年の一次ドラフト2位でタイガースに入団し、1年目は背番号「31」を着けた。ちなみにこの時のドラフト1位は江夏豊である。入団時には江夏より評価が高く、1年目の1967(昭和42)年には江夏より先に一軍へ上がり、4月13日の大洋戦でデビューを果たした。4月25日には初先発もしているが、1年目は7試合登板で0勝1敗、防御率5.40に終わっている。江夏のほうも平山と同じ4月13日の大洋戦でデビューしているが、こちらは1年目から12勝を挙げて平山を圧倒した。1968(昭和43)年、前年に引退した三宅の「16」番を受け継いで飛躍を目指すが一軍出場なし。翌1969(昭和44)年も1年間二軍暮らしが続いている。1970(昭和45)年、ようやく一軍登板の機会がありプロ初勝利を挙げたが登板はこの1試合のみ。翌1971(昭和46)年も一軍登板は3試合しか無く、この年は未勝利に終わっている。1972(昭和47)年は背番号「16」を上田次朗に譲って「30」を着け、1年間中継ぎとして一軍に定着して7勝4敗、防御率3.07とプロ入り後初めてまともな数字を残した。この年、村山実の引退試合で、入場する村山を担ぐ中の一人に 背番号「30」の平山がいる。しかし翌年からまた二軍生活に戻り、1974(昭和49)年のオフに交換トレードでロッテオリオンズへ移籍していく。ロッテでは出場機会がないまま、1975(昭和50)年限りで現役を退いた。上田次朗 投手(再掲)上田は1970(昭和45)年、ルーキーとして平山から「16」を受け継ぎ、1979(昭和54)年まで10年間背負った。トレードで南海に行き、タイガースに復帰した1982(昭和57)年に「15」を着け、その年を最後に引退している。本来は背番号「16」で紹介したいところだが、登場番号順で進めてきているため、わずか数か月しか着けなかった「15」のほうで紹介してしまっている。詳細については「背番号15-3」を参照していただきたい。(タイガース背番号史 15-3 | タイガース非公式サイト2代目 - 楽天ブログ (rakuten.co.jp))まとめ 三宅さんは怪我が無かったら連続記録ももっと伸びて歴史的な大選手になってたかもしれないね それでも超一流の守備では名を残してます 致命的な眼の負傷が無ければ 永久欠番になってたかもしれないわね現在の岡田監督はまだ幼稚園児だったころに三宅さんとキャッチボールをしたことがあるのよ 三宅さんに憧れて三塁手を志したんだって! しかも現役時代には同じ「16」を着けてるよね 三宅さんの着けた番号だったから入団時に希望したんだよ その辺は次回で詳しく出てくるよ平山さんは先代も「記憶に無いなあ」って言ってる 特に大きな故障や怪我があったという記録も見つからないから 実力が無かったというほかないかな上田さんは「15-3」で詳しく記載してるから省略しました 次回は背番号16の4回目になるけど この上田さんのあと「16」を受け継いだのが岡田監督よ!その4に続く
2023年12月04日
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背番号16(その2)背番号16の第2回目ですさあ今回も「へーっ!聞いたこともないよ」って感じの選手が次々出てくるよ 「ホントにいたの?」と言う人が多いんだけど 在籍期間の短い人もいるし遠い昔のことだからわかんなくて当然だよね新鮮な気持ちで読んでみてね溝部武夫(みぞべたけお、旧姓中田) 投手溝部は奈良県出身、旧制郡山中学にはエースとして1933(昭和8)年に奈良県初の甲子園出場に導く地元のスター選手だった。このとき溝部を指導したのが後にタイガースの二代目監督となる石本秀一。当時まだ職業野球が発足していない時代で、石本は中等野球の有能な指導者だった。1937(昭和12)年 溝部は阪急軍に入団する。1年目は春秋合わせて29試合に登板し、8勝11敗56奪三振、162回1/3で自責点50、防御率2.77という成績を残す。ところが2年目となるはずの1938(昭和13)年早々に応召されて3年間兵役に就くことになる。1941(昭和16)年に阪急軍に復帰したが9試合で1勝2敗。翌1942(昭和17)年も7試合で2勝2敗に終わっている。1943(昭和18)年にようやく本来の力を発揮して22試合に登板したが、防御率2.22にもかかわらず勝ち運に恵まれず5勝10敗と負け越した。そしてまた2度目の応召を受けて戦地へおもむき終戦まで軍務についた。戦争が終わり1946(昭和21)年に阪急ブレーブスに復帰し18試合で6勝3敗と好投した。しかし翌1947(昭和22)年は勝ち星がなく、4月20日のタイガース戦では4人連続押し出しフォアボールという今も破られない珍記録を作っている。このシーズン終了後にタイガースへ移籍した。1948(昭和23)年、前年まで武智の着けていた背番号「16」を引き継いだが、わずか8試合の登板で0勝0敗、防御率6.88と精彩を欠き、シーズン途中で引退した。引退後は社会人の大丸へ所属し、1949(昭和24)~1950(昭和25)年に2年連続で都市対抗本戦に出場している。中田金一 捕手・内野手・外野手大阪府の出身で日新商業時代の1938(昭和13)年には一塁手として選抜大会で甲子園に出場している。この年に捕手としてタイガースと契約し、当初は背番号「35」を着けた。163センチと当時としても小柄な選手。お笑い芸人のように面白い人でチームの人気者だった。主将や監督として時代を共にした松木謙治郎が「笑いすぎて横腹が痛くなるほど」と著書に書いており、「彼は道を間違えた」と言われてからかわれたという。 次の写真の一番右の眼鏡の選手が中田金一。その左の小さい人物はグラウンドボーイなので間違えないように! 1年目となる1939(昭和14)年は11試合9打数1安打1打点に終わったが、2年目の1940(昭和15)年は64試合に出場しており、157打数35安打14打点1本塁打の数字を残す。 1941(昭和16)年は24試合と出場が減り、翌1942(昭和17)年に応召されて満洲方面へ出征。戦後も1948(昭和23)年までシベリアに抑留されて辛酸をなめた。 帰国した1948年10月に背番号「16」でタイガースに復帰したが出場は1試合のみ。1949(昭和24)年が2試合、1950(昭和25)年は背番号を「23」に変えたが4試合の出場に終わり引退している。 出場106試合211打数43安打1本塁打15打点1盗塁32三振、打率.204が通算成績である。 引退後はセリーグの審判員になった。櫟 信平(いちいしんぺい) 内野手 京都府京都市出身で京都三商から同志社商を経て同志社大学へ進む。大学リーグでは3季連続で首位打者になったこともある左打ちの好打者だった。 1949(昭和24)年に東映フライヤーズに入団。1年目は99試合259打数62安打42打点8本塁打で打率.239の成績を残す。 しかし1950(昭和25)年、内容は不明だが当時の同僚で国民的なスターだった大下弘とトラブルとなり、その確執から移籍を希望して大阪タイガースへ移籍する。ちょうど2リーグ分裂の時期で球界も相当混乱していた。 タイガースでは中田金一から背番号「16」を譲られ、1年目は109試合282打数70安打48打点11本塁打、打率.248の成績だった。 翌1951(昭和26)年も105試合に出ており、309打数74安打35打点6本塁打で打率.239を記録している。 しかし、1952(昭和27)年に胸部疾患が発見されて入院し出場なしに終わり、1953(昭和28)年にそのまま引退している。 1960(昭和35)年に打撃コーチとしてタイガースへ復帰。のちにスカウトとして掛布雅之を担当し、入団後は打撃コーチとして指導もしている。まとめ 溝部さんと中田さんは戦争の大きな犠牲者ね 2人ともまともにプレーできた時期が短くてホントに気の毒だったとおもう 中田さんなんて戦争終わったあと3年もシベリアに残されて大切な時間を奪われてしまったのよ!その間は練習すらできなかったから技術はどんどん落ちていくし櫟さんは強打者だったけど鈍足で守備は一塁ぐらいしかできなかったらしいよ 多分結核だったみたいで引退してるけど やっぱり未練があったのか 打撃コーチとなった1960(昭和35)年は現役復帰をめざして春のキャンプでバッティング練習を始めたんだって!でも結局は当時の金田正泰監督に駄目出しされてやめたみたい・・・その3に続く
2023年12月01日
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背番号16(その1)背番号16の第1回目ですこの番号も球団創立の昭和11年から着けられてるけど 投手野手の区別なくいろんな人が着けた番号なのよ 現監督の岡田彰布さんも現役時代に着けてたのは多くの方がご存じよね名選手と言われた人もいればほんのちょっとしか着けなかった人もいるし なかなか波乱万丈の番号かもね平桝敏男(ひらますとしお) 外野手平桝は広島県広陵中学(現広陵高校)出身で1929(昭和4)年に選抜大会に出て準優勝を経験、その後慶應義塾大学を経て1935(昭和10)年、球団創設期にタイガースへ入団している。背番号は「16」。初めてリーグ戦が行われた1936(昭和11)年、平桝は俊足巧打の外野手としてセンターを守り、打順はトップバッターだった。闘争心あふれる攻撃的な守備が売り物で、ワンバウンドしそうな打球をダイビングキャッチで捕球して前転するスーパープレーは見るものを楽しませたという。その平桝が5月1日の阪急戦で致命的な落球を犯し、「ライバル阪急にだけは敗けるな!」という阪神電鉄の厳命があったために森監督の更迭につながったのは皮肉である。1年目は春秋あわせて42試合に出場し、147打数39安打17打点17盗塁、本塁打はなく打率.265だった。しかし、この時代の例によって平桝も戦争の犠牲となる。1937(昭和12)年に陸軍に応召されると4年間も兵役を務めることになり大きなブランクができてしまう。1941(昭和16)年に除隊となってタイガースに復帰するものの成績は振るわず、19試合38打数8安打1打点1盗塁で打率.211という数字しか残せなかった。そして再び応召されて終戦まで軍に所属することになる。1946(昭和21)年、広島のノンプロチーム鯉城園で野球に復帰し都市対抗に出場するが、大日本土木に敗れ準優勝に終わった。その後もアマチュアで野球を続け、1950(昭和25)年にも都市対抗に出ている。野球から身を引いた後は広島で飲食店を経営していたが1971年に亡くなった。前川正義 捕手・内野手前川は愛知県の東邦商業(現東邦高校)出身。1940(昭和15)年の春夏甲子園に三塁手として出場し春はベスト4、夏はベスト8。翌1941(昭和16)年の春選抜では全国制覇している。1941年は戦火のため夏の大会は中止となり、東邦を卒業すると1942(昭和17)年にタイガースへ入団し背番号「16」を引き継いだが、当時は捕手・内野陣ともに層が厚く、前川はたった5試合の出場にとどまる。そして同年中に軍に応召されてその後戦死してしまう。没年や戦死の状況などは不明で、タイガースに在籍中は1打数0安打1三振、打率.000という数字を残しただけだった。改めて戦争というものの非情さを感じる前川の一生である。武智 修 内野手・投手愛媛県松山市出身で名門松山商業時代には投手として活躍した。1943(昭和18)年にタイガースへ入団。背番号は前川の応召で空いていた「16」番を着ける。1年目は69試合で177打数29安打6打点、打率は.164と低く、前川の稿でも書いたが層の厚いタイガース内野陣に食い込むのは容易ではなかった。1944(昭和19)年には野手としては33試合の出場にとどまり、出場機会を得るため投手としても試合に出た。3試合に投げて2勝1敗、防御率1.08の数字を残している。戦争激化による中断を経て1946(昭和21)年に復帰すると、1947(昭和22)年には野手として53試合147打数35安打10打点で打率.238を記録するとともに、投手として20試合に投げて6勝5敗、防御率2.21と二刀流で活躍する。しかし「もっと試合に出たい」という気持ちが強く、1948(昭和23)年にはタイガースを退団して金星に移籍してしまう。さらに1949(昭和24)は阪急に移籍するが1950(昭和25)年には広島に移って1952(昭和27)年までプレーした。1953(昭和28)年から1957(昭和32)年は近鉄でレギュラーとなっている。通算成績は打者として1142試合3868打数987安打432打点26本塁打138盗塁、打率255。投手としては実働4シーズンで59試合18勝16敗44奪三振、321回1/3を投げ防御率3.47だった。 引退後は、母校松山商業を甲子園に導いた実績も残す。1985(昭和60)年11月20日に逝去。まとめ 3人とも戦前の入団で そのうち前川さんは戦死してしまってるのね あとの2人も戦争の空白があって 平桝さんはプロへ復帰できなかった 武智さんだけが戦後もプロに復帰してかなり活躍してるのね 平桝さんは写真は無いけど創設時のメンバーとして記事に載ってます 当然と言えば当然だけど前川さんの写真は残ってないわ 武智さんもタイガース在籍のものは無く広島時代の写真ね プロ野球が発足して5年ほどで戦争が激化してしまって大変な時期に当たった人はホントに不幸としか言いようがない 今の選手たちは安心安全な環境で幸せだわ こういう先人たちがいたってことを知るべきだとおもう きっと練習やプレーに対する考え方が変わってくるはずよその2に続く
2023年11月28日
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背番号15(その6)背番号15の最終回ですあまり良い番号でなくなっていた「15」は前回の湯舟投手でちょっと盛り返したけど後が続かなかったね・・・今回は直近の3人を掲載するけど はやくみんなが「好い番号」と認識できるような背番号になってほしいな! 西純矢投手がんばって!藤原正典 投手水田圭介がわずか半年で返上した「15」を翌年から引き継いだのは藤原正典投手。岐阜県揖斐郡揖斐川町出身で高校は名門・県立岐阜商業。高校時代は甲子園でのベンチ入りを経験したが試合には出ていない。卒業後は立命館大に進み、3年春に3連続完封を記録するなど最優秀防御率投手となって頭角を現す。4年春は故障のため登板はできなかったが、秋は最優秀投手でベストナインに選出されており、リーグ通算32試合16勝4敗192奪三振、防御率1.48の好成績を残している。 2009(平成11)年のドラフト会議ではタイガースが2位で指名し入団、背番号「15」を継承した。 貴重な左投げとして期待されての入団だが、肘から先が遅れて出てくるスリークォーター気味のフォームでボールの出所が見えにくい利点があった半面、一見して肘を壊しやすいのではないか・・・という投げ方でもあった。実際にボーイズ時代から高校や大学でも何度も痛めているという不安を抱えていた。 1年目の2010(平成22)年の6月に一軍デビューすると、24試合すべてリリーフ登板で1勝0敗1ホールド、防御率3.60と結果を残し、翌年の飛躍も期待された。 しかし2011(平成23)年はファームでも成績が伸びず、終盤に一軍登録されて19試合(すべて中継ぎ)に登板して3ホールドを記録したものの、進歩が感じられなかった。 2012(平成24)年から2013(平成25)年はファームでも防御率が5点台と低迷しており、肘・肩の状態がかなり悪かったようで一軍でも未勝利に終わる。球速は140キロ台半ばまで出ていたので地肩は強かったが投げ方が悪かったと言わざるを得ない。 そして2014(平成26)年は一軍登録すらされず、2015(平成27)年には背番号を「42」に変えたが結果にはつながらず、前年に続いてまた一軍に上がれなかった。 この様子を見た球団は育成契約を打診する。藤原はこれを拒否してタイガースを退団、自由契約選手となりトライアウトを受ける道を選んだ。しかし獲得する球団はなく引退に追い込まれている。横山雄哉 投手山形県東村山郡中山町出身。山形中央高校2年時に春夏甲子園に出場したがいずれも初戦敗退。しかし地元では「菊池雄星二世」と評判の高い本格派サウスポーとして知られていた。高校3年時にプロ志望届を出したが、2011(平成23)年のドラフト会議ではどこからも指名されなかった。しかし社会人新日鐵住金鹿島へ入社するとグングンとスピードが上がり、高校時代より10キロ以上も速くなっていく。2014(平成26)年の都市対抗では5者連続三振を奪う快投を見せ、最速は151キロに達していた。この年のドラフト会議でタイガースが1巡目に指名し、「15」を背負う5人目のドラ1選手になる。 しかしプロ1年目の2015(平成27)年春季キャンプの初日に左胸関節炎を発症して出遅れ、一軍では4試合登板に終わっている。さらに秋季キャンプで右足を骨折して手術するなど散々な年になった。2年目の2016(平成28)年5月にプロ初勝利を含む2勝を挙げたが肩痛を発症して登録を抹消され、その後のシーズンを棒に振る。しかし1年目は13回1/3で12個、2年目は15回1/3で16個と三振を奪う能力の片りんを見せているだけに、怪我さえなければ・・・と周囲は3年目の飛躍に期待をかけた。ところが2017(平成29)年は4月に1勝しただけで終わり、2018(平成30)年は肩のクリーニング手術を受けて11月には育成契約となり背番号も「115」になってしまう。 さらに2019(令和元)年もファームでの7試合登板のみと思ったように結果が残せていない。2020(令和2)年は育成選手としては球団初となる春季キャンプ一軍でスタートし、秋には支配下選手契約を勝ち取って背番号「91」となったのだが、結局は11月に戦力外通告。 2021(令和3)年から球団職員に転じたのちに退社、現在は一般の会社に勤めている。西 純矢 投手広島県廿日市出身で高校は岡山県の創志学園。2年時の夏の選手権1回戦で16奪三振の完封勝利を演じて注目を集める(2回戦敗退)。3年時は甲子園出場を逃したものの、第29回 WBSC U-18ベースボールワールドカップ代表に選ばれ、3試合に登板して相手に立ち向かっていくマウンドさばきが好評価を得た。また打っても12打数6安打9打点と大暴れ。南アフリカ戦で2本塁打を放ったことで本塁打王も獲得している。事実、高校通算25本塁打のスラッガーでもある。2019(令和元)年のドラフト会議でタイガースは星稜高校の奥川恭伸投手を指名したが抽選に敗れ、改めて西を指名して獲得する。西は横山が育成選手になってから1年間空き番だった「15」を継承し、この番号を着ける6人目のドラフト1位選手となった。 球団は西をじっくり育てる方針で、1年目の2020(令和2)年は一軍登録していない。もっぱらファームで基礎体力作りやフォーム固めに専念させており、登板も11試合にとどまる。ただしチームトップタイの4勝を挙げているのはさすがだ。2年目の2021(令和3)年、5月19日のヤクルト戦で一軍にデビューすると、5回無安打1奪三振で無失点の好投を見せてプロ初勝利を飾る。その後6月に1試合に先発したが3回3失点でノックアウトされ、1年目は2試合1勝1敗2奪三振、自責点3、防御率3.38の成績に終わった。 西は続く3年目の2022(令和4)年に飛躍を見せる。藤浪晋太郎や伊藤将司がコロナ感染で離脱した5月に一軍昇格すると14試合(内13先発)に登板して6勝3敗と結果を残す。77回1/3で60三振を奪い、自責点23、防御率2.68と内容も好かった。 5月18日のヤクルト戦ではスタメン8番に起用され、第1打席でプロ初ホームランも記録している。打撃に関しては評論家の福本豊が「タイミングの取り方がいい。打撃力のない内野手よりは上」と評価している。 4年目の2023(令和5)年は17試合13先発で5勝2敗、72回1/3で45奪三振、自責点31の防御率3.86だった。3年目に比べ伸び悩んだようにも見えるが、安藤コーチの指導によりクイックやコントロールが改善されて来ている。来シーズンこそは時速155キロを誇る速球を武器に、1年を通じて結果を出してほしい投手だ。まとめ ここでお詫びです第3回目の谷村さんの紹介のときに、タイガースには「15」を着けたドラフト1位が5人いるって書いちゃったのね(記事はすでに訂正しました)ところが 谷村さん 嶋田さん 湯舟さん 藤田さん 横山さん 西純矢君の6人が正しかったのよ改めて訂正してお詫びしますさて藤原投手の出身地は2代目の地元に近いのよ 知り合いにはボーイズ時代に藤原投手を指導した人がいるんだけど、当時は周囲がびっくりするボールを投げてて同年代の子はまったく打てなかったそうよ プロに入るくらいの子はそいうものなんだろうね横山投手は素材としては一級品だったとおもうんだけどなあ 結局ケガに負けたってことかな こうしてプロを去っていく人も多いわね これも運命というものかしら・・・純矢君はタイガース期待の星!力投するタイプだからクイックやコントロールの面には不安があるよね これは精度を上げて磨いていくしかないよ ひとつづつ着実に階段を昇って行ってほしい!こうしてみると「15」は明らかに投手が着ける番号として定着してきてるわね 今後最低10年は純矢君が背負ってくれると期待して「15」の紹介は終了しますみなさん読んでくれてありがとう 次は「16」に進みますね
2023年11月23日
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背番号15(その5)背番号15の第5回目です前回の3人で暗雲が垂れ込めた背番号「15」 今回は2人のドラフト1位ルーキーが背負うことになるんだけどわかる?はい一人目は湯舟敏郎さんだよね この人のおかげでグッと盛り返したんだけど その後を受けるのも話題性のあるドラ1ルーキーだったのよ ところが・・・湯舟敏郎 投手鶴見信彦がトレードされたあとを受けて「15」を引き継いだのは1990(平成2)年の湯舟敏郎投手。「15」を着けた3人目のドラフト1位選手となった。大阪府貝塚市出身で興国高校ではおもに外野手としてプレー。奈良産業大学へ進んで投手に転向し1989(平成元)年に本田技研鈴鹿に入社。安定したピッチングが評価されて2年連続で全日本代表入りしてドラフト候補となる。1990(平成2)年のドラフト会議では大学ナンバーワン左腕の亜細亜大・小池秀郎に8球団が競合する。小池の抽選に敗れたタイガースは外れ1位で湯舟を指名し獲得している。ルーキーの1991(平成3)年は23試合5勝11敗で防御率は4.66。もともと球威やスピードがずば抜けているわけではなく、制球とキレで勝負するだけに駆け引きを身につけるまでは打たれることが多かった。2年目の1992(平成4)年になるとプロの水にも慣れ、11勝8敗で防御率2.82の好成績を残し、6月と9月には月間MVPに選ばれるなど優勝争いに貢献している。完投が7試合あり4つの完封勝利が光る。6月14日の広島14回戦ではノーヒットノーランを達成。タイガースでは1973年の江夏以来の快挙だった。1993(平成5)年も自己最多の12勝6敗と貢献し、エース級の存在になる。この2年間は投球回数に近い数の三振を奪っており、キレ・制球ともに抜群で安定感があった。しかし1994(平成6)年から3年間は大きく負け越してしまう。暗黒時代を極めるタイガースの貧打が投手陣の足を引っ張り、湯舟は1994年が5勝7敗、1995(平成7)年には5勝13敗(リーグ最多敗戦)、1996(平成8)年は5勝14敗(リーグ最多敗戦)とモロに被害を被った。 1997(平成9)年に吉田義男が3度目の監督に就任し、湯舟も久しぶりに10勝6敗、防御率3.56と息を吹き貸したが、これが最後の二けた勝利となった。 1998(平成10)年は4月のヤクルト戦でのファースト交錯プレーで足を痛めてわずか1勝に終わり、調整不足から翌1999(平成11)年も同じく1勝どまりだった。 2000(平成12)年は2完封を含む4勝を挙げてやや復調しているが、オフには戦力外とみなされ、3対3の交換トレードで近鉄バファローズに移籍することになった。 近鉄に移った2001(平成13)年もシーズン初めに故障し、その影響でリリーフに配置換えされる。リリーフで36試合に登板したが結局1勝に終わり、シーズン終了後に現役を退いた。 通算成績は257試合60勝79敗3セーブ929奪三振、1182回1/3を投げて自責点524、防御率は3.99である。 2002(平成14)年にはタイガースに戻って二軍の投手コーチに就任するがなぜか1年で退団。評論家生活を経て2012年から3年間、再び二軍投手コーチを務めている。藤田太陽 投手 秋田県秋田市出身で、県立新屋高校2年時に外野手から投手に転向している。高校時代は目立った実績がないがプロからはチェックされており、1998(平成10)年に社会人川崎製鉄千葉に入社してから頭角を現す。 1999(平成11)年には第14回IBAFインターコンチネンタルカップ日本代表に選出され、大会では150キロのストレート主体のピッチングで最優秀防御率賞を獲得して一躍ドラフト上位候補になった。 2000(平成12)年、藤田をめぐってタイガースと読売が最後まで争奪戦を繰り広げる。このとき掛布は少年期から好く知る中央大学の阿部慎之助(掛布と阿部の父親は習志野高校時代の同期でチームメイト)を球団に推薦していたが、タイガースは逆指名枠で藤田を獲得、阿部は読売を逆指名することになる。 阿部は少年期から父親の同級生である掛布の大ファンで、当然タイガースファン。掛布から「大学に進めば逆指名できるぞ」とアドバイスを受け父親と同じ中央大学に進んでいた。タイガースが声をかければ100パーセントOKであったと掛布は述懐している。運命とは恐ろしい。 藤田は湯舟から背番号を引き継いで、「15」を着けた4人目のドラフト1位選手となったが、2000年にすでに肩を壊していた。また独特の二段モーションが酷評されて、野村監督の指示により春季キャンプで散々フォームをいじられた挙句、フォーム固めのためと称する投げ込みを強いられ肘に炎症を起こしてしまう。 結局ルーキーの2001(平成13)年のシーズンは、わずか3試合の登板で0勝1敗、防御率14.73の成績に終わり、タイガースファンの大きな期待は完全に裏切られた。 2002(平成14)年は右足肉離れ、2003(平成15)年は右ひじ靭帯の損傷と手術、2004(平成16)年は登録名を「太陽」に変えたが1年間リハビリ。怪我に泣かされドラフト1位の面影はまったくなくなった。 2007(平成19)年にはフォームをスリークォーターへ、2008(平成20)年にはサイドスローへと変えてみたが結果は出ず、2009(平成21)年7月11日、水田圭介との1対1の交換トレードにより西武ライオンズに移籍する。タイガースでは7年半で5勝9敗の成績しか残せなかった。 西武では2012(平成24)年までプレーしているが、おもに中継ぎで起用され3年半で8勝5敗3セーブ23ホールドの成績を残して戦力外となる。 2013(平成25)年はヤクルトスワローズに獲得されてプレーし、リリーフで20試合1セーブ1ホールドを記録したが、1年で戦力外となり引退。 現在は社会人チーム「ロキテクノ富山」の監督を務めている。水田圭介 内野手・外野手 大阪府大阪市出身で、大阪桐蔭高校時代には通算55本塁打を記録したスラッガー。社会人プリンスホテルに進み2000(平成12)年のドラフト会議で西武ライオンズから7位指名を受け入団。 しかし西武時代はなかなか芽が出ず、2008(平成20)年までの8年間で公式戦111試合の出場にとどまる。毎年少しだけ1軍に上がるもののすぐに降格されるという繰り返しで、大半の時間をファームで過ごしている。2009(平成11)年も前半で7試合の出場にとどまっており、7月11日に前述のとおり藤田太陽とのトレードが成立してタイガースに移籍し、藤田から背番号「15」を継承した。しかしこの年はタイガースでも12試合にしか出ておらず、5打数0安打1三振2盗塁の成績を残すのみだ。 2010(平成22)年、背番号を「32」に変えてみたが、一軍公式戦の出場がないままに終わり、12月24日に新井良太とのトレードで中日ドラゴンズへ移籍していった。 中日に移った2001(平成23)年のシーズンは14試合15打数2安打と戦力になれずオフには戦力外、自由契約となってヤクルトスワローズと契約する。 ヤクルトでは2年間で7試合に出場したのみ。2013(平成25)年のオフに戦力外となり引退。高校通算55本のスラッガーも、プロ13年の通算で2本塁打と振るわず仕舞いだった。まとめ 湯舟さんは暗黒時代にあってよく頑張ってくれた投手よね 先代は甲子園でよく湯舟さんが投げるのを見たそうで(暗黒時代はせいぜい1~2万人しかお客さんが観に来てなかったので当日券でほいほい好い席が買えたそうよ)スピードは平凡だけどコントロールが好くてキレのあるボールを投げてたってただし調子が悪い日はポカスカ打たれてしまうこともあって二面性を持った投手だったみたいね 藤田太陽さんは鳴り物入りで入ったけど 潰れたと言うか潰されたというか 不遇なプロ生活を送ってる そもそも「入る前に壊れてた」って話もあるしなあタイガースにとっては読売の阿部選手との比較で貧乏くじ引いたって言われます 当時球団の「掛布嫌い」は相当なもので アドバイスを聞かなかったために大魚を逃した感じよね 素直に掛布さんの言う通り阿部選手に本気だしてれば全く違ってたのにとおもう・・・3人目の水田さんは ほとんどの人が「いたっけ?」となる選手かも 水田さんのおかげで新井良太選手が獲得できたってことはあるんだけどねその6に続く
2023年11月21日
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背番号15(その4)背番号15の第4回目です背番号「15」は谷村さんが5年着けたあと 赤松一郎さんが2年ちょっとで故障し引退 そのあとの上田次朗さんもわずか数か月着けただけで引退 その翌年の1983(昭和58)年は誰も着けてないのね ちょっと危なっかしい番号になってきましたその後もこの番号はしばらく輝くことがなかったのよ この4回目では「15番」の黒歴史がつづいてます稲葉光雄 投手古くからのタイガースのコアなファンであっても、稲葉がタイガースに在籍したことを忘れてしまっているのではないか? 稲葉光雄は静岡県清水市出身、静岡県立清水工業高校から社会人の日本軽金属に進んでいる。1968(昭和43)年のドラフトでは広島から6位指名を受けるが拒否。1970(昭和45)年補強選手として大昭和製紙の優勝に貢献してドラフト2位で中日ドラゴンズへ入団している。 プロ野球の投手と思えない174センチ67キロという小柄で華奢な体格だったが、ボールにはキレがあり、ルーキーの1971(昭和46)年にいきなり21試合に登板して6勝0敗、防御率1.06の好成績を挙げた。 2年目の1972(昭和47)年は周囲が驚く飛躍を見せる。38試合で20勝11敗、リーグトップの8完封勝利が光る。261回1/3を投げて防御率も2.76と素晴らしく、星野仙一を押しのけてエースの活躍だった。 しかしこの大車輪の活躍は、体格に恵まれない稲葉にとっては負担と疲労の積み重ねであり、翌1973(昭和48)年に6勝13敗と大きく負け越すと、29年振りに中日がリーグ優勝した1974(昭和49)年はひじを痛めてしまいわずか4勝と貢献できなかった。その後も7勝、3勝と低迷が続いたため1976(昭和51)年のオフに島谷金二、大隅正人とともに交換トレードで阪急ブレーブスへ放出される。ところが阪急に移った1977(昭和52)年に見事な復活を遂げる。ローテーションに組み込まれて30試合に登板、17勝6敗1セーブの好成績で防御率は2.45、勝率.739で最高勝率のタイトルも獲得した。 翌年からも10勝、11勝、5勝、11勝、7勝と貢献し、通算104勝のうち阪急時代に58勝を挙げている。しかし最後は衰えが目立ち戦力構想から外れた。 1984(昭和59)年、金銭トレードでタイガースに移籍、空き番だった「15」を着けたが、結局一軍の試合で投げることはなく引退。何のために獲得したのかわからないままタイガースを去った。 引退後は中日や日本ハムでコーチを務めるほか野球解説でも活躍したが、2012(平成24)年8月11日に63歳で亡くなった。嶋田章弘 投手和歌山県有田市出身。簑島高校2年時の1983(昭和58)年には吉井理人の控え投手として夏の選手権に出場、翌年はエースとして出場したが2回戦で敗退した。速球派の右腕投手として評価されたが、俊足で左打席でのバッティングも好く、いわゆる万能選手だった。1984(昭和59)年のドラフト会議では広島とタイガースが指名したため抽選となり、タイガースが交渉権を獲得し入団する。背番号は前年稲葉が着けていた「15」。この番号を着けた2人目のドラフト1位選手となった。また、同ドラフトでタイガースは社会人住友金属にいた実兄・嶋田宗彦を4位指名で獲得し、兄弟同時入団で話題になっている。 ルーキーイヤーの1985(昭和60)年8月にプロ一軍デビュー。この年は高卒1年目ながら10試合(先発3試合を含む)に登板しており、球団の期待のほどがうかがえる。9月15日の中日戦では8回までノーヒットに抑える快投も見せたが、この年は0勝0敗に終わる。 翌1986(昭和61)年は11試合に投げたが2敗、シーズン中に右肩を痛めてしまい、1987(昭和62)は登板なし。1988(昭和63)年にアメリカで手術を受け復活を目指すが、やはり一軍登録されるまでに至らず、オフには任意引退扱いとなる。 1989(平成元)年には背番号を「60」に替えたが、この年も翌1990(平成2)年も投手として復活することはできず、プロ6年目が終わる。 だがさすがにドラフト1位だけに球団も簡単に見捨てることはなく、1991(平成3)年にはもともと評価の高かったバッティングを生かして外野手転向に挑戦させ、一軍公式戦で27試合に出場し68打数15安打の成績を残す。しかし翌年はたった2試合でノーヒットに終わり、1993(平成5)年には59試合で158打数39安打を記録したものの、外野は新庄や亀山が台頭して居場所はなくなり、シーズンオフに米崎薫臣とのトレードで近鉄バファローズに放出されてしまった。 近鉄でも野手として登録されたが2年間で25試合33打数3安打の成績に終わり、1996(平成8)年には中日へ移籍。最後のチャンスだったがわずか4試合しか出場機会はなく、現役を退いた。引退後7年間中日に残ってスコアラーを務め、2004年にはタイガースに復帰して2023(令和5)年現在もチーフスコアラーとして貢献している。鶴見信彦 内野手 この選手を覚えている人がいたら相当なタイガース党ではないだろうか?ドラフト2位でありながらタイガースには2年間しか在籍していない。2年目のオフにトレードに出されるが、行った先は読売ジャイアンツという非常に珍しい経歴だ。タイガースと読売の直接選手交換によるトレードは鶴見以降は2023年現在まで例はない。 鶴見は神奈川県相模原市出身。向上高校では右投げ左打ちの遊撃手としてクリンナップで活躍し、三菱自動車川崎へ進む。社会人時代は怪我が多かったが、その広角打法が「篠塚二世」などと呼ばれるほど評価の高いショートストップだった 1988(昭和63)年のドラフト会議でタイガースが2位で指名するも、重要な戦力であるため三菱自動車側が移籍拒否を表明したため、他の指名選手が合同入団発表を済ませた後も交渉が難航する。最終的に鶴見は会社の慰留を振り切って自分の意思でタイガースと契約し、12月27日、たった一人の入団発表会見に臨んでいる。背番号は嶋田章弘から「15」を譲られた。 入団までに大変な騒動だった鶴見はプロでは全く振るわなかった。タイガースでの1年目1989(平成元)年は一軍登録されず、ウェスタン54試合で打率.221の10打点。1990(平成2)年も一軍に上がることなくウェスタンで36試合、打率.205の6打点という成績しか残っていない。この年のオフに読売との間で石井雅博との交換トレードが成立しジャイアンツに移籍した。しかし読売ではイースタンですら1試合しか使ってもらえず、1年で自由契約となって引退している。まとめ稲葉さんねえ・・・このころのタイガースを見ると1981(昭和56)年に高橋重行さん 1982(昭和57)年には永尾泰憲さん・上田次朗さん1983(昭和58)年は野村収さん 1984(昭和59)年が一番多くて稲葉光雄さんのほか弘田澄男さん・岡義朗さん・山内新一さん・太田幸司さん というように他球団で不要になったベテランを次々獲得してるのよ この傾向は1985(昭和60)年の長崎啓二さん、1986(昭和61)年の柏原純一さんなどと続くけどね 確かに活躍してくれる選手もいたけどその期間は短いし 役に立たない選手のほうが多いわ 稲葉さんなんて戦力になるとおもって獲得したのか怪しいよ? はっきり言って引退の花道を飾る球団になってるわ! 嶋田章弘さんは残念な選手だったみたいね 高校時代にトップクラスの大活躍はしてないけど高い将来性を評価されて1位指名になった選手ね ほかにも源五郎丸洋さん・安達智次郎さん・遠山昭治さんなんかがそんな感じね こういう未完の大器はなかなか育てるの難しいんだろうな・・・ 鶴見さんはなんて言ったらいいのか・・・大騒ぎしてタイガース入りした割に一軍登録すらないままトレードされて通算3年で引退って何だったの?三菱自動車の判断に従ってたほうが身のためだったような・・・さすがに一軍の試合に一度も出てないから写真は見つからないよその5へ続く
2023年11月15日
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背番号15(その3)背番号15の第3回目です背番号「15」は権藤さんの引退した翌年の1974(昭和49)年は空き番でした そして1975(昭和50)年には社会人からドラフト1位で入団して5年目を迎えた谷村智啓投手が着けることになります2023(令和5)年現在まで 背番号「15」は谷村さんを含め6人のドラフト1位が着けてるのよ しかも6人とも投手! パッと全員言える人は相当なタイガース通ねこの先順次出てくるからお楽しみに!現在の西純矢君もその一人っていうのはご存じよね?谷村智啓 投手谷村は兵庫県西宮市出身で高校は報徳高校。3年生だった夏の選手権では2試合連続完封勝利を記録してベスト8に進んだ好投手だった。関西学院大に進むと、リーグ戦60試合に登板し20勝25敗179奪三振、防御率1.67と言う成績を残す。1970(昭和45)年は社会人鐘淵化学でプレーし都市対抗で優秀選手賞を受賞、社会人ベストナインに選ばれた。同年のドラフト会議でタイガースが1位指名して入団、最初の背番号はエースナンバーと言われる「18」で4年間着け、1975(昭和50)年から「15」に替えて5年間着けることになる。タイプは軟投型で踊るような投げ方が特徴。配球だけでなく投球フォームの中にも変化をつけてタイミングを外す変幻自在の投法で、打者からボールが見えにくく球威の無さをカバーしていた。 1年目は24試合に登板し、先発が5試合、リリーフが19試合。1勝2敗で防御率3.43と平凡だった。 2年目の1972(昭和47)年に22試合に先発して11勝11敗、防御率もセ・リーグ2位の2.26とブレイクし、以後1977(昭和52)年まで毎年20試合以上に先発するローテーション投手となり、1975(昭和50)年に11勝、1976(昭和51)年に12勝と活躍している。 しかし先発をしつつも毎年10~20試合程度のリリーフ登板もこなしており、その割に球団の評価は今一つだったようだ。 1978(昭和53)年~1979(昭和54)年は2年続けて1勝どまりで、1979年オフに鈴木弘規との交換で阪急ブレーブスへ移籍した。 阪急では1年目に7勝を挙げて貢献したが、2年目からの5年間で9勝しかできず、1985(昭和60)年を最後に現役を退いた。 プロ通算成績は393試合72勝82敗5セーブ、奪三振512、1489回で自責点681、防御率は4.12だった。赤松一朗 投手福井県出身で、丸岡高校から福井工業大学に進み、卒業後は電電北陸へ入社。1979(昭和54)年には13年振りに電電北陸が都市対抗本戦へ進む原動力として活躍している。同年のドラフト会議でタイガースから2位指名を受けて入団。谷村が着けていた背番号「15」を引き継ぐ。右サイドハンドで鋭いシュートが持ち味で、即戦力と期待されたが簡単には芽が出ず、入団から3年目まで一軍での登板は無い。この間の1982(昭和57)年のシーズン途中に、南海からタイガースにもどってきた上田次朗に「15」を譲り、「49」に変更している。 4年目の1983(昭和58)年、大洋戦でのプロ初登板のときはすでに肘に異変が起きており、初球を投げた瞬間に肘の腱が切れ、打者に向かって投げたはずのボールは三塁側タイガースベンチに直接飛び込み これで投手生命は終わった。同年で引退、プロ通算2試合0勝0敗、防御率18.00。上田二郎(二郎・次朗) 投手上田の場合、本来は次の背番号「16」で紹介したいところだが、ここまで登場番号順で進めてきているので、わずか数か月しか着けなかった「15」で紹介することになる。和歌山県田辺市出身で南部高校から東海大学へ進む。首都大学リーグ通算では39勝5敗、奪三振393。39勝は現在もリーグ最多記録、393奪三振は当時リーグ最多だったが、のちにタイガース1位指名の益山性旭(帝京大)が450個を記録し破られる。1969(昭和44)年のドラフト会議でタイガースが1位指名し入団。背番号は「16」。同年は夏の甲子園で青森県の三沢高校・太田幸司投手が大フィーバーを巻き起こした年で、ドラフトの目玉もやはり太田だった。この年のドラフト会議の1位指名順は予備抽選を行って決まる方式で競合抽選はなく、中日が1番を引き谷沢健一(早大)を指名、阪神は2番目で上田を指名している。甲子園のアイドルとなった太田も選べる状況だったが、のちの成績を見れば上田を選んだのは正解といえる。(ただし太田は最晩年にタイガースに移籍し、タイガースを最後に引退している) 見た目には力感の無いサイドハンドだが、抜群の伸びのあるストレートを投げるのが特徴で、外角カーブ・スライダーとのコンビネーションによって三振を奪う能力も高かった。 プロ1年目の1970(昭和45)年は村山実が監督に就任した年で、ルーキーながら27試合に登板している。そのうち先発が19試合で7完投2完封、9勝8敗、敗防御率2.99の成績だった。 1971(昭和46)年は2年目のジンクスなのか1勝6敗と低迷したものの、1972(昭和47)年はまた9勝7敗と成績を持ち直している。 1973(昭和48)年、この年は最後までリーグ優勝を争って、マジック1で迎えた中日戦に敗れ、最終戦も巨人に負けて2位に甘んじたあの年だった。上田は金田監督の信頼のもとに、なんと35試合に先発!22勝14敗で防御率2.22という突然変異のような活躍を演じた。 金田監督は最終戦に上田を先発させたが、勝つか引分で優勝というこの試合で3イニング持たずに33球4失点でノックアウトされてしまい試合をぶち壊した。 1974(昭和49)年からの5年間も先発ローテーションを守ったが、7勝、9勝、12勝、8勝、3勝と平凡な投手になってしまう。 ブレイザー監督が就任した1979(昭和54)年は15試合に登板するも1度も先発はなく、このオフに戦力構想から外れて、金銭トレードで南海ホークスに移籍している。 南海でも6勝6敗、5勝9敗と大きな貢献ができず、1982(昭和57)年は出番がないまま過ごしていたところにタイガースが手を差し伸べ、シーズン途中にタイガースに戻った。背番号は赤松の着けていた「15」を引きついている。 しかしタイガースに戻っても1回の先発を含む8試合の登板で1勝1敗、防御率11.32と言う成績で引退することになった。 通算成績は361試合92勝101敗947奪三振、1646回2/3を投げて自責点が722、防御率3.95だった。 1983(昭和58)年からはコーチとして残り、日本一となった1985(昭和60)年は二軍投手コーチとしてチームを支えていた。 1995(平成7)年からはフロント入りし、2012(平成24)年に球団本部付部長を最後に退団している。まとめ先代の話だと谷村さんは球威は無いけどコントロールが好くて ローテ守ってたころは毎年10勝前後が計算できる投手で重宝されたそうよ チームが低迷した1979(昭和54)年のオフにチーム再編成のために戦力外となってトレードに出されたの 写真で見るとホントに面白い投げ方してるね!この年には谷村さんだけじゃなく 上田次朗さん 安仁屋宗八さんなど 功労者が一掃されてるわね 小津社長が就任した当時よね そして1980(昭和55)年に岡田彰布現監督が加わって日本一への土台作りが始まっていくのね赤松さんは上位指名だったけど力不足 最後は壊れてしまっての引退で 1勝もできずに終わったのは残念ね 公式戦は2試合しか投げてないからサインの写真しかなかったわ上田さんは有名ね 古いファンは好く知ってるとおもう 選手としてだけじゃなくコーチや球団経営面でも有能で 通算すると40年以上タイガースに在籍していたんだよ 背番号15は最後の数か月しか着けてないから「16」の写真しか残ってないようね その4に続く
2023年11月10日
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背番号15(その2)背番号15の第2回目です 日本シリーズも終わったのでボチボチ再開するね御園生崇男さんが退団したあと1959(昭和34)年~1960(昭和35)年は空き番となりますその後、3人目に「15」を着けた人が西山和良さんなんだけど 皆さん聞いたことある? タイガースに8年いた選手だよ西山和良 外野手西山は和歌山県伊都郡かつらぎ町の出身で、県立和歌山商では3年次に外野手として夏の選手権ベスト4。その後関西大学に進み、通算71試合で238打数66安打、打率.277、5本塁打を記録している。大学卒業後の1956(昭和31)年にタイガースへ入団。最初の背番号は「27」で、「15」は1961(昭和36)年から3年間着けている。 選手としては「控え」と呼ぶのにふさわしく、100試合以上出場した年はタイガースに在籍した8年のうちで1シーズンしかない。走・攻・守とも飛びぬけたものがない。アベレージヒッターでもパワーヒッターでもないし、盗塁はルーキーの年の年間7個が最多で、ホームランは3年目の7本が最多。プロ11年間の通算でも20盗塁、22本塁打にとどまる。1年目から公式戦に出ているが、出場試合数と打席数から見ると、スタメンと代打が半々くらいと想像できる。スタメンの場合は6番に入ることが多かったようだが、1960(昭和35)年にマイク・ソロムコが入団すると外野の一角に定着したため、スタメンの機会はほとんどなくなったようだ。実際にこの年から出場試合数と打席数の差がグッと小さくなる。1962(昭和37)年になると51試合で57打席、1963(昭和38)年も79試合で86打席となっており、ほぼ代打専門になってしまっている。この1963年のオフ、小山正明と山内一弘のトレードの陰で、金銭トレードによって東京オリオンズに移籍している。オリオンズでは3年間プレーしたが、やはり代打での起用がほとんどだった。1966(昭和41)年のシーズンを最後に現役引退。プロ11年間の通算記録は、771試合1170打数277安打121打点、22本塁打20盗塁で、打率は.237だった。引退後は1970(昭和45)年にタイガースへ戻り、一軍・二軍打撃コーチや二軍監督などを務めたのちにフロント入りし、最後は編成部長で退職している。レノ・ベルトイア 内野手西山のあと、1964(昭和39)年の1年間だけ背番号「15」を着けたのがレノ・ベルトイア。1962(昭和37)年にサードの三宅秀治がキャッチボール中の事故で左目を負傷して以降、タイガースはサードのレギュラーポジションに穴が開き、毎年のように誰かをあてがってみるが誰も固定できず、掛布雅之が定着するまでの間、10年以上も苦しむことになる。 そういう状況でサード候補としてデトロイト・タイガースから入団したのがベルトイアである。内野はどこでもこなすユーティリティプレーヤーだったが、打撃面は最悪で長打もなくアベレージも低くてとてもレギュラーで使えなかった。開幕当初20試合に使ってみたが、62打数10安打2打点1本塁打、打率は.244というお粗末な内容だったため早々に見切りをつけ、4月中で解雇という結果になった。権藤正利 投手佐賀県鳥栖市出身。幼少期の怪我で左手の人指しゆび先端の一部を欠損したことが後に「懸河のドロップ」と異名をとった落差の大きなキレのあるカーブを生んだと言われている。左投げで177センチ60キロの極端な細身。元オリックス〜阪神の星野伸之やソフトバンクの和田毅に似た感じの投手だ。柳川商業高校から1953(昭和28)年に大洋松竹ロビンスに入団した権藤は1年目から活躍する。35試合に登板しており、そのうち26試合は先発だった。高卒1年目にして222回2/3を投げ、15勝12敗、防御率2.77、170奪三振という素晴らしい成績を挙げて最優秀新人に選出されている。 ところが2年目の1954(昭和29)年は11勝20敗と大きく負け越している。防御率は2.83と悪くないのでチーム事情によるところが大きいが、3年目の1955(昭和30)年は最悪で3勝21敗と散々な成績になる。この3年間は毎年100個以上のフォアボール(105個、143個、103個)を与えているし、3年連続の暴投王になっている(6個、9個、9個)。プロ入り最初のころは制球に難があり、前述の落差の大きな「ドロップ」を持て余していた時期だろう。ただしこの「ドロップ」は有効であり、3年間で奪った三振は170個、222個、161個なので、やはり星野や和田に近いものを感じる投手だ。しかし4年目の1956(昭和31)年はさらに落ち込み、20試合を投げるも0勝で、13連敗を喫してしまった。5年目の1957(昭和32)年に12勝を挙げて復活するが、続く2年間が3勝、0勝。1960(昭和35)年に12勝するも翌年が5勝と、非常に波のある計算しにくい投手だ。ただし、12勝した年は184個、140個の三振を取っているから捨てがたい。1961(昭和36)年からはリリーフ中心に転向していく。 権藤は、大洋松竹ロビンス→洋松ロビンス→大洋ホエールズと名称が変わる中で11年間在籍し、この間の成績は70勝115敗だった。 1964(昭和39)年、大洋は権藤の放出を決定したがトレード交渉が上手くいかなかった末に、自由契約選手としている。権藤は自ら東映の水原監督に相談を持ち掛け東映フライヤーズに移籍することになったが、東映では25試合で1勝1敗に終わり、オフにタイガースへ移籍する。背番号は「15」で在籍9年間を通して着けている。 タイガースでは1965(昭和40)年から1973(昭和48)年まで9年間を過ごすことになるが、リリーフ中心の登板ながら先発もこなす過酷な役割を通しており、9年間で完投が17試合、そのうち完封勝利が6試合ある。1967(昭和42)年には、40試合9勝6敗で防御率1.40という好成績を挙げ、最優秀防御率のタイトルを獲得している。また、1969(昭和44)年には10勝4敗で、タイガース在籍中唯一の二けた勝利も記録した。タイガースでの9年間の通算は、283試合46勝38敗、842回2/3で自責点226、防御率は2.41である。大洋時代と違って勝ち越しているし、防御率も素晴らしい。ただし、タイガースでは金田正泰監督と折り合いが悪く、監督の暴言や悪口に耐えかねて、1973年11月23日のファン感謝デー、監督室で金田監督を殴打して引退を宣言し、21年間の現役生活に別れを告げた。権藤は通算の数字が、2513回を投げて防御率が2.78、奪三振も1943個で、これは一流投手の数字である。21年間の現役生活を通じて一軍で投げなかったシーズンは無い。117勝154敗と大きく負け越しているのは大洋時代に援護が少なかったからだ。記述した通り1956年に13連敗しているが、実は前シーズンの終盤の8連敗から始まっており、翌1957(昭和32)年も開幕から7連敗を喫して、足掛け3年で28連敗を記録している。これは同年7月7日に巨人を完封することで止まり、マウンドでナインから胴上げされている。 単独のシーズンでの最多連敗は阪急の梶本陸夫が持つ15連敗だが、複数シーズンをまたいでの連敗となると、この権藤の28連敗が2023年終了時点でも日本記録である。 後列向かって左側のげっそりした選手が権藤さんよ!まとめ西山さんの現役時代の写真は見つからなかったなあ やっぱりバイプレーヤーってことよね でも代打ではかなり起用されてるみたい そういう選手はどの時代でもチームに絶対必要なのよ 2番目のベルトイア選手はもうコメントしたくないような成績です タイガースの場合こういう外国人選手って多いわ いずれ先代がまとめた(仮称)外国人選手史を公開していく中で詳しく紹介しますよ!権藤さんは「好投手」と言うのがぴったりね もし当時巨人に所属してたら優に200勝超えてたんじゃないかな? とにかく針金みたいに細かったんだって!2枚目の写真見た?このウェスト!2代目より細いよ・・・権藤さんは人柄も好かったみたいで 阪神バッキー投手と巨人荒川コーチの乱闘事件の試合再開直後に王さんの頭にぶつけてるんだけど また乱闘になりそうになった時に巨人の川上監督が「権藤に限ってそんなことをする投手じゃない」と言って、ベンチを飛び出した選手たちを引き上げさせたほど みんなから人格を認められていたそうよ!その3へ続く
2023年11月07日
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背番号15(その1)背番号15の第1回目です CSが早く終わったので再開していきますこの番号は球団創立の昭和11年から昭和33年まで2人の選手しか着けてません しかもすでにこの「背番号史」では登場済みの選手なのね最初に書いちゃうけど1人は御園生崇男さん もう一人が玉置玉一(安居玉一)さんよ 御園生さんは「11-1」 玉置さんは「14-2」で登場してます前に読んで忘れちゃった人もいるかもしれないので丸ごと再掲しますね お二人とも特徴あるなかなかの名選手だったのよ もう一度読んでみてね!と言うことで今回はこの二人です コピペなので楽させてもらえるわ御園生崇男 投手・内野手(再掲)御園生は山口県山口中学から関西大に進むが1年で中退し、1936(昭和11)年2月、球団創設の時期に入団。戦前はエース級の投手として活躍する。タイガースで最初に背番号「15」着けた選手である。 1944(昭和19)年まで、165試合に登板し78勝39敗の好成績を残しており、通算での防御率は1.95と素晴らしい。1938(昭和13)年の秋季リーグでは15試合11勝0敗の勝率10割でタイガースの初優勝に貢献している。 御園生も1940(昭和15)年に軍に召集されたが、1年で除隊となって復帰できたのは当時としては珍しく、戦前戦後を通じて活躍できた大きな理由だ。 戦争が終わって1946(昭和21)年にプロ野球が再開されると、11勝9敗、18勝6敗、11勝9敗と先発投手の一角で奮闘した。 1949(昭和24)年に2勝しかできず、翌年は7勝したが、1951(昭和26)年は0勝に終わり現役を退いた。 通算記録は285試合127勝70敗 1708投球回で防御率は2.39という立派なものだ。 御園生の凄いところは、投手登録ながらバッティングセンスも優れていたため、入団した年から引退するまで一塁手や外野手として生涯二刀流を貫いているところだろう。 1950(昭和25)年は1年だけであるが内野手登録されており、この年だけ背番号も「11」を着けている。投手登録に戻った翌年にはまた「15」に戻した。打者として831試合に出場しており、2062打数506安打247打点5本塁打の数字を残している。ホームランは少ないが終身打率は.245と投手と思えない成績だ。野手としても野球カードになっていることからみても周りもその実績を認める二刀流だったのだろう。さらに驚くのは俊足でもあったことで、通算87盗塁を記録しているのは投手登録の選手として異例であり、戦前の1942(昭和17)年にはシーズン24盗塁を成功させている。また、ホームスチール通算6回というのも驚異的だ。ホームスチールの通算1位は与那嶺要の11回なので、投手である御園生の6回は非常に多い。実は鈍足だった野村克也氏が7度のホームスチールを記録しているのを見ると、足の速さだけでなく、洞察力も関係するのかもしれない。 いずれにしても現在で言うなら大谷翔平に通じる抜群の野球センスを持っていた選手だったのだろう。引退後は1958(昭和33)年までタイガースに残り、コーチや二軍監督をつとめ小山正明などを指導した。惜しいことに1965(昭和40)年、49歳の若さで亡くなっている。玉置玉一(安居玉一) 投手・内野手(再掲)玉置は静岡県浜松市出身。「たまおき」ではなく「たまき」。少年時代から有望選手と評判で、スカウトにより越境して愛知県の東邦商業(現東邦高校)に進んでいる。1940(昭和15)年の夏に甲子園に出場し、1941(昭和16)年の選抜ではエースとして優勝に導いている。ところが日中戦争の激化と太平洋戦争に備えてか1941年の夏の選手権大会が中止になり、春夏連覇を目指していた玉置はやけになって暴力事件を起こしたことで秋に中退しタイガースに入団する。タイガースで最初に着けた背番号は「31」だった。1年目となった1942(昭和17)年は10試合に登板して1勝3敗で防御率2.06の成績だったが、もともと打撃にも才能が有り野手としても55試合に出場して打撃成績は134打数27安打4打点2盗塁という数字が残っている。投手はこの1年で限界を感じ、翌年からは野手として生きることになる。 1943(昭和18)年は、おもに三塁手として81試合に出場しているがシーズン途中で軍に召集されて終戦まで兵役についている。1946(昭和21)年にタイガースに復帰すると、心機一転のため背番号を「14」に変更、1947(昭和22)年からゲームに出ている。復帰した当時は本職にしようとおもっていたサードに藤村がいたため、玉置は定位置を確保するのに苦労しており、投手以外の8つのポジションすべてをこなしながら最後はファーストに落ち着いた。1947年から1950(昭和25)年までの4年間、毎年100試合以上に出場しており、ダイナマイト打線の7番として活躍している。この間の1949(昭和24)年に「玉置」から「安居」に改姓している。特に1950年は背番号を「15」に改めた年で、437打数131安打60打点11本塁打で打率.300の好成績だった。ところが玉置は1951(昭和26)年1月3日に自由契約となって退団。その後大洋へ入団してしまう。これによりわずか1年で背番号「15」は御園生に戻された。大洋では2年間在籍し、その後は国鉄~近鉄~大映と渡り歩いて1957(昭和32)年を最後に引退した。タイガースを退団したのちに在籍した他球団で通算7年間プレーしたわけだが、その間に出場が100試合に満たなかったのは1年だけであり、移籍したすべての球団でレギュラーになっている。通算成績は13年1392試合で4854打数1298安打569打点70本塁打116盗塁。通算打率は.267だった。戦争による3年のブランクもあることを考慮すれば、非常に優秀な選手だったと言えるだろう。なぜタイガースを自由契約になったのかは謎である。 2002(平成14)年に79歳で逝去。 まとめ改めて御園生さんはすごい! 入団時から引退まで通算14年にわたって正真正銘の二刀流で通してるんだよ! DHなんて無い時代だから投手やりながら投げない日は野手として守備についてるわけよ! しかも捕手以外の内野も外野もできるって驚き! 盗塁もバンバン決めてるし! 二刀流って言うより万能選手よね ある意味大谷さん以上かもしれないわ 玉置さんは数字を見る限りすごく優秀な選手!これだけ安定した成績なのに5球団を渡り歩くなんて不思議よね・・・落合さんと同じで「俺流」だったのかもしれないわねその2につづくイラストに違和感?ちょっとイメージ違うんだよね
2023年10月23日
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