<承前>
道の駅のレストラン「甘羅
(かむら)
」で昼食とする。
日本書紀・天武天皇元年6月24日(甲申)の条に「即日に吾城に到る。<略>甘羅村を過ぎ、猟者二十余人有り。大伴朴本連大国、猟者の首たり。」と出ている「甘羅」である。壬申の乱前夜、東国に逃れた大海人皇子はこの大宇陀を通って美濃を目指したのであります。「甘羅村」はここ大宇陀の神楽岡の地と言われている。
因みに「吾城
(あき)
」は、ここ「安騎野、阿騎の大野」の「あき」ですな。壬申の乱は家持から見れば曾祖父大伴長徳の時代のこと。その兄弟の大伴馬来田、大伴吹負らの活躍した時代である。
(道の駅「宇陀路大宇陀」)
(足湯)
昼食後建物の隣に足湯のコーナーがあったので、一息ならぬひと足、いや両足を入れてみました。むさい足をお見せして申し訳ありませぬ。これはヤカモチではなく足持の足ということにして置いて下され(笑)。
さて、いよいよ、かぎろひの丘です。
今は、万葉公園になって整備されているが、小生が犬養先生の「万葉の旅(上)」という文庫本を片手に、初めて訪れた頃は畑中の丘に歌碑がポツンとあるきりで、丘への登り口も定かでないような具合であったと記憶する。
(かぎろひの丘万葉歌碑)
(少しカメラをひいてみると。)
東
の 野にかぎろひの 立つ見えて
かへりみすれば 月
西渡
きぬ (柿本人麻呂 巻1-48)
上の歌碑は佐々木信綱博士揮毫。下の長歌の反歌4首の内の1首。万葉集を代表する歌の一つである。題詞には「輕皇子の安騎野に宿りましし時、柿本朝臣人麻呂の作れる歌」とある。
草壁皇子(日並皇子)亡き後、その遺児軽皇子<当時10歳>(後の文武天皇)が、安騎野に狩をしたのは、万葉集の歌の配列から、持統6年(692年)春以後、その年の冬と推定されている。
通常、宮廷行事としての狩は5月5日に行われるもの。真冬に10歳の少年に狩をさせるのは変だとして、目的は他にあったとする説もあるのだが、軽皇子の立太子は持統11年(697年)2月で文武即位同8月の直前であるから、少年軽皇子を皇太子にするための一種の通過儀礼であるとともに、皇太子でありながら早世し天皇位につけなかった草壁の子であることを強調し、その魂を引き継ぐための儀式であったのかも知れない。それでも立太子まで4年余を要しているから、持統天皇の目論見通りには行かぬ事情が色々とあったということであろう。
(人麻呂の長歌・阿騎野遊猟歌の歌碑)
輕皇子の安騎野に宿りましし時、柿本朝臣人麻呂の作れる歌
やすみしし わが大君 高照らす 日の 皇子 神 ながら 神 さびせすと 太敷 かす 京 を置きて
隠口
の
泊瀬
の山は
眞
木
立つ
荒
山
道を
石
が
根
の
楚樹
おしなべ
坂鳥
の 朝越えまして
玉かきる 夕さりくれば み雪ふる
阿騎
の大野に
旗薄
しのおしなべ 草枕
旅宿
りせす いにしへ思ひて (巻1-45)
「いにしへ思ひて」とあるように、単なる狩ではなく、父である「日の皇子」(草壁皇子)を偲ぶ狩であり、従駕する舎人達にとっては亡き皇太子草壁を偲び彼と輕皇子を重ね合わせる狩でもあった。
(はだれのいまだ消え残りたる)
かぎろひの 岡のすももの 散る花か
はだれのいまだ 消えのこりたる (偐家持)
本家の歌の比喩を真似てみました(笑)。
かぎろひの丘を下ると直ぐに阿紀神社である。境内で写真を撮って鳥居前に引き返して来ると、停めてあった自転車の回りに人だかり。グループで歴史ウォーキングか万葉ウォーキングをされている人達のよう。神社の前の小川沿いの小道を続々と来られる。早々に自転車で退散。
(阿紀神社)
(阿紀神社拝殿)
阿紀神社を後にし、人麻呂公園に向かう。
中庄遺跡が人麻呂公園になっているのである。この遺跡発掘で弥生時代のそれとともに、飛鳥時代の建物遺構が発見され、話題になり、小生もはるばる現地説明会に参加したが、あれはいつの頃であったやら。今は建物が復原され人麻呂の乗馬像もある公園になっている。
(人麻呂像)
(復元掘立小屋<明日香時代>)
(復元建物と塀)
万葉で詠われた軽皇子の狩も、野宿ではなく、このような建物で夜を明かしたのでしょうな。いつであったか、大晦日の夜に家を発ち、阿倍文殊院に初詣をして、その足で榛原まで電車で出て、かぎろひの丘で初日の出を見ようと、娘のブーイングを誤魔化しつつ、暗い道を歩いて、家族でやって来たことがあったが、日の出前の寒さは結構なものであった。この寒さでは野宿は応えるなあ、「いも寝らめやも」だなあ、と思ったりしたものだが、かかる建物なら少年軽皇子もゆっくり眠れたことでしょう(笑)。
(人麻呂公園・中庄遺跡)
(雪の山々、かぎろひは立たねど青みたるもまたよし。)
多分この山の向こうは明日香でしょう。人麻呂達はどのコースを通って安騎野にやって来たかについては諸説あるようだが、犬養先生の賛同される狛峠越えのルートに賛同して置きましょう。しかし、雪の山路を踏みなづみつつやって来るのは大変なこと。やはり単なる狩である筈もありませんな。
<ここで、写真搭載一日当りの限度を超えました。続きは(その3)をご覧下さい。この後、菟田野古市場地区にある宇太水分神社(中社)に行きます。>
<追記・注>
写真2枚(「足湯」)
が横倒しの歪んだ画像になっていたので、2020年11月12日これらを復元修正しました。
●
過去記事の写真が歪んでいたりすること
2020.10.12.
飛鳥川銀輪散歩(下) 2024.11.11 コメント(4)
飛鳥川銀輪散歩(上) 2024.11.10 コメント(2)
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