(承前)
やっと常願寺川にやって参りました。この川を渡ると自転車専用道がある。車を気にせず走れるのが何と言ってもいい。ここからは神通川の手前、岩瀬にある諏訪神社の大伴家持歌碑を目指しての銀輪散歩である。
(常願寺川)
(常願寺川河口。今川橋の上から。)
河口に架かる今川橋を渡ると 富山朝日自転車道 の入口である。この自転車道は富山から滑川、魚津を経て朝日町へと至る自転車道なのであるが、途切れ途切れになっていて完成していないので、今回も魚津、滑川ではその一部を走っていると思うのだが、いつの間にか一般道になっていたり、他所者にはよく分らないのである。しかし、ここから先はよく整備されているので、出口までのわずか2km程の短い距離であるが、しばし「銀輪家持」に専念という次第。
(富山朝日自転車道)
赤い橋が今川橋。舗装された部分が自転車道。
(富山朝日自転車道、浜黒崎キャンプ場付近)
上の写真は振り返って撮ったもの。進行方向には海は右側、松林は左側である。松林の中にはダイコンの花が咲き群れて美しい。道は松林の中を通り抜けたり、快適である。
(キャンプ場の松林)
(松林の中にはダイコンの花が咲いて・・)
(松林の中を走る)
(やはりダイコンの花が目を引く)
(自転車道出口・古志)
自転車道から出ると県道1号線。右に折れて県道1号線を西へ進む。道の右手すぐに何やら石碑がある。「古志乃松原」と刻まれていて、脇に説明板がある。「越」は「高志」とも書くがこの辺りの町名は岩瀬古志町。
(古志の松原記念碑)
県道1号線を道なりに西へ行くと富山ライトレールの岩瀬浜駅前の交差点に出る。そこで行き合った大学生風の若者4人組に「諏訪神社は何処にありますか?大伴家持の石瀬野の万葉歌碑がある神社なんだけど。」と尋ねるが、「知らない。」と言う。「万葉のことも少しは勉強してよ。地元なんだから。」と言うと、「僕たち東京です。」との答。「これは失礼しました。」と笑い合って別れる。 駅前の案内板に周辺地図の表示があり、諏訪神社の所在位置を確認。
(諏訪神社)
諏訪神社は岩瀬浜駅の次の駅、競輪場前駅の西側にある。駅の東側は富山競輪場。ここの歌碑の家持は「銀輪家持」ですな。 上の写真では「影持」も写ってしまいましたが、もう日が傾いて影が長くなっているのが分かる。家持の歌碑は鳥居の前にあった。
(大伴家持歌碑)
伊波世野爾 秋芽子之努芸 馬並 始鷹狩太爾 不為哉将別
石瀬野
に 秋萩
凌
ぎ 馬 並
めて
始鷹
狩
だに せずや別れむ (大伴家持 巻19-4249)
この歌は天平勝宝3年7月17日少納言に選任され、いよいよ帰京することとなった時に作った歌。掾官の久米広縄と別れを惜しみたかったが、彼は朝集使として上京中であったので、その館におもむき、悲別の歌を2首残して来たものの1首。家持にとっては栄転であり、帰京が叶うのであるから、その喜びは大きかっただろうが、越で親交を結び共に過ごした人々と別れなければならないことの悲しさ、寂しさはまた別のもの。部下でもあった広縄と別れを惜しみたかったのだろうが、上京中とあってそれも叶わないので歌を留守宅に託して来たのである。時に家持34歳。
この時のもう一つの歌は次の通り。
あらたまの 年の緒長く 相見てし その心引 忘らえめやも (同巻19-4248)
広縄に会えないまま出発した家持であったが、越前の国で京から帰ってきた広縄と再会する。場所は越前の掾、大伴池主の館である。家持が越中国守に赴任して来た時に越中の掾官であったのは池主であったが、その後越前の掾に転任し、後任の掾が広縄であった。そんな因縁の3人が偶然に池主の館で再会することとなったのである。
この時に広縄が家持に贈った歌と家持が返した歌。
君が家に 植ゑたる萩の 初花を
折りて 插頭
さな 旅別るどち (久米広縄 巻19-4252)
立ちてゐて 待てど待ちかね 出でて 来
し
君にここに 遇
ひ 插頭
しつる萩 (大伴家持 巻19-4253)
(諏訪神社拝殿)
家持の歌碑に別れ、富山ライトレールに沿ってJR富山駅までひたすら走る。ホテルは駅前である。
<参考> 富山ライトレール
(東岩瀬駅)
モダンな電車と古い駅舎のミスマッチがいい。
(東岩瀬駅舎)
そして、これはオマケ。駄洒落の自動販売機。こういう類いのナンセンスものはヤカモチの好みでもある。大阪にもあるのかな?で、「出たな、ラムネ味」の仮面サイダーを呑みました(笑)。シュワッチ。
(ウルトラウォーター、仮面サイダー、ゴレンシャー)
これで、魚津から富山へ銀輪万葉、完結です。長らくお付き合い下さり有難うございました。明日は「神通川銀輪万葉」です。
飛鳥川銀輪散歩(下) 2024.11.11 コメント(4)
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