社会福祉 0
社会福祉のカリスマに会いたい 0
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今年1月に助監督から監督に就任した大島公一、そして2月に助監督就任したのは高村祐。実はこの2人、今は消滅した近鉄バファローズのOBでもある。 調べてみると、2人が同じ期間に近鉄に在籍していたのは1993年~95年の3年間。ちょうど鈴木啓示監督が誕生して久しぶりの”生え抜き”監督と期待が高まった時期と重なる。しかし次第に選手らのとの確執が報じられるようになり、94年オフにはエース格の野茂が退団するに至るなど、選手たちは自らのプレーに集中することが難しい時期だったかもしれない。 そのような状況下、2人が同時にスタメンに名を連ねたのは26試合ある。大島は、大石大二郎、吉田剛、水口栄二らとポジションを競い、セカンド、サード、ショートとユーティリティープレーヤーとして活躍、出番を得た。一方の高村は、野茂、小池、山崎慎、吉井、入来らとともにローテーションをほぼ守り続けた。ちなみに、2人が一緒にスタメン出場した試合の結果は、近鉄の15勝10敗1分、勝率0.577だった。 下記表(『スタメンアーカイブ』から一部を引用・編集)をご覧になれば分かると思うが、法政大OBの中根仁も26試合中、16試合にスタメン出場しており、法政大の打撃コーチにでも就任すれば、元近鉄ファンとしてはさらに嬉しさが倍増しそうだ。また、95年7月31日、ロッテの先発は、現在早稲田大監督の小宮山悟投手だった。 №年月日打順123456789近鉄投手相手投手近鉄勝敗11993/7/164大石5大島Dブライアント3石井9レイノルズ7鈴木8中根2光山6吉田剛P高村M白武〇21993/7/314大石5大島Dブライアント3石井9小野8中根7鈴木2古久保6吉田剛P高村M小宮山✖9レイノルズ31993/8/85大島4大石Dブライアント3石井9レイノルズ8村上7鈴木2古久保6吉田剛P高村F武田ー41993/8/185大島4大石Dブライアント3石井9山崎8中根7鈴木2古久保6吉田剛P高村L郭〇9レイノルズ51993/8/248村上4大石Dブライアント3石井7鈴木9江坂5大島2古久保6吉田剛P高村F芝草✖9レイノルズ61993/8/314大石5大島Dブライアント3石井9山崎8村上7内匠2古久保6吉田剛P高村L郭✖9レイノルズ71993/9/65大島4大石Dブライアント3石井9山崎8村上7内匠2光山6吉田剛P高村M伊良部✖9レイノルズ81993/9/214大石5大島Dブライアント3石井9山崎8中根7内匠2古久保6吉田剛P高村L新谷〇9レイノルズ91994/5/58内匠4大島Dブライアント3石井7鈴木9畑山5金村2古久保6水口P高村BW山沖✖101994/5/139内匠6吉田剛8中根5石井4大島7鈴木3スチーブンス2古久保D松久保P高村L石井丈✖111994/5/198内匠4大石9中根3石井7スチーブンスD金村5大島2古久保6水口P高村H渡辺智〇121994/7/274大島6水口Dブライアント3石井9鈴木7スチーブンス5金村2古久保8中根P高村M武藤〇131994/8/34大島6吉田剛Dブライアント3石井9鈴木7スチーブンス5金村2古久保8中根P高村H渡辺智〇141994/8/174大島6水口8中根3石井9鈴木7スチーブンスD金村2古久保5中村紀P高村F芝草〇151994/8/234大島6水口Dブライアント3石井9鈴木7スチーブンス5中村紀2古久保8中根P高村L郭〇161994/9/64大島6水口Dブライアント3石井9鈴木7スチーブンス5金村2古久保8中根P高村M榎〇171994/9/114大島6水口Dブライアント3石井9鈴木7スチーブンス5中村紀2古久保8中根P高村BW高橋功✖181994/9/154大島6水口Dブライアント3石井9鈴木7スチーブンス5金村2古久保8中根P高村H若田部✖191994/9/214大島6水口Dブライアント3石井9鈴木7スチーブンス5中村紀2古久保8中根P高村L郭〇201994/9/274大島6水口Dブライアント3石井9鈴木7スチーブンス5中村紀2古久保8中根P高村BW長谷川〇211994/10/96大島4大石Dブライアント3石井9鈴木7スチーブンス5中村紀2古久保8中根P高村BW野田✖221995/4/184大島6水口Dブライアント3石井7スチーブンス5中村紀9鈴木2古久保8大村P高村M榎〇231995/5/24大島6水口Dブライアント3石井7スチーブンス5中村紀9鈴木2古久保8内匠P高村L渡辺久〇241995/5/94大島6水口Dブライアント3石井7スチーブンス5中村紀8内匠2古久保9藤立P高村H若田部〇251995/5/194大島8内匠Dブライアント3石井7スチーブンス5中村紀9鈴木2古久保6水口P高村L横田久✖261995/6/74大島6水口Dブライアント3石井7スチーブンス5中村紀9鈴木2古久保8大村P高村L石井丈〇
2024.04.19
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中西太さんが亡くなられた。享年90歳。 伝説と呼ばれる「10・19」。ボクが忘れられないのは、二走の鈴木貴久が懸命に駆けて生還すると、中西さんと抱き合い転げまわる感動的なシーン。 涙なしでは見られないが、今から10年前の10月19日に開催された「近鉄バファローズ『10.19』25周年トークアンドライブ」の会場にゲストとして登場した中西さんは、「いや、あの日は気管支の病気で体調が悪かったのに、鈴木貴久が二塁から駆けてきた勢いそのままにしがみついてきたから、押し倒されてしまっただけ」とこともなげに話した。 あのシーンに涙したファンは少なくないはずだけど、その素っ気ない言葉に一瞬会場は静まり返り、その後どっと沸いた。そんなわけはない、下の写真を見れば分かる、照れ隠しだろうか。 中西さんがどうこたえようとも、あの日のダブルヘッダーの異様な空気を操り、演出していたのは中西さんだったと、今でもボクは思う。
2023.05.20
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前年まで成績が上昇したイーグルスだったが、1939(昭和14)年は9チーム中最下位に落ち込んだ。原因は明確。2年前に最高殊勲選手賞を獲得したバッキ―・ハリス捕手が突然帰米したためだった。 好守好打、特にその強肩ぶりは評価が高く、チームにとって貴重な戦力だった。また、日本語の勉強に熱心な親日家であり、ユーモラスなキャラクターの人気者でもあった。小学校の国語の教科書をいつもバッグに入れては「モモタロサン、モモタロサン」と大きな声で音読を繰り返すほど。その熱心さは試合中にも。打者がが打席に立つと、ハリスはマスク越しに「モーモタロサン、モモタロサン」と茶目っ気たっぷりに歌い出して打者の打ち気をそらしたことも。大和球士さんは「これも捕手のインサイドワークの一種だろう」と記した。 しかしこの年、臨月の妻が帰国してお産をすることになり、ハリスもやむなく突然帰国することになった。送別試合の際は、マイクの前に立ち、別れの言葉を述べたが、途中から涙が先にたち、満足に挨拶ができなかった。帰国の理由は妻のお産だけでなく、当時の日米関係の悪化も微妙に影響したのかもしれない。当時イーグルス代表だった河野安通志が翻訳してくれた原稿には、次のようなことが書かれていたそう。「職業野球は、皆さまのお引き立てがなければ立ちゆきません。今後ともごひいきに願います。私はこの際、別れを告げます。皆様のご壮健とご幸福を祈ります。さようなら」。(写真)バッキ―・ハリス(左)、右は亀田忠投手。~『激動の昭和スポーツ史 プロ野球(上)』(ベースボール・マガジン社)より。
2023.05.07
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1988年10月19日、ボクは川崎球場の3塁側ベンチすぐ後ろにいた。近鉄とロッテのダブルヘッダー。第1試合開始前には閑散としていた球場が、試合終了の頃には観客がスタンドを埋め、さらにチケットを買えなかったファンたちが球場の外に溢れていた。それまで長いこと近鉄の試合を見てきたが、そんな光景を見たのは初めてだった。 あれから34年経ったけれど、今も不思議なことがある。それは第1試合の9回表、佐藤純一が三本間に挟まれて憤死した直後だった。スコア3-3、この試合に勝たなければ優勝のない近鉄は、最大の好機を潰したように見えた。しかし、まだ二塁塁上には鈴木貴久がいる。次打者は加藤正樹。これまで出番のなかった梨田昌孝は「代打は自分しかいない」と考えベンチを飛び出した。たしかに梨田を代打に出すことが賢明な策と思われたが、仰木彬監督はベンチ前に突っ立ったまま。「代打・梨田」とコールするまでにしばらくの”間”があった。 後日、梨田は「この場面は自分しかいないだろう。なぜ仰木さんはためらっているのか?と思っていた」と語っていた。一方の仰木監督は「あの時は、梨田君が現役最後の打席になるだろうから、これまでの彼のことを思い出して感傷的になっていた」と答えていたが、優勝をかけた大一番、それは嘘だろうとボクは睨んでいる。三原マジックの継承者ゆえ、凡人には考えつかない奇想天外なアイディアを秘めていたはずだろう。毎年10月を迎えるたび、愚にもつかぬ想像をするのが常となっている。
2022.10.01
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毎年行わわれるドラフト会議、交渉権を獲得して歓喜する監督やスカウトたちの姿をよく目にするが、中にはクジを引き当てたことでため息をつくスカウトもいる。そんな裏事情があることを以前読んだ『ひとを見抜く 伝説のスカウト河西俊雄の生涯』(澤宮優著、河出書房新社)を通じて知った。 1995年のドラフト、7球団が競合した末にPL学園の福留孝介を引き当てた近鉄バファローズ・佐々木恭介監督が「ヨッシャーッ」と歓喜の大声をあげたシーンはあまりに有名。でもその傍らで当時チーフスカウトの河西俊雄の心境は複雑だった。そもそも福留は中日ドラゴンズ一本を表明していたため、近鉄が仮に交渉権を射止めても入団交渉がスムーズにすすむ可能性はほぼゼロ。そのことを球団首脳に伝えていたものの、首脳は強硬指名を決断、さらにクジも引き当て(てしまっ)た。 腹を決めて交渉にあたる河西さんらスカウト陣と、対峙する福留サイド。こう書くと三輪田(勝利)さんの悲しい一件を思い出すが、結局福留は日本生命に進むも、河西さんの「情」と福留の「礼」はむしろ爽やかな印象を残す。 映画『あなた買います』が話題になった昭和31年から、37年間にわたり河西さんはスカウトを生業とした。はじめは阪神。安藤統夫、遠井吾郎、江夏豊、藤田平、上田二朗、山本和行、中村勝広、掛布雅之らを発掘。その後近鉄に移ってからは、大石大二郎、阿波野秀幸、野茂英雄、中村紀洋、小野和義、金村義明など限りがない。決して球団の資金に頼ることなく、「情」を尽くして粘り強く交渉を続けるスタイルが特徴だった。 本書には大石大二郎獲得までのストーリーも描かれている。ボクが大石を初めて見たのは、大石が亜細亜大4年生の時。たまたまテレビで見た日米大学野球で、日本代表の二塁手だった大石に目を奪われたけれども、その際のボクの注目点と河西さんの評価ポイントが結構似通っていて、ちょっぴり嬉しかった。
2022.09.25
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中日・福留孝介選手が今日引退し、24年間の現役生活を終えた。 この福留の名前を聞くたび思い出すのは、1995年のドラフト会議だ。「意中の球団以外なら社会人野球(日本生命)へ行きます」と宣言していたPL学園の福留に対して、なんと7球団が1位指名した。 クジ引きは近鉄、中日、日本ハム、巨人、ロッテ、オリックス、ヤクルトの順、そして真っ先に引いた近鉄・佐々木恭介監督が見事に交渉権を引き当てて「ヨッシャーッ」とはしゃぎ、大声で叫んでいたシーンをよく覚えている。しかし福留は「オリンピックに出たい」という理由で近鉄への入団を拒否して日本生命へ進んだ。 ボクは福留が一体どれだけの選手か知らなかったけれども大いに落胆したし、呪いたくもなった(苦笑)。しかし考えてみれば、近鉄にとって「入団拒否」はそれまでも日常的?なことではあった(残念ながら)。おもな選手を年代順に追ってみたい。(1)三輪田勝利(投手、早稲田大)。1967年に1位指名されたが拒否。大昭和製紙に進み、69年阪急へ。ちなみに67年、三輪田に続く2位指名は「あぶさん」こと永淵洋三(投手、東芝)、3位は小川亨(外野手、立教大)だった。奇しくも今日逮捕のニュースが流れた村田兆治(投手、福山電波高)は同じ年、東京オリオンズの1位指名だった。(2)新井鐘律(宏昌)(外野手、PL学園高)。1970年に9位指名されたが拒否。法政大に進み、74年に南海に入団した。その後85年オフ、トレードで近鉄に移籍した。ちなみに70年の近鉄2位指名は、79年日本シリーズのスクイズシーンが忘れられない石渡茂(内野手、中央大)だった。(3)池谷公二郎(投手、金指造船)。1971年に7位指名されたが拒否。72年に広島に入団した。池谷に拒否されるも71年ドラフトは近鉄の当たり年だった。1位指名は佐々木恭介(内野手、新日鉄広畑)、2位は梨田昌孝(捕手、浜田高)。さらに4位・羽田耕一(内野手、三田学園高)、6位・平野光泰(外野手、クラレ岡山)。その後に黄金期を迎える近鉄の骨格ができた年といえる。(4)応武篤良(捕手、崇徳高)。1976年に3位指名されたが拒否。早稲田大へ進学した。結局その後プロ入りせず。早稲田大第17代監督。今月7日に死去。ちなみに崇徳高のチームメイトだった黒田真二(投手)は日本ハム1位、山崎隆造は広島1位指名を受けともにプロ入りした。(5)金光興二(内野手、法政大)。1977年に1位指名されたが拒否。三菱重工広島に進み、結局その後プロ入りせず。法政大第15代監督。
2022.09.23
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岩隈久志投手が現役引退を表明した。NPBでは近鉄ー楽天ー巨人を渡り歩き、かつて”近鉄バファローズ”に在籍した選手がまた一人、現役生活を終えた。近鉄入団時は「虫歯が多い、歯医者へ行け!」と先輩たちから盛んにイジられていたと記憶している。そして近鉄消滅時は、義父の広橋コーチがいた楽天へ移籍したけれども、中日も岩隈獲得に動いたそう。当時、中日の編成担当は井手峻さん。現・東京大学硬式野球部監督。 偶然かもしれないけど、今日10月19日という日は近鉄バファローズ史に残る、いや日本野球史に残る名勝負のあった日。1988年10月19日、近鉄対ロッテのダブルヘッダーが川崎球場で行われた。近鉄はこの戦いに連勝すれば優勝できたが、初戦にギリギリで勝利したものの2戦目に引き分けて優勝を逃した。たまたま生中継していたテレビ朝日(朝日放送)は、熱戦のあまり番組「ニュースステーション」でも生中継を続行し、CMを入れることさえ忘れて?延々と中継した。「伝説の10・19」と呼ばれている。ボクは川崎球場の三塁側でこの戦いを目の当たりにしていた。俺たちのパシフィック・リーグ 近鉄バファローズ1988 球界とパ・リーグを変えた1988年と「10.19」を総力特集。 最近、ベースボール・マガジン社からは『近鉄バファローズ1988』というムック本が発売され、書店店頭に陳列されている。表紙は阿波野秀幸。近鉄バファローズの1988年を象徴するのは阿波野か。なるほど、流石! 異論はない。ただ10・19ならば、印象的なシーンがほかにもある。 それは、ボクにとっては第一試合、3-3の同点で迎えた9回表・近鉄の攻撃時に凝縮されている。例えば、以下の3つのシーン。1.規定により延長はない、引き分けはダメ、絶対に勝たなければならない近鉄。一死二塁の場面で、鈴木貴久がライトへ安打を放ち「やった勝ち越しだ!」と歓喜したが、代走・佐藤純一は三塁をオーバーラン。そして三本間に挟まれて憤死。結果、二死二塁になった。最大のチャンスが潰えたように見え、近鉄ファンに埋め尽くされた川崎球場は「あーあ」と、大きな嘆息に包まれた。(写真)『近鉄バファローズ大全』(草思社)より。2.しかし、このままでは終わらなかった。代打・梨田昌孝は牛島投手のシュートに差し込まれたものの、センター前にポトリと落ちる幸運な安打。二塁走者の鈴木が生還して勝ち越しに成功した。塁上でガッツポーズを繰り返す梨田。現役最後の打席にして、人生初めてのガッツポーズだった。(写真)NHK『ヒーローたちの名勝負』より。3.生還した鈴木は、迎えた中西太ヘッドコーチと抱き合い、そしてそのままグラウンドに転がり、土にまみれて喜び合った。(写真)『近鉄バファローズ大全』(草思社)より。 あれから32年が経った。憤死した佐藤は現在NPBの審判員、佐藤のミスを帳消しにした梨田は、今年新型コロナに襲われた。実は、この2人には10・19に続く因縁がある。2016年5月、楽天対オリックス戦で、一塁塁審だった佐藤は判定を巡り、楽天の梨田監督(当時)から抗議を受けた。梨田の抗議は長時間に及んだため、佐藤はその抗議を遅延行為と見て、規定に基づき梨田を退場を命じた。当たり前といえば当たり前なのだけれど、こういったエピソードは面白い。
2020.10.19
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新型コロナウイルスの影響で開幕を延期しているプロ野球が23日、開幕から当面の間、無観客試合とする方針を固めた。無観客での公式戦実施は85年目で初。専門家からは台湾、韓国プロ野球の対策を参考にすべきとの意見が出され、ベンチでのマスク着用など異例の措置も提案された。6月19日の開幕を軸に大型連休明けの開幕日決定を目指すが、厳格なルールの下での開幕となる。(以上、スポーツ報知) NPBが開幕へ向けて始動したことは、この上なく嬉しいことです。これが大学野球、高校野球の”一歩前進”の契機になってほしいものです。もちろん小池都知事が言う「STAY HOME週間」厳守が大前提ですけれども。 そして他にも嬉しいことが。元近鉄バファローズの梨田昌孝さんが独力で食事や会話をできるようになったそう。元気になられたようで良かったです。ほんとうに良かった。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 今から75年前、1945年(昭和20年)11月23日、終戦から3か月後、神宮球場でプロ野球東西対抗戦が復活しました。まだ、生きていくことや食べることさえままならない時であっても、やっと開幕した野球に触れたいと願う多くの人たちや、長期間におよぶ閉塞感から解放されたいと願う多くの人たちが神宮に集まりました。以下『真説・日本野球史』(大和球士著、ベースボール・マガジン社刊)より。 「この試合(終戦から3か月後に行われた東西対抗戦)、終戦直後の大混乱期に開催されたにもかかわらず、4万5千人の大観衆が詰め掛けた。神宮球場で行われるのは1942年(昭和17年)以来5年ぶりではあったが、内野席を超満員にし、外野席も7割がたが埋まったという」 「一体どこから4万5千人もが集まってきたのであろうか。(中略)単純な野球愛というよりは、敗戦から立ち上がろうとする日本人の活力の発露と見る。野球人に強靭な精神力があったことは頼母しく、日本人に祖国再建の活力がみなぎっていたことはいよいよ頼母しい限りである。野球人、野球ファンが『ニ位一体』となって野球復活は快速調に進むことになる」 今は新型コロナウイルス禍で野球を見ることが出来ませんが、75年前と同様、いつか晴れ晴れとした表情で球場に足を運ぶ日が来るでしょう。その日を夢見て、今は辛抱ですね。 在宅勤務など家で過ごすことの多い今だから、ゆっくりと靴でも磨いてみてはいかがでしょうか。 ストレスを解放して心を落ち着かせ、あらたな活力が湧く効果が期待できるそうです。『靴磨きの教科書』(毎日新聞出版)より。靴磨きの教科書 プロの技術はどこが違うのか[本/雑誌] / 静孝一郎/著
2020.04.25
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1936(昭和11)年に創立以来、プロ野球界が次第に盛り上がり始めたのは40年代後半だった。全8球団中4球団が黒字、残る4球団も黒字間近と言われた49年春、球界に激震が走った。それは日本プロ野球生みの親、正力松太郎氏の一言だった。「日本にも米国と同様に2大リーグを作りたい。そのためあと4球団ほど増やしたい」。 8球団だからこそ経営の安定化が見えてきた矢先の球団増は様々な波紋を呼んだ。賛成派と反対派に分かれた抗争は、紆余曲折の果てに15球団2リーグ制の決着し、この体制で50年のシーズンが始まった。ちなみにセ・リーグは巨人、中日、阪神、松竹、国鉄、広島、大洋、西日本の8球団。一方のパ・リーグは南海、大映、阪急、東急、毎日、西鉄、近鉄の7球団。 ボクが愛してやまなかった近鉄バファローズの前身、パールスが誕生したのはこの時だった(正確には、南海と合併時の44年―47年に近畿日本軍、グレートリングを共同で球団経営をしていたが、単独では初めて)。監督に藤田省三氏を招き、東京六大学で人気だった選手たちを入団させた。その代表的な選手が、先日亡くなられた関根潤三投手だった。 この時の経緯が面白い。日大三中ー法政大を通じて藤田監督と師弟関係にあった関根さん自身が語る。「当時、新しく近鉄ができて、藤田さんが『来い』って言うわけです。その時分は大学の監督に呼ばれたら『ハイハイ』ですから。お金も条件も何も聞いてないの。命令だったから。仕方なしに行って・・・。親は反対しましたけどね」。 プロへ行くこと自体に社会の評価が低かった時代、関根さんにとっては何の覚悟もないプロ入りだった。しかしその後、プロ球界との付き合いはエンドレスに続いた。現役時代の通算成績は、投手として65勝94敗、防御率3.43(通算8年)。打者としては通算打率.279(通算16年)の好成績を収めた。また、監督としては弱い時代の大洋、ヤクルトを率い331勝408敗だった。 ボクにとって関根さんの印象はTV『プロ野球ニュース』の好々爺然とした語り口しかない。そしてもうひとつ思い出すのは、日大三中ー法政大ー近鉄を通じてチームメイトだった根本陸夫さんのこと。この人も監督時代はいつも弱い球団を率いていた。例えばダイエー時代・・・と書き始めたけれども、これもエンドレスになりそうなので、この続きはいずれ。 関根潤三さんのご冥福をお祈りいたします。 野球五十年(増補新版) / 大和球士 【中古】伝説のプロ野球選手に会いに行く 球界黎明期編 増補改訂版廣済堂出版高橋安幸 / 廣済堂文庫【中古】afb【中古】 近鉄球団、かく戦えり。 / 浜田 昭八 / 日本経済新聞社 [文庫]【メール便送料無料】【あす楽対応近鉄バファローズの時代 プロ野球史上最も熱かった球団の59年史 (知的発見!BOOKS)[本/雑誌] / 大阪バファローズ研究会/編
2020.04.11
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東筑高元監督の喰田孝一(しょくた こういち)さんが亡くなったそうです。享年83歳。・・・訃報記事はこんな内容でした。「東筑高校野球部の捕手として1953年、元近鉄バファローズ監督の故・仰木彬さんとバッテリーを組んで夏の甲子園に出場。社会人野球を経て61年から母校を指揮した。監督として春夏計3回の甲子園出場に導いた」と。 「仰木彬」の名を目にすると興味が湧く性分です、わたしは。調べてみると、4番打者兼エースの仰木さんとバッテリーを組んで出場した甲子園は、初戦で大阪・浪華商に0-3で敗れたそう。※ちなみに、この時、浪速商の捕手は片岡宏雄。後に立教大に進み長嶋茂雄や杉浦忠ら「立教三羽ガラス」の一学年下、杉浦の女房役として活躍。その後はプロに進み、ヤクルトのスカウトをされていた、あの片岡さんです。 さて、喰田さんは東筑高を卒業後、ノンプロに進み、61年に母校に戻り野球部監督に就任しました。そして94年に引退するまで(途中、いったん母校を離れることもありましたが)、春1回(85年)、夏2回(78年、87年)、チームを甲子園に導きました。春(85年) 1回戦 ●東筑0-2天理夏(78年) 1回戦 〇東筑4-3金沢、2回戦 〇東筑1-0日大二、3回戦 ●東筑1-4豊見城夏(87年) 1回戦 ●東筑2-3習志野 喰田さんの戦術は、公立校のハンディを足で補う足を使うもの。相手が走れそうな捕手と見たらどんどん走る。ホームスチールだって躊躇しない。「走って、1-0で勝つ野球」を標榜。象徴的な試合は78年夏、栽弘義監督率いる豊見城高との対戦です。以下、『ブログ 高校野球、あまり目立たない名勝負物語』より(一部編集)。「それは1点差を追う2回、二死三塁の場面。さっそく喰田監督が仕掛けます。打者・太田清治の時、突然に三塁走者・諸藤克明がホームスチールを敢行。相手・神里昌二はカーブの握りだったため、焦って外角低めに外れてしまいセーフ」(以上、ブログ・・・名勝負物語) 結局1-4で敗れましたが、まだ序盤ながらリスキーなプレーで強引に1点を奪い、同点に追いつきました。これは仰木マジック、もとい、喰田マジックの真骨頂と言えるでしょう。合掌。※なお、豊見城高の神里昌二投手は、現・横浜DeNAの神里和毅外野手(糸満高ー中央大ー日本生命)の父。そして捕手は、阪急などで活躍した石嶺和彦さんでした。監督一代 [ 喰田孝一 ]
2019.03.10
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プロ野球西武の菊池雄星投手(花巻東高)は31日、大阪市の京セラドーム大阪で行われたオリックス戦で3年連続2桁勝利となる10勝目(4敗)を挙げて、プロ9年目で通算勝ち星を本県出身投手では最多の69勝(46敗)に伸ばし、沢藤光郎(近鉄、盛岡商高―釜石製鉄―盛岡鉄道局)の記録を61年ぶりに塗り替えた。 菊池は「(沢藤さんの記録を)意識したことはないが、塗り替えることができれば光栄だ。岩手の人間でも諦めず、夢を持って頑張れば、プロの舞台でも生き残っていけるということを、これからも示していきたい」と話した。 (以上、岩手日報) 全国的には何の価値もない記録ですが(笑) また、菊池は沢藤さんの記録を意識したことはないと言っていますが、それは当然でしょう。そもそも沢藤さん自体を知らないでしょうから。 さて今回は、その沢藤光郎(さわふじ・みつろう)さんのことを。 沢藤さんは昭和11年、岩手・盛岡商業高時代に甲子園に出場しました。が、初戦で(この大会で優勝した)県岐阜商に0-18の大敗。そして高校卒業後は、地元の日本製鉄釜石、盛岡鉄道管理局を経て、昭和25年に創設したばかりの近鉄パールス(のちにバファローズ)に第一期生として入団しました、これが31歳の時。 監督・藤田省三、コーチ・苅田久徳。同期には関根潤三をはじめ、当時の「花の東京六大学」を卒業したばかりの選手が多数を占める「アマチュア寄せ集め集団」。当然白星は遠く、結成から4年連続してパ・リーグの最下位を低迷。チームの勝率が3割に持たない年もある断トツの「お荷物球団」でした。そんな近鉄低迷期、都会の空気を醸す若手選手たちに交じり、岩手出身の31歳投手は相当に地味な存在だったでしょう。でもそんな中にあって、沢藤さんは公式戦2戦目の対南海戦で完投勝利を挙げ、それは近鉄球団の記念すべき1勝目となりました。 以降も黙々とマウンドに立ち続け、昭和32年まで現役8年間の成績は、275試合、68勝90敗、1358回2/3、防御率3.15。勝利数68は近鉄歴代投手中13位タイの成績。同じ勝利数に小野和義がおり、さらに阿波野秀幸が67勝と続くことから、沢藤さんの凄さは容易に想像できます。なおかつ弱小球団時代の勝利数ですから、余計に価値あるものと言えるでしょう。例えれば宮台が東大で年間10勝したようなもの、と言ったら言い過ぎでしょうか(笑)(※参考)近鉄の歴代投手の勝利数は次のとおり。鈴木啓示:317勝、佐々木宏一郎:113勝、柳田豊:94勝、村田辰美、清俊彦:85勝、高村祐:83勝、山崎慎太郎、神部年男:80勝、板東里視:79勝、野茂英雄:78勝。勝利数はすべて近鉄在籍時のもの。 現役引退後は近鉄のコーチ、スコアラーを務めました。wikipediaによれば、昭和50年に近鉄がリーグ初優勝した時(後期優勝)、沢藤さんは「ネット裏に直立不動で涙を流して喜んでいた」そう。この一文に沢藤さんの人柄がにじみ出ていそうです。この年は西本幸雄氏を近鉄監督に迎えて2年目、梨田、羽田、佐々木恭、石渡らの若手が力をつけ始めたとき。きっと沢藤さんは、近鉄隆盛が近いことを予感していたことでしょう。 さらに同じ岩手出身の阿部成宏(花巻東の前身の花巻商出身)が近鉄で活躍する姿を見届けることもできました。そして「伝説の10・19」の前年(昭和62年)12月に死去、享年68歳でした。雑誌『2018世代 いわて高校野球ファイル』(岩手日報社)には、「菊池雄星 岩手の野球を変えた男」というインタビュー記事があります。その中で雄星は「花巻東に入学した時点で全国一になることが目標だったが、先輩たちはそうではないことが残念だった」と話していました。昔の岩手高校野球を知るボクからすれば、甲子園で1勝すれば御の字、岩手の高校が日本一など狙えるわけがないというのが常識でしたが、中学時代にリトルシニアで全国準優勝を経験した雄星ゆえ、その本気度は「半端ない!」ものだったでしょう。先輩たちにとって、雄星は「宇宙人」に見えたかもしれません。(写真上)近鉄パールス時代。右から沢藤、田中(武智)、関根 ~ 『近鉄バファローズ大全』(洋泉社)~(写真下)沢藤は、近鉄球団の初勝利を挙げたサイドハンドの初代エース ~『近鉄バファローズ球団史』(ベースボール・マガジン社)~
2018.09.02
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今月16日、楽天・梨田昌孝監督が電撃辞任しました。まったく突然のことで驚くばかりですが、その原因について様々な記事がネット上に溢れています。NHK解説者への返り咲きを狙ったものであるとか、コーチや選手から総スカン状態で監督とは名ばかりの状態だったとか。とりわけ興味深かったのは「データ野球に押しつぶされた」という類のもの。それは、楽天球団にある「チーム戦略室」という部署が大いに関係している。選手起用にあれこれ口を挟むオーナーに対し、合理的に説明するためデータ活用することが部署のミッション。これまで62試合で56通りの先発オーダーがあったのは、このチーム戦略室によるものだとか。一方の投手起用は佐藤義則コーチが仕切っているため、梨田さんがやることはなく、ただのお飾りに過ぎなかった・・・。これでは「えーい、辞めてやる!」と言い出しても、むべなるかな。そもそも2011年まで監督を務めた日本ハムの辞任発表も唐突でした。ここはデータ重視の「ベースボールオペレーションシステム」(別名BOS)で知られた球団。一人ひとりの選手を誰もが把握できるよう数値化し、「レギュラー」「控え」「育成」そして「在庫」に区分し、一方で控えの選手が試合出場する確率を7%と設定して、それに見合ったコストパフォーマンスを求める。要は一軍であっても二軍であっても一年をとおして試合に出場可能な選手だけに投資を絞り込み、いわゆる「不良在庫」は極力排除するという発想です。このことを理解できる人でないと日本ハムの監督は務まらない。梨田さんは日本ハム、楽天の監督時代、自身の思い描く監督像を体現できたのだろうか? と思います。選手時代に西本幸雄監督や仰木彬監督に仕えてきました。どちらも尊敬する師と公言しています。が、どちらかというと西本さんの影響を強く受けてきたものと推測します。西本さんが阪急監督を辞めて近鉄監督に就任した際、「お前たちを指導するために近鉄に来たんだ」と声をかけられた3人。梨田、栗橋、羽田。「梨、栗3年、羽田8年」を合言葉に徹底的にしごいて球界を代表する選手に成長させた西本手腕。梨田さんは西本さんの姿を、自身のあるべき監督像として描いていたはずです。自身でチーム方針を打ち出し、その枠の中で選手を育成し、戦術を立てる。一方、方針にそわない選手には鉄拳も辞さないといった・・・。もしそうならば、データ野球全盛のいま、そもそも梨田さんが監督であること自体が矛盾を抱えていたのかもしれません。ここ数年、たまにテレビで見かけるとき、近鉄時代と違って表情が曇って見えたのは、そんな事情があったからかな? 今更ながらそんなことを思います。 近鉄バファローズ猛牛伝説の深層 (追憶の球団) [ 梨田昌孝 ](写真1)『パ・リーグを生きた男 悲運の闘将 西本幸雄』(ぴあ) 『近鉄バファローズ 猛牛伝説の深層』(ベースボール・マガジン社)(写真2)故・西本幸雄監督~『近鉄バファローズ大全』(洋泉社、以下も同じ)(写真3)2001年、近鉄バファローズ最後のリーグ制覇、梨田監督の胴上げ(写真4)梨田のコンニャク打法は西本監督への反抗心から生まれた?
2018.06.24
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読者各位いつも当ブログにお越しいただき、まことにありがとうございます。さて、実は約半年ほど前から英数字のみのいたずらコメントが続き、たいへん難儀しておりました。そのためこれまではコメント欄を閉鎖して対応しておりましたが、いつまでも閉鎖するわけにもいきません。今は従来通りコメントが記入できる状態に戻しております。が、前述の事情により、英数字のみのお名前は禁止ワードに設定せざるを得ない状況ですので、誠に恐縮ではございますが、ご理解ご協力くださいますようよろしくお願いいたします。平成30年3月25日「あま野球日記@大学野球」管理人
2018.03.25
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いま『大下弘 虹の生涯』(辺見じゅん著、新潮文庫)を読んでいます。終戦直後に彗星の如く登場し、廃墟の空に虹のようなアーチを架け続けた大下弘。その弾道の美しさは類まれだったとか。かの大和球士さんをして「虹のホームラン」と言わしめたほど。「五尺七寸、すらりとした好男子ながら、手首の強靭さは希れに見るところで、打球は大きく高く、大空から右翼スタンドに虹の橋を架けわたした。虹のホームランであった」と。その弾道の美しさを夢想するうち、ボクがこれまで見たホームランの中で、どれが一番美しかったろか想像を巡らせました。そして出た結論は2001年9月29日、ロッテー近鉄(千葉マリン)で見た近鉄・礒部公一のホームランです。この礒部のホームランを説明する前に、2001年9月29日の試合は近鉄にとってどんな日だったか説明が必要です。実は、近鉄はその前の試合(9月26日、大阪ドーム)に北川博敏のプロ野球史上初となる代打逆転サヨナラ満塁本塁打が飛び出し、優勝を決めました。ボクはテレビ観戦していました。北川の本塁打に嬉しさもありましたが、多少がっかりしたのも事実でした。なぜなら近鉄にとって次の試合、9月29日対ロッテ戦の優勝決定を期待して、すでにバックネット裏のチケットを買っていたのですから。9月29日は一転して消化試合になりました。観客まばらなデーゲーム。でも試合は一定の緊張感を保ちつつ進行し、9回表、礒部のこの日2本目のホームランで近鉄が競り勝ちました。このホームランこそが、ボクが見た最も美しいホームランです。ライトポールからホームベースに向かってひかれた白線の延長線上に、ボクの座席がありました。従い、左打席に立つ礒部の打球が白線にそって高く宙に舞い、ライトポール際のスタンドに吸い込まれる様子がよ~く見えました。日頃プロ野球をネット裏から見る経験はなく、ホームランとなる打球を真後ろから見たのはたぶん初めてでした。打球は止まったように見えて、そして打球との距離感を掴めないまま、気づくとスタンドに吸い込まれていました。ほんの数秒間のことでしたが、まるでスローモーションのよう。ちょうど空には夕陽が差し、打球は赤茶色に染まって見えました。もし前の試合で優勝を決めていなければ、この礒部のホームランが優勝を決める値千金のホームランだったでしょう。優勝を間近で見られなかったファンへのせめてもの償いというか、礒部の配慮にも思えて・・・。ありがたさ、ほろ苦さがないまぜになった、夕陽の映えた礒部のホームランは最も美しい、忘れることのできない一打となりました。(写真)2001年9月26日、北川の代打逆転サヨナラ満塁本塁打が飛び出し、リーグ優勝を決める!まっさきにベンチを飛び出し、北川を迎える礒部 ~『近鉄バファローズ大全』(洋泉社)~【中古】 大下弘虹の生涯 / 辺見 じゅん / 新潮社 [単行本]【ネコポス発送】
2017.12.10
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■野茂英雄の近鉄退団劇。それは、1994年契約更改時のことでした。野茂は複数年契約を望むも、近鉄球団は拒否。数度にわたる両者の交渉も決裂し、最後は球団が「野茂よ、もう辞めてくれ!」と匙を投げて、野茂は退団を決意しました。そして海をわたってメジャーに挑戦した、その後の活躍ぶりは説明するまでもありません。メジャーの勝利数123(勝)は日本人投手として最多記録、そしてノーヒットノーランを2度も達成。さらに日本人選手のメジャー挑戦の先駆けとなったこと、それこそが最大の功績と云えるでしょう。■テレビ東京『アスリート波乱万丈 崖っぷちからの大逆転』~激白!野茂英雄 禁断メジャー移籍裏側~を見ました。残念ながら、内容はタイトルほど野茂の激白もなかったし、裏側を深く掘り下げたものでもなかったけれど、1995年頃のことを思い出すには十分でした。面白かったのは、野茂が近鉄退団・メジャー挑戦を決意した頃、マスコミが野茂に対して数々のバッシングを浴びせ様子を紹介したこと。『なにが大リーグや、野茂よ、なめたらあかん!』、『野茂英雄は米国で絶対に成功しない』『野茂よ、ワガママはいかん』などなど。各新聞はこういった見出しをつけて、野茂=ヒール役に仕立てました。思い出しますね、当時のことを。たしか野茂の出国時、見送りのファンはわずか数人だったとか。多くのファンは、マスコミの論調と同様に野茂に対して批判的だったはずです。では、近鉄ファンだったボク自身はどうだったか。実は、ボクも野茂を批判したい一人でした。「辞めたいなら、勝手に辞めればいい!」ただそれだけ。野茂の近鉄退団劇には、(番組は伝えていなかったけれど)彼のメジャー志向や鈴木監督との確執などが背景にあって、当時は非常識といわれた「複数年契約の要求」は、いわば球団との交渉決裂、近鉄退団、メジャー挑戦を狙った取引材料に過ぎないーーーと、そんな認識でしたから。また、近鉄球団に対してわずかながらも信頼を寄せていたことも理由の一つでした。■しかし、この番組で腑に落ちないこともありました。それは当時を振り返る古田敦也氏のコメントです。「日本の野球を守るためには、日本で育った人材を海外に出してなるものか!という、日本のプロ野球界だけを見た、世界を見ていない、いわゆる『鎖国』状態でしたね」と、日本球界を痛烈に批判していました。『日本の野球を守るため』『世界を見ていない』『鎖国』。それのいったい何が悪いのだ? 発言を聞きながら、そんなことを思いました。今年は広島カープの躍進や大谷翔平の活躍で日本球界(NPB)に注目が集まりました。一方でメジャー人気も高まり、当たり前のようにメジャーに挑戦する日本人選手が増加し、数々の話題が日本国内でも報道されるようになりました。でも、NPBとメジャーは、現在たまたま絶妙なバランスで両者の均衡が保たれているだけと思うのです。この絶妙なバランスは永遠に続くことはないはずです。NPB=メジャーからNPB<メジャーへ。いずれNPBは廃れるとしか思えません。そうならないために、現在であっても『鎖国』は必要ではないでしょうか。かつて古田氏は「ファンのため」と云って、涙を流してまで前代未聞のストライキを仕掛け、『拍手はいらない』という名の書籍を著しましたが、この番組ではそれをすっかり忘れた「選手のため」発言に聞こえ、そこに矛盾を感じました。東京五輪を巡っては「都民ファースト」か「アスリート・ファースト」かと論議を呼んでいますが、どちらも並び立つことはあり得ません。NPBは「ファン・ファースト」をべースに物事を発想しないといかんのでは? 野茂の一件、古田氏の発言を通じて、そんなことを思った次第。旧い考え方だとか、張さんに似ているなどといった批判もあると思いますが、そう思った方はどうぞスルーしてください。お願いします(^^)/(写真)近鉄時代の野茂英雄。~『近鉄バファローズ球団史』(ベースボール・マガジン社)より~(写真)古田敦也氏。~テレビ東京より~
2016.11.03
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前回の続き。■近鉄が奇跡的な勝利を収めた第一試合、要した時間は3時間半に及びました。試合終了時刻は18時21分。その後、ボクはスタンド下にあるラーメン屋に駆け込み、急いでラーメンを流し込みました。なにせ第2試合の開始は18時44分、つまり試合間の休み時間はたったの23分間でしたから。そしてスタンドに戻り、あたりを見まわして感じたのは、第一試合に勝利した余韻というか、「これで優勝は決まったようなものだ」というホッとした、フワフワした空気でした。それは心地よい疲労感でもありました。■佐野正幸さんは、著書にこう記しました。「第二試合が始まると、横から中年男性ファンが話しかけてきた。『第一試合より気が楽だね』。この言葉を聞いてまずいと思った。第一試合があまりにも波乱に富んだものだっただけにスタンドは微妙な風に、何かこのゲームは楽に勝てるのではという雰囲気に変わってきていた。そう、あんな感動のゲームを勝ち抜いてもう近鉄が負けるわけがないという、錯覚にも似た気持ちである」。ーーー 「第一試合より気楽だね」。その中年男性の気持ちは、ボクの気持ちと同じです(もちろん、この中年男性はボクではありません。28年前は、まだ若かった(^^)/)佐野さんが感じた危機は、残念ながらボクにはありませんでした。数時間後には目の前で近鉄の胴上げを見ることができる! そんなことを夢想し、若干の眠気を感じつつ、第二試合は静かに進行しました。すると2回裏、突然にこのシーズン限りで解雇が決まっていたロッテの4番・マドロックに先制の特大本塁打が飛び出します(いま考えると、クビになった打者がなぜ4番なのか意味不明ですが・笑)。ロッテ1-0近鉄。あれれ、近鉄が勝利するシナリオなのに、余計なことをする奴がいるもんだ。旧い表現で恐縮ですが、マドロックはまったく「K・Y」な男に映りましたが、まぁ、いいか、これで試合がまた面白くなる、そう思いなおすことにしました。でもファンと同様に選手たちも、第一試合の興奮から醒めていない様子で、近鉄の攻撃がとにかく「重かった」。スコアボードは、近鉄の「0行進」が続きます。そんな中、力づくで目を覚まさせてくれたのは、ヘッドコーチの中西太さんでした。■佐野さんは書きます。「6回表、先頭バッターは真喜志康永・・・沖縄出身のルーキーである。だが見逃しの三振・・・しかし最後のコースが微妙だった。中西コーチが、その巨体を揺らして、怒鳴りながら抗議に出てくる。物凄い迫力である。今にも主審につかみかからんばかりばかりの勢いであった。(でも判定が覆るわけもなく)怒りながらもベンチに無念の表情を浮かべながら下がる中西コーチ。だが、近鉄ナインは、コーチの身体を張った抗議を無駄にしなかった」。ーーーそう、そうでした。あの中西さんがグラウンドに飛び出した瞬間、やっとボクは目を覚ましました。選手も同じだったようです。直後、大石のレフト前安打が反撃ののろしとなって、オグリビーの適時打が生まれ、あっという間に同点に追いつきました。そして続く7回には吹石と真喜志に本塁打が飛び出し、この時点では、近鉄優勝が間近に迫ったのだと信じることができました。あくまで、この時点では。やはりきっかけは、中西さん。審判への抗議を道具に使って、と書くと審判に対してたいへん失礼ですが、「いい加減に目を覚ませ!」と選手たちを鼓舞する、中西さん一流の演出だったと思います。またさきほど「グラウンドに飛び出した」と書きましたが、正確に言うと、少し違います。ベンチから二歩、三歩と歩くといったん足を止め、まずティッシュで鼻をかんでいるようでした。そしてそれを終えると、遠くホームベース方向に向かって何やら言葉を発し、その後に、のっそのっそと巨体を揺すりながら、主審の山川さんに近づていったのです。その様子は、ユニフォームを着ていなければ、ただの酔っぱらいのおっさんがグラウンドに闖入したのと変わらない、とても滑稽なもの。でも、それがいかにも近鉄っぽい風景でした。次回に続く。(写真)6回表、前川主審に対し執拗に抗議する中西太さん。~『近鉄バファローズ大全』(洋泉社)より~
2016.10.29
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あの、伝説となった「10・19」から、ちょうど28年が過ぎました。■28年前の今日、近鉄ファンだったボクは、川崎球場でこのダブルヘッダーを見ていましたが、喜怒哀楽、悲喜こもごも、どんな言葉を用いても伝えきれないくらいの、あらゆる感情がごちゃ混ぜになった、とんでもない一日となりました。ヤンキース・田中将大が駒大苫小牧高の卒業時、甲子園優勝と不祥事による出場辞退の「天国」と「地獄」を味わったことで「まるでジェットコースターのような3年間だった」と振り返りましたが、まさにこの日はボクにとっての「ジェットコースター」のような一日でした。とはいえ、年齢のせいか、次第に記憶が薄れていることが自分でも分かります。そのため、今春鬼籍に入られた元近鉄バファローズ応援団長・佐野正幸さんの著書『1988年10・19の真実』(主婦の友社)を頼りに、その日を振り返りたいと思います。試合の模様はこれまで何度も書きましたので、今回はグラウンド外のことを。■あの日、川崎は朝から快晴でした。しかし当時の世の中は、昭和天皇の体調が思わしくなく、全国的に自粛ムードが広がり、各地のお祭りが次々と中止になるなど、どんよりとした重い空気が漂っていました。<1.試合開始前、チケット売り場付近で>♠佐野さんはこう書いています。「川崎球場に着いたとき、思わずワーッ!と叫んだ。球場正面入場券売場に人が並んでいるのだ。駐車場にも満車の札がかかっている。まだ試合開始2時間以上前である。・・・入場券売場を見ると、いかにも大観衆に慣れていない係員が必死に客を誘導している。列はどんどん膨らんでいる」♦ワーッ!入場券売場に人が並んでいる、というのが可笑しいですね。でも、いまのパ・リーグでは考えられませんが、当時の、特に川崎球場の群衆なんて全くあり得ないことでした。だから、佐野さんの驚きはよ~く分かります。ボクは佐野さんより相当早く球場に着いたのでしょう、入場券売場に並んだ時は、たしか10人程しかいませんでした。なんの喧噪もなく、長閑で、ひょっとしたら近鉄が優勝するかもしれない?といった緊張感もなく、ただの消化試合といった雰囲気でした。<2.第一試合を奇跡的に勝利して>♠佐野さん「私はさすがに空腹を覚えた。仲間の女性に弁当を買ってくるように頼んだ。ところが数分もしないうちに彼女が売店から戻ってくると、たいへん、ビールもお弁当もとっくに売り切れだって・・・と。慌てて様子を見に外に下りて行ってみると、確かに売店のあちこちに『売切れ』の立て札がかかっている。かろうじてラーメン屋はやっているようだったが・・・」♦同じころ、ボクは、まさにそのラーメン屋でラーメンをすすっていました。周辺は人でごった返し、入場口の外に目を向けると、そこには中に入れない人々が幾重にも群がっていて「開けろ~」「入れろ~」と、殺気立って叫んでいました。ほんと驚きましたね、まさに大群衆です。60年安保の時、国会議事堂前に群がったデモ隊はこんな感じだったのかな?と想像したことを覚えています。「いったい、なぜこんなに人がいるのだ? 近鉄ファンがこんなにいたのか? 川崎球場と大群衆、まったく無関係と思える光景が現実に目の前で起きていました。ーーー あ、思ったよりも長くなってしまいました。続きは明日に。※写真:『バファローズ大全』(洋泉社)より。(左)第一試合の先発投手、小野。(右上)次第に近鉄側応援席を埋め始めた人、人、人。(右下)第一試合の開始直後。
2016.10.19
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楽天監督に就任した梨田昌孝さんのことを。■現役時代に最も記憶に残るのは、1988年10月19日の「伝説の10・19」です。ダブルヘッダーの第一試合、3-3の同点で迎えた9回表。同点引き分けでは優勝可能性が消滅する近鉄は、代打・梨田が中前に適時打を放ったことで勝ち越しに成功しました。この時点で、優勝の可能性を残す貴重な一打となりました。直前には走塁ミスがあったり、阿波野の緊急登板があったりで、三塁側応援席で観ていたボクの感情はジェットコースターの如くに天国と地獄を慌ただしく行き来していましたが、結果的にこの一打が試合のピリオドを打ってくれました。■実はこの直前、不思議なシーンがありました。仰木彬監督はなかなか「代打、梨田」と主審に伝えなかったのです。梨田自身は「自分の出番」とばかりにネクストで待機していましたが、仰木さんはずっと突っ立ったまま空(くう)を見つめていて・・・。ん、代打はだれ? 梨田じゃないの? なんて想像を巡らすことができるほど長い時間があって、その後にやっと梨田と告げました。あの間(ま)はいったい何だったのでしょうか? 後日、仰木さんは「梨田もこれが現役最後の打席かぁと、感慨に耽っていた」と述懐していましたが、それは違うと思うのですよ。次に第二試合が控えていたから、そこで梨田が打席に立つ可能性もあるわけだし。梨田自身も「なぜあの時、すぐに代打・梨田と言ってくれなかった?」と訝っていましたから。そんな中で、梨田は決勝打を放ちました。「なぜすぐに代打を告げない?」「なんとか優勝の可能性を残せるように適時打を打ちたい」「ひょっとしたら現役最後の打席になるかもしれない」。この写真の人生初のガッツポーズは、慣れない、ぎこちないものだったけれど、そんな複雑な感情が入り混じった中での快打だっただけに、とても輝いて見えるのです、きっと。 (写真)NHK『ヒーローたちの名勝負』より。 以下も同じ。(写真)本文と関係ありませんが、佐藤の走塁ミス、梨田の適時打とガッツポーズ、そして生還した鈴木貴と中西の抱き合って転げまわるシーンは、すべてセットになって記憶しています。<関連記事>「伝説の10・19」から25年後の述懐~中西太、高沢秀昭http://plaza.rakuten.co.jp/amayakyuunikki/diary/201310190000/
2015.10.14
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プロ野球近鉄で最後の監督を務めた梨田昌孝氏(62)が来季、近鉄のDNAを受け継ぐ東北楽天で指揮を執る。2004年の近鉄とオリックスの球団合併をきっかけに誕生した東北楽天について「近鉄の生き返りという印象を受ける」と語った梨田氏。因縁浅からぬチームで、まだ成し遂げていない日本一を目指す。 「楽天ができた初年度から古里のように思っていた」。8日、球団職員へのあいさつで胸の内を明かした梨田氏。現役時代は17年、指導者でも12年在籍した近鉄への思いは今でも強い。就任会見では「近鉄がなくなって野球から離れたファンに、また見てほしい」と呼び掛けた。(河北新報より)■梨田昌孝さんの楽天・監督就任が決まりました。楽天を「近鉄の生き返り」と言い、さらに「近鉄がなくなって野球から離れたファンに、また見てほしい」と言う件(くだり)は、本当に泣かせます('_') まさにボクに語りかけているようで(そんなわけがないけれど・・・)、10年以上ぶりにプロ野球を見てみようか! なんて気にさせられました。思い起こせば斎藤佑樹の日本ハム入団会見当日、梨田さんはスーツ姿のままで(マウンドに立つ)斎藤の球を受けましたが、監督なのにどこか遠慮がちな表情だったので、「あ~、この人は日ハムにどっぷり浸っていないなぁ!」と印象を受けました。さらに別のことも思い出しました。近鉄バファローズの最終試合で梨田さんは選手たちに胴上げされて歓喜の涙を流しました。が、実はその直後に、監督として最後にやらねばならない仕事(修羅場)が待っていました。合併するオリックス球団のためにプロテクトする選手と、それ以外の選手の選別作業です。語弊があることは重々承知していますが、プロテクトされる選手とは即戦力として梨田さん自身が認めた選手のこと、そしてそれ以外とは、いわゆる「それ以外」であります(岩隈や磯部などの例外はありますが)。で、それ以外の選手たちはどうなったか? おもに楽天に行ったのですね。こうした事情を踏まえ、梨田さんはいったいどちらに愛着を感じるでしょうか? プロテクトしなかった選手たちにこそ、申し訳なさを含め強い愛着を感じているはずです。だから、梨田さんは(時間はかかったけれども)楽天の監督になるべくしてなった、ボクはそう思っています。
2015.10.09
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以下、スポニチより。楽天の来季監督に梨田昌孝氏(62)の就任が決定的であることが22日、分かった。就任1年目で最下位からの巻き返しを狙った大久保博元監督(48)はクライマックス・シリーズ(CS)進出の可能性が消滅し、今季限りで退団することが決定。2年連続でBクラスに低迷するチームを、01年に近鉄、09年に日本ハムをリーグ優勝に導いた「名将」が立て直す。 ■え、梨田昌孝さんが楽天の監督に? このニュースには驚きました。たしか縁もゆかりもない日本ハム監督に就任した時は、親会社の戦略上「主婦受けのよい」マスクをした梨田だからこそ白羽の矢が立った、なんて陰口を言われたものです・遡って近鉄に監督として返り咲いた時には、梨田、小林繁、真弓などの監督・コーチが揃い、「イケメン監督・コーチトリオ」と話題を提供しました。しかし、それじゃぁ正田コーチの立場がないだろうと、ボクはひとり気を揉んだものでしたが(笑) さて、楽天の梨田招へいの目的は何でしょうか? 投手コーチは与田という話もあるため、二度あることは三度ある、つまりマスク中心の話題狙いなのでしょうか。もしくは「NHK解説者トリオ」(あと一人は誰? 小早川? 大島?)と呼ばれるのでしょうか。もちろん、梨田さんの実績を否定するつもりは毛頭ありませんので(名将と呼ぶにはまだ早い気がしますが)、念のため。むしろ近鉄の「名残」を継承する楽天に梨田監督就任ならば、ボクにとって喜ばしい限りであります(^^)/
2015.09.24
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前々回に千葉茂著『猛牛一代の譜』から記事を引用したことで、久々に千葉茂さんのことを思い出した。巨人の大スターだった千葉だったが川上哲治との監督争いに敗れ、1959年、縁もゆかりもない近鉄の監督に就任した。しかし、ここではさらに予想以上の辛酸を嘗め続けることになるー。それはなぜか? 必死で常勝巨人軍の野球を叩きこもうとするも、負け犬根性が染みついた当時の近鉄ナインには響かず、いや、それどころかナインの反発にあう始末。それは負の連鎖、悪循環ともいえ、手の打ちようもない最悪の状況だった。結局、千葉はたった3年間で近鉄を去る(追われる)ハメになる。■負け犬根性が染みついた近鉄とは、いったいどんな風だったか? 千葉が就任する前年、1958年の近鉄の成績を見ればよくわかる。それは『野球雲Vol.3』(雲プロダクション)に詳しい。 「1950年代の近鉄は54年のAクラスが1度で、ほとんどが最下位だった。その中でも1958年は近鉄の歴史の中でも最悪の年だった。加藤春雄監督のもと、シーズンが始まると激しく負けていく。4月に3勝15敗1分、5月に4勝18敗1分、6月に6勝17敗、7月に4勝14敗、8月はやっと普通の最下位チーム並みの8勝14敗1分、9月に4勝16敗1分・・・結局通期の成績は130試合で29勝97敗4分」。さらに細かに見ると、1番・木塚忠助(元南海)、3番・関根潤三、4番・小玉利明を擁すも他球団より遥かに劣り、チーム打率は.215。安打数では他球団が軒並み1000本を超える中、近鉄が唯一3桁の907本の貧打ぶり。一方の投手陣も悲しい。大津守、武智文雄やユニオンズから移籍した伊東四朗らがいたが、多くの球団が2点台のところ、唯一4点台の4.04。これでは最下位も、むべなるかな。 ■書いていて寂しくなるが(笑)、こんな中で監督を引き受けたのが千葉だった。常勝巨人軍の大スター千葉といえども、いや千葉だったからこそ、そもそもナインの反発は必至だったといえる。前出の『猛牛一代の譜』を読んだが、負け続ける苦悩を書き綴った文章はほぼノイローゼ気味で、とてもとても冷静に読めるものではなかった。 (写真)千葉茂監督と近鉄ナイン(『野球雲』より)<関連記事> 野球雲(外部リンク)http://baseballcloud.jp/告!当ブログは「野球ブログ瓦版」に参加しています。もしよろしければ、下記のサイトもご覧ください。こちら→ http://kawaraban.blog.jp/
2015.07.07
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先週戦った慶應義塾大ー法政大のカードは、予想に反して法政が2連勝して勝ち点1を挙げた。■まさかの2連敗を喫した慶應・大久保秀昭監督の苦悩は如何ばかりか。彼は元・近鉄バファローズの選手だったゆえ、ボクは一方的ながら親近感をもっている。大久保さんは、1996年ドラフトで日本石油から6位指名で近鉄に入団した。ちなみにこの時のドラフトは、日本石油から横浜・川村丈夫、巨人・小野仁、日本ハム・高橋憲幸らとともにプロ入りしたため「日石四人衆」と呼ばれて話題になった。■しかし大久保さんは捕手として入団するも、「捕手王国」の余韻がまだ残っていたチーム事情と故障もあって、主に活躍の場は「代打業」に求められた。ここぞ!という場面で登場する、左の切り札的存在。前(右)足をせわしくなく上下してリズムをとるフォームはが印象的だった。プロ通算成績。在籍5年、83試合、95打数22安打、打率.232、本塁打2。桐蔭学園ー慶應義塾大ー日本石油と、アマチュア球界の王道を歩んだ大久保さんにとって、この成績は不満足だったかもしれない。だがその後、日本石油ENEOS(現・JX-ENEOS)監督に転じると、史上最多タイとなる都市対抗3度の優勝を飾るなど名将ぶりを発揮した。また田澤純一のメジャー挑戦を巡る一連の騒動では、田澤を守り通した姿勢も記憶に新しい。■さて、思わぬ苦難の船出となった慶應だが、まだまだ優勝の可能性はある。ボクは優勝候補の筆頭を立教大と見ているが、慶應は立教に勝てば道は開ける。まずは切り替えて頑張ってください!(^^)! (写真)試合前、ノックバットをもつ慶應・大久保秀昭監督。 (写真)JX-ENEOS監督時代。 (写真)本来は左打者だが、なぜかノックは右打ち。 告!当ブログは「野球ブログ瓦版」に参加しています。もしよろしければ、下記のサイトもご覧ください。こちら→ http://kawaraban.blog.jp/
2015.04.15
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本日付の朝日新聞より。オリックス・宮内義彦さんの回顧記事があった。内容は「2004年近鉄との合併」にまつわること。すべてではないが、宮内さんの話に2点共感できた。(1)まず選手会のストライキについて。「ファンのため」という言葉を掲げるのは簡単。ただファンに支持されなかったからこそプロ野球は独り立ちできなかった。観客が増えないのに選手の年俸は高騰し、経営が苦しくなった。なのに、厚遇を享受する選手がストをするとは理解できなかった」。この点について、まったく同感。当時の選手会長は「ファンのため」という言葉をいつも口にした。そして、その後に書いた著書のタイトルは『拍手はいらない!』だったが、何が「ファンのため」?なぜあなたに「拍手する」? 当時の選手会長の言動やストが、まったく理解できなかった。(2)ライブドアについて「ライブドアの堀江貴文社長が球場に乗り込む姿がまるで正義の味方のように報じられていた」。これも同感。なぜあんなフィーバーが起きたのか。いまだに不思議な現象だった。
2015.03.16
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2010年までロッテでコーチを務めた代田建紀氏(41)が4月から首都大学野球リーグの城西大のコーチに就任することが4日、分かった。巨人などで活躍した就任6年目の小原沢重頼監督とともに「元プロコンビ」が誕生する。代田氏は現役時代にイースタン、ウエスタン両リーグで盗塁王を獲得した実績がある。昨年3月に学生野球資格の回復が認定され、母校の後輩に走塁面の技術をはじめ、幅広い指導が可能になった。小原沢監督は「野手は昨年から経験者が残っている」と、12年ぶりの優勝に向けチームづくりを進めている。今年は大学創立50周年の節目の年だけに、代田コーチとの強力体制で巻き返しを図る。 (以上、スポニチアネックス)■プロ選手の、学生野球資格の回復制度が着実に進んでいる模様・・・。と書くのは簡単だけど、これまでの歴史からみれば格段の進歩であることは間違いない。元プロ選手に学生野球指導者への道がますます拡がることを祈るばかり。さて、代田建紀のこと。ロッテというより、ボクにとっては近鉄の代田と呼ぶほうがしっくりする。’97年のドラフト6位指名で近鉄バファローズに入団した。この年のドラフトは活況。平安の川口友哉(オリックス1位)や慶應大・高橋由伸(読売1位)、明治大・川上憲伸(中日1位)が話題を集め、近鉄は代田のほか、法政大・真木将樹(1位)、青山学院大・高須陽介(2位)らが指名された。7位の高塚信幸(智弁和歌山)は、指名にあたり投手か野手かが話題になった。代田は俊足好打の外野手として活躍が期待されたが、大村直之とキャラが被る印象があって、2年後にはトレードでヤクルトに移籍した。wikipediaには近鉄在籍2年間で出場試合数が「7」と書かれていたが、それだけかぁ? そのわりに代田の名前はよく覚えているのだけど・・・。■代田が就任する城西大のグラウンドは、埼玉・毛呂山町というところにある。10年ほど前にここを訪ねたことがあるが、その道のりの遠いこと遠いこと。グラウンドに行く道すがら、こんなに苦労してまで行く価値があるのだろうか、なんて思ったもの(失礼!)。実はこの時、首都大学リーグ1部2部の入替戦が行われていた。「入替戦マニアとして必ず行くべし!」と強く言い聞かせ(笑)、修行僧の如く果てしなく続く道を歩いた。対戦カードは獨協大(1部6位)vs武蔵大(2部1位)。武蔵大の投手は、後に阪神から3位指名を受ける上園啓史(現・楽天)だったから、行って正解だったと自ら労をねぎらったものだった。 告! このたびライターの広尾晃さんが主宰する「野球ブログ瓦版」が、当ブログも紹介してくだいました。もしよろしければ、こちらのサイトもご覧ください。目指すのは野球ブログのポータルサイトでしょうか? ともあれ、よろしくお願いします。こちら→ http://kawaraban.blog.jp/
2015.03.06
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本日、amazonから『近鉄バファローズ 猛牛伝説の深層』(梨田昌孝著、ベースボールマガジン社)が届いた。いうまでもなく、梨田昌孝さんは『江夏の21球』(1979年)や『10・19』(1988年)、そして近鉄最後の優勝(2001年)、さらに球団消滅(2004年)までを、いずれもグラウンドで経験した貴重な人物。彼はこれら伝説の数々をどのような感慨をもって振り返るのだろ? それが、ボクがこの書籍を購入した理由。いや、でも実はもうひとつ理由があって、PRのコピーにあった『僕のあとの近鉄第17代監督は彼にやってほしかった』(第7章)に、妙にボクはそそられてしまったからなのだ(^^)/ むしろ、これが購入の最大理由だったかもしれない!?うーん、梨田さんが後を託したくなる男って、いったい誰なんだろ?で、さっそく第7章だけを読んでみた。「え?」という驚きももあり、逆に「なるほど!」という納得感もあり・・・。わかる人には簡単すぎるでしょうが、いったい、それは誰なんでしょ??? ずれも
2015.01.27
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今日は久しぶりにプロ野球をテレビ観戦しました。パ・リーグのCS第5戦、日本ハムvsホークス。近鉄が消滅以来、久しくプロ野球をあまり見なくなったのですが、今日は郷土(岩手)のヒーロー・大谷翔平が先発すると聞き、テレビのチャンネルを合わせました。■目を奪われたのは、7回表のこと。日本ハムの1番・西川遥輝の打った打球が右中間に飛び、スタンドで大きく弾んでグランドに跳ね返った(ように見えた)。ホームラン・・・!。ライト線審はいったんホームランと判定するも、すぐに他の審判員を呼び寄せて、あらためてビデオ判定を判断。すかさず、そのライト線審はマイクを持ち、「ただいまから、ビデオ判定をいたします」とアナウンスをした。両監督のアピールなしに審判がそう決断するのは珍しいと実況アナが言っていたが、審判袖番号「21」をつけた、そのライト線審の名前は、佐藤純一さんだった。(写真)ライト線審の佐藤純一さんは「ビデオ判定」とアナウンスした。(NHKより。以下も同じ) (写真)一瞬ホームランに見えたが、ビデオ判定の結果、打球がフェンスのてっぺんに当たってグラウンドに跳ね返ったのがわかり、打者の本塁打を取り消して三塁打とした。■「佐藤純一」、この名前をボクはよーく憶えている。以前は近鉄バファローズの選手だった。印象深いのは、今から26年前の(1988年)10月19日のこと。第1試合の9回表、代走で二塁走者となった佐藤は、鈴木貴久の安打で一気に三塁を駆け抜けた。「よしっ、逆転だ!」そう思った瞬間、なぜか佐藤は三塁へ逆戻り。真の悪いことにボールは捕手から三塁手へ渡り、タッチアウト。え~? いったい何があった??? スタンドで見守っていたファンは、口をアングリと開けたままだった。直後に代打・梨田昌孝が適時打を放ち事なきを得たが、このワンプレーを通じてボクは佐藤の名をインプットした・・・。でも、今更文句を言おうと思ってブログを書いているのではない(^_-)-☆あの凄まじい試合の中で、スタンドにいたファンでさえ間違いなく冷静さを失っていた。あんな興奮状態というか、異様な空気に包まれて野球観戦したのは後にも先にも一度もない。まして選手なら、どれほどのプレッシャーの中でプレーしていたのだろうか。仰木彬監督や中西太コーチこそがもっとも冷静さを失っていたともいえる(笑)。そもそも、あらゆる局面で常に冷静な判断をすることなど至難の業だったのだ。だから、むしろ佐藤は「10・19」のダブルヘッダーを「伝説の試合」に押し上げた立役者だと思いたい。今日の試合の迅速な対応を見たことで佐藤を思い出し、そして今後の健闘を祈るために今日のブログを書いた次第。(写真)あ~、スタンドからため息が漏れた。代走・佐藤純一はアウトになった後、しばらく立ち上がれない。■そういえば、2001年にあった北川博敏の代打・逆転・サヨナラ・満塁本塁打が飛び出した試合。その主審を務めていたのは佐藤純一だった。 (写真)北川博敏が代打・逆転・サヨナラ・満塁本塁打を打つ瞬間。
2014.10.19
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雑誌『近鉄バファローズ大全』(洋泉社)を見ていました。昨日の続き。<1枚目>第2試合終了後。ファンに一礼してベンチに向かう近鉄ナイン。中央に、この年10勝して優勝に大きく貢献した村田辰美。左に故・仰木彬監督、さらに左に故・鈴木貴久。そして右には村上隆行、その後ろに吉井理人、山崎慎太郎。吹石徳一の姿も見える。正直言うと、ボクはこのシーンを見ていない。延長10回表、近鉄の攻撃が終わり優勝が消えた時点で、川崎球場を後にしました。勝利がないことをわかりながら、守備につかねばならない選手たちを見ていられなかったから。今にして思うと「最後まで見ていればよかったなぁ・・・」と。ボクの後悔です。 <2枚目>第1試合のスコアボード。26年前のこの日は、今日と同じく小春日和の日でした。開門前にチケット売り場に並びましたが、並んでいる人の数は少なく、まるで消化試合のようでした。まさか、あんなに素晴らしい試合になるとは夢にも思いませんでした。レフト線審に山崎夏生さん(現・NPB審判技術委員)の名前も見えます。 <3枚目>一塁塁審の「アウト!」の判定に、珍しく激昂する新井宏昌。 <4枚目>バント処理をめぐって梨田正孝と阿波野秀幸が接触。「この直後に阿波野はキッと私を睨んだんですよ(^^)/」とは、梨田の後日談。 <5枚目>うーん、何にも言えねぇ(北島風)。ただただ懐かしい!このあたりにボクもいましたよ。
2014.10.19
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■すっかり忘れていましたが、今日は10・19だったんですねぇ。あれから26年ですか? うーん、あの日(1988年10月19日)、ボクは三塁ダグアウトの真後ろで声をからして近鉄を応援していました。優勝を信じて・・・。でも、結局、夢は叶いませんでした。あれから26年経ち、だいぶ記憶が薄れましたが、以下4つのシーンだけは鮮明に憶えています。
2014.10.18
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■『野球百年』(時事通信社)より。「1966年、セ・リーグの新人賞は巨人の堀内恒夫。一方パ・リーグは該当者なし。優秀新人と予想された近鉄の鈴木啓示はチーム力弱く、新人王のライン15勝に達しなかったが、大物新人の実力は十分に発揮した」。この年、鈴木啓示(育英高)は10勝(12敗)を挙げた。巨人にいた堀内と違い、弱小球団・近鉄での10勝だから、それはたいへん価値のあるものだった。鈴木に関するエピソードとして、大和球士さんは、9月27日の対西鉄戦のエピソードを綴っている。「まず1番から5者連続三振の切れ味を示した。快速球投手、本格派投手の折り紙をつけられた鈴木にとっては忘れられぬ快心の投球内容であったろう。すべり出しの好調にうまく乗った鈴木は、左腕からくり出す快速球の伸びのあるままにゆうゆうと投げ続けて、8回までに、ー三振15個を記録した。あと、3個で、新記録を達成するところだったが、9回目は三振を1個も奪えんなかった。6回目に三塁手小玉から、17個の三振がプロ野球の最高記録だから、挑戦してみろと、はっぱをかけられたが、『・・・そう言われてみたら、人間は弱いもんですなぁ、かえって意識してしもうて』という鈴木の述懐が面白い。記録はともかくとして、この大物新人鈴木は順調に伸びて、いま近鉄の若きエースである。(写真)鈴木啓示の現役時代後年。~『近鉄バファローズ大全』(洋泉社)より~ボクにとっては速球派というよりも、後年、安定した投球で無四死球試合を続ける鈴木のほうが印象深い。■大和さんが紹介した、鈴木が1試合15三振を奪った9月27日の近鉄対西鉄戦(日生)を調べてみた。スタメンアーカイブによると、西鉄の打線は、1番・西脇、2番・船田、3番・バーマ、4番・ロイ、5番・アギー、6番・高倉、7番・和田、8番・下須崎、そして9番は、投手の池永正。ボクの記憶にあるのは、船田、高倉、和田、池永ぐらいだけど、鈴木はこれらの打者から計15三振を奪ったわけだ。一方、近鉄は、鈴木の女房役が吉沢。打撃陣の中軸は、3番・小玉(翌年、選手兼で近鉄監督に就任)、4番・土井、5番・クレス。そして試合結果は、鈴木の好投によりスコア4-1で近鉄が勝利を収めた。■鈴木は育英高時代からプロ野球界に名を轟かせた逸材だった。プロ入りに当たっては、地元・阪神への入団を熱望した。しかしこの前年1965年秋から始まったドラフト制度が鈴木には災いし、近鉄入団を余儀なくされた。そして翌年、阪神に入団したのが大阪学院高の江夏豊。鈴木と江夏、この2人には妙な因縁がある。高校時代、2人は練習試合で対戦したことがある。この試合は延長15回スコア0-0の引き分けに終わったが、江夏は15イニングを投げて15三振を奪う投球だったが、鈴木はそれをさらに上まわる27三振を奪う快投を見せた。 4番打者として打席に立った江夏は、鈴木の速球と落差の鋭いカーブに手も足も出ず、「1球もかすらなかった」と述懐し、この時以来、カーブを習得したいという願望が芽生えたという。(写真)鈴木啓示の育英高時代 ~『激動の昭和スポーツ史』(ベースボール・マガジン社)より~■そして、それから15年後、江夏にカーブの重要性を教えた鈴木のいる近鉄との日本シリーズ第7戦(1979年、『江夏の21球』)で、江夏はそのカーブを巧みに操って、見事に9回裏無死満塁のピンチを乗り切って広島を初Vに導き、近鉄悲願の日本一を打ち砕いたのだ。因縁と呼ぶにふさわしい出来事。まったく不思議で、そしてボクにとっては悔しい逸話である。
2014.05.12
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最近、時代があちこち移っていましたが、今回から1967年(昭和42年)に戻ります。■この年、近鉄バファローズは岩本義行に代わり、小玉明利が新監督に就任した。ただこの名前を聞いてもよほどのオールドファンでない限りご存じないはず。小玉とはいったいいかなる人物だったか? その説明から今回のブログをはじめましょう。小玉が近鉄に入団したのは1952年秋。新聞で「プロ野球選手募集」の求人広告を見て応募し、入団テストを受けて入団した。まだ神崎工高の2年生だったが、テストで小玉のプレーを見た当時近鉄捕手の根本陸夫が、芥田武夫監督に小玉獲得を進言して実現したという。■当時の近鉄は「お荷物球団」と揶揄されながらも、スター軍団東京六大学リーグの選手をかき集めてチームを構成しており(※)、小玉は入団当初「周囲の選手を高級ネクタイ、高校中退で無名の自分は使い捨ての安ネクタイ」と卑下するほどだった。※近鉄の球団設立当初(1950年)、初代監督は法大監督だった藤田省三。25選手 の内17人までが東京六大学出身者(法大11、明大3、立教2、早大1)という徹 底ぶり。前出の根本も関根潤三とともに入団した法大出身の選手。ところが小玉、入団2年目から巧打の三塁手としてメキメキ頭角を現す。132試合に出場して打率.264の成績を残すと、その後は打率3割を6度マークするなど打撃十傑の常連に成長した。特に内角打ちが得意で大毎山内一弘並みと評されるほど。長打力こそなかったものの4番を任されるに至った。入団時に自らを卑下した「安ネクタイ」がいつの間にか「高級ネクタイ」に変貌した。それにしても驚くのは根本の選手を見出す「眼力」。後に近鉄は根本を手放すことになったが、もし根本が近鉄に居続ければ、近鉄の歴史はおそらく違うものになっていたのではないか。つい、そんなことを想像してしまう。ま、これは余談。■そして、思いがけず小玉に監督の大役が巡ってきたのは、近鉄入団から14年後の1966年のこと。しかも選手層の薄い近鉄ゆえ、選手兼監督としての要請だった。小玉はその厳しさを覚悟の上で、要請に応えた。千葉茂、別当薫、そして神主打法の岩本義行と、近鉄は三代続けて外様の大物監督にチームを委ねてきたが、この時、やっと自前の選手を監督に押し上げた瞬間だった。監督就任後、小玉は頑張った。1967年5月には5連勝して、なんと近鉄がリーグ首位に立ったのである。この「春の珍事」にマスコミは沸いた。このことを浜田昭八さんは「皆既日食に出くわすほどの希少価値」(『近鉄球団、かく戦えり。』日経ビジネス人文庫)と書いた。しかしその2日後に首位を滑り落ちると、以後はずるずると後退し、結局最下位でシーズンを終えた。浜田さんは書く。「兼任監督は気苦労が多かった。守っていても、ブルペンの様子が気になった。逃げ切り体制に入った時などは、自分の拙守で試合がもつれてはいけないと、消極的な姿勢になった。代打起用では打率が低くても、小玉の目を見て起用を訴える選手を選んだ。残念ながら、そのタイプの選手は少なかった」。■小玉はたった1年で監督を降り、そして近鉄を退団して、一選手として阪神に移籍する。代わって近鉄の監督に就任したのは三原脩である。実は三原の監督就任は、小玉が監督に就任するときからすでに決まっていた球団の既定路線。小玉の成績がよかろうが悪かろうが、たった一年で監督の任を終える運命だったのだ。「安ネクタイ」が「高級ネクタイ」になったと思ったら、さらにそれを上回る「高級ネクタイ」三原に監督の座を奪われた。事前に小玉は知っていたか不明だが、失意の中で近鉄を去ったであろうことは想像に難くない。かつての千葉茂もそうだった、近年では鈴木啓示もそうだった。近鉄の監督は、どうにも「失意」という言葉が妙に似合う。いや近鉄に限らない、プロ野球の監督は勝つことが仕事。勝ち続けることができなければ、いつかはそうなる、といったほうが正しいのかもしれない。■小玉は阪神に移籍し、その2年後に現役を終えた。通算安打数は1963本。2000本安打まであと37本を残しての引退だった。あと37本、何とかならなかったかな? それが残念。(写真)小玉明利。~『近鉄バファローズ球団史』(ベースボール・マガジン社)より~
2014.02.24
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■大和球士さんは、著書『野球百年』(時事通信社)の「西本幸雄の信任投票事件」の項において、次の一文を書いていました。余計な説明は省いてそのまま書き写します。「西本幸雄は、昭和25年毎日に入団して以後、コーチ2年、二軍監督3年間、ヘッドコーチで監督となり、毎日をパ・リーグの優勝チームに仕上げたが、大洋と対して日本選手権試合に敗れた。もんもんとしていること暫時、球団側は次の監督宇野、コーチ別当などを決めてしまったので、やむなしとして、パ・リーグの優勝監督西本は辞表を提出した。優勝監督でありながら、辞職しなければならぬ立場に追い込まれたもの、一リーグ時代の24年度の巨人監督三原脩あり、二リーグになった25年度の松竹監督小西得郎あり、35年度の毎日の監督西本幸雄あり。ここに人世の、ー 輪廻(りんね)を見る、小西が辞職に追い込まれたのは毎日オリオンズに選手権試合で負けたためであり、そのオリオンズの監督西本が10年後に退陣することになったのは、三原ひきいる大洋に選手権試合で4連敗を喫したためである。そしていま、近鉄監督になった三原は43、44年度続けて阪急に挑んで敗れている。回顧してみると、輪廻とまではいわないとしても、不思議に因縁めいたできごとを発見する。負けるチームが同じ過失を10年目に繰り返していることである、松竹は25年に、二塁走者岩本が三塁へ暴走して毎日に名をなさしめ10年後にはその毎日が、同じ二塁走者柳田の三塁への猪突によって大洋に凱歌を奏させたのである。野球は一試合一試合を”点”で眺めて面白く、長い歴史の”線”において見ると、より楽しい。■さすがに大和球士さん、名文だと思います。最後の、野球は一試合一試合を”点”で眺めて面白く、長い歴史の”線”において見ると、より楽しい、という下りはサイコ-です。確かに、プロ野球には輪廻というか、因縁を思うことがたびたびあります。この大和さんの文章を読み、真っ先にボクの頭に浮かんだのは、2001年9月26日の近鉄-オリックス戦でした。北川博敏の逆転サヨナラ満塁ホームランで近鉄が優勝を決めた、あの試合です。この時、近鉄の優勝を相手ベンチから見届けたのは、元・近鉄監督の仰木彬さんでした。そして、胴上げ監督が近鉄時代に10・19をともに戦った梨田昌孝だったことに、ボクは2人の因縁を感じます。さらにその後も、この2人の因縁は続きます。■2004年に近鉄が消滅し、最終試合で選手たちの手で胴上げされて涙に暮れた梨田でしたが、その感動もつかの間、近鉄がオリックスに吸収されるため、急ぎ近鉄の選手からプロテクト選手を選別する必要に迫られました。選手たちの手の温もりをまだ背中や体中に感じる中での選別は、大変に苛酷な作業だったに違いありません。そして梨田が心を鬼にして2つに選別した選手たちの一方は、新生オリックスバファローズへ。他方は楽天へ移籍しますが、オリックスで近鉄の選手を迎えたのは、監督に復帰したばかり仰木さんでした。■遡れば10・19の第二試合、佐藤純一の走塁ミスで近鉄にチャンス潰えた直後、残された代打は梨田しかいないのに、仰木さんが「代打、梨田」と告げるまでに長い時間を要したことを思い出します。ベンチ前で両腕を組んだまま俯いていた仰木さんの姿を忘れらません。結果、現役最後の打席に立った梨田は貴重な適時打を放つのですが、この時から、ボクは2人の因縁を少なからず感じました。話が逸れましたが、新生オリックスでプロテクトされた選手を迎えた時、仰木さんはすでにガンに侵されていました。もし元気であったなら、仰木さんの本心はオリックスでなく、楽天でプロテクト外の選手を迎えたかったのではないか、そんなことを想像します。本当かどうかはわかりません、ただの希望的観測に過ぎませんが。(写真)2001年9月26日、近鉄対オリックス戦の一コマ。この映像の後に、北川博敏の一発が飛び出します。仰木さんの表情をあらためて見ると、ボクが記憶していた以上にやつれて見えます。~NHK『古田敦也のプロ野球ベストゲーム』より~
2014.02.09
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前回の続き。■「来シーズンも監督を引き受けることになったが、諸君から信任されているかを知りたくなった。投票用紙を渡すから、私を信頼するものは〇印、そうでないものは×印を書いて提出してくれ」。1966年(昭和41年)10月14日、阪急・西本幸雄監督は全コーチや選手を集め、そう提案した。いや、提案なんて生ぬるいものではない。拒否は絶対許さないといった命令口調だった。この時、西本が阪急に来て、すでに4年が経っていた。しかしこれまでの成績はパッとせず、2位、6位、4位、5位と下位を低迷することが多かった。ネクタイ組とユニフォーム組、監督とコーチ、そして監督と選手の反目が複雑に絡み合っていたことが敗因の理由だと噂もあった。■さて、信任投票の結果は...、信任票 32票不信任票 11票白紙 4票この結果を受け西本は、「不信任票が11票もあっては、監督を続ける自信を失った。今日限り阪急のユニフォームを脱がせてもらう」と言って、自宅に帰ってしまった。■以下、大和球士著『野球百年』(時事通信社)より引用。「これが、プロ野球30年史上初の、-信任投票事件であった。事件の結末までを克明に追えばなかなかスリルに富んだ経過をたどることになるが、簡略化して報告すると、親会社である阪急電鉄社長小林米三のじきじきの出馬となり、『西本君以外の監督は考えていない。一か月かかっても西本君を説得し給え』の号令が背広組に飛ぶに及んで、西本の立場は一挙に有利になり、(5日後の)19日には一転して留任となった」。さらに続けて、「この信任投票事件が飛躍台になり、阪急が翌42年に、チーム結成以来初の優勝をとげることをだれが想像したであろうか。そればかりではなく、阪急は安定チームとなって、-3年連続優勝をとげることになる」。■かくして、翌67年(昭和42年)、阪急は初優勝を飾った。西本は、後になって信任投票をやった理由を「当時、チームにはいろいろ雑音があった。しかし現場組が一つにまとまるのならば、おれはやれる情熱をもっていた。その狙いで投票させた」と述懐していた。ここまで書いて、当時の阪急にはいったいどんな選手がいたかを知りたくなった。サイト『スタメンアーカイブ』で67年の開幕戦オーダーを調べてみた。その結果は・・・、1(4)住友2(5)森本3(7)ウインディ4(8)長池5(9)早瀬6(3)石井晶7(6)山口8(2)岡村9(1)米田この当時、阪急にはスペンサーがいたが、開幕戦には出場していなかった模様・・・。(写真)阪急時代の西本幸雄監督、右は青田昇コーチ。~『激動の昭和スポーツ史 プロ野球 下』(ベースボールマガジン社)~
2014.01.23
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前回の続き。■1969年の近鉄バファローズは、三原脩が監督に就任して2年目を迎え、戦力は確実にUPしていた。最下位が定位置だったが前年(68年)は3位に上昇し、この69年はパ・リーグ初優勝を狙えるチームに成長していた。ライバルは当時黄金期にあった阪急ブレーブスである。三原はキャンプ中から阪急に悪口雑言を浴びせた。「何の特徴もないチームに優勝させてはパ・リーグの恥になります。強いのか、弱いのか、一向にわからんような阪急が優勝候補といわれるのがそも片腹痛い」。大和球士さん曰く、「三原はかつて大洋監督だった時、阪神と優勝を争う最中に、国鉄に痛い一敗を喫したら、『この負けですか・・・まぁ死に馬に蹴られたようなものですな』と毒舌を吐き、国鉄ナインを激怒させた三原の久しぶりの放談だった」 (『野球百年』) (写真)近鉄・三原脩監督。■一方の阪急・西本幸雄監督も負けてはいない。2連覇の余裕からか「そういう三原さんも、ウチをうんぬんする前に他チームにやられんようにすることです。そやないと、リーグ戦がおもろうない」と言い、さらに三原を凌ぐ過激な一言を吐いた。「近鉄のような『成り上がりチーム』を今さら相手にしても・・・」かくして『特徴ないチーム』と『成り上がりチーム』の戦いが始まった。この両監督の言動が選手たちの心に火を点けたのか、両チーム相譲らず、シーズン終盤まで熾烈なデットヒートを繰り広げた。そして10月18日、”天王山”、首位近鉄と2厘差で追う阪急の4連戦が始まった。この時、近鉄は2勝すれば優勝決定だったが、阪急の猛烈な抵抗に遭い、結局3連敗を喫して優勝を逃してしまったのだ。(写真)阪急・西本幸雄監督。■大和球士さんは、どうしても近鉄に悔いが残る1敗があったと『野球百年』に書いている。近鉄にその1敗をもたらしたのは、ロッテ・飯島秀雄だという。ご記憶の方も多いはず。オリンピックの短距離走で活躍した世界ランナー。100メートル10秒1の記録をもち、「足」だけでロッテオリオンズに入団した。野球にはズブな素人だったからデがビュー当時は珍走も多かったが、6月15日のロッテvs近鉄戦で、飯島は一世一代の大活躍を見せた。以下、『野球百年』より。「飯島の快脚ぶりを見ようと、ロッテの本陣東京球場へ詰めかけたファンを十分に堪能させる日が訪れた。6月15日のロッテ対近鉄戦がそれであった。近鉄は阪急を追う優勝の対抗馬として人気上昇中であり、ロッテに飯島ありで、このシングル試合は約1万6千人の観衆を呼んだ。スコア0-0のまま迎えた5回裏、ロッテの攻撃。二死、篠原が中前安打、ここで濃人監督が「代走、飯島」を告げた。背番号88の飯島が一塁に向かうと、一塁側スタンドから嵐の拍手。打者は醍醐。カウント1-0後の2球目、飯島は走った。頭から滑り込んだ。二塁ベース外側に左手で鮮やかにタッチした。「セーフ」。またも拍手のうず。そしてカウント1-3の後、飯島は三塁に突進した。早い。やっぱり早い。スタートがそれほどいいとは思われなかったが、スピードが違う。野球選手の快脚とは一ケタ早さが違う。完全に三塁セーフ。あわてた捕手児玉の送球は高くそれて、飯島は歓声うず巻く中に、ホームベースを走り抜けた。テープが飛んだ。回はまだ5回、試合は半ばなのに、祝福のテープがホームベース近くに舞った。1-0、ロッテが勝った。二盗、三盗、決勝点。まさに飯島はこの世の千両役者であった。皮肉な結果が生れた。飯島の日本一の快脚にしてやられた近鉄は、大詰めの対阪急4連戦に2勝を必要としながら3連敗して初の優勝を逃した。もし、プロ球界が素人の飯島の足を封じて近鉄がこの試合に勝っていたら、最後の4連戦に1勝で優勝となり、多分近鉄はチーム結成以来の初優勝を飾っていたことであろう」 (以上、『野球百年』)■近鉄ファンだったボクが読んでも、わざわざ6月の試合を持ち出すのは多少無理があると思うが、ひょっとして大和さんも近鉄ファンだったのかしらん?
2014.01.15
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前回の続き。■1968年(昭和43年)から近鉄の指揮を執った三原脩は、初めて優勝を狙えるチームに導くように見えた。それまで万年最下位だった近鉄が、その年は4位に躍進。そして翌69年は阪急と最後まで優勝争いを展開するまでになった。しかし、三原の3年目、最終年の70年は打撃陣の不振が響き、結局3位に終わった。70年は、前年に発覚した「黒い霧」が球界を覆った。同年3位だった近鉄も例外でなかった。球団広報課長が八百長事件に仕組んだ疑いで永久追放処分になり、主力打者の土井正博も(黒い霧事件とは無関係だが)常習賭博の容疑で大阪府警に取調べを受けるなど、近鉄も不祥事が続いていた。本気で初優勝を賭けて臨んだシーズンは不本意な成績で終わり、シーズン終了とともに、三原は近鉄の監督を辞した。しかし、三原は退団の理由を誰にも語らなかった。東京の自宅に帰り、家族には「もう二度と、東京を離れるつもりはない」とだけ話し、自叙伝『風雲の軌跡』には、「私としては、不本意なやめ方であり、その理由については、いいたくない」とだけ書かれていた。■三原が退団した理由について、作家・立石泰則さんは著書『魔術師 三原脩と西鉄ライオンズ』(小学館文庫)にこう書いている。「契約更改の度に生じた(三原の)退団騒動、トラブル等々。近鉄本社・球団首脳と三原との軋轢は深まりこそすれ、解消へ向かうようなことはなかった。そこには、西鉄および大洋時代と違って監督業だけに専念してきた3年の間に、三原が近鉄を見限る深刻な問題があったはずである。それは同時に、三原が西鉄でも大洋でも経験してきた親会社と球団の関係に象徴される古い体質とも無関係ではなかっただろう」。それは、常にビジネスライクな考え方をする三原と、所詮球団は本社の広告塔に過ぎないと考える経営者層との、埋めようもない溝とでも言おうか。実績に見合った収入を要求する三原に対し、「近鉄の天皇」と呼ばれた佐伯勇球団オーナーは頑として首を縦に振らなかった。お互いの溝は深まるばかりだった。■後に近鉄の監督を経験した関口清治が近鉄の「タニマチ体質」を述懐し、三原が近鉄を見限った理由を推測する。以下も『魔術師‐‐‐』より。「近鉄には月1回、朝飯会というのがあって、傍系会社の社長や重役が集まるんです。佐伯会長のあいさつがありますから。近鉄の監督も大阪におるときは、そこに出ていくんですよ。重役たちは鶴岡さんや川上さんの解説を聞いて、私に『なんで、あのときにあの選手を使わなかったんや』と詰問されることが度々でした。いろいろ事情があるのですが、そんなことは解説者は知りませんわな。だから、全然違うんですよ。ところが、お偉いさんたちは、解説者の話を聞いて、もう目茶苦茶言うとりますわ。近鉄は、本当に周囲がうるさかったですよ」。ある日、関口は佐伯に試合中の作戦について質問されたことがあった。「エンドランやバント、あるいは盗塁をさせるでしょう。あるとき、佐伯会長が『それは監督の独断でやるのか』と聞かれるので、『えぇ、独断です』と答えたんです。すると、『それは駄目だ。コーチとかみんな集めて、相談してやりなさい』と言われるんですよ。それでは試合がどんどん流れていきよるし、間に合わないと説明すると、『独断でやるのも結構だが、それは間違えがあるぞ』といわれる。こんなんばっかりですよ」。■三原の監督在任中も同様だったことは想像に難くない。お金の問題と球団の体質と。ただ、それが退任の本当の理由だったかは分からないが・・・。そしてもうひとつ、当時の三原を悩ませていたことがある。前年1969年(昭和44年)秋に発覚した「黒い霧」が古巣西鉄ライオンズを直撃したことだ。「なぜ、西鉄がこんなことになってしまったのか・・・」三原の嘆きの声である。そして、この時、西鉄の監督が娘婿の中西太だったことが、一層に三原の悩みを深くした。※続きは、いずれ。
2014.01.04
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前回の続き。■タイトルに大和球士著『野球百年』を後ろから読む、と書いたが、実は大和さんが1970年(昭和45年)について触れたのは、ほんの僅かである。「昭和45年度のシーズンは、前年末に発覚した野球トバク事件が初夏まで尾を引いて暗いシーズンであった。縁起でもないから、先を急いで46年のシーズンに直進したい・・・」‐‐‐ たったコレだけ。1970年を書くには、いわゆる「黒い霧」事件に触れぬわけにはいかないが、正月早々縁起でもないので、それは事件が発覚した69年に譲るとして、今日は近鉄・佐々木宏一郎の完全試合について書きたい(なお、この件について大和さんは一切書いていないので、あらかじめご了承いただきたい)。■佐々木が完全試合を達成したのは10月6日、対南海戦(於、大阪球場)だ。翌日の朝日新聞には、「巨人、首位を死守」「パ、今日にも胴上げ、ロッテゆうゆう西鉄降す」の見出しの後に、「佐々木(近鉄)が完全試合」「実った9年の努力」と見出しを打っていた。そして佐々木については、このような記事が書かれていた。「6日大阪球場でおこなわれた南海-近鉄23回戦で、近鉄の佐々木宏一郎投手(27)=岐阜短大付高出=がプロ野球11人目の完全試合を達成した。佐々木投手の投球数は99、アウトの内訳は内野ゴロ10、内野飛球2、内野ライナー2、内野邪飛3、外野飛球6、三振4」。この試合のスコアとメンバーを、以下に記載。<スコア>近鉄 000 000 201 =3南海 000 000 000 =0(近)○佐々木、(南)●三浦-上田本塁打=土井正博11号、2点本塁打(三浦)<近鉄・メンバー>8 木村H8 小川6 安井9 永淵7 土井3 伊勢4 飯田5 相川H 北川5 服部2 辻1 佐々木 ■佐々木は183cmの長身ながら、アンダースローから繰り出す切れのいいシュートとスライダ-が持ち味の投手だった。この年は最高勝率のタイトルも獲得し、通算成績は132勝(152敗)。決して順風満帆の選手生活を送ったわけではない。高校卒業後、テストで大洋に入団(1961年)。しかし、1年後に解雇され、近鉄にテストで入団する。この時、近鉄の監督は、佐々木が大洋に入団した時の監督・三原脩だったことは何かの縁だったろうか。また投手コーチの武智文雄に出会えた運にも恵まれた。近鉄の入団テストに合格した際、佐々木の獲得を推挙したのは武智だったし、さらにプロ入り当初はサイドスロー気味のフォームで投げていた佐々木に、アンダースローへの転向を勧めたのも武智である。後に武智は、「佐々木がアンダースローになってから球威が増した」と評している。近鉄球団史上、近鉄在籍期間に限って100勝以上した投手は3人しかいない。佐々木、鈴木啓示、そして佐々木を育てた武智である。■そして1974年オフ、佐々木は南海・島本講平とのトレードで南海に移籍、81年をもって20年の現役生活を終えた。(89年没、享年45歳)あ、そうそう。佐々木の完全試合を伝える朝日新聞には、こんなことも書いていた。「大阪球場はどうも”パーフェクト”の縁がある。2年前の田中勉(元西鉄)もこの球場で、南海が相手だった」田中勉。「黒い霧」の匂いがぷ~んとしてきた。(写真)佐々木宏一郎。~『近鉄バファローズ大全』洋泉社より~
2014.01.03
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■1989年、近鉄バファローズは、ダイエーホークスを破り、9年ぶり3回目の優勝を決めた。優勝を決めた瞬間、実況した朝日放送・太田元治アナは「天国の佐伯オーナー、見てますか? 佐伯オーナーに手向けの優勝! いま、仰木監督、宙に舞います!」と叫んだ。 ■今日、1988年「10・19」と、続けて、1989年の優勝決定試合(対ダイエー戦)をDVDで見た。この2本を立て続けに見ると、この優勝は本当に、2年越しの優勝だったことがわかる。 ただ、ボクの場合、近鉄が負けた(もしくは引き分けた)「江夏の21球」や「10・19」のほうが印象深くて、この優勝を決めた試合のことをあまり憶えていないのだ。 だから、この試合を見て、9回表に感動的なプレーがあったことを思い出した次第。まずライト・鈴木貴久のスーパープレイ。打球がライトフェンスを直撃しそうな当たりだったが、鈴木は懸命に駆けてフェンスに頭をぶつけながら好捕した。(一死) ■そして、 直後に大きく弾んだイレギュラーバウンドをセカンド・大石大二郎が、身体を上空に投げ出すようにジャンプして好捕。打者を一塁で刺した。ふだんグラウンドでは表情を変えない大石が思わず相好を崩していた。(二死) ■最後は阿波野秀幸が最後の打者から三振を奪い優勝を決めた。仰木彬監督らの胴上げ後が、また感動だった。仰木彬監督らの胴上げ後、この試合に出場していなかったベテラン勢、栗橋茂さん、村田辰美さん、小川亨さんを次々に胴上げしたのだ。■金村義明さんが書いた『仰木彬 パ・リーグ魂』(世界文化社)には、この1989年の優勝について記述があって、仰木監督の逸話が面白かった。もうあんな悔しい思いはごめんや。西武を倒して、今年こそ俺たちが優勝するんや。まさにチームが一丸となったゆえの、優勝だったといえるだろう。ブライアントをはじめ、ほとんどの選手が前年の「10・19」を忘れてはいなかったのだ。仰木さんにしても、「打倒・西武」を貫いて2年間やってきたことがついに実ったわけだから、胴上げの味も格別だったに違いない。と書き、そしてハワイに行った優勝旅行の逸話について触れている。ハワイの空港にチーム一行が降り立った時のことだ。税関で長らく待たされて、一時間経っても入国許可が下りない。何があったのかと、マネージャーに聞いたところ、「実は仰木さんが連れて行かれて、どうやらいろいろ聞かれているみたいなんや」と言うではないか。後で聞くと、トランクの中に300万円ぐらいの札束がポンと無造作に放り込まれていたらしい。パンチパーマでいかにもといった風貌だから、どこかのマフィアにでも間違えられたのだろう。これには、さんざん待たされた怒りを忘れて大笑いしてしまった。そして、金村さんはこう結んだ。西鉄時代には、野獣の中に紛れ込んだ貴公子などと言われるくらい、温厚そうなハンサム青年だったという仰木さんだが、実は彼こそが西鉄・野武士軍団の、あの豪快なカラーを最も忠実に体現する人物だったに違いない。※写真はすべて朝日放送より。
2013.12.27
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■不思議なことだ。自分のチームが戦っている試合をテレビで観戦し、相手チームを応援していたというのだから。プロにはあるまじき行為である(いや、アマチュアだって同じか?)。しかし、そんなことが実際にあった。1988年10月19日、リーグ優勝を賭けて戦う近鉄と、ロッテのダブルヘッダー。第2試合をテレビ観戦していたロッテの選手たちが、心の中で近鉄の勝利を願っていたという。逆に言えば、選手にあってはならない心理の変化を及ぼすほど、「10・19」は”異常な試合”だったと言える。そして、それは、後年、伝説の試合と呼ばれる所以でもある。■第2試合で本塁打を放ち、その本塁打を後悔した高沢秀昭の話はすでに紹介した(→こちら)。以下に書くのは、雑誌『Number+ 20世紀スポーツ最強伝説』(1999年8月刊、写真も)に紹介された、「10・19」第2試合をテレビで観戦していたロッテ各選手の心情の吐露集である。 ■第1試合で先発したロッテ・小川博の述懐。第1試合終了後に自宅に帰り、家族とともに近所の寿司屋でテレビ中継を見ていた。店に入った時、全国放送で、しかも、放送枠を無視して延々と放送を続けていることに驚いた。いくら近鉄の優勝が懸かった試合とはいえ、小川は、全国的なニュースになっていることを知らなかった・・・。そして、スタンドの凄まじい歓声がテレビを通じて伝わった。「すごい試合で自分は投げていたんだな。目の前で胴上げなんてたまるか、とさっきまで必死だったけれど、このときは不謹慎にも『近鉄頑張れ』って思っていた。『もう、近鉄でいいじゃん』とまで思っちゃって・・・。ロッテの選手じゃなくて一野球ファンになっていた。感動したんですよ、近鉄にね」。そして、「(8回裏、高沢の本塁打が飛出し、ロッテが同点に追いつくと)、高さん(高沢)、よう打てるなぁ、と思ったものの、でも、ヒットでもよかったんじゃないの・・・」と責めたくもなった。さらに、9回裏、ロッテ・有藤道世監督の執拗な抗議を見て、「監督、もういいじゃないですか。そりゃないでしょう」。■近鉄の優勝が消えた10回裏、代打で打席に立ったロッテ・丸山一仁の回想。「(後から振り返った話だけどと前置きしつつ)、打席に立って、パッと下を見たら、梨田さんがね、うつむいていた。現役最後の試合だったでしょ、梨田さんは・・・。泣いていたんでしょうね。守っても、もう勝ちはなかったし。梨田さんのこの姿が一番印象に残った。『あぁ、やってしまったな。なんてことしたんだろう』。情が入ったというのか・・・。こんな試合、他にはないですよ」。そして、丸山は「10・19」は、神様が作ってくれた試合だと思っている。「第1試合から奇跡の連続。近鉄に神様が勝利をあげてもいいのに、と誰も思っていたでしょうね。でも、勝利の女神が微笑まなかったのには、何かがあったんでしょうね。自分にはわかりませんけど・・・」。■最後に、当時ロッテのエースだった村田兆治。村田は、登録抹消中だったため、自宅でテレビを見ていた。「正直な話、自分が投げられるものなら、自分が投げたかった。参加できなかったのは事情があったにせよ、複雑な気持ちですよ。あの日、野球ファンの心理はほかに贔屓チームがあっても『近鉄、頑張れ! だったでしょ? 現場にいなかっただけにね、自分まで『近鉄頑張れよって、第三者的な気持ちになりましたよ』。■ボクは、延長10回表、近鉄の優勝が消えた時点で、川崎球場を後にした。優勝が消えたのに、守備にく近鉄の選手たちを見ていられなかったから。しかし、最後の瞬間まで見ればよかったなと、今さらながら思う。神様が作った試合をナマ観戦する機会など、ザラにはない。あれから25年、ボクにとって、とてつもなく大きな後悔である。
2013.12.20
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前回の続き。 ■「パ・リーグには行きたくない。人気がないし、テレビにも映らないから。90%近鉄には行かない」。1972年のドラフト、近鉄バファローズが1位指名したのは、日大桜丘高のエース・仲根正広(後に政裕に改名)だった。だが、仲根が希望していたのは在京セか阪神だったため、思わぬ近鉄の指名に腹を立て、冒頭の言葉を発したのだった。そんな言葉を聞くと、逆にこちらも腹を立てたくなるが、当時のボクは何とも思わなかった。なぜなら、当時、こういった言葉を吐くのは仲根だけではなかった。パの球団から指名を受けた時、同様の言葉を吐く選手は少なくなかったため、感覚がマヒしていたとでも言おうか・・・苦笑■しかし、仲根の強気な発言のウラには、それなりの根拠もあった。なにせ同年のセンバツでチームを全国制覇に導いた優勝投手である。193cm、90kgの巨漢ゆえ「ジャンボ仲根」と呼ばれ、同大会で最もスポットライトを浴びた人気No1選手でもあった。人気のない近鉄にとって、喉から手が出るほど欲しい「全国区」の選手だった。※ボクは、仲根のセンバツ決勝の試合をテレビで観ていた。相手は兄弟校の日大三高。日大勢どうしの戦いということもあり、大いに世間の耳目を集めたが、仲根人気が勝り、ボクも多くの高校野球ファンも、日大桜丘のほうを応援していたと記憶している。指名後はさっそくノンプロ行きを宣言し、日参する近鉄・中島スカウトに絶縁状まで突きつけて拒み続けたが、仲根の家庭の事情があり、形勢は一転して契約に至った。そして、入団発表の席上でも、仲根のビッグマウスぶりは健在だった。「12」に決まっていた背番号を「20」に変更することを要求し、受け入れられると「来年は20勝、20ホーマーで頑張ります」と公約した・・・。■しかし、プロの世界は決して甘いものではなかった。 1年目(73年)は、25試合1勝8敗の散々な成績。その後もクチほどの成績を残せず、8年目の81年からは投手を諦め、打者に転向した。ボクには、打者としての仲根のほうが印象に残っている。大きな身体で左打席に立つ姿は、ファンに長打を期待させた。事実、83年は106試合に出場し、83安打、14本塁打、打率.267を残した。■仲根について、wikipediaに気になることが書いてあった。曰く、近鉄時代のとある試合で満塁時の走者となった際、他2走者が同じ甲子園優勝投手の島本講平と金村義明だったことがある。仲根、島本、金村の3人が揃って塁を埋めた?気になって、それがいつの試合だったかを調べてみた。この3人の打順がつながっている試合がもっとも確率が高いだろうと予想し、スタメンデータベースで探してみた。すると、該当する試合が1試合だけ見つかった(3人の内、だれかひとりでも代打、代走で出場した場合はその限りではないが)。84年9月29日の対日本ハム戦がそれだった。6番(9)仲根、7番(7)島本、8番(5)金村。断言はできないが、この試合で、三塁ベースに仲根、二塁に島本、一塁に金村が立ったシーンが見られた可能性が高い。垂涎もののシーンである。ちなみに、この試合のスタメンは以下のとおり。1(4)大石大二郎2(8)佐藤純一3(D)加藤英司4(3)デービス5(2)梨田昌孝6(9)仲根政裕7(7)島本講平8(5)金村義明9(6)村上隆行そして、この試合の先発投手は「ビッグマウス」のご本家? 加藤哲郎だった。
2013.12.08
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前回の続き。■1973年、近鉄の土井正博が1500本安打、清俊彦が1000奪三振を各々記録した。また、岩本尭監督が休養のため、嶋田光二コーチが代理監督として指揮をとったのもこの年だった(8月~)。結局、岩本はそのまま監督を辞し、11月、代わって西本幸雄が監督に就任した。この年、近鉄にとって頭の痛い出来事があった。藤井寺球場を巡る騒動である。2月、藤井寺にホームグラウンドを移すことを決定し、7月にナイター工事を着工したものの、地域住民に反対の声が上がり、10月、大阪地裁が条件付きながらナイター工事続行中止処分を下された。■この顛末について、『近鉄球団、かく戦えり。』(浜田昭八著、日経ビジネス人文庫)に詳しいので、以下に引用する。高い家賃を払うぐらいなら、多少無理してでもマイホームを建てる。まして使っていない古い家があるなら、手入れして使いたいと思うだろう。近鉄球団の思いは、まさにこれだった。近鉄は1958年、「家賃」値上げのため、それまでナイターで借りていた大阪球場を去り、新たにナイター設備をつけた日生球場に「転居」した。ところが、移った先の「家主(日生)」も年々、「家賃」の値上げを要求してきた。72年の年間使用料は3290万円。1試合当たりだと約70万円。これに各種興行経費を加えると、1試合あたりの経費は約115万円になった。しかも球場のフェンスなどへの広告収入は、すべて日生側が受け取る契約だった。その上、73年度からは1試合の使用料を100万円とする申し入れがあったため、もはや、日生に固執するメリットは近鉄にはなかった。 ■そこで浮上したのが、「古い家」の藤井寺球場への回帰プラン。それは、この藤井寺に照明をつけてナイターも興行しようというものだった(それまではデーゲームと練習だけに使用していた)。自前の球場を有効利用することで、余計な出費を抑えることができる。当然と言えば、当然のプランだ。ところが地域住民への説明が後手にまわり、思いがけない事態が起きた。 そもそもこの地は、閑静を売り文句にして、近鉄自身が開発した住宅地。その住民がナイターによる騒音、光、自動車の行き来などによる公害を恐れるのは当たり前だった。したがい、73年7月、見切り発車で着工するも、住民から「ナンセンス!」と問答無用で退けられた。結局裁判に持ち込まれ、紆余曲折の末、工事着工が認められたのは、10年後の83年9月である。■その後も藤井寺球場は、悲運に見舞われた。近鉄のホームグラウンドとして再スタートするも、97年に大阪ドームが完成し、再び準フランチャイズに降格。さらにオリックスとの合併により、2005年1月をもって球場を閉鎖し、ついに翌06年、解体された。しかし、球場の看板だけは現存するらしい。近くでスナックを経営する70年代の主砲・栗橋茂さんが抱きかかえるようにして持ち帰ったという。近鉄が藤井寺球場をホームグラウンドとして再スタートを決めたのは1973年、同年ドラフト1位で近鉄に入団したのが栗橋さんだから、これも不思議な縁ではある。 (写真)藤井寺球場 ~『近鉄バファローズ大全』(洋泉社)~
2013.11.23
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■NHK『ヒーローたちの名勝負-代打男優勝弾』を見た。(写真も同番組より)2001年9月26日、北川博敏の代打逆転サヨナラ満塁本塁打で近鉄バファローズがリーグ優勝を決めた試合を、北川の視点から振り返った番組だ。上の写真は、北川が生還する場面。正面でタフィ・ローズが迎えている。右端、大泣きしているのは大塚晶文。少し左側に目を移すと大村直之が見える。さらに左には吉岡雄二、礒部公一、山村宏樹、水口栄二、中村紀洋がいる。この時、ボクはもちろん嬉しかったが、2,3日後のロッテ-近鉄戦(千葉)のチケットを持っていたから、「今日決めなくなくてもよかったのになぁ」なんて不遜なことも考えていた。また、相手オリックスの監督が仰木彬さんだったことも、ボクの気持ちを複雑にさせた。 ■そして同番組には、たまたま故・小林繁投手コーチも映っていた(写真左)。小林さんと番組の趣旨は特に関係ないけれど、ボクは先日、日刊ゲンダイで読んだ小林さんについての一文を思い出した。その一文は、若菜嘉晴氏が連載している『サスライ野球道』(10月18日付)にあった。「(江川卓の交換相手になり、阪神へ移籍後)小林さんは絶大な人気に加え、巨人戦では大きなプレッシャーを背負った。心に鬱積した感情を酒で洗い流しているようだった」と書かれていて、ボクにはとても印象深いものだった。さらに若菜氏は続ける。「小林さんとは一時、毎日のように朝まで飲んだ。小林さんはブランデーを一気に流し込む。決して酒は強くないのに強いフリをして、ボトルはすぐに空になった。・・・2人で飲んでいると、巨人への未練が垣間見えた。それがグチになる。巨人を愛し、戦ってきた。それなのに江川との交換相手になった。『なんでオレなのか・・・』まるで、愛する女性を失ったような・・・」。そしてまた、小林さんは若菜氏相手にグチを肴にして、心に鬱積した感情を酒で洗い流していた、のだ。■この時期はおそらく江川卓が引き起こした、いわゆる「江川事件」後、小林さんが阪神へ移籍した1年目、1979年頃だと思う。ただ夜は浴びるように酒を飲んでいたものの、肝心の仕事は順調だった。巨人と当たるようなローテーションを監督に直訴し、対巨人戦8連勝を飾った。そして、通期は22勝を挙げて沢村賞、ベストナインを獲得した。その後も毎年二けた勝利を挙げ、1983年に現役を引退。スポーツニュースのキャスターなどの活動をして、いかにも小林さんらしく派手な、そして、順風満帆な人生を送っているように見えた。■驚いたのは1997年、近鉄の一軍投手コーチに就任した時だ。少なくとも小林さんは、コーチとかいった指導者に向いていないと思えた。一匹狼でテレビの世界などで活躍するタイプに見えた。なぜ、小林さんはコーチをやっているのだろう? ボクにはとても不思議な出来事だった。2001年、冒頭に書いた北川の本塁打で優勝を決めた後、近鉄の監督・コーチ・選手たちはチャンピオンフラッグをもってグラウンドを一周した。みんなが歓喜し、はしゃぎまわって歩く中、ひとりだけ浮かない表情で歩く人がいた。それが小林コーチだった。この時の小林さんの表情をボクははっきり憶えている。優勝したものの投手成績は最悪、この年を最後に辞任が決まっていたが、それだけが理由だったろうか。江川事件をきっかけに、それまで小林さんが考えていた人生設計とのギャップが広がり、その溝が埋まらないことに、ただただ一人でもがいていたようにも思える。■若菜氏は最後にこう書いて、コラムを締めくくった。「苦労をひとりで背負い、なんでも自分の力でやろうとした小林さん。・・・江川は孤独だったという人がいる。でも本当に孤独だったのは小林さんだったんじゃないか。私はそう思っている」。You Tube 「黄桜」CM (by博報堂)
2013.11.09
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■昨日(11月3日)、第7戦で楽天イーグルスが巨人を破り日本一を決めた。球団創設9年目の快挙だった。最終回は、前日160球を投げて完投した田中将大がマウンドに上がった。巷ではこの田中の登板に賛否両論が溢れている。残念ながら正解がわからないので、これはボクにとって興味の外だ。ボクが興味をもったのは、この回が始まる直前のシーン。主審に投手交代を告げた星野仙一監督とともにいた佐藤義則コーチの「笑顔」である。前日、160球を投げた投手を連投させることに何のためらいもないのか? それがとても不思議だった。■ボクは1988年10月19日の近鉄対ロッテダブルヘッダー・第2試合の仰木彬監督と権藤博コーチのことを思い出した。この試合、近鉄ベンチは、8回からエース・阿波野秀幸をマウンドに送った。阿波野は2日前に128球を投げて完投し、そしてこの日の第一試合も救援投手としてマウンドに立っていた。さらに、この第二試合も8回から登板である。ブルペンからマウンドに歩を進める阿波野の表情には、さすがに疲労の色が見えた。送り出す権藤コーチは憤懣やるかたない、といった苦々しい表情をしていた。後日、権藤が語っていた。「2日前に128球投げた阿波野に、この日は一度だけ登板する機会があるとは言っておいたが、まさか第二試合まで投げさせるとは思っていなかった」。この時、阿波野登板を命じる仰木と権藤には、何らかの対立があったはずである。それまでも、そしてその後も投手起用をめぐって対立していた2人である。勝利を優先する仰木、投手のことを優先する権藤。2人の間に何もなかったほうがおかしい。■そんな経験があって、ボクは知らず知らずのうちに、監督と投手コーチが対立することは当たり前だと頭の中に刷り込まれてきた。そんなものだから、佐藤コーチの笑顔には少なからず違和感を覚えたのだ。佐藤は、1993年、出身地の奥尻島が震災に遭い(北海道南西沖地震)親戚を亡くした。しかしその直後に出場したオールスターで力投し、95年は阪神大震災に襲われるも同年にノーヒットノーランを達成し、オリックスの優勝に貢献した。そして2011年には東日本大震災に遭遇と、佐藤の野球人生と大震災・復興が見事に符合している。まるで震災復興の使命を帯びた感ある佐藤ゆえ、自軍の投手を守ることはもちろんだが、それ以上に、東北の復興を願う気持ちが人一倍強かったのかもしれない。ボクはそう想像することで、佐藤の笑顔の理由を納得した。■はたして、昨日の試合は田中が期待に応え好投し、楽天が日本一に輝いた。アナウンスで「投手交代、背番号18、田中~」と告げられた時、スタンドを埋めた観衆から大歓声が上がった。この瞬間、ボクは身震いするほど興奮した。それは、ボク自身が東北出身ということもあるが、それ以上に近鉄が成し遂げられなかった日本一を、まさに今つかむといった喜びのほうが大きかった。※もちろん、楽天は近鉄の後継球団ではないことは知っているが。そして、楽天がたった9年で達成した日本一は、50年かかってもできなかった近鉄のことを一層くっきりと浮かび上がらせ、今後も近鉄が語り継がれるきっかけになれば、何も言うことはない。その意味でも嬉しかった。とても屈折した感情であることは重々承知しているが、本心だから仕方がない。■フェイスブックに「3.11で震災、11.3で(楽天が優勝し)復興」と書いていた人がいた。うまいもんだな、この人に座布団一枚だ!
2013.11.04
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■今日(10月19日)、「10・19」25周年トーク&ライブ(第1部)に行ってきた。あれから25年経った。早いようでもあり、長かったようでもあり。ただ、この25年の間に、あの時の記憶が薄れてきたことだけは間違いない。たくさんのシーンがボクの頭の中に残っているものの、それがダブルヘッダーの第1試合だったか、第2試合だったか記憶が危うくなってきた。また、第2試合は延長10回まであったことを忘れてしまい、先日のブログでは、近鉄ナインの最後の守備を「9回裏」と書いてしまった。嗚呼、恥ずかしい・・・。そんなものだから、今日のイベントはとても有難かった。お蔭さまで、薄れかかっていた記憶を少しだけ取り戻すことができた。■ゲストには、当時近鉄のコーチだった中西太さん、そして第2試合で同点本塁打を放った憎きロッテの高沢秀昭さん(笑)。中西さんは、いま齢80歳と自ら話していた。足腰が多少弱っているようにお見受けしたけれど、メリハリのある語り口は、ボクの知っている以前の中西さんとまるで変わらなかった。面白かったのは、第1試合の9回表、梨田昌孝の適時打で生還した故・鈴木貴久と抱き合いながらグラウンドを転げまわっていた理由。(写真)中西太さん、齢80歳。それは、ボクにとって最も記憶に残るシーンだ。中西さんも鈴木も感極まって抱き合いながら転げまわったものと思っていた。でも、実は違った。当時、中西さんは気管支を患い、呼吸することがつらいほど体調が悪かった。そんな最悪の体調の時、鈴木が本塁まで駆けてきた勢いで中西さんにしがみついたものだから、ただ押し倒されただけなのだ、と。一瞬会場が静まり、直後にどっと笑いが起きた。なんだよ・・・、25年も大事に温めてきた記憶は、ただそれだけのことだったのか!(笑) たぶん会場にいた多くの人がボクと同じ気持ちだったと思う。ただ、その後に「でもね、あの足の遅い鈴木がね、よくセーフになったよね」としんみりと話した下りには、いまこの世にいない鈴木のかつての雄姿を思い出し、ボクは目頭が熱くなった。 (写真)生還した鈴木貴久と抱き合う寸前の中西太さん。このあとに2人でグラウンドの上を転げまわった。右端は安達俊也。~『近鉄バファローズ大全』(洋泉社)より~■ロッテ・高沢さんもステージに登場した。拍手で迎えられた高沢さん、冒頭にこう言った。「第2試合で余計なホームランを打ってしまった私が、近鉄ファンが集まるこのイベントに出席していいのだろうかと迷いました。でも皆さんに温かく迎えてもらって嬉しく思います」この一言で、会場を埋めた近鉄ファンの心をつかみ会場がどっと沸いた。高沢さん、つかみはOK! (写真)高沢秀昭さん。続けて第2試合の8回裏、自ら打った同点本塁打について話し始めた。「打った瞬間はフェンスに当たると思い、全速力で一塁に走りました。そして打球の方向を見て、本塁打になったことを知り、『あ、入ってしまった・・・』と思いました。二塁ベースを回るとき、個人的にも親交のある大石大二朗には、心の中で『申し訳ない・・・』と語りかけました」。「やった、入ったぞ」ではない、「あ、入ってしまった」である。この時、首位打者がかかっていた高沢さんは、必死だったはずである。なのに、わずかでも後悔したような話を聞くことで、高沢さんの人柄を知ることができた。そして「首位打者争いだから、別に本塁打でなくてもよかったんです。本当はヒットでよかったんですけどね」と続け、会場の爆笑を誘った。(写真)同点の本塁打を放ち二塁ベースに向かう高沢秀昭さん。うなだれる近鉄・阿波野秀幸。ボクはこの瞬間、何が起きたかよくわからなかった。たぶん口をあんぐりと開けて打球の飛び込んだスタンドを見ていたと思う。そしてしばらく間をおいて、同点に追いつかれたことを知った。~『大阪近鉄バファローズ 伝説の野武士軍団BOOK』より~■さらに高沢さんは、お互いのベンチの状況を話してくれた。近鉄ベンチからの野次はロッテベンチに筒抜けで、その野次が逆にロッテ選手の心に火を点けたのだと。第1試合に勝利した近鉄は、その時点で圧倒的に有利だったはずである。「流れ」から言えば、第2試合はほぼ間違いなく勝てるはずだった。なのに勝ちきれなかった。それは、勝つこと、優勝することに慣れていなかった球団の、悲しいかな「性」だったのかもしれない。野次を飛ばして、相手を必要以上に刺激する必要はなかったのだ。高沢さんの話を聞き、そう思うに至った。ここまで書いて、第2試合で主審を務めた前川芳男さんが語った回想記(雑誌『近鉄バファローズ大全』(洋泉社)を思い出した。前川さん曰く、近鉄ベンチの焦りが、ロッテの闘争心に火をつけてアドバンテージを消してしまったんですよ。近鉄ベンチの焦りは嫌でも伝わってきます。6回表、ロッテの園川がカーブを投げました。ストライクです。私は自信をもって三振であることをコールしました。でも、あの試合は抗議権のない中西太コーチが喰ってかかってきましたからね。焦りは、仰木監督からも感じられました。9回の有藤監督の抗議の際に、仰木監督も出てきて「大事な試合なんだ、(時間がないから)もう、いい加減にやめてくれ」みたいなことを言ったんですよ。その時、有藤監督が言ったことをよく憶えています。「絶対に負けない!」近鉄ベンチの焦りが、モチベーションは高くなかったはずのロッテの闘争心に火をつけたように感じましたね」■今日のイベントに、ボクはzappaloesさんと行ってきた。1988年10月19日、ボクたちは川崎球場にいた。ただ、その頃は知り合いではなく、まったく別の場所にいた。彼はネット裏、ボクは三塁ベンチの真後ろ。それから25年の時を経て、また近鉄応援団のトランペットが鳴り響く同じ空間にいる。近鉄が結びつけた不思議な縁だと思う。お互いに当時は独身だったけれど、今はどちらも子供が成長して20歳前後に達している。この25年は早かったのか、長かったのか・・・。何度考えても答えは出てこないが、この間に様々な人生経験があって、そして25年後に出会う機会を作った近鉄バファローズ、そして10・19の吸引力は計り知れないほど強いものだと改めて思う。■イベントの最後にプレゼントの抽選会が行われ、ボクはこのイベントの主催者である佐野正幸さんの著書『1988年10・19の真実』(主婦の友社)が当たり、有難いことに、ご本人から直接いただくことができた。zappaloesさんは旅行宿泊券だと!最後に、佐野さんはじめ、素晴らしいイベントを企画していただいた主催者の皆様、本当にありがとうございました。感謝いたします。 (写真)前述のとおり。
2013.10.19
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本日、『東京野球ブックフェア』に行ったところ、『「10・19」25周年トーク&ライブ~近鉄バファローズの一番長かった日~』の開催を告知したチラシが配布されていました(写真)。このブログに何度も書きましたが、あの伝説の試合「10・19」をボクは川崎球場で見ていました。そして近鉄は負けなかったけれど、優勝できませんでした。羽田が併殺打に倒れた直後、あまりに悔しくて、第2試合の10回裏を見ずにボクは川崎球場を後にしました。優勝がなくなっても守備につかなければならいナインの姿を見ることができませんでした。あれから、25年が経ちました。まさか、こんなイベントが開かれるなんて夢にも思っていませんでした。主催は元近鉄バファローズ東京応援団の方、そして佐野正幸さんが協力されているそうです。次第にあの時の記憶が薄れ始めている今、とても嬉しい企画です。すでにご存じの方もいらっしゃると思いますが、念のため、このイベントを『あま野球日記』でもご紹介します。開催日が迫っていますので、リンクでもなんでも結構です。お知り合いに近鉄ファンの方がいらしたら、ぜひ教えてあげてください。第1部は、中西太さんや高澤秀昭さんがゲスト出演されるそうです。<申し込み方法> 第1部、第2部の2部構成。■第1部の申し込み方法は、3種類あります。予約フォームからの申し込み:https://form.os7.biz/f/47a9f4d5Facebook:https://www.facebook.com/1019KAWASAKIe-mail:kintetsu1019_25@yahoo.co.jp※名前、年齢、性別の記入、必須。※問い合わせもこのアドレスへ。■第2部の申し込みは、ローソンチケット(Lコード:36696)ほかに、ネイキッドロフト<概要>日時:2013年10月19日(土) 第1部:13:30~15:30、第2部:18:30~場所:第1部 パセラリゾーツ新宿本店6階 GRACE BALI (新宿区歌舞伎町1‐3‐16) 第2部:ネイキッドロフト (新宿区百人町1-5-1 百人町ビル1階) 料金:第1部 6,000円 第2部 (前売)2,000円 (当日)2,300円【詳細はこちらをご参照ください】
2013.10.13
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■ムーンライト・グラハムとは、映画『フィールド・オブ・ドリームス』に登場しメジャーでは1試合に出場したものの、一度も打席に立つことなく現役を終えた実在の選手のこと(引退後は医者に転じた)。彼について、wikipediaはこう記していた。「W・P・キンセラが、ベースボール・エンサイクロペディアの中から偶然グラハムの特異な経歴を見つけ出し、そのエピソードを著書『シューレス・ジョー』に掲載したことから、映画『フィールド・オブ・ドリームス』として劇場公開され、グラハムの経歴が広く知れ渡ることとなった」。■ボクは歴代1軍出場選手539人のデータが収録された『近鉄バファローズ大全』(洋泉社)を見ながら「1試合に出場したものの、一度も打席に立つことのなかった」いわゆるムーンライト・グラハムを調べ始めた。すると該当する選手が11人見つかった。その人たちはどんな選手だったか、そして彼らが近鉄バファローズに在籍した当時、近鉄はどんなチームだったかを、このブログにまとめている。そして今回は吉田好太さん。北村さんが近鉄に在籍したのは、1999年(平成11年)から2001年の3年間。通算成績は出場試合数「1」、打数は「0」(四死球、犠打はなし)。ポジションは二塁手・遊撃手、背番号91。神奈川・桐蔭学園高出身。高校卒業後、米国にわたりアスレチックスのアリゾナリーグ・アスレチックスでプレーし、98年のドラフトで近鉄から8位指名を受け入団した。身長175cm、体重73kg。右投げ両打ち。1977年生まれ(現在35歳)。桐蔭学園高時代、94年、95年のセンバツに三塁手として出場したが、いずれも初戦敗退した。■吉田さんがドラフトで近鉄から指名を受けた98年は、横浜高・松坂大輔を何球団が重複指名するか、そして松坂をどの球団が引き当てるかが大いに話題になった年だった。そして西武、日本ハム、横浜が競合し、結局、松坂を引き当てたのは西武だった。松坂の横浜高時代の同期で、先ごろ現役引退を発表した小池正晃もこの時、横浜から6位指名を受け入団した。同じ時、近鉄は1位が宇高伸次、2位が藤井彰人と、近畿大バッテリーをセットで指名した。佐々木恭介監督が近畿大OBだったため、その縁故入団だとか、近鉄は宇高だけ欲しかったが近大から注文がつき藤井もセットで指名したと噂を聞くこともあった。もちろん真相はわからないが、未だ現役を続ける「近鉄(らしい)顔」の藤井を見るたび、ボクは嬉しくなる。さて、近鉄にドラフト8位で入団した吉田さんは俊足好打の二塁手、遊撃手として期待されたと推察する。しかし、この頃、近鉄の二遊間には水口栄二、武藤孝司、前田忠節、吉田剛らがおり、吉田さんの前に立ちはだかった。悲しいかな、結局、唯一出場した試合は、2000年8月19日の対オリックス戦だった。8回表に鷹野史寿の代走として初めてグラウンドに立った。吉田さんが代走で出たのは一塁だったろうか。ならば、この時、オリックスのファーストは藤井康雄だった。二塁に代走として出ていたなら、セカンドは小川博文、ショートは塩崎真。吉田さんの足を警戒して頻繁に牽制する小川や塩崎を見て、もし守備に自信があったなら「ちくしょう、俺もそれがやりたいな・・・」と思ったかもしれない。■吉田さんが在籍した3年間において、近鉄の最大のニュースは2001年9月26日の北川博敏が放った逆転サヨナラ満塁本塁打だろう。この一発で、近鉄は4度目のパ・リーグ優勝を決めた。この瞬間をボクは自宅のテレビで観ていた。もちろん嬉しかったし、それなりに興奮した。でも中村紀洋やタフィ・ローズがどんどん「お山の大将」になっていくように見えて、彼らが活躍する頻度が増すたび、それに反比例してボクの近鉄熱は次第に下降し始めていった。吉田さんはこの瞬間を見届けたはずだが、シーズン終了後に近鉄を去った。そして新天地を横浜ベイスターズに求めたが、その1年後に現役を引退した。
2013.10.09
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前回の続き。■ムーンライト・グラハムとは、映画『フィールド・オブ・ドリームス』に登場しメジャーでは1試合に出場したものの、一度も打席に立つことなく現役を終えた実在の選手のこと(引退後は医者に転じた)。彼について、wikipediaはこう記していた。「W・P・キンセラが、ベースボール・エンサイクロペディアの中から偶然グラハムの特異な経歴を見つけ出し、そのエピソードを著書『シューレス・ジョー』に掲載したことから、映画『フィールド・オブ・ドリームス』として劇場公開され、グラハムの経歴が広く知れ渡ることとなった」。■ボクは歴代1軍出場選手539人のデータが収録された『近鉄バファローズ大全』(洋泉社)を見ながら「1試合に出場したものの、一度も打席に立つことのなかった」いわゆるムーンライト・グラハムを調べ始めた。すると該当する選手が11人見つかった。その人たちはどんな選手だったか、そして彼らが近鉄バファローズに在籍した当時、近鉄はどんなチームだったかを、このブログにまとめている。そして今回は北村俊介さん。北村さんが近鉄に在籍したのは、1996年(平成8年)から97年の2年間。通算成績は出場試合数「1」、打数は「0」(四死球、犠打はなし)。ポジションは内野手、背番号35。京都・大谷高出身。1996年3月、トレードで中日から近鉄に移籍した。身長174cm、体重70kg。右投げ左打ち。1967年生まれ(現在46歳)。大谷高時代、甲子園出場経験はない。ただ、北村さんはこれまで取り上げた8名の方とは少々事情が異なる。調べてみると1986年に中日にテスト入団し、中日在籍時は50試合に出場、計21安打を放っている。だから、ボクがムーンライト・グラハムと呼ぶのは、近鉄に在籍した2年間においてのみ、とあらかじめお断りしておく。■1985年、北村さんの高校最後の夏、京都を制したのは花園高。その花園高は甲子園の初戦で、小倉全由監督(現・日大三高)率いる関東一高と対戦し、スコア1-12で敗退した。ちなみにこの大会の優勝は、桑田真澄、清原和博を擁したPL学園高。北村さんは高校卒業後、1987年に中日にテスト入団した。初出場は89年9月10日のヤクルト戦(ナゴヤ球場)。大宮龍男の代走として初めて一軍のグラウンドに立った。そして初打席は、その3日後の9月13日、鈴木康友の代打で出場した(2打数0安打)。その後、95年には50試合に出場し79回打席に立った。安打数は16。おもなポジションはセカンドとサードだった。当時、セカンドには立浪和義、サードには仁村徹、そして近鉄から移籍した金村義明らスター選手が立ちはだかるも、その間隙をぬって出場を果たし、このシーズンを最後に96年3月、近鉄に移籍した。■96年3月に移籍と書いたが、3月のトレードというのは微妙だ。すでにキャンプを終えてオープン戦の真っ最中。そろそろ開幕という時期である。どんな事情があったか不明だが、北村さんが近鉄に在籍した96~97年前後は、近鉄にさまざまな動きがあった。まず95年1月、野茂英雄が任意引退選手となり、米国に渡った。同年8月、鈴木啓示監督が休養し、水谷実雄ヘッド兼打撃コーチが監督代行として指揮を執る。そして2か月後の10月、佐々木恭介が新監督に就任した。97年3月、大阪ドームが完成し、観客動員数は球団新記録となる186万6000人達した。チ―ムも3年ぶりにAクラスに返り咲く。また小池秀郎が最多勝利(15勝)、赤堀元之が最優秀救援投手賞(33SP)を獲得、ベストナインにはクラーク、ローズの両外国人選手が選ばれた。■また忘れられないのは95年秋のドラフト。就任直後に佐々木監督がPL学園の福留孝介を引き当て「よっしゃ―」と叫びニュースになった(結局、福留は入団拒否。日本生命へ)。ちなみにこの時、近鉄は福留(1位)のほか、関西大の岡本晃(2位)、創価大・武藤孝司(3位)、日南学園高・平下晃司(5位)を指名した。北村さん獲得の目的は、福留を逃したその補充要員としてか? そう思わないと、武藤と北村さんは同じタイプの選手であるため、武藤を獲得後に北村さんをわざわざ中日から獲得した説明がつかないように思うが。 ■さて、北村さんは近鉄在籍時、1試合だけ出場した。それは1996年であることはわかったが、WEBサイト『スタメンデータベース』をもってしても、出場した試合を特定することはできなかった。残念だけど、同年開幕戦のスタメンを記載して、この項を終わることにする。1 大村直之(8)2 大石大二郎(4)3 C・D(DH)4 石井浩郎(3)5 ローズ(7)6 鈴木貴久(9)7 中村紀洋(5)8 古久保健二(2)9 吉田剛(6)P 高村祐■ブログをアップした直後、たばともさんから連絡をいただき、北村さんが近鉄で唯一出場した試合が1996年3月31日の開幕第2戦であることがわかりました。CDの代走で出場したそうです。なお、その時のスタメンは「P アキーノ」以外、上記と変わりなしです。たばともさん、ありがとうございました! (写真)近鉄時代の野茂英雄。~『近鉄バファローズ大全』(洋泉社)より~
2013.10.05
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前回の続き。■ムーンライト・グラハムとは、映画『フィールド・オブ・ドリームス』に登場しメジャーでは1試合に出場したものの、一度も打席に立つことなく現役を終えた実在の選手のこと(引退後は医者に転じた)。彼について、wikipediaはこう記していた。「W・P・キンセラが、ベースボール・エンサイクロペディアの中から偶然グラハムの特異な経歴を見つけ出し、そのエピソードを著書『シューレス・ジョー』に掲載したことから、映画『フィールド・オブ・ドリームス』として劇場公開され、グラハムの経歴が広く知れ渡ることとなった」。■ボクは歴代1軍出場選手539人のデータが収録された『近鉄バファローズ大全』(洋泉社)を見ながら「1試合に出場したものの、一度も打席に立つことのなかった」いわゆるムーンライト・グラハムを調べ始めた。すると該当する選手が11人見つかった。その人たちはどんな選手だったか、そして彼らが近鉄バファローズに在籍した当時、近鉄はどんなチームだったかを、このブログにまとめている。今回(その8)は、原田和彦さん。原田さんが近鉄に在籍したのは、1986年(昭和61年)から92年の7年間。通算成績は出場試合数「1」、打数は「0」(四死球、犠打はなし)。ポジションは捕手、背番号は69と42。兵庫・村野工高出身。1985年ドラフト外で近鉄バファローズに入団した。身長177cm、体重76kg。右投げ右打ち。1967年生まれ(現在45歳)。村野工高時代、甲子園出場経験はない。■1985年のドラフトはPL学園高の桑田真澄、清原和博の進路が注目を集めた。当初早稲田大進学を表明していた桑田を読売が1位指名(入団)、そして読売を希望していた清原が西武から指名(1位)を受けて入団した。記者会見で見せた清原の悔し涙が印象的だった。原田さんは、同じ年の2人が華々しいスポットライトを浴びる中、ドラフト外でひっそりと近鉄に入団した。梨田昌孝、有田修三に代表されるように、もともと近鉄は捕手王国である。1986年当時も梨田や山下和彦らが常時マスクを被っており、新人の高卒捕手が入り込む隙はなかった。そのため「いつかは一軍の正捕手に」と希望を持ちつつも、当面は二軍のブルペンに仕事場を求めたに違いない。 ■wikipediaによると、原田さんが唯一出場したのは1991年のこと。しかしWEBサイト『スタメンデータベース』で確認しても、原田さんの名前はどこにも見当たらなかった。出場試合を特定できなかったのは残念だが、91年当時の近鉄の主要選手を書き留めておく。投手:野茂英雄、阿波野和幸、山崎慎太郎・・・捕手:古久保健二、光山英和一塁手:トレーバー二塁手:大石大二郎三塁手:金村義明遊撃手:吉田剛左翼手:ブライアント中堅手:新井宏昌右翼手:鈴木貴久DH:石井浩郎■原田さんの在籍当時、近鉄の最も大きな出来事は1988年の「10・19」だろう。ボクは会社を休んで朝から川崎球場のチケット売り場に並び、三塁側の近鉄ベンチのすぐ後ろでダブルヘッダーを観戦していた。これまで何度もブログに「10・19」を書いてきた。あれから25年の時間が過ぎ、記憶がだいぶ薄れてきたが、鈴木貴久の本塁生還、佐藤純一の走塁ミス、新井宏昌の激高、村上の適時二塁打、梨田の中前適時打のシーンはよく憶えている。他にもある。自分でも不思議だが、第2試合9回裏の出来事がいまだに目に焼き付いている。それはロッテが無死一塁で、袴田英利が送りバントをした場面。打球は阿波野秀幸と梨田昌孝のちょうど中間あたりに転がった。だが2人はお見合いし、その直後に交錯して阿波野が転倒してしまった(写真)。一塁二塁、オールセーフ。起き上がった阿波野は顔面蒼白だった。そしてキッとした目つきで梨田を睨んでいたのだ。ほんの一瞬の出来事だったけれど、ボクにはとても印象的だった。近鉄が優勝を賭けてガムシャラになって戦ったこの試合は、つねに異様な空気が球場を包んでいた。その中で戦う選手たちは、先輩後輩の序列などといったお決まりのルールに収まりきらない、喜怒哀楽をこれでもか!と思えるほどむき出しにしてプレーしていた。阿波野の表情はその象徴的なものに思えた。結局近鉄は負けなかったが、優勝はできなかった。グラウンドで選手たちは涙を流したものの、仰木彬監督の目に涙はなかった。だが金村の後日談によると、仰木監督が球場内のトイレでこっそりと目を拭っているのを見つけたそうだ。この時、原田さんはどこにいたのだろう。祝勝会に備えチームに帯同して川崎球場にいたのだろうか。もしそうなら、仰木監督の涙を見つけることはできたかな? (写真)このシーンの数分後にロッテ・有藤道世監督の9分間に及ぶ抗議があった~『近鉄バファローズ大全』(洋泉社)より~
2013.09.25
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■ムーンライト・グラハムとは、映画『フィールド・オブ・ドリームス』に登場しメジャーでは1試合に出場したものの、一度も打席に立つことなく現役を終えた実在の選手のこと(引退後は医者に転じた)。彼について、wikipediaはこう記していた。「W・P・キンセラが、ベースボール・エンサイクロペディアの中から偶然グラハムの特異な経歴を見つけ出し、そのエピソードを著書『シューレス・ジョー』に掲載したことから、映画『フィールド・オブ・ドリームス』として劇場公開され、グラハムの経歴が広く知れ渡ることとなった」。■ボクは歴代1軍出場選手539人のデータが収録された『近鉄バファローズ大全』(洋泉社)を見ながら「1試合に出場したものの、一度も打席に立つことのなかった」いわゆるムーンライト・グラハムを調べ始めた。すると該当する選手が11人見つかった。その人たちはどんな選手だったか、そして彼らが近鉄バファローズに在籍した当時、近鉄はどんなチームだったかを、このブログにまとめている。これまで書いた選手たちは中田庄治郎さん(第1回)、丁銀隆さん(第2回)、江渡辰郎さん(第3回)、東新昇(第4回)、松下芳夫さん(第5回)、三浦正規さん(第6回)、そして今回(第7回)は金城晃世(きんじょう・あきよ)さん。金城さんが近鉄に在籍したのは、1967年(昭和42年)から68年の2年間。通算成績は出場試合数「1」、打数は「0」(四死球、犠打はなし)。ポジションは外野手、背番号は46。韓国・建国高出身。ヴァン電工を経て1966年ドラフト外で近鉄バファローズに入団した。身長178cm、体重74kg。左投げ左打ち。1945年生まれ(現在68歳)。現在横浜ベイスターズで活躍する金城龍彦は、晃世さんの三男。龍彦は父・晃世さんについてこう語っている。晃世さんの人柄がよくわかる。「(龍彦は)子どもの頃から人に対してとても優しく謙虚な姿勢の父を見てきたため、その姿をずっと目標にしてきたとのことである」(wikipediaより)。■1966年、近鉄は13人の選手を指名するも10人から入団を拒否され、実際に入団したのは3人だけだった。そんな事情があってか、この時ドラフト外入団は金城さんを含めて5人もいた。ちなみに近鉄の1位指名はPL学園高出身の加藤英治投手だった。名前の似ている加藤英司(主に阪急で活躍)とは高校時代のチームメイト。WEBサイト『スタメンアーカイブ』によると、金城さんが唯一試合に出場したのは1968年10月6日、ダブルヘッダーの第1試合だった。2番・センターで先発出場したが、何かの理由により小川亨に交代した。打撃スタイルはどうだったか? 息子と同じ「野性的な」フォームだったろうか。残念ながら、一軍の試合でそのフォームを披露することはなかったけれど。■最後に、1968年当時の近鉄のことを。以下、『近鉄バファローズ球団史』(ベースボールマガジン社)より。前年(67年)オフに球団社長に就任した芥田武夫が、早大の後輩・三原脩の獲得に成功。近鉄にとって大きな転機だった。三原の改革は発想の転換から始まる。徹底した実力、そして勝利至上主義に選手たちの目の色が変わった。そんなチームにあって、金城さんは一層発奮したに違いない。しかし外野3人の内、土井正博と永淵洋三は固定されていて、レギュラーの壁は厚かった。残されたひとつのイスをめぐって山田勝国、ボレス、小川亨らと競ったが、残念ながら金城さんはこの年(68年)のオフに引退した。(写真)近鉄のエースに駆けあがる途上の鈴木啓示(右)、そして「二刀流」永淵洋三(左)~『近鉄バファローズ球団史』(ベースボール・マガジン社)より~
2013.09.24
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■ムーンライト・グラハムとは、映画『フィールド・オブ・ドリームス』に登場しメジャーでは1試合に出場したものの、一度も打席に立つことなく現役を終えた実在の選手のこと(引退後は医者に転じた)。彼について、wikipediaはこう記していた。「W・P・キンセラが、ベースボール・エンサイクロペディアの中から偶然グラハムの特異な経歴を見つけ出し、そのエピソードを著書『シューレス・ジョー』に掲載したことから、映画『フィールド・オブ・ドリームス』として劇場公開され、グラハムの経歴が広く知れ渡ることとなった」。■ボクは歴代1軍出場選手539人のデータが収録された『近鉄バファローズ大全』(洋泉社)を見ながら「1試合に出場したものの、一度も打席に立つことのなかった」いわゆるムーンライト・グラハムを調べ始めた。すると該当する選手が11人見つかった。その人たちはどんな選手だったか、そして彼らが近鉄バファローズに在籍した当時、近鉄はどんなチームだったかを、このブログにまとめている。これまで書いた選手たちは中田庄治郎さん(第1回)、丁銀隆さん(第2回)、江渡辰郎さん(第3回)、東新昇(第4回)、松下芳夫さん(第5回)。そして今回(第6回)は三浦正規さん。三浦さんが近鉄に在籍したのは、1969年(昭和44年)から71年の3年間。通算成績は出場試合数「1」、打数は「0」(四死球、犠打はなし)。ポジションは内野手、背番号は51。宮城・気仙沼高出身。大京観光を経て1968年ドラフト外で近鉄バファローズに入団した。身長171cm、体重68kg。右投げ右打ち。1948年生まれ(現在65歳)。気仙沼高時代に甲子園出場経験はない。 ■1968年秋のドラフトは「法政三羽ガラス」や明治大・星野仙一をどの球団が指名するかで大いに世間の注目を集めた。近鉄は12名の選手を指名したが、内5名が入団拒否したため、三浦さんはその補充要員として、ドラフト外で指名されたのかもしれない。そして三浦さんが唯一出場した試合は1969年5月29日のロッテ戦(於、日生球場)。ルーキーイヤーの5月に5番、ファーストで先発出場したのだから凄い。しかしどういうわけか途中で小川亨に交代し、一度も打席に立つことはなかった。理由は何だったか。故障か、もしくは早々にチャンスを迎えたため代打に小川を送られたか。いや、相手の先発投手が読めなかったため、三原脩監督が当て馬として三浦さんの名前を使ったかもしれない。 ■仮に先発でファーストの守備についていたとしよう。もしそうであれば、三浦さんの目にはどんな風景が見えたろうか。自チームのマウンドには鳴門高出身の板東里視、捕手は浪速高出身の岩木康郎だった。右に目をやればショートに安井智規、レフトには弱冠18歳で4番を打った土井正博。そして後ろを振り向けばライトに「あぶさん」永淵洋三がいた。東北出身者にとって関西はまるで文化の違う土地だ。まして憧れのプロ球界である。ルーキーイヤーに初めて日生球場のグラウンドに立った三浦さんの目には、カクテル光線がやけに眩しく見えたかもしれない。※ちなみに相手ロッテの先発投手はイケメン・木樽正明だった。木樽はこの年から活躍し始め、その後、エースの座を射止めた。 ■この当時、近鉄は球団創設以来初めて華やかな話題が豊富だった。三原脩の監督就任、佐々木宏一郎の完全試合達成、鈴木啓示のノーヒットノーラン達成などなど。とりわけ大きなニュースは三沢高・太田幸司の入団だった。ボクの記憶では、マスコミは「太田殿下」と呼んでいた。それだけ近鉄が太田を三顧の礼をもって迎えたということだろう。入団後も太田フィーバーは続いた。そして試合に出場していなくても、毎年のようにオールスターのファン投票で1位に選出された。太田が当時を回顧する。以下、『高校野球 忘れじのヒーロー』(ベースボールマガジン社)。「一勝も挙げられない、実力もない投手に、球宴に出ろと言うんです。こんなつらいことがありますか。まわりは名も実もある本当のスターたちです。僕だけは違うんですから。だから、ファン投票ではなく、監督推薦で選ばれたとき、僕は嬉しかった。初めて実力で認められた気持ちになったんです」三浦さんにとって、太田はまるで雲の上の存在だったかな? いや、同郷(東北出身)ゆえ親しみを感じて太田を陰に日向にサポートしていたかもしれない。ボクはそう思う。 (写真)三沢高時代の太田幸司~『高校野球 忘れじのヒーロ-』(ベースボール・マガジン社)~
2013.09.23
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前回の続き。■ムーンライト・グラハムとは、映画『フィールド・オブ・ドリームス』に登場しメジャーでは1試合に出場したものの、一度も打席に立つことなく現役を終えた実在の選手のこと(引退後は医者に転じた)。彼について、wikipediaはこう記していた。「W・P・キンセラが、ベースボール・エンサイクロペディアの中から偶然グラハムの特異な経歴を見つけ出し、そのエピソードを著書『シューレス・ジョー』に掲載したことから、映画『フィールド・オブ・ドリームス』として劇場公開され、グラハムの経歴が広く知れ渡ることとなった」。■ボクは歴代1軍出場選手539人のデータが収録された『近鉄バファローズ大全』(洋泉社)を見ながら「1試合に出場したものの、一度も打席に立つことのなかった」いわゆるムーンライト・グラハムを調べ始めた。該当する選手は11人見つかった。その人たちはどんな選手だったか、そして彼らが近鉄バファローズに在籍した当時、近鉄はどんなチームだったか。わかる範囲でこのブログにまとめている。これまで書いた選手たちは中田庄治郎さん(第1回)、丁銀隆さん(第2回)、江渡辰郎さん(第3回)、東新昇(第4回)。そして第5回目の今回は、松下芳夫さん。近鉄に在籍したのは、前回紹介した東新昇さんと同じ1968年(昭和43年)から69年の2年間。『近鉄バファローズ大全』によれば、通算成績は出場試合数「1」、打数は「0」(四死球、犠打はなし)。そしてwikipediaによると、ポジションは捕手だった。背番号51、大分・別府緑ヶ丘高出身。電電近畿を経て、1967年ドラフト5位の指名を受けて近鉄バファローズに入団し、69年に引退した。身長180cm、体重75kg。右投げ右打ち。1945年生まれ(現在68歳)。別府緑ヶ丘高時代に甲子園出場経験はない。■別府緑ヶ丘高といえば思い出すのは、稲尾和久である。松下さんは稲尾の8年後輩だから、松下さんにとって稲尾は、母校の大先輩として仰ぎ見る存在だったろうか。そして大先輩の偉業に近づこうと、プロ球界に飛び込んだと想像する。この1967年、近鉄から指名された同期には、永淵洋三や小川亨らがいた。1位:三輪田勝利(早稲田大)※中日希望だったため入団せず、大昭和製紙へ2位:永淵洋三(佐賀高‐東芝)※投手として入団3位;小川亨(宮崎商高‐立教大)また12球団を見渡すと、同期に読売・高田繁(浪商高‐明治大)、東京(現ロッテ)・村田長次(兆治)(福山電波工高)、そして、松下さんと同郷の東映・高橋直樹(津久見高‐早稲田大‐日本鋼管)らがいた。 ■だが、意気軒昂プロ入りしたものの、プロの壁は厚かった。近鉄の正捕手は、1968年当時は吉沢岳男、そして翌69年は岩木康郎がいた。そのため松下さんは出場機会に恵まれず、おもな仕事場所はブルペンだった。そして2年の間に、やっと1試合だけ一軍の試合に出場機会をつかんだ。理由は何だったろう? 正捕手が故障して交代要員として出場したか、または代走として出場したか。はたまた三原脩監督の奇策のコマとしての出場だったか。もし1969年に捕手として登場していたなら、扇の要から見える自軍の選手たちはどう見えたか。投手は鈴木啓示だったか。そしてファーストは伊勢孝夫、セカンド鎌田実、サード阿南準郎、ショート安井智規。そしてレフトに土井正博、センター小川亨、ライトが永淵洋三。このメンバーを想像しつつ書きながら、勝手に自分で陶酔してしまった。おぉ、凄いメンバーだ・・・と。松下さんもマスク越しに見る自軍メンバーに酔ったか。いや、緊張でそれどころではなかったかな? ■前回、近鉄にとって1968年~69年は、かつてないほど躍進の時代だったと書いた。しかし一方で、1970年に発覚する「黒い霧事件」が近鉄バファローズにも深く潜行した時期とも重なる。wikipediaによると、上述した吉沢岳夫ら近鉄の選手数人が、同時期に敗退行為していたという。 69年秋のドラフトで太田幸司を獲得して華々しい雰囲気に満ちた「明」と、一方で敗退行為をする「暗」の部分が混在した近鉄バファローズに、松下さんは在籍していたのである。これはボクの想像だけど、下積み中の選手はチームの暗部がよく見えるポジションだと思う。だから、そんなチームに嫌気がさしてさっさと辞めてしまったのかな?と想像をめぐらしている。たった2年間での現役引退に余計なことを考えてしまうのだ。 <参考>・wikipedia・WEB「スタメンアーカイブ」・WEB「激闘の記憶と栄光の記録」
2013.09.16
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(前回の続き)■高橋ユニオンズはたった3年で命運尽きた。昭和32年のシーズン開始に当たり、パ・リーグは高橋ユニオンズを解散させて、選手を東映、大映、近鉄などへ分配させた。可哀そうなのは、プロ球界のために私財を投げ打って尽くしてきた前通産大臣の高橋龍太郎である。大和球士は著書『改定新版 野球百年』の中で、パ・リーグは「定見なし」であると批判している。殊に批判の矛先は当時のパ・リーグ総裁、永田雅一に向いていた。「昭和29年春、パ・リーグ総裁に就任した永田雅一が爆弾動議を出し、当時セ・リーグは6球団制になっていたのに、一気にパ・リーグの8球団制に踏み切ったものであった。その8球団目の高橋球団は3年の寿命しか保つこと事ができず、石もて追われるごとく、パ・リーグから追放されてしまった。ここにパ・リーグの無定見ぶりが露呈されたと言える。8球団にするとき、大リーグなみの8球団制にすることが正道だと称した舌の根の乾かぬうちに、8球団は多すぎるとして7球団制に戻してしまった。その場の思いつきで大切なことを行うことが多いことが、パ・リーグの固定した人気を招くことができない原因と思われる。憐れをとどめたのは、高橋龍太郎であった」。■先日、昭和20年代野球倶楽部に参加した際、高橋龍太郎さんの孫・秋山民夫さんのお話を聞いた。秋山さんによれば、祖父・龍太郎さんはそんな苦い経験をしながらも、決してその後も野球を嫌いにはならなかったという。早稲田大の野球をラジオで聞くことがよくあったらしい。なんだか救われる思いだ。そして、秋山さんは「龍太郎さんは無口だった」ともおっしゃっていた。この当時のオーナーというと、ボクには永田雅一オーナーのイメージが強すぎて、「ラッパ」の印象を勝手にもっていたが、そうでない人もいたのだ。■あ、そうそう。大和球士は、佐々木信也についても触れていた。「ついでに後の事にまで触れておくと、7球団制をとったパ・リーグはこれも一年限りでおさらば、33年度には毎日と大映を合併して大毎球団を作って6球団制をとるようになる。そのたびに迷惑をこうむったのは高橋球団に加入した選手たちである。たとえば、戦後は慶大からプロ球界へ直接参加した選手の一人もなかった時、敢然慶大から高橋へ加入した二塁手佐々木信也のごときは、高橋‐大映‐大毎と転々とするたびに、変わったチームカラーにぶつかり、チームにとけこむことに神経をすり減らして、伸び悩んだ」。 今日も1クリックお願いします
2013.08.04
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