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明治神宮大会、大学の部の決勝は亜細亜大が延長14回の激戦の末に早稲田大を下し、大会最多タイとなる5度目の優勝を果たしました。いったいいつになったら勝負が決まるのやら? まさに手に汗握りながらのテレビ観戦でした。明治神宮大会(大学の部)決勝(11月18日)亜大 000 000 100 000 01 =2早大 000 100 000 000 00 =1■感動的だったのは、延長13回裏、一死一・三塁、一打サヨナラの大ピンチに登板した花城直(4年、八重山)の気迫あふれる投球。コンバットマーチが高らかに鳴り響く、早大にとっては”押せ押せ”の場面。見ている多くの人は早大のサヨナラ勝ちを予感したはずです。しかし、早大の好打者・茂木栄五郎(4年、楽天入団予定)に果敢に勝負を挑んだ結果四球で満塁とするも、次打者・4番の丸子達也(4年)を膝元に落ちる変化球で3-2-3の併殺に打ち取って絶体絶命のピンチを凌いでみせました。その瞬間、「どうだ~!、オレはこの場面のために闘病生活から這い上がってきたんだ!」とでも言いたげに、ハデに両腕でガッツポーズをつくり「やった~!!!」と吠えました。そして「ピンチの後にチャンスあり」の格言通り、直後の14回表に相手投手の暴投で1点をもぎ取り、亜大が優勝を決めました。(写真)亜大・花城直。延長13回裏、絶体絶命のピンチを脱し、雄叫びを上げる!(BS朝日より) 闘病生活ーーー、花城は昨年5月に黄色靭帯骨化症という病気(国の難病指定)で手術し、壮絶な闘病・リハビリを経験しました。そして奇跡的に神宮のマウンドに立つことができたのです。この病気は星野仙一さんが患ったことで有名になりましたが、黄色靭帯が骨化して脊髄を圧迫することで下肢のしびれや脱力などの症状が発生し、ひどい場合には両下肢のマヒなどが起きる可能性もあるようです。「手術前は、感覚がマヒしてしまい、自分の足がどこにあるのかさえ分からない状態だった」(花城)。全国優勝という偉業の陰には、何かしらの物語があるものなんですね。■そして亜大には、実はもうひとつの物語がありました。亜大の今年一年のスローガンだった「顔晴る(がんばる)」は、晴れやかな顔で一生懸命努力するという意味が込められていましたが、このスローガンがうまれたきっかけ、それは生田勉監督の長女、英恵(はなえ)さん(19)の存在でした。以下、毎日新聞より。生まれつき知的障害があった英恵さんは、どんな時でもニコニコと笑顔を絶やさない。新チームの発足時、立て直しを迫られた生田監督の心に思い浮かんだのが、苦戦を強いられた就職活動を笑顔で乗り切った英恵さんの姿。昨年、英恵さんは入社を希望する会社の実習に行く途中で道に迷い、実習期間中ほとんど遅刻してしまった。なかなか採用が決まらないが、それでも毎日笑顔であいさつを続けた。その姿が多くの人の目に留まり、希望の会社への就職が決まり、今春から働き始めた。「娘は笑顔で運が開けた。だから顔が晴れるという意味の『顔晴る』をスローガンに掲げた」と生田監督。今秋は東都リーグの最終試合で優勝を決めた。明治神宮野球大会でも準決勝の東海大戦で逆転勝ちし、決勝の早大戦でも延長十四回の激戦を制するなど土壇場で勝負強さを発揮した。板山祐太郎選手(4年)は「苦しいこと、つらいことはたくさんあった。でも、運が舞い込んで来るよう常に顔を晴らす意識をした結果」と振り返る。一つのスローガンの下、手にした日本一。グラウンドの中には選手の、スタンドには声をからして応援し続けた英恵さんのあふれんばかりの笑顔があった。(写真)延長13回のピンチを見守る亜大応援席(BS朝日より)
2015.12.01
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今夏の決勝戦、始球式に登場したのは広島商OBの達川光男さんだった。64歳。右手に息を吹きかけた後に振りかぶると、投じた一球はまっすぐに捕手のミットへ届いた。しかし、高めに大きく外れた。「打者に当ててはいけんと思って、外角高めに外れた。本来ならここで投げるのは今は亡き佃正樹だった。今日は佃の分までしっかり投げてこい、と言われてきた」と達川さんは話した。 達川さんと言えば、死球の虚偽のアピールでも名を馳せた(?)かた。この達川さんが口にしたのは、とても懐かしい名前だった。(写真1)始球式の達川光男さん~NHKより。写真3、写真4もNHK。 佃正樹さんーーー。1973年夏、広島商で達川さんとバッテリーを組み、甲子園大会に優勝した投手。細身の左腕に黄色い声援も飛んだ。当時は作新学院の”怪物”江川卓投手を中心に高校野球界がまわっており、どの高校も”打倒、江川!”に闘志を燃やしていた。その急先鋒だったのが、広島商だった。事実、同年センバツの準々決勝では、江川から奪った安打はたった2本だったが見事に勝利を収めた。 高校卒業後、佃さんは法政大に進学した。エースの座を約束されての進学と見るムキもあったようだが、土壇場になって慶應義塾大の受験に落ちた江川も法政大に進学、佃さんにとって事態は暗転した。「江川は怪物でした。とても勝負になりませんよ。プロ入りは、大学に入学してすぐ諦めました」(佃さん)。大学卒業後はノンプロの三菱重工広島に進み、ついにプロ入りすることはなかった。そして2006年、52歳の若さで亡くなった。(写真2)『高校野球 忘れじのヒーロー』(ベースボール・マガジン社)より。 さて、今年8月11日に行われた2回戦の明石商ー花咲徳栄戦では、とても珍しいプレーがあった。7回表、1点差を追う花咲徳栄の攻撃の場面。一死後、右打席に立ったのは9番・菅原謙伸。相手投手が投じた2球目のスライダーが内角へ行き、菅原の肩に当たった。しかし、菅原は一塁へ向かう素ぶりを見せない。 「すこし前かがみでよけてしまった。あれは自分が悪い」とアピールし、心配してくれた主審のほか相手・明石商ベンチにも頭を下げた。達川さんの例を持ち出すまでもなく、死球でなくとも死球とアピールしてもよい場面だったが、菅原はそれをしなかった(記録はボール)なんというフェアプレー精神だろう。 (写真3)2球目、菅原の肩に当たる・・・ そして、この物語には続きがあった。直後の3球目、真ん中に甘く入った球をフルスイングすると、打球は一直線にレフトスタンドへ。同点弾は、菅原にとって記念すべき公式戦第1号となった。 強打者揃いの花咲徳栄にあって、非力な菅原は、いわばディフェンス要員。しかし岩井監督をして「甲子園に出場できたのは菅原のおかげ」と言わしめた。例年よりも投手力が劣るように見えた同チームにおいて、厳しい埼玉大会を勝ち上がるには欠かせぬ存在だった。 菅原は試合後、「いろんな方が見ている。ここは聖地だし、埼玉の代表として出場している。花咲が出てきてよかったと思われるプレーをしたい。当たりに行くようなプレーをしてはいけない」と話した。 試合には敗れたが、清々しい印象を残して甲子園を去った。実は、この菅原は岩手県出身の選手。 少年野球時代には、岩手県大会開会式で現在大船渡高のエース・佐々木朗希と偶然隣り合わせたことが縁で、仲良くなったんだとか。そして実際に対戦し、当時投手だった菅原は佐々木に本塁打を浴びた。甲子園でのリベンジを切望していた菅原だったが、その夢は叶わなかった。(写真4)直後の3球目、野球の神様が打たせた本塁打⁉2019世代 いわて高校野球ファイル[本/雑誌] / 岩手日報社
2019.08.25
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前回の続き。■元・近鉄バファローズのエース・鈴木啓示さん(育英高)は、西本幸雄さんと三原脩さんを比較して「西本さんは選手を技術、体力、精神すべてにおいて育ててくれた監督、三原さんは選手をうまく使う監督」と評した。鈴木さんの詳しい比較評は『パ・リーグを生きた男 悲運の闘将 西本幸雄』(ぴあ刊)に詳しく書かれている。■まず西本さんについて。「初対面の時『20勝するのもいいけど、同じするなら負け数をひと桁にしろ』と、いきなり注文をつけられた。西本さんは不器用やけど、ひたすら熱心に情熱を傾ける人なんです。私も不器用な男です。お互い純粋で不器用やったから、、『わかった』と打ち解け合うまでに時間がかかる。でも、不器用なもん同士やったから、いったんできた絆が深いんやと思いますね」■そして、三原さんについて。「初めて見た印象では稲尾(和久)君より素晴らしいなぁ、と言われた。もし、心のレントゲンを撮る機械があったら、三原さんは最高機能のレントゲン機器をもってらっしゃったんでしょうね。選手の心を見透かし、やる気が高まるように持っていく。100の力がある選手が120の力が出るように持って行くのがうまかった」事実、鈴木さんは三原さんの言葉に乗せられるように、投げて投げて投げまくった。「ここはあんたしかおらん。あんたと心中や」と言われると意気に感じずにはいられなかった。三原さんが監督に就任した1968年、鈴木さんの登板イニングは359回。翌69年は330回。結果、69年は万年Bクラスだった近鉄を初優勝まであと一歩のところまで躍進させた。※昨年(2011年)、ダルビッシュ有が232回、田中将大が226回だったことからも、当時の鈴木さんの凄さが分かる。この三原評、西鉄ライオンズ時代の教え子、稲尾和久さんも同じことを言っていた。稲尾さんも西鉄の黄金時代は、三原さんに乗せられて投げまくった。ベンチで「ここの場面はエースに投げてほしいなぁ」と三原さんのつぶやきが聞こえると、例え先発完投した翌日であっても、リリーフ登板を厭わなかった、稲尾さんの述懐である。57年と58年は373回、59年は402回を投げ抜いた。これはもう驚異的な数字である。今日も1クリックお願いします
2012.03.16
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■マーリンズと再契約したイチロー外野手(42)が引退までの「終身雇用」を保障されていたことが分かった。代理人のジョン・ボグズ氏が9日、イチローの契約をまとめた際の秘話を明かした。同氏は「球団は、イチローがいたいだけいてほしいとのことだった。彼らはイチローを非常にリスペクトしている」と明かした。終身保障の考えを聞かされた同氏も感激し「イチローもチームメートにも球団にも満足している。願わくば、この先何年もマ軍でプレーを続けてほしいね」と笑顔で話した。(以上、日刊スポーツより)イチローを終身雇用、「いたいだけいてほしい」という言葉がいいですね。そもそも野球選手は雇用契約なのか、なんてくだらないことはおいといて、一般のサラリーマン社会でもあまり聞かなくなった「終身雇用」、昭和の響きがあって実にいい。■さて、「いたいだけいてほしい」と聞いて、思い出したのが「やりたければどうぞ」発言です。正確には「監督をおやりになりたければどうぞおやりなさい」。発言の主は西武ライオンズの堤義明オーナー、一方、言われたのは西武ライオンズの森祇晶監督(いずれも当時)。それは1989年のシーズンオフのことでした。常勝を誇った西武が惜しくも近鉄バファローズにリーグ優勝をさらわれ、その負け惜しみと観客数が増えない苛立ちを森監督に向けて発した言葉です。これは「いたいだけいてほしい」と言葉は似ていますが、その意味するところは180度違います。「森なんかに監督を続けてほしくないけれど、やりたいなら勝手にやればぁ。ほんとにイヤになっちゃうなぁ。もっとまわりの空気を読んでくれないかな、あ~ぁ(ため息)」といったところでしょう。「やりたければどうぞ」。森監督はそんな皮肉にもめげずに西武の指揮を執り続けますが、ことはこれだけで収まりませんでした。その5年後に、森監督を「悲劇」第二幕目が襲います。1994年の日本シリーズ、西武ー巨人第4戦の試合前のこと、会場となった東京ドームの電光掲示板にニュース速報が大々的に流れました。「西武・森監督、シリーズ後に辞任」今まさに日本一目指して戦おうという時、森監督の目の前でこのニュースが流れたのです。もちろん、西武球団と森監督の間では「そのシーズン限りで辞任する」という合意はありましたが、このことは日本シリーズ終了後にしかるべき段取りを踏んで公表されるはずでした。当時密月の関係にあった西武・堤オーナーと、森監督にとっての古巣・巨人(読売グループ)が仕組んだ罠とでもいいましょうか。この2度にわたる仕打ちを経て(本当はもっとあったでしょうが)、森監督は球界の表舞台から身を引くことになったのでした。(写真)西武、全盛のころ。胴上げされる森監督、左手前は工藤公康。~『激動の昭和スポーツ史』(ベースボール・マガジン社)より。
2015.12.14
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今日行われた埼玉大会4回戦。夏3年連続甲子園出場を目指す花咲徳栄(Aシード)と、武蔵越生の戦い。中盤まで4-2の接戦、武蔵越生が大いに健闘しましたが、終盤に花咲徳栄が8-2で突き放しました。実は花咲徳栄・岩井隆監督と武蔵越生・泉名智紀監督は東北福祉大の先輩・後輩でした。どちらが先輩か分かりませんでしたが、サイトで調べたところ岩井さんは91年卒、泉名さんは92年卒。岩井さんの同期に浜名千広(のちにダイエーほか)や現阪神監督の金本知憲らがおり、泉名さんはその一学年下だったようです。泉名さん、大学卒業後は98年から東京成徳大深谷の監督に就きましたが、野球部のグラウンドがなく、練習場を転々とする苦労を経験、それでいて埼玉大会ベスト4入りを果たすなどの苦労人だったようで。今年夏は終わりましたが、来年につながる今日の善戦でした。(写真)花咲徳栄・岩井隆監督。(テレビ埼玉より。以下も同じ)(写真)武蔵越生・泉名智紀監督。
2017.07.17
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■FACEBOOKやこのブログで書いてきたNHKの番組『72hours』。いよいよ今年も年間リクエスト1位が発表になるそうです。放送は12月28日23:20~。この番組は人々が行き交う街角に3日間カメラをすえて、ただただカメラをまわし続けるだけの、ごく単純な構成。でもひとたびマイクを向けると、市井の人たちの抱える様々事情や困難が垣間見えてきます。それは見る人の想像をはるかに超えていて、とにかく面白いし実に「金言」が多い。偉人の残した名言もいいですが、同時代に生きる市井の先輩たちの言葉もまた珠玉です。 ■はてさて、今年の1位は何でしょうか? いまから楽しみなんですが、ボクは「定年後の男の生きざま」というか、そういったニッチなことに興味があるので、『閉館する老舗のボウリング場』を1位に推したいですね。定年男とボウリング場は一見何の関係もないように見えますが、実は大ありなんです。職場を引退して社会的な役割を失うと、どうやら人は「いま自分が生きている証」や「自分が生きていく新たな目標」を求めるようで、番組に登場した人たちは、自らの証や目標を再確認するためにボウリング場に通っていました。きっと制作スタッフもそんなことは予想していなかったかも。意外な場所で意外な人の意外な事情を聞く、その醍醐味がこの回には端的に表れていたように思います。実は今から8年ほど前、定年した元サラリーマンたちの話を聞いてまわっていた頃、「オレがこの世に生きてきたという爪痕を、なんとか残したいんだよ!」と。そんな隠れた思いを話してくれたAさんを思い出す回でした。 ■『閉館する老舗のボウリング場』(1月16日放送)。場所は、新宿・歌舞伎町にある「ミラノボウル」。まもなく閉館することが決まっていますが、ここにカメラを据え、そしてプレーする人々にマイクを向けました。かつてボウリング場は仲間たちと集団でわいわいプレーするところでしたが、今はそうとも限らないようで。一人でやってきては黙々とボールを転がす人も少なからずいます。まず、そんな一人にマイクを向けました。(62歳・男性・無職)高校卒業後、40年間働いてきた企業を突然リストラされ、ここ5年間は無職のまま。生活は厳しいけれど、週2回と決めたボウリング場通いはなんとか続けているという。なぜボウリングを続けているのですか?の問いに、「偉そうなことを言うつもりはないけれど、ボウリングをやっていて、自分も一緒に成長できるかなと思っています」。その意味するところは、たとえストライクがとれなくても、スペアで挽回できることもある。それは即ち、コツコツ頑張っていれば、必ず結果がついてくると信じているから今までやってきたと。「なかなか人生もこれでいいって完璧というものはないですからね。だから、自分は満足というか、幸せなほうだと思いますよ」と話し、笑顔でボウリング場を後にしました。「幸せなほう」という言葉は、決して誇張に聞こえませんでした。自分は何らかの人生の目標をもってきっちりと生きている。その点において、自分は幸せなほうなんだと。そう理解しました。そしてあくる朝、またも一人で黙々とボウルを投げる年配男性にマイクを向けました。(64歳・男性・コインロッカー管理)大粒の汗をかいて必死の形相でボウルを投げ続けています。聞けば糖尿病を患い、通院後には必ずこのボウリング場に立ち寄り、汗を流すそう。「ストレス解消なんですよ。糖尿病はストレスが悪さをするので、ストレスをためちゃだめなんですよ」。なぜボウリングを続けるのか。理由は他にもありました。それは60歳を超え、自分がまだ頑張れるのか、それを確かめる手段がボウリングなのだと。「自分がまだ頑張れるか」。一定の年齢に達すると、皆に共通する思い、不安なんですよ、きっと。
2015.12.14
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【2006年ドラフト】《指名候補選手》(5)上園啓史 投手(東福岡高-武蔵大) 身長180cm、右投右打。最速148kmの速球派。今春、首都大学リーグ1・2部入替戦の第一回戦をたまたま観て、上園投手の名を知った。この時、上園投手がいる武蔵大は敗れたが、その後連勝し見事に独協大を破り1部リーグに昇格した。武蔵大という野球界では地味な大学ながら、今年の日米大学・世界大学選手権の日本代表に選出された。高校は東福岡高。01年のセンバツ、2年生のときに背番号11をつけ控え投手として甲子園に出場した。現・横浜の吉村裕基がチームメイトだった。上園自身は出場機会がなかったが、準々決勝で優勝した常総学院高に敗れた。当時の常総学院には、現・青山学院大の横川史学と大崎雄太朗がいた。もちろん、この2人もドラフト候補選手。過去の『あま野球日記』-武蔵大、上園啓史-■首都リーグ、1部昇格直後の武蔵大が帝京大から勝ち点!■首都リーグ入れ替え戦・独協大vs武蔵大 データ編 ■首都リーグ入れ替え戦 獨協大学vs武蔵大学を観に行く。いつもご協力をありがとうございます。人気ブログランキングに参加中です。クリックをお願いします。
2006.11.20
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一週間前、イースタンリーグのヤクルトvsロッテ戦を観戦したとき、ベンチとブルペンを往復する八木沢壮六二軍投手コーチ(作新学院高)を見かけた。これまで8球団をわたり歩いた八木沢さん。ボクはもっと恰幅のいい姿を想像していたけれど、実際に見たら意外に華奢な身体つきだったので、ちょいと驚いてしまった。その八木沢さん、いま頭を悩ませているという。日刊ゲンダイが伝えている。昨日のイースタンの試合、佐藤由規(仙台育英高)は1イニングだけ投げた。キレ味の鋭いスライダーで三振を奪った一方、制球難は相変わらずで、ストレートの四球も与えてしまった。実は、八木沢さんの頭痛のタネはここにある。過去に指導した投手には、たとえば井川慶(水戸商高)がいる。由規ほどのスピードはなかったが、井川のフォームには改善すべきポイントがあり、遠慮なくその点を指導できた。だが、佐藤由規。制球が悪いということは、フォームのどこかに欠点があるはずだが、それをヘタにいじって、最大の魅力であるスピードを殺してしまってはいけないというジレンマとの戦いなのだ。もし、最悪の事態になったら「A級戦犯」ものだ。だから、八木沢さんの苦悩はまだまだ続く・・・(のかな?)----------------------------------------------------------つぎも日刊ゲンダイから。昨日行われたホークスvs西武戦。プロ入り後、初めて経験するサヨナラ適時打を放ち、一躍ヒーローになったのは8年目のホークス・仲沢忠厚(敦賀気比高)。 「チャンスで自分の打順に回ってきたから、代打を送られるかと思った。初めての経験、サイコーです」この仲沢、高校時代には苦い経験がある。1999年の明治神宮大会で準優勝した敦賀気比高、翌年(2000年)のセンバツ出場を確実なものにしていた。ところが、その敦賀気比の選手だった仲沢、バカなことをやってしまう。高校生ながら無免許で飲酒運転の上、事故まで起こしてしまいセンバツ出場を辞退するハメになったのだ。当時のチームメイトは、現・読売の内海哲也。話題が中沢のことになると、今でも内海は機嫌が悪くなるほどただ当の仲沢、今となってはまるで気にしていない様子。新人の時から平気で練習に遅刻するなど、神経のずぶとさは折り紙つきだという。ま、そのくらいの方がプロの世界で通用するのかも・・・。最後に日刊ゲンダイの見出しを借用したい。「図太い神経、武勇伝はとっくにスター級」 1日1クリックお願いします>>人気ブログランキング
2008.04.14
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全日本大学野球選手権の2回戦、関西国際大と明治大の一戦(6月8日)。■タイブレークになった延長10回裏、1点差を追う明治大はなおも二死一・三塁のチャンス。打席に4番・牛島将太(4年、門司学園)が打席に立ちます。そして、初球でした。真ん中に入った直球(140キロ)を豪快に叩くと、打球はぐんぐん伸びてレフトへ。背走して追いかけるのは、この回からレフトに入った関西国際大2年の藤原朋輝。そしてフェンスに達すると、身体を「く」の字に曲げてジャンプ一番、目いっぱい上にグラブを差し出して好捕しました。このファインプレーが飛び出したことで3アウト、関西国際大の勝利が決まりました。打球はフェンス上部まであと50センチ程度の高さだったでしょうか。もし捕球できなければ明治大の三塁走者はもちろん、一塁走者も生還して逆転サヨナラ負けのケース。紙一重のところで、藤原のプレーが関西国際大に勝利をもたらしました。■この藤原朋輝はPL学園の出身です。部員の不祥事(暴力事件)に端を発した監督の辞任、対外試合の禁止。さらに廃部問題にまで発展したPL学園野球部ですが、そのさまざまな問題が渦巻く最中、主力選手として奮闘していた選手のひとりが、この藤原でした。新監督のなり手がいない中で、野球未経験の正井一真校長がベンチで陣頭指揮を執る異常事態であるにもかかわらず、2014年夏の大阪府大会では大体大浪商や関西大北陽をなぎ倒して決勝進出したニュースは記憶に新しい。惜しくも決勝では、香月一也(現・ロッテ)や青柳昴樹(現・横浜)のいる大阪桐蔭に大敗しましたが、藤原は1番・センターでこの試合に出場していたようです。原因は部員にあったとしても、オトナの事情も絡まって問題が複雑化する中で、野球に集中することはとても難しいことだったと想像します。たしか田中将大が駒大苫小牧を卒業する際、甲子園で連覇記録を作る一方で不祥事、甲子園出場辞退などの経験を振り返り、「まるで天国と地獄をジェットコースターで往復しているようだった」と心情を吐露していたのを思い出します。天国と地獄。藤原にとっては高校時代の経験が仮りに「地獄」だったとすれば、全日本大学野球選手権という晴れ舞台で見せたファインプレーは、野球の神様が特別に用意してくれた「天国」だった、と言えるかもしれません。 藤原にとって天国がこれからも続くことを祈りたいと思います。 (写真)勝利決定直後の関西国際大ベンチ前。中央が藤原朋輝(だと思います。背番号が見えないため確信はありませんが)。~J-SPORTSより(以下も同じ) (写真)藤原のファインプレーを目の当たりにして、まだ敗戦を信じられない表情の明治大・柳裕也。
2016.06.22
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前回の続き。■1968年(昭和43年)から近鉄の指揮を執った三原脩は、初めて優勝を狙えるチームに導くように見えた。それまで万年最下位だった近鉄が、その年は4位に躍進。そして翌69年は阪急と最後まで優勝争いを展開するまでになった。しかし、三原の3年目、最終年の70年は打撃陣の不振が響き、結局3位に終わった。70年は、前年に発覚した「黒い霧」が球界を覆った。同年3位だった近鉄も例外でなかった。球団広報課長が八百長事件に仕組んだ疑いで永久追放処分になり、主力打者の土井正博も(黒い霧事件とは無関係だが)常習賭博の容疑で大阪府警に取調べを受けるなど、近鉄も不祥事が続いていた。本気で初優勝を賭けて臨んだシーズンは不本意な成績で終わり、シーズン終了とともに、三原は近鉄の監督を辞した。しかし、三原は退団の理由を誰にも語らなかった。東京の自宅に帰り、家族には「もう二度と、東京を離れるつもりはない」とだけ話し、自叙伝『風雲の軌跡』には、「私としては、不本意なやめ方であり、その理由については、いいたくない」とだけ書かれていた。■三原が退団した理由について、作家・立石泰則さんは著書『魔術師 三原脩と西鉄ライオンズ』(小学館文庫)にこう書いている。「契約更改の度に生じた(三原の)退団騒動、トラブル等々。近鉄本社・球団首脳と三原との軋轢は深まりこそすれ、解消へ向かうようなことはなかった。そこには、西鉄および大洋時代と違って監督業だけに専念してきた3年の間に、三原が近鉄を見限る深刻な問題があったはずである。それは同時に、三原が西鉄でも大洋でも経験してきた親会社と球団の関係に象徴される古い体質とも無関係ではなかっただろう」。それは、常にビジネスライクな考え方をする三原と、所詮球団は本社の広告塔に過ぎないと考える経営者層との、埋めようもない溝とでも言おうか。実績に見合った収入を要求する三原に対し、「近鉄の天皇」と呼ばれた佐伯勇球団オーナーは頑として首を縦に振らなかった。お互いの溝は深まるばかりだった。■後に近鉄の監督を経験した関口清治が近鉄の「タニマチ体質」を述懐し、三原が近鉄を見限った理由を推測する。以下も『魔術師‐‐‐』より。「近鉄には月1回、朝飯会というのがあって、傍系会社の社長や重役が集まるんです。佐伯会長のあいさつがありますから。近鉄の監督も大阪におるときは、そこに出ていくんですよ。重役たちは鶴岡さんや川上さんの解説を聞いて、私に『なんで、あのときにあの選手を使わなかったんや』と詰問されることが度々でした。いろいろ事情があるのですが、そんなことは解説者は知りませんわな。だから、全然違うんですよ。ところが、お偉いさんたちは、解説者の話を聞いて、もう目茶苦茶言うとりますわ。近鉄は、本当に周囲がうるさかったですよ」。ある日、関口は佐伯に試合中の作戦について質問されたことがあった。「エンドランやバント、あるいは盗塁をさせるでしょう。あるとき、佐伯会長が『それは監督の独断でやるのか』と聞かれるので、『えぇ、独断です』と答えたんです。すると、『それは駄目だ。コーチとかみんな集めて、相談してやりなさい』と言われるんですよ。それでは試合がどんどん流れていきよるし、間に合わないと説明すると、『独断でやるのも結構だが、それは間違えがあるぞ』といわれる。こんなんばっかりですよ」。■三原の監督在任中も同様だったことは想像に難くない。お金の問題と球団の体質と。ただ、それが退任の本当の理由だったかは分からないが・・・。そしてもうひとつ、当時の三原を悩ませていたことがある。前年1969年(昭和44年)秋に発覚した「黒い霧」が古巣西鉄ライオンズを直撃したことだ。「なぜ、西鉄がこんなことになってしまったのか・・・」三原の嘆きの声である。そして、この時、西鉄の監督が娘婿の中西太だったことが、一層に三原の悩みを深くした。※続きは、いずれ。
2014.01.04
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前回の続き。8月31日発表された「日本学生野球憲章」の第1次改正案。主要ポイントの一つには「プロとアマとの練習や試合を、一定の条件のもとで容認されるようになった」こと。■では具体的にどう変わるのか、そしてその問題点は何か。9月1日付の日刊ゲンダイが以下のとおり、解説している。これまで禁止されていた現役のプロ選手による高校・大学生への直接指導や、「巨人対早大」「楽天対東北福祉大」などの練習試合も可能になる。ある現役の大学監督はこう言う。「むしろこれまでが異常でした。OBのプロ野球選手が母校に自主トレに来ても、学生と接触を避けるように隅っこでコッソリやる。2005年まではキャッチボールはもちろん、話すことすら許されなかったのですから。堂々と指導できるようになるのは、現役にとってもプラスです」ただ、大学関係者からは不安視する声も聞かれる。「プロの関係者は大学の野球部員に堂々と接触できる。その気になれば『ウチの球団はいいよ』と歓誘や交渉することができる。特定選手の囲い込みの手段に使われないか心配です」 (以上、日刊ゲンダイ)----------------------------------------------------------------まだ懸念を残すものの、プロとアマの関係は「雪解け」に向かっているようだ。そもそも両者が冷戦関係になったキッカケは、1961年(昭和36年)に起きたこの事件にあった。柳川事件。以下、そのあらまし。発端は、シーズン途中に社会人選手の引き抜きを禁じる協定があったにも関わらず、同年シーズン開幕直後の4月、中日が日本生命の柳川福三選手を入団させたことにある。怒った社会人協会は協定違反として態度を硬化。5月13日、これまでプロ野球退団者を受け入れてきたが、「今後は一切受け入れない」と声明を出し、プロ野球との絶縁を宣言した。これに対し鈴木竜二セ・リーグ会長(当時)は、「職業選択の自由を奪う社会人野球協会の決定はおかしい」と言い放ち、プロ・アマの確執が始まった。以来、さまざまな紆余曲折はあるものの、いまだ奇妙な関係が続いている。◇鈴木竜二の関連記事「あま野球日記」バックナンバーより。「戦後・職業野球の復活、東西対抗戦の背景」 (2009.8.1) → こちらへ。さて、大きな事件に発展した「柳川事件」。だが当の柳川、成績は芳しくなかった。通算成績は実働5年、144試合、2本塁打、11打点、打率.202の成績。入団時に事件に巻き込まれると、その選手は大成できないといったジンクスが球界にはあるのかもしれない。荒川 尭とか・・・。 ◇ 「ボクにとっての日本野球史」 (2009.7.1)、INDEXはこちらへ。今日も1クリックお願いします
2009.09.04
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2006年の第1回WBCでの誤審騒動で日本列島に大ブーイングを巻き起こしたボブ・デービッドソン審判員(56)が3月に行われる第2回大会の審判団から外れていることが30日(日本時間31日)、分かった。 大リーグ関係者が明かしたもので、除外の理由は不明だが、今大会は審判団の半数をIBAF(国際野球連盟)から派遣される米国以外の国の審判員が占めることも決まっている。 デービッドソンの名を国内外に知らしめたのは前大会の第2ラウンドの日本-米国戦。勝ち越し点となるはずだった西岡のタッチアップを離塁が早かったとして認めず、結果として日本は敗れた。またメキシコ-米国戦でも、メキシコの右翼ポール直撃の打球を二塁打と判定した。 1つの判定が命取りになる短期決戦。日本にとって朗報だ。(デイリースポーツ) 2006年春に開催された第1回WBC。日本の優勝決定後、「MVPはボブ・デービッドソンだ!」とボクは書いた(2006.3.21)。疑惑のタッチアップの判定で日本選手のみならず、日本国民にWBCへの興味を喚起する貢献があった。ボブ・デービッドソン。それだけに満足することなく(?)、疑惑の二塁打の判定で、意気消沈気味だったメキシコを目覚めさせ、日本の準決勝進出をアシストした。ボクは多分の皮肉を込めてMVPと呼ばせてもらった。そして同時に、WBCという世界最大の野球イベント「WBC」を、「誤審男」ボブ・デービッドソンの名とともに記憶するハメになったWBC「ボブ・デービッドソン誤審」。動画はこちら。本当のところ、ボブ・デービッドソンという審判はいったい何をやりたかったのか、ボクにはまるでわからなかった。米国を贔屓したかったとしても、そのやりかたはあまりに稚拙で、実は視力が落ちているのを隠しているのではないか?そんなことを忖度したりもした(2006.3.17)。だが、そもそもメジャーでも「自己顕示欲がひたすら強い」審判だったようだ。自分の判定で試合の流れを変えることに快感を感じる・・・そんなキャラクターの持ち主らしい。ロッテのボビー・バレンタイン監督曰く、「彼にはボーク・ボブ・デービッドソンというニックネームがあるぐらい、自分を目立たせるためにボークをよくとる審判だ」 メジャーの審判になるためには相当の技術が必要なハズ。(2007.11.24)ボビー・デービッドソンのような人が、なぜメジャーの審判に昇格したのかがわからないけど、今回のWBC欠場は最大の朗報に違いない ボブ・デービッドソンのWBC欠場に大喜びの方、1クリックお願いします
2009.02.01
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今日行われた準決勝、第1試合。日本文理高vs県岐阜商高戦。県岐阜商 000 000 001 =1日本文理 000 011 00X =2(県)山田、(日)伊藤 両投手、見事な投球だった。そしてほんのわずかな差で日本文理高が勝利を勝ち取り、新潟勢としては初の決勝進出となった。印象的だったのは9回表、二死一塁の場面に代打で登場した県岐阜商・古川隼也(3年)のこと。 彼の気持ちを込めた一打はレフトオーバーの二塁打に。チームにとって貴重な1点を奪うことができた。二塁ベースに立った古川、目から涙が溢れるシーンをテレビカメラがアップで捕らえていた。ヒットを打てた嬉しさはもちろん、それ以外にも、これまでの悔しいことやら苦労したことなど、様々な思いが脳裏に甦ったんだろうな、とボクにはそう思えた。--------------------------------------------------------------- さて、話は変わる。途中から見たこの試合だったけど、ボクは二塁塁審の顔を見て、「あれは、堅田さんじゃなかろうか」と思った。それは堅田外司昭さんのこと。先日見たNHKテレビ『にんげんドキュメント』~球児たちの延長戦25年目の星稜対箕島~』に出ていたので、よくその顔は憶えている。昨日(8月22日)のブログで書いた1979年夏の甲子園、星稜高のエースはこの堅田さんだった。延長18回、208球をひとりで投げ抜いたが、結局敗戦投手となった。そして今、パナソニックに勤務する傍ら、高校野球の審判も務めている。1979年、夏の甲子園3回戦。(延長18回)星稜 000 100 000 001 000 100 =3箕島 000 100 000 001 000 101X=4そしてその後、この試合で主審を務めた永野元玄さんと堅田の間にドラマがあった。試合終了後、永野さんは選手が退出する出口で堅田を待った。そして、堅田を見つけると、この試合で使っていたボールを一個手渡したのだ。主審が投手に記念ボールを渡すことなど滅多にない。でも、延長18回を投げ抜き、そして敗れた堅田に主審自身が感情移入したのには理由がある。それは(疲労で)堅田の球威が落ちてくるのを間近かで見ていた目撃者だったから。■『スローカーブを、もう一度』(山際淳司氏、角川文庫)に、永野さんのコメントがある。「私のベルトのところには、、ボールを入れる袋が下がっていまして、そこにはいつも4個のボールを入れているんです。ニューボールもあれば、一度使ったボールもある。ここぞという局面で、ボールを交換するときは、私は使い古したボールを渡すようにしている。新しいボールは滑るからです」「そして18回の表に星稜は得点機を逃して、その裏、つまり、18回の裏の堅田君の一球目を見て、私は点が入るかもしれないと思いました。予感がするんですね。私は投げやすいボールを渡したはずです。でも、球が死んでいた。17回までの堅田君の投球とは明らかに違うんですね。疲労がたまっていたのかもしれません。すべての球が死んでいました」 結局、箕島は延長18回に適時打が飛び出して勝利を決めた。甲子園、審判と選手にもいろいろなドラマがあるものだ。--------------------------------------------------------------◇ 「ボクにとっての日本野球史」 (2009.7.1)、 INDEXはこちらへ。今日も1クリックお願いします
2009.08.23
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去る5月30日、当ブログは250万アクセスを超えることができました。ここ1ヶ月ほどは1日あたり約2,000アクセスで推移しています。これもひとえに読者の皆様のご愛顧によるのものと存じます。今後も地味にコツコツと続けていくつもりですので、これまでと変わらぬご支援ご鞭撻のほどよろしくお願い申し上げます。 ■さて、今日は都市対抗・南関東2次予選を観戦しました(於:県営大宮公園球場)。南関東地区の第2代表を狙う一回戦2試合があり、それぞれホンダ(狭山市)16-0オールフロンティア(春日部市)、そしてJFE東日本(千葉市)12-1YBC柏(柏市)と、とても大味なものでしたが、出場選手を見ているだけで楽しい心持ちになりました。まず第一試合、ホンダの先発・福島由登(大阪桐蔭ー青山学院大)。ボクにとっては、彼の大学よりも高校時代のほうが印象深い。2008年夏、甲子園の優勝投手です。準決勝で筒香嘉智(現・横浜)のいる横浜高を9-4で下すと、決勝では常葉菊川を17-0で破って優勝を決めました。チームメイトには現・西武の浅村栄斗や萩原圭悟(関西学院大ーヤマハ)がいましたね。福島は現在26歳、もっと早くプロ入りすると思っていましたが、なかなかそうはならないようで。あ、そうそう、ホンダの投手コーチは真壁賢守さん(東北ー東北福祉大)です。東北高でダルビッシュ有に次ぐ二番手投手として活躍した、あのメガネの・・・。 (写真)ホンダ・福島由登。身体がかなり大きくなった印象。 (写真)途中出場した篠塚Jr. 篠塚宜政(桐蔭学園ー青山学院大)。 ■そして第二試合は、JFE東日本の中島啓喜(桐蔭学園ー明治大)が7番・センターで出場していました。明治大の4年時には主将を任されたものの、打撃は不振を極めた印象が強くあります。しかし今日は絶好調、長打をポンポンとかっ飛ばしていました。ほかに長谷川裕介(常葉菊川ー法政大)と大澤裕介(作新学院ー法政大)の法政コンビもいました。 (写真)JFE東日本・中島啓喜。4回、三塁に走者を置いて右中間を破る二塁打を放つ。 (写真)同じく中島。 (写真)JFE東日本・ショートを守る長谷川裕介。 (写真)JFE東日本のファースト、大澤裕介。
2016.06.03
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1部2部入替戦の第1戦は、東洋大(2部1位)が4番・池田彪我(3年、三重)のサヨナラ本塁打で勝利。敗れた東京農大は6安打に加え9個の四死球をもらいながらも1点しか取れず、敗戦は必然だったような。ま、春の入替戦も初戦は敗れた。本当の勝負は2回戦から。東農大 000 010 000 =1東洋大 000 001 001X =2(農)●長谷川、(洋)島田-大坪-佐伯-○ 試合を終始支配していたのは東農大だった。 まず3回、2本の安打と送りバントで一死二・三塁の好機を作るもあと一本が出ず。続く4回も二死満塁で無得点。5回は5連続四死球を得るも、牽制死などがあり押し出しの1点のみだった。 これにとどまらない。好機はまだまだ続く。6回は無死二・三塁ながらも後続が三者凡退、8回は二死二塁の場面ではやっと左前安打が出るも、本塁生還を試みた走者が憤死した。さらに9回も二死一・三塁の好機を作ったが得点できなかった。 安打数6、四死球9、得点1、残塁13。これでは、「流れ」が相手に傾くのも仕方がない。9回裏、二死走者なしの場面で東洋大の4番・池田彪我が打った瞬間に本塁打と分かる豪快な一発を放ち、東洋大が勝利した。 東農大の長谷川優也(4年、日本文理)は完投したが、最後の124球目はたまたま甘いコースに行ってしまったようだ。被安打6、与四死球1、奪三振5、自責点2。素晴らしい投球だった。出番はまだ終わっていない、2戦目に勝利して、3戦目の最後の場面で、歓喜の輪の中心にいてほしい。
2024.11.17
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昨季「慶應・清水翔太に注目!」と記事を書きましたが、ついにこの秋、清水翔太(4年、桐蔭学園)が首位打者そしてMVPのタイトルを獲得しました。4番・岩見雅紀に注目が集まりがちでしたが、優勝した勝因はそのあとを打つ5番・清水の活躍にあったに違いありません。4番を引き立てるには、5番の役割は重要です。そうです、ボクが5番打者のしんどさに気づいたのは巨人V9の頃でした。末次、柳田、国松、黒江などONの後を打つ5番打者は本当にコロコロと変わりました。ちょっとやそっとでは5番の役目を果たせないのです。従い、清水の活躍は見事というほかありません。(写真)10月28日早慶1回戦。この直後に先制となる2点適時打を中前に放つ ~BS朝日~首位打者を獲った清水を契機に、かつての東京六大学の首位打者を調べてみました。清水の今季記録(打率.480)を超える打者は想像以上に多くいました。例えば5割超の主な打者では、昭和36春 榎本博明(慶) .517昭和47春 長崎慶-(法) .511平成8春 高橋由伸(慶) .512平成13秋 喜多隆志(慶) .535平成26秋茂木栄五郎(早) .514眺めていて慶應の選手が多いなぁと。歴代最高打率(.535)も慶應の喜多隆志。あの智辯和歌山卒でロッテに行った巧打者ですよね。そしてボクの目についた法政・長崎慶一は、昭和47年に首位打者s翌シーズンも2季連続で首位打者を獲得したことを知りました。長崎慶一さん(北陽ー法政大、のちに大洋、阪神)。ボクが思い出すのは彼の大洋時代のこと。昭和57年、田尾安志との首位打者争いは「敗退行為」と揶揄されるなどあって、とても後味の悪いものでした。長崎さんに何の責任もなかったのに。そして今から10数年前、都内のリトルシニアのチームを率いて、よく埼玉・大宮のグラウンドで指導されていた長崎さんの姿を思い出しました。(写真)法政大時代の長崎慶一さん ~『東京六大学野球80年史』(ベースボール・マガジン社)~そして長崎さんをwikipediaで調べていると、大洋時代の指導者は「青バット」の大下弘さんだったとか。大洋の同僚・山下大輔とともに大下さんから指導を受けていたそう。大下弘さん(高雄商ー明治大、のちにセネタース、西鉄など)。戦前は明治大の下級生だったため球拾いばかりで、東京六大学の公式戦に出場経験はない模様。戦後に復学した際、明大グラウンドで大飛球をポンポン打ち上げる大下に横沢三郎(戦前のセネタースで活躍した明治大の先輩)が目をつけて、大下さんを職業(プロ)野球の世界に導いた。昭和20年秋、戦後初のプロ野球「東西対抗戦」を控えて次々と元プロ選手たちが復員し練習のため大宮のグラウンドに集結する中、大下さんの長打力を見て目を丸くしたそう。「いったいあの打者は誰なんだ?」と。そして同年11月23日、神宮球場で東西対抗戦が開催され、東軍の5番打者として彗星のごとくデビューした大下さんは、後に日本の野球ファンに「ホームラン」の素晴らしさを伝える伝道師になることは、この時点で誰も気づいていませんでした。(写真)西鉄ライオンズへ移籍直後の大下弘さん ~『激動の昭和スポーツ史』(ベースボール・マガジン社)~
2017.11.03
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■明治神宮大会、高校の部決勝は古豪・高松商が敦賀気比に逆転勝ちして優勝を決めました。かつては水原茂、宮武三郎、そして近年では(といっても30年前ですが)大森剛らを輩出した高松商の復活!とでも言いましょうか。来年のセンバツが楽しみであります。(写真)閉会式終了後にパチリ。右端が高松商・長尾健司監督。~BS朝日・skyAより、以下も同じ。■さて、本題。以前から思っていたことですが、今大会出場校の監督を見ていて、あらためてそのことを思い出しました。なぜ、強豪校の監督は「太い」のだろう、と?高松商の長尾健司監督しかり、秀岳館の鍛治舎巧監督しかり、大阪桐蔭の西谷浩一監督しかり。ふだんの練習で一般サラリーマンよりも身体を動かしているはずなのに、成人病(生活習慣病)まっしぐらに見えるのはボクだけでしょうか? いったい、なぜ? (写真)高松商・長尾健司監督。 (写真)秀岳館・鍛治舎巧監督。久しぶりに見ましたが、だいぶ太られたご様子。 (写真)大阪桐蔭・西谷浩一監督。この方は相変わらずです。 <関連記事>鍛冶舎巧 http://plaza.rakuten.co.jp/amayakyuunikki/diary/201311170000/西谷浩一 http://plaza.rakuten.co.jp/amayakyuunikki/diary/201503280002/
2015.11.17
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■今日(7月20日)は、埼玉県大会4回戦、本庄第一高対鷲宮高戦を観戦した。(写真)スコアエラーは本当に怖いものだ。先ほど見た浦和学院対春日部もそうだったけれど、この試合でもつくづくそう思った。それは2回裏だった。本庄一は二死三塁のチャンスをつかみ、8番・日賀野彰磨が打席に立った。そして日賀野が放った打球はゴロで二塁キャンバス付近に飛んだ。ふつうならセンターに抜けている当たりである。ところがセカンドの戸草内洋平が逆シングルでこれを好捕。振り向きざまに一塁へ送球した。アウト! そう思ったが、送球が低くなり一塁手が落球してしまった。嗚呼・・・! その間に三塁走者が悠々と生還し、本庄一が先制、そしてこれが決勝点になった。鷲宮にとっては悔やんでも悔やみきれないプレーになった。高校野球は「流れ」がコロコロと変わるのが常。特にエラーは「流れ」を変える最大の要因だ。この試合、小柄なエース・大塚敏行が本庄一打線を抑えていただけに悔いが残った。(写真)再三にわたり好プレーを見せた戸草内洋平 (写真)鷲宮・大塚敏行は本庄一打線を5安打に抑えた■一方の本庄一は、浦和学院、花咲徳栄などとともにベスト16に勝ち上がった。エースの平良チアゴ(ブラジル出身)は最少得点を守り抜いた。また、本庄一の選手を見ていて平良のほかに2人の選手に注目した。(写真)本庄一・平良チアゴ。鷲宮打線を3安打に抑えたひとりは4番を打つ町田椋(2年)。身長192cm、体重96kgの巨漢で、バットに当たればどこまで打球が飛んでいくかわからないほどのパワーを感じた。今日の試合は4タコ(1三振)だったけれど、今後の成長を期待したい選手だった。この町田を見ていて、ボクは流通経済大時代の神戸拓光(こうべたくみ、現・ロッテ)を思い出した。(写真)本庄一・町田椋。計り知れないパワーを感じる打者だそしてもう一人はショートを守る伊藤ヴィットル(ブラジル出身)。捕球から送球への一連の動きが格好いい。特に捕球後に全身のバネを使い、さらにスナップスローで一塁へ送球するプレーは日本人では真似できない。(写真)埼玉の「牛若丸」、本庄一の伊藤ヴィットル。今日も1クリックお願いします
2013.07.20
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前回の続き。 昨年11月、skyAが放送した番組『高校野球名将列伝』を見て。■「和歌山に移ったのか、だったら尾藤を倒せよ!」1980年(昭和55年)、高嶋仁が奈良・智弁学園から智弁和歌山の監督に転任した直後のことだ、池田監督・蔦文也は電話の向こうでそうささやいた。尾藤とは言うまでもなく和歌山の強豪・箕島の監督、尾藤公のことである。通算の甲子園勝利数は「63」、今でこそ監督として断トツの勝利数1位をひた走る高嶋だが(2位は元PL学園・中村順司の「58」)、智弁和歌山に赴任した頃の野球部は、部員が15名ほどの同好会のようなものだった。甲子園出場を目標とする高嶋と、同好会気分の抜けない選手たち。厳しい練習を課すと、選手たちはすぐに音を上げた。「まずは技術よりも(甲子園常連チームを)肌で感じてほしい」その一念で、高嶋が練習試合を申し入れた先が池田だった。蔦はそれを快諾し、そして「尾藤を倒せ!」と高嶋にささやいた。もっとも蔦は、当時の智弁和歌山の非力を知った上で「和歌山を勝ち抜くためには、箕島を倒す気概をもてよ」という意味で言ったのだろうが。いざ池田と試合をすると、予想どおり結果は散々だった。打たれまくって、いつになっても試合が終わらなかった・・・。しかし、収獲もあった。「試合が終わると、選手たちがぽろぽろ涙を流したんですよ。はじめて負ける悔しさを知ったのです。私はね、彼らの涙を見て、こりゃ、ひょっとしたら甲子園が近いかな、と思いました」。強豪・智弁和歌山の原点は、この池田戦の惨敗にあったようだ。 ※甲子園勝利数は2013年8月現在。■高嶋は長崎海星2年の時、選手として初めて甲子園に出場した。その時の感動を鮮明に覚えている。「これが甲子園というところか! と、感動のあまり足がガラガタ震えました。そしてこの時、将来は高校野球の指導者になって選手たちを甲子園に導く」ことを夢に見た。その後、高嶋は日体大を卒業した70年、奈良・智弁学園の指導者に就く(最初の2年間はコーチ、その後72年から80年まで監督)。この10年間が、その後の高嶋の財産だ。指導者としてのイロハを学んだ。74年に起きた選手たちによる練習ボイコット事件も、後になってよい教訓になった。それは、厳しい練習を課す高嶋に対し、選手たちが練習を拒んだことに端を発する。高嶋は監督を辞する決意をするほどに衝撃を受けた。しかし、野球部長の計らいで選手たちと腹を割って話す機会を得、選手たちを前に、高嶋は自身の率直な気持ちを語った。「自分が甲子園に出場して感動した思いを選手たちに話しました。足がガタガタ震えたこと、そして監督をやっているのは、選手たちにも同じ経験をしてほしいからだと。するとね、主将だった選手が『監督、わかりました。一緒に甲子園を目指しましょう』と言ってくれてね・・・。はじめてお互いに分かり合えた気がしました」。■この事件を契機に智弁学園のチーム力は急激に増し、高嶋にとっては、現在も続くサクセスストーリーの原点になった。この話を聞き、ボクは以前読んだ、元・駒沢大監督の太田誠さんの著書『球心いまだ掴めず』(日刊スポーツ新聞社刊)の一文を思い出した。そこにはこんなことが書いてあった。「駒大苫小牧を強豪に導いた香田誉士史監督が駒大を卒業後に赴任した際、いまでこそ強豪と呼ばれるも、当時は野球部というのは名ばかりで、選手はジャージー姿で長髪ばかりだった。選手も父兄も香田監督のいうことに耳を貸さず、反発されることすらあった。そんな時、香田さんは太田さんに「心も言葉もなかなか通じない」と相談したところ、太田さんが教えたのが「放下着」という言葉だった。「ほうげちゃく」と読む。これは禅の言葉で、意味は「捨ててしまいなさい。捨てるという言葉も捨てて、雑念をすべて吐き出し、裸になって心を空っぽにしてこそ、初めて人々に受け入れられる」。指導者とは、(いやそれ以前に)自分の意思を相手に伝え、共感を得、そしてともに行動を起こすためには、自分の鎧をとって裸になることこそ必要・・・ということなんだろう。■skyAの番組中、いつもポーカーフェイスの高嶋が練習中にわずかに見せる笑顔が映った。この一瞬の柔和な笑顔が、選手たちの心を惹きつけるているように思う。高嶋が裸になった瞬間かもしれない。高嶋は、選手たちに常々言っている。「世の中出たら、しっかり生きていけ。後ろ指刺されるなよ。甲子園に出たプライドを持っていろよ」。そして、「いつも厳しい練習をしているのは、社会人になってから困難にあった時に『これくらいの苦労は野球の練習と比べたらなんでもない』と思ってほしいからよ」。そう言って柔和な笑顔を見せた。(写真)2006年夏の準々決勝、帝京を相手に大逆転勝利した瞬間の高嶋仁監督。~skyAより~
2014.01.07
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全日本大学野球選手権大会・準決勝、法政大vs対関西国際大戦(6月13日)。国際大 001 000 100 =2法政大 101 010 20X =5(国)田島、益田、松永、北嶋、(法)二神この試合は、先日このブログにも書いたとおり、完投勝利したエース・二神一人(4年、高知高)や4打数4安打3打点のルーキー・多木裕史(1年、坂出高)の活躍で、法政大が勝利し決勝進出を決めた。関西国際大は、1番・田中聡祐(4年、西脇工高)の2打点の活躍で懸命に追いかけたが、試合の主導権をつかむことなく敗れ去った。法政大は常にリードし、試合の「流れ」を相手に渡さなかったことが勝因だ。ただ4回表の守備では、危うく「流れ」を関西国際大に奪われかけたシーンがあった。そしてそれを見事に防いだのが、ライトを守る成田恭佑(3年、東北高)のプレーだった。--------------------------------------------------------------1点差を追う関西国際大、4回表の攻撃がその場面。一死後、4番・廣井亮介(3年、智弁和歌山高)が四球で出塁する。続く5番・金丸俊(1年、国士舘高)は高いバウンドでライトに抜ける安打を放つと、一塁走者の廣井は二塁を蹴って一気に三塁へ駆ける。法政大のライト・成田は懸命に前進し、打球をつかむやすぐさま三塁へ好送球。間一髪でアウトに仕留めた。もし三塁進塁を許していたら、一死一・三塁になっていたところ。ひょっとしたら、「流れ」が変わって関西国際大に行っていたかもしれない・・・。---------------------------------------------------------------成田恭佑。選手層の厚い法政大にあって、リーグ戦の出番は多くない。特にライトはシーズン中、選手がコロコロ変わるポジション。そんな事情もあって、成田の今春の成績は全12試合中、半分の6試合に出場。打席数は9、8打数1安打2打点1四球、打率は1割2分5厘だった。この日のプレーをキッカケに、ぜひ秋季は定位置を奪取してほしいものだ。また、東北高時代を調べてみたところ、甲子園に2度出場していたことがわかった。■1度目は2004年夏。いまでは日本のエースとなったダルビッシュ有(現・日本ハム)とともに、成田は1年生ながらレフトとして試合に出場していた。3回戦までコマを進めたものの、エース・松本啓二朗(現・横浜、早稲田大)を擁する千葉経大付高に、延長の末惜敗した。■2度目は翌05年夏。2年生ながら成田は主軸を打ち、準々決勝まで勝ち進んだが、エース・辻内崇伸(現・読売)を擁する大阪桐蔭高に4-6で敗退した。この時、大阪桐蔭はスター揃い。辻内のほかに平田良介(現・中日)、 中田翔(現・日本ハム)や謝敷正吾(現・明治大3年)もいた。 今日も1クリックお願いします
2009.06.21
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