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子供が成人を迎える歳になった私でも、目の前の出来事に振り回されてしまうことが多い。この2週間あまり、結構苦しんだことがあった。ちょっとしたベルトの掛違いでクライアント(施主)とトラブった。(と思い込んでいた)でも、今日、その投げかけられる言葉の向こう側にあるものが見えてきた。考えさせられたのは建築家としての「覚悟」というものだった。プロは言い訳は聞かない。しかし発せられる言葉に思わず言い訳めいた言葉を出したくなる。でも、じっと相手の言葉を吸収しつづけた。夜の酒が増えた。胃が痛くなってきた。でも、次第に見えてきた。いや感じてきた。そして、いつか安藤先生が私に言ってくれた言葉を思い出した。「建築家は施主には絶対勝たれへん。施主の気持ちにいかに近づけるかや。なれるかや。それしかでけへん。そこが勝負や!」私は気づいた。発せられる言葉しか感じようとしなかった。その言葉の向こう側にある「思い」に気づこうとしていなかった。そのことに気づいた瞬間。施主は私に、「きついことを言ってしまった。でも私の気持ちを分かってくれるか!」私は初めてうなづくことができた。一生一代、大きなお金をかけて建物を建てる。このことがどんなに大変なことか。私の心を試されていたんだ。施主と心が一つになった。「一緒に思い出に残る工事をしよう。一緒にさすが!といわれる建物を創ろう!どうかよろしく頼む!」こういってクライアントは頭を下げた。私は感動で胸が一杯になった。この2週間ほんとに苦しかった。でもその先にこんなにも信頼し合える一時が待っているとは・・・。この世の仕組みって、つくづく不思議なものだと思う。人の心を真正面から受け止める広い心と大きな器がプロには必要であることを深く教えられた出来事であった。肝に命じよう!ほんとに、人のために尽くす覚悟を持て!!わかったな!
2004/01/27
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「夢しか実現しない!」これは起業家スクールで最初に耳にした言葉だった。他のあるセミナーでは、「夢は確信したときにすでに実現している。あとはその顕在化の手順を踏んでいくだけ!」このような格言(?)を聞いたときに霧がはれたような思いになった。確かに、色々思いあぐねた先に、自分自身が建築家としてやっていきたいことが明確になった瞬間があったが、同時に実現することを確信していた。一種インスピレーションのようなものかな?それに友は友を呼ぶ、ということも味わった。決してべたべた付き合うわけではなく、さりとてあっさりでもない。おべっかも気を使うこともない。実に自然に触れ合える。くにび相互支援ネットの中では私が最年長で、中には私の息子でもおかしくない年の人もいるが、でもやっぱり友であり同志だと思える。老若男女関係ない。私はこれらのことからつくづく感じた。夢の実現には、自分自身のなかで「夢」という形で強烈にイメージされるものと、環境、特に同志といえる仲間が必要なのだと。夢は与えられるものではなく自分の中に芽生えイメージされてくるもの、環境も、やはり自らが求め創りだしていくもの。夢というものがあるのであればなおさらに実現のための環境を求めていく必要があることが分かった。その本質に、「相手に何ができるか!」これなんだな!私の身近に壮大な事業を行なうため起業した人がいる。その人と、その人の事業が、私自身のことのように思えるのだが、そんな思いになれることそのものが幸せなことなんだ。自分のことばかり考えていくと心が乾き孤立していく。人のことを思えば思うほど幸せな気持ちになれる。その人の喜ぶ姿を見る。それが究極の幸せというものだったんだ。そんな仕組みにつくられていたんだな。この世の中って。
2004/01/26
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社会の基盤ってなんだろう?建築の世界から見通してみると実はとても大きなことが見えてくる。そして腹が立ったり使命感が涌いてきたりしてくる。私には見える。 「世の中をだめにしたのは建築だったんだ!」 「建築の犯した罪はとてつもなく大きい!」どのような産業も、文化的なことも、建築という器あるいは土台の上に乗っている。現実に、ITのハードをつくる場合、工場という建築を必要とする。文化としての美術の殿堂を創るときには美術館などの建築を必要とする。学校、放送、産業界・・・。住まいも、住宅という建築の中に家族の営みがある。商店街や地域の界隈(かいわい)も建築郡のあつまりだ。昭和30年代までは確かにあった職人文化。その生き生きとした職人たちとの華やかなふれあいが町々にあふれていた。住まいも、職人との対話の中で、かれらの匠の技、匠の知恵を大いに発揮されつくられていった。何時の頃からか、職人文化が、社会の営みという隊列から離れていった。 (誰のせい?)そしていつ頃だったか、「断絶の世代」とマスコミが騒いだ時期が出現した。世相が狂い始めた。マスコミは当時の世相を憂いた。そして若い世代を責めた。マスコミも気づいていない。したがって世間にも知られていない。断絶の世代を生みだいたのは建築を単なる商売道具にしてきたことによるのでは・・・。建築を文化だと思わない方には、なかんずく、設計などやってほしくない!単なる商いとして住宅を作ってほしくない!建築はファーストフード的につくるものか?単なる価格の問題か? 地域の風土なんて関係ないのか?大型店舗のビニールの床と壁が子供たちにとって一生心に刻み込まれる心象風景・原風景か?大量生産の商品としての住宅が・・・? 続く
2004/01/22
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芸術とは?美とは?と聞かれると、通常、絵画や彫刻、あるいは建築というものを創造することが多い。しかし果たしてそうだろうか?私は建築家であるが起業家でもあるので、いわゆる経営者でもある。そのため、建築家としてのクリエイティブな仕事と同時に事務所の経営を行なっている。月末になると所員の給料支払いなどの資金繰りに心を奪われる。こういうのを一般的に、理想と現実のハザマで苦悩する、というのかな。建築家でも経営にはノータッチという人も少なくない。しかし私はこう思う。芸術や美というものは絵画や造形というものばかりではなく、バーチャルな世界でも存在する。私が思うバーチャルとは、形にあらわれないものも含めた「全ての事象」ということだ。経済のしくみ、地方自治の仕組み、あるいは法律、経営も含まれる。例えば(あくまで例えです)、トヨタという会社の経営を見たときそれこそ世界NO1を目指す企業としての理念や機構など、全てがバランスよく芸術的に組み上げられていないか。これは美を追求する芸術活動そのものといえる、と思う。つまり経営、あるいは経営の仕組みを考えるとは、さながら優れた芸術を求める作業そのもののように思う。こういう観点で物事を見つめてみる。外国の・・・、日本の・・・、自分の・・・芸術は文化と言い換えることもできるのかもしれない。企業文化、という言葉もあるが、なにか漠然としている。芸術的なまでの優れた経営を創り上げる、と言えば、最近の若い人もなにか納得できないか?目的を見出せない人が多いと聞く。多くの人は何かの特定の仕事を通じて人生の目標を見出そうとする。今これだけきびしい時代、苦労している人と同じ職業、同じ未来を歩こうという気には誰だってなれない。そうではなく、自分自身に思いを馳せ、芸術的な美的なまでの人生とは、と考えてみる。そこから見えてくるものがあるのでは・・・。人生にかっこよさを求めていいではないか。好きなことだけに生きてみせる!と思っていいではないか。自分の心を素直に見通したとき、例えば、かっこいい大工さんをしている自分が見えたら、その人生をもっとかっこいいものにしたい!と思えたなら、それこそが芸術を求め美を追求する姿勢そのものと言えないか!人間は一人残らず芸術家だ。自分の人生に芸術的なまでの美を追求することができる、それを実現できる芸術家だ。自分自身の芸術をめざせ!
2004/01/21
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しばらく日記もアップできないほど忙しかった。建築家の仕事は波がある。基本構想の段階は無から有を生み出す作業だから一番エネルギーが必要だ。このアウトラインが決まるのに半年近くかかった物件もある。ある住宅で、少しだけ思い切った案を考えた。とても気に入ってくれたが、進めていくとどうも満足できないという。やりすぎたかなと思ってデザイン的には後退していった。ますます施主が首をひねる。ある日、「私たちは建築家にお願いしてるんですよ!こんな案じゃハウ○メーカーや○務店に頼んだのと変らないじゃないですか!もっと夢をくださると思っていたのに!」晴天の霹靂だった。 いままでの数ヶ月はなんだったんだ。私の勝手な思い込みだった。起死回生の案を提出。この数ヶ月が吹っ飛び、今は施主と一丸となって夢の実現に邁進している。心一つになるまではとても苦しいのだが、これだ!という案が決まった瞬間からお互いが同志になる。これだから建築家は止められない。このところ大きな物件を同時に2物件進めてきた。昨夜ようやく決まった。いよいよ着工!私の進めるD&CM方式の建設は、設計から施工まで一貫して建築家が管理する方式だ。○務店がいらない。施主と各専門業者が直接契約する。○務店が施主に揺さぶりを賭けている。これからの時代、色々な方式が考えられる。私は何も受けを狙ってやっているのではない。この方式は、通常の方式と比べて設計者としては大変だ。しかし、昭和30年代までは確かにあった職人とのふれあいの中で行なわれていた建物づくり。本来あるべき姿を求めたらこの方式だった。すでに2棟がこの方式で建設中だ。いよいよ本格的に始まった!
2004/01/18
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建築家日記を書き始めて半月が過ぎた。日常の仕事を考えるとよくここまで書けたものだと思う。自分自身にしか分からないことだが、決して風化させてはいけないものがあることも分かった。今の自分があるのは過去に出会った人々、様々な出来事、仕出かし。などなど。日記も過去の検証から早く現実の世界に到達したいと思うのだが、あまりにも思い出が多い。振り返るごとに後悔があったり悔しさがあったり・・・。いや、もう振り返るのはやめよう。もう充分だ。今をともに生きる仲間たちのこと、私に仕事を託していただいている方々のことを中心に考えよう。今が一番最高の時なんだから。過去を振り返っているひまはない!
2004/01/15
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昭和59年、創業者である父が亡くなった。兄が社長となった。このころからしばらく経済は円高不況の時期となりしばらくきびしい状態が続いた。仕事がない!本体の大工部門の仕事が減り、売上が激減した。このことが、一種飼い殺しの状態であった私への感心へと向けられた。「大工工事の仕事が無くなってきた。元請の仕事をつくればついでに大工工事の仕事も一石二鳥でできるじゃないか!お前は元請としての仕事をつくろうとしているんだろう!何とかしろ!」一挙に注目が集まったが、しかしまだこれといった方策が見つかってはいなかったので戸惑った。ある日、兄が商工会議所にあったベンチャー企業の情報誌の中で面白い会社を見つけてきた。その当時地方都市ではまだ珍しかった賃貸マンションの建設事業のフランチャイズ化をした会社の紹介記事だった。外壁が総タイル張りなど、ハイグレードな仕様の賃貸マンションをローコストで提供するというものだった。しかも通常より20%もコストダウンが可能だというのだ。それが可能ならハイグレードなマンションに低家賃で入れることになる。100%入居は確実だ。しかしそうは問屋が卸さない。大型工事になれば最終利益が数%しかないのが実態だから20%も安いということは常識では考えられない。請負金額が原価を大きく下回ることになるからだ。しかし、何かあると感じた。だまされてもいい、とにかく行って話を聞こうと思った。その翌々日、私はそのフランチャイズ本部の建設会社の社長室にいた。開口一番。「どうして20%もコストダウンが可能なのですか?」どうせ下請けいじめをしているに違いないと思っていたので、半ば責めるような言い方で聞いた。相手の社長は、「どうして20%のコストダウンができないと決め付けるのですか?」この言葉に、「ハッとした。」「今の元請工務店は専門工事業者を下請けと名付けて大事にしていないから知恵が出ないんだ。専門工事業者は下請けではない、協力業者だ。彼らを大事にし、一緒になって知恵を絞れば必ずよい方策が見つかる。わが社も一朝一夕で20%のコストダウンができたわけではない。長い時間をかけて彼らと一心同体になって取組んできたから実現したんだ。」その言葉を聞いて放心状態になった。「彼らはみんな儲かっているんだよ。」といって実際の建設現場に連れていかれた。私は驚いた。ハウスメーカーの住宅団地ならいざ知らず、同じ町内の目に見える範囲で4つの賃貸マンションが同時に建設中だった。もちろん地主(事業主)は全て違う。仕事をしている誰に話し掛けてもよいと言われた。私は片っ端から声をかけた。大工、左官、電気、水道、建具・・・・・。「あんたのところの業者を連れてきなよ。ノウハウを教えてあげるから。」通常は下請けと言われている専門業者が口々にそう言った。私は信じられなかった。こんなアットホームな関係は見たことが無かった。社長が「これがノウハウなんだよ。決して張りぼてのノウハウではない。我々と同じように組み立てていかなければできないんだよ。だから確立したらその地域ではだれも真似ができない、名実ともに地域NO1になれるんだよ。」目からうろこが何枚も落ちていくのを感じた。「いいかい。ここへ自分の会社を何とかしようと思ってきたんだろ。でもそれは違うよ。地域にハイグレードローコスト賃貸マンションを供給して社会貢献をするんだ、と思えないんだったら、業者も付いて来ないし、ウチもおタクとは契約しないよ。」私自身営業の経験は無かったが、もしここの営業マンだったとしたら、この社長の理念の元に協力業者が一体となって造る建物は必ず売ることができると思った。私は確信した。そして決めた。「仲間をつくろう!一緒に手がける仲間をつくろう!」この日から、私のやるべき仕事が決まった。(決めた) 続くhttp://www.mable.ne.jp/~art-craft
2004/01/13
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このときはじめて分かったが、人間って指示されないとほんとに路頭に迷ってしまう。仕事ができる!(自分で言うのはおかしいが)とか言われて結構思い上がっていたように思う。結局は与えられた仕事をこなしているわけだからできてあたりまえだ。父から「全てお前に任せる!好きなようにしろ!」と言われて、広い荒野にぽつんと佇む自分がいた。さてどっちの方向に行こうか?今までのことが走馬灯のようによみがえってきて涙が止まらなかった。父に対しては、「帰ってきてやる」みたいな気持ちでいたことも気づいた。周りを見ると社員が私をじっと観察しているのが分かった。まさしく社長の息子がそこにいた。子を持つ親になってみて、そのとき父がいかに祈るような気持ちでいたことかが分かる。当時の友人たちに私の思いを話してもわがままや贅沢としか聞いてくれなかった。いや実際逆の立場になれば私もそう思うと思う。いつだったのだろう。「よし、こうなったらとことんやるぞ!」と覚悟を決めたのは。私は作業服と安全靴を履いて現場に出た。積極的に話し掛けた。あきらかにぼんぼん扱いしていることが分かった。私のいいところは必ず相手の立場になって考えてみるくせがあることだ。私を見ている私が、「やっぱりぼんぼんだよな」と納得できた。そう思ってもしょうがないことだと分かった。だからいじけなかった。だから遠慮しないで相手にも関われた。その内、同い年くらいの社員(大工)と友達になった。京都を始めいろいろなところへ建築をめぐる旅をした。私は大工でも建築士の資格にチャレンジできる、と彼に働きかけた。その後彼は、2級建築士、1級建築士の試験を全て1回で合格した。 (すごいヤツだった)5年前、会社が倒産したとき、彼は社員として迷惑をこうむった立場、私は最後の代表取締役。労使の関係だった。彼は別れるとき、「創業者の精神と今までやってきたことは間違っていない。会社は無くなったけど、私はこれからもその精神を守り生きていく」今彼は自分の会社を興し、その通り実践している。私が建築家として再起したとき、誰よりも喜んでくれたのは彼だった。 続くhttp://www.mable.ne.jp/~art-craft
2004/01/12
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父の会社に入り、暗中模索の中で新たな出発となったが、実は想像もしていなかった2代目としての辛さを味わうこととなった。言い方はおかしいが、他人様の会社では真に実力を発揮すればよい。それが評価されたとき、やり手だのきれるだの言われて結構気持ちよく仕事ができる。しかし、社員300人の会社の「社長の息子」は少々のことでは評価されない。「ぼんぼん」はほんとに辛かった。私は自分の夢を封印しなければならなかったが、その後、倒産までの15年間、自分の夢が頭から消える事は決してなかった。今にして思えば、自分に正直に生きていればよかったと思う。自分の気持ちをごまかして生きることくらい無駄なエネルギーの消費はない。だから結構病気もした。建築家となった現在、徹夜が続いても疲れない。病気もしない。同じ大変さを味わっても、自分のやりたいことで大変なら、むしろそれがやりがいに変っていくということも分かった。このような中での15年間だったが、それでも私は使命を果たすため事業を組み立てていった。 続く
2004/01/11
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設計事務所を辞し、いよいよ父の会社に入社した。私は父の会社で何をするか迷っていた。特に何をせよと言われていないからだ。私は設計事務所で数年仕事をしてきた。部下もいた。結構仕事もこなし、実績もつけてきた。しかし、仕事がどのように入ってくるのか知らなかった。過去の実績など何も通用しないことがわかった。めざす設計施工の仕事をどうしたら受注できるのかさっぱり分からなかった。それまで、何だかんだと生意気なことを言いながら仕事をしてきたこと、よくも継続して仕事が入ってきてたものだなと思った。正直途方にくれた。こんな状態で家業での活動が始まった。 続く
2004/01/10
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建築について・・・(3)私が「建築家」に焦点をあてて建築の世界を知ろうとする意識を持たせてくれた、あるいは、きっかけをつくってくれたのは、中学2年のときに出会ったアメリカの建築家フランク・ロイド・ライトだった。ライトの設計した「落水荘」の、自然と一体となった美的なまでのフォルムは、誰が考えたのだろう(デザインしたのだろう)と思わしめるものだった。フランク・ロイド・ライト・・このドラマチックな名前に、何か異郷の地の仙人を感じるようだった。その後、ライトが東京の旧帝国ホテルや自由学園など多くの作品を日本に残していることを知るのだが、この建築家との出会いが、私が建築の道を歩みはじめたときに、建物ではなく常に建築家を意識する気持ちを醸成してくれたように思う。諸外国はもとより、国内の建築家がどのような作風を持ち、あるいはどのような潮流があるかが見えてきた。モダン、ポストモダン、ハイテック、あるいは日本固有の和風など。和風と言われるものの中で特にインパクトがあったのは、吉田五十八、堀口捨巳、村野藤吾の創り出す空間は圧巻だった。村野藤吾は、箱根の小涌園や、新高輪プリンスホテルなど、大型建築でも芸術性の高い建築を創りだしてきた。近年私が注目している建築家は、安藤はもとより、山本理顕、隈研吾、内藤 廣、伊藤豊雄などなど。どの建築家もひと歳とっているが、建築家の本番は50歳からと言われているように、今まさに油が乗っている。組織的設計事務所より、アトリエ派建築家がよい作品を創り出すことが多いように感ずる。今までに全国の様々な建築を見て廻ったが、最近建てられたもので見に行きたいと思う建築はそう多くはない。私自身の創り出す建築も、地域のよき原風景となるような建築をめざし、常にクリエイティブでありたいと思う。
2004/01/09
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建築について・・・(2)約30年前、当時建築雑誌に紹介されていたそれまで無名だったアメリカの建築家フランク・O・ゲーリーにも安藤と同じような何か感ずるものがあった。建築雑誌A+Uに、「母親の家」(芸術的価値なしの既存建物を改造した作品)が載っていたが、安藤を見つけたときのように、「こいつタダモノではないな」というインスピレーションのようなものを感じた。とても感性を揺さぶるすばらしい作品だった。さながら現代の「ビフォア・アフター」(放送されているものと比べものにならないくらい芸術レベルが高い - 主観)とでも言えるものだった。同じ頃、ロバート・ベンチュ-リの「母の家」は、シンメトリーなファサードをした新築の建物で注目されていたが、ゲーリーの「母の家」は、価値のない建物に手を入れて、例えば屋内の天井を取っ払い、木組みや設備ダクトを剥き出しにし、一見無造作と思えるように照明を配置し、壁の仕切りにはエキスパンドメタルを使ったり近未来的な淡い色彩を施すなど、現在でもなお、その作品が発表されれば第1線の建築誌に載ることであろうすばらしいデザインだった。それは、もはや改装・改造というものや表面的インテリアデザインのたぐいのレベルではなく、一個の「建築」として語られるべき生命をもった芸術的固体と化していた。現在のフランク・O・ゲーリーは、ウオルトディズニーコンサートホールを設計し注目されるなど、アメリカ西海岸を代表する建築家となっている。最近アメリカでは、ヘル・コールハースに注目が集まっているが、ゲーリーも、作風は結構アブノーマルだが見過ごすことができない建築家だと思う。私は、安藤・ゲーリーに感じた自分自身の感性を大切にしていきたい。例え、年齢を重ね肉体が老いても、その感性だけはこれからも磨いていきたい。そう思う。 続く
2004/01/08
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安藤が私に語ってくれたことで、とても印象深い言葉がある。「目の前にある仕事は小さな仕事かもしれない。しかし、その向こう側にあるものを深く見つめていったら、物件の大きい小さいということは関係ないことが分かるだろう。」「小さな住宅でも地域の風景となる。施主のものであると同時に地域のものだ。だから、両面を見据えて設計していかなければいけない。」「常に、今見えている向こう側を見つめて行くんだ!」安藤は現在、フランスで、アメリカで、ドイツで、その街の原風景、いや文化となる建物を創り続けている。安藤の目にはどのような世界が見えているのだろう。別れの日がやってきた。建築士会の安藤忠雄講演会を私が企画し責任者として行なった。全国から人が集まった。800席のホールは満席となり、参加者は安藤節に酔いしれた。講演会は終わった。その日の内に夜行で大阪へ帰る予定となっている。駅まで送る車の中で安藤の思わぬ言葉を聞いた。「もう建築家はしないのか?」なぜこのような問いかけをされたのか分からなかった。正直に答えた。「父の会社を兄と継ぐことになりました。多分、設計の機会は無くなるかもしれません。」その日を境に、私は安藤との思い出を封印した。その夜、私は泣いた。そして言い聞かせた。「これでいいんだ。」その後、20年後の再会を果たすまで安藤事務所へ赴くことはなかった。続く
2004/01/07
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建築について・・・安藤と会う前から好きだった建築家は、アメリカのルイス・カーンだった。カーンは、コルビジェ、ミース、ライトに続く第4の建築家と言われているが、確かに、その存在は私に大きな影響を与えた。ソーク生物学研究所、ポールメロンセンター、キンベル美術館、そして様々な木造住宅、インド経済大学、バングラディッシュダッカ国際会議場、等等。特に、アメリカのフォートワースにあるキンベル美術館は、そのデティールの一つ一つが美しいフォルムを成している。例えばステンレスの手摺りは1枚の板を幾何学的に曲げてつくられている。発想力と美的感覚の豊かさを感じさせる。トラバーチン、金属、コンクリート打放し、木など、様々なテクスチャーのぶつかり合いは結構意表を突いており、しかも繊細で美しく、緻密に計算し尽くされ設計されていることが分かる。安藤は、近年、このキンベル美術館の隣りに、国際コンペでフォートワース現代美術館の設計を獲得した。そして昨年完成した。この他、パリのルノーの工場跡地に、全長300メートルにもなるピノー現代美術館の国際コンペにも当選し、現在3年後の完成を目指し工事が始まった。日本では、東京青山表参道の歴史建物、同潤会青山アパートの建替えの設計を8年越しで完成させ、いよいよ着工となった。約10年前、大阪茨木市に「光の教会」を完成させたが、この建築は世界に発信され、アメリカのピューリッツァー賞で知られるピューリッツァー家は、コレクションを収め展示するピューリッツァー美術館の設計を安藤に依頼した。安藤建築は、日本のみならず、世界中に生まれている。安藤は、ことによれば時空を超越し、カーンに次ぐ第5の歴史的建築家かもしれない。私にとって近寄りがたい存在となっていった。 続く
2004/01/06
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その後、何度となく安藤事務所へ足を運んだ。六甲の教会、六甲の集合住宅の設計作業も垣間見ることができた。いつだったか、ニューヨークでの作品展で販売予定の「中ノ島プロジェクト」の限定20枚のリトグラフの内の1枚を私に譲っていただいた。畳1帖ほどの大きさだ。このような、たくさんの有意義な思い出とともに時はすぎていった。当時、私は悩んでいた。親元へ帰れと言われていたからだ。色々悩んだ挙句、結局、父の経営する建設会社に兄とともに入社することを決めた。父の会社は、大工の会社だった。それも鉄筋コンクリートの型を組む型枠大工の会社だ。当時、大工の数は150名を越えていた。もちろん全員が社員だった。中国地方屈指の大工の会社だった。それに大工養成のための事業内職業訓練校があり昭和42年から建築大工の養成を行なってきた。そんな会社を築いてきた父の夢は、会社を総合建設業にすることだった。もちろん大工という専門性を失うことではない。純粋に地域社会に役立つ会社にしたかったのだ。それが分かっていた。「将来独立して設計するなら、会社で設計施工してもいいではないか。」という父の言葉に私は悩んだ。そのときの私は、何かを貫く勇気を持ち合わせてはいなかった。ことによると妥協したのかも知れない。その後、設計の仕事が大工の会社で思うようにあるわけではなかったが、20年間を振り返れば、結構設計施工の仕事はあった方かもしれない。私は次第に設計の仕事から遠のいていった。会社が大きくなり、元請として公共工事も受注するようになった。営業もした。安全衛生管理の仕組みも構築した。職業訓練校で教鞭も握った。父が亡くなり、いつしか経営の一翼を担うようになっていた。安藤との別れの時が近づいていた。 続く
2004/01/05
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安藤事務所をやっとの思いで探し当てたとき、驚いた。安藤の初期の作品「富島邸」だった。それを買い取り、その右隣りにも増築し、全体が安藤忠雄建築研究所になっていた。事務所の中はまるで迷路のようだった。窓が少なく、日中でも電気が必要な内部は、幻想的な雰囲気に包まれていた。まず驚いたのは所員の謙虚な姿勢だった。いわゆる威張っていなかった。皆真剣だった。張り詰めた空気が流れていた。これは、安藤事務所を訪問した数年間変る事はなかった。(昨年、20年ぶりの再会を果たすため訪問したときも事務所の張り詰めた雰囲気と所員の謙虚な姿勢は変わっていなかった。)安藤はいつも怒っていた。いつも真剣だった。訪問2日目の朝、所員の家族から、熱が出たため本日は出所できないとの連絡が入った。「自分で電話かけれへんくらい重病なんか?夕べぴんぴんしとったがな!」電話口に慌てて本人が出たらしい。安藤は言った。「お前にとってはちっぽけな家の設計かも知れへん。でもな施主にとっては一世一代のことなんや!その家は子孫にも影響を及ぼすんや!少々熱出たくらいでそれがどないしたんや!家族に甘えたようなやつは要らんわ。明日からもう来んでええわ!」1時間後、真っ赤な顔した所員が出所してきた。安藤は私に、「我々設計者は絶対に施主には勝てへん。施主の思いにどれだけ近づけるかや。それが勝負や。」設計という行為の持つ厳しさを教えられたような気がした。「今までどんな気持ちで設計してきたのかな?」・・反省した。安藤は、二言目には「人間思い上がったらおしまいや。相手の思いが分からへんかったら仕事する資格ない!」安藤事務所は京大出身者が多かった。いわゆるエリートだが、その片鱗はいい意味で微塵もない。もう一つあった。神戸の現場から工務店の現場担当者が来た。安藤はその担当者を見つけ、「お前こんなところで何しとんのや?」安藤事務所の所員が打合せのため呼んだことを知ると、「何で呼ぶんや!こいつを現場から離したらあかんがな!忙しい身やろうが!なんでお前が行かんのや!」すごい剣幕だった。所員は頭をしこたまたたかれた。「設計者は思い上がったらあかん!その瞬間にしまいや!」強烈だった。やさしさと思いやりが鬼の面をかぶって突き進んでいた。20余年前の出来事だが、これらの瞬間が私にとりあまりにも衝撃的だったためか、まるでさっきの出来事のように思い出される。はじめての訪問。私は抱えきれないほどの思いを手に、安藤事務所を後にした。 続く
2004/01/04
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安藤と過ごした余韻に浸る間もなく手紙が届いた。安藤からの手紙だった。(少々驚いた)帰路飛行機の中で書いたという手紙だった。ほんの数行の手紙だが、その哲学的言葉のつながりはとても感動的な内容だった。こんなに純粋な大人との出会いはやはり初めてだ。普通、純粋な人間はどこか弱弱しいものだと思うのだが、安藤は逞しい。しらけた人間を蹴散らす。本気でうち込む者しか相手をしない。純粋を語るものしか相手をしない、という意気込みを感じた。クライアント(施主)に対しても、だれに対しても同じ姿勢を貫くであろうことが容易に想像できた。だから本気でぶつかることができた。大阪へ来い、と書いてある。私は小躍りした。元来遠慮しない性質の私なのでそれから程なく大阪梅田にある安藤事務所を訪問した。安藤事務所。 そこには壮絶なドラマが繰り広げられていた。 続く
2004/01/03
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安藤はとても親しみやすい人柄だった。よく話を聞いてくれた。よく話をしてくれた。私の車で色々なところをまわった。先々でその場所とは関係ない話に花がさいた。作品に対する思いを聞かせてくれた。裏話も聞けた。一瞬一瞬が感動だった。たくさん聞いた中で一番印象的だったのは、もともと建築の教育は一切受けていないことだった。旅の大切さを教えてくれた。本を読むことを薦めてくれた。毎日2時間以上の読書と、もともとボクサーだったためか一時間の運動は毎日欠かしたことがないという。私も読書量では誰にも負けないつもりだったが、この継続的パワーには脱帽だった。その後、できるだけあやかってきたが、3日坊主で終わったりまた復活したりの連続だった。私自身その後、建築家の道をあきらめ家業を手伝っていた15年間も、なぜか建築をめぐる旅と読書と運動は欠かさなかった。(だからこの歳で建築家としての華々しい(笑)デビューが可能だったのかな)かしこまった食事は嫌いらしく、簡単なものを食べた記憶がある。とにかく話が弾んだ。私はうれしかった。初めて話が通じる人に会った思いだった。私は特別な建築論などぶつけてはいない。そもそも建築とはどういう姿勢で取り組んで(立ち向かって)いかなければならないかをぶつけた。まったくそのとおりだと言ってくれた。それを突き進めるにはパワーが必要だといった。一回りも歳が違うのにそれを感じさせなかった。真摯に話をする人だと思った。帰りの時間が近づいてきた。夜の空港へ送った。当時の空港を外国の小さな空港のようだと言った。日本にも未開の地があるってことですよ、と私が言って、二人で大笑いした。安藤が飛行機のタラップを上っていく。飛行機の入り口で立ち止まり、屋上で見送る私を見つけて大きく手を振ってくれた。飛び立つ飛行機が涙でかすんでやがてその音がなくなり、ふといつもの風景の中にいた。まるで、別世界を旅していたようだった。 続く
2004/01/02
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建築家日記を書き始めてまだ数日しか経っていないが、中身がかなりタイムスリップした内容になっているため、偉く長く書き続けているように思える。それにこの数日でしっかり日記癖が付いてしまった。 本日は平成16年の1月1日 元旦そのうち、現在行なっている事業を書く日が来るだろうが、何はともあれ、今年は、昨年に引き続き私にとってとても重要な年になることは間違いない。記念すべき1年の幕開けだ。起業して2年。私の事業が多くの仲間たちとの共有事業になろうとしている。とてもうれしい。そのうちに、実績が語り始めるだろう。いよいよ始まった!
2004/01/01
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