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2021.10.18
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カテゴリ: 探訪
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前回少し変形的な十字路と書きましたが、X字形の辻と呼ぶ方がわかりやすいかもしれません。
左の景色は この辻から 西方向 を眺めたところで、道路はすぐに分岐しています。
地図を確認すると、左の広い方の道は、桃山町下野の区域を通り南下する道路です。
右側の道は、まず 桃山町島津 と桃山町下野との境界道路となり、その先各区域との境界道路の役割を担いつつ西方向に転じて行きます。
(資料1) を見ますと、この辺りには「 島津右馬頭 」の屋敷地とあり、現町名に対し「 (嶋津)島津右馬頭以久 」と付記してあります。島津の地名はここに由来するのでしょう。
桃山町島津の北辺の境界が丹波橋通 です。「伏見城図」にも 「丹波橋筋」が島津屋敷の北端を東西に通るの道 として明記してあります。
右の景色が桓武天皇陵へ向かう北方向の道 です。

参道は分岐します。 右折して御陵に向かいます
分岐で道なりに直進すれば 少し先で左折し、 現在の丹波橋通に繋がる参道部分に なります。つまり、この御陵を直接訪れるには、丹波橋通を東に上ってきて、正面参道を歩むということになります。

    砂利敷道を進み 

北側を眺めると、

南面する桓武天皇柏原陵 です。

御陵前広場の南東隅からこの広場を撮った全景


    広場に面した玉垣に近づき、 正面を眺めた景色



東から西に目を転じていく とこんな景色です


第二の玉垣の手前に、 御陵名を刻した石標 が立っています。 陵は円墳 だそうです。 (資料2)

桓武天皇は延暦13年(794)に平安京遷都を行いました。奈良時代最後の天皇であり、平安時代の最初の天皇です。

この 御陵の区域は 、現在の地図を見ると 桃山町永井久太郎 という町名です。
「伏見城図」を見ますと、永井久太郎の名はありません。しかし、このあたりに 「永井右近太夫」「堀久太郎」の屋敷 が記されています。注記として、現町名に対し、「永井右近太夫直勝と堀久太郎秀治」と付記されています。つまり、 2つの屋敷址を併せて町名に したという由来になります。地図にはこの付近、屋敷名で埋められています。
逆にいえば、豊臣秀吉の時代には、この地に陵墓はなかったということになります。

桓武天皇は806年3月、70歳で崩御。「葛野郡宇太野 (うだの )を山陵の地と定められたが、そこが賀茂神社に近く、不敬であったために、洛中にしきりに災異が発生したので、改めて紀伊郡柏原の地に奉葬された」 (資料2) と言います。「柏原とは一に栗崎ともいい、深草より伏見につづく茫漠たる原野をいい、天皇は在世中、この地にしばしば遊猟された」 (資料2) とか。
『延喜式』巻21(諸陵寮)には、広大な面積の表記をして柏原陵のことが記録されています。しかし、朝威の衰えとともに陵墓は荒廃し中世以降にその所在が不明になったのです。「元禄以来、種々調査検討が行なわれ、明治13年(1880)このところを以て柏原陵と決定されるに至った。」( 資料2) と言います。

さて、先ほどの十字路まで戻りましょう。
十字路を東に行けば、伏見桃山城 です。
伏見桃山城は昭和38年(1963)3月に遊園地とともに開設されました。そして遊園地は平成14年末に閉園となりました。 (資料3)
閉園後はこの伏見桃山城にも近寄れないだろうと思い、足を向けたことがありませんでした。
そこで、ここまで来たのだから、どこまでアプローチできるか行って見ようと思いつきで足を向けました。この道の突き当たりに行ってみると広い駐車場です。

お城の門 は開いています。中に入れそう。朱塗りの橋の 右側に駒札 が立っています。

平成19年(2007)4月に運動公園の開設 により、このエリアが引き継がれたと帰されています。

もう一つ、目にとまったのがこの「 伏見桃山城運動公園案合図 」です。

このエリアを自宅で参照資料で調べてみて、次のことが理解できました。 (資料1,3)
*伏見城本丸の位置に現在は「伏見桃山御陵」がある。
 ここは本丸から堀を挟み北西側にあった郭の場所に伏見桃山城が建てられた。
伏見桃山城は、伏見城の「御花畠山荘址」に 建てられている。
*御花畠山荘址の東には 「徳善丸」 、その北東に繋がって 「大蔵丸」 という郭があった。 
 「徳善丸」「大蔵丸」に 今は「野球場」と「多目的グラウンド」が 設置されている。


それでは、門を通って城内に入りましょう。


この伏見桃山城は鉄筋コンクリート製で、 大天守閣と小天守閣との連結式城郭 の形式です。
「大天守の方は、姫路城を参考にし名古屋城と同じ大きさにつくられ、小天守の方は彦根城に模して作られた。」 (資料3) と言います。
つまり、当時の天守閣の姿とはまったくことなります。時の経過を経て、遠望したときに伏見城のイメージを伝える上では城として定着しているのではないかと思います。

伏見城が元和9年(1623)に廃城となった後、この古城山に伏見の人々により桃の木が植えられた そうです。元禄時代(1688-1704)には 桃の名所として有名に なったと言います。『伏見鑑』には、古城山域の広さを記したあとに、「此所のごとく数万株一所にむらがりあつまりたるはあらず、無双絶景といふべしと貝原益軒もいへり」と記されているとか。この地はいつしか 「桃山」と呼ばれるように なりました。


天守閣に近づき石垣近くから見上げることもできますが、 周囲には黄色のテープが張られ立入禁止 になっています。


振り返って門を眺めた景色







天守閣そばを反時計回りに半周する形でポジションを変えて撮ってみました。



石垣の傍に、 「樹霊碑」 が建立されています。
「昭和の子規」と称えられたという引野収氏の短歌 が刻まれています。

その傍にこの 案内板 も設置されています。1973年に建立された碑がここに移設されたそうです。

 樹霊碑から少し離れた位置に、
矢穴のある石材 が立っています。伏見城の石垣に使われていた石材なのでしょう。


もう一つ、石垣の傍には 「京都一周トレイル東山コース案合図」 が設置されています。

近鉄「桃山御陵前」駅あるいはJR奈良線「桃山」駅を起点に、伏見桃山城、大岩山、任明天皇陵、稲荷山等を経由し、月輪陵傍までの コース路 が掲示してあります。


勿論、近くにこの 京都一周トレイルの道標 が設置されています。



露とおち露と消えなん我が命 浪花のことも夢のまた夢

秀吉の辞世 として有名です。この歌のことはかなり以前に何かで知りました。
この歌「実は聚楽第が完成したときに詠んだものを大蔵卿局に預けておいたもので、臨終にさいして改めてこの歌に署名をして辞世にしたものだった」 (資料3) そうです。ブログ記事を書くにあたり、資料を参照していてこの裏話のことをはじめて知りました。

さらに余談ですが、 伏見城の沿革 に触れておきたいと思います。 (資料2,3,4,5)
文禄元年(1592)に指月の森に 伏見屋敷 が作られます。
次に桃山丘陵南西部に本格的城郭の築城を開始 します。文禄3年(1594)時点です。
 これが「 指月伏見城 」と通称で呼ばれています。平地居館として築いた城郭段階です。
 この時淀城の天守・櫓を移築したと言われています。
 しかし 慶長元年(1596)閏7月12日夜半に大地震 が起こり城の建物はことごとく倒壊。
 後にこの地震は 慶長伏見地震 と称されます。
 このとき加藤清正が一番に秀吉のもとに駆けつけたという逸話が有名です。
 指月伏見城の確実な遺構が見つかったのは2009年です。発掘調査は継続されます。
*慶長元年(1596)の震災後、直ちに 木幡山の山頂に再び築城を開始 します。
 「 木幡山伏見城 」と通称される第三段階です。聚楽第の建物・比蘇寺五重塔などを移築。
 天守閣を始め建物は順次完成していきます。慶長3年(1598)3月に全体が完成したとか。
 しかし、同年8月18日、秀吉は伏見城で亡くなります。
*徳川家康が伏見城を預る時代となった後、慶長5年(1600)8月に豊臣方連合軍の攻城により、 落城 その後再建されて、徳川の拠点に なります。これが第四段階です。
 家康・秀忠・家光は伏見城で征夷大将軍の宣下を受けます。秀忠が伏見城廃城を決定し、 家光が将軍宣下を受けた後に、伏見城は完全な廃城に なります。


指月伏見城と木幡山伏見城との位置関係の図 を『指月城跡・伏見城跡発掘調査総括報告書』から引用します。

思わぬことから、桃山御陵北側の伏見城址を巡ることになりました。
伏見城址の北堀の方に出られるという予測のもとに、運動公園を通過し道を探索することにしました。

つづく

参照資料
1)​ 「豊公伏見城ノ圖」 ​ 藤林武監修  作成・発行 吉田地図販売株式会社
 (太閤摂政関白太政大臣正一位豊臣秀吉公泰平御代御旗本諸大名御屋敷之圖)
2)『昭和京都名所圖會 洛南』 竹村俊則著  駸々堂 p123-129
3)『新版 京・伏見 歴史の旅』 山本眞嗣著  山川出版社 p81-84
4)​ 指月城跡・伏見城跡発掘調査総括報告書 ​ 2021年3月 京都市文化市民局
5) ​ 伏見城 ​   :ウィキペディア

補遺
指月 ​  :ウィキペディア
豊臣秀吉が築いた「伏見城」と伏見の街 ​  :「三井住友トラスト不動産」
第24回【指月城】大地震で失われた城の姿を探る ​ :「城びと」
伏見城図 ​  :「ADEAC」
豊公伏見城之図 ​  :「伏見通信」
日本の名城を訪ねる|第1回 洛中洛外図屏風に描かれた伏見城 ​ 「歴史人」 YouTube

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Last updated  2021.10.19 10:55:47
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