《櫻井ジャーナル》

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2018.06.03
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カテゴリ: カテゴリ未分類

 ​ ポーランド政府はアメリカ政府に対し、自国の領土内にアメリカ軍の恒久的な基地を建設するように求め、その代償として20億ドルを提供する用意があると提案


 ポーランドはウクライナの西部地域と同様、歴史的に反ロシア意識が強く、1904年には反ロシア運動の指導者だったユゼフ・ピウスツキが来日、運動へ協力するよう説得を試みている。反ロシア運動を強化するため、ポーランドでは1925年に「プロメテウス同盟」という地下組織も編成された。ポーランドからウクライナ西部にかけての地域はカトリックの東端で、その東は東方正教会が信じられている地域になる。ピウスツキの後、ポーランドの反ロシア運動で大きな影響力を持つのはウラジスラフ・シコルスキーだ。

 かつてカトリック内にはバルト海からエーゲ海まで、つまり中央ヨーロッパの地域をカトリックで統一しようという動きがあり、インターマリウムが組織された。その組織はイギリスやフランスの情報機関から支援を受け、国家間の勢力争いと深く結びつく。

 政治の世界では、中央ヨーロッパを統一するためにPEU(汎ヨーロッパ連合)が1922年に創設されている。その中心にはオットー・フォン・ハプスブルク大公がいて、イギリスのウィンストン・チャーチルもメンバーに含まれていた。

 第1次世界大戦で負けたドイツは領土を削られ、ドイツ本国と東プロイセンの間にポーランド領(ポーランド回廊)ができ、東プロイセンは飛び地になった。この領土問題を解決しようとドイツはポーランドに働きかけるが、イギリスを後ろ盾とするポーランドはイギリス側の意向もあり、話し合いは進まない。業を煮やしたドイツが軍事侵攻したのが1939年9月1日だ。その2日後にイギリスとフランスはドイツに宣戦布告するが、戦局が動き始めるのは1940年になってからだった。

  その間、シコルスキーはパリへ脱出、1939年9月30日には亡命政権を作り、翌年6月19日にウィンストン・チャーチルと会談、ポーランドがイギリスと一緒に戦うことを約束、亡命政権はロンドンへ移動する。

 その当時、シコルスキーの側近のひとりだった人物がユセフ・レッティンゲルで、ヨーロッパをイエズス会の指導の下で統一しようと活動していた。戦争が終わった後、1952年にオランダのベルンハルト(ユリアナ女王の夫)に接近し、その人脈を利用してアメリカのハリー・トルーマン政権やドワイト・アイゼンハワー政権につながる。レッティンゲルはイギリスの対外情報機関MI6のエージェントでもあった。

 こうした歴史を考えると、ポーランドがイギリスと同じアングロ・サクソン系のアメリカに秋波を送っても不思議ではない。アメリカ側が働きかけている可能性もあるだろう。ポーランドからウクライナ西部にかけての地域はヨーロッパを不安定化する出来事を引き起こすかもしれない。






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最終更新日  2018.06.03 17:30:29


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