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湯之奥猪之頭林道の推奨速度は20キロ以下です。落石に細心の注意を払いながらゆっくりゆっくり進みます。路肩に駐車して一休みするときには熊にも注意しましょう。富士川側を振り返ります。紅葉が進んできました。こちらは静岡側「大勢の 中に我あり 冬紅葉」星野立子「ひとつ色で似ぬものばかり紅葉哉」 加賀千代女「枝々を透きて日の照る紅葉かな 」久保田万太郎南アルプス南部遠望。左から赤石岳、荒川岳。毛無山登山口:毛無山(けなしやま・1,964 m)の山梨側の登山口です。国史跡・湯之奥金山(中山金山)登山口:毛無山の山腹には武田信玄公の採掘した金鉱の遺跡があり、「湯之奥金山」と呼ばれます。湯之奥金山には中山、茅小屋、内山の三ヶ所の金抗があり、その中で最も大掛りに採掘されたのが中山金山です。
2024.11.17
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下部温泉郷を貫く1本道・県営林道湯之奥猪之頭(ユノオクイノガシラ)線は、下部温泉郷、湯之奥集落を経て、静岡県の朝霧高原へと抜ける林道です。湯之奥集落からは狭く急なつづら折りの登りになり、落石が多く、推奨速度は20キロ以下。紅葉の名所ですが、観光用の道路ではなく、注意が必要です。下部温泉神泉橋:この道が朝霧高原まで続きます。(冬期は林道の湯之奥ゲートから先、通行止め)海河原(下部川):下部温泉から湯之奥に行く途中にあります。江戸時代の大地震(富士山の噴火で知られる宝永の大地震)の遺物です。今回珍しく水が見えました。湯之奥集落:石畳とかつては水車を回していた流れが印象的です。湯之奥橋からの毛無山・大ガレの頭湯之奥橋からの毛無山・大ガレの頭:紅葉が始まっています。これから右手前の林に分け入っていきます。湯之奥ゲート:間もなく冬期閉鎖となります。ゲートから先:つづら折りの紅葉の道の始まりです。
2024.11.16
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あなたの子供は、あなたの子供ではない。彼等は、人生そのものの息子であり、娘である。彼等はあなたを通じてくるが、あなたからくるのではない。彼等はあなたとともにいるが、あなたに屈しない。あなたは彼等に愛情を与えてもいいが、あなたの考えを与えてはいけない。何故なら、彼等の心は、あなたが訪ねてみることもできない、夢の中で訪ねてみることもできないあしたの家にすんでいるからだ.....。(ハリール・ジブラーン「預言者」より)
2024.11.15
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(病気になって)何よりも好いことは、病気が一切をあきらめさせてくれることだ。病気の時には、一切のゾルレンが消えてしまう。(ゾルレン:こうあるべきだということ)「お前は病気だ。肉体の非常危機に際している。何よりも治療が第一。他は考える必要がなく、またいわんやする必要がない」と言う、特赦の休日があたえられてる。それの意識が、すべての義務感や焦焼感から、公に自己を解放してくれる。病気であるならば、人は仕事を休んで好いのだ。終日何もしないでぶらぶらとし、ふてぶてしく臥していた所で、自分に対してやましくなく、かえって当然のことなのだ。無能であることも、廃人であることも、病気中ならば当然であり、少しも悲哀や恥辱にならない。(萩原朔太郎「病床生活からの一発見」より)
2024.11.14
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甲府市にある定額山(じょうがくざん)浄智院善光寺は甲斐善光寺とも呼ばれます。金堂中陣天井には、江戸の画家・希斎によって描かれた巨大な二匹の龍がいます。竜の部分は、吊り天井で、手をたたくと「鳴き龍」(共鳴現象)が起こります。甲斐善光寺の鳴き龍は日本一といわれ、親しまれています。金堂(重要文化財)と香炉堂鐘楼堂:銅鐘(県指定文化財)は、信州から引きずって運んだ「引き摺りの鐘」として知られています。宝物館:源頼朝像、源実朝像・熊谷直実像・玄和居士像・徳川家光奉納の聖観音像・賽の河原地蔵尊・善光寺如来絵伝・木喰上人絶筆梵字阿弥陀如来像・武田信玄朱印状など、什宝の一部を、随時展示替えをしながら年中無休で公開しています。甲斐善光寺大仏本堂再興碑:焼失した本堂の再建には30年の歳月を要しました。工事の遅延を意味する「善光寺普請」の語源です。地蔵堂六地蔵: 仏教では死後の行き先が、生前の善行や悪行によって地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天の六道に分かれます。道祖神:村境、峠などの路傍にあって外来の疫病や悪霊を防ぐ神です。
2024.11.13
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武田信玄が北信濃で、越後の長尾景虎(上杉謙信)と「川中島の戦い」を繰り広げていた頃、その戦火は信濃善光寺にまで及びました。信玄は信濃善光寺の焼失を恐れ、永禄元年(1558)、御本尊善光寺如来像をはじめ、諸仏寺宝類を現在の地(甲府市善光寺・当時の板垣の郷)に奉遷しました。武田氏滅亡後、御本尊は織田・徳川・豊臣氏を転々とし、信濃善光寺に戻り、甲斐善光寺では前立仏を御本尊として今に至っています。山門(重要文化財):1754年(宝暦4年)に焼失し、1796年(寛政8年)に再建されました。桁行約17m、梁間約7m、棟高約15m、堂々たる重層建築です。山門(重要文化財):門の両脇には未完成の金剛力士(仁王)像が安置されています。参道からの金堂(重要文化財):善光寺建築に特有の撞木造(しゅもくづくり)で、総高27m、総奥行49m。日本有数の木造建築です。金堂(重要文化財):金堂下には、「心」の字をかたどる、お戒壇廻りがあります。金堂(重要文化財)西面 金堂(重要文化財)東面
2024.11.12
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善光寺の御本尊は、一光三尊阿弥陀如来(善光寺如来)です。このご本尊は白雉5年(654年)以来、住職ですら見られないという絶対秘仏で、身代わりとして「前立(まえだち)本尊」(重要文化財)が造られました。おなじみの7年に1回の御開帳は、正式には「善光寺前立本尊御開帳」といいます。善光寺本堂(国宝):源頼朝や武田信玄、徳川家康も訪れた由緒あるお寺です。善光寺本堂(国宝)東側面山門(三門)重要文化財:国内最大の栩葺(とちぶき)建造物です。五間三戸二階二重門、屋根は入母屋造りです。山門手前の六地蔵:衆生が輪廻を繰り返す六つの世界(六道)に現れ、迷いや苦しみから救ってくれる菩薩です。山門南東のぬれ仏(延命地蔵):享保7年(1922)造立。八百屋お七の冥福を祈って、吉三郎が立てたという伝説もあります。「観音の み手が咲かせし冬桜 」渡辺恭子信濃路のりんご園:長野県は青森県に次ぐリンゴの産地です。(ちなみに世界で1位は中国、2位はトルコ)
2024.11.11
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「一生に一度は参れ善光寺」「牛にひかれて善光寺参り」・・長野県の善光寺は誰もが知る由緒あるお寺です。日本で仏教が諸宗派に分かれる以前からの寺院であるため、無宗派の単立仏教寺院です。宗派の別なく、また性別や身分の差別なく救われる霊場として、古から絶対的な人気を集め、現在も年間約600万人もの参拝者が訪れます。善光寺本堂(国宝):火災の度に再建され、現在の本堂は宝永四年(1707)の再建で、江戸時代中期を代表する仏教建築です。善光寺:約5万9000平方mの境内に、大勧進・大本願と39の宿坊からなる大寺院です。善光寺本堂(国宝):高さ約27m間口約24m奥行約54m。東日本最大級の木造建築です。大香炉:3組の獅子が支える香炉から出る煙を身体にあび、身を清め、無病息災、病気平癒を祈ります。歴代回向柱納所:七年に一度の御開帳には毎回松代町から回向柱が寄進され、本堂前に立てられます。観進:善光寺の御本尊・「一光三尊阿弥陀如来像」は絶対秘仏です。ここには7年に1回御開帳される前立(まえだち)本尊(重要文化財)が安置されています。経堂(重要文化財):堂内には八角の輪蔵があり、その中に仏教経典を網羅した一切経が収められています。経堂(重要文化財):宝暦九年(1759)建立。五間四方宝形(ほうぎょう)造り。斗(ます)と肘木(ひじき)で構成される枓栱(ときょう)が軒桁を支えています。
2024.11.10
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下部温泉駅から下部温泉郷への道の法面(のりめん)の工事が始まりました。この道は大正時代に険しい岩場を開削してできた新道で、開削道路の請負者・旭定次郎の名に因み、「旭町通り」と呼ばれています。旭町通り:左の崖の上に旧道、右側は下部川。下部温泉からの旭町通り:正面は醍醐山明治末期の下部温泉郷の人口はわずか160人。その小さな温泉場に、富士川舟運と、人と馬がやっと通れるだけの険しい山道を旅して、年間2万人もの湯治客が訪れていました。人々がどんなに新道を熱望したかが想像できます。昭和20年代後半の旭町通り:道幅が徐々に拡幅され、多くの人家が建ちました。労苦の末5年がかりで開通した新道の記念碑が道路わきにあります。開削道路記念碑「記念碑の碑文」下部鉱泉は古来より神秘的の霊湯にして千有余年間泉浴及び内用に供せられ幾千万の難病者を救済せしこと枚挙に遑(いとま)あらず ゆえに一般社会の渇仰する所なりしかれども交通機関たる道路橋梁完(まった)からず 為に来浴者の嘆声(たんせい)を聞くや久しここにおいて時の村会議員石部惟三氏の提出により 村会決議を経て 県費補助のもとに大正五年十二月二十四日起工下部波高島間の道路の開鑿(かいさく)橋梁の架設に着手せらるも字(あざ)滑岩の畳々たる岩石 その他数か所の切り下げ 橋臺(きょうだい)等の難工事に加ふるに物価の暴騰に際会し 請負人はもちろん道路委員並びに温泉営業者は多大の犠牲をはらい五か年にわたる長期歳月を費やしようやく大正九年十二月十五日竣工を見るに至れり今や車馬往来の便 物資運搬の利 前の峻坂(しゅんぱん)険路に比すれば霄壤(しょうじょう)*に啻ならず*これ委員の献身的努力のいたすところにして生彩奕奕(えきえき)*たるこの碑は長きに当時を追懐せして もって不言の教訓たるや必(ひっ)せり よってその功績を永久に胎(のこ)すと云爾(しかいう)**霄壤(しょうじょう) 天と地ほどの違い*啻ならず(ただならず) それどころではない *奕奕(えきえき) 非常に美しい*云爾(しかいう) これにほかならないという〆の言葉。音読の際は「うんじ」旧道:石川家邸宅址の石垣法面の工事に伴って、新道脇のお水神さんが旧道脇に移されました。お水神様
2024.11.09
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福地山修禅寺(ふくちざんしゅぜんじ)は伊豆の修善寺(しゅぜんじ)にある曹洞宗のお寺です。大同二年(807)、真言宗の開祖である弘法大師空海によって開創され、歴史を経て、戦国時代に北条早雲によって再建され、曹洞宗となりました。鎌倉幕府二代将軍源頼家の菩提寺であり、その頃修善寺と呼ばれていたことが地名の由来となっています。修善寺温泉街:正面が外湯の「独鈷(とっこ)の湯」、奥が「筥湯(はこゆ)」と仰空楼(望楼)竹林の小径:平成9年度都市景観最優秀賞受賞。夜はライトアップされます。修禅寺遠景:修善寺の名前の由来となった禅宗のお寺です。修禅寺:大正天皇が皇太子時代に「東海一の庭園である」と言われたという庭園(通常非公開)が11月22日(金)から12月1日(日)まで公開されます。修禅寺:源頼家が幽閉され非業の死を遂げたお寺です。岡本綺堂の戯曲「修善寺物語」で知られる頼家ゆかりの古面が宝物館に納められています。修善寺川:地元では桂川と呼ばれます。「伊豆の踊子」に登場する湯川橋付近で本流の狩野川と合流します。桂川には五つの赤い橋が架かっています:渡月橋(とげつばし)別名:みそめ橋・虎渓橋(こけいばし)別名:あこがれ橋・桂橋(かつらばし)別名:結ばれ橋・楓橋(かえでばし)別名:寄り添い橋・瀧下橋(たきしたばし)別名:安らぎ橋五つの橋全てを願をかけながら渡ると、恋が実るといわれています。
2024.11.08
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今回の山頂ゲストはボーカリストのヤマモトミカさんとギタリスト、音楽プロデューサーのYOH(藤岡洋)さんです。Youtubeで、藤岡洋さんが作曲した【醍醐山を愛する会テーマソング「希望の醍醐山」ver.2】がヤマモトミカさんの歌で醍醐山の景色と共に公開されています。おなじみの「希望の醍醐山」と共にver.2もよろしくお願いいたします。♪「希望の醍醐山」作詞:磯野とみ子 作曲:北杜幸一 歌:北杜幸一♪「希望の醍醐山ver.2」作詞:磯野とみ子 作曲:藤岡洋 歌:ヤマモトミカ【山頂ゲスト】◯ヤマモトミカ:ボーカリスト2022年4月「Fishes are laughing」「My Princess」リリース後レコーディングメンバーでTHE JUMPIN' JUNGLE PARADISEを結成。2023年「Holiday Eve」「甘い幻想」、2024年「虚空のサークル」をリリース。現在、東京を中心にライブ活動中。2024年9月、ソロで「星の王子様(君に逢える丘)」をリリース。◯YOH(藤岡洋):ギタリスト、作詞・作曲・編曲家、音楽プロデューサー。主なサポートアーティスト:小柳ゆき、GAO、五條真由美、コニー(ザ・ヴィーナス)、綾小路きみまろ、千葉マリア、三好鉄生、下地暁、宮沢和史(ザ・ブーム)他。2022年からポップロックバンドTHE JUMPIN' JUNGLE PARADISEのギターリストとしても活動中。
2024.11.07
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北杜市明野町は日照時間日本一を誇り、夏には40万本のひまわりが咲き競います。美しい秋の夕暮れをご覧ください。左から甲斐駒ケ岳・鋸岳・大岩山・雨乞岳八ヶ岳:左から編笠山・権現岳・阿弥陀岳・赤岳・横岳左から櫛形山・甘利山・千頭星山・鳳凰三山(薬師岳・観音岳・地蔵岳)左から鳳凰三山(薬師岳・観音岳・地蔵岳)・早川尾根・アサヨ峰・栗沢山・甲斐駒ケ岳茅ヶ岳とハイジの村野菜畑:左から兎藪・金ヶ岳・茅ヶ岳、黒富士・太刀岡山左から鳳凰三山・早川尾根・甲斐駒ケ岳・鋸岳左から鳳凰三山・早川尾根・甲斐駒ケ岳・鋸岳・大岩山・雨乞岳、手前 中山明野からの醍醐山(左):醍醐山・高ドッキョウ・篠井山・身延山
2024.11.06
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登山家には芸術家が多くいます。文学、絵画、写真、音楽・・・山の魅力の表現方法は多様です。山梨県在住の環境デザイナー・中田雅弘の描く山の世界をお楽しみください。「小池新道からの弓折岳」(新穂高温泉奥)中田雅弘氏:イラストレーター、画家、フォトグラファー、詩人。「未踏峰のベースキャンプ」(東チベット)「ジャンダルムとの融合」(奥穂高岳)「行者小屋の広場では」(八ヶ岳)「ホワイトアウトの山スキー」「みくりが池新雪のころ」(室堂)「雪解けのほだか」(上高地 大正池)
2024.11.05
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瑞牆山(みずがきやま・2,230m)は全山が黒雲母花崗岩で形成されている、奥秩父西端の名峰です。この山の麓(標高900m)に1.1ヘクタールの広さを持つ「みずがき山自然公園」があります。みずがき湖は金峰山を源流とする塩川に建設されたダム湖で紅葉の名所として知られています。みずがき山自然公園みずがき山自然公園手前からの瑞牆山「このもより かのも色こき 紅葉かな」与謝蕪村みずがき湖と鹿鳴峡大橋ツタウルシ:蔦漆 ウルシ科ウルシの仲間では最強の「かぶれ成分」を含み、触れるとひどいかぶれを起こします。ハウチワカエデの黄葉ウルシの紅葉
2024.11.04
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總持寺(そうじじ)は永平寺と並ぶ曹洞宗の大本山です。管長(宗門の代表)は、永平寺と総持寺の貫首(住職)が2年交代で務めています。總持寺は元亨元年(1321)、能登に瑩山紹瑾禅師によって開かれ、1911年(明治44年)に鶴見に移転してきました。(能登には總持寺祖院があります)約50万平方メートルの広大な敷地の中に、多くの堂宇と鶴見大学があります。石原裕次郎のお墓やアントニオ猪木のブロンズ像があることも広く知られています。【総受付】香積台(こうしゃくだい):香積とは、香気が充満している世界のことで、禅門では食事を調理する庫院(くいん)、庫裡(くり)を意味します。大本山總持寺開山太祖 瑩山紹瑾禅師700回大遠忌相承(そうじょう):お釈迦さまの教えを受け、行い、継いでいくこと。教えは人種、性別、年齢を問わず相承され、相承の輪は国境を越えて広がり続けています。三松閣(さんしょうかく):能登の祖院にあった三本の龍形の松にちなんだ名前です。檀信徒研修道場、各種セレモニーの会場で宿泊施設もあります。大祖堂:太祖瑩山(けいざん)禅師と高祖道元禅師、二祖・峨山(がさん)禅師をはじめ、歴代の諸禅師の頂相(ちんそう・肖像画や彫像)を安置し、諸尊牌をも奉祀する霊場です。仏殿(大雄宝殿):中央の須弥壇上に禅宗の本尊である釈迦牟尼如来を祀っています。「胸なりてわれ踏みがたし 氷よりすめる大雄宝殿の床」与謝野晶子向唐門(むかいからもん):勅使門です。総持寺は後醍醐天皇以後、歴代天皇から勅願寺として仰がれました。
2024.11.03
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瑞牆山周辺には、木暮祭の会場である金山平(かなやまだいら)という地名でわかるように金鉱のある一帯で、戦国時代には武田氏によって金が掘られていました。坑道跡らしき穴は「魔子の人穴」と呼ばれています。魔子からの瑞牆山魔子からの瑞牆山展望台からの瑞牆山全景展望台からの木賊峠魔子の人穴 魔子の人穴内部魔子の人穴入口「おもうからあるのだそこにわたくしはいないいないばあこれが顔だよ」望月裕二郎
2024.11.02
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「魔子(まこ)」は、瑞牆山(みずがきやま・2,230m)の前衛の山です。先日ご紹介した木暮祭の今年のパンフレットに以下の文章が掲載されています。【魔子の人穴の話むかし、金峰山の近くに魔子の山とよばれる異様な山があったとさ。この山には、今にも妖怪が飛び出してきそうな不気味なほら穴があったとさ。村人はこの穴を魔子の人穴とよび、決してこのあたりには近づかなんだ。それはな、もっとむかし、この山に魔子(まご)じじいという大男がおったんじゃ。そいつのからだといったらそれはがんじょうでな、鳥やけものを食べ、村里へ出てきては家畜をぬすみ、時には赤ん坊までもさらっていったそうじゃ。ほら穴の入り口には、骨が積み重なり、奥からは生臭い風が吹いてくるそうな。子どもがいつまでも泣いたりすると「魔子じじいが来るぞ」と言えば、ぴたりと泣き止んだそうじゃ。(須玉町歴史資料館「すたまの民話」より)*平成 7 年の調査でこの魔子の洞穴は古い鉱山の坑道だとわかりました。実は、この伝説は、江戸時代に、この鉱山に人を近づけないようにするために、創作されたのではないか、と考えられています。】魔子への道:白樺林を行く林の中からの瑞牆山「山暮れて 紅葉の朱を 奪いけり」与謝蕪村「立ちまじる 松真青なり 山紅葉」水原秋櫻子「青苔にほつりほつりと落つる花」 日野草城魔子の山山頂(1,700m):山頂が二つあります。魔子の山山頂(1,700m):二つ目の山頂。苔むす林:湿気が多いことを示します。
2024.11.01
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