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(ヤラジヌシー)沖縄本島中部の西海岸に「嘉手納町/かでなちょう」があり、この町の面積の約82%がアメリカ空軍「嘉手納基地」に接収されている事で知られています。この「嘉手納町」の西側海沿いに「兼久/かねく集落」があります。この集落の「嘉手納マリーナ」と呼ばれる米軍保養施設に「シーサイドリストランテ」というレストランがあります。また、この施設の東側国道58号線沿いに「野国貝塚群」が残っており、南側には中国から甘薯を持ち帰り琉球にイモを伝えた「野国総管」が葬られた墓があります。「嘉手納マリーナ」の西側の海に「ヤラジヌシー」と呼ばれる孤島があり、地元の住民からは「ビジュルヌシー」と呼ばれています。この孤島は戦前まで住民が往来する事が出来た岩場の岬でしたが、米軍による強制的な砂利採掘により現在の姿となりました。当時はこの岩場に「兼久のビジュル」という拝所があり、戦前までは「メーヤールイグヮー/前屋良小のビジュル」の名称で知られていました。(移設された兼久のビジュル)(兼久のビジュルの入り口)(兼久のビジュル)沖縄戦後、米軍により破壊された「兼久のビジュル」は現在、北側のショッピングモール「ネーブルカデナ」に隣接する岩場に移設され祀られています。「嘉手納町」は「ハダカユー/裸世」と呼ばれる原始人が裸同然で生活していた旧石器時代や貝塚時代の頃から歴史があり「屋良・野国・嘉手納」の3部落が1番古いと伝わっています。これらの部落に昔から住んでいた人々を平民と呼び、一方で「兼久のビジュル」がある「兼久集落」は「ヤードゥイ/屋取集落」と呼ばれ、首里から移住した士族により集落が形成されました。「琉球処分」の過程で1879年(明治12)に琉球藩を廃して沖縄県を設置する「廃藩置県」が行われ、約500年間続いた琉球王国が崩壊しました。その後、首里に住んでいた士族は沖縄本島の各地に移住させられる「士族帰農」が進み「兼久集落」が誕生しました。(兼久のビジュルの祠)(祠内部のビジュル)士族育ちの移住者は農業が上手く行かず、自分で働いて食べていく事が非常に辛かったと言われています。首里の士族だった女性たちが周辺集落の田舎百姓である平民に頭を下げて、恵んで下さいと物乞いまでした苦しく厳しい話が伝わっています。首里から移住して新しい土地を開拓したため「兼久集落」には住民の心の拠り所である拝所や御嶽は存在していませんでした。そこで「兼久」の村人が恩納村「仲泊」の海岸からビジュル(霊石)を3体持ち帰り「ヤラジヌシー」の岩陰に祀りました。すると直ぐに「兼久集落」は子宝に恵まれ、それから集落ではこのビジュルを神として崇めて大切に拝するようになったそうです。「兼久集落」はこの土地に最初に移住した「亀島」という名前が多かったため「カメシマグヮーヤードゥイ/亀島小屋取」と呼ばれており、他には「福地・山入端・古謝」の3つの名前があったそうです。(兼久の井戸)(兼久の井戸)(亀島の井戸)(亀島の井戸)大正生まれの「兼久」の古老によると、戦前まで「ヤラジヌシー」の岩場には移住当時から大きな井戸があり、住民の生活用水として重宝されていたそうです。戦後、米軍がこの井戸を埋めてしまったため、井戸の魂を現在の「兼久のビジュル」に移設しました。戦前まで「兼久の井戸」は石が積まれており、潮の満ち引きの関係で大潮の時は井戸に沢山の水が溜まり、干潮の時は水量が少なくなったと言われています。しかし、不思議な事に井戸水は真水で塩は含まれていなく、水が含まれる地層の関係により水量が変化していたそうです。現在の「兼久のビジュル」にはもう1つの井戸も祀られており、首里から士族が移住して「亀島小屋取」と呼ばれるようになった頃に「亀島」という人物が掘った井戸であると伝わっています。こちらの井戸も戦後に米軍により埋められましたが、先人の井戸を粗末にしてはいけないと住民により移設されました。(兼久のビジュルの拝所)(兼久のビジュルの拝所)(兼久のビジュルの洞穴)(仲泊海岸)「兼久のビジュル」には「ヤラジヌシー」の魂を祀ったと考えられる大岩があり、岩の下にはウコール(香炉)が祀られています。恩納村の「仲泊海岸」から求めてきた「兼久のビジュル」の霊石は1955年(昭和30年)に現在の場所に移されました。この土地に祀られる「ビジュルヌタンメー/お爺さん・ビジュルヌウンメー/お婆さん・動物」で構成される3体の霊石は「兼久集落」における霊石信仰の対象として大切に崇められています。この御神体は旧暦の9月9日に御供物をして子供の健康と家内安全を祈願する慣わしとなっています。さらに、子宝を求めて夫婦が「子宝に恵まれますように」と「兼久集落」のみならず、周辺の地域からも一年を通して多数の参拝者が訪れています。
2023.03.03
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(野國總管の墓)沖縄本島中部西海岸の嘉手納町「兼久集落」に「嘉手納マリーナ」があり、敷地の最南端の「砂辺集落」との境にある海岸沿いに「野國總管の墓」が佇んでいます。「野國總管(のぐにそうかん)」は琉球王国時代の沖縄本島の北谷間切野国村(現嘉手納町野国)の進貢船乗組員でした。日本が慶長年間(1596-1615年)に当たる時期に「總管」の役職に就いており、個人名は「与那覇松(ヨナハマチュー)」と推定されています。「野國總管」は中国に渡り甘藷(かんしょ)を琉球に持ち帰り貧困から人々を救った偉人として「芋大主(ウムウフシュ)」と呼ばれ沖縄の人々に親しまれています。(Kadena Marinaの入口)(甘藷発祥の地/野國いも宣言の碑)「嘉手納マリーナ」がある地域は北部にNavel Kadena(ネーブルカデナ)ショッピングセンターと兼久海浜公園、東部から南部にかけて広大な米軍嘉手納基地が続いています。沖縄戦後に米軍に接収され米兵や米軍関係者の為のリクリエーション施設としてビーチ、BBQエリア、レストラン等が整備されました。Kadena FSS (旧18th Force Support Squadron)のSeaside (旧Seaside Ristorante)というレストランがあり、米軍のみならず民間にも解放されています。「嘉手納マリーナ」の入口は「野國貝塚郡」が分布しており「甘藷発祥の地/野國いも宣言の碑」が建立されています。(野國總管の墓)(甘藷発祥之地の碑)「嘉手納マリーナ」の最南端にある「野國總管の墓」は1700年(元禄13年)、当時の野国村の地頭であった野国正恒親方が「野國總管」の功績を讃え、その供養も兼ねて石厨子(厨子甕と呼ばれる骨壷)を造り「野國總管」の遺骨を安置しました。その石厨子は沖縄戦で米軍により破壊され、現在「野國總管の墓」は屋根形の石蓋のみが昔のままに残っておりウコール(香炉)が設置されています。墓の脇には「甘藷発祥之地の碑」が建立され「野國總管」の偉業を讃えています。(野國總管の立像)(嘉手納町のマンホール)国道58号線を嘉手納ロータリーから読谷村方面に向かうと左側に「嘉手納町商工会」があり、その敷地には「野國總管の立像」が建立されています。この立像は以前「嘉手納マリーナ」の入口に建てられていましたが、現在は移転されています。立像は「野國總管」が左手に中国から持ち帰った甘藷の苗を大切に抱えている姿を表しており、その堂々とした風貌からは威厳を感じ取れます。さらに、嘉手納町のマンホールには甘藷のデザインが施され「甘藷発祥の地」を誇り高く示しているのです。(野國總管宮)(友好の獅子像/向かって左)(友好の獅子像/向かって右)「野國總管の立像」の西側にある嘉手納町立嘉手納小学校/中学校の北側で比謝川沿いに「野國總管公園」があり、敷地内に「野國總管宮」が建立されています。嘉手納町の偉人である「野國總管」の魂を祀った神社は、隣接する小中学校の生徒が地元の偉人と歴史を学ぶ教育に役立つと共に地元愛を育んでいます。鳥居の麓には獅子像が2体設置されており「野國總管」に甘藷を紹介して栽培方法を伝えた中国福建省の泉州市恵安県人民政府から友好親善の証として1993年に寄贈されました。(親志の土帝君)(野國總管之碑)「野國總管」は嘉手納町出身の偉人ですが、北側に隣接する読谷村の「親志集落」にも「野國總管之碑」が祀られています。「野國總管の墓」から北に約8キロほどの「親志集落」に「親志の土帝君」があります。「土帝君」とは中国の土地神信仰に起源を持ち、功労があった高徳の人が死後に土地神となり家や集落の守り神となると信じられています。沖縄にも土地神信仰が広く伝わり、沖縄本島やその周辺部では農業神としても良く知られています。読谷村の「親志集落」では「野國總管」を土地神として崇めて「土帝君」の祠の脇に「野國總管之碑」が祀られています。(野國總管の座像)米軍嘉手納基地北側の嘉手納町と沖縄市が隣接する場所に「道の駅かでな」があり、敷地内には「野國總管の座像」が建立されています。座像の左手には大きな甘藷があり貧しい人々に分け与える様子を醸し出しています。琉球王統(第二尚氏王統)の人物である儀間村地頭の儀間真常は「野國總管」が甘藷の苗を持ち帰ったことを聞きつけ「野國總管」から栽培法を学び、その後に琉球各地に広めました。その後、琉球から「琉球芋」として薩摩へ伝わった甘藷は、青木昆陽(あおきこんよう)によって全国に広められました。そのため薩摩の名をとり現在では「さつまいも」と呼ばれるようになったのです。(野國總管の墓がある嘉手納マリーナ)「野國總管」を讃える行事として戦前まで「野国集落」の年中行事では「旧暦二月春の彼岸は野國總管霊前にて行う」とあり、近隣の「野里集落」でも同様の行事が行われてきました。現在、嘉手納町では毎年秋に「野國總管まつり」を開催しています。さらに、甘藷伝来から400年目を迎えた2005年(平成17年)には「甘藷伝来400年祭」と称して「野國總管」の偉業を讃える記念事業が嘉手納町主催で執り行われ、記念式典では甘藷のことを正式に「野国いも」と呼ぶ「野国いも宣言」を行いました。嘉手納町民は「野國總管」の事を親しみを込めて「總管」と呼び、心の中に嘉手納町民としての誇りを持ちながら暮らしているのです。
2021.08.28
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(イユミーバンタからの比謝川河口)沖縄本島中部の西海岸に「嘉手納町」があり「読谷村」との境を流れる比謝川の河口に「イユミーバンタ」と呼ばれる断崖絶壁の丘稜が聳え立っています。「イユ」は"魚"、「ミー」は"見る"、「バンタ」は"崖"という意味で、昔の住民はこの崖の頂上から海を眺めて魚の群れを発見して漁をしていました。「イユミーバンタ」から「嘉手納漁港」までの比謝川沿いの道は「イユミーバンタ通り」と呼ばれ、その周辺は貴重な遺跡文化財が多数存在しています。(奥間ぬ毛)(水釜の洞)比謝川河口の入り口に「奥間ぬ毛」と呼ばれる小高い崖があり、その麓に「水釜の洞」のガマがひっそりと佇んでいます。この地は「水釜」の地名の由来になった場所で、戦前は洞窟の入り口まで海水に浸かり、漁師達が船を繋ぐ場所として利用されていました。洞窟内のシージル(岩汁)により岩ひだに溜まった真水は貴重な飲料水として利用されていました。現在も洞窟の上部より岩汁が滴り落ち「奥間ぬ毛」の神水として崇められています。(水釜の洞の拝所)(水釜の洞の龍宮神)「水釜の洞」のガマ周辺は昔、唐の国から沖縄本島を探索しに来た人々が船を縄で結びつけるため、縄を投げ打った(打ち縄)ことから「ウチナー(沖縄)」の地名の由来になった場所だとの伝説があります。「水釜の洞」には拝所があり、祠には霊石が祀られておりガマからのシージル(岩汁)への感謝が祈られています。また「龍宮神」の祠にはウコール(香炉)が設けられ、海の安全と豊漁を祈る拝所として大切に祀られています。(読谷村渡久地から見たイユミーバンタ)(イユミーバンタ通りの始点)(イユミーバンタの崖)「水釜の洞」を始点とした比謝川沿いに進む道は「イユミーバンタ通り」と呼ばれています。戦前まで比謝川河口流域は「沖縄八景」と呼ばれるほど美しい場所として人々に愛されていましたが、沖縄戦で米軍がこの比謝川河口より沖縄本島に上陸し水釜集落は戦火に襲われました。上陸する米軍に対抗する旧日本軍は読谷村側の比謝川流域にある天然洞窟に特攻艇の基地を構え、爆薬を載せたベニヤ作りのモーターボートで米軍の船に特攻攻撃で玉砕し、多数の死者が出た歴史があります。(ヤラバンタ)(ナナチジョーバカ/七門墓)(水釜シチャヌカー/下ぬ井戸)「イユミーバンタ通り」を進むと「イユミーバンタ」の隣に「ヤラバンタ」の崖が続きます。「ヤラバンタ」南側の丘稜には「嘉手納集落」の伝説の豪勇「カディナーチナー」の墓である「ナナジョーバカ(七門墓)」があります。この墓を築く際に掘られた井戸が墓の南側にある「水釜シチャヌカー」だと伝わります。「嘉手納集落」周辺の村人にも貴重な飲料水として利用され、現在でも井戸拝みのために多数の人々が訪れます。石積みで保存状態の良い「水釜シチャヌカー」は、嘉手納町内に現存する最古の井戸だと推測されています。(西タケーサーガマ)(仲今帰仁按司祖先之墓)(仲今帰仁按司祖先之墓)「ヤラバンタ」北側丘稜の中腹に「西(イリ)タケーサーガマ」があり、この洞窟には「仲今帰仁按司祖先之墓」が祀られています。14世紀頃、今帰仁城第四代城主「仲今帰仁按司」が家臣の反乱に遭い滅ぼされた時、難を逃れた中北山の一族が今帰仁城の一代目から三代目までの城主の遺骨を水釜の「西(イリ)タケーサーガマ」に葬りました。「初代屋良大川按司」は第三代今帰仁城主の五男にあたり、祖父の墓を大事に守ったと伝わります。(東タケーサーガマ)(東タケーサーガマ)「イユミーバンタ通り」を更に東に進むと「ヤラバンタ」東部の崖麓に「東(アガリ)タケーサーガマ」があります。このガマは入り口がコンクリートブロックで完全に封鎖されており、4基のウコール(香炉)に霊石が供えられています。入り口には空気穴もなく頑丈に密閉されている事から、沖縄戦で亡くなった人々の共同無縁墓だと考えられますが詳細は不明です。かつては風葬に使われていたガマの可能性もありますが、霊魂が閉じ込められているような雰囲気が漂う不気味さに包まれています。(水釜発祥之碑)「ヤラバンタ」から更に「イユミーバンタ通り」を東に300メートルほど進むと右手に小高い崖があり、その比謝川を望む頂上に「水釜発祥之碑」が建立されています。「水釜」ほ今から約250年前、久米の人毛氏奥間家の祖先「乗仁」が初めてこの地に移住しました。その後12家の祖先が移住して「水洞屋取」を形成しました。その後「水洞屋取」は所属していた「字嘉手納」から独立して昭和13年に「水釜」と改名したのです。(感應の宮)(感應の霊石)「水釜」は農業で生計を維持し、主な作物は甘蔗(サトウキビ)と甘薯(サツマイモ)でした。沖縄戦において水釜海岸は米軍の上陸地点となり、激しい艦砲射撃によって「水釜」は焼け野原となりました。大正6年に「水釜」の鎮護と豊作繁栄を祈願して建立された「感應の宮」は"お宮“と呼ばれ「水釜」の守護神であり、戦後の貧しい人々の心の拠り所でした。戦後の復興を遂げた現在でも「水釜」の住民は"お宮"を建立した祖先の偉業を讃えて大切に守り続けています。(嘉手納漁港)「イユミーバンタ通り」終点の「嘉手納漁港」です。漁港を出発する一般客向けの漁船や、比謝川をカヌーで下るレジャーも増えてきています。「イユミーバンタ通り」には未だに解明されていないガマや墓が多数存在しています。今後の調査により琉球の歴史を変えるような遺跡や文化財が発見される可能性もあります。かつて「沖縄八景」と呼ばれた絶景を誇った歴史と自然豊かな「水釜」が復活してほしいものです。
2021.08.13
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(屋良城之嶽)「屋良グスク」は沖縄県嘉手納町に流れる比謝川の中流に位置し、標高38mを最高所とする小高い琉球石灰岩陵上に築かれたグスクで「屋良大川グスク」とも呼ばれます。グスク北側を流れる比謝川を天然の堀として利用し、南西面に半円状に外郭を巡らせた輪郭式城郭で、築城は13〜15世紀と考えられています。御嶽の石碑には「屋良城之嶽 神名 笑司之御イベ」と記され、ウコールが祀られています。(屋良大川按司の墓)「屋良大川按司の墓(御先大川)」は屋良グスクの東側に位置し、以前は崖の中腹に位置していましたが崖崩れにより墓が崩壊したため、散乱した遺骨を逗子甕に分納し、真下の横穴を利用して1991年に移築しています。墓の石碑には「字屋良御先 大川按司之墓」と彫られウコールと霊石が設置されています。(字屋良ウブガー)屋良大川按司の墓の北東側に「字屋良ウブガー」があります。このウブガー(産川)は字屋良集落で古くから利用されてきた湧水で、正月にはこのガーから若水を汲んでいました。集落で子供が産まれるとウブガーから「ウブミジ(産水)」を茶碗に汲み、中指を浸して赤子の額を3回撫で回す「ウビナディ(お水撫で)」の儀式や「産湯」に使用しました。産湯に使用する場合はタライに湯を先に入れ、ウブガーから汲んだ水で薄めて使用するのが常で、その順序を逆にすると「さか湯」と呼ばれ、死者の体を清める際に使用する「アミチュージ(湯かん)」となることから忌み嫌われたのです。(屋良城址公園の無縁墓)(ガジュマルが絡まる無縁墓)1979年に整備された屋良城址公園内は、戦後に建てられたとみられる墓が多数点在し、骨や骨つぼがある30基を含む107基は所有者など手掛かりがないと言われています。受け継ぐ人がいなくなり放置された「無縁墓」が沖縄県嘉手納町の比謝川周辺に点在し、まちづくりや安全対策に影響が出ています。リニューアル工事を控える町立屋良城址公園には墓が116基あり9割以上が所有者不明。落石や崩落の対策工事が急がれる県営住宅下の崖にも誰のものか分からない墓があり、手がつけられない状態なのです。(所有者不明の無縁墓)比謝川一帯の墓の多くは戦後混乱期に土地の所有者に無断で建てられた可能性が高く、米軍基地に土地を接収されて住む場所もなく、この一帯に墓が集まったとみられています。大半は墓を守る子孫が絶えたか、移動して空き墓になったかとの見方が示されています。しかし琉球カミンチュ(神人)に言わせると、墓を移動しても地縛霊が墓に残るため、死亡した人の霊魂はこの場に居続けるそうです。(屋良城址公園を流れる比謝川)沖縄戦当時の屋良グスク周辺は日本兵を収監した捕虜収容所がありました。捕らえられた日本兵が収容所から脱走して比謝川を泳いで逃げないように、米軍は日本兵の両足を切断して逃亡を阻止したと言われます。更に米軍は日本兵の体をバラバラに切断して比謝川流域の木々に吊るし、捕虜である日本兵に逃亡を諦めさせようと試みたのです。そのため屋良グスク周辺の比謝川流域には日本兵の上半身だけがうごめく幽霊や、下半身だけが歩き回る幽霊が多数目撃されています。(ヌールガー)屋良城址公園には「ヌールガー」と呼ばれる井泉が祀られています。「ヌール(ノロ)」は琉球神道における女性の祭司の事で「ガー」とは湧き水が出る井戸の事を示します。琉球ノロがこの聖域で屋良集落の豊穣を願い、災厄を払い、祖先を迎え、豊穣を祝う祭祀を行なっていたのです。「ヌールガー」の井泉には水神を祀る祠が建てられており、ウコールが設置されている拝所として現在も祈られています。(比謝橋)屋良グスク沿いを流れる比謝川には「比謝橋」がかけられています。この橋のたもとには「吉屋チルーの歌碑」があります。吉屋チルーは貧しい農民の娘として生まれ、わずか8歳にして那覇の仲島遊郭へ遊女として売られました。吉屋チルーは遊郭の客だった「仲里の按司」と恋に落ちたが、黒雲殿と呼ばれる金持ちに身請けされたために添い遂げられなかったのです。悲嘆にくれた吉屋チルーは食を絶ち、18歳で亡くなったと伝わります。(吉屋チルーの歌碑)歌碑には「恨む比謝橋や 情けないぬ人の わぬ渡さともて かけておきやら (恨めしい比謝橋は お情けのない人が私を渡そうと思って 架けておいたのでしょうか) 」と記されています。これは身売りされて那覇に向かう途中、絶望的な吉野チルーが比謝橋で詠んだ悲しい歌です。(嘉手納ビル)嘉手納町屋良の比謝川流域は根本的に悪い土地で、悪霊が溜まりやすい地域とされています。この「嘉手納ビル」は沖縄で有名な心霊スポットです。この建物の一階にはかつて沖縄の大手スーパーが営業していましたが、殺人事件により幽霊の目撃が多発して閉店に追いこまれたのです。しばらく立ち入り禁止が続きましたが、現在は米軍関係者が経営するインターナショナルスクールになっています。(天川の井戸)「比謝橋」の袂に「天川(アマガー)」と呼ばる直径二尺程度の円筒型に積み上げられた井戸がありました。琉球王府時代にできた古典音楽の曲名「天川節」は古典女七踊の一つとしても有名で、この歌に登場する「天川の池」はこの天川の井戸から比謝川に流れ出る水路に出来た池とされています。「天川節の歌碑」も建てられおり「天川の池に 遊ぶおしどりの おもいばのちぎり よそや知らぬ」と記されています。(字嘉手納のンブガー)「天川」に隣接して「ンブガー(産川)」があり「アガリガー(東川)」とも呼ばれている井戸です。水源が豊富なこの井戸は干魃が続いても枯れることがなかったと伝わります。字嘉手納集落では子供が生まれると「サン(魔除け)」を結んだ桶で東に向かって水を汲み、その水を産湯に使い健康祈願をしました。戦後に現在の位置に移動して拝所として住民に拝まれています。(トゥヌマーチーモー)(イリヌウタキ/アガリヌウタキ)「トゥヌマーチーモー」は字嘉手納集落の殿(トゥヌ)の拝所があった祭祀場です。旧暦9月8日には「ヌールガーミジナリー」が行われ、ヌールガーで水のウガン(御恩)の拝みを終えたヌール(ノロ)が「トゥヌマーチーモー」で集落の住民の健康祈願の儀式を行いました。現在、敷地には「イリヌウタキ/アガリヌウタキ」の拝所が建てられ、集落の西と東の御嶽が一緒の祠に祀られ、それぞれウコールが設置されています。(神屋)嘉手納町の「中央区自治会事務所」の敷地内に「神屋」があります。「ヌル殿内」の役割があり「神アサギ」と呼ばれるヌール(ノロ)が祭祀行事を司る聖域として住民から拝所として拝まれています。かつては集落のヌール達が集団で暮らした場所で「ノロ制度」が定められた琉球王国時代には沖縄の各集落に「神屋」が設けられ、集落の恒例行事には欠かせない神聖な場所として住民に敬われていました。(字嘉手納集落の拝所の大ガジュマル)(拝所の天降り神と火の神)拝所には推定樹齢250年、樹高18m、胸高周囲8m、枝張24m、枝張面積146平方メートルの大ガジュマルがあります。この一帯には神が住むと言い伝えられ、その対象としてこのガジュマルは土着信仰として拝まれています。拝所には「天降り神」と「火の神」が祀られウコール(香炉)が設置されています。大ガジュマルの麓には2つの巨大な岩があり、神が宿る神聖な岩としてウコールが祀られています。(比謝川のマングローブ)嘉手納町の比謝川流域は沖縄戦に翻弄された地域でありますが、戦前は神が祀られた御嶽のグスクで豊かに繁栄した長い歴史があります。古からの遺跡文化財を大切に守り、若い世代に伝統を継承して行く事は重要です。歴史と自然が豊かなこの地域は嘉手納町のみならず、沖縄の歴史を解明するためにも非常に価値のある地域として大切にされてゆく事でしょう。
2021.01.11
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(屋良ムルチの石碑)「屋良ムルチ」は嘉手納町の北東端に位置し、比謝川と沖縄市との境界部分にある淵(クムイ)です。1934年(昭和9年)の沖縄県耕地課による測量によると長さ49間(89m)、幅21間(38m)、深さ48尺(14m)となっています。「屋良ムルチ」の入り口は米軍嘉手納基地の北側に隣接する県道85号線沿いにある「嘉手納霊園」の脇にあり、入り口には「屋良ムルチ」の案内板があり森の中を下る階段が姿を見せます。(屋良ムルチの入り口)(屋良ムルチへの階段)沖縄には古くから「大蛇伝説」が語り継がれています。ムルチ(無漏渓/茂呂奇/漏池)に住む大蛇は地域に暴風などの災いをあたえ、住民は童女を人身御供に出せば禍い事が止むと信じていました。ある年、親孝行の娘がたった一人の祖母を置いて沼池に生け贄にされた時に天神が現れ大蛇を退治して災害を除きました。その後、娘は王子の嫁になり祖母と一緒に幸せに暮らしました。(石碑とガジュマル)「ムロキノ嶽 神名 アキミウハリ ミウノ御イベ」と記された石碑がガジュマルの下にひっそりと佇みます。「屋良ムルチ」には神が祀られており、周辺全体が拝所として森の御嶽として崇められています。足元には数えきれないガジュマルの根が土壌から力強くはみ出し、まるで大量の蛇が地面を覆っている不気味な雰囲気に包まれます。沖縄ではガジュマルは神が宿る木として大切にされ、勝手に木を切ったり枝を折ると祟られると信じられています。(屋良ムルチの沼)(拝所跡の石段)「ムロキノ嶽」の石碑の右手奥には全く水の流れが無い緑色に濁った沼が広がっています。大蛇伝説の舞台になったこの沼は、いつ大蛇が現れても何も不思議ではない静けさに包まれています。まさに私自身が生け贄の祭壇に取り残されたような気分に陥ります。水辺にはかつて石碑やウコール(香炉)が祀られていたと考えられる石段が残されています。石碑を設置していたと思われる箇所は「屋良ムルチ」の水面の方向を背にしています。(屋良ムルチのガジュマル)沼池沿いに生えるガジュマルは「屋良ムルチ」の沼水の恵みを受けて、その不気味で奇妙な根を大地に伸ばしています。ガジュマルの横には巨大な葉を持つクワズイモや亜熱帯植物が多数生息しています。まるでジャングルに足を踏み入れたような気分で、この地には多くのハブも生息するので十分に気を付ける必要があります。(ワニガメへの注意勧告)ゴツゴツした琉球石灰岩の地質、緑色に濁る沼池、亜熱帯の植物で造られた「屋良ムルチ」は地図上では比謝川に分類されます。濁った水は流れが全く無く水の色は不気味な緑色で、肉眼では魚などの生物は水中に確認不可能です。以前「屋良ムルチ」では危険生物に指定されるワニガメの目撃情報があり嘉手納警察署とニライ消防本部が出動するニュースになりました。(屋良ムルチ入り口脇の拝所)(拝所に祀られる香炉)「屋良ムルチ」は大蛇伝説だけでなく水の神として屋良集落の住民に大切に崇められていました。日照りが続くと「屋良ムルチ」のウガンジュ(拝所)に住民が集まり雨乞いの儀式が行われていたそうです。大昔からこの地は人々の重要な祈りの場で心の拠り所として存在し続けました。人々の祈りの魂や精霊が漂う屋良ムルチはスピリチュアルなパワースポットであり、瞑想をして心を研ぎ澄ませると琉球のロマンを五感に感じる事ができる聖地なのです。
2020.12.19
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