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2021.02.08
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カテゴリ: 読谷村



沖縄県読谷村「楚辺集落」に「赤犬子宮」があります。歌と三線の昔始まりや"犬子ねあがりの神のみさぐ"と謳われるように「赤犬子」は琉球音楽の世界では唄三線の始祖として信仰されています。赤犬子は今からおよそ500年前、琉球王国が近隣諸国と親交や交易を深め、琉球文化の隆盛が築かれた尚真王(1477〜1526)時代に活躍した人だと言われています。


(赤犬子宮入り口の石碑)

「赤犬子宮」の入り口に石碑があり「歌と三味線の むかしはじま里や 犬子称阿がれ乃 神の美作」と記されています。「楚辺集落」の古老伝承によれば、赤犬子は大家のカマーと屋嘉のチラー小との子で、長じては三線を携え各地を巡り歩き唄三線を広めると共に先々の事を予言したり、唐から楚辺村に五穀(稲・麦・粟・豆・黍)を持ち帰った偉大なる人物と伝えられています。


(赤犬子終焉之地の石碑)

赤犬子宮には「赤犬子終焉之地」の石碑があります。晩年を迎えた赤犬子が生まれじまの「楚辺集落」に辿り着き、杖にしていたデーグ(ダンチク)を岩山に立て、聖なる光に導かれて昇天した聖地と言われています。毎年旧暦9月20日(昇天した日)に唄三線の始祖、五穀豊穣の神、村の守り神として崇めたて祀る「赤犬子スージ」が行われています。


(赤犬子宮の殿)

この地は昔から「楚辺集落」のウガンジュ(拝所)で「アカヌクー」と呼ばれています。赤犬子の母親であるチラーには可愛がっていた赤犬がいました。ある年、長い旱魃が続き村の井戸はすべて枯れ果てて村人は大変困っていました。ある日、赤犬が全身ずぶ濡れになって戻ってきました。赤犬はチラーの前で吠え立てて、着物の裾を口でくわえて引っ張って行ったのです。その赤犬は集落南側の洞窟に入って行き、暫くすると再びずぶ濡れになって戻ってきたのです。それから洞窟の中に水があることが分かり早魃をしのぐことができました。これが「暗川」発見の由来です。


(米国陸軍通信施設/トリイステーション)




(赤犬子の案内碑)

(赤犬子宮の敷地)

その後、何ヵ年か後に両親はチラーが伊計島(現うるま市)に渡っているという噂を耳にして娘を訪ねて行きました。しかし、両親に逢うことを恥じたチラーは、男の子を残したまま自害してしまうのです。両親は悲しみながら我が娘をその地に葬って、男の子は一緒に楚辺村に連れ帰りました。この子は後に「赤犬子」と名付けられました。成人した赤犬子はポタボタと雨の落ちる音を聞いてひらめき、クバの葉柄で棹を作り馬の尾を弦にして三線を考え出しました。その後、赤犬子は三線を弾きながら唄を歌って各地の村々を旅して廻りました。これが赤犬子が唄三線の始祖と呼ばれる所以です。


(北谷グスク)

北谷町にある「北谷グスク」です。この山には赤犬子にまつわる僧侶「北谷長老」が祀られています。赤犬子は旅の途中、北谷村にさしかかった時に喉が乾いたので、水を乞うためにある農家に立ち寄りました。するとそこには4歳くらいの子供がいて「おまえのお父さんは何処に行ったか」と尋ねると「夜の目を取りに」と答えました。今度は「おまえのお母さんは何処に行ったか」と尋ねると「冬青草、夏立枯かりに」と答えたのです。


(樹昌院)

北谷グスクの東側には北谷長老が開山した「樹昌院」があります。さて、さすがの赤犬子もこの子供の答えの意味が分からずに、どういうことかと尋ねたら「お父さんは松明り(トゥブシ)取りに」「お母さんは麦刈りに」と答えたのでした。すっかり感心した赤犬子は再びその農家を訪ねて、両親に「あなた方の子は普通の子供より特に優れた知能を持っているから将来は坊主にしてやれ」と言い残して去って行きました。この子が後の僧侶「北谷長老」であったと伝わります。


(嘉手納町)

赤犬子は唐から麦・豆・粟・ニービラ(山蒜)などを持ち帰り、それを沖縄中に広めたと言われています。ある日、赤犬子が嘉手納地区を歩いている時に、道も悪く疲れていたので転んでニービラを落としてしまいました。それで赤犬子は「この土地にはニ-ビラは生えるな」と言ったので、嘉手納地区にはニ-ビラは生えなくなったと言われているのです。


(中城若松の像)

北中城村の若松公園にある「中城若松の像」です。この人物も子供の頃に赤犬子に出会っています。赤犬子が北中城村の安谷屋地区を旅している時に、大変喉が渇いたので近くを通りがかった子供に「大根をくれ」と言うと、持っていた大根の葉っぱも取り、皮も剥いで、食べやすいように切って赤犬子に渡したそうです。「この子供は将来きっと偉い人になるだろう」と言ったら、その子供は後の安谷屋グスクの城主「中城若松」になったのでした。




これは恩納村瀬良垣の美ら海です。赤犬子が国頭方面を旅している時に、恩納村瀬良垣に差し掛かりました。その時にお腹が空いていたので海辺で船普請をしている船大工に物乞いをしたところ「あなたのような者に、私達のものを分けてあげることはできない」と冷たく断わられてしまいました。それで赤犬子は瀬良垣の船を「瀬良垣水船」と名付けました。


(谷茶前節の歌碑)

恩納村の谷茶前の浜には沖縄本島の代表的な民謡と踊りである「谷茶前節」の歌碑があります。赤犬子は瀬良垣を追い払われた後に谷茶に向い、そこでも同じように物乞いをしたのです。すると、そこの船大工は「ひもじかったら食べなさい」と丁寧に赤犬子をもてなしてくれました。それで谷茶の船を「谷茶速船」と名付けたのです。その後、赤犬子が予言した通りに瀬良垣の船はいつも海に沈んでしまい、谷茶の船は爽快に水を切って走ったのでした。


(赤犬子宮の鳥居)

瀬良垣の人達は「あいつの悪い願いで船が沈むようになった。どこを捜しても見つけ出して、あいつを打ち殺さないといけない」と捜して楚辺村まで来ました。そこに赤犬子がいると聞いたので、棒や刀をあげて皆で赤犬子を殺そうとしました。現在の赤犬子宮がある場所に行くと赤犬子は、急に煙となって天に昇っていったそうです。瀬良垣の人達は棒や刀を持っていながら赤犬子を殺すことはできなかったので、赤犬子は神の子であり精霊だったという話が残っているのです。




赤犬子宮の西側には「ユーバンタ」と呼ばれる浜があります。ユータティバンタ(世立ちの崖)とも呼ばれ「楚辺発祥の地」とも言われています。戦前までユーバンタ南東側は風葬が行われる一帯だったようで、現在は「赤犬子之墓碑」が建てられています。石碑には「歌 三味線之始祖 赤犬子大主之墓碑」と記されています。また「ユーバンタ」は魚群を発見するイユミーバンタ、旅立つ者を見送るフナウクイ(船送り)の地であり「楚辺集落」の神聖な聖地となっています。


(艦砲ぬ喰えー残さー之碑)

「楚辺集落」で決して忘れてはいけない人物が「比嘉恒敏(ひがこうびん)」です。比嘉恒敏は「楚辺集落」に生れ、1939年に23歳で大阪に出稼ぎに行き、その後妻と次男を大阪に呼び寄せました。1944年に両親と長男を大阪に呼びましたが、乗船したのが学童疎開船の「対馬丸」で米軍潜水艦の魚雷攻撃で沈没して亡くなってしまいます。さらに、翌年3月の「大阪大空襲」で妻と次男が米軍の空襲で亡くなるという悲劇が重なりました。戦後、比嘉恒敏は読谷村に帰郷し再婚して再出発をしようとしましたが、故郷の集落は米軍の通信施設(トリイステーション)に接収され「楚辺集落」の住民と共に現在の楚辺地区に移らされたのでした。


(石柱とユーバンタ)

民謡をこよなく愛した比嘉恒敏は4人の愛娘たちに歌と踊りを教えました。舞台にも出て評判になり、1964年「でいご娘」を結成して本格的に活動を開始したのです。比嘉恒敏は民謡の作詞や作曲も手がけ、1971年頃に「艦砲ぬ喰ぇーぬくさー」を作りました。しかし1973年、比嘉恒敏(56歳)と妻シゲ(49歳)の乗った車に飲酒運転の米兵が突っ込み二人とも亡くなりました。事故の後「でいご娘」は活動を停止していましたが、亡き父の形見の歌を残そうと1975年にレコードを発売したのです。「艦砲ぬ喰ぇー残さー」は非常に強い反戦民謡であったため、当時の沖縄の人が決して口には出せない心の本音を代弁した歌として大流行したのです。


(艦砲ぬ喰えー残さーの歌碑)

「艦砲ぬ喰えー残さー」とは「艦砲射撃の喰い残し」という意味です。家族や親戚、友達や近所の方々が米軍の艦砲射撃により殺され、生き残った人は死ななかった自分に後ろめたさを感じながら貧困の中を必死に生き抜いたのです。比嘉恒敏はユーバンタの浜でよく釣りをしていたそうで「艦砲ぬ喰えー残さー」の歌詞やメロディはこの浜で生まれたといいます。現在「艦砲ぬ喰えー残さー之碑」はユーバンタの浜の南側に位置し、かつて海を覆い尽くした米軍艦隊からの艦砲射撃の嵐があった歴史を静かに我々に伝え続けているのです。米軍の艦砲射撃に"喰い残され"て生きた比嘉恒敏が、人生の最期に飲酒運転の米兵に"平らげられ"て殺された皮肉は悲劇以外の何ものでもありません。


(ユーバンタの浜)

沖縄では毎年3月4日は弦楽器「三線」にちなんで「さんしんの日」となっています。「赤犬子」に琉球古典音楽と舞を奉納する大切な日で主会場や県内外、海外各会場で琉球古典音楽の代表的名曲「かぎやで風」等が盛大に演奏されます。 赤犬子宮では「さんしんの日」に琉球古典音楽と舞が奉納されます。読谷村楚辺の「赤犬子宮」と「赤犬子」は集落の住民のみならず琉球民謡に関わる全ての人々の聖地として、これからも大切に守られながら伝統文化が後世に継承され続けて行くのです。






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最終更新日  2023.10.28 19:15:59
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