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2021.04.26
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カテゴリ: 北谷町



「砂辺集落」は沖縄本島中部北谷町の西海岸に位置し、集落の歴史は古く1713年に琉球王国の王府が編纂させた地誌「琉球国由来記」にも名前が記されており、美ら海を望む平和な暮らしがあった集落でした。海面を覆い尽くす米軍艦隊による艦砲射撃と共に上陸作戦が遂行された悲劇の日、1945年4月1日までは…


(第二次世界大戦米軍上陸地モニュメント)

「砂辺馬場公園」には「第二次世界大戦米軍上陸地モニュメント」があります。日本唯一の悲惨な地上戦は、一般住民をも巻き込み沖縄全体で20万余りの尊い命を奪い去りました。モニュメントには「沖縄戦の体験と実相から、戦争の不条理と残酷さを正しく次代に伝え、平和の理念として戦争に繋がる一切の行為を否定する…沖縄戦の風化をゆるさない歴史的礎として、米軍上陸碑をここに建造する」と記されています。


(砂辺馬場公園の砂辺之竜宮神)

「砂辺集落」西側の海辺には「砂辺馬場公園」があり、敷地内に「砂辺之竜宮神」の拝所があります。竜宮神は海の神様が祀られており竜宮神の石碑と石造りの香炉が設置されていました。沖縄戦で米軍に占領されていた砂辺集落は1954年(昭和29年)に沖縄に返還されました。集落に戻った住民は砂辺集落の復興に力を尽くしたのです。


(唐井之水神)

(唐井之水神の井戸内部)

砂辺馬場公園の北側に「唐井之水神」があります。「トーガー」と呼ばれるこの井戸は深さ3メートル程あり、水量は現在も豊富で石組は戦前から存在しています。米軍により井戸は埋め立てられていましたが、ある住民の眼病をきっかけにユタの助言で井戸が発見され整備されました。「トーガー」は戦前より水の神に祈るムラウガミ(村拝み)の対象であり、現在は旧暦1月2日の「カーウガミ(井戸拝み)」で拝まれています。




(砂辺ウブガー水神の石碑)

「ンブガー」または「ホーヤーガー」とも呼ばれ、階段を降りた鍾乳洞窟の先に水が沸いています。子供が産まれた時に井戸の水を音を立てないように汲み眉間に水を付けました。また、水を組む時に手を振るわせると子供が喘息になるとも言われたのです。正月の若水もこの井戸から汲み、芭蕉(バナナ)の葉で作ったニーブと呼ばれる器でゆっくりと水を飲んでいました。


(クマヤーガマの門)

(クマヤーガマへの階段)

砂辺集落の南部にある自然の形のままのガマ(洞窟)で「クヤマー」と呼ばれています。米軍による1945年10月10日の「十・十空襲」の後、クマヤーガマを防空壕として使う様に整備されて天井には6つの空気穴が設置されました。その後の空襲では300人余りの住民が非難し、1人も死傷者を出さなかったと言われています。


(クマヤーガマ納骨拝殿)

戦後に砂辺集落が米軍に摂取されガマの入口が埋められてしまいました。クマヤーガマ周辺は1956年に返還され更地になり、住宅地の開発が行われました。平成元年にガマの入口が発見されると発掘調査が行われたのです。ガマの入口からヒスイやかんざし等の装飾品が出土した他に、風葬が行われた場所であったため多数の古い頭蓋骨や人骨が発見されました。それらの人骨はクマヤーガマに隣接した納骨拝殿に納められています。


(砂辺之寺/ティラ)

(ティラのガマ)

「クマヤーガマ」の西側にあるガマで拝所として聖域として拝まれていました。ガマの内部は10名程が入れる狭さでしたが、戦時中に「クマヤーガマ」と細い地下通路で結ばれて防空壕として利用されました。旧暦8月15日に「ティラメー」という拝み行事があり、旧暦9月には住民が重箱に揚げ豆腐、芋の天ぷら、魚料理などを持ち寄り「ティラ」に拝みに行きました。


(天孫子按司之墓)




(踊神之墓の石碑)

(踊神之墓)

砂辺公民館に隣接する場所に「踊神之墓」がありウコール(香炉)が設置されています。戦後に砂辺公民館を建設する際に多くの人骨が発掘された為この地に祀られています。戦前にはこの地にアシビナー(遊び庭)があり、集落の住民はムラアシビ(村遊び)でエイサーを踊っていました。それに因んで踊神(ウドゥイガミ)を祀る墓が建てられたのです。


(獅子屋/シーシヤー)

「踊神之墓」から東側の道路を1本渡った場所に「獅子屋」と呼ばれる獅子舞を奉納する拝所があります。獅子舞の獅子を収める小屋で集落では神聖な場所とされています。旧暦7月17日のシーシヌウグヮン(獅子の御願)や旧暦8月15日の十五夜に集落の有志により獅子舞が披露され、普段は「獅子屋」に箱に収められ大切に安置されています。




(地頭火の神)

この地はもともと地頭と呼ばれる砂辺集落の集落長の屋敷があった場所で、廃藩置県で地頭が那覇に引き上げた後も残ったヒヌカン(火の神)を祀っています。この場ではかつて集落の公的な祭祀に使用された場所で、以前はヒライサーと呼ばれる石化したテーブル珊瑚で造られた祠でした。弱い造りだったため台風が来るたびに劣化してしまい、現在は砂辺集落により堅固な祠が建立されています。


(伊平屋ウトウシ神)

「伊平屋ウトウシ神」はイヒュウトゥーシとも呼ばれる拝所で、伊平屋の按司を遥拝するための拝所です。砂辺集落の最北端に位置し、「カンカー」と呼ばれる魔除けの儀式や「イヒャウトゥー拝み」と呼ばれる祈願行事を行なっていました。砂辺集落の北の入り口を見張る守り神としての役割があり、集落への「お通し(ウトウシ)」として拝する場でもありました。


(砂辺集落北部を仕切る嘉手納基地のフェンス)

(砂辺集落上空を飛来するMC-130J)

1945年の沖縄戦に米軍が上陸した砂辺集落は米軍嘉手納基地に隣接しておりフェンスで仕切られ、上空を特殊作戦機MC-130Jが爆音を立てて日常的に飛来します。かつて米軍が上陸したビーチには現在、米軍関係者を対象とした巨大マンションや宿泊施設が建てられ、砂辺集落には米軍関係者が数多く生活しています。砂辺集落は琉球王国から継承される遺跡文化財が数多く残ると共に、返還後も米軍関係者が普通に生活する"チャンプルー集落"となっています。沖縄では米軍基地問題は賛否両論多々ありますが、砂辺集落は沖縄の米軍基地の現状を分かりやすく示している集落となっているのです。






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最終更新日  2023.10.31 15:33:45
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