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2021.05.18
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カテゴリ: 宜野湾市



沖縄本島宜野湾市の北東部に「真志喜集落」があり、米軍普天間飛行場(普天間基地)と宜野湾市西海岸に挟まれた集落に「森川公園」があります。国道58号線の「真志喜(南)交差点」から北に約400m進んだ場所にある公園の北側に御嶽、拝所、井泉があり、南側に展望台、多目的広場、滑り台、ブランコ、砂場、ウォーキングコース、テニスコートなどがあり地域住民に愛されています。また「森川公園」は様々な都市伝説があるスポットとしても知られる聖地となっています。


(森川公園入り口)

(森の川)

「森川公園」の北側に「森の川」と呼ばれる井泉があります。この井泉は宜野湾市に伝わる「羽衣伝説」の発祥の地で神聖なパワースポットとして知られています。14世紀の中世琉球時代、浦添間切の謝名村(現在の宜野湾市真志喜)に「奥間大親(おくまうふや)」という人がいて、嫁の来手もない程の貧乏でした。ある日、畑仕事を終えて手足を洗おうと「森の川」に立ち寄ったところ、水浴びをしている一人の美女が見えました。物陰から様子をうかがっていると、木の枝に衣がかかっていました。


(森の川の井泉)

(森の川の通路)

奥間はすばやく衣を草むらに隠した後、女の前に姿を現しました。驚いた女は急いで衣を取ろうとしましたが、木の枝にかけていたはずの衣が有りません。女は「私は天女です。羽衣がなければ天に昇れません」と泣き崩れました。すると奥間は女の身の上話などを聞き「それはお困りだろう。私が衣を探してあげるから、それまで私の家で休まれるがよい」と言うと、女は感謝して奥間の家に世話になりました。奥間はその羽衣を家の倉の奥深く隠してしまいました。


(筒状の石垣構造)



それから10年の月日が流れ、二人の間には一男一女が生まれました。さらに何年か経ち、女の子が偶然に羽衣を見つけ弟と遊びながら「母の飛び衣は6つの柱の倉にあり、舞衣は8つの柱の倉にある」と歌ったのです。それを聞いた母親は大いに喜び、夫の留守中に羽衣を取り出して身につけ、たちまち天高く舞い上がりました。しかし、愛しい夫や二人の子どもの泣き声を聞くと、急には去りがたく空の上をぐるぐる飛び回り、ついに風に乗って大空の彼方に飛び去ったのです。


(西森御嶽の石垣)

(石垣の門と香炉)

「森の川」の東隣に「西森御嶽(ウガンヌカタ)」があり御嶽の森には石門が設置されています。尚清王(在位1527〜1555年)の第七子を初代とする向氏伊江家の人々が「森の川」の石積み工事を行いました。資金を寄せて石工を集め、石を切り敷き詰めて井泉を囲み門を造ったのです。さらに「西森の御嶽」の前にも長さ5尺4寸(約16.4m)の石垣を造り、門を開けて出入りできるようにしたのです。この御嶽は祈りの対象とされており、この門前で祈りを捧げる人が多数訪れます。


(石垣の門の内側)

(西森碑記)

石門の内側は「ウガンヌカタ」と呼ばれる聖地となっており「西森碑記」が建てられています。この石碑は高さ120センチ、幅30〜60センチ、厚さ10〜22センチのニービヌフニ(微粒砂岩)で作られています。1725年に建立され碑文が彫られています。碑文には「森の川で沐浴していた天女と奥間大親とか出会い一女一男が生まれた。男の子は察度と名付けられ後に中山王に就いた。私達の元祖尚宗賢伊江王子朝義の母は宜野湾間切謝名村の野国掟の娘で、名を城の大按司志良礼といい、尚清王の夫人である」と記されています。


(西森御嶽の丘陵)

(マヤーアブの入り口)

「西森御嶽」がある森川丘陵の中腹に「マヤーアブ」と呼ばれる自然洞穴(ガマ)があります。沖縄の言葉で「マヤー」は"猫"「アブ」は"縦穴"で「猫穴」を意味します。1945年の沖縄戦の際、真志喜集落の住民約300人は米軍の上陸直前に「マヤーアブ」に避難して尊い命を守る事が出来ました。このガマに避難した住民は戦場の恐怖と飢えに耐えながら、お互いに助け合い悲惨な戦禍を乗り越えて、今日の真志喜集落の礎と繁栄を築き上げて来たのです。「マヤーアブ」の入り口には香炉が祀られて人々が祈る聖地となっています。


(神酒森拝所)




(マヤーガマ)

「真志喜集落」の北側に「大山集落」が隣接しています。国道58号線から普天間基地のメインゲートに向かう途中に「大山マヤーガマ洞穴遺跡」があります。「マヤーガマ」とは"猫洞穴"という意味です。昔、この「マヤーガマ」に住む魔物(マジムン)が猫に化けて「大山集落」の子供達を行方知らずにさせたそうです。それを見かねた集落の力持ちが化け猫を懲らしめ、逃げ込んだ洞穴の中の甕を棕櫚(しゅろ)と呼ばれるヤシ科の樹木の皮で作った左巻きの縄で括り付けました。それ以来「マヤーガマ」の化け猫は、二度と集落に現れなくなりました。


(大山マヤーガマ洞穴遺跡)

「大山ヤマーガマ洞穴遺跡」は沖縄諸島の墓の造りと死者の葬り方の移り変わりを知る上で大切な遺跡です。遺跡は標高50m程の傾斜地に位置し、後背に平坦な琉球石灰岩の大地が控え、全面に西海岸の海が一望できる場所です。洞穴の入り口は北西側に向かって開き、その内部は高さ2.5m以上、幅12m、奥行き7.5m程の人が動きやすい広さとなっています。現在、3箇所の通路がありますが、もともとは1連なりの入り口でした。


(マヤーガマの左側と中央の入り口)



洞穴の中には新旧の人骨と死者に添えて葬られた副葬品などの遺物が、積み重なる土層の順に埋もれています。古く沖縄貝塚時代の前期(約3000年前)と中期(約2300年前)の時期には、人骨に伴って壺型の土器や貝輪などの副葬品があり「洞穴墓」として利用された事が分かります。後期(約1500年前)とグスク時代には、鍋型の土器や植物をすり潰す擦り石などの生活用具があり、当時の人々が洞穴で生活していた事がうかがえます。さらに、琉球王府時代(約200年前)には洗骨の儀礼を終えた遺骨を土器や陶器製の蔵骨器に納め直して、再び洞穴墓として利用したのでした。


(普天間基地のフェンス)

「西森御嶽」や「マヤーガマ洞穴遺跡」などの重要な文化財がある「真志喜/大山集落」は米軍普天間基地に隣接した地域にあり、基地のフェンス内には宜野湾市のみならず沖縄県にとって非常に大切な歴史が未だに奪われたままとなっています。フェンス越しにも興味深い地形や森が見えて、基地中には古い拝所や御嶽も存在します。本当の意味での終戦や基地返還とは一体何なのか?フェンスによって歴史が閉ざされる思いになってしまいますが、遺跡文化財は歴史の証人であり沖縄の人々が生きてきた証は確かに現存しています。






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最終更新日  2023.10.31 15:39:46
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