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2023.03.10
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カテゴリ: 恩納村



沖縄本島北部の「恩納村/おんなそん)」の西海岸線沿いに「前兼久/まえがねく集落」があり、この集落は沖縄の方言で「メーガニク」と呼ばれています。「前兼久集落」には昔から「アーマンチュ/天人」に纏わる伝承話があります。「アーマンチュ」とは「ニライカナイ」という海の彼方にある理想郷に住む神を意味し、沖縄には「アーマンチュ」に関する「巨人伝説」や「アーマンチュの足跡」更には「アーマンチュの洞窟」など多くの伝承が存在しています。「前兼久集落」の古老によると、太古の昔の世は北からの波は南へ、南から来る波は北へと越えてゆくばかりで、当時の沖縄には土地は少なく海ばかりが広がっていました。そんな時「アマミキヨ/アマミク/ 阿摩美久」と「シネリキヨ/シネリク/志禰礼姑」という「アーマンチュ」と呼ばれる男女の二神が「ニライカナイ」から「国頭村/くにがみそん」の「阿須森/あすもり」に降臨しました。


(仲泊海岸/仲泊トゥングヮ/前兼久トゥングヮ)

(前兼久トゥングヮ)

「阿須森」に降りた「アマミキヨ」と「シネリキヨ」が『人間をお与えください』と懇願すると女が2人、男が1人生まれました。彼らは海から貝を拾って洞穴の中で食べて暮らし始め、そこから沖縄の国が広がって行ったのです。更に、島々を造ろうと天秤棒で土を運んでいると途中で棒が折れてしまいました。その時に海に落ちた土が「前兼久」と「仲泊」の2つの海上の小島になり、それぞれ「前兼久トゥングヮ」と「仲泊トゥングヮ」と呼ばれるようになったと伝わっています。また「アーマンチュ」が天と地を分けた神話も沖縄にあります。『遥か昔、天と地は分かればかりで人間は狭い隙間を這いつくばっていました。そこに「アーマンチューメ」という巨人神が現れ、硬い岩場を見つけると両足を踏ん張り両手で天を支えて持ち上げて強く放ちました。すると天は遥か上空に昇り人間は歩いて暮らせるようになりました。』その時に出来たと言われる「アーマンチュ」の足跡が沖縄各地に伝わっています。


(前兼久漁港から見た前兼久トゥングヮ)

名護市羽地には次のような話が伝わっています。『昔、とても天が近く人間は困っていた。アマミキヨという人が真喜屋の大川と羽地の大川のトゥシという所に足を踏ん張って天を押し上げたそうだ。昔はその時の足跡が残っていた。』また、うるま市安慶名には『昔、天と地はくっ付いていて離れていなかった。そのため人々は這って歩いていた。アーマンチュが何処からか降りてきて那覇のユーチヌサキ(雪の崎)に立って天を持ち上げた。』という伝承が残されています。更に、南城市佐敷津波古には『130歳である福人の前にアーマンチュが現れ、長寿の大主の位と五穀の種を授けた。』と伝わり、渡名喜島には次のような伝説があります。『タカタンシーと呼ばれる場所には昔、アーマンチュの足跡だという大きな石の窪みがあった。大昔アーマンチュは粟国島と渡名喜島をひとまたぎで渡ったそうだ。次に久米島にひとまたぎで渡ろうとしたが、海に落ちて死んだそうだ。』


(仲泊トゥングヮ/ヒートゥー島)

「前兼久トゥングヮ」の南側約300mで恩納村立仲泊小学校の北西側約400mの位置に「仲泊トゥングヮ」の岩島があります。この島は地元の住民に「ヒートゥー島」と呼ばれており「ヒートゥー」とは「イルカ」を意味します。かつて沖縄本島北部の名護湾でサバニ(沖縄で古くから利用された漁船)に乗った漁師が湾内に入り込んだイルカを手投げ銛で仕留めた「ヒートゥー漁」が3月から5月にかけて行われていましたが「仲泊トゥングヮー」の周辺で「ヒートゥー漁」が行われていた詳細は確認されていません。しかし「仲泊海岸」は現在でもウミガメの産卵が確認されるほど美しい海なので、昔はこの「仲泊トゥングヮ」からイルカの群れが見られた事から「ヒートゥー島」と言われるようになったと推測されます。因みに沖縄本島北部ではイルカを食する習慣があります。スーパー等でもイルカ肉が販売されており、刺身や炒め料理で食されています。


(仲泊トゥングヮの廃墟)



1975年(昭和50年)に本部町で開催された「海洋国際博覧会/Expo'75)の際に沖縄振興の流れで「仲泊トゥングヮ」にも開発計画が持ち上がりました。「仲泊集落」の北側にある「シーサイドドライブイン」が沖縄の本土復帰に伴い、内地からの観光客を見込んで「仲泊トゥングヮ」にイルカ料理専門の海上レストランとミニ水族館の建設に取り掛かりました。しかし「仲泊トゥングヮ」の小島に掛ける橋の建設許可が下りず、建設半ばで計画は頓挫してしまいました。さらに、この島には下水処理のインフラが無く、海を汚染させる恐れがあった事から地元のウミンチュ(漁師)から猛反対を受けていたと伝わります。現在も「仲泊トゥングヮ」には当時からの廃墟が残されたままとなっており、島の西側には岩塊とを結ぶ湾曲したコンクリート製の橋が掛かっています。


(シーサイドドライブインから見た仲泊トゥングヮ)

(イユミーバンタのアーマンチュの足跡)

「仲泊集落」の南側にある「ルネッサンスリゾートオキナワ/旧ラマダ」の東側に「イユミーバンタ」と呼ばれる海の魚の群れを見る崖があります。この崖上には芝生の広場となっており、昔から「アーマンチュ」の足跡であると言われています。また恩納村「万座毛」や読谷村「残波岬」も「アーマンチュ」が足を置いた場所だった言い伝えがあります。更に沖縄市には次のような神話があります。『東南植物楽園の南側で「バシクブー」と呼ばれる場所にある「福地グシク」の丘陵は「アーマンチュ」が枕にしていた。』『東南植物楽園の敷地内にある「ナーカジ」と呼ばれる平場には「アーマンチュ」のかかとの跡が2つ残されている。』『東南植物楽園前の交差点で「ナーカジアジマー」と呼ばれ場所に「ジャンジャラーシー」と言う洞穴には「アーマンチュ」が踏んで歩いた足跡が残っている。』


(仲泊のイユミーバンタ)

(イユミーバンタからの絶景)

石垣島から与那国に広がる八重山列島にも「アーマンチュ」の伝説があり、石垣島の「白保」には次のような伝承が残されています。『その昔、天の神がアーマンチュに天から降りて下界に島を創るように命じました。アマン神は土を槍矛でかき混ぜて島を形成し、アダン(阿檀)林の中で最初の生物であるヤドカリを創りました。その後、ヤドカリの穴から2人の男女が生まれた。』八重山の開闢神話の特色としてヤドカリが登場します。南西諸島ではヤドカリは「アマン」と呼ばれ、語源は「アーマンチュ」から来ていると考えられます。因みに 「アマン」はサンスクリット語、ヒンディー語、パンジャブ語、アラビア語、ウルドゥー語、ペルシア語で「平和、安全、無事、宿、保護」を意味する言葉である事も非常に興味深い点となっています。






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最終更新日  2023.03.10 17:26:02
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