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さらに旧沼津御用邸の西附属邸の見学を続ける。「洗面台」が二つ並んでいた。 「御料浴室」。 「御料浴室浴槽のない 掛かり湯式の浴室でお湯は外から運び込みました」。 中庭を見る。そして「女官室」。 「女官室」の様様な展示品を。 当時の電話機。明治末から大正時代にかけて使用された磁石式電話機(マグネトー式電話機)の特徴を備えています。特徴は次のとおりです。・上部の送話器(話す部分)・側面に吊り下げられた受話器(聞く部分)・正面の丸い二つの金具は呼び出しベル・側面(または右側)には通常、交換手を呼び出すための手回し発電機(ハンドル)が 付いていました(写真では見えません)。御用邸ではどのように使われたのか沼津御用邸は明治26年(1893)に開設されました。当時は電話網がまだ発展途上であり、電話は自動的につながるものではなく、・ハンドルを回して電流を発生させる。・電話交換手が応答する。・相手につないでもらう。という仕組みでした。御用邸では、宮内省や東京、沼津市内の関係機関との連絡に重要な役割を果たしたと考えられます。女官室に展示されている理由この電話機が女官室に展示されているのは、女官が皇后や皇族の日常生活を支え、各部屋や事務部門との連絡役も担っていたことを示すためと思われます。電話は当時としては最新の通信機器であり、御用邸の日常業務には欠かせない設備でした。明治・大正期の電話機は現在の電話とは異なり、木製の重厚な箱と真鍮製のベルを備えた優雅なデザインで、実用品であると同時に時代を感じさせる貴重な歴史資料でもあります。「寄稿 国民的な文化遺産として活用」 別府大学教授 工藤圭章 元文化庁鑑査官、同建造物課長。 元沼津高専校長。 昭和51年から桂離宮の修復指導に当たる。 わが国の建築史の権威者。 旧沼津御用邸の修復にも基本構想段階から参画、指導に当たる。「寄稿国民的な文化遺産として活用はじめに明治百年が喧伝(けんでん)された昭和四十三年ころ、明治生まれの年配の方々が、「明治は遠くなりにけり」と嘆かれていたことを思い出す。日本の近代化が著しく進み、古き良き明治の面影が少なくなったことが、明治が遠くなったと感じさせたのであろう。ところで、あれからもう四半世紀も過ぎ、今はますます明治が遠くなってしまったと思わざるをえない。沼津に御用邸が定められたのは明治二十六年のことである。そして、奇しくも明治百年が過ぎた昭和四十四年に廃止されている。その後、代わりに須崎に御用邸が建てられたので、現在は御用邸は葉山、那須、須崎の三か所にある。もともと御用邸は皇子皇女の静養、保養のための施設として造られ、明治二十年代には、塩原、熱海、伊香保、沼津、日光、葉山、箱根宮ノ下など、環境のよい名勝地や温泉地を選んで建設されている。旧沼津御用邸では、遺憾なことであるが、明治二十六年当初の本邸が昭和二十年七月の戦災で失われている。しかし、東宮大夫官舎を赤坂離宮から移築した東付属邸や、隣地の伯爵川村純義海軍大将の別荘を転用拡充し、宮城の賢所仮便殿を移築増築した西附属邸がまだ現存し、厩舎、倉庫などの附属建物もなお共に残り、今も当時の面影が偲ばれる旧御用邸の数少ない遺構として大変重要である。明治の元勲や貴顕紳士の本邸、別邸の残るものの少なくなった今日、旧沼津御用邸は建物自体は決して華美なものではないが、まとまってこの環境のよい土地に残されていることに、数少ない明治の大規模木造住宅群として極めて高く評価され、この保存には大きな期待と意義が認められている。それらについてこれから述べてみよう。大規模住宅群の遺構現在、木造住宅群の大規模な遺構として知られているものには、国宝の二条城二の丸御殿をはじめ、有数の社寺の書院群がある。しかし、それらは公式的な接客空間、もしくは多数の人びとを謁見するための大広間や対面所を備えた格式ある書院造りの建物で、いわゆる住宅としての建物とは異なっている。例えば、重要文化財指定の、本県に所在する安政二年(一八五五)建築の掛川城御殿も、住宅というより役宅としての性格が強く、あまり生活の匂いを感じさせない。これに対して、桂離宮の書院群は二条城二の丸御殿とは違って、住宅風のたたずまいを強く感じさせる。桂離宮は十七世紀初めの元和・寛永時の建築で、二の丸御殿と似た時期のものであるが、前者は桂宮家の別荘、後者は将軍家の上洛時の御殿という差が、自然に建物の上に表れている。また、このころの大名の別荘というと、横浜の本牧にある三溪園の臨春閣がその代表に挙げられる。臨春閣の書院群はもともとは紀州徳川家の別荘だったが、現在地に大正四年に移築されている。この建物も住宅風で、建築群の配置が雁行していて桂離宮によく似ている。さて、十七世紀のものがこのように保存されているのに比べて、十八世紀十九世紀のものが少なく、日本の大規模な木造建築群の流れを知るためには残念なことである。大名屋敷などの高級武士の住宅がほとんど存続していないのが、このような現状を招いたのである。幸いにして、十九世紀中頃の弘化・嘉永時の建築である桂宮家の御殿が今も保存されているので、どうにかこの流れを辿ることができる。この御殿はもと京都御所の東北にあったが、明治二十七年に二条城の本丸に移築されて漸く今に伝え」 「られたのである。明治の大規模木造住宅では、三菱創始者の岩崎家の住宅の一部や北九州の松本家住宅、旧大名の立花家などが保存されている。明治の文明開化が上流階級の住宅に及ぼした影響で、これらの住宅は本館が洋館、居住棟が和風として造られ、共通している点に興味が引かれる。この風潮はやがて一般住宅に流行し、応接間が洋風、居間が和風に建てられるようになる。このような見方からすると、沼津御用邸の住宅史的意義はなおざりにできない。沼津御用邸のあり方沼津御用邸のほかにも、明治三十二年に建設された田母沢御用邸が今も日光に残されている。しかし、この建物は今までいろいろと転用されてきたので、主要部は旧規を残しているが、概して他の部分はかなり改造されている嫌いがある。建物は利用することが耐用年数を延ばすために有効であるが、かつてのたたずまいを知ることができるように、本来の形を残して保存活用することが、維持のためにも、後々の研究のためにも望ましい。ところで、旧沼津御用邸には当時の家具がよく保存されている。このようなしつらえがなければ、せっかく保存された建物も殺伐とした空間としか、評価されない憾みが残りかねない。什器備品が残されていれば、かつての建物の使われ方が想像できて、いろいろの面での活用と保存管理が考えられるのである。御用邸では、和室の畳敷の上に絨毯が敷かれている。これは皇室関係の建物によくみられる慣習で、おそらく昔の上流家屋で部屋に毛氈(もうせん)を敷いた名残であろう。御用邸の各部屋はそれぞれ当時の使われ方が室名とともに知られていて有難い。浴室は江戸時代以来の掛かり湯の浴室で、桂離宮の浴室と同じような浴槽のない形式のものである。このような浴室が今も残っているのは珍しい。玉突所は大正十一年に増築されているが、コテージ風の外観を示していて面白い。とくに撞球台の基礎が土管を外枠としたコンクリート造で、特異な施工法で注目される。各建物の窓台も雨仕舞のために、敷居樋端をくり抜くなどの配慮が及ぼされていて、当時の建築技法が細部まで窺われていて楽しい。天窓が設けられた調理室は、明治時代の上流階級のトップライトのある台所と軌を一にする。また、各部屋の照明設備も明治の器具がよく遺存されている。これらは明治が遠いというより、むしろこれが明治だと訪れる人に感じさせることだろう。その意味では「温故知新」の教材としての活用もある。ともあれ、復旧された旧沼津御用邸は旧規をそのまま残す明治の大規模木造建築群として、後世に伝えるべき優れた国民的資産であるといえよう。建物としても今は失われた技法を随所に留めていて参考になる。「旧沼津御用邸本邸復元想像図」 近づいて。本邸の面影を再現に近づいて。ここでは、今は見ることができない本邸の姿を、復元想像図と当時の建物写真で再現した。「御車寄と玄関部分」。 「御玉突所明治35年にこの場所に移築された。」 「御内庭の一部右側には洋館のベランダが見える。左手の塀の向こうには石垣越しに海が望める」 近づいて。「新御殿(御座所、御寝室)」。 「旧御殿(皇后宮御座所、御寝室)」。 「明治時代の離宮と御用邸」。 「明治時代の離宮と御用邸離宮とは、一般的に皇后や王宮以外の地に設けられた宮殿を指し、御用邸は皇室が避暑、避寒などのために用いる別邸を意味する。日本では、離宮は明治以前から存在したが、御用邸は全て明治になってから設置されている。現在の離宮は、京都の桂離宮、修学院離宮の二つであるが、これらは主として庭園鑑賞の目的で一般に公開されている。また現在の御用邸は、葉山御用邸、那須御用邸、須崎御用邸の三つである。戦前には各地に数多くの離宮や御用邸があったが、これらは戦後ほとんどが地方自治体などに移管された。ここで明治時代以降、地方に設置され、現在は廃止されている主な旧離宮・旧御用邸の規模と現況とを設置年代順に整理した。(次ページ表1)主な旧離宮・御用邸これらの旧離宮・御用邸は、それぞれの利用目的により立地条件が異なっているが、大半は保養地としてふさわしい場所に立地していたと考えられる。函根(箱根)離宮は芦ノ湖に突き出た半島(写真1)がその用地となっており、武庫離宮は須磨海岸に面した高台(写真5)がまた、それ以外の御用邸用地も海岸や山間地の景観や温泉などに恵まれた、優れた立地環境の場所が選ばれてこれらの施設は、いずれも設置後百年近い歳月を経ており、また震災や戦災の被害を受けているものも多く、当時の建物が一般に公開できる形で保存されているのは、沼津と日光田母沢、塩原の三つの旧御用邸だけとなっている。このほか、函根と武庫の旧離宮は、それぞれ都市公園として整備されている。建物が保存され、都市公園として整備されているのは、沼津御用邸記念公園だけということになる。」 「主な旧離宮・御用邸の規模と現況(明治以降に建築・設置され、その後廃止されたもの)」「旧沼津御用邸本邸復元想像模型」 横から。移動して。「本邸の規模と室名本邸のあった位置は現在の用地のほぼ中央で、現在市の歴史民俗資料館がある場所を中心とした周辺に広がっていた。本邸の建築面積は、約4,000平方メートルで、資料館の約8倍の規模であった。」本邸の室名本邸は明治二十六年の新築以来、数回の増改築を行った結果、最終的には百倍以上の部屋を備えることになった。その間、部屋の使われ方も一部変更され、御玉突所のように移築されることもあった。表1に掲げる室名は、大正十一年ごろの資料に基づくものであり、謁見所など、天皇、皇后両陛下が用いる室名が見受けられる。また、図2には建築年次の区分を判明している範囲で示した。本邸の室名をズームして。「国家「君が代」👈️リンク一番「君が代わ 千代に八千代に さざれ石の巌となりて 苔のむすまで」うごきなく 常磐かきはにかぎりもあらじ二番君が代わ 千尋の底の さざれ石の鵜のゐる磯と あらはるるまでかぎりなき 御代の栄をほぎたてまつる「君が代」が二番いや三番まであることを、このブログを書きながら初めて知ったのであった。学校でも二番、三番を教わった記憶が全く無いのである。■題名は展示品では 「国家『君が代』」 と印刷されています(「国歌」ではなく「国家」と表記)。 これは「国歌」の誤植(誤記)である可能性が極めて高いと思われます。 御用邸内の展示品に おいて、この誤植(誤記)は関係者は誰も気がついていないのであろうか??1985年(昭和60年)2月26日の閣議で松永光文部大臣は文部省の調査で「君が代」には3番まで歌詞があると報告しているのだと。日本の国歌である『君が代』👈️リンクは、「あなたの命(あるいは平和な時代)が、小石が大きな岩になり、そこに長い年月をかけて苔が生えるほどの、永遠に長きにわたって続きますように」という、大切な人の永遠の繁栄と平和を願うお祝いの歌。具体的な歌詞の意味を分かりやすく分割すると、次のようになります:・君が代は 「君」はあなたや大切な人、「代」は命や時代を指します(平安時代の元の歌では 「我が君(天皇)」を・千代に八千代に 千年も八千年も、さらにそれ以上の果てしない未来まで(永遠に)。・さざれ石の巌となりて 細かい小石(さざれ石)が年月を経て固まり、巨大な岩(いわお)になるように。・苔のむすまで その大きな岩に、長い時間をかけて苔が生えるようになるまで。背景この歌詞の元となった歌は、平安時代の『古今和歌集』に収められている「我が君は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで」というお祝いの歌(詠み人知らず)です。小さな石が集まって大きな岩になる現象を「永遠の象徴」とし、相手の長寿や平和を祈る縁起の良い歌として親しまれてきました。「さざれ石(天然記念物)この石は、学名「石灰質角礫岩」と言い、石灰石が長い年月の間に雨水で溶解し、その粘着力の強い乳状液(鍾乳石と同質)が、次第に小石を凝結、だんだん巨巌となり河川の浸蝕により地表に露出、苔むしたものである。この石にまつわる郷土の伝承として平安朝時代、文徳天皇(在位八五〇年〜八五八年)の皇子惟喬親王(木地師の祖神)に仕えた歌人の藤原朝臣石位左衛門が、江州の君ヶ畑へ通う途中、自然に凝結、苔むして巨巌になっている珍しい石の状態を見て、ありのまま、「わが君は、千代に八千代に、さざれ石の巌となりて苔のむすまで」と詠んだのだが、この石であり千代に栄えることを祈った、めでたい石であるという。献上昭和二十七年 十一月二十六日・皇居・明治神宮 約三屯 各一個 ・文部省・池田隼人元首相・吉田茂元首相 各 約一屯昭和三十八年 四月九日 ・伊勢神宮内宮・外宮 各約三屯 各一個・供膳所床飾用 一個昭和五十二年 十月二十七日・天皇皇后両陛下・皇太子皇太子妃両陛下 各二個昭和五十九年 四月五日・中曽根康弘首相 一個」 「さざれ石(天然記念物)」。 近づいて。「御用邸造営前の沼津町と楊原村 図1は、明治二十四年五月に発行されたもので、沼津町略図としながらも、狩野川左岸の楊原村を含んだ図になっている。これは、沼津町と楊原村が地理的に一体であったことと、楊原村の動向に注目すべきことがあったためと考えられる。二年後には、楊原村に御用邸が建設されるが、その前兆としての開発が楊原村に始まりつつあった。図1の右下には、大山巌(陸軍大臣)、川村純義(文部大臣)、西郷従道(陸・海軍大臣)の四人の伯爵の別荘が設けられていることが分かる。このうち、大木を除く三人は、いずれも旧鹿児島藩出身で、お互いに親交があったことから、別荘の設置についても、何らかの相談があったことが想像される。こうした別荘は、後に沼津町の千本浜付近にも数多く設けられるようになるが、この地図の時代にはまだそのような様子はうかがえない。東海道線が開通してまだ二年目の段階で、早くも御用邸の設置される島郷地区の周辺が保養地として注目されており、別荘や海水浴場などの開発が進んでいた状況が、この図からも読み取ることができる。当時の沼津の市街東海道の敷設に際しては、予め狩野川河口の蛇松から沼津駅まで支線が引かれ、ここからこの地域一帯の線路敷設の資材が搬入された。蛇松から船橋までの間の右岸一帯は、後に沼津港が建設されるまでの間は河岸港として大いに賑わっていた。沼津駅の南側には、明治の初期に廃城となった沼津城の堀の跡が見られるが、この中で測候所がある付近には、明治の当初、沼津兵学校が置かれていた。図1のころには、沼津の市街も江戸時代の面影を残しており、道路の形態も城下町、宿場町の当時(図2)のままで、沼津城を取り巻くように配置されていた寺院も、都市計画による移転以前の元の場所に見ることができる。」 再び「女官室」の展示品を振り返って。皇室の方々の在りし日に写真が展示されていた。「沼津御用邸(西附属邸)にお別れの行幸啓1970年(昭和45年3月一5日)」 「沼津御用邸(東附属邸)にお別れの行幸啓1970年(昭和45年3月15日)」 「常陸宮正仁殿下 華子妃殿下沼津御用邸記念公園御成り(平成8年7月2 5日)」 「沼津御用邸記念公園行啓写真 平成12年2月9日」 皇太子時代の徳仁親王(なるひとしんのう)と皇太子妃殿下・雅子様。さらに展示品を追う。「Ⅰ 沼津御用邸とその時代沼津御用邸の設置沼津御用邸は今から百年前の明治二十六年七月に造営され、そのころ建設が始まった各地の御用邸の中でも、最も早い時期に開設されることになった。このことは、大正天皇(当時は皇太子)のご静養のために設置が決定されたもので、前年の明治二十五年末から新築工事の準備が開始された。ここでは、当時の時代的な背景などを振り返ってみたい。優れた風土と景観御用邸の設置に当たっては、保養地としての立地条件が重視され、特に温暖な気候や風光明媚な環境が求められた。沼津御用邸の設置に先立ち、宮内省では前年東京と沼津との冬の気温の比較調査を行っている(表1)。この調査は明治二十四年の十月から二十五年の二月までの気温を比較対照したもので、これによれば六月の平均気温は沼津の方が東京より華氏二度前後高いという結果が出ていた。避寒のためには、冬季の気温は特に重要な要素だった。景観の面では、大正天皇の皇太子時代に長く御用勤務の侍医を務めたエルウィン・ベルツ博士が、当時の沼津御用邸とその周辺地域の印象を詳しく日記に書き残している。博士は、明治九年(一八七六)に日本政府の招きでドイツから来日し、我が国の近代医学の基礎作りに貢献するとともに、皇室の健康管理にも携わった人物である。ここで、岩波文庫『ベルツの日記』から沼津の気候や景観についての記述を引用してみたい。」 ベルツ『日記』より○ 明治三十七年二月十二日「沼津に近い静浦は、日本の最も美しい入り海の一つだ。冬は気候が温和で、訪れる人が多い。東宮のいわゆる御用邸もここにある。(略)」○ 明治三十八年二月三日「沼津は、気候の境界線である箱根の山を越して、最初の大きい町である。ここで急に、気候はずっと暖かになる。場所には富士の南のふもとにあって、その周囲に富士、この巨峯富士とその全面にそびえる愛鷹山、長く延びた箱根連山、雄大な甲州の山脈、伊豆の山々、いくたの魅するような入江のある海など、無数の絶景が控えている。これらの入り江の中でも一番美しい入り江に面して、厳めしい老松の林のそばに東宮の別邸がある。(略)」エルヴィン・ベルツ(1849-1913)明治9年(1876)来日。東京医学校(後の東京大学医学部)教師。荒井はな(花)と結婚。明治38年帰国。川村伯爵の努力沼津御用邸の造営に対して、最も深い関わりを持った人物の一人は、川村純義伯爵である。伯爵は旧鹿児島藩出身の海軍軍人で、明治十一年には勝海舟(安房)、安芳らの後任として海軍卿(後の海軍大臣)を務め、日本海軍の基礎づくりに貢献した。伯爵は、第一線を退いた明治二十年過ぎに、かねてからの希望どおり、沼津に近い島郷に別荘を設けることとなった。伯爵は、後に明治天皇から迪宮裕仁親王(昭和天皇)と淳宮雍仁親王(秩父宮)のご養育を命ぜられるなど、皇室の信任が厚く、沼津御用邸の設置についても、その数年前から気温調査を提唱し、景観面での利点を主張していた。また、その後も皇孫御養育の場所として御用邸の設置を訴えるなど、関係方面への強い働き掛けをしていたことがうかがえる。このことは地元の大中寺の記録『大中寺と沼津御用邸』や、伯爵の外孫に当たる作家・白洲正子さんの自伝『白洲正子自伝』、芸術新潮一九九一年三月号・連載第二回「ふたりの祖父」でも明らかである。伯爵は、裕仁親王のご誕生から三年後に亡くなったため、ご養育の期間はそれほど長くはなかったが、皇孫殿下をお預かりするためには家族の協力が不可欠であり、家庭が円満なことで知られる川村家ならではのことだったと思われる。ご養育の場所は、東京では麻布の川村伯爵邸、沼津では御用邸本邸の西隣の別荘を用いており、『ベルツの日記』でも沼津で伯爵の夫人や令嬢が、献身的にご養育に当たっている様子が述べられている。伯爵は、生前から皇孫殿下御用邸の設置の必要性を訴えていたが、亡くなって一年後の明治三十八年八月には川村家の別荘が買い上げられ、西附属邸として皇孫殿下の御用邸に充てられることとなった。東海道線の開通沼津の海に聞こえたる里は牛伏(臥)我入道春は花咲く桃のころ夏は涼しき海のそば明治三十三年につくられた鉄道唱歌の中で、沼津はこう歌われている。東海道線は、明治二十二年に東京・神戸間が開通しているが、当時は丹那トンネルがなく、現在の御殿場線が本線となっていた。「Ⅱ 沼津御用邸の沿革沼津御用邸本邸は最初の造営の後、数回の増改築を経て、同時期の御用邸の中では最大級の規模となり、昭和二十年七月の沼津大空襲で焼失するまで、半世紀以上に渡りその役割を果たしてきた。東西の付属邸は明治三十六年から三十九年になかけて、公孫殿下のための御用邸として造営され、戦後も焼失した本邸に代わって多くの皇族の方々のご利用に供されてきた。ここでは、本邸と東西附属邸の造営当時の模様をたどってみたい。本邸の造営本邸は、明治二十五年末から翌二十六年にかけて最初の新築工事が行われ、同年七月には早くも竣工した。この段階では、建物面積も全体の三分の一程度で、御座所を中心とした旧御殿といわれる部分だけであった。しかし、御用邸としての機能は備えてりおり竣工してから間もない二十六年七月二十二日には大正天皇(当時は皇太子)の初めての行啓をお迎えすることとなった。明治二十八年から二十九年にかけて、最初の増築工事が行われ、新しい御座所や御玉突所が設けられるとともに、侍医の詰所や女官室など、臣下の詰所が整った。この段階では、建築面積の全体の三分の二程度となり、御用邸としての機能の充実が図られた。また、牛舎や厩舎などの附属建物も次第に整備され、馬場も新設された。明治三十三年には更に増築工事が行われ、御車寄などが増築されるとともに、表御座所のある洋館が新築された。この段階では、建築面積も全体面積の約四千平方メートルに近い規模となりほぼ完成された形となったと思われる。建築史に残る沼津御用邸本邸洋館本邸の洋館は、当時の御用邸としては初めての洋風建築物であり、小規模ながら明治後期における宮殿建築の一つの事例として、建築史に残る建物であった。この洋館には五つの部屋があり、そのうち海岸に面した三つが主な部屋であった。北側の部屋は東御座所であり、謁見所、御学問所として用いられた。また、南側の部屋にはベランダが付設され、御遊戯室兼食堂として用いられた。この三つの部屋には暖炉も設置され、家具や内装の造作にもふさわしい高級感があるものとなっている。洋館の工事は、宮内省の建築技術者の中から、片山東熊と河面徳三郎の二人が担当したといわれる。片山は赤坂離宮を始めとする当時の代表的な西洋建築物の設計などで知られる高名な建築家であり、河面は内匠寮で活躍した技術者であった。「西附属邸御殿の修復西附属邸御殿の修復に当たっては、建物の保存を第一に、極力、御用邸として使われていた当時の形態と仕上げを忠実に再現することに心掛けました。このように”原型に忠実に”を基本方針として修復を行うこととなり、そのために必要な時代考証と建築材料等の選択には、当時の資料をもとに・・・・・・・・・・・・・。そして、沼津御用邸造営百周年に当たる平成5年度から3か年計画で修復工事が進められ、平成8年2月には御殿の修復に関する全ての工事が終了して、全館が公開されるとなりました。修復工事の概要は次のとおりです。洗い工事建物には主に杉や檜、松材が用いられていますが、こうした木の部分は長い歳月の経過とともに、雨漏りやシミによる汚れがひどかったため、特殊な薬品を使った「洗い工事」を実施しました。この洗い工事は、いわゆるアク洗いに相当するもので、建物内部の全体及び外側の主な部分について、柱や長押、天井など隅々まで、ていねいに行われ、木材の色合いに古さを残しながら時代を感じさせるたたずまいを保存することができました。外壁の杉板などは、いたみが激しい部分について、必要に応じて取り替えを行いました。屋根工事屋根は入母屋を中心とした寄棟造りの極めて複雑な構造で、瓦はもともとは「本磨きいぶし六四版面取桟瓦」という特殊なものが使われていました。この瓦は、一坪当たり64枚敷くことができるために「六四版」といわれていたもので、普通の瓦に比べてやや小さめになっています。また、鬼瓦や巴蓋瓦など、特殊な部分には菊の御紋章が施されたものもあります。これらの瓦は、今回の修復に当たり全て手造りで再現されたもので、固くて水はけがよいという特徴があり、雨上がりの後も水分が残りにくくなります。このため、木が腐りにくくなり、木造建築物である御殿の耐久性が増すことになります。建具とガラス障子や襖などの建具類には全て修理の手が加えられ、破損したり、あきらかに昔とデザインが変わってしまっていたものについては、資料をもとに当時の形に復元されています。建物に使用されている透明なガラスは、明治時代のガラスを復元したもので、表面に微妙な凹凸があって、昔に戻ったような不思議な味わいがあります。このようなガラスは、現在、国内では手に入りにくいため、ドイツ製の手造りガラスを用いています。間似合紙(まにあいし)御殿の主な部屋には、兵庫県西宮市郊外の名塩地区で伝統的な手すきにより作られた「間似合紙」と呼ばれる和紙が使用されています。この紙は雁皮(がんぴ)という特殊な植物繊維に石の粉を混ぜて作られますが、石の粉を混入することによって紙の伸縮を防ぐとともに、防火や防湿、防虫などの効果があったということです。間似合紙の名前の由来は、襖の幅である半間(約90cm)に継ぎ目なしに貼ることができるために、「間に合う」ことからきたといわれています。灯具、電球御殿内部の灯具は、展示用の照明を除いて全て昔からのものが、そのままの状態で用いられています。御食堂や謁見所など、公式に用いる主な部屋には真鍮製のシャンデリアが、日常生活に用いる御座所にはモール付きの電灯が用いられるなど、灯具のデザインにも明治宮廷の様式美をうかがうことができます。また、電球はタングステン製のフィラメントを用いた復元品で、電力は当時と同じ60ワットとしました。鐶金具(かざりかなぐ)柱と長押(なげし)の接合部分には「釘隠し」と呼ばれる鐶金具が随所に見られます。これは、本来は釘を打ったところを覆い隠すために考案されたと思われますが、後には建物の装飾のために用いられるようになりました。今回の修復工事に際しては、欠落していた分を昔と同じ方法で製作しました。」 鐶金具(かざりかなぐ)の作業風景ガラスケース内には、御用邸の修復工事で製作・復元された釘隠し金具が展示されていまた。釘隠しは、柱と長押(なげし)の接合部で釘頭を隠すための金具ですが、明治時代には実用品であると同時に、建物の格式を高める装飾としても重要な役割を果たしていました。左上の写真は、熟練した職人が伝統技法で釘隠しを製作している作業風景です。今回の修復では、欠落していた金具を当時と同じ工法で一つひとつ手作業により復元したことが紹介されていた。展示されている釘隠しには、さまざまな意匠が見られる。写真中央から右上には、・雁文釘隠し金具・ホトトギス文釘隠し金具・おしどり文釘隠し金具・千鳥文釘隠し金具など、鳥をモチーフにした優雅なデザインが並び、下段には梅や紅葉、花形など植物を意匠化した釘隠しも展示されている。これらは単なる装飾ではなく、明治宮廷建築の気品や美意識を今に伝える工芸品でもある。細部にまで意匠を凝らした金具からは、御用邸が皇室の御静養の場として建てられた格式の高さと、日本の伝統建築を支えた職人たちの優れた技術をうかがうことができるのであった。ズームして。「長押釘隠し六葉金具ができるまで」 。御用邸の長押(なげし)に取り付けられる六葉(ろくよう)形の釘隠し金具が、どのような工程を経て完成するかを紹介したもの。ガラスケースには、六葉形の釘隠し金具の製作工程が順を追って展示されていた。上段には、金工や釘隠しのデザインに関する資料や書籍が置かれ、伝統的な意匠や製作技法が紹介されていた。中央には、銅板を加工する途中の部材や、丸い飾り鋲、釘などが並び、職人が一つひとつ手作業で成形していく様子が分かりるのであった。下段には、平らな銅板から六葉形へと少しずつ形が整えられ、縁が立ち上がり、最後に立体的な釘隠し金具へと仕上がっていく各工程が順番に展示されていた。右端には、裏側に釘を固定するための穴が設けられた状態も見られ、最後に木型などを用いて成形されることが分かるのであった。この展示からは、長押釘隠しが単なる金具ではなく、銅板の切り出し、打ち出し、成形、仕上げまで、多くの工程を経て熟練した職人の手によって丹念に作られる伝統工芸品であることが理解できるのであった。沼津御用邸の修復では、このような技法を受け継ぎながら、明治時代当時の姿を忠実に再現することが目指されたのであろう。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.08.08
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「御用邸の暮らし」 「御用邸の暮らし昔、御用邸に皇族が滞在されるときには、身の回りの調度や衣類、寝具、食器などを全て運んできたといわれます。これは普段の機嫌を損なわないためといわれています。料理の道具類も同様で、寝室から食膳にいたるまで寝具やトランク、つづらなどに入れて、お召し列車や自動車で運んでいました。また新鮮な牛乳を得るために、牛も連れてきて飼っていたということで、旧沼津御用邸にも牛舎がありました。料理の材料は東京から運び込まれ、職員が点検してから使用したと思われますが、内玄関の脇の出入詰所は、出入りの商人が控えていたようです。なお、この内玄関は職員や商人などが使用し、正面玄関は皇族が用いるようになっていたそうです。また当時は火事を防ぐために、御殿の中ではなるべく火を使わないようにしており、調理室でも炭火などを用いる程度で、大きな火を使う場合は、調理棟の外側の石造りの湯沸所にあるかまどを用いていました。御料浴室にも湯沸かしの設備はなく、湯沸所から桶に入れたお湯を男子の職員が天秤棒を担ぎ、廊下の下をくぐる地下道を通って、御料浴室まで約30メートルの距離を運んでいたということです。料理ができるまで調理室は約14坪の広さで、採光と排煙を兼ねた天窓は、側面の可動式の窓をロープで開閉する形になっています。昔のままの流し台は人造石の前を井の字につに区切られた珍しい形です。かまどと魚焼き器は炭火を用いていました。また、当初は石炭を用いる西洋釜も設けられていました。」「調理室の入口にあるスロープ式の階段は、料理を運ぶために手押し車や運搬用の艚(ふね)と呼ばれる道具を用いていたことから、このような形になっていたということです。当時、皇族の日常のお食事は基本的には和食が中心で、一般家庭の食事と比べても、あまり変わらないものだったようです。沼津の土地柄からすると魚介類が食卓に上ることも多かったと思われます。調理や盛り付けをする台は六尺卓(ろくしゃくたく)といわれる折り畳み式のものを使っていました。これは移動に適しているために、御用邸では特によく使われたようで、職員の食事や作業などにも用いられたということです。(写真)運搬用の艚(前後を2人で持って運んだ)「天皇の料理番」料理は、厨司(ちゅうし)または主厨(しゅちゅう)と呼ばれる宮内庁の料理担当者が作りましたが、当時は料理材料や食品の冷凍・保存もままならない中で、安全なものを責任を持って作ることが必要だったため、たとえば豆腐などの加工食品も全て担当者が作っていたそうです。「天皇の料理番」として小説やテレビでも知られる秋山徳蔵氏は、大正初期から昭和47年まで、約60年間にわたり厨司長、後には主厨司長(現在の料理長)を務めましたが、この西附属邸の調理室でも、大いに腕を振るったことでしょう。昔、御用邸でも食事どきには、皇族の方が召し上がる一時間前に侍医などが料理を小皿に取って内容を点検する「試嘗(ししょう)」(「おしつけ」ともいう)を行っていました。その後、改めて料理を作り、それを運搬係と呼ばれる別の担当者が、運搬道」 具に載せて供進所(配膳室)に運んで盛り付けを行い、最後に女官が供進所の隣の御食堂にお出ししていたそうです。試嘗は毒見とは違って、料理内容が召し上がる皇族の方のご体調に合っているかどうかを調べたものといわれますが、今日このようなことは行われていません。現在、宮内庁では、宮中晩餐会などの公式な行事での料理や、天皇皇后両陛下の日常のお食事の調理や供進などの仕事は、管理部大膳課が担当していますが、宮内庁の料理人の実力は、我が国の最高レベルにあるといわれています。「西附属邸御殿案内図」」。 「沼津御用邸記念公園 西附属邸御殿案内図」をネットから。(※部屋の名称は当時の呼称を用いています。)「テーブルクロス」。 「明治三十三年五月十日 嘉仁皇太子殿下(後の大正天皇)ご成婚のお祝品福岡県中垣安太郎 他一名献上」 「テーブルクロスの箱 沼津御用邸の備え付けとして御食堂で使用しました。」 「侍従候所」 皇族の身の回りの世話をする侍従たちの控室でした。現在は西附属邸内にあり、昭和20年の空襲で焼失した旧本邸の模型や皇室ゆかりの品々が展示されています。テレビ画像を椅子に座って見られるようになっていた。「侍従候所侍従の部屋(展示コーナー)」 天皇(現上皇)の在りし日のご様子が映像で紹介されていた。「供進所」 皇室の食事を盛り付けたり配膳をしたお部屋です。昔は皇室の方がお召し上がりになる1時間前に、侍医などが皇室の方のご体調に内容があっているかどうか、料理を小皿にとって点検していたそうです。その後、「調理室」で改めて作った料理を、この「供進所」で盛り付け、「御食堂」に運んでいました。窓越しに眺める庭園は、「大正ガラス」特有のゆらぎによって、まるで一枚の絵画のように映っていた。その柔らかな歪みには、現代のガラスにはない温もりがあり、時を重ねてきた御用邸の歴史を静かに物語っていた。しばらくその窓辺に佇み、皇族の方々も同じ景色をご覧になったのだろうかと、遠い時代に思いを馳せたのであった。 「お食堂」。 「御食堂(おしょくどう)皇族が食事を召し上がる部屋で、椅子は食堂用の皮張り、御紋章入りのもの。DINING ROOMThe room for dining.The chairs covered with leather are decorated with the Imperial crest.」 「謁見所(えっけんじょ)」。 「謁見所(えっけんじょ)天皇陛下がご滞在中、来客に面会するときに用いた部屋。床の間側に置かれた玉座用の肘掛け椅子には、梨地漆に御紋章の蒔絵が描かれている。OFFICIAL GUEST ROOMThe Emperor met visitors here.The Emperor's armchair in the alcove is decorated with the gold lacquered Imperial crest.」 「玉座用肘掛け椅子」 「玉座用肘掛け椅子」に近づいて。 「日本人の椅子 十選 家具史研究家 小泉和子」 「玉座用肘掛け椅子(ぎょくざようひじかけいす)西附属邸謁見所(観覧順路⑦)に展示している玉座用肘掛け椅子は、明治11年ごろまでに作られたわが国の代表的な宮廷家具で、約120年の歳月を経た今日でも、歌会始などの主な行事のときには、天皇皇后両陛下がお使いになっています。この椅子は、昭和44年に旧沼津御用邸が廃止された際、宮内庁から沼津市が譲り受けたもので、その後の歳月の経過によるいたみがあり、大幅な修復を必要とする状態でした。そこで、今回の西附属邸改修に当たり、家具史研究家の小泉和子氏に依頼して、平成5年度に伝統的な技法に基づく本格的な修復を行うこととなりました。その過程では様々な専門家の協力を得て、この椅子の制作された時代的な背景や、僅かに残されていた特殊な技術や技能が体系的に結び付き、後世に継承できる可能性が生まれました。修復の詳しい内容については、小泉和子氏の報告書などを参考にしていただくとして、この椅子の特徴は次のとおりです。実物は後ほど謁見所でご覧ください。・・・玉座用肘掛け椅子の特徴・・・① 馬蹄形の背もたれで、肘掛と挽物を使った直脚がついている完全な洋風のクラシック (ヴィクトリアン)様式であるのに対して、造りは全くの和風の伝統的技法を用いている。② 背枠や脚などの木部はケヤキ材で梨子地塗仕上げをし、金の高蒔絵で菊紋80個余りを散らし、 背枠の上中央と両端には御紋章を埋め込んでいる。③ 裂地は濃紫色の西陣織で、模様の部分がビロード状になっていて、その下から裏側に 横糸として使っている金糸がちらりと見える。」 「寄稿沼津御用邸と家具日本の宮廷家具の代表小泉和子」 「寄稿沼津御用邸と家具日本の宮廷家具の代表旧沼津御用邸が沼津市に引き継がれた時点で、西附属邸には三種類の家具が残っていた。一つは謁見所の家具、一つは食堂の家具、いま一つは御座所の家具で、それぞれスタイルは違うが、いずれも明治時代に作られたものである。しかも、わが国の宮廷家具として最も代表的なものであり、かつ歴史的にも重要なものである上、工芸美術的にも非常に水準の高い最高級家具であるが、特に価値の高いのが謁見所の家具である。これは玉座用の肘掛け椅子(写真1)と、テーブル、小椅子三脚との計五脚で、様式は典型的な和洋折衷様式である。玉座は、馬蹄形の背もたれに肘掛けが付いたもので、脚は挽物を使った直脚である。もとになっている西洋のスタイルははっきりしないが、多分十九世紀のイギリスの椅子あたりをアレンジしたものであろう。背枠や肘掛け、脚などの木部は時に梨地塗仕上げをし、金の高蒔絵で大小の菊紋を散らしている。また、座枠のところには金蒔絵で南蛮唐草文様も付いている。西洋風のつもりだったのであろうか。裂地は西陣織で、輪奈ビロード紋切りといい、濃紫のところにちらりと金が光ところなど漆塗りのようで、まことに優雅で格調高いものである。テーブルは横100cm、縦60cm、高さ74cmほどの小形のもので、脚先が牙象になっている。何の変哲もない角脚のテーブルだが、これに卓袱を掛けるからで、皇室家具の場合、必ず卓袱を掛けている。卓袱はごりごりした高級な西陣織の錦製で、テーブルをきっちり包むような独特の形に掛ける。小椅子の方は、丸い背もたれに猫脚のバルーンバック・チェアというスタイルである。これはロココがもとになっているイギリス風で、十九世紀に入ってから、フランス、イギリスなどで盛んに使われたスタイルである。これをわが皇室用は木部を黒漆仕上げの上に桐文様を金銀の高蒔絵で描き、裂地も玉座と同じ西陣織(ただし金糸は入っていない)で張って和風に仕上げている。全体のシルエットが達磨を思わせることから、明治時代の職人は達磨椅子と呼んでいたものである。明治神宮絵画館壁画の家具東京代々木の明治神宮の一郭に聖徳記念絵画館という記念館がある。明治天皇の一代記を描いた壁画が展示してあるところだが、実はこの壁画に謁見所の家具と同じものが多数描かれているのである。たとえば「グラント将軍と御対話」という絵(図1)がある。これは明治12年にアメリカの元大統領グラント将軍が来日して、浜離宮の中島御茶屋で明治天皇と会見した際の情景であるが、ここで明治天皇が掛けているのが玉座用肘掛け椅子であり、グラント将軍が掛けているのが達磨椅子である。」 また、この一年前に天皇と英照皇太后が青山御所で能をご覧になっている「能楽御覧」でも、天皇と皇太后が掛けているのは玉座用肘掛け椅子のようであるし、明治十八年の「華族女学校行啓」でも皇后席として置かれているのもやはりこの肘掛け椅子である。さらに明治二十七年の日清戦争の際、広島大本営で参謀次長の戦況報告を受ける天皇を描いた「広島大本営御親裁」にも天皇用としてこの肘掛け椅子が描かれている。まさに天皇、皇后の行われるところ、必ず梨地蒔絵・ビロード八弁宝花の肘掛け椅子あり、といったところである。一方達磨椅子の方も、すでに明治七年に天皇が赤坂仮御所で元田永孚(もとだながさね)の御進講を受けている場面を描いた「侍講進講」に元田の席として描かれているし、明治二十三年の明治宮殿鳳凰の間における「歌御会始」(図2)、三十七年の「対露宣戦布告御前会議」などにも多数描かれている。つまりこのスタイルは、明治早々には宮廷家具として定着していたということである。延遼館に始まる宮廷家具ではこうしたスタイルがいつ、どこで始まったかであるが、これは明治最初の迎賓館として浜離宮の中に建てられた延遼館からである。「グラント将軍と御対話」に描かれている中島茶屋も延遼館の一部にあった建物である。延遼館は明治二年にイギリスのウィンブルク王子が世界漫遊の途中に日本に寄ることになって、急遽建てたものである。本瓦葺きの屋根に唐破風の玄関が付いた奉行所のような意匠だが、ベランダが付いていて、西洋風の窓があり、暖炉が付き、室内には絨毯を敷いてあるといった和洋折衷の建物であった。この時の明治政府の考え方が「外務省沿革類従」にあるが、一口にいえば建物を『洋風』にし、「美麗ヲ主トシテノ装飾ヲ厳ニシ」て整備し、日本側が一生懸命接待していることを示せば相手もきっと『永ク親睦ヲ遵守』するであろうということであった。ところが美麗な技術といっても、その当時洋風の装飾技術はまだない。そこでこの家具に見るような、形は洋風、技術は和風ということになったのであろう。こうしたデザインを実際に誰がどのようにして行ったのかは史料がなくて分からないが、結果としては、かなり成功している。当時はまだ、伝統的な工芸技術が立派に生きていた時期であり、しかも明治政府としては国威をかけて精一杯頑張って作ったものである。正統的な西洋の様式からすれば確かに妙なスタイルだが、しかし不思議と一つのスタイルになっているし、宮廷家具としての風格を備えているといえよう。その証拠に、この家具は今でも宮廷家具として続いていて、毎年の歌会始や立太子礼の時にも使われているのである。このたび幸いにも、こうした貴重な家具が、沼津市民のものとなったわけである。市では今回の御用邸の改修に伴って、これら家具類の修復を行い、百年余り前の美しさをよみがえらせることになった。今後、西附属邸を訪れる人々に近代日本の歴史の一端を語り掛けてくれる貴重な文化財として生き続けていくことであろう。「「グラント将軍と御対話」 大久保作次郎画」(図1)(ネットから) 。「山下新大郎画 明治二十三年 歌御会始」(図2)(ネットから)。 さらに赤い絨毯の敷かれた縁側を進む。再び「大正ガラス」越しに中庭を見る。このガラスの特徴・外の建物の柱や格子が、まるで水面に映ったように揺れて見えます。・ガラスの厚みが均一ではないため、場所によって像のゆがみ方が異なります。・光の当たり具合によって、独特の柔らかな輝きが生まれます。こうした味わいは、近代建築を訪ねる楽しみの一つなのである。 そして左側に現れたのが「御座所」。 「御座所は居間として用いられていた部屋。10畳の広さがあり、同じく10畳の御寝室と8畳の御着換所が続いており、前面に1間幅の縁座敷と半間幅の折曲り入側縁がついています。もともとはこの三つの部屋を総称して「御座所」と呼んでおり、皇族の方々の居住部分に相当するものでした。天井は杉板ですが、柱は黒松、鴨居や長押等には赤松を使用しています。日本の住宅建築で松を使うのは珍しいことで、この部屋の特徴の一つといえるでしょう。また、床の間に並ぶ違い棚はケヤキに着色し素漆で仕上げてあり、西附属邸の中で唯一色のある部分です。」 御座所ならではの和洋折衷の美しさがよく伝わって来たのであった。畳の上に洋風の絨毯が敷かれ、その上にソファとテーブルが置かれていた。これは明治時代の宮廷建築に特徴的な生活様式で、「形は洋風、暮らしは和風」という皇室ならではの空間を象徴していた。ソファには華やかな花模様の張地が用いられ、部屋全体に落ち着いた品格を添えていた。床の間や違い棚、障子、柱などは伝統的な和室の意匠でまとめられていますが、その中に洋家具が自然に溶け込んでいた。左手前の飾り台には美しい花瓶が置かれ、室内の格式を高めている。特に注目したいのは、違い棚。御座所の違い棚はケヤキ材に着色を施し、素漆で仕上げられており、西附属邸の中で唯一、色彩を持つ意匠として知られています。また、柱には黒松、鴨居や長押には赤松が用いられるなど、一般住宅では珍しい材料選びも、この部屋の大きな特徴である と。「御座所皇族の方々の居住部分として用いていた建物で御座所(居間)、御寝室、御着換所から成り全体を御座所と呼んでいた。」 移動して。牡丹の描かれた大きな壺も。そして「御寝室」。 「御寝室」の隣には。「御着換所」。 そして次に「御玉突所」へと向かう。 「御玉突所」入口。玉突(ビリヤード)は明治時代、上流階級の社交的レジャーとして人気があり、当時の政府高官や実業家などの邸宅には玉突所を設けた例が多く見られます。この御玉突所は昭和になってからは他に転用されていましたが、今回の改修に当たって当時の形に復元した と。小屋組は洋式のトラス構造、部屋の広さ約20畳で、壁、天井は間似合紙張り、床は絨毯敷き詰めです。外見ではわかりませんが、玉突台の4本の脚の下の床には土管を外枠としてコンクリートを打った基礎があります。これは玉突台を水平に保つための工夫です。このため玉突台を据える位置は当時と全く同じになっているわけです と。ズームして。「御玉突所(おたまつきじょ)クラシックスタイルの四つ撞玉式の玉台を使用していました。」 さらにズームして。「点取机」と「キュー立てとキュー」 その先にあったのが「洗面所」。 和・様式トイレ。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.08.07
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次に訪ねたのが、「沼津御用邸記念公園」。バスガイドの女性が、入園チッケトを購入して戻るのを待つ旅友。「旧沼津御用邸時代の保養所・別荘等の分布明治22年(1889年)の東海道線の開通により、東京からの交通が便利になると、風光明媚な牛臥から静浦海岸にかけて、九州は薩摩藩出身の大山巌元帥・西郷従道元帥・川村純義海軍大将や佐賀藩出身の大木喬任文部大臣らの別荘が、いち早く建てられました。やがて、彼らの影響もあり、明治26年(1893年)に御用邸が造営されると頻繁に名士や富豪が来遊するようになり、明治末期から昭和初期には、千本から内浦にかけての海岸線に別荘や邸宅、保養所や臨海学校、旅館等が相次いで建てられ、沼津は一大保養地として脚光を浴びるようになりました。しかし、第二次世界大戦による御用邸本邸の消失や敗戦により社会状況が急速に変化し、往時は80棟を越える別荘群等も現存するものはわずかとなり、昔日の面影はなくなっています。この度、郷土史家の足立実氏と川口和子氏の協力を得て、旧御用邸を中心とした保養所・別荘等の分布図を作成しましたが、ご来園のみなさまには、かつての我が国を代表する保養地・沼津を再認識する契機としていただければ幸いです。 平成12年3月 沼津香陵ライオンズクラブ」 旧沼津御用邸時代の保養所・別荘等一覧 1.若山牧水邸(歌人) 2.仙松閣ホテル(別館は西園寺公望の専用) 3.安田善五郎別荘・別名「梅乃舎」(安田財閥) 4.川上五郎邸(川上音次郎の養者) 5.柴田定吉別荘(竹内栖鳳画伯滞在) 6.沼津林間学校 7.三輪善兵衛別荘(現・沼津倶楽部) 8.槇有恒別荘(登山家・日本山岳会会長) 9.公爵 西園寺公望別荘用地(首相・元老)興津に変更10.男爵 酒井孝忠邸(作曲家・本居長世と親交)11.公爵 大山巌別荘(陸軍大臣・元帥・元老)12.旅館・三島館(せせらぎ館開業)13.旅館・せせらぎ荘(山本五十六元帥滞在)14.13代市村羽左衛門別荘(歌舞伎役者)15.侯爵 井上馨別荘(外務大臣・元老)16.伯爵 川村純義別荘(海軍大将)後の西附属邸の一部17.学習院沼津遊泳場(院長・伯爵 乃木希典)18.伯爵 大木喬任別荘(文部大臣)後の駿海荘19.侯爵 黒田長成別荘(貴族院副議長)20.男爵 岩崎弥之介別荘(三菱財閥)21.静浦ホテル22.旅館・静浦保養館(安藤正胤開業)23.侯爵 西郷従道別荘(海軍大臣・元帥・元老)24.静浦海兵医院・安藤正胤邸(真山青果同家にて没)25.東京府立第一中学校(臨海学校)26.東京府立第二中学校(臨海学校)27.東京府立第七中学校(臨海学校)28.膳 桂之助別荘(国務大臣)29.子爵 岡部長景別荘(文部大臣)30.三井別荘(三井財閥)保養所・別荘等 配置案内図。「静岡県へようこそ」 「沼津御用邸記念公園」入口を見る。「名勝 旧沼津御用邸苑地」碑。右側の守衛室・警備小屋が可愛らしい。 「沼津御用邸記念公園 西附属邸」。 「団体入場口」へ。 「静岡県都市景観賞最優秀賞沼津御用邸記念公園、その周辺1996 静岡県知事 石川嘉延」 「西附属邸」玄関を見る。 「名勝 旧沼津御用邸苑地(沼津御用邸記念公園)御用邸とは、天皇をはじめとした皇室の別荘である。沼津の地は、当時皇太子であった大正天皇の静養先として、優れた景観と温暖な気候が評価され、御用邸用地に選ばれた。明治26年(1893)に本邸、明治36年(1903)には学問所として東附属邸、明治38年(1905)には昭和天皇ら親王の御用邸とし、西附属邸が設置された。太平洋戦争中の空襲によって昭和20年(1945)に本邸は焼失し、昭和44年(1969)には御用邸の役目を終えたが、翌年には「沼津御用邸記念公園」として開園した。現在でも、皇室が眺められたであろう樹齢200年にも及ぶクロマツの巨木が存在している。本苑地は、近代日本における海浜保養地の景観を伝えるものとして、その重要性が評価され、平成28年(2016年)に国の名勝に指定された。」 沼津御用邸は昭和天皇が小さい頃に育った場所とのことで、廃止されて沼津市に移管されるときにも、昭和天皇がお別れのために訪れたという。沼津御用邸記念公園 配置案内図。「西附属邸(Nishi Fuzoku-tei / West Annex)西附属邸西附属邸は昭和天皇ら親王の御用邸であり、一部2階建木造の建物で、30以上の部屋がある。ここは伯爵川村純義の別荘であった【区域1】。明治39年(1906)に御所内の賢所附属建物を移築・増設し西附属邸とした【区域2】。明治41年(1908)に車寄・湯殿など【区域3】、大正11年(1922)に玉突所【区域4】を増築して現在の形となった。建物の構造としては、皇室が日常生活を送る御座所などが海側に、職員が使用する区域が陸側に配置され、皇室の使用区域は1m以上もある高床形式である本邸が昭和20年(1945)7月に空襲で焼失した後は、この西附属邸が主に利用された。」 図面・写真の説明図面には西附属邸の部屋配置が示されており、主な部屋は次のとおりです。・御寝室・玉突室(ビリヤード室)・居間・食堂・浴室・御手洗・応接室・御車寄・女官控室・事務室・使用人室・商人詰所・厨房・配膳室・皇室用玄関・職員用玄関右上には建設当時の写真が掲載されています。1.正門2.御車寄3.親見所(公式応接室)4.御座所・御玉突所この右側の入口はチケット売り場・おみやげ処の建物。「西附属邸 御殿 御車寄」。皇室の方々が御車から降りて玄関にお入りになる場所で、現在「西附属邸」見学の入場口として利用されていた。正面中央部分には、猪目懸魚いのめけぎょの装飾が施されています。また鬼瓦には、皇室を表す御紋章の16弁の菊がデザインされています。しかも両サイドは、立体的。無骨な屋根にかわいらしく咲いた菊の花に、なんだか微笑ましくなってしまいます。 「西附属邸内は入場券ではご入場いただけません。観覧券を受付にてお買い求めください。」 と。玄関で靴を脱ぎ、邸内に入る。各種資料が置かれていた。「彫刻家紋世界記録ギネス認定わが家の家紋日本では多くの人々が家紋を〇〇していますが、これは・・・・・」 1882年(明治15年)に明治天皇が陸海軍の軍人に向けて下賜された軍人勅諭(陸海軍軍人に賜はりたる勅諭)の冒頭部分が彫られていた。「朕は汝等軍人の大元帥なるぞ明治天皇睦仁殿下 彫之」 明治15年(1882年)に明治天皇が陸海軍の軍人に向けて下賜された「軍人勅諭」の冒頭のお言葉。「朕と爾等国民との間の紐帯は終始相互の信頼と敬愛とに依りて結ばれ 単なる神話と伝説とに依りて生ぜるものに非ず 明治天皇裕仁殿下」1946年(昭和21年)1月1日に発布された「新日本建設ニ関スル詔書」、いわゆる「人間宣言」の一節。この詔書は、敗戦による混乱と失意のなかにある国民を励まし、民主主義の基礎となる平和主義や相互の信頼に基づく国造りを目指すために出されました。昭和天皇は、自身を神格化する観念や、日本民族を他民族より優越しているとする思想を否定し、国民との結びつきは「相互の信頼と敬愛」によるものであると強調しています と。「江口彫家紋 木彫久江口 久夫様より寄贈いただきました。」 順路に従い見学する。「倉庫」。 「女官応接女官の応接間として使った部屋」。 移動して。「物置」 移動して。「前室」。 「主膳室」。正面から。料理担当者の部屋(展示コーナー) 主膳室・COOK'S ROOM主膳室とは、皇族の食品調達や食器管理、会食の準備などを担当する「主膳」の控室です。現在は御用邸の歴史に関する資料等の展示コーナーとして活用されており、天窓が設けられた平屋の構造を見ることができます。大正時代の自転車。移動して。「大正三年昭和天皇が学習院初等科時代にお乗りになった自転車の複製です。」 後輪が2つあり、三輪車。大正3年ということは1914年である。110年以上前の自転車はこんな感じだったようだ。昭和天皇の御姿。皇族の食事が作られた「調理室」。窓も広く光を十分に取り入れていた。左手奥にあったのが「冷蔵庫」。調理室は約14坪の広さで、採光と排煙を兼ねた天窓は、側面の可動式の窓をロープで開閉する形になっています。 昔のままの流し台は人造石の研ぎ出しで、四つに区切られた珍しい形です。かまど、魚焼き器は炭火を用いていました。 また当時は石炭を用いる西洋釜も設けられていました。当時、皇族の日常のお食事は基本的には和食が中心で、一般家庭の食事と比べても、あまり代わらないものだったようです。 沼津の土地柄からすると魚介類が食卓に上がることが多かったと思われます と。 ここは、調理人等の「浴室」か? 近づいて。テーブルと釜が。「内玄関宮内庁(省)の職員や御用邸に出入りする商人などが使用した」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.08.06
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「港八十三番地」沼津港の新鮮な魚介を使った海鮮丼や寿司、浜焼きバーベキューだけでなく、ベーカリーやカフェなど、10店舗以上の飲食・土産店が立ち並び、駿河湾の食を満喫できる沼津を代表するエリア と。特別な場所としてではなく、暮らしに溶け込んだ日常の一部でありたいという思いにより、この地の住所そのものから名付けられている と。 また、日本唯一の深海生物をテーマにした「沼津港深海水族館 シーラカンス・ミュージアム」やアトラクションもあり、丸一日楽しめる と。その横にあった「海天寿司 一富士丸」の看板。右手に「沼津魚市場」。 左手には「沼津港横丁」と「かもめ丸」。 バスを下車し「沼津港大型展望水門 びゅうお」を見る。沼津港大型展望水門「びゅうお」は沼津港に高くそびえる巨大な建造物で、東海地震の津波対策の一環として2004年(平成16年)に完成した水門です。津波をシャットアウトする扉体(ひたい)は、幅40m、 高さ9.3m、重量は406tと日本最大級で、制御設備は地震計と連動し地震発生後約5分で自動的に完全閉鎖されます。水門にはその高さを生かして地上30mのところに展望施設が併設されており、富士山や箱根連山、沼津アルプスをはじめ、駿河湾に突き出した大瀬崎をくっきりと見ることができるほか、魚市場の活気ある様子や往来する船、水門の心臓部である巻上機などを見学することができます。そして、夜になるとライトアップされフォトジェニックな水門をご覧いただくことができます。「びゅうお」は、令和7年12月に「日本夜景遺産」に認定されました。沼津港を訪れて新鮮な魚介類を堪能した後は、「びゅうお」からのパノラマビューを楽しんでみては?デートにオススメです! と。「びゅうお」の名前は英語の「View(ビュー)」+「魚(うお)」からとのこと。さらに、南に100mほど歩くと、同じく左にあったのが「沼津港横丁」。沼津港にある縁日スポットとして人気の「沼津港横丁縁日コーナー」ては、昔ながらのスマートボール・射的・サメ釣りなど、子どもから大人まて楽しめるケームが勢ぞろい!!していたのであった。 鯵の干物。「沼津牡蠣センター 牡蠣小屋2号店軒先のドラム缶テーブルでは、開放的な港の空気を感じながら焼きたての海の幸を味わえます。焼牡蠣やさざえ、生ガキもあり!生ビールもあります!テイクアウトなので食べ歩きにもぴったり!観光の合間にも立ち寄りやすい店。奥には、屋台メニューも楽しめるテーブル50席「米と魚」も併設。丼や定食など豊富なメニューをご用意し、バリアフリー対応でどなたでも安心してご利用いただけます。ペット連れのお客様も大歓迎!」と。 軒先のドラム缶テーブル。「創業明治二十二年 四代目 弥平四代目弥平を中心に、沼津魚市場やマルヤ水産の直営店です。四代目弥平シリーズに使用している原料は、脂のりが良い旬の魚を厳選して仕入れております。魚種に合わせた独自の乾燥方法により、旨味を引き出した干物に仕上げています。伝統を守りながらも新しい挑戦を続け、お客様に安心安全で美味しい干物をお届けしております。」と。 「徳造丸 海鮮家 直売所 沼津港店」。 そして、この日の昼食の店「魚河岸 丸天」に到着。 「天ぷら 魚料理 ジャンボえびフライ魚河岸 丸天」 と。「魚河岸 丸天」。 様々なメニューが。美味そうなメニューが所狭しと。「お土産コーナー」 マグロのかぶと煮(あら炊き)?金目鯛?そして私のこの日の昼食。刺身の盛り合わせと金目鯛の煮付け。これも食べたかったが・・・・。「徳造丸 沼津港」の店頭。 「金目鯛広場」はキンメダイのオブジェやベンチを配置して、記念撮影や休憩ができるようにしたのだと。赤色のオブジェは散策する行楽客の目を引き、座ったりポーズを撮ったりして記念撮影を楽しむ姿が見られたのであった。バスに向かって戻る。「金目鯛漁師煮」のお土産も売られていた。 2切れ入り。「さかなや 千本一」にあった巨大マグロ」。 様々な丼ものや刺身、魚のフライが。そして小雨の中、沼津漁港岸壁に停車していたバスに戻る。前方に見える緑は「沼津 港口公園」。 そして「狩野川」に架かる「港大橋」を渡る。 天気が良ければ(ネットから)。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.08.05
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この日は6月29日(月)、地元の「ゆめクラブ六会」(老人会)の沼津周辺への親睦旅行に参加しました。自宅近くの集合場所に7:30に集合。バスは5分以上前に到着。その後、地区内の4箇所で参加者が順次乗り込み、総勢42人の親睦旅行となった。 「綾瀬スマートIC」から東名高速道路・下り線に入り、沼津を目指す。 「相模川橋」を渡る。「相模大堰管理橋」が橋の先に見えた。 相模川左岸の海老名市社家と右岸の厚木市岡田を結ぶ相模大堰管理橋。2020年に整備が終わり、人と自転車であればいつでも通行できるようになった。相模大堰は相模川の河口から12キロ上流にあり、約2.7km上流に相模大橋、約1.7km下流に戸沢橋がある。相模大堰は1998年に完成した県内有数の規模を誇る取水堰で、日量最大約62万m3の水を相模川から取水している。この堰から海老名市側に引き込んだ水は、海老名市社家の沈砂池で土砂などが取り除かれたあと、綾瀬浄水場と伊勢原浄水場に送られ、横浜市や川崎市、横須賀市、相模原市の水道水として供給されているのだ。「小田急小田原線」の線路を左手下方に見ながら進む。 「都夫良野トンネル」を出て「東名高速道路・左ルート」から「酒匂川」そして「山北町山北」の街並みを見る。大きく左にカーブする「東名酒匂川橋」が姿を現した。全長750mの曲線連続鋼トラス橋で、トラス部分は朱色に塗装されている。1969年(昭和44年)の完成当初は上下線各2車線の橋が2本並列していたが、1991年(平成3年)の拡幅事業により南側に離れた位置に上り線が新設され、現在は2本とも下り線(左ルート、右ルート)として運用されている。東名高速下り線は都夫良野トンネルを出てすぐに本橋に差し掛かり、酒匂川とその左岸に並行する神奈川県道727号川西線、右岸に並行する国道246号、神奈川県道76号山北藤野線を跨ぎ越す。橋梁区間が終わった先でJR御殿場線のトンネルと交差する。橋脚は鉄筋コンクリート製で、高さ65m・直径7m。開通当時は東洋一の高さを誇り、東名高速開通記念切手にも描かれた。1990年度には、4kmほど東京寄りに架かる東名皆瀬川橋とともにかながわの橋100選に選定されている。 こちらは以前の秋に国道246号線を走った時の写真。こちらも。切手にもなったと。この時には上り線になっていたようだ。(ネットから)「東名高速道路」上り車線の「東名足柄橋(とうめいあしがらばし)・790m」を左手に見る。 東名足柄橋は、静岡県駿東郡小山町に架かる東名高速道路上り線の橋で、斜張橋である。1991年3月に御殿場IC-大井松田IC間の上り線(東京方面)改良・新車線開通に伴い設置された。上り線が下り線(以前の上下線)を跨ぐ構造となっており、この橋より東京方面は都夫良野トンネルの先の高架橋まで、離れてはいるが対向車線の右側に位置する構造(右側通行)となっている。そして「足柄SA」にて最初のトイレ休憩。下り線(名古屋方面)・駐車場 ・大型 260台 ・小型 517台・トイレ ・男性 大22(和式4・洋式18)・小56 ・女性 95(和式8・洋式87) ・同伴の男児用 2 ・幼児用トイレ 2(洋式2) ・車椅子用 4・ガソリンスタンド(ENEOS(東京ガレーヂ)・岩谷産業 (オートガス)24時間)・給電スタンド(24時間)・水素ステーション(8:00 - 20:00)と ネットから。大型バスの駐車場に向かって進む。そしてバスを降りトイレに向かう。「EXPASA 足柄」エクスパーサ(EXPASA)とは、中日本高速道路(NEXCO中日本)が管轄する高速道路のサービスエリア(SA)に展開されている大型の商業施設ブランドです。地域の特産品や人気グルメが充実しており、「通過点」ではなく「目的地」として選ばれるような新しいスタイルのSAとして運営されています・EXPASAの特徴名称の由来:「外へ」・「超越」などを意味する「EXCEED」・「EXCELSIOR」の「EX」と、パーキングエリア(PA)・サービスエリア(SA)を組み合わせた造語。・充実した施設:人気の飲食店やカフェ、お土産店、アパレルショップなどが入り、 通常のSA・PAの枠を超えた多彩なサービスを提供しています と。 「ようこそ富士山エリアへ」。 天気が良ければ(ネットフリーから)。右手に「Family Mart」。 「EXPASA足柄 店舗案内板」👈️リンク 食べ物の店舗が並ぶ。そしてバスに戻る。「御殿場JCT」から「三国山」に続く山並みを見るが山頂付近は雲に隠れて。 そして「長泉沼津IC」から「伊豆縦貫道路」を利用して進み「6三島塚原」で下りる。そして「三島塚原」交差点の角にあった最初の目的地「伊豆フルーツパーク」に到着。静岡県三島市塚原新田181−1。 そして係員が我々のバスに乗車し、これ以後の説明を受ける。この日のツアーには、「マンゴー狩り1玉お持ち帰り」がSETで付いていたのであった。早速、我がバスで「マンゴー刈り」が出来る温室に向かう。県道142号線・三ツ谷矢田線を利用して10分ほど移動し、「マンゴー狩り」の温室前に到着。下車して多くの温室の最奥に向かって進む。 途中、マスクメロン栽培の温室を見ながら進む。販売用に収穫した「マスクメロン」であろう。 そして「マンゴー栽培」の温室に到着。 「マンゴー栽培」の温室内へ。多くの「マンゴー」が実っていたが・・。この温室には、馴染みのある「アップルマンゴー」が栽培されていた。マンゴーの実の上に掛けられている白い紙(紙袋他)には、主に次のような目的があるようだ。1.害虫や鳥から実を守るため・ハエ類や蛾などの害虫が実に卵を産み付けるのを防ぎます。・鳥などによる食害も軽減できます。2.日焼けを防ぐため・温室内でも強い日差しを受けると果実の表面が日焼けし、品質が低下することがあります。・紙袋は適度に光を遮り、美しい果皮を保ちます。3.傷を防ぐため・枝や葉と擦れてできる傷や、作業中の接触による傷を防ぎます。・見た目の美しい商品に仕上げるために重要です。4.農薬の付着を減らすため・袋を掛けた後は、果実に直接農薬が付着しにくくなります。特に注目したい点白い紙袋は果実全体を包むのではなく、上部だけを覆うように掛けられていた。これは、果実を保護しながらも風通しを良くし、湿気がこもるのを防ぐためのようであった。また、マンゴーは完熟すると自然に枝から離れます。そのため、多くの農園では袋が受け皿の役目も果たし、熟して落ちた実を傷つけずに収穫できるよう工夫されているのだと。この日の「マンゴー狩り」案内をネットから。6/27(土)からスタートしたようで、この日は3日目のようであった。案内された我々の「マンゴー狩り」の温室には、実が小さく細長い「マハチャノックマンゴー」が栽培されていたのであった。 大小様々な大きさの実が。私は手前のこれを収穫しました。係の方(インドネシア人と)が箱に入れてくれました。箱の中に入っていたのが「マハチャノックマンゴータイのラーマ9世前国王陛下の即位60周年記念として2006年11月より日本への輸入が解禁された新品種のマンゴーです。追熟が必要です。常温で追熟して下さい。熟すと赤みを帯びた黄金色となり、繊維質が少なく味は濃厚で華やかな香りが特徴です。柔らかくなって美味しそうな匂いがしてきたら食べ頃ですので、召し上がる1~2時間前に冷蔵庫で冷やしてお召し上がりください。」と。 8日経った7月7日(火)の追熟の状態です。色は黄色くなって来ましたが、香りがまだ弱いので、もう数日そのままにしておきましょう と。そして妻のアドバイスもあり、翌日7月8日に食べました。繊維組織が少なく味は濃厚で華やかな香りが。そして今回利用した観光バスに戻る。再びバスで「伊豆フルーツパーク」に戻り店内に。 「自社農園 マスクメロン お待たせしました。」 2玉入 5000円 と。ご当地のお土産が並んでいた。様々な菓子の土産物も所狭しと並んでいた。そして「伊豆フルーツパーク」を後にする。 「沼津港」を目指して、旧東海道の松並木を通過。 県道138号線の「大場川」に架かる「塚本新橋」を渡る。 沼津市内の「大手町」交差点を左折して沼津港に向かう。 ・・・つづく・・・
2026.08.04
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「富士屋ホテル」を後にして、この日の最後に向かったのが「石垣山一夜城」。石垣山は、本来「笠懸山」と呼ばれていましたが、天正18年(1590)豊臣秀吉が小田原北条氏を水陸15万の大群を率いて包囲し、その本陣として総石垣の城を築いたことから「石垣山」と呼ばれるようになりました。この城が、世に石垣山一夜城または太閤一夜城と呼ばれるのは、秀吉が築城にあたり、山頂の林の中に塀や櫓の骨組みを造り、白紙を張って白壁のように見せかけ、一夜のうちに周囲の樹木を伐採し、それを見た小田原城中の将兵が驚き士気を失ったためと言われています。しかし、実際にはのべ4万人が動員され、天正18年4月から6月まで約80日間が費やされました。秀吉は、この城に淀君ら側室や千利休、能役者を呼び茶会を開いたり、天皇の勅使を迎えたりしました。この城は、関東で最初に造られた総石垣の城で、石積みは近江の穴太衆による野面積みといい、長期戦に備えた本格的な総構えであったといわれ、度重なる大地震にも耐え、今日まで当時の面影が大変よく残されており、平成29年4月6日に日本城郭協会より「続日本100名城」に選定されました。この地は国立公園区域及び国指定史跡に指定されています。面積 約5.8ha富士箱根伊豆国立公園 昭和11年2月1日指定国指定史跡石垣山 昭和34年5月13日指定 愛車のカーナビを「石垣山一夜城」に設定し、箱根湯本駅前を通過し、国道1号を上り途中、右折し、早川方面に進むん。高架の新幹線沿いに進み、「石垣山一夜城歴史公園」右折⇒の案内に従い、「出世道」の坂道を上って行った。左手にあったのが「出世道」案内板。(以下2枚の写真は数年前に別々に撮影したもの)。「美しい日本の歩きたくなるみち500選 太閤・一夜城と長興山 史跡のみち 12キロコース」 「出世道緑と花の夢の道、風と雲の通い道、出会いがつくる心道農を育てる命道、歴史が誘う学び道」経済の国際化が進み、作物の転換と土地利用形態の改革が必要になり、大型農道なくして実現は不可能となりました。 幅員2.5メートルを5.5メートルの農道に改良するよう関係地権者が合意し、国県市の理解ある援助により、名刹海蔵寺山門跡より石垣山一夜城址まで団体営農道整備事業が採決されました。新しい道により、早川を訪れる方々に美しい四季の変化と眺望を見ていただくとともに、生産者の心のこもった農産物を手渡し、農業の必要性と緑の大切さを理解していただきたいと思います。この道が早川の農地に希望の光を運び、県西地域の文化的経済的活性化の出世頭になるよう祈願し、完成記念として石垣山農道組合にて建立いたしました。起 工 昭和六十年一月 竣 工 平成三年三月」小田原の市街を見下ろすことが出来た。小田原城の天守をズームして。「出世道」を上って「石垣山一夜城歴史公園」に向かって進む。 以下の武将紹介の写真は、以前に訪ねた時に撮影したものを再度アップさせていただきました。「石垣山に参陣した武将たち」案内板が通路脇に設置されていた。道沿いに、太閤の小田原攻めに従った武将や茶人など8人を紹介する看板があったので都度撮影した。「「堀 秀政(ほり ひでまさ) 天文22年(1553年)~天正18年(1590年)美濃の豪族、堀秀重の子。織田信長に仕え、側近として活躍。信長の伊賀攻めの年に近江長浜城主となる。秀吉に従い羽柴姓を与えられ、小牧・長久手の戦いや紀州攻めで活躍した。その功績により、越前、加賀に18万石の領土を与えられて北ノ庄城に入り、北国支配の中心となった。小田原合戦では先鋒として出陣し、小田原城の西南、石垣山城の前衛として陣をしいた。ところが、5月27日、小田原包囲陣中で病死し、福井の長慶寺に葬られた。早川の海蔵寺にも墓がある。」 「堀 秀政(ほり ひでまさ)」。 「これより早川駅までの道沿いに、太閤の小田原攻めに従った武将や茶人など8人を紹介する看板があります。散策しながら、今は昔の物語をお楽しみください。」「伊達 政宗(だて まさむね) 永禄10年(1567年)~寛永13年(1636年)米沢城主伊達輝宗の子、幼名は梵天丸。天正13年以降、佐竹・蘆名らの連合軍と戦い、仙道七郡を手に入れて勢力を広げていった。秀吉に従い小田原攻めに加わるべきか迷い、なかなか参陣したかったため、その遅れを責められ領地の一部を没収された。政宗が小田原攻めに加わったことは、その援軍を期待した北条氏にとって大きな痛手となった。秀吉の死後、まもなく家康に近づき、伊達62万石を確定させ、仙台城を築いた。幼少のころ、右眼を失明し、「独眼竜」と恐れられたが、自身は独眼にふれることを嫌い、死後に残る肖像には両眼を備えるよう遺言したという。」 「伊達 政宗(だて まさむね) 」 「宇喜多 秀家(うきた ひでいえ) 元亀3年(1572年)~明暦元年(1655年)備前岡山城主宇喜多直家の子。秀吉の養女となった前田利家の娘を妻とし両家と婚姻関係となり、備前・美作両国と備中東半分の約50万石を治めた。小田原包囲陣では、小田原城の西方、水之尾付近に陣場を構えたと言われている。合戦の最中、氏直の弟氏房に酒や肴を贈って籠城の苦労を慰め、伊豆の江川酒を返礼として贈られ、氏房に講和を勧めたとする物語が伝えられている。」「宇喜多 秀家(うきた ひでいえ)」。 「早川・片浦ウォーキングトレイル太閤一夜城と長興山史跡巡りコース石垣山一夜城歴史公園 1130m」と。 「徳川 家康(とくがわ いえやす) 天文11年(1542年)~元和2年(1616年)三河岡崎城主松平広忠の子。長い人質生活の後、岡崎城に戻る。織田信長と同盟して、東海・中部一帯に勢力を伸ばした。娘の督姫を北条氏直に嫁がせ、北条氏とともに秀吉に対抗したが、その後に秀吉と和睦し、氏直にも秀吉に従うことを勧めた。小田原攻めが決まると、大軍を率い先鋒として出陣し、小田原城の北東、酒匂川の西岸に陣をしいた。秀吉死後、関ヶ原の戦いに勝ち征夷大将軍に任じられ江戸幕府を開いた。家康の陣馬跡には今でも土塁の一部が残り、江戸時代に建てられた石碑(市指定文化財)や東照宮の建物がある。」「徳川 家康(とくがわ いえやす) 」 「羽柴(豊臣) 秀次(はしば ひでつぐ) 永禄11年(1568年)~文禄4年(1595年)豊臣秀吉の甥にあたり、近江八幡43万石の城主。小田原合戦では先陣として山中城を攻め落とし、韮山城、さらに小田原城の包囲に加わった。秀次の陣場は小田原城の北西、辻村植物園の東部付近に位置したと伝えられ、この時秀次が使用した陣鐘が久野の総世寺に寄進されている(市指定文化財)。秀次はこの後、秀吉の養子となり関白に就任するが、秀吉に実子秀頼が誕生すると次第に関係が悪くなり、謀反を企てたとして高野山に追放、切腹を命じられた。」「羽柴(豊臣) 秀次(はしば ひでつぐ)」 「千 利休(せんの りきゅう) 大永2年(1522年)~天正19年(1591年)和泉堺の納屋衆千与兵衛の子。堺の町衆の間で流行していた茶の湯にひかれ、武野紹鴎らに学ぶ。初め与四郎、のちに宗易と名乗った。茶人としての名声を高めて織田信長の茶頭の一人に加えられ、ついで秀吉に仕えて利休の名を授かるなど、天下の茶匠と言われるほどになった。小田原合戦でも秀吉に同行し、側近の一人として活躍する一方、陣中で茶会を催し、諸将の苦労を慰めた。茶道の一つである「侘茶」で使用される竹の花生けは、小田原合戦に随行した利休が茶会の際にその場で作ったことが始まりと言われている。」「千 利休(せんの りきゅう)」 「淀 殿(よど どの) ?~慶長20年(1615年) 生年を永禄12年(1569年)とする説あり近江小谷城主浅井長政の娘。幼名はお茶々。母は織田信長の妹お市の方。信長の死後、重臣であった柴田勝家と再婚した母とともに越前北庄に移った。勝家が豊臣秀吉に敗れると、秀吉のもとに移り、やがて側室となり、長子鶴松を身ごもった。喜んだ秀吉から淀城を与えられ「淀殿」と呼ばれた。小田原合戦に持久戦で臨んだ秀吉は、集まった諸大名の苦労を思いやって妻たちを呼ばせ、自身も淀殿を呼び寄せた。石垣山城井戸曲輪の井戸は「淀殿化粧の井戸」と伝えられる。秀吉の死後は、遺児秀頼の生母として大坂城にあったが、大坂の陣に敗れ、落城するとともにその生涯を閉じた。」「淀 殿(よど どの)」 「豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし) 天文6年(1537年)~慶長3年(1598年)織田信長に仕えて活躍、信長の後継者となり天下統一を進めた。四国・九州平定した後、東国の攻略に乗り出した。容易に従わない北条氏を討ち滅ぼすべく、諸大名に命じ大軍を率いて関東に攻め入った。石垣山(国指定史跡)に城を築いて本陣とし、小田原城を攻め、北条氏を滅ぼして関東を平定した。この城を「太閤の一夜城」といい、秀吉が一夜にして築いたと言われているが、実際は80日を費やしている。小田原合戦によって、東北の諸勢力も従い、天下平定を成し遂げた。」「豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし)」。 そして「石垣山駐車場」に到着 。 石碑「国指定史跡 石垣山 石垣山一夜城歴史公園」。 「東国最初の総石垣の城 石垣山案内図」。 近づいて。① 南曲輪南西面石垣石垣山城は、西の石工集団「穴太衆(あのうしゅう)」による野面積みの石垣です。関東大震災で一部は崩落しましたが、かなりの部分は往時の姿を留めています。② 二の丸東面石垣二の丸の東側にも石垣が積まれています。この辺りの石垣には比較的小さな石が使われています。③ 西曲輪から天守台を望む天守台は本丸南側に位置し、西曲輪からは約10メートルを超える高さの石垣が積まれていました。④ 本丸の石垣この辺りの石垣は10mを超える高さまで築かれており、「穴太衆」の技術の高さがうかがえます。小田原城から見える面のため、小田原側に最も意識を集中させた石垣の一つでしょう。⑤ 井戸曲輪渡辺化粧の井戸とも伝わる井戸です。谷を石塁でで塞いで井戸とした井戸曲輪の石垣は圧巻です。石垣山城は、豊臣秀吉が1590年の小田原攻めの際に築いた城で、関東では初めて本格的な総石垣を備えた城として知られています。現在は国指定史跡となっており、本丸・二の丸・井戸曲輪などの遺構や石垣を見学しながら城跡を一周できるようになっています。これも「東国最初の総石垣の城 石垣山城」案内板」。 「石垣山城は、天正18年(1590)、天下統一を目指す豊臣秀吉が小田原北条氏の本城である小田原城を水陸16万の大群を率いて包囲し、その本陣として築城されました。完成と同時に周囲の樹木を伐採し、あたかも一夜のうちに築城したと伝わり、「一夜城」とも呼ばれています。しかし、実際には、4月6日から築城に着手し、本陣を移した6月26日まで約80日間、昼夜間わずに工事が行われました。また、塀や櫓の骨組みを造り、白紙を張って白壁のように見せかけたとも伝っています。秀吉は、この城に天皇の勅使を迎え、また淀君や千利休を呼んで茶会を開き、参陣の諸大名をなぐさめたりしました東国で最初に造られた総石垣の城で、白亜の櫓・塀を備えた近世城郭と呼べるものです。石垣は、自然石をそのまま使う「野面積み」で、近江の穴太衆(あのうしゅう)による当時の最先端の技術によって築かれました。大正12年の関東大震災で天守台などは崩落しましたが、南曲輪や井戸曲輪は崩落を免れ、当時の面影がよく残されています。一夜城伝説『北条記』には、秀吉が一夜にして城を築いたことに「関白は天狗か神か、かやうに一夜の中に見事なる屋形出来るぞや」と、一夜城伝説の一端を伝えていますが、石垣山城を築城するには山を削り、周囲の木を伐採して、大量の石垣石を掘り出す必要があります。夜間はかがり火を焚いて、大勢での作業の様子は、小田原城からも逐ー確認されていたものと考えられます。むしろ、短期間に築城したことこそが、伝説として語り継がれているものと考えられます。」 「城への登城ロは、東ロと北ロの2か所あり、東口が大手と考えられます。本城曲物(本丸)を中心に馬屋曲輪(ニの丸)、西曲輪、東ロの両側に南曲輪と東曲輪が配置されます。本城曲輪の西端に天守台があリ、馬屋曲物の北側には井戸曲輸、さらに北側には北曲輪(三の丸)、西曲輪の西側には大堀切があリ、出曲輪が配置されています。こうした城の縄張は、肥前名護屋城に似ておリ、黒田官兵衛の関与が想定されています。」正面には巨石が2つ展示されていた。「移設された石垣用石材国指定史跡石垣山(石垣山一夜城)の西側斜面一帯には、 17世紀半の江戸時代初期に江戸城修築のための石垣用石材を調達した「石丁場」(石を切り出した作業場)があります。この石丁場は、早川石丁場群関白沢支群という遺跡名で呼ばれており、平成28年(2016)には静岡県熱海市と伊東市の石丁場とともに「江戸城石垣石丁場跡」として国指定史跡となり ました。ここに置かれている石垣用石材は、平成17~18年 (2005~06)に小田原市早川の広域農道小田原湯河原線(市道2390) 建設に伴う発掘調査によって発見され、移設したものです。移設された2石の石材は、発掘調査の11区から発見された 7号石材(右側)と8号石材 (左側)です。元々ひとつであった石 に「矢穴」を一列に彫った後、矢(クサビ)を入れて2石に割ったものです。左側の石材の前面には「八」の刻印、右側の石材の割った面に「◯寸」の刻印が刻まれていることから、「八」の刻印より「◯寸」の刻印が後で刻まれたことが分かります。これらの刻印は、石を切り出した石工の集団が何らかの目的で刻んだマークであると考えられます。これらの石垣用石材は、広域農道小田原湯河原線(市道2390) の事業者である神奈川県、及びこの場所の土地所有者のご理解とご協力によって移設されました。」7号石材、左側の上部に「矢穴」の痕跡が。8号石材 (左側)。「生命の星・地球博物館までのハイキング「自然を楽しむ みち」のご案内石垣山一夜城の一帯は、自然にまれています。ここから生命の星・地球博物館までは約3.2キロの道のりてすが、その途中のの道沿いで見ることがてきる動物や植物などについて、その説明や道案内を9カ所に設けました。どうそ自然を楽しみながら、ゆっくりと歩いてみてください。はじめに少し坂道を登りますが、あとは下り坂てす。50分ほどて博物館につきます。博物館から入生田駅まては3分てす。」」 「小田原城と石垣山城の位置関係」の写真をネットから。 「小田原合戦の経過天正17年(1589) 11月 秀吉、北条氏討伐の宣戦布告状を発する天正18年(1590) 3月1日 秀吉軍、京を出陣 3月29日 山中城落城 4月6日 秀吉、箱根湯本早雲寺を本陣とする 4月6日 秀吉が築城を指示(現在の石垣山) 5月14日頃 北政所(ねね)に石垣の完成を伝える 6月9日 伊達政宗、秀吉に拝謁 6月26日 秀吉、早雲寺から本陣を移す 7月5日 北条氏直、降伏し、小田原城開城天正19年(1591) 8月 天守に瓦が葺かれる」「小田原合戦の攻囲陣立図」。ここが「国指定史跡 石垣山(一夜城)入口」と。 「旧城道 東登口」。「東曲輪」(右)と「南曲輪」(左)の間を上る旧城道。この先がかつて大手門があった場所とされている。東ロ城道は駐車場川にある入口から南曲輪・南腰曲輪を経て本城曲輪へと至る現在の園路。北側に東曲輪、南側に南曲輪を見ながら切り通し状の道を入口から直進すると、南腰曲愉の石垣に突き当たる。途中大きな石垣が城道に崩れ落ちていて、さながら登山道のような風景であった。また、説明板の付近では、城道の脇に造られた石組水路の跡を確認することができたのであった。突き当りを南へ折れて南曲輪へ人るところには、東口外門があったと。この東ロ外門を過ぎると、すぐ西へ折れて東ロ中門のある南腰曲輸へと登る。さらに南腰曲輪を北・西へと折れると本城曲輸東門に至るのであった。このように、東ロ城道は、東ロ外門・中門と本城曲輪東門の三つの門を通過して本丸である本城曲輪に至る構造となっていたのであった。左側に巨大な石垣が。「南曲輪」下の、穴太衆により築かれた野面積みの石垣。角度を変えて。移動して。この日は、前日の飲みすぎや腰痛の方もあり、「石垣山一夜城」の見学はここまでとして引き返して、「一夜城ヨロイズカ・ファーム」に向かう。「ご案内マップ」に近寄って。 「一夜城ヨロイヅカファーム」は、鎧塚俊彦氏が手がける自然豊かな施設。敷地内にはレストランやカフェ・スイーツショップがあり、美しい景色や美味しいスイーツを楽しみながら、妻・「川島なお美」さんを偲ぶことができるのだ と。「一夜城ヨロイズカファーム入口ゲート」。 入口には牛の親子であろうか?「相模湾」を望む。 小田原~二宮の海岸線。三浦半島の山々。最奥にあったのが「川島なお美慰愛碑」。2015年に胆管がんで亡くなった女優・川島なお美さんの生前の遺言を元に、夫であるパティシエの鎧塚俊彦氏が建立した記念碑。 碑に刻まれたメッセージ碑には、生前彼女が書き残した直筆の遺言が石板と金属板に刻まれています。「今までありがとう なお美より」という感謝の言葉とともに、自然やファームへの深い愛情が表現された詩のような文章である と。慰愛碑の中央に空いている丸い穴は、彼女が直筆で遺した「蝶となって舞う」という 遺言(下記参照) を表現しており、蝶が自由に飛び立つための通り道や、天国のなお美さんと繋がるための窓という意味が込められているのだと ネットから。「私は蝶となって 咲きみだれるお花から花へと舞い 毎年咲く桜となって花ふぶきをお客様に散らし たわわに実る果実となってあなたの作品として 美味しくお皿の上にのります美しく生き生きとしたファームガーデンは私の夢ですその夢をかなえて下さい🦋今までありがとう なお美より」と。 在りし日の川島なお美さんと夫・鎧塚俊彦氏(ネットから)。引き返すと、オレンジ色のグラジオラスの花が。紫のアジサイ。ガクアジサイに近づいて。カンナ:カノーバ レッドゴールデンフレイムであっただろうか。近づいて。ブルーベリーの実がたわわに。収穫期を迎えたものも。そして「一夜城ヨロイヅカファーム」のSHOPへ。 石垣山一夜城歴史公園前にある一夜城 ヨロイヅカ・ファーム。日本を代表する菓子職人・鎧塚俊彦氏が地産地消を目指して作った店。自家農園で穫れた食材や、小田原の食材をふんだんに使った美味しいスイーツやパンが並ぶ。相模湾を一望するレストランでは、山海の恵みが活きたフレンチやケーキセットなどを味わうことが出来るのであった。小田原市早川1352-110。様々な種類のパンが。ケーキも。レストランの写真をネットから。ソフトクリームを楽しみました。そして駐車場に戻る途中に振り返って。昼食は、「めし家 やまや」で。小田原市早川1丁目6−10 小田原水産会館 1F。小田原漁港仲卸やまや水産直営の食堂。 ミックスフライ定食を楽しみました。ここで、都内に戻る旅友3人と別れ、西湘バイパスを利用して帰途についたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・完・・・
2026.08.03
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次に裏側にあった庭園散策。池には大きな鯉の姿が。右上には苔むした自然石が見え、左下には青々とした草木が茂っていた。人工的な装飾を控えながらも、自然の岩や植物を生かした日本庭園らしい落ち着いた景観が作られていたのであった。池の水面には、季節の花であるアジサイ(紫陽花)が木製の筏(いかだ)に美しく飾られていた。紫陽花の「花筏(はないかだ)」。水面に浮かぶ2つの木製の筏には、青から紫色の美しいアジサイが飾られていた。これは「花筏」と呼ばれる演出で、池や川に花を浮かべて季節感を楽しむ日本ならではの装飾。梅雨の時期の箱根では、アジサイが見頃を迎え、このような演出が庭園を華やかに彩っているのであった。小さな滝の姿も。別の場所にも少し大きな滝が。7,602坪の敷地を持つ富士屋ホテルですが、そのうち約5,000坪が広大な庭園。庭園の池や滝の水は箱根の湧き水で、水のせせらぎ、鳥の声に耳を傾けながら気持ちよく散策できるのであった。苔むした五重石塔の姿も。アジサイ(紫陽花)の姿も。庭園には、「幸福の丘の鐘」と呼ばれる鐘が設置されていた。庭園の散策路を登った高台「幸福の丘」にあり、緑豊かな自然の中で鳴らすことができる。四季折々の美しい風景を楽しめる人気のスポット と。庭園の中心近くにあった「水車」。この水車は「営繕さん」の手づくり と。営繕さんとは館内外の備品の制作・修復などを行う施設管理のスタッフで、富士屋ホテルの歴史において欠かせない存在である と。秋の紅葉も美しいのであろう。近寄って。ネットから。巨木の姿が。「セコイアこの木は山口正造氏(富士屋ホテル元社長)がアメリカから昭和4年に持ち帰り植樹したものです。セコイアは杉の近縁植物で二種類あり、そのひとつこの"Sequoia Sempervirens" はアメリカのカリフォルニア州とオレゴン州の海岸に野生し世界で最も高い木として知られています。セコイアは材質がよいので建材として使われ、そのため絶滅の危機にさらされましたが、ルーズベルト大統領の提唱で今では国立公園等で保護されております。この木は原産地に見られるような青空にそびえ立つ樹冠は見られませんが、日本で唯一の生存するセコイアとして異った環境に耐え育った雄々しい姿をご覧下さい。 1977年7月27日 学士院会員 木原 均 木原生物研究所々長REDWOODThis redwood tree was transplanted here in 1929 from the State of California,U.S.A.,by the late Mr. Shozo Yamaguchi, the former president of Fujiya Hotel.As a kind of cedar, this redwood is called "Sequoia Sempervirens", which originallygrows wild by the seaside of California or Oregon and is famous for the tallest treein the world.The redwood in our garden is not so tall as in California, but growsstrong in the different circumstance, being only one in Japan. Prof. Hitoshi Kihara, Ph.D. Member of Japan Academy」 奥には、「屋外プール」も。 人の姿はなかったが。箱根の山々を借景にした清々しいプールは、夏の間だけの愉しみ。間近に迫る緑と空の青に包まれて、日常から離れた贅沢な時間を楽しめる空間。そして館内に戻り、再びフロント横から階段を見る。花御殿の入口の回転扉と赤い絨毯の敷かれた階段を見下ろす。朱の手摺には龍の姿が。近づいて。金色の玉を抱えた2頭の「登り竜」が天に向け並ぶ迫力ある姿が彫刻。下部にも金色の玉が。そして再び外に出て、千鳥破風の屋根、校倉造りを模した壁が特徴の象徴的な「花御殿」を見る。昭和11(1936)年建造、外国人のお客様には「フラワーパレス」として親しまれた富士屋ホテルのシンボル的な存在。「花御殿」の玄関。 「花御殿(登録文化財)昭和11年(1936年)、和風意匠をテーマに建造されました。外観は寺社建築を思わせる屋根に校倉造りを模した壁、すべての客室に花の名前がついており、ドアにはその花の絵が飾られています。海外からのお客様にも人気があり、「フラワーパレス」と呼ばれ親しまれています。Flower Palace (Historical Monument)This building was designed with the Japanese taste and built in 1936 with itstemples/shrines-like roof and its traditional "Azekura", square log architecture style wall.Each room is given a floral concept, a flower name and a flower depicted door sinceits opening. This "Flower Palace" has been famous among foreign travelersas well as Japanese guests.」 振り返って。こちらが国道1号からの富士屋ホテルの入口国内屈指のクラシックホテルの一つで、明治後期から20年近く外国人専用ホテルとして営業していた歴史もある箱根の富士屋ホテル。耐震補強と改修工事のため、2年余の一時休館を終え、142年目の創業記念日にあたる2020年7月15日にグランドオープンしたのであった。和洋折衷の意匠を取り入れた文化的価値のある各棟の外観や内装の趣は変えることなく、可能な限り従来の姿を復元するとともに、新たな施設も誕生したのであった。「国際興業グループ 富士屋ホテル FUJIYA HOTEL」案内板。1878(明治11)年、宮ノ下で長い歴史を持つ旧老舗温泉旅館・藤屋旅館を買収して日本初のリゾートホテルとしてスタート。開業初期の頃はチャップリンやヘレンケラーはじめ、世界中のVIPご用達の「外国人客専用のホテル」として知られていた。武家屋敷をルーツとする日光金谷ホテル(1873年創業)より5年遅い開業だが、本館完成は1891年で、日光金谷ホテルが本格的な西洋式ホテルを建設した1893年より2年早い。富士屋ホテルを創業した山口仙之助は私財を投じて町内の道路を整備。水力発電会社を設立して電力を地域へ供給するなど箱根の振興に尽力した。富士屋ホテルの3代目社長は日光金谷ホテル創業者の次男で、両ホテルの縁も深いのだと。今では正月の風物詩ともなった、「箱根駅伝」の中継ポイントとして広く親しまれているのだ。「富士屋ホテル」の創業からの「歴史年表(1878~2018)」👈リンク。・1878年(明治11年)7月15日:山口仙之助が藤屋旅館を買収・改装し、 神奈川県足柄下郡底倉村に開業。・1883年(明治16年):火災により焼失・1884年(明治17年):平屋建て客室12室として再建し「アイリー」と命名そして・2018年 (平成30年) 7月15日 富士屋ホテルが創業140周年を迎える 富士屋ホテル 耐震補強及び改修工事(~2020年7月15日) 富士ビューホテル 大浴場 リニューアルオープン・2020年 (令和2年) 3月19日 箱根駅伝ミュージアムが15年を迎える 富士ビューホテル 新客室 オープン 7月15日 富士屋ホテル グランドオープン・2021年 (令和3年) 12月1日 箱根ホテル 外壁改修補強・設備更新工事のため一時休館・2022年 (令和4年) 1月 富士屋ホテル 安心・安全なリゾートホテルステイを 国際的衛生基準ガイドライン「 GBAC STAR™ 認証」を取得 3月 箱根ホテル プレミアムフォース 最上階スーペリアツイン 客室リニューアル 4月 箱根ホテル 外壁改修補強・設備更新工事を終え、オープン 7月 富士屋ホテル 創業144周年 7月 富士屋ホテル仙石ゴルフコース 開場105周年 9月 フルーツパーク富士屋ホテル 開業 25 周年・2023年 (令和5年) 2月 仙石ゴルフコース リモコン(電磁誘導)乗用ゴルフカートの 運用開始 6月 箱根ホテル 創業100周年 7月 仙石ゴルフコース ウッドチップを利用したバイオマスボイラーの稼働開始! 9月 湯本富士屋ホテル 開業50周年 10月 富士屋ホテル 公益財団法人日本デザイン振興会主催 2023年度 グッドデザイン賞を受賞!・2024年 (令和6年) 2月 富士屋ホテル 登録有形文化財の旧御用邸『菊華荘』がリニューアルオープン 3月 湯本富士屋ホテル 本館6階フロア・和洋室12室をリニューアル 4月 湯本富士屋ホテル 湯上がりラウンジオープン 6月 湯本富士屋ホテル 本館7階フロア・和洋室12室をリニューアル 7月 湯本富士屋ホテル 本館8階フロア・和洋室12室をリニューアル 12月 フルーツパーク富士屋ホテル 『災害時における要配慮者等の受入れおよび電力供給に 関する協定』~山梨市として宿泊施設と初の防災協定~・2025年 (令和7年) 2月 富士屋ホテル株式会社 社員の成長と持続的な活躍支援を目的に 2025年4月 新人事制度を導入 4月 湯本富士屋ホテル バー・ラウンジ『THE BAR』が新規オープン 6月 フュージョンダイニングF 開業20周年 8月 仙石ゴルフコース 将来のトップゴルファー育成へ 第10回 富士屋ホテル 仙石ゴルフコースU22ゴルフ選手権大会開催そして前庭。石碑「富士屋ホテル FUJIYA HOTEL」。「富士屋ホテル外観マップ」 そして「西洋館」前へ。西洋館一号館「カムフィ・ロッジ」・二号館「レストフル・コテージ」は、日露戦争勝利後の好況期に建てられた客室棟。デザインは軒が浅く、装飾が控えめで端正ですが、明治期の洋風建築の典型である天井や軒、階段の装飾、鎧戸付きの上げ下げ窓や、豪華な唐破風の玄関が存在感を放っている。比較的改造が少なく、富士屋ホテルの建築のうち最もよく創建時の姿が保存されているのだと。 「西洋館」正面。 正面右から1号館「カムフィ・ロッジ」、2号館「レストフル・コテージ」、同じデザインの2棟からなる木造2階建て。明治39年(1906)竣工の西洋館は、白亜の建物が二対になった典型的な明治の洋館である。1号館「カムフィ・ロッジ(COMFY LODGE)」を正面から。「COMFY」は「COMFORTABLE」の口語体で、「心地よい」の意味。鎧戸付の窓などさまざまな細部に西洋の文化を取り入れながらも、唐破風の屋根や寺院建築様式が施されているなど、外国からの客を楽しませるための工夫があるのだと。反対側から。そして「本館」を「洋館」側から見る。手前に「サンパーラー」が。「サンパーラー」に近づいて(以前の写真)。遠くからも見えた「食堂棟」の「三重塔」。いかにも外国人観光客が喜びそうな佇まいなのであった。三重塔の頂部は見事な「登り龍」が巻き付いて。「食堂棟」を南側から。◎設計:木子幸三郎◎施工:不詳◎竣工:昭和5(1930)年◎構造:鉄筋コンクリート造平屋、地下1階、塔屋は木造◎所在地:神奈川県南足柄郡箱根町宮ノ下359 ❖国登録有形文化財 ❖経済産業省指定近代化産業遺産上空からの写真をネットから。入口には「唐破風」が。唐破風に取り付けられる懸魚(げぎょ)は兎毛通し(うのけどおし)と呼ばれるのだ。唐破風の下の兎毛通の飾り彫刻が見事、牡丹の花か?駐車場に向かって「食堂棟」前を進む。向かいにあったのが「旧御用邸 菊華荘」入口。皇室の宮ノ下御用邸として造営され、後に高松宮家別邸となった由緒ある純日本建築の建物と名園。 富士屋ホテルが経営する菊華荘の日本料理が人気とのこと。国道1号の駐車場入口近くにあった「宮ノ下ノスタルジック散策路」👈️リンク。 そして「富士屋ホテル専用駐車場」へ。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.08.02
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この写真は、富士屋ホテル・ホテルミュージアム「建築(ARCHITECTURE)」コーナーの展示の一部で、創業当時から明治時代にかけての富士屋ホテルの建物の変遷を紹介していた。「ARCHITECTURE建築富士屋ホテル最大の魅力個性豊かな建築群富士屋ホテルで生まれる様々な物語の舞台は、時代時代のニーズに応える個性豊かな建築群です。この舞台を守り続けるため、私たちは営繕部の仲間とともに様々な工夫を重ねてきました。滞在するひとときが、日常の喧騒から離れ、箱根の自然と動植物の息吹を感じる特別な時間となるよう、いつの時代もこの姿でお客様をお迎えし、皆様の思い出に新たな1ページを刻んでいきます。Fujiya Hotel's main attraction—buildings of rich characterFujiya Hotel's buildings, each of which expresses great individuality in meeting the needs of the times, are the setting of numerous Fujiya Hotel stories.Together with colleagues at the Buildings and Facilities Maintenance Section, we have devised numerous ways to continually preserve them.We aim to welcome guests with these same buildings throughout the ages andthey create lasting memories at Fujiya Hotel. We hope their stays here are special ones, during which they can escape the hustle and bustle of daily life andfeel the breath of Hakone's natural beauty, flora, and fauna.」この展示は、富士屋ホテル最大の魅力は「時代ごとの要望に応えながら守り続けられてきた個性豊かな建築群」であることを紹介していた。営繕部(建物の維持管理を担当する部署)が長年にわたり工夫と修繕を重ねることで、創業当時から受け継がれてきた建物を保存し続けています。そして、訪れる人々が箱根の豊かな自然とともに特別な時間を過ごし、新しい思い出を刻めるよう、その歴史ある建築を未来へ伝えていくという思いが込められていたのだ。 富士屋ホテル・ホテルミュージアム「建築(ARCHITECTURE)」コーナーの展示の一部で、創業当時から明治時代にかけての富士屋ホテルの建物の変遷を紹介。左:「アイリー EYRIE」 "Eyrie(アイリー)"とは英語でワシやタカなど猛禽類の巣高い場所の住まいという意味があります。この建物は富士屋ホテルにかつて存在した宿泊棟の名称で、・明治時代に増築された客室棟・箱根の山並みを見渡せる高台に建てられていたため・「Eyrie(高みにある住まい)」という名前が付けられました。写真を見ると、・大きなガラス窓・ベランダ・木造平屋・二階建てを組み合わせた開放的な造りで、当時としては非常にモダンなホテルだったことが分かります。アイリーは、宮ノ下大火の後、最初に建てられた建物であり、現在の富士屋ホテル建築群の記念すべきはじめの一歩であるといえます 。現存する我が国最初期のリゾートホテル建築としてもとても貴重です。正面左右に突出部をつくり中央に唐破風を設けるという富土屋ホテル建築の大きな特徴は、このアイリーの時点ですでに確立されていました。右上:「The first-generation Western-style building創業時の洋館no longer existing(現存せず)」これは1878年(明治11年)、山口仙之助が開業した当時の富士屋ホテル最初の洋館を写したもの。木造二階建ての洋風建築外国人旅行者を迎えるために建てられた日本でも珍しい本格的ホテル宮ノ下大火などにより現存していません。富士屋ホテルの原点ともいえる建物。 現在は現存しない建物群を紹介するパネル。写真には、富士屋ホテルの発展の歴史を物語る2つの建物が紹介されていた。・HERMITAGEは西洋風リゾートホテルとしての発展を象徴する建物。・日本館は日本文化を体験できる和風宿泊施設として、外国人旅行者を魅了した建物。いずれも現在は失われていますが、富士屋ホテルが西洋文化と日本文化を融合させた国際的なリゾートホテルへ発展していった歴史を伝える貴重な記録です。展示は、現存する建物だけでなく、時代とともに姿を消した建築にもホテルの歴史が刻まれていることを来館者に伝えているのであった。左:HERMITAGE ハーミティジ no longer existing(現存せず) とあります。「Hermitage」とは「Hermitage(ハーミテージ)」は英語で・隠れ家・静かな別荘・隠棲の館 という意味。富士屋ホテルでは、明治時代から大正時代にかけて建てられた洋館の宿泊棟の一つでした。写真を見ると・木造二階建て・大きなガラス窓・長いベランダ・箱根の山並みを望む立地となっており、避暑地ホテルらしい開放的な造りだったことが分かる。現在は取り壊され、現存していません と。右上:JAPANESE STYLE BUILDINGSno longer existing(現存せず)こちらは外国人旅行者に「日本らしい宿泊体験」を提供するために造られた純和風の建物群。写真を見ると・平屋や二階建ての日本家屋・庭園・池・飛び石・松や植栽など、日本旅館の趣を取り入れた造りになっている。外国人が「日本建築に泊まってみたい」という希望に応えるための宿泊施設として人気を集めた。こちらも現在は残っていません。富士屋ホテルを代表する建築物の歴史を紹介。左:「THE MAIN(本館)」この建物は現在も富士屋ホテルのシンボルとなっている本館です。本館は・1891年(明治24年)完成・建築は 久留正道(くる まさみち) による設計・和洋折衷建築の代表作として知られています。写真を見ると・石積みの基壇・左右対称の外観・ベランダ・洋館でありながら和風屋根を取り入れたデザインが確認できる。現在の本館は国の登録有形文化財であり、2020年の大規模保存修理を経て創建当時の美しい姿を取り戻しました。右上:「FOREST LODGE(フォレスト・ロッジ)」現在のフォレスト・ウイングの前身となる宿泊棟。展示写真は昭和初期の姿を写したものと思われます。特徴は・森林の中に建つ別荘風建築・木造二階建て・大きな窓・山荘を思わせる落ち着いた外観で、箱根の自然を楽しむ長期滞在客向けの客室として人気がありました。「Forest Lodge」という名称どおり、森の中の山荘という雰囲気を大切にした建物。この展示は、富士屋ホテルが「洋風ホテル」でありながら、日本文化も大切にしてきたことを象徴しています。・COMFY LODGE は洋館に日本建築の美しさを取り入れた宿泊棟。・菊華荘 は本格的な日本建築と庭園文化を今に伝える建物。つまり、富士屋ホテルは創業以来、西洋のホテル文化と日本の伝統建築を融合させた独自の建築美を追求してきました。この二つの建物は、その象徴的な存在として展示されているのです。左:COMFY LODGE 西洋館1号館(カムフィ・ロッジ)「Comfy」とは英語で「快適な」、「居心地のよい」という意味。その名のとおり、宿泊客が自宅のようにくつろげることを目指した宿泊棟でした。・白い下見板張りの外壁・張り出した出窓・唐破風(からはふ)の玄関屋根・洋館に和風意匠を取り入れた入口など、富士屋ホテルらしい和洋折衷建築であることがよく分かります。この建物は現在も敷地内に残っており、現在は「菊華荘」へ向かうエリア付近に位置する宿泊施設(コムフィロッジ・レストフルコテージ)へと受け継がれています。右上:KIKKA-SO 菊華荘菊華荘とは、旧三井財閥・三井家の別邸として建てられた純和風建築です。その後、富士屋ホテルが取得し、現在は日本料理「菊華荘」として利用されています。ここでは、ホテルの宿泊施設が時代とともに増築され、多様な滞在スタイルに対応してきた歴史を紹介していた。左:COZY HOUSE(コージー・ハウス)パネルにはCOZY HOUSE西洋館3号館(コージーハウス)とあります。さらに右下にはbuilding remainingとあり、この建物が現在も現存している建物であることを示しています。「Cozy」とは英語の・居心地がよい、・こぢんまりして暖かい・家庭的な という意味。その名前どおり、家庭的で親しみやすい雰囲気を大切にした宿泊施設であったと。右:RESTFUL COTTAGE(レストフル・コテージ)パネルにはRESTFUL COTTAGE西洋館2号館(レストフル・コテージ)と書かれています。「Restful」とは・安らぎのある・静かな・心休まる という意味。その名のとおり、静かな環境でゆったりと滞在できる宿泊棟として建てられました。写真を見ると、・富士屋ホテル伝統の白い下見板張り・和風の唐破風(からはふ)の玄関・洋館と日本建築を融合したデザインとなっており、富士屋ホテルを代表する和洋折衷建築の一つです。現在も宿泊棟として利用されており、クラシックホテルならではの趣を味わうことができるようだ。富士屋ホテル・ホテルミュージアムの締めくくりともいえる展示で、富士屋ホテルが長い歴史の中で受けた数々の文化財・歴史的価値に関する認定を紹介していた。(左上)① 文化庁「登録有形文化財」登録有形文化財Registered Tangible Cultural Properties登録日平成9年(1997年)12月12日登録対象・本館・食堂棟・西洋館1号館・2号館・花御殿・アイリー(Eyrie)・菊華荘この制度は、歴史的・建築的価値を持つ建物を後世へ保存することを目的としています。(右上)② 経済産業省「近代化産業遺産」近代化産業遺産Heritage of Industrial Modernization正式名称富士屋ホテルと箱根観光関連遺産群認定日平成19年(2007年)11月30日対象・本館・西洋館・食堂棟・花御殿・菊華荘これは富士屋ホテルだけではなく、「日本の近代観光の発展を支えた歴史遺産」として評価されたものです。富士屋ホテルは、日本のリゾート観光や国際観光の発展に大きく貢献したホテルとして認められています。(左下)③ 箱根町「重要文化財」箱根町重要文化財指定物件富士屋ホテル レジスターブック(宿帳)58冊指定日平成11年(1999年)6月22日宿帳には、・外国人旅行者・皇族・政治家・文豪・芸術家など、宿泊した著名人の記録が残されています。建物だけではなく、ホテルの歴史を伝える資料そのものにも高い文化的価値が認められています。(右下)④ 箱根町「特定歴史的建造物」特定歴史的建造物指定日平成30年(2018年)5月1日対象・本館・食堂棟・その他6棟地域の歴史を代表する建築として保存・活用していくための制度です。この四枚の認定証は、富士屋ホテルが単なる老舗ホテルではなく、・建築遺産・観光遺産・歴史資料・地域文化財という四つの異なる視点から高く評価されていることを示しているのだ。つまり富士屋ホテルは、「泊まる文化財」とも呼べる存在であり、建物や資料、そしてホテルそのものが日本の近代化や観光史を語る貴重な遺産となっているのであった。「GALLERY MAP資料展示 館内マップ① GALLERY COZY(ギャラリー・コージー)左側に表示されています。このエリアでは主に・ホテルの歴史・創業者・建築・サービス・花御殿・歴代経営者などを紹介する展示があった。※「宿泊客専用」と表示されているため、この一帯はホテル宿泊者のみが自由に利用できる エリアでもあるようだ。」 ② PALACE-DORI(パレス通り)右側にある通路です。こちらも・宿泊客専用 となっていた。花御殿(Flower Palace)を中心とした建物へ続く回廊になっていた。中央の館内図地図には現在の富士屋ホテルの主要施設が描かれていた。主な建物は・FLOWER PALACE(花御殿)・THE MAIN(本館)・DINING ROOM(食堂棟)・COMFY LODGE・RESTFUL COTTAGE・FOREST WING・CASCADE WING など。またYou are here(現在地)の表示があり、現在見学している場所が、花御殿地下(B1階)付近のホテルミュージアム入口であることが分かつのであった。富士屋ホテル・ホテルミュージアムの「実用(FACILITIES)」コーナーの入口。「FACILITIES実用ホテルサービスを支えた道具たち富士屋ホテルの歴史そのものはもちろんですが、それぞれの旅館経営から海外と同等のリゾートホテル経営への革新の歴史でもあります。生活様式の異なる海外からのお客様が家庭と同様にくつろげるよう、従来は見えない施設設備だけではなく、安全で安全な宿泊となるよう整えられた施設や設備はホテル経営を陰ながら支えた大切な役者ともいえます。The tools that sustained hotel serviceThe history of Fujiya Hotel certainly revolves around the architecture of its buildings,but there is also a history of innovation in how hotel management transitioned fromthat of a traditional Japanese inn to a resort hotel on a par with overseas establishments.The hotel's carefully selected furniture allowed overseas guests of different backgroundsand lifestyles to relax as if they were still at home, while the hotel's facilities and equipment played a key role in providing behind-the-scenes support to hotelmanagement so that guests could feel safe and secure during their stay.」 展示されていた史料①不明②山口仙之助の胸像 棚の中央に置かれているのは、富士屋ホテル創業者・山口仙之助の胸像です。 立派な口ひげが印象的で、これまでご覧になった展示にもたびたび登場した人物です。 仙之助は1878年(明治11年)、宮ノ下に日本初期の本格的な西洋式リゾートホテルである 富士屋ホテル を開業し、日本のホテル文化の礎を築きました。③ 昔の事務機器 胸像の下には、 ・ホッチキスのような器具 ・活字印刷や事務処理に使われた機械 ・金属製の事務用品 などが展示されていた。 ホテルの予約管理や帳簿、伝票作成などに使われた実用品であろう。④ ガラス瓶 下段には大きなガラス瓶が並んでいます。 これらは ・消毒液 ・薬品 ・洗剤 ・保存液 などを保管するための容器として使用されていたものであろう。 当時のホテルでは、衛生管理も重要な仕事。⑤洗面台 少し写っている白い陶器は、昔の洗面台。 蛇口が二つ付いており、 ・温水 ・冷水 を別々に調節する、昔ながらのホテル設備を見ることができた。⑥提灯 右上には 「富士屋ホテル」 と書かれた提灯が展示されていた。 ホテルで祭事や行事、案内などに使われたもので、和の伝統を感じさせる資料。そして「ホテルミュージアム」の総合年表展示。ホテル創業から現在まで約150年にわたる歴史を、歴代経営者と時代背景を交えながら一望できる、ミュージアムの中心的な展示。展示の構成壁面は半円形になっており、上部には日本の時代区分が並んでいた。・明治・大正・昭和・平成・令和その下には、各時代に富士屋ホテルを支えた歴代の経営者や支配人の肖像写真が配置されていた。読み取れる主な人物は、・山口仙之助(創業者)・山口正造・山口正造(H.S.K. Yamaguchi)・山口恒太郎・小佐野賢治 など。それぞれの時代にホテルを発展させた人物の功績が紹介されていた。年表の内容年表には、ホテルの歴史だけでなく、日本の近代化や観光の発展と重ね合わせながら、多彩なテーマが紹介されていた。主な内容は次のとおり。・文明開化(西洋文化の導入)・ホテル業(外国人向けホテルとしての発展)・リゾート観光開発・和洋折衷建築・外国人外交・ホテル建築ラッシュ・戦後復興・FUJIYA HOTEL CHAIN(富士屋ホテルチェーン)・保養所ブーム・近代建築・増築・改修・文化財登録・耐震化・改修工事富士屋ホテルの歩みこの年表から読み取れるホテルの歴史を簡単にまとめると、・1878年(明治11年) 山口仙之助が宮ノ下に富士屋ホテルを創業。・明治~大正 外国人旅行者の増加に合わせ、西洋館や本館などを次々に建設し、日本を代表する クラシックホテルへ成長。・昭和初期 花御殿の完成やサービスの近代化により、国内外の著名人が訪れるホテルとなる。・戦後 占領軍による接収を経て営業を再開し、日本の観光復興を支える存在となる。・高度経済成長期 フォレスト・ウイングなどを新設し、ホテルチェーン事業も展開。・平成以降 建物の保存と耐震改修を進めながら、登録有形文化財や近代化産業遺産に認定される。・令和 歴史ある建物を守りつつ、現代の快適性を備えたクラシックホテルとして営業を続けているのだ。 富士屋ホテルだけの歴史を語るのではなく、日本の近代化や箱根観光の発展と重ね合わせて 紹介しているのであった。 創業者・山口仙之助から現代まで受け継がれてきた「おもてなし」の精神や建築へのこだわり、 そして時代ごとの挑戦が一枚の壁面に凝縮されていた。 ホテルミュージアムを一通り見学した後にこの展示を見ると、それまで個別に紹介されていた 「創業」「建築」「サービス」「文化財」「防災」などが一本の歴史としてつながり、 富士屋ホテル約150年の歩みを総括する展示なのであった。展示テーマ「基軸(IDENTITY)「時空の楽園 精神の具現」富士屋ホテルが単なる宿泊施設ではなく、・「時代を超えて愛される空間」・「おもてなしの精神を形にしたホテル」であることを表現している。壁一面に並ぶ歴史資料壁面には富士屋ホテルを象徴する数多くの資料が飾られていた。■ 創業当時のポスター右上には「FUJIYA HOTEL MIYANOSHITA HAKONE」と書かれた大正から昭和初期頃の美しい観光ポスターがあった。外国人旅行者向けに制作されたもので、当時の国際リゾートホテルとしての雰囲気が伝わるのであった。■ 広告・パンフレット左側には・富士屋ホテルのパンフレット・海外向け広告・英文冊子・宿泊案内などが展示され、海外からの宿泊客を積極的に迎えていた歴史を物語っていた。■ 「140 since 1878」中央上部には140 since 1878というロゴが掲げられていまた。これは2018年に創業140周年を迎えた際に制作された記念ロゴ と。■ 富士山を描いたデザイン左中央には、富士山を大胆にデザインした作品を展示。ホテル名の由来である「富士」を象徴するとともに、日本を代表する景観とホテルとの結び付きを表していた。■ キーワード展示展示の中には富士屋ホテルを象徴する言葉も配置されていた。例えば・箱根山の王・建築群・時空の楽園・誠至(せいし) など。「誠至」は、誠を尽くしてお客様を迎えるという富士屋ホテルの精神を表している言葉。展示ケース下部のガラスケースには、・宿泊券・名刺・封筒・文房具・ホテル関連資料・古い印刷物など、ホテルの日常業務で実際に使われていた資料が展示されていた。これらはホテルの歴史を裏付ける貴重な実物資料。右側の電話交換機写真右端には古い電話交換機(交換台)が。自動電話交換が普及する以前、ホテルでは交換手が宿泊客や各客室との電話を一本一本接続していたのだ。富士屋ホテルの高品質なサービスを支えた設備の一つなのであろう。ROYALTY(皇室)皇室と富士屋ホテル明治28年(1895年)に建てられた宮ノ下御用邸は、昭和21年(1946年)に富士屋ホテルに払い下げられ、「菊華荘」となりました。そのほかにも皇室ゆかりは深く、多くの皇族の皆様に富士屋ホテルや仙石ゴルフコースでお過ごしいただいており、その時々の記念の品が富士屋ホテルに残っています。Imperial Family and Fujiya HotelMiyanoshita Imperial Villa constructed in 1895 was granted to Fujiya Hotel in 1946 and renamed KIKKA-SO. The hotel's connection to the Imperial Household also runs deep as a result of the many Imperial Family members visiting Fujiya Hotel and Sengokuhara Golf Course. Fujiya Hotel retains many commemorative items from those times.写真一覧(皇室ご来訪記録)① 昭和天皇大正6年(皇太子時代) 仙石ゴルフコースにてEmperor Showa (posthumous name of Emperor Hirohito)at Sengoku Golf Course1917 (in his Crown Prince days)② 昭和天皇昭和40年Emperor Showa1965③ 昭和天皇昭和40年Emperor Showa1965④ 上皇陛下昭和30年(皇太子時代)His Majesty the Emperor Emeritus1955 (in his Crown Prince days)⑤ 上皇后陛下昭和33年(当時は正田美智子様)Her Majesty the Empress Emerita1958 (then Miss Michiko Shoda)⑥ 上皇陛下昭和39年(皇太子時代)His Majesty the Emperor Emeritus1964 (in his Crown Prince days)⑦ 秩父宮殿下・高松宮殿下昭和2年His Imperial Highness Prince ChichibuandHis Imperial Highness Prince Takamatsu1927⑧ 常陸宮殿下昭和40年・平成8年His Imperial Highness Prince Hitachi1965 / 2006⑨ 秋篠宮皇嗣殿下平成13年His Imperial Highness Crown Prince Akishino2001ホテルミュージアム「史実の新発見(Newly discovered historical evidences)」コーナー。ホテルの保存・修復工事で発見された建築資料や遺構を紹介し、富士屋ホテルの歴史に新たな光を当てた展示となっているとのことその下には、「保存修復工事によって新たに判明した事実や発見された資料を紹介する」という趣旨の説明が添えられていたが詳細不明。保存修復工事で見つかった貴重な発見中央のモニターには、令和の大規模保存修復工事の様子が映し出されていた。左側には、工事中に発見された図面や資料が展示されていた。展示パネルには英語で、・Hidden corridor(隠し通路)・建物の構造に関する資料・修復時に判明した設計図 などが紹介されていた。右側の展示ケース右側には、建築材料や実際に取り外された部材が展示されていた。展示パネルには次のようなテーマが。・Tiles left under the ogre tiles (鬼瓦の下から見つかった瓦)・Colonial-style colors (創建当時の洋館の塗装色)・Evidence of completion year (建築年代を裏付ける証拠)展示ケースには、・屋根瓦・外壁や内装の塗装片・建築部材・漆喰や木材の断面などが並び、実物を通して修復調査の成果を紹介していた。ホテルミュージアムの「平成の大改修(2018~2020年)」を紹介する展示コーナー。2018年4月から2020年6月まで約2年2か月にわたって行われた、創業以来最大規模の保存修復工事について、その目的や内容を分かりやすく紹介していたのであった。RENOVATIONS(改修)2018-04 ~ 2020-06平成の大改修の全容詳細不詳であるが、文化財としての価値を守りながら、安全性や快適性を向上させるための工事であったことが説明されているのでだあろう。中央から下部にかけて、8枚のパネルで工事の内容が紹介されていた。① 「THE FUJIYA」改修全体のコンセプト。「伝統を守りながら未来へつなぐ」という考え方のもと、創業以来の歴史的価値を維持しつつ、現代のホテルとして必要な設備や機能を備えることを目指しました。② 「計画(PLANNING)」改修工事の計画段階を紹介。建物全体の調査や文化財としての保存方針を決定するまでの過程、建築史や構造の調査などが解説されています。③ 「保全(PRESERVATION)」歴史ある建物をどのように保存したかを紹介するパネル。老朽化した部分を補修しながらも、創建当時の意匠や建材をできる限り残す工夫が説明されていた。④ 「消失(DISAPPEARANCE)」過去に失われた建物や設備について紹介している。火災や戦災ではなく、時代の変化に伴って姿を消した施設や建築物について、古写真を用いて解説している。⑤ 「新築(NEW CONSTRUCTION)」歴史的景観に調和する新しい建物や設備の整備について紹介。写真には、新たに建設された施設や、伝統的なデザインを生かした外観が掲載されていた。⑥ 「復元(RESTORATION)」創建当時の姿へ復元した事例を紹介。歴史資料や写真をもとに、失われていた内装や意匠を忠実に再現した様子が説明されていた。⑦ 「耐震(EARTHQUAKE RESISTANCE)」建物内部に施した耐震補強工事についての展示。歴史的な外観を損なわないよう、壁や柱の内部に補強材を設けるなど、高い耐震性能を確保する工法を紹介。⑧ 「修復(REPAIR)」家具や調度品、内装の修復についての展示。写真にはソファや椅子などが写っており、客室やロビーで使用されてきた家具を職人が丁寧に修復した様子が紹介されていた。「幻の建築計画(Impossible architecture plans)」コーナー。富士屋ホテルでは、これまで多くの改修工事が計画されました。国内外の情勢や天災の影響により、その多くは実施されませんでしたが、当時の貴重な史料からは、歴代経営者たちの想いが伝わって来ます。展示されている設計図上下2段、計6枚の設計図が年代順に展示されています。1958年(左上・左下)フォレスト・ロッジ計画など、戦後の観光ブームを背景にした宿泊施設の拡張計画です。1964年(中央上)東京オリンピック開催の年に合わせて検討された増築計画。高度経済成長期に急増する宿泊需要を見据えた構想でした。1967年(中央下)ホテル全体の配置計画。建物や庭園、道路の位置関係まで詳しく描かれています。1968年(右上)ホテル敷地をさらに山側へ拡張する構想。建物を段状に配置する大規模な計画だったことが分かります。1970年(右下)大阪万博前後の観光需要を見込んだ大規模開発案。宿泊施設だけでなく、周辺施設も含めた総合的なリゾート計画となっています。青焼き図面上段の青い図面は、当時の建築設計で一般的だった青焼き(ブループリント)です。コピー機が普及する以前、建築図面は感光紙を使って複製されていました。そのため、このような青地に白線の図面になっています。下段の図面下段には原図に近い設計図が展示されていた。建物の間取りだけでなく、・客室配置・廊下・庭園・道路・敷地全体まで細かく描かれており、当時の建築計画の本格さがうかがえるのであった。このコーナーの魅力は、「実現しなかった歴史」を知ることができる点。現在の富士屋ホテルは、増改築を重ねながら歴史的景観を守り続けていますが、その裏には数多くの構想や計画がありました。経済状況の変化や自然災害、社会情勢などによって実現しなかった設計図も多く、それらは富士屋ホテルが未来をどのように描いていたかを物語る貴重な歴史資料となっているのだ。ホテルミュージアム「FLOWER PALACE(花御殿)」コーナーに展示されている、日本画家による花の原画(下絵)と完成作品を比較展示したもの。・左上・左下 ・花や草木だけが淡彩で描かれた下絵(原画)。 ・構図や植物の配置、色彩の試作が分かります。 ・余白を大きく残し、一つひとつの植物を丁寧に描いています。・右上 ・下絵をもとに色彩を加えた制作途中、または完成原画。 ・緑の葉や淡紫色の花が鮮やかに描かれています。・右下 ・最も完成度の高い作品。 ・金色を背景に、 ・紫色の花 ・桜色の花 ・白い花 ・黄色い花 ・青い蝶 が描かれ、花御殿で実際に使われた装飾画を思わせる華やかな作品になっていた。「食堂天井画の原画メインダイニングルーム・ザ・フジヤの格天井の天井画は、近代日本画の巨匠・川合玉堂に師事した渡部浩年をはじめ、本田蕉風・大沼南園・梅荘ら4名の画家によって、昭和5年(1930年)の食堂棟建設時に描かれました。159面の格間には数々の高山植物が、376面の支輪には鳥や蝶が、それぞれモチーフとなっています。当時高価であった合板に描くため、実際に描く前に図案を確認したと思われます。Original picture of dining room ceiling artworkWhen the building was constructed in 1930, the ceiling painting ofMAIN DINING ROOM "THE FUJIYA" was painted by four artists who studied underGyokudo Kawai, the master of modern nihonga (Japanese-style paintings): Konen Watanabe, Shofu Honda, Nanpo Onuma, and Baiso.Numerous alpine plants are featured in the 159 panels, and motifs of birds andbutterflies are painted on the 376 cornices. As the artists were painting onveneer board, a material that cost a lot of money in those days, they most likelychecked their designs before painting the pictures we see today.このパネルは、メインダイニングルーム「ザ・フジヤ」の格天井(ごうてんじょう)に描かれた装飾画が、どのように制作されたかを紹介していた。・制作年:昭和5年(1930年)・指導者:日本画の大家・川合玉堂・制作画家:渡部浩年、本田蕉風、大沼南園、梅荘・格間(天井板):159面に高山植物・支輪(格天井を支える部材):376面に鳥や蝶当時は天井板となる合板が非常に高価だったため、いきなり本番に描くのではなく、今回展示されているような原画(下絵・図案)を制作して構図や彩色を確認してから、本番の天井板に描かれたと考えられているとのこと。「食堂天井画」。 レトロ調イラストポスター。ホテルミュージアム内の「基軸(IDENTITY)」コーナーに展示されており、富士屋ホテルを象徴する建物や風景を現代的なデザインで表現されていた。ポスター中央には、富士屋ホテルの代表的な建物である本館(THE MAIN)が描かれていた。その特徴である、・唐破風(からはふ)の屋根・白い外壁・和洋折衷の建築様式がデフォルメされながらも忠実に表現されていた。手前には車寄せ(エントランス)があり、往年の高級ホテルらしくクラシックカーも描かれていた。いただいたパンフレットにもこの絵が表紙となっていた。「HOTEL BROCHURE(ホテルパンフレット)」の展示コーナー。創業以耒、お客様に情報をお届けする大切な手段として、ホテルプローシャが制作されてきました。その時代に求められるホテルの魅力を最大限にお伝えでさきるよう、表紙、全館マツツ、施設紹介などの表現方法に工夫が凝らされました。情報伝達手段が多様化した現在においても、ホテルぶランドを熟成し象徴化する「富士屋ホテルプローシャ」の存在意義は変わらず受けがれています。富士屋ホテル館内マップ。建物ごとに・客室・レストラン・バー・ラウンジ・温泉・売店などが分かりやすく示され、宿泊客が館内を散策しやすいよう工夫されている。写真入りで各施設を紹介している点も特徴。富士屋ホテル外観マップ。ホテル本館を中心に、・花御殿・フォレスト・ウイング・カスケード・ウイング・菊華荘・庭園・レストラン・温泉施設などの位置関係が一目で分かるようになっていた。「実用・サービス用品」展示コーナー。宿泊客には普段見えない、ホテルを支えてきた道具や制服、宣伝用品などが展示されていた。左右の大きな番傘最も目を引くのが、左右に展示された富士屋ホテルの番傘。左の番傘には「富士屋ホテル」の文字が大きく書かれていた。右の番傘には「HOTEL」と「富士屋」の文字が見えた。これらは宿泊客の送迎や雨天時の案内に実際に使用されたもので、ホテルの「顔」ともいえる備品。法被(はっぴ)番傘の下には2着の法被が展示されていた。デザインには、・富士山・ホテル本館・富士屋ホテルのロゴなどが描かれており、開業記念行事やイベント、スタッフの制服として使われていたものか。中央の展示ケース・古いタイプライター・手動計算機・事務機器・ホテルで使用された機械類・金属製の器具などがあり、フロントや事務所で実際に使われていた備品。ラウンジ?と思われる空間。・中央に黒いグランドピアノ・左奥にバーカウンター・ゆったりと配置された革張りのソファやテーブル・高い天井と太い木製の柱・大きな窓から自然光が差し込む落ち着いた雰囲気売店(ショップ)に展示・販売されている「寄木細工(よせぎざいく)」のリンゴ型小物入れ。箱根を代表する伝統工芸品である寄木細工を、現代的なデザインで表現した人気商品。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.08.01
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