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『旧東海道を歩く』ブログ 目次『光照寺』を後にすると、右手に地蔵堂があり、この先府道143号線の三条通に合流するまでに6つの地蔵堂があった。山科区日ノ岡朝田町の旧東海道を進む。非常に狭い旧東海道を進むと左手にも地蔵堂が。地蔵堂が多くみられる街道に家屋は建っているが、その数軒は明らかに空き家であった。祠の外にも石仏が安置されていた。日ノ岡西部町地蔵堂。右手前方にっ道標と新しい案内板が。『旧東海道』道標と解説板。「旧東海道(日ノ岡の峠道)この道は、江戸時代には東海道と呼ばれ、日本を代表する街道の一つであった。江戸幕府を開いた徳川家康が整備したものである。東海道では幕末まで車の往来が禁止されてぃゑに近い大津京都開けは例外であった。人馬が通る道と荷物を積んだ牛車が通る車道を分けて、車道には舗石が並べられ車石と呼ばれていた。当初、この辺りの日ノ岡の峠道は、大津から京都への難所の一つで、牛車の通る車道は深くえぐられて、人馬が通る道との段差が生じ、雨が降るとぬかるんで牛車を立ち往生させていた。そこで木食正禅上人が享保一九年(一七三四)頃から道路の改修に取り組み、車道に土砂を入れ人馬が通る道との段差を無くしたり、峠の頂上を据り下げ、その土砂を坂道に敷いてゆるやかな勾配にするなど工夫し、元文三年(一七三八)に改修を完成させた。こうして峠道は大きく改善されたのである。またその後、木食正禅上人は、峠道近くに「梅香庵」を建て峠道の維持管理をすると共に井戸を掘り、水を亀の口より落として量救水と名付け、旅人や牛馬の乾きを潤したり、石の竃を設けて湯茶の接待をしたりした。」左手に『栄花山荘』が。ここは山科区北花山山田町。「150 years house」の表示が入口に。古民家を改修した庭・裏山付シェアハウス兼イベントスペース。茶会を中心に開かれたイベントを催し、新たな文化の創造・発信を目指していると。左手のここにも地蔵堂が。2体の石仏が安置されていた。そして右下から来る三条通(府道143号線)に合流した。「旧東海道」と「150 Years Old House Eikasansou(栄花山荘)」案内板も。左手前方に荷車のモニュメントと車石が置かれた広場があった。『車石広場』すぐ先左手の道端に小ひろばが設けられ、4個の車石の実物や、俵を7俵乗せた台車と解説板があった。実際に使われたと思われる車輪も。「平成9年10月の京都市営地下鉄東西線開業に伴い廃線となった京阪電鉄京津線の軌道敷を利用し三条通の四車線化及び歩道整備の完成を記念して、三条通の舗石として敷設されていた車石を利用し往年の牛馬道を模した広場を設置する」と解説している。石には車輪の通る箇所が線路上に凹面に刻まれていた。俵を7俵乗せた台車。「車石平成9年10月の京都市営地下鉄東西線の開業に伴い廃線となった京阪電鉄京津線の軌道敷を利用し、三条通の四車線化及び歩道の整備事業を実施した本事業の完成を記念して三条通の舗石として敷設されていた車石を利用し往年の牛車道を模した広場を設置する。」車輪も。荷車のモニュメント。こちらは俵を6俵乗せた台車。1俵は何処に?三条通りの坂道を上って行く。左手に案内板が。「粟田口刑場跡この地は、東国から都への交通の要衝であり、粟田口に位置しています。ここは、東海道の最後の難所日岡峠に続く高みで、粟田口峠と呼ばれていました。そのために、幾度となく掘り下げが行われてきました。元文元年(1736)には、五条坂安祥院住持の木食正禅により粟田口峠南の木橋が石橋に架け替えられるとともに、切り下げられました。文化年間(1804-17)には、車道に車石舗装がされ、人馬道には燈籠が建てられました。幕府最後の慶應3年(1867)には、急峻な日岡峠を避け、その北に新道を付け替えました。その結果、この粟田口峠が日岡峠道の最高所となったため、明治以降は粟田口峠が日岡峠と呼ばれています。当町内にある修路碑は、その歴史を物語るものです。また古来、都と郊外の境界に位置するこの地には、公開処刑場が設けられていました。江戸時代には、粟田口(日岡)刑場として、この地で磔、獄門、火刑が行われました。刑場を望む山裾には、刑死者の霊を弔い慰め、供養する宗教者によって何基もの供養塔が建てられました。明治5年(1872)には、この刑場跡地の後ろ山中腹に粟田口解剖所が設けられ、短期間ではありましたが、近代医学の発展に寄与した場所でもあります。しかし、明治初期の廃仏毀釈や現代にいたる開発によって、供養塔や経王塔などが破壊され、道路側溝の蓋石や石垣石などにされてしまいました。さらに、明治8年~10年にかけての日岡峠切り下げ工事と、昭和6年~8年にかけての京津国道改良工事などによって、景観も一変しました。そのような中で、日岡擁壁には、旧舗石車石や経王塔がはめ込まれて残され、また当町の南、日ノ岡朝田町には出土した供養塔の断片が名号碑や題目碑として復元されており、当地の歴史を知るよすがとなっています。」粟田口刑場跡を過ぎると、東山ドライブウェイの高架手前右手に地蔵堂があった。地蔵堂の中央には地蔵菩薩立像が安置されていた。「左卍(ひだりまんじ)」は大乗仏教などの伝統的なシンボルとして使用されているのだ。東山ドライブウェイ高架橋の下をくぐる。東山ドライブウェイは三条通りの左手の坂を上ると将軍塚に至る。将軍塚は桓武天皇が平安京の造営時、王城鎮護のため、征夷大将軍、坂上田村麻呂の土像を作り、 都(西方)に向けて埋めたと伝えられるところ。東山ドライブウェイの高架下を過ぎると、下り坂にさしかかる。ここから地名は京都市山科区から東山区に変った。そして左手にレンガ造りの建物の蹴上浄水場(けあげじょうすいじょう)があった。蹴上浄水場は、日本最初の急速ろ過方式の浄水場として、明治45年(1912)、京都で初めて給水を開始した施設であるのだ。「蹴上」の地名の由来は「源義経が牛若丸と呼ばれていた頃、鞍馬寺で金売吉次(伝説上の人物の可能性あり)という商人に出会います。1174年。義経が彼の案内で奥州平泉へと向かう途中、一行は、山科の日ノ岡峠の日向(ひむかい)大神宮へ道中の安全祈願をするため立ち寄りました。その後、日ノ岡峠の清水(現在の蹴上)で義経が供の者との別れを惜しんでいた時です。平家の武者・関原輿市重治(せきはらよいちしげはる)と9人の従者が馬に乗って通りかかり、彼らの馬が、水溜りの水を義経に蹴りかけ、義経の衣服を汚してしまいます。晴れの門出を台無しにされた義経は、無礼を詫びるように迫りますが、武者たちは平家の威光を笠に着て、かえって居丈高な態度に出ます。そこから両者の争いとなり、ついには義経が興市の家来たち9人を斬り捨て、與市の耳と鼻を削いで追い払ったのです。この、馬が水を蹴り上げたエピソードが蹴上の由来となりました。」と。『蹴上浄水場 水質管理センター』当寺の給水能力は1日68,100m3であったが、その後、水需要の増加に対応するために、昭和37年(1962年)11月には、創設期の第1系統の改良とともに、新たに第2系統が新設され、給水能力が1日198,000m3になったと。10年以上前に仕事で訪ねた浄水場なのであった。「蹴上のつつじ」で有名な蹴上浄水場なのだ。GW頃に開花すれば多くの人々が。しかし今年は・・・???。 【http://gottuan7.blogspot.com/2019/05/blog-post_7.html】よりゴールの『三条大橋』の文字が道路標識に現れた。ここを目指して日本橋から490km近くを歩いて来たのだ。岡崎は、京都府京都市左京区の南部に存在する地域のこと。右手にあったのが『日向大神宮』社標と『青瀧山 安養寺』の寺標が建ってた。参道を進むと大神宮橋の手前に2基の常夜燈があり、参道を15分ほど登ると手水舎の前に出て、拝殿・外宮・内宮と続いているのだと。『日向大神宮』は、第23代顕宗天皇の御代に筑紫日向の高千穂の峯の神蹟を移して創建されたと伝えられている。境内奥には、天岩戸の戸隠神社があり、神田稲荷神社の裏から山道を登ると伊勢神宮遥拝所があるようだ。『蹴上浄水場』に沿って下って行く。右手にあったのが地下鉄東西線の「蹴上駅」の出入り口。そして右手に赤レンガのトンネルが姿を現した。トンネルの入り口の「雄観奇想 (素晴らしい眺めと優れた考え) 」の文字。「ねじりまんぼ「ねじりまんぽ」は三条通から南禅寺へ向かう道路の造成に伴って建設され、明治二十一(1888)年6月に完成しました。高さ約3m、幅約2.6m、長さ約18mで「まんぽ」とはトンネルを意味する古い言葉です。トンネルの上部に敷設された、台車に載った船」が行き交うインクラインの重さに耐えられるように、内壁のレンガは斜めに巻かれ、トンネルはインクラインと直角ではなく斜めに掘られています。トンネルの東西には、トンネルの完成を祝い第3代京都府知事の北垣国道が揮毫した扁額があります。西口の「雄観奇想」は「見事なながめとすぐれた考えである」、東口の「陽気発処」は「精神を集中して物事を行えば、どんな困難にも打ち勝つことができる」という意味です。このような形状のトンネルは全国的に施工例が少なく、また多くが老朽化や廃線等で撤去されました。「ねじりまんぽ」は、明治時代の土木技術を物語る貴重な遺産といえます。」「京都一周トレイル」案内柱。「京都一周トレイル」は、京都の東南、伏見桃山から、比叡山、大原、鞍馬を経て、高雄、嵐山、苔寺に至る全長約83.3キロのコースと、豊かな森林や清流、田園風景に恵まれた京北地域をめぐる全長約48.7キロのコースからなると。赤レンガのトンネルを潜る。トンネルを出ると右側の石段の上にあったのが『琵琶湖疏水工事殉職者碑』。「殉職の碑この碑は、琵琶湖疏水の建設工事中に事故や病気により殉職された方を弔う為、昭和16年11月、琵琶湖疏水事業を所管していた京都市電気局の職員により建立されました。明治23年に竣工した琵琶湖疏水は、我が国最初の事業用水力発電所や運河、灌漑用水等に利用され、東京遷都により産業が衰退した京都のまちの復興を果たしてきました。現在も京都市民の命を支える水道や発電、防火用水等に広く利用されています。この琵琶湖疏水の建設工事は、主任技術者である田邉朔郎を中心に外国人技術者の手を借りることなく実施し、当時の日本人の学び得た技術を最大限実地に応用した画期的かつ大規模なものでした。題字は当時のの京都市長加賀谷朝蔵によるものです。京都華頂ライオンズクラブ 結成40周年記念事業琵琶湖疏水工事 殉職者之碑 京都市電気局」『インクライン(傾斜鉄道)』琵琶湖疎水は、明治時代初期に琵琶湖の水を京都へ引き、琵琶湖と宇治川を結ぶ舟運を開き、同時に水力、灌漑、防災などに利用して京都の産業振興を図るために開削された。途中の蹴上船溜から南禅寺船溜までは落差が36mあるため、この間はインクラインという傾斜鉄道を使用した。公園内には、写真の『インクライン(傾斜鉄道)』が復元され、疎水工事の総括責任者・田辺朔郎像、琵琶湖疎水工事殉難者碑が建っていた。因みに、インクラインとは英語の「incline」で「〔物が〕傾く、傾斜する」の意味から。『インクライン(傾斜鉄道)』上で和服姿で記念撮影する女性たち。卒業記念写真なのであろうか?桜が満開であれば。こちらにも。「インクライン(傾斜鉄道)大津から京都を結ぶ東海道の難所であった逢坂山や日ノ岡の峠道は、旅人や貨物運搬にとって悩みの種で琵琶湖から水を引き、その水路を利用して舟運を興すとともに、田畑を潤すことが古くは平清盛、豊臣秀吉の時代からの願望として伝承されてきました。明治2年(1869)の東京遷都以降、衰退する京都経済の復興策として京都府三代目知事北垣国道、青年技師田邊朔郎、測量技師嶋田道生ら技術陣・行政関係者、上・下京連合区会、市民の力で明治18年(1885)8月、水力動力、舟運、かんがい、精米水車などの多目的な効用をはかるため、疎水開削工事に着手しました。インクラインは、蹴上船溜(ダム)や南禅寺船溜に到着した舟から乗り降りすることなく、この坂を船ごと台車に乗せて昇降させる目的で建設されました。当初、蹴上から分水した水力動力(20馬力、15KW)によって水車場内のウインチ(巻上機)と水中の滑車を回転、ワイヤロープでつないだ軌道上の台車を上下する構造を考えていました。その後、明治21年(1888)、田邊技師、高木文平調査委員が訪米し、アスペン銀鉱山の水力発電を視察した結果、インクライン動力源を水車動力から電力使用に設計変更され、事業用としては我が国発の蹴上発電所を建設することになりました。この電力が世界最長のインクラインに35馬力(25KW)、時計会社に1馬力(0.75KW)など産業用、電灯用として活用されました。明治27年(1894)には伏見区掘詰町までの延長約20kmの運河が完成し、この舟運により琵琶湖と淀川が疎水を通じて結ばれ、北陸や近江、あるいは大阪からの人々や物資往来で大層にぎわい、明治44年(1911)には渡航客約13万人を記録しました。しかしながら、時代の流れで大正4年(1915)には、京津電車、京阪電車が開通旅客数が3万人大に激減したのに加え、国鉄(JR)の方でも東山トンネルが開通して大正10年に現在の山科駅が開設されたため、京津間の足としての疎水の機能は実質的に失われることとなりました。一方、貨物の輸送量は、大正14年(1925)には、史上最高の22万3千トン、1日約150隻を記録しました。やがて、陸送化がどんどん進み昭和26年(1951)9月、砂を積んだ30石船が最後に下り疎水舟運60年の任務を終えました。こうして、琵琶湖疎水、インクラインは文明開化以降における画期的な京都再生の役割を果たしました。平成8年(1996)6月には、国の史跡指定を受け、今日の京都を築いた遺産として後世に長く伝えるため形態保存しています。概 要着工 明治20年(1887)5月竣工 明治23年(1890)1月運転開始 明治24年〔1891〕11月(以上発毛所営業退転開始)約22m幅 約22m勾配 15分ノ1所要時間 10~15分電動機 直流440V、70Aドラム工場 両禅寺船溜北側(白い建物)」『インクラインで使われた台車の復元』👈リンク後方から。「三十石船と蹴上インクラインこの「三十石船」は、明治23年に竣工した琵琶湖疏水で使用されてきた運輸船を復元したものです。明治から昭和にかけては、琵琶湖疏水を通航する運輸船により、滋賀と京都の物資(米、薪炭、醤油、酒など)の物流が盛んに行われていました。琵琶湖疏水の蹴上船溜から南禅寺船溜までの間は、高低差が大きいため、船ごとインクライン(傾斜鉄道)の台車に載せて、この坂を昇降させていました。本インクラインは、琵琶湖疏水関連施設として、平成8年に国の史跡に指定されています。この「三十石船」は、京都滋賀県人会様から、同県人会の創立50周年を記念して、平成22年3月に寄贈を賜り、蹴上インクラインの当時の面影を再現するために、船の「積み荷」につきましても、平成6年3月にご寄贈いただいたものであります。」明治40年6月時の掲載写真を見てみると、蹴上げのインクラインが写っていた。南禅寺方面の道も、平安神宮への道も、その地形に変わりないことがわかる。船が上がれない急な坂を貨車を使って引っ張り上げるための線路で、大津から来た船をそのまま貨車に載せて、次の水路へと運んでいたことが、理解できる写真なのであった。インンクラインに昇降する舟(写真は琵琶湖疎水記念館のもの)。こちらの写真の時代は大正期らしい。 【https://plaza.rakuten.co.jp/laurier/diary/201706150000/】より『蹴上インクライン』QRコード 案内板。QRコードをスマホで読み込んでみてください。因みに、移動用の巻き上げ機は蹴上発電所の電力で運転。通過時間は10分から15分だったと。『琵琶湖疏水』👈リンク ルート図。『第1疎水縦断面図』。南禅寺船溜から琵琶湖方面への最初の登りが標高差36mの、この蹴上インクラインであることが解る。怒涛のごとく琵琶湖の水が流れていた。この場所の水路勾配は1/15であると。琵琶湖の取水口から蹴上までの距離は約8kmとのことだが、この間の高低差はわずか3.4m。現代のような精巧な測量器械のない時代に、正確な勾配を計算しながらつくられていることに驚愕したのであった。蹴上から先は山の斜面を下らなければならない。水平距離にして582m、高低差は36mであると。水路は暗渠にすることができるが、舟を通すことは出来ない。そこで舟を運ぶために考えられたのがインクライン(傾斜鉄道)なのであったと。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.06.09
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「寳德山稲荷大社」を後にして、「信越本線」の踏切を渡り、「県道72号線」へのT字路に出る。左手の「昭和ものふく館」の壁には「七転び八起き」のダルマの姿が。新潟県長岡市飯塚。長岡市にはダルマ製造工場が多いのであろうか?最近出来た博物館/美術館のようであったが。そして「国道351号」を信濃川に沿って北上する。左手奥に見えたのが「長岡技術科学大学」。ズームして。1976年10月1日、実践的な技術の開発を主眼とした教育研究を行う大学院に重点を置いた工学系の大学として、新たな構想の下に開学した。日本に2校ある「技術科学大学」のうちの1つで、豊橋技術科学大学(愛知県豊橋市)と同時に設立された。高等専門学校(高専)からの三年次編入生が8割以上を占めるという特色を持つ大学。「また来いて 雪ほたる舞う里 越路へ」と。下には名所案内が。「長谷川邸」は重要文化財の越後最古の民家であると。「武士の出身といわれる長谷川家が、この塚野山に居を構えたのは近世初期以降。以来山村地主としての地位を固め、代々庄屋を勤めてきました。幕末から明治にかけては近郊4カ村の耕地や山林の7割を独占し、180町歩余の田から4,000俵もの小作料をあげた豪農です。」とネットから。「国道351号」に架かる「大手大橋」を渡る。右手に見えたのが「長生橋」。1937年(昭和12年)に竣工した3代目となる現在の橋梁は、橋長850.8 m、幅員7.0 mを有する13径間下路カンチレバー鋼ワーレントラス橋。下流側に幅員2.5 mを有する自転車歩行者道橋を併設する。多連・上曲弦方式のトラス橋としては日本国内で唯一現存する橋梁であるとのこと。夏に開催される「長岡まつり」の「大花火大会」では、この長生橋と大手大橋からナイアガラ花火が打ち落とされる。夜空の下、上空の花火に仄かに照らされる長生橋のトラスは、長岡市の夏の風物詩でもあるとのこと。ネットから。「信濃川」の先の「水道公園」の中にある「水道タンク(旧中島浄水場配水塔)」も見えた。「信濃川 大手大橋 長さ878m」と。正面に「JR長岡駅」の姿が。これは、10年以上前に出張の際に撮った長岡駅新幹線ホームの写真である。写真左の10番線?ホームには線路がないのであった。昭和47年11月、田中角栄は、運命の選挙といわれた第33回総選挙前の演説会で、「長岡~柏崎~直江津を北陸新幹線でつなぐ。その次に、秋田~青森を羽越新幹線でつないで見せます。これは私の夢だ。いや、夢じゃない、本当のことだ。必ず実現しますよ!」とぶち上げたのであった。これは将来的に上越新幹線の新潟より北のほう、つまり羽越新幹線まで延長する際に、長岡駅で待避や折り返し運転ができるように作られたものであるのだ。羽越新幹線と北陸新幹線の乗り入れは、田中角栄の夢であったと。もし、これが実現していたら、今頃、10番線を、柏崎・直江津方面の新幹線が発着しているのであろう。JR長岡駅近くの「大手通り」でバスを降りて散策開始。「シティホール プラザ アオーレ長岡」を訪ねた。施設は長岡市役所本庁舎と、アリーナ、市民交流ホールなどを擁する交流施設、屋根付き広場「ナカドマ」の3つから成る。建設に要した総事業費は約120億円であった。愛称「アオーレ長岡」は一般公募によって決定し、そのまま正式名称にも採用された。「アオーレ」は長岡弁で「会いましょう」を意味する「会おうれ」をもじったものである と。東棟・西棟・アリーナ棟に面した広さ約2,250m2の屋根付き広場空間「ナカドマ」。広場空間「ナカドマ」・「中土間」は日本建築の土間の概念を取り入れ、市民のためのボイド(公共空間)とすることを意図しているのだと。設計は新国立競技場などで有名な隈研吾氏であり、隈研吾氏らしい地場産のスギルーバーによって囲われた愛称「ナカドマ」という大空間が特徴的な施設である。中央には既に巨大なクリスマスツリーが置かれていた。アオーレ長岡の最大の特徴である、トラス構造の約9,000㎡もある鉄骨屋根は、3棟をつなぎつつ、光がこもれる半屋外空間となっているのであった。壁には絵画も展示されていた。水墨画のごとくに。「柳映 横山 操」と。新潟県西蒲原郡吉田町(現・燕市)出身と。「モナコ風景」。モナコはフランスの地中海沿岸にある独立都市国家。北、東、西はフランスと、南は地中海と国境を接している。面積は2.1 km2で、バチカン市国に次いで世界で2番目に小さい主権国家であるが、1平方キロメートルあたりの人口が19,009人であることから、世界で最も人口密度の高い主権国家となっている。因みに江の島の面積は 0.41km2であるので、江の島の5倍ほどの小さい主権国家。世界1位のバチカン市国は0.44km2とほぼ江の島の面積と同じ。モナコ、バチカン市国は、私がヨーロッパで訪ねていない数少ない国なのであるが。「モナコ風景 新保 兵次郎」と。明治41年3月13日にここ新潟県長岡市に生まれたと。「300インチの大型ビジョン」。普段は長岡市の広報映像や市内観光地の紹介映像などが放映されている他、スポーツイベントのパブリックビューイングなど、イベントと連動した利用も可能となっているのだと。この日は、ここアオーレ長岡をホームアリーナとして、1部参入を果たしている新潟アルビレックスBBの試合が行われるようであった。「NIIHATA ALBIREX BB」ポスター。「群馬クレインサンダーズ」との試合であったが、81-93で敗れたと ネットから。そして横にあった「長岡城 二の丸跡」を訪ねた。「長岡城阯長岡城は元和三年堀直寄により築城され、翌四年堀氏の後に入封した牧野氏歴代二百五十年間治政した居城で、おひき形兜城又浮島城と呼ばれた。明治戊辰の役に落城、後一度は奪回して長岡武士の気を吐いたが焼失し、明治に入り廃城。今は跡形もないが現長岡駅を中心に本丸があり、二の丸はこの碑のところにあった。」「長岡城趾」碑。「戊辰史跡 案内標柱 長岡城二の丸跡」碑。「長岡は、越後長岡藩牧野氏七万四千余石の城下町でした。この場所は、長岡城のニ之丸跡にあたります。ニ之丸にはニ層のニ之丸櫓があり、本丸の御三階櫓とともに、シンボルでした。旧暦の六月十五日(いまの七月下旬から八月上旬)の蔵王権現社(金峯神社)の祭礼行列が内堀をへだてた馬場に入り、町の繁盛と領内の安全を祝っています。城内に城下の十八か町の祭り屋台と民衆を入れた祭礼は、武士と民衆の垣根(身分差)が低かったことを物語るものでしょう。一八六八年の五月と七月、戊辰戦争によって、城と町は焼失し、また犠牲者も多くだしました。そんななかから、人材育成をめざす、米百俵の精神と、士民が協力して町を復興しようとする不死鳥の精神が生まれます。人々は、城跡を開拓し、通りを作り、町をひらきます。城跡には学校・集会場・役場などと新しい商店が並ぶことになります。本丸跡には停車場(長岡駅)が設けられています。これらは長岡の歴史風土が、それまで培ってきた進取の気象によって徐々に近代都市に変貌させたといっても過言ではありません。ここ二の丸跡には、日本の近代化に貢献した、宝田石油会社の本社が建ち、明治・大正期には、宝田石油会社の城下町だと、長岡が呼ばれた時代もありました。その後、日本石油会社と合併していますが、会社が東京へ移転するに伴い、宝田公園が長岡市に寄付されて、市民のための都市公園となっています。そのなかに市民の文化の殿堂である公会堂が建ち新しいシッボルとなりました。一九四五年八月、長岡空襲は、市民を犠牲にし、町を焼つくした忌まわしい出来事でした。再起を失いかけたとき、伝統の長岡花火が、市民に希望を与えてくれました。公会堂から厚生会館に建てかえて、市民の体育・産業・文化の興隆に役立っています。ここは長岡の激動の市民史を記憶しているところといえるでしょう。ニ〇一ニ年四月、市民協働のシティホールプラザ・アオーレ長岡が建ち市民の交流と時代の駅となって、長岡の未来につなぎます。」「山田又七 宝田石油株式会社の創業者、令終会設立者安政ニ年(一八五五)生大正六年(一九一七)沒三島郡荒巻村(旧和島村大字荒巻、現長岡市荒巻)の旧家山田彦左衛門の七男として生まれた。八歳とき盗賊に右手の指ニ本を切られ、家の農業の手伝いができず、十二歳のとき長岡裏ニノ町(本町ニ丁目)の小間物屋加藤竹吉商店に奉公に入る。明治十三年(一八八〇)浦瀬で水車を使って綿糸を紡ぐ山田紡績所を営んだ。同十八年に石油事業に着手した。同二十一年千手の小坂松五郎が北越石油会社、麻生田の殖栗順平が石動油抗会社を設立したのに続いて山田又七は山本油抗会社を設立し、浦瀬地内で削井を行った。各社は出油に成功し、山田又七はその後長岡石油会社、山田抗業用達会社など数社を設立した。同ニ十六年(一八九三)に殖栗順平の支援を得て宝田石油会社設立した。大弓泉・大砲泉のニ井が順調に出油し、宝田石油会社の基盤が確立した。山田又七は新たに渡辺藤吉の強力を得て第一回から第六回にわたり各石油会社を買収、合計百ニ十五社の大合併に成功し、宝田石油会社は日本石油会社と並ぶわが国二大石油会社になった。明治三十五年(一九〇ニ)旧長岡城二之丸跡に宝田石油会社の本社を建設した。現在のアオーレ長岡の所在地である。山田又七は同三十九年に県議会議員、四十一年に衆議院議員に当選、四十四年に緑綬褒章を授与された。明治四十年(一九〇七)には宝田石油会社の削井機械類製作の長岡鉄工所を設立した。これは現在の長岡鉄工業界の礎である。大正五年(一九一六)宝田石油会社を退社し、北越製紙会社の田村文四郎と令終会を設立して悠久山公園の整備に尽力した。」隣にあった「城内稲荷神社」。賽銭入れの「蝦蟇(ガマガエル)像」。お賽銭はガマの口へ と。「城内稲荷神社」の石造りの「社殿」。「手水鉢」。「手水鉢明治二十四年(一八九一)頃から石油株式の取引が盛んになり、株式仲買人の中には女性もいて女株券師と呼ばれました。最盛期には男性二十人、女性百余人がいて女株券師は二人また三人組で仕事をし、なかでも堀田タミと渡辺キイの組がよく知られています。この手水鉢は明治末期にこれら株式周旋人が奉納したもので、鉢の側面に刻まれた名前から女性券師の存在が証明され貴重です。賽銭入れこのがま蛙は鋳鉄製で表面には防錆の漆が焼付けてあります。作者は西神田にあった根岸鋳造所の職長鰐淵長次郎で大正末期の製作と考えられ、第二次大戦時の供出をまぬがれて今に伝わる貴重な工芸鋳物で、愛敬ある顔とどっしりと安定感のある姿態の表現は見事であります。」と。建物の壁には年表の如き文字が書かれた「木簡」の如き物が並んでいた。近づいて。「一六〇五(慶長十)年 長岡城がはじまる築城は、戦国武将、堀直竒の町づくりの創造の中心にあった。」「六一七(元和三)年 築城工事が再開する。一匹の白狐が工事を再開させ城と町の守り神となった。」「一九〇二(明治三十五)年 宝田石油会社の設立山田又七らの東山油田開発は、〇〇の発達に寄与した」「シティホール プラザ アオーレ長岡」を振り返って。開館10周年を迎えたアオーレ長岡。そして昼食会場へ。「越後長岡 小嶋屋本店」。「野菜天 へぎ蕎麦」を楽しむ。「へぎ」、実は「剥ぐ=はぐ=へぐ」のなまりで、木を剥いだ板を折敷にしたもののことであり、ざるそばやせいろ同様、「へぎ」という器に盛られたそばのことを言うのだ と。メニュー。カメラで近づいて。そして「へぎ蕎麦」とは新潟県発祥の蕎麦。 普通の蕎麦との大きな違いは、つなぎに布海苔が使われている点。 布海苔とは刺身のツマなどにも使われる海藻の一種で、粘着力があり、食べ物としてだけでなく、さまざまな用途で使われているとのこと。新潟は古くから織物の産地として知られる地域。その織物を折る際、機織り機に横糸をピンと張るために使われていたのが、布海苔なのだ。大量に入手した布海苔の使い道を模索する中で生まれたのが、へぎ蕎麦だったといわれている と。久しぶりの「へぎ蕎麦」を楽しんだのであった。そして再び「大手大橋」を渡る。右手に長岡大橋が見えた。「長生橋」を再び見る。「越後駒ヶ岳」であっただろうか?そして「国道351号」を「ながおか花火館」に向かって進んだのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.02.07
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更に歩を進めると右手にあったのが『板橋地蔵堂』。『板橋 延命子育 地蔵尊』と刻まれた石柱。『板橋の地蔵尊』1月と8月の板橋地蔵尊の大祭には、旧東海道の町並みの両側に多数の露店が軒を連ね、善男善女のお参りで賑わうのだと。また、この日に詣でると、亡くなった身内の人と瓜二つの顔の人に会えるのだと。境内の本堂前の大銀杏の木の黄葉はこれから。『明治維新官軍慰霊碑』境内入口左にあるのは中井範五郎始め、13名の墓碑であると。中井範五郎は1840-1868 幕末の武士。 天保(てんぽう)11年生まれ。因幡(いなば)鳥取藩士。文久3年兄永見明久らとともに藩重臣の暗殺(本圀(ほんこく)寺事件)にくわわる。戊辰(ぼしん)戦争では大総督府監軍となる。慶応4年5月20日小田原藩兵に箱根で殺されたのだと。『伊藤一刀斎末裔の墓』寛政7年(1795)に建てられた一刀流6代目の横田常右衛門豊房と7代名坂四郎治政宣の供養碑。『本堂』板橋地蔵堂は、曹洞宗に属し正しくは金竜山宗福院と称し、本寺南谷山香林寺が主管していると。ご本尊は弘法大師の御作「延命子育地蔵大菩薩」で、身丈8尺の大坐像の腹中に鎮座。ゆえに、〝腹籠(はらごもり)のお地蔵さま″(胎内仏)とも呼ばれていると。創建は1598年、現地蔵堂は1715年建築の、城山にある慈眼寺の本堂を明治初期に移築。敷地内に1868(明治元)年建立の、戊辰戦争官軍戦没者慰霊塔があると。『六地蔵』。『地蔵菩薩像』。『福興大黒尊天』。福興大黒尊天は、「関東大震災」の翌年、樹齢1,500年の大楠の生木に、「関東大震災」からの復興と信徒の福徳招来を祈念して彫られたと。境内より隣にある『常光寺』を見る。常光寺は1648年創建。本尊は阿弥陀如来、足柄第二十七番観音霊場。境内の至るところに住職のお言葉が散りばめられているのだと。墓地の中にある常光寺の鐘楼。板橋地蔵堂の本堂内部。延命子育地蔵大菩薩(本尊)。本堂の天井。本堂前から境内を振り返る。『神奈川県指定重要文化財 宋福院地蔵堂』格子窓の奥にも多くの地蔵様が鎮座。円光の向背そして先に輪のついた錫杖を持つ地蔵菩薩像。『忠魂碑』。小田原市大窪地区出身戦没者慰霊碑。「忠魂碑」の字は山縣有朋 書。そして板橋地蔵尊を後にし進むと箱根登山鉄道のガードを潜る。左手、旧東海道の反対側に見えた石碑。石碑は『頌徳碑』と題され明治期の板橋地区、大窪村の村長市川文二郎を讃えるもの。市川文次郎が村長の時、明治21(1888)年の小田原町との分水事件、明治29(1896)年の静岡県の深良用水との芦ノ湖の水利権を争った逆川事件、これら2つの事件の解決に尽力した功績が認められたと。『小田原用水取入口』。『小田原用水(早川上水)取入口』。小田原用水は戦国時代に北条氏が城下町を潤す為に施設した日本最古の上水道と言われます。記録として最古のものは天文14(1545)年連歌師谷宋牧の東国紀行に、『水上は箱根の水海よりなどきき侍りて驚ばかりなり』とあり、北条氏康・幻庵の誘いで屋敷に招かれた際に、池の水が箱根芦ノ湖を水源とした早川より引いたと聞いて驚いたと。左手に『アネスト岩田ターンパーク箱根』が見えた。2018年3月1日よりネーミングライツ(命名権)を取得し、アネスト岩田ターンパーク箱根と命名。 神奈川県小田原市から足柄下郡箱根町を経由し、同県足柄下郡湯河原町に至る、15.782Kmの観光有料道路。西湘バイパスと小田原厚木道路が交わる小田原西ICが左斜め前方に。久しぶりに、日本橋から86.7Kmの表示が。箱根登山鉄道の踏切を再び渡る。小田原厚木道路のコンクリート橋脚には蔦の葉が赤く染まっていた。『象ヶ鼻』入口。「小田原厚木道路」の高架下から、「旧東海道」は、国道1号線から右手に分かれて、「箱根登山鉄道」の踏切を渡ります。踏切を渡ってすぐに右へ線路に沿って登る小道がありそこを上っていく。『日蓮上人霊跡』。「文永11年(1274)日蓮聖人が鎌倉から身延山に赴く途中、5月13日、当所を通り巨石象ヶ鼻(石の形が象の鼻に似ている処からそう呼んでいた)の上に登られ、遠く房総の諸岳を望んで故郷忘れ難く、遙かに亡くなられた両親を偲ばれ、回向して冥福を祈られ、お曼陀羅本尊を書かれ、石の宝塔を建て、首題釋迦牟尼佛多宝如来四菩薩を刻し、衆生済度の病即消滅を祈願された。その後この地をお塔のふた親さんと呼ばれ里人信仰をあつめた。永仁元年(1293)僧朗慶日蓮の弟子がこの地に来て師の旧跡であるこの地に寺を建て象鼻山妙福寺と命名、下総国葛飾郡中山村大本山法華経寺(末寺)同宗の人々はもとより一般里人から礼拝されていた。おしくも大正二年廃寺となり同村蓮正寺に合併され、現在は同市板橋に移り御塔山生福寺となっております。」奥には古びた門が。行ける場所まで行ったが石碑等見つけられなかったので、引き返す。脇道があったのでそちらを再び上っていくと石碑が。南無妙法蓮華経と刻まれていた。もう一つの石碑も同様に。帰路の坂の途中からの端や川の流れ。その先に西湘バイパス。坂の脇にあった鬼瓦?。そして更に旧東海道を進むと右手に『妙覚寺』山門が見えた。日蓮宗寺院の妙覚寺は、玉山と号す。妙覚寺の創建年代は不詳だが、当所真言宗寺院として創建、日蓮上人の弟子日辨上人が当寺へ寄宿した際に、当寺住職林覚が宗法に感服して日意と改め、日蓮宗に改めたと。当初日辨上人を開祖としたものの、その後日忍上人(文永5年1268年卒)を開山としたと。2016年4月6日に現本堂落慶式が執り行われたと。左手に箱根登山鉄道の『風祭駅(かざまつりえき)』。箱根駅伝開催時には、山越えに挑む直前である小田原中継所の最寄り駅になる。この中継所、いわゆる「見どころ」のひとつなもので、当然当日は見物客でごった返すのだ。今年もさぞ混んだのであろう。風祭の地名は鎌倉時代のこの地の地頭・風祭氏に由来するとされると。右手の高台に『国立病院機構 箱根病院』。独立行政法人国立病院機構が運営する病院である。旧国立療養所箱根病院。政策医療分野における神経・筋疾患の専門医療施設である。戦前は、日中戦争により負傷した戦傷脊損患者を収容した歴史をもち、戦傷脊損療養所としては全国唯一の施設だった。旧箱根療養所時代の歴史資料については、日本傷痍軍人会が運営する「しょうけい館」(戦傷病者史料館)」(東京都千代田区)に展示されている。敷地内には社会福祉法人風祭の森太陽の門福祉医療センターおよび、学校法人湘南ライナス学園がある他、現在使用されていない施設も複数ある。風祭の集落に入ると,急に静かな町並みになる。風祭の集落のはずれに『小田原の道祖神』があった。道祖神は石祠の稲荷型(70cm)と、赤い涎掛けと帽子の合掌座像の伊豆型(58cm)の2つで、小田原の道祖神の一つとして市指定文化財になっている。『東海道風祭の一里塚』「ここは、旧東海道に設置された江戸から21番目の一里塚があった場所である。 慶長9年(1604)江戸幕府将軍徳川家康は、息子秀忠に命じて、東海道、東山道、北陸道に、江戸日本橋を起点として一里(36町・約4キロ)ごとに塚を造らせた。塚は男塚、女塚と、街道の左右に対で置かれ、広さは通常5間(約9メートル)四方であった。塚には榎を植え、旅人の1里ごとの目印とするとともに、夏季における木陰の休憩場所とした。 風祭の一里塚については、天保年中の相模国風土記稿に「東海道側に双塚あり、高各一丈、塚上に榎樹あり。囲各八九尺、東方小田原宿、西方湯本茶屋の里塚に続けり」とある。」 ・・・その7・・・に戻る ・・・つづく・・・
2019.02.15
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翌朝、スペインの旅6日目も早朝散歩、バレンシアの宿泊ホテル『EXPO』八重咲きのハイビスカス。オレンジ。こちらもハイビスカス。塔が立っていたが。集合時間が近くなりホテルへと戻る。そしてホテルに戻る。手前の交差点角には新聞等の売店が。朝食後バレンシア市内観光。バレンシアは絹取引で栄えた地中海商業都市の一つで、その財力によりナポレオンの侵略や、フランコの独裁政治にも対抗でき、自由を守ったとのこと。バレンシアの見所は「カテドラル」「ラ・ロンハ」「中央市場」の3ヶ所。女性現地ガイドもバスに乗り込みバレンシア市内観光のスタート。世界遺産の「ラ・ロンハ」近くでバスから下車して市街地を散策。前方に「サンタカタリーナ教会の塔」が垣間見えた。バレンシアは陶磁器の街でもあり、ポーセリン・アートで有名なリヤドロ兄弟は、バレンシア近郊で生まれた。その直営店がバレンシア市内にある。ビルヘン広場( plaza de la Virgen)から「カテドラル(大聖堂)」と「エル・ミゲレテ(El Micalet)」を見る。ビルヘン広場には大きな彫刻と噴水があった。水の神と周りにバレンシアの8個の水源を現す女神たち。バレンシアにとって水は大切という象徴。バレンシアにとって水は大切という象徴とのことであるが、「ネプチューンの噴水」は休止中であった。大聖堂に隣接し、聖母広場に面したサーモンピンクの建物は、バレンシア市民にもっとも愛される「聖母デサンパラードの聖堂」。「バレンシア大聖堂」のゴシック様式の「ファサード」。「エル・ミゲレテ(El Micalet)」。愛称「ミゲレテの鐘」を持つ八角形のゴシック式鐘楼。14~15世紀の間に造られた石造りの鐘楼。1418年の聖ミカエルの祝日に大鐘が奉献されたことを記念し、ミゲレテの名が鐘に付けられた。それ以来、この塔はミゲレテの塔と呼ばれている。ミゲレテとは、バレンシア方言でミカエルの意味で、地元では親しみを込めてミカレット(ミカエルの愛称)と呼んでいる。50mの高さにある展望台まで207段の階段を上れば、バレンシアの街並みを一望できると。『カテドラル』は旧市街のシンボル。キリストの聖杯が安置されている旧市街のシンボル。かつてモスクがあった場所に、イスラム教徒からバレンシアを奪還したアラゴン王が教会として建設。ロマネスクにゴシック、バロックなど改修した各時代の建築様式が混在している。内部の礼拝堂には、イエス・キリストが最後の晩餐に使ったといわれる聖杯を安置。美しいメノウで作られた聖杯は15世紀にバレンシアまで運ばれた。1238年、ジャウマ1世により建設が始められた。中に入ったがミサの最中のため静かに退場。そして世界遺産の「ラ・ロンハ」スペイン第3の都市ここバレンシアにある正式名称「ラ・ロンハ・デ・ラ・セダ」は、バレンシアが経済的に大きく発展した15世紀後半に建てられた「絹の商品取引所」。1996年にユネスコの世界遺産に登録された。バレンシア旧市街の中央部に在る「ラ・ロンハ・デ・ラ・セダ」はイスラム王宮跡に1482年から1533年に掛けて作られたゴシック後期のフランボワイヤン様式による建物で、絹取引の貿易会館として作られた。スペイン語で「セダ」とは「絹」で、「ロンハ」は「貿易」であるとの女性現地ガイドの説明。単独で世界遺産に指定されたとのことですが日本からの添乗員からも疑問の声。建物も大きくなく何故?中央市場前に立つこの建物は「サンジョアンデルメルカット教会(Iglesia de San Juan del Mercado)」。その前に「中央市場(Mercado Central)」。中央市場の建築工事が始まったのは1914年で、施工から100年!もはや歴史的な建造物。総面積8160㎡、1200店舗以上が並ぶ、ヨーロッパでも最も大きな生鮮食品市場のうちの一つ。見事なドーム。中央市場内に1200店以上の店がある。野菜、肉、魚等庶民の台所が容易に想像できる場所。イベリコ豚がぶらさがっていた。建物の正面は市場とは思えない立派な作りであった。スイカ、アーティーチョークも。桃が売られていましたが日本では見かけない扁平型の桃が山積みされていました。一緒の旅友Sさんががアメリカンチェリーを買い配ったため、大いにツアー仲間から点数を獲得していました。このあと9時に中央市場を出発して、北東方面約350kmに位置する最後の訪問地バルセロナへ。メディテラネオ自動車道(AP7)をひたすら走る。直ぐに大きな川があったが。トイレ休憩でドライブイン『AUTOGRILL』へ立ち寄る。ツアーバスの前で旅友と一緒に。再び地中海が見えて来た。バンデリョス原子力発電所(Central nuclear de Vandellòs II)が右手に。1号機は廃炉となり、2号機は1080MWeの加圧水型原子炉。さらに3号機が計画されていたがこれは1995年9月2日に断念されたのだと。高速道路脇にあった『ラス・ファレラス水道橋(Aqüeducte de les Ferreres』。ラス・ファレラス水道橋はスペインで2番目の大きさを誇る別名 ”悪魔の橋”と言われている。タラゴナの中心部から約4km離れた場所にある、ローマ皇帝アウグストゥス時代の水道橋「悪魔の橋」。2層アーチ式で状態がよく、スペインではセゴビアに次ぐ規模の重要な水道橋。北を流れるガイア川から、タラゴナの街へ水を引いた当時は、全長が35kmもあったという。現在地はタラゴナ(Tarragona)。タラゴナはスペイン北東部に位置するカタルーニャ州の港町です。この町はローマ帝国時代にはタラッコと呼ばれており、当時の古代遺跡も多数。ここからバルセロナ方面への高速道路は2本に分かれていた。1本は山側を走るAP-7、もう一方は海岸線を走るC-32号線。我々のバスはそのままAP-7を進む。バルセロナが次第に近くなる。独自の文化を持つカタルーニャの中心都市、バルセロナ。サグラダ・ファミリア聖堂に代表されるガウディ建築や旧市街のゴシック地区など、趣深い建築物が待っているのであった。バルセロナ市街地に入り、車窓からガウディ建築を紹介された。バルセロナ市街地のレストランで昼食。先客で韓国人観光客が食事中でテーブルには持参のキムチが。我々のテーブルには梅干しはなし。前方に「バルセロナ凱旋門(Arc de Triomf)」が姿を現した。バルセロナ、シウタデリャ公園の近くにあるこの凱旋門は、1888年の万国博の時に、万国博の入口として建設されたもの。建築家ジュゼップ・ビラセカ・イ・カザノバスによる、当時流行していたネオ・ムデハル様式。レンガで作られた高さ約30メートルのこの門には、農業、産業、芸術、商業をイメージした様々な彫刻が施されていると。バルセロナ凱旋門はフランス・パリの白い石を使った凱旋門とは異なり、情熱の国スペインらしさが表れている赤いレンガで作られていたのであった。 車窓からガウディ建築の『カザ・ミラ』が左手に。ガウディがインスピレーションを得た、最終日に訪ねたモンセラットから切り出された石灰岩は、都市のなかに聖なる岩山を生み出したのだと。曲線がユニークな集合住宅である『カザ・ミラ』独特の形状からバルセロナ市民にラ・ペドレラ(石切場)の愛称で親しまれるガウディ晩年の作品。波打つ曲線のファザード、地中海の巨石を思わせる造形は、カタルーニャの聖地モンセラットの奇岩がモチーフ。断崖絶壁を想像させる自然主義的作品であり、曲線のみで構成されるユニークな形状は、ガウディのもっとも完成したスタイルが見て取れる。最上階にはガウディの作品を紹介する博物館になっており、屋上には兜をかぶった騎士を連想させる奇妙な煙突がそびえる。そしてサグラダ・ファミリアへ。着工から120年間を経過した現在でも建設中のスペインを代表する建築家ガウディーの代表作。彼の構想では、聖堂の外側にイエスの「生誕」「受難」「栄光」の3つのファザードが建ち、各ファザードは4本ずつ鐘塔を持つ。計12の塔はそれぞれ12使徒を意味する。また、4人の福音書家を表す4本の鐘塔の交差部上にイエスとマリアに捧げる中央塔が建てられ、計18の塔がそびえる壮大な教会は石に刻まれた聖書ともいえる。現在、完成しているのは地下聖堂と後陣「生誕」「受難」のファザードと8本の鐘塔のみ。ガウディの死後も工事は続けられ、2020年ごろ完成予定といわれていたがさすがに観光客が多く混雑していた。大きすぎてデジカメに収まらない。ファサードは、主に4本の鐘楼(塔)と、聖家族に捧げられた3つの門「望徳の門」「愛徳の門」「信仰の門」で構成され、ファサード壁面の彫刻にはキリストの誕生から青年期までの成長が、喜びや生気に満ちたシーンで表現されていると。唯一の日本人彫刻家、外尾悦郎氏の作品もあると。こちらは「愛徳の門」。愛徳の門は、救世主イエスの誕生を祝福する彫刻群で飾られているのが特徴。各彫刻では。イエスの誕生にまつわる様々なエピソードや、それに関連した登場人物たちが表現されていると。正面入口の下から頂上を見上げる。塔の前に立ち説明されたが遠くて分からず、ガイドブックから。黄色線内が、「聖母マリアの戴冠」。ガウディの友人の息子で彫刻家の「ジュアン・マタマラ」が手掛けた作品。神がマリアの献身的な愛に対して戴冠を行う姿が表現されています。向かって左がマリアの婚約者でイエスの養父の「聖ヨセフ」です。ズームして。「受胎告知」「イエスの生涯」。この彫刻「イエスの生誕」では、イエスの誕生に喜ぶ養父「ヨセフ」と、赤子のイエスを抱きかかえる「聖母マリア」の姿が表現されている。「東方三賢人の礼拝」エルサレムでイエスが誕生した際に、東方で星を見た三賢人が、その星を追って、エルサレムの「ヘロデ王」を訪れるという聖書の一場面を表現。「羊飼い達の礼拝」ベツレヘムの町の郊外で、夜通し羊の番をしていた羊飼いたちに、天使がキリストの誕生を告げた一場面を表現。そして「希望の門」左手のエジプトへの逃避の場面の下には、“希望の門”と名付けられた扉が。彫刻の多さに圧倒される。「信仰の門」生誕のファサードに向かって右側に位置する「信仰の門」は「聖母マリア」に捧げられた門。ファサードを飾る彫刻では、イエスの幼少期から青年期、更に聖母マリアを主題にした場面が表現。見上げる旅友。現状の全景が見える位置から。鐘塔には上れないとのことであったが幸運にもエレベーターに誰も並んでいないことを現地スペインガイドが発見。急遽上る希望者を募る。もちろん手を挙げる。再びファサードを見上げる。上部からはバルセロナ市内が一望でき銃弾の形をした水道局の建物も見えた。別の方向を見る。上部は建設用のクレーンが林立し完成まではまだまだほど遠いことが想像された。展望台から上部を望む。タワークレーンがセットされて。塔の内部から上部を見上げる。塔の中を歩いて下る。廻り階段を下る。塔の上から廻り階段を降り1階の作業場1階から見上げる、高い足場が積み上げられていた。手作業で部品を作成。日本人もいるとのこと。型があり細かいものを作っていた。作業場の片隅に完成図であろうか置かれていた。複雑な形状。ステンドグラス。外に出て、下から見上げた受難のファサード。「受難のファサードの彫刻」。受難のファサードの彫刻は、キリストの苦悩と悲しみがテーマとなっており、最後の晩餐からキリストの十字架磔刑までの場面が12の彫刻群で表現されていた。更にその遙か上には復活を遂げた「キリストの昇天」の彫刻も飾られていた。彫刻家の「スビラックス」は、ガウディの意図を最大限に汲み取りながらも、細部の作風に関してはガウディに囚われず、角張った縦長のフォルムで人物を表現し、自身の作風で仕上げたと。中央上に「十字架磔刑」、その下に「聖ベロニカと複音史家」。中央に「3人のマリアとキレネのシモン」、右に「ピラトの判決」。一階部分。方向を変えて。ズームアップ。「この人を見よ(エッケ・ホモ )」鞭を打たれてイバラの冠を被せられたイエスを罵倒し騒ぎ立てる群衆に向けて、ローマ帝国のユダヤ属州総督「ピラト」が「この人を見よ」という言葉を発した瞬間が表現されている。サグラダ・ファミリア聖堂の彫像は聖書の各場面を表現している。ツアーガイドであろうか。スペインを代表する建築家ガウディが設計した2026年完成予定の大聖堂。着工した1882年3月19日から137年が経とうとしているが未だに建設が続いている。行った時は2020年ごろ完成といっていたが。後6年位で完成するのであろうか。最後に見上げてバスに乗車。幻に終わった公園都市『グエル公園』グエルがスポンサーとなったガウディ最初の都市開発プロジェクト。約20haの土地に当初60戸の住宅を建設する予定だったが、グエルの死により計画は失敗に終わり、美しい公園が残された。緻密な計算で設計された広場横から続く石の柱廊。蛇をイメージしたという遊歩道。鳩の巣になっている。柱廊の下でギターを弾く人物。おとぎの国の家を思わせる建物が並ぶ。下の広場へ降り。公園管理者用に建設された事務所塔の先端にガウディ建築物の象徴、ダブルの十字架が鎮座する。ズームで。公園のシンボルである、モザイク造りのトカゲ。トカゲは水の守護者と言われている。丘の上に立つ塔。この建物は違うが、グエル公園内にはガウディが暮らしていた家が博物館として保存されている。ーーーーー アントニ・ガウディの一生 ーーーーーアントニ・ガウディはタラゴナ近郊の都市レウスで1852年に生まれた。バルセロナ建築学校に21歳で入学、苦学生だったガウディは、複数の建築家の助手として早くから現場で実践を学んだ。卒業後、後にパトロンとしてガウディを生涯支え続けたバルセロナの新興ブルジョアジー、エウセビ・グエルに認められ、斬新なデザインと構図美を持つ作品を発表、建築家としての地位を確立する。晩年はサグラダ・ファミリア聖堂の建設にすべての時間と情熱を捧げるが、1926年、路面電車にはねられて73年の生涯を閉じる。広場から遠くに地中海が見える。公園ではノカンゾウ(野萱草)が満開ユリ科ワスレナグサ属の野草で、一日花で食用にできる。多くの観光客が。17:37グエル公園を後にする。旧市街地を散策し各自で夕食へ。各自で夕食後集合して、宿泊ホテルへ『CAMPANILE』。時間は22時過ぎ。室内に入り水廻りをチェック。ツインルームに入り。我々は1日の延泊にしているので連泊となる。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2008.06.11
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国道228号を走り北海道檜山郡江差町にある開陽丸青少年センター「えさし海の駅 開陽丸」に到着。開陽丸管理棟の「えさし海の駅 開陽丸」には、江差町の様々な特産品や農家から直送された農産物・海産物などを一堂に揃えたお土産店「アンテナショップぷらっと江差」があり、開陽丸見学後の立ち寄りスポットとして便利な場所。入口には榎本武揚、土方歳三の写真入りの「開陽丸沈没百五十年記念 開陽丸」と書かれたパンフレットの表紙と同じ看板が。ようこそ「開陽丸記念館」へ。”よみがえる幕末ロマン”開陽丸は、江戸幕府が諸外国の海軍に対抗するため、江戸時代末にオランダで造られた軍艦です。開陽丸は、江戸幕府に引き渡された後に起こった戊辰戦争で活躍しましたが、明治元年(1868)に江差沖で座礁・沈没しました。昭和50年(1975)から昭和59年(1984)にかけて、水中での発掘調査が行われ、約3万3千点の遺物を引き揚げました。平成2年(1990)実際の開陽丸と同じ大きさで復元した資料館で、大砲・砲弾・船具などの遺物を展示しています。まずは、「開陽丸記念館」方向に向かう。「開陽丸」は、幕末期に江戸幕府が所有していたオランダ製軍艦で、1868年(明治元年)11月15日に江差沖で暴風雪に遭い、座礁、沈没。1974年(昭和49年)から遺留品の発掘調査が本格的に開始され、大砲やシャフト、古文書などの遺留品が3万点以上引き揚げられた。1990年(平成2年)4月に復元され、船内は記念館として遺留品約3000点が展示されているのだ。「えさし海の駅 開陽丸」の横には「引き揚げられた大砲」3門が展示されていた。「9インチ ダルグレン砲」 ペリー提督が搭乗していたサスケハナには12門のダルグレン砲が搭載されていた。ライフリング(施条、銃砲の銃砲身内に施された螺旋状の溝)が彫られていない為に射程距離は延びないが砲身後部の肉厚が太い為に大量の火薬を詰込む事が可能であり距離の近い敵に一撃を食らわす事に優れていた。 9インチ ダルグレン砲 全長:3m33cm 口径:22.5cm重量:4200kg 装薬:4. Okg 射角:4.0度て射程:1,400m 施条無 アメリカ製「16サンチクルップ砲」「サンチ」とはcmのフランス読みで、帝国陸軍の大砲口径の呼称。「クルップ砲」とはクルップ社の製作した大砲。特に、1847年に製作した、世界初の鋼鉄製の後装砲(こうそうしき)。後装式は、銃砲の装填方式を2つに大別した1つで、銃砲身の尾部から砲弾と装薬を装填する方式を言う。銃砲口から装填する前装式の対義語。16サンチクルップ砲全長:3m35cm 口径:15.8cm重量:2,855kg 装薬:2.5kg射角:4.5度で射程:3,983m施条有 ドイツ製「12ポンドカノン砲」。「カノン砲」は遠距離を射撃するために、長い砲身から大きな初速の砲弾を平らな弾道で発射する。ほかの同口径の火器に比べ、砲身、砲架ともに大型で,重量も大きい。カノン砲は砲弾の重さによって分類される。12ポンド砲とは(通常)12ポンド・5.44kgの重量を持つ砲弾を使用するように設計されているということ。12ポンドカノン砲全長:2m13cm 口径11.6cm重量:1,000kg 装薬:1.2kg射角:32.5度で射程:4,700m施条有スクリューシャフトと上下装置(真鍮製)。写真の右側がエンジンの方へ繋がり、右端の溝のある部分がスクリュー側になると。つまりスクリューユニットが上からストンとこの溝に嵌まって、マイナスのネジを回す要領でスクリューを回転させる構造。後ろにあるギザギザの部品がスクリューの昇降装置のようだ。修学旅行?生の姿も前方に。「スクリューシャフトと上下装置開陽丸のシャフトの最後部。長さ重量とも出土遺物のなかでも最大級のもの。全長 680cm、最大径 88cm、推定重量 6t、左手前は上下装置。帆走時には波の抵抗を避ける為、スクリューを上昇させる装置。帆船から蒸気船に移行する過渡期の特徴である。」帆走のみの時には二枚羽根のスクリュー抵抗になり、かえって邪魔になるので、スクリューユニットを主軸からはずして引き上げられるような当時では最新式の設計がしてあったのだと。 【http://www5f.biglobe.ne.jp/~wakatake/SS/kaiyoumalu.htm】より沈没していた船体の一部も展示されていた。そして前方に復元された「開陽丸」が夕日を浴びて。復元された「開陽丸」の内部は「開陽丸記念館」になっていた。「開陽丸記念館」入口がここであったが、この日は館内には入らなかった。「開陽丸記念館」案内ボード。「開陽丸記念館開陽丸は、江戸幕府か諸外国の海軍に対抗するため、江戸時代末にオランダで造られた軍艦です。開陽丸は、江戸幕府に引き渡された後に起こった戊辰戦争で活躍しましたが、明治元年(1868)に江差沖で座礁・沈没しました、昭和50年(1975)から昭和59年(1984)にかけて、水中での発掘調査が行われ、約3万3千点の遺物を引き揚げました。平成2年(1990)実際の開陽丸と同じ大きさで復元した資料館で、大砲・砲弾・船具などの遺物を展示しています。」別の場所にあった「開陽丸記念館」案内板。開陽丸は、江戸幕府が諸外国の海軍に対抗するため、江戸時代末にオランダで造られた軍艦です。開陽丸はヽ江戸幕府に引き渡された後に起こった戊辰戦争で活躍しましたがヽ明治元年(1968)に工差沖で座礁・沈没しました。昭和50年(1975)から昭和59年(1984)にかけて、水中での発掘調査が行われ、約3万3千点の遺物を引き揚げました。平成2年(1990)実際の開陽丸と同じ大きさで復元した資料館で、大砲・砲弾・船具などの遺物を展示しています。と、説明文は上のものと同じであったが・・・???。案内板下部にあった、沈没した「開陽丸」の遺物引き上げ時の写真。「開陽丸」2F 作戦会議室の写真。開陽丸に積まれていたドイツ製の武器・クルップ砲の写真。幕末の軍艦「開陽丸」をパンフレットから。「開陽丸」の基本情報。3本マストの汽帆船で、補助蒸気機関は約400馬力で、蒸気エンジンだけで約10ノット(約18km)で航行することができた。「開陽丸」は蒸気船だが、帆を展開して帆走もできるいわゆる汽帆船であった。帆装:3檣シップ型 面積:2,097.8平方メートル 最大速力約10ノット(汽走時)写真の煙突は、帆走時には潜水艦の潜望鏡のように艦内に収納できるような仕組み。また蒸気船としての推進システムでは、スクリュープロペラを使った「スクリュー船」。これは幕末に浦賀沖に現れたペリー艦隊の蒸気船さえ、水車のような外輪で水を掻いて進む「外輪船」だったことを思うと画期的なことであったと。「えさし海の駅 開陽丸」を裏から見る。「開陽丸」が暴風雨に襲われ江差沖に座礁・沈没したのは、1868年(明治元年)11月15日の夜。土方歳三らと打ち合わせて、江差攻略戦に参加した際の遭難であった。「開陽丸」の喪失により、旧幕府軍の海軍力は急速に低下。逆に勢いづいた明治新政府軍の攻撃を受け、翌年の1869年(明治2年)5月に榎本武揚ら旧幕府軍は降伏することになったのであった。「開陽丸」の後部に回り込み。前方の島が「鴎島(かもめじま)」。「北海道立自然公園 かもめ島」案内板。「かもめ島お散歩MAP」。江差港にある海抜20メートル、周囲約2.6キロメートルの陸繋島で、多くの釣り客で賑わうフィッシングスポットとして知られる。島の入口付近は砂浜になっていて、島に向かって右側は「前浜」、左側は「えびす浜」と呼ばれている。「えびす浜」は夏期間の海水浴場としても使われている。鷗島にはいろんなスポットがある。① 馬岩(うまいわ)、② 瓶子岩(へいしいわ )、③ 千畳敷、④ 江差追分記念碑、⑤ 厳島神社⑥ 浪切鳥居、⑦ 北前船係留跡&北前船飲用井戸、⑧ 徳川幕府砲台跡 等前浜側の島の隣には高さ約10mの「瓶子岩(へいしいわ)」があり、古来より漁民の守り神として地元漁師から崇拝されている。2015年(平成27年)4月には、厳島神社建立400年を記念して、厳島神社四百年記念実行委員会の有志によって「瓶子岩」の前に「朱の鳥居」が建立された。鳥居は厳島神社と瓶子岩を望む方角を向く位置に設けられている。鴎島の脇に建つ「瓶子岩」。瓶子(へいし・酒徳利)を逆さまにした様な姿であることから名が付いた。伝説では、折居(おりい)という姥が、神から託された瓶に入っている水を海に注いだところニシンが集まり、江差でニシン漁が盛んになった。その瓶が岩に化したとされている。毎年、「かもめ島まつり」が行われている7月第1土曜日に、しめ縄飾りの架け替えが行われる。左側の「えびす浜」の浜辺を歩くと右手に遊歩道が。ズームで。「馬岩伝説では、源義経は衣川(岩手県)で死んでおらず、江差へ渡ってきました。鴎島の断崖にある白い岩は、義経がさらに北へ逃れる時に、残された義経の愛馬が石になったものと伝えられています。」これが義経の愛馬が石になったと言われている「馬岩」。ライオンの顔の如し。「開陽丸」が夕日に輝く。そろそろ、塗装補修が必要。この時は、引き潮の時間であったのだろうか?座礁の状態?夕日も「鴎島」の丘に沈んで行く。ズームして。更に。再び「えびす浜」の波打ち際を歩き「開陽丸」の前まで戻る。正面から。上部に取り付けられているこの船の紋章は、徳川家の家紋(三葉葵)をデザイン化したものであると。しかし「三葉葵」の形に違和感を感じたのであったが・・・・。夕日を背景に。アシナガオジサンの勇姿をここでも自撮り。マストには数え切れない数のロープが複雑に。帆を張り航行する「開陽丸」の絵の姿をネットから。【https://hananomichi.at.webry.info/upload/detail/005/646/54/N000/000/000/156766351423511637318-t humbnail2.jpg.html】 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.12.03
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「観音禅寺」を後にし、県道401号線を「阿久和川」に沿って下っていくと左手奥にあったのが横浜市認定歴史的建造物「中丸家長屋門」。横浜市泉区新橋町1290。右手の手前には「憩い(いこい)のまほろば」が。川沿いの中丸家長屋門のたたずまいに河川の風景が融和するように、また、人々が憩えるように配慮して、あずまや・ベンチ等の休憩施設、車椅子利用者対応のトイレや広場も整備されていいた。阿久和川は平成5年の「まほろばの川づくりモデル事業」(国土交通省)に、全国に先駆けて認定され、整備されていると。「まほろばの川案内図」であったが・・・・。「阿久和川」は、横浜市泉区から戸塚を流れ、柏尾川と合流する。さらに境川と合わさり、片瀬江ノ島の海に注ぐ川。 その区間を5つに分けて、それぞれ,「☆☆☆のまほろば」と名づけられているとのこと。川沿いは,遊歩道が整備されて、散策に適しているのだ。それぞれの「まほろば」はミニ公園のように整備されていると。この場所が「憩いのまほろば」そして下流に向けて「ふれあいのまほろば」、「出会いのまほろば」、「集いのまほろば」、「古のまほろば」があるとのこと。「まほろば」は、「素晴らしい場所」「住みやすい場所」という意味の日本の古語。「まほらば」「まほらま」「まほら」ともいうと。ネットからわかり易い地図を。 「https://twitter.com/taku_rinbo/status/592456264816267264」より「中丸家長屋門」を正面から。手前に「阿久和川」に架かる「阿久和めがね橋」。1999 年12月竣工。明治時代中頃に建築された「中丸家長屋門」は、平成13年度には、「横浜市認定歴史的建造物」に選ばれ、また、「中丸家長屋門とその周辺」が「横浜・人・まち・デザイン賞(まちなみ景観部門)」を受賞するなど泉区を代表する建築物。「横浜市選定歴史的建造物 中丸家長屋門」。「中丸家長屋門」前の「長寿地蔵尊」。コロナ対策として「face Shield」を着けて。「中丸家長屋門」下から内部を。人力車も展示されていた。中は一般の住居のため、これ以上は立入禁止のようであった。左に中丸家母屋と正面に土蔵が見えた。「ぴんころ地蔵の案内板」「長寿地蔵尊(ぴんころ地蔵)信州佐久地方は、日本でも有数の長寿の里として知られています。住みやすい風土と、千曲川の清流、そこで育った佐久鯉、新鮮な果実、野菜などの食物と昔ながら勤勉さ、信仰の深さが健康長寿の秘訣とされています。健康で長生きし(ぴんぴん)楽に大往生(ころ)を願ってここに長寿地蔵尊として【ぴんころ地蔵】が建立されております。毎月第ニ土曜日を縁日とし、健康長寿だけでなく子供たちの健やかな成長、家運隆盛などの功徳がえられます。」「中丸家文書にみる新橋地域の文明開化」中丸家長屋門建築頃の阿久和阿久和村は、天正19年(1591)5月より旗本安藤領であった。江戸時代、中丸家は代々名主を務めた旧家で代々定右衛門を名乗る。定右衛門は明治初期第17大区4小区阿久和村村用掛(当時の村長に相当)の職にあり、明治15年7月~ 16年3月迄阿久和村戸長兼学務委員を命じられ、屋敷内に戸長役場があった。中丸家には戸長役場時代の村に掛かる税金などの請求書や村用掛時代の地租改正に関する上申書が残されている。その後、明治17年5月、阿久和・岡津・上矢部・秋葉・名瀬の各村が岡津向導寺に連合戸長役場を設け、明治22年これらの村々が合併して中川村となった。「鎌倉郡阿久和村戸町 中丸定右衛門」申付書。「幕末から明治期の中丸家婚姻関係図」。横浜市歴史的建造物指定の中丸家長屋門中丸家の門は明治18年頃建築され、2階建入母屋造鋼版葺。桁行8間・梁間3間の出桁造。瀬谷の大岡家長屋門と同じ頃建築された。中丸家と大岡家は姻戚関係にあり、定右衛門妻サキと鶴吉妻タイは二代にわたり大岡家から嫁いできている。関東大震災でもビクともしなかったケヤキ材の長屋門は入口の木組が珍しい鳥居の形をしている。「中丸家付近の航空写真」。長屋門は入口の木組が珍しい鳥居の形。「キリスト教 阿久和教会と中丸家」明治18年3月、定右衛門は横浜に出ていた次男の鈴木彦太郎の導きで、長男鶴吉と共に横浜海岸教会の宣教師バラと稲垣牧師により受洗してキリスト教徒になった。翌19年には中丸家邸内に信徒60余名の阿久和教会が出来た。下記は明治30年迄の阿久和教会構成員推移表(大橋俊雄著・戸塚区の歴史下巻より)「中川村の経済を支えた横浜貿易・一族協力し農業経営養蚕・製糸・百合根栽培と中丸家」◎明治28年(1895) 9月には、北井要太郎の改良合名会社に1,600円(出資率23分の1)を 払込み、有力社員として近隣10名の取りまとめをしている。◎明治45年6月には明治44年操業を開始した下和泉の清水製糸場と生繭の売渡契約を行い、 200円(1貫目に付約4円50銭)を約定している。清水一族には中丸家から道三郎が養子に 出ている。(現清水美宏氏宅)「昭和15年頃の中丸家の養蚕風景母屋一杯に蚕棚を並べて家族総出で蚕を飼う。鶴吉夫妻も健在」写真の左右に「蚕棚」が写っている。「中川村歴代村長一覧中丸鶴吉は関東大震災当時の村長で倒壊した村役場で机の下にいて災難をのがれた」。「明治31年当時の泉区域の製糸業改良合名会社と中丸家瀬谷の長屋門公園付近には、区役所の建てた「製糸場跡」の看板が建ち、【この付近には相州改良社と大剛社があり、その為人の出入、車馬の往来が激しく賑やかなことから『江戸阿久和』ともいわれていた。】とある。改良合名会社の設立は「神奈川県統計書」によると明治二十四年二月で、当初から蒸気機関を用い、生糸製造高は創業後増加し二十九年~三十八年頃までの十年間が全盛期で、以後減少している。工女数は百数十名、最盛期にはニ百名を越えていた。経営者は阿久和の素封家北井要太郎で、工場はその邸宅門前にあった。」「輸出用百合根の栽培と新橋町新橋町の中丸家と横山家二つの長屋門は、製糸、百合根と横浜貿易盛んな時代に建てられた。百合の球根は、キリスト教の復活祭にはイースター・リリーと呼ばれ、百合の花は欠かせないもので、中丸一族は横浜植木と契約栽培を行い、2月頃種の球根を受け取り、花の咲く頃まで畑で栽培し球根を採取、汲沢にあった試作場で土を入れ梱包しアメリカなどに輸出された。昭和7年を頂点に満州事変で衰退した。下新橋の相原家・大貫家・柳畑の横山一族は新井商店と契約栽培を行っていた。」「横浜市認定歴史的建造物『中丸家長屋門』保全活用計画」と「横浜・人・まち・デザイン賞(まちなみ景観部門)」を受賞。「1.歴史的建造物の概要 (1)名称 中丸家長屋門 (2)所在地 横浜市泉区新橋町1290 (3)建築年代 明治中期と推定 (4)所有者 中丸定昭 (5)施工者 不詳 (6)建築規模 桁行14.56m(8間) 梁間5.46m(3間) (7)建築面積 面積:97.46m2(29.48坪) (8)建築概要 木造、2階建、入母屋造、銅板葺(元トタン葺き) (9)台帳登録 平成2年3月中丸家は旧中川村の旧家で屋敷地の西側を流れる阿久和川沿いにあり、かっては石積みの眼鏡橋を渡って屋敷に入ったので屋号は「めがね橋」と言われた。現当主て18代目を数え中丸一家は近在に14 、5軒ある。屋敷前の阿久和川沿いにはかって谷戸田と呼ばれた水田が続き、裏山には杉林や竹林があって田畑合わせて約14 ~5町歩ほどあり、製糸場の経営や質屋も営んでいた。主屋の前には質蔵が2棟あったが、平成9年(1997)年に1棟は建替え、残りの1棟は取り壊した。当初、菩提寺は岡津町にある西林寺(浄土宗)で、その本堂は当家の祖先が建造したが、その後戦時中に改宗し観音寺(曹洞宗)となった。代々の墓が裏山にあり、内墓(屋敷墓)形式をとどめている。その中には横浜海岸教会の信者だった祖先も見られ、当時としては進取的であった事が伺える。」「中丸家長屋門」左側には住居スペース(隠居部屋)があるようだ。「中丸家長屋門」右側には川に沿って白壁が続いていた。「阿久和川」を渡って。「阿久和めがね橋」は以前は「眼鏡橋」であったが現在は普通?の橋になっていた。橋の欄干が眼鏡のようになっていたが、これが昔の形なのであろうか?そして次に「新橋」交差点を右に折れ、白梅の花を楽しみながら進む。そしてここを左に入る。前方にもう一つの長屋門・「横山家長屋門」を訪ねた。横浜市泉区新橋町。横浜市泉区新橋町にある横山家長屋門は中丸家長屋門よりは新しく、大正時代に建てられたようだ。関東大震災でもびくともしなかったと伝えられている。背が高く、二階建てだ。中丸家とよく似て向かって左側が住居になっているのも共通。ガラス窓にカーテンが掛けられているのだが、ここに何方かがお住まいなのであろうか?門を入った直ぐ左側に海鼠壁(なまこかべ)の土蔵が見えた。良く見ると、母屋は長屋門の右側に直角に建っている。母屋も最近になって建てられたものではないから、もともと、長屋門と母屋を直角に南向きで建てているようだ。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.03.23
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「北条中学校」手前で、北条地区を案内していただける地元役員の方と合流しバスはUターンする。一面の田園が拡がる。事前に北条地区の案内書をOBの方から見せていただく。「歴史と文化の香るまち北条 越後北条城山圖」。「歴史のまち北条 ~越後毛利氏と北条城~毛利氏は、鎌倉幕府を開いた源頼朝の重臣大江広元(おおえひろもと)の子・季光(すえみつ)が相模国毛利荘(神奈川県)を譲り受け、毛利氏を名のったことから始まります宝治合戦(ほうじのかっせん)でその一族は北条氏に滅ぼされました。この時、本拠地の相模国毛利荘などは没収されましたが、佐橋荘と安芸国(あきのくに)吉田荘は領地として認められ、季光の子経光(つねみつ)が南条に移り住んでいたことから、北条(きたじょう)が越後毛利発祥の地になりました。また、西国最大の戦国大名となった毛利元就は、遠隔地の領地を維持するために安芸国吉田荘に土着した一族の末裔(まつえい)です。経光の長男基親(もとちか)は北条毛利(きたじょうもうり)となり、その子時元を初代城主に迎えた北城は戦国の時代まで続きました。城主の中でも、上杉謙信の重臣として上野国厩橋(うまやばし・現前橋市)に派遣さた北条高広(きたじょうたかひろ)と、御館の乱(おたてのらん)に関わったその子北条景広は、鬼丹後としてともに有名です。北条城は、この御館の乱で景広を最後に約300年間の歴史に幕を閉じました。「石仏のまち北条北条のまちを歩いてみませんか、きっとあなたはたくさんの石仏に出会います。ほほえみかける石仏、歴史を刻む石仏、そのお顔やお姿、そしてそこに彫られた文字は遠い先人たちの暮らしの証です。北条は道祖神の宝庫です(13基)。男女神が肩を抱き合い、お酒を酌み交わす姿はいとおしいばかりでなく、素朴な祈りの心がにじんでいます。盲人米山検校(けんぎょう)の話をご存じですか。検校は宝暦の飢饉(1755 )のとき、私たちの祖先を救ってくれました。出身地杉平には墓があり、十二の木と大角間(おおがくま)にはお礼の塔が建っています。廃村した鷹之巣には「祖霊之碑」があります。この碑は先祖の眠る山河が私たちの心のふるさとであることを教えてくれます。」「北条マップ」。ズームして。「北条の宝物」。「北条小唄👈リンク春はうれしや城山ざくら 唄に流れる 唄に流れる 斧の音(北条城跡)思い出します縦貫道路 可愛いあの娘の 可愛いあの娘の 片えくぼ(縦貫道路)丘のほとけをおぼろに染めて さくら参道は さくら参道は 七曲がり(入定上人遺蹟)夏の涼みは長鳥川よ 闇に浮かんだ 闇に浮かんだ 豆木橋(専称寺の豆木門)とけた情けも大師のふしぎ 千とせ塩ふく 千とせ塩ふく 法の水(弘法の塩水井戸)検校米山困窮塚の むかし語りも むかし語りも 草の底(米山検校)秋は十五夜祇園の拍子 火防係の 火防係の 意気姿(北条の十五夜祭り)想いこがれてトンネル抜けて 逢いに来たぞや 逢いに来たぞや 月あかり(畔屋~山澗トンネル)」手に手結んで大杉さんに なんの願いを なんの願いを かけたやら(中村の大杉)肩を並べて金倉スキー 日本海まで 日本海まで ひと息に(金倉滑降)恋のかよい路吹雪にくれて 広田恋しや 広田恋しや 湯のけむり(広田鉱泉)雪にうもれた愛宕の山に 恋のスロープ 恋のスロープ 花が咲く(愛宕山)「北条の伝承料理丹後のやきもち さしみコンニヤク 手打ちそば北条には、古くから伝わる数々の伝承料理があります。それは、自然の素材を慈(いつく)しみ調理された心温まるおふくろの味です。」。そして最初に案内していただいたのが「佐橋神社(さはしじんじゃ)」。バスを下りると、こんな物がありました。右に曲がって、もう少し上れと言うことのようです。「毛利氏の城館址(じょうかんし)と佐橋神社鎌倉時代、この丘に佐橋庄の地頭毛利氏の居館があった。子孫は各地に分散。ここに残った一族は南条氏といい、上杉氏に仕える。慶長3年(1598)廃城。天和3年(1683)、城跡保護のために神社が建てられ、慶應元年(1865)佐橋神社と改称。」参道を進む。モミジの黄葉。ズームして。石灯籠。土塁跡のような土盛りを、神社の周りで見かけた。「毛利元就ルーツの地」碑。佐橋神社は、佐橋庄の荘園居館のあった場所で、ここを拠点に7が村に及ぶ広大な領地を経営し現在の「鯖石」の語源になりました。鎌倉時代、源頼朝の重臣、大江広元の孫にあたる毛利経光がこの丘に移り住み、その後の越後毛利、西国毛利の発祥の地になったことでも知られています。「三本の矢」の故事をのこした毛利元就ルーツの地であり、学問を好む風土は江戸時代の教育者藍澤南城(あいざわなんじょう)にも引き継がれました。「毛利氏略系図(戦国時代まで)」をネットから「鎌倉殿の13人」で「政所別当 大江広元」役は栗原英雄さん。大江広元は北条親子に次ぐNo.3の座につき、「承久の乱」では大江広元の嫡男だった大江親広は後鳥羽上皇に呼び出され官軍側となり、大江広元と大江親広は親子で戦うことになったのだ。生涯を通じて鎌倉幕府に尽くして幕府の発展を支えた大江広元だが、1225年(元仁2年/嘉禄元年)に激しい下痢を伴う病気を患い、亡くなったと。墓所は源頼朝の墓の近くにありますが、現在の神奈川県鎌倉市にある明王院(みょうおういん)の裏山にある、「五重塔が大江広元の墓所」👈リンク と考えられているのだ。「佐橋神社」の拝殿。近づいて。扁額「佐橋神社」。木鼻の彫刻。神楽殿。毎年恒例の春季大祭時にこの神楽殿で行われている「子供神楽」の写真をネットから。境内の石祠。『毛利氏供養塔』。建立された関修さんは、仕事の関係で福島県いわき市に移住されたとのこと。供養塔の後ろに見える建物は、「ごぼう庵」。「毛利氏供養塔建立の趣意この地は大正十二年まで関修家の居住地であった。往昔、東隣高台に毛利氏の城館があったことから、屋号を「城」といい先祖以来毛利氏の霊牌を奉祀してきた。毛利氏は大江広元の四男季光が毛利庄(神奈川県厚木市)に住む毛利家を称したことにより誕生した。宝治元年鎌倉で三浦氏の乱が起こり、毛利の一族が族滅した。偶然にも季光の四男の経光が生き残った。経光は毛利庄から佐橋庄へ下向し、東隣高台に居館を構い、佐橋庄(柏崎市)と吉田庄(広島県安芸高田市)を支配した。経光の子孫は当地南条から北条、安田、石曽根、善根へ分流し、越後毛利氏を形成した。また毛利元就、同輝元らが出た西国毛利氏の先祖は、経光の四男時親である。兼ねてから関修は毛利氏とゆかりの南条の歴史的価値が永く伝え継がれることを願うとともに、毛利一族の供養を宿願してきた。このたび、知友関喜四郎氏の協力を得て旧宅地を整備し、毛利氏供養塔の建立を志した次第である。 合掌 平成二十四年十一月二十六日 建立者 関 修 施工者 関 喜四郎 撰文 関 久」「墓誌」。毛利経光の戒名は「盛生院法榮佑徳信士」と。竹林前にも案内板が。「妙姫庵跡(みょうきあんあと)弘化元年(1844)、藍澤南城の妹佐和47才が出家して玄妙と名のり、妙姫庵を開いた。玄妙・妙真・貞順・厚順・良仙・仙宗が在庵し、通称観音堂とよばれた。昭和46年(1971)以後に仙宗が小出に去り、廃庵となる。」墓地には無縫塔が並ぶ。関氏の墓地。「先祖 関儀右庄門」と刻まれた碑。多くの石仏が刻まれた石塔。ここにも歴史を感じさせる石碑、石仏。「大乗妙典供養塔」と。衆生を迷いから悟りの世界に導いてくれる教えを記した仏教経典である「大乗妙典」を一千回以上、独誦したときの記念に建てた石碑であると。「城址殉難者碑」。「城址殉難者碑明治31年(1898)、妙姫庵3代山岸貞順が建てた。同18年(1885)佐橋神社境内から出土した頭骨を埋葬したものである。大正12年(1913)、地元の旧家関周三郎は山口県毛利公爵家にこの頭骨は毛利経光のものではないかと照会している。」大きな墓石、塔婆には「大姉 廿七回 追善供養」の文字が。「祖先累代法塔」「童女」の供養塔・石仏が並ぶ。廃寺の本堂を移築して「ごぼう庵」と名づけてお茶を飲ませてくれる店と。ネットには休業中ともあったが。店の前には、多くの盆栽が置かれていた。「ごぼう庵」店主の趣味なのであろうか? ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.01.31
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次に訪ねたのが100m程の場所にあった「宗円寺(そうえんじ)」。横須賀市久比里1丁目20−1。寺の手前にあった民家の庭の白の「カラー」の花。南アフリカ原産。 日本には江戸末期にオランダから渡来したと。 メガホン状のところがワイシャツの襟(Collar)の部分に似ているので「カラー」となった。また、その形が、修道女の襟(カラー)を連想させるところからつけられた、とも。1528年(享録元年)、臼井惣左衛門により開山。浄土宗の寺で本尊は阿弥陀如来。境内には庚申塔の他、石造文化財としては珍しい両面地蔵が見られる。本堂では、阿弥陀如来三尊像の他、釈迦の涅槃図を鑑賞することができる。80歳で亡くなった釈迦を囲み、この世の全ての人間から動物までが嘆き悲しむ様子が描かれ、天上には釈迦の生母・摩耶夫人が迎えに来ている と。珍しい?白い涎掛けの石仏が並ぶ。六地蔵を正面から。中央の石仏は阿弥陀如来像であろうか?寺号標石「浄土宗 宗円寺」。眞宝山 慶西院 宗円寺。石柱門には「度生圓通」と。度生:衆生を救うこと。圓通:仏教の言葉で、仏菩薩のさとりはあまねく行き渡り、自在に作用するという意味。「庚申塔」が並ぶ。青面金剛像。六手合掌型。右手で三叉戟と矢を持ち左手で弓と輪を持つ。「正徳貳壬辰歳(1712) 相州三浦郡久比里村」と刻まれていた。建ち並ぶ庚申塔から少し離れたところに建つ、1基の庚申塔。これは、1733年(享保18年)に建てられた庚申塔。ちょうど享保の大飢饉の翌年に建てられているので、飢饉によって亡くなった人のための供養の意味もあるのかもしれません。この時すでに、この地の地名には「久比里村」とあります。地名の由来はわかりませんが、久比里という地名はかなり昔から使われていたようです。御影石の両面に浮き彫りされた10体の両面地蔵尊。近づいて。はてさて面妖な、どちらが表で、どちらが裏か。両面地蔵尊越しに眺めた本堂。鎌倉権五郎景政が片目で彫ったと伝えられる両面地蔵。鎌倉景政(かまくらかげまさ)は、平景政とも称し、平安時代後期の武将。後三年の役では源義家に従軍して、右目を射抜かれながらも奮戦したと。どの両面地蔵も風化が進んでいた。「失明した武将が刻んだ両面地蔵尊奥州後三年の役において英雄の鎌倉権五郎景政も人問の極限の哀しみを神仏に託しては自らを慰め世の中の盲人を救うために、来世の光明を願って一念発起、盲目の身にもめげず両面地蔵を手探りで彫り上げたと伝えられ、眼病平癒の対象とされている。」ここにも石仏が。「南無阿弥陀佛」と刻まれた石塔。入母屋造瓦葺の本堂扁額「真寳山」。内陣。本堂前の天水桶。ここにも六地蔵?墓地を望む。「飯岡助五郎親分の父の墓」。「飯岡助五郎親分の父の墓「宝純院得譽義専称願居士」講談や浪曲にも出てきた下総の国(千葉県飯岡)の大親分助五郎は、三浦半島で生まれ、この久比里の土地こそ助五郎の父が居住していた所」「宝純院得譽義専称願居士」と。無縁塔。再び本堂を見る。無縁塔がここにも。「享保十二丁未天(1727)十一月二日」と。「文政元寅年(1818)」と刻まれた墓石。歴史を感じさせる墓石が並ぶ。そして「宗円寺」を後にして「夫婦橋」に向かって引き返す。「夫婦橋」手前の路地を左に曲がり、「平作川」に沿って歩く。釣船チャーター「山下丸」の駐車場には一面に黒い海藻が天日干しされていた。ヒジキであろうか。こちらはワカメの日干しであろうか。近づいて。その先にあったのが「自衛隊久比里官舎」。海側には「陸上自衛隊 久里浜駐屯地」があるのだ。地上4階建ての官舎が10棟以上並んでいた。ドーム型アンテナ。久里浜駐屯地は昭和14年(1939年)に旧海軍通信学校として開設されました。その後、昭和25年に発足した自衛隊の前身である警察予備隊当時から続く自衛隊最古の駐屯地 。駐屯部隊には昭和27年(1952年)から続く「通信学校」のほか、「通信教導隊」、「(システム通信団)中央野外通信群」、「(東部方面後方支援隊)通信教育直接支援中隊」、 「(東部方面警務隊)第129地区警務隊」、「(東部方面システム通信群)第316基地通信中隊久里浜派遣隊」がある。令和6年3月に「システム通信・サイバー学校」に改編し現在に至る。とネットから。「ここは、自衛隊官舎地区です。自衛隊関係者以外の立ち入り及び車両の駐車をお断りしております。陸上自衛隊通信学校長」「夫婦橋」に引き返すと、ここにも昆布が。養殖昆布であろうか、辺りに磯の香りが広がっていたのであった。「久里浜地区周辺案内」マップ。「現在地」はここ。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.05.22
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【寒川町の寺社旧蹟を巡る】 目次私の住む神奈川県藤沢市は、鎌倉市、横浜市戸塚区・泉区、大和市、綾瀬市、海老名市、寒川町、茅ヶ崎市の6市1町と市境を接している。我が藤沢市内の寺社旧蹟巡りはほぼ完了した後、長引くコロナ禍で国内旅行、海外旅行が制限される状況から、隣接する6市1町の寺社旧蹟巡りを決意したのであった。そしてこれまでに「横浜市泉区・戸塚区」👈リンクを制覇しその後「綾瀬市」👈リンクそして「大和市」👈リンク、「鎌倉市」👈リンク、「海老名市」👈リンク、「茅ヶ崎市」👈リンクを完了し、今回の『寒川町の寺社旧蹟を巡る』への〆の挑戦をスタートしたのであった。「寒川町の寺社旧蹟を巡る」のスタートは「海老名市の寺社旧蹟を巡る」の最終日の帰路に立ち寄ることから始まったのであった。正面に「倉見神社」の石鳥居。熊野社(くまのしゃ)と称していたが、明治2年(1869)に神明社(しんめいしゃ)と合併し、倉⾒大神となった。その後、昭和18年(1943)に倉見神社と改称された と。神奈川県高座郡寒川町倉見45−3。石鳥居の扁額「倉見神社」。「倉見神社御祭神 天照皇大神(あまてらすすめのおおかみ) 熊野加武呂伎命(くまのかむろぎのみこと) 倉見大神と称する御由緒 御創建は不詳であるが、小田原北条氏分国の頃、山中彦八郎が倉見村を知行していた折り、神明社・熊野社の両社を勧請し倉見の鎮守として奉斎したのが始りと伝えられる。以後この両社に倉見地域内の数社を合祀し、明治二年「倉見大神」と称す。同六年十二月村社に列せられ、昭和十八年「倉見神社」と改称し、同二十八年「宗教法人 倉見神社」となり現在に至る。往事に於ける社殿の規模などは詳らかではないが、神社所蔵の棟札によって安永三年(1774)六月、氏子一同の寄進を以って神明社の本殿修復並に熊野社の拝殿造営のことが知られる。現在の本殿は、明治二十七年寒川神社が本殿を造営するにあたり旧本殿を譲与され同二十八年移築したものである。尚この本殿は 寛保元年(1741)に造営されたものであり、昭和五十三年寒川町重要文化財に指定されている。拝殿は、平成四年、寒川神社「平成御造営」にあたり譲与を受けたもので、当社の「御大典奉祝記念事業」として建設委員会を組織し、 広く氏子崇敬者からの篤志を頂き、同六年九月に移築されたものである。」「夫婦欅」。「倉見神社本殿(くらみじんじゃほんでん)寒川町指定重要文化財第四号昭和五十三年十ニ月一日指定寒川神社本殿として寛保元年(一七四一)に造営されたもので、明治ニ十八年(一八九五)の寒川神社社殿造営に際し、村社倉見神社本殿として移築されました。十ニ支をはじめ花鳥及び獸等の江戸時代の彫刻が配置されています。夫婦欅(めおとけやき)寒川町指定重要文化財第五号昭和五十三年十ニ月一日指定樹齢三百年と伝えられ、根元から約ニmのところでニ股に分かれているところから夫婦欅とよばれています。幹回りは大きい方が五・ニm以上あり、高さは約ニ十m。天然記念物として寒川町内にその比を見ない巨木です。氏子が夫婦円満を願って育成したものと思われます。」正面に「拝殿」。狛犬(右)。狛犬(左)。左右両方とも歯が見えて、阿形像の如き姿であった。手水舎。社務所。拝殿。拝殿は平成4年(1992)の寒川神社の平成の御造営にあたり譲与されたもので、平成6年(1994)9月に寒川神社から移築されたもの と。扁額「倉見大神」。「拝殿」の正面。「本殿」。寛保元年(1741)に造営された寒川神社本殿(町重要文化財指定)を、明治28年に移築されたもの と。「神輿殿」。扁額「神輿殿」。茅ヶ崎西浜海岸で開催される「暁の祭典 浜降祭」に参加する神輿の姿をネットから。神輿製作年は昭和54年(1979年)と。境内社の「浅間大神(木花之佐久夜比賣命)」が。大きな石碑が正面に。浅間大神を護る大正5年生まれの「狛犬」。阿形像の下顎が欠けていた。阿形像は子狛を連れていた。吽形像は玉を持っていた。その奥に「浅間大神」碑。天正年間(1573年-1593年)、高木甚太郎が倉見村に陣屋を構えていたおり、浅間大神を勧請したと伝えられている。「浅間大神」は、明治16年(1883年)2月、社殿の損傷甚しく、石碑が建立された。昭和60年(1985年)10月には、石碑に亀裂が生じたので、修復されたのだと。「倉見神社」を後にして、次の「行安寺」に向かって進む。新幹線の架道橋・第ニ倉見BVを通過。架道橋とは道路を越える橋梁を指す。略称「BV」で、「Viaduct Bridge」が元になった。「Viaduct」とは高架橋の意。「B」が先、「V」が後として記されている。寒川町の汚水マンホール蓋。町の花「スイセン」を描いたもの。マンホールの円周を三分割したそれぞれの位置からスイセンが生え、中心に向かって伸びて花を咲かせている。円の中心で3個の蕾の先端が触れるが如くに。マンホールの下方には平仮名で「さむかわ」「おすい」と。そして次に「行安寺」の入口に到着。神奈川県高座郡寒川町倉見1873。参道の左側には無数の墓石が並んでいた。合掌する石仏。「子育地蔵尊」であろうか。寺号標石「浄土宗 寶積山 行安寺」。無数の墓石、石仏を振り返る。そして正面に山門。「木造阿弥陀三尊像寒川町指定重要文化財第16号平成3年(1991)4月1日指定中尊は、底部の銘により天正10年(1582)(*)の造立であることが明らかであり、古式の偏袒右肩(へんたんうけん)、典雅な尊顔と尊体、正統的で穏やかな彫技など、中央の桃山風の基準作として重要である。両脇侍(りょうわきじ)は江戸時代の丁寧な後補作とみられる。構造…各 寄木造・玉眼・漆箔(しっぱく)付属品…各 光背・台座」*: 後北条氏家臣の山中氏が倉見を知行していた時代。「木造阿弥陀三尊像」をネットより。像高:42.3センチメートル中尊阿弥陀如来坐像は室町時代の作。両脇侍の観音菩薩坐像、勢至菩薩坐像は江戸時代の作。 山門を潜るとさらに両脇には墓地が続き、墓石が並んでいた。そして「本堂」。寶積山了覺院と号す。「行安寺」は、天正9年(1581年)に阿弥陀堂として創建、徳川家康の旗本高木甚太郎清方(法名寶積院願譽浄林居士)が当地の領主なった際、北条家の家臣で倉見の領主だった山中三河守の子形部少輔(行安院殿宗誉浄定大禅門、天正11年1583年没)の菩提を弔うため一寺となしたという。慶安2年(1649)には江戸幕府より寺領9石7斗の御朱印状を受領している。大正七年四月建 と刻まれた六角形の石塔。よく見ると6面のそれぞれに異なった地蔵菩薩像が浮彫されていた。これは地蔵様は単独で立つものばかりではないことを表したもので、これを燈篭型六地蔵と呼ばれていると。「本堂」の扁額は山号の「寶積山」。内陣。墓地を見る。境内から「山門」を振り返る。「殉國」碑。「英霊奉斎の銘支那事変及太平洋戦争に一死以て国難に殉じ給いし英霊三十七柱を謹んでこの霊地に斎き奉る。」「孝 陸軍砲兵 勲八等功七級 柳下賢治之墓」と。「昭和十三年五月八日徐州附近ニ於テ名誉ノ戦士ヲ遂グ 享年 二十三才」と。徐州会戦(じょしゅうかいせん)または徐州作戦で亡くなったのであろう。日中戦争中の1938年(昭和13年)4月7日から6月7日まで、江蘇省・山東省・安徽省・河南省の一帯で行われた日本陸軍と中国軍(国民革命軍)による戦い。 日本軍は南北から進攻し、5月19日に徐州を占領したが、国民党軍主力を包囲撃滅することはできなかったのであった。そして再び新幹線・第一倉見川Bを通過する。橋りょう Bは河川や海を渡る橋である。「梁」は常用漢字ではないため、正式文書では「りょう」とひらがなで書かれる。略称のBはBridgeの略。そして「倉見才戸遺蹟」を訪ねた。社宅の建物の敷地内に案内板があった。神奈川県高座郡寒川町倉見2014。「倉見才戸遺跡」案内板。「倉見才戸遺蹟平成3年、社宅の建替え工事にともない発掘調査がされ、平成5年に範囲確認調査、さらに平成6年、平成11年にも住宅開発にともない発掘調査がおこなわれました。調査の結果、一番古いものは今から5,000年ほど昔の縄文土器が発見されています。弥生時代はこの遺跡の中心の時代で、中期から後期( 3~4世紀ごろ)の竪穴住居址が40軒以上も発見されました。なかでも中期の3軒は普通の住居より大型な住居で、県内でもこれほど大きい住居はめずらしいものです。環濠といった村のまわりをぐるっとめぐらせた溝も発見されました。その他、有角石斧や、勾玉、管玉、鉄器といっためずらしいものも出土しました。東海地方や東京湾岸方面に影響を受けた土器も出土し、当時の交易関係が伺えます。古墳時代の竪穴住居址や平安時代の住居址や井戸址や掘建穴柱定物址、溝址なども発見されました。さらに中~近世の溝址や土坑も発見されています。このように、倉見才戸遺跡は過去から現在にいたるまで、絶え間なく生活が営まれてきた場所ということができるでしよう。なお、出土した土器等は文化財学習センター(ー之宮小学校内)で見ることができます。」「大型住居(一次調査)」の上空からの発掘状況の写真。「出土石器〈左から3点目が有角石斧〉(一次調査)」。東に進み右に曲がるとフェンスの中にあった石碑群・「陣屋跡」碑。ここは、江戸時代初期(天正19年(1591))に倉見村を治めた旗本高木清方の屋敷跡周辺と伝えられている。その後同家は江戸に移り住み、この地は畑となりました。「未開の頃、開拓者達が原(はら)と才戸(さいど)の広い地域に「陣屋敷」という御倉屋敷を建て、その立ち並ぶ倉を遠方からながめ「倉見」という地名がついたと言われている。残る石像は、右より第六天、金比羅宮、堅牢地神(けんろうじしん)、道祖神、五輪塔の五つである。」と。中に入り込んで。右から第六天、金毘羅宮、堅牢地神、道祖神、五輪塔。近づいて。「陣屋跡この周辺に、江戸時代初期に倉見村を治めた旗本高木清方の屋敷(陣屋)があったと伝えられています。その規模は「新編相模風土記」によると、東西四十ニ間(76m)、南北ニ十四間(43m)とされています。現在は石造物が寄せられ、右から第六天、金毘羅宮、堅牢地神、道祖神、五輪塔が並んでいます。」大日製罐(株) 湘南工場の前を通過し、さらに今は使われていない住居前を通過。そして次に訪ねたのが「倉見観音堂」。観音寺は昭和28年(1953)~29年(1954)まで中倉見(倉見996番地)に存在した。その後、その地に観音堂として残り、現在に至っている。観音寺と観音堂は併存したのではなく、正式には観音寺だったと。しかし、観音寺があった辺りに「観音堂」という小字や地名が残っているので、地元では寺と堂を区別せずに使っていた可能性があるとのこと。「南無大悲観世音菩薩」碑と右側は解読不能。「観音堂(行安寺末 倉見山観音寺)観音堂は、かっては観音寺と称し、八王子街道と永池川の間、現在の水神宮付近に建てられていた。江戸時代の末頃、旅人の火の不始耒から火事になったが、本尊は焼けぬよう永池川に投げ込まれた。後に本尊は、岩田伝兵衛の網に入り、長崎喜兵衛が土地を提供して、現在の地に安置したという。またこの地は、徳島藩士の長崎玉淵が寺子屋を開き、明治初年まで手習師匠をしたところで、これが明治六年徳彊(とくきょう)学舎に発展、明治九年倉見学校と改称された。明治十年旭学校(現在の北部文化福祉会館の地)ができるまで、教育の場としてここて多くの子弟が育った。」「銅造千手観音立像(本尊)寒川町指定重要文化財第十八号平成四年九月一日指定本尊は、小像(像高ニ〇・八cm)にもかかわらず丁寧で、細面の尊顔、宝髻(ほうけい)、頂上仏面等がよく表現されている。また尊体には奥行があって均整よく、動きがあり近世作には認め難い味わいが感じられる。制作は室町時代と考えられる。」そして次に訪ねたのが「日吉神社」。倉見日吉神社の創建年代等、詳細は不詳、個人所有の社とのこと。その先に小祠があった。神奈川県高座郡寒川町倉見2215−5。そして進んでいくと新幹線の高架橋がありここを潜る。JR相模線の「倉見駅」に到着。「JR倉見駅・1926年(大正15年) 4月1日:寒川駅から相模鉄道線が延伸開業し、その終着駅として開業。 7月15日:貨物取り扱いを開始。相模鉄道線が厚木駅まで延伸開業。・1944年(昭和19年)6月1日:相模鉄道が国有化され、運輸通信省(後の日本国有鉄道) 相模線の駅となる。・1961年(昭和36年)2月1日:貨物取り扱いを廃止。 相模川の砂利採取用の専用線が厚木方へ(現在途中まで遊歩道になっている)、トロリー線が 茅ケ崎方へそれぞれ続いていた。トロリー線で運搬された砂利を貨車に積み込むホッパーも 駅構内にあった。・1987年(昭和62年)4月1日:国鉄分割民営化により、JR東日本の駅となる。・2001年(平成13年)11月18日:ICカード「Suica」供用開始。・2016年(平成28年)2月12日:出札窓口の営業を終了。・2月21日:多機能券売機設置。同時に茅ケ崎駅の遠隔管理による無人化を実施。・2021年(令和3年)3月18日:エレベーターを設置。相模線を跨ぐように走る東海道新幹線には将来、当駅付近に新駅を設置する構想がある。また、相鉄いずみ野線(二俣川駅〜湘南台駅)が湘南台から当駅周辺まで延伸される構想もある」とウィキペディアより。「倉見駅相模線は、大正10 (1921)年9月、茅ヶ崎一寒川間で開業したのを皮切りに、大正15 ( 1926 )年4月に倉見まで、同年7月に厚木まで線路を延ばし、昭和6 (1931)年4月に橋本まで全線開通しました。このなかで、倉見駅は、大正15年に開業した当時の建物を今もそのまま使っていて、現存する相模線の駅舎の中で最も古いものです。駅舎だけでなく、ホーム、倉庫などすべてが鉄筋コンクリート造りでした。関東大震災直後ということもあって、地震や火事に備えるために建てられたのですが、補蓚費の軽減もねらい、当時としては大変画期的なことだったといわれています。」昭和6 (1931)年4月に橋本まで全線開通した時の写真であろうか。当時の「倉見駅」。「倉見駅」入口。有害図書追放ポスト「てんとうむしポスト」。有害図書を回収するために町青少年環境浄化推進協議会が40年ほど前設置したもの。名前の由来は、害虫のアブラムシを食べてしまうてんとう虫。寒川駅とここ倉見駅の「てんとう虫ポスト」が、役目を終え2月中旬に撤去されたとのこと。そして次に訪ねたのが「釣って見つけるぼうけんの国 湘南釣堀」。神奈川県高座郡寒川町倉見935−1。2020年7月リニューアルオープン。釣りとトレジャーハントを一緒に楽しめる、全天候型屋内施設。海水・淡水・カニ・ヤドカニなど、色々な魚釣りが楽しめる。海水魚は近くの寿司屋で調理してもらえる(別料金)小さい子供はヤドカニやカニ釣りが楽しめるのだと。料金表。原則はキャッチ&リリースであるようだ。「寒川水族館」にも立ち寄った。神奈川県内でも規模の大きい魚を含めたペットショップ。熱帯植物等も販売していた。様々な熱帯魚をしばし楽しむ。熱帯・観葉植物。この日の最後に訪ねたのが「倉見水神宮」。正面から。右側の石碑は草競馬の「名騎手 相模五郎」碑。更に近づいて。「倉見水神宮」。「水神宮(すいじんぐう)水神宮は水禍難を除くために川、泉などの水辺に祀られます。この水神宮は、相模砂利株式会社が昭和4年4月に建立したものです。この地はかつて、観音堂(現在は中倉見)が焼失した時の灰を集めた灰塚とよばれていた地です。「相模五郎の碑」は明治の終り頃、倉見にいた本名須田亀助という名騎手を記念して建てられた碑です。娯楽の少ない時代に馬力馬(農耕馬)による草競馬は楽しみで、「競馬の五郎親分」と人気がありました。」 ・・・つづく・・・
2022.06.29
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【寒川町の寺社旧蹟を巡る】 目次次に訪ねた「岡田遺跡」案内板が左手に。 神奈川県高座郡寒川町岡田7丁目1。発掘跡は埋め戻され公園になったのであろうか。その先には「寒川もくせいハイツ11号棟」が見えた。ここは、現在「越公園」。現在の「寒川さくら幼稚園」や「菅谷神社」の裏側(北側)の越公園に「岡田遺跡」に関する案内板が建てられていた。「日本て最大級! ?縄文時杙の巨大集落ー岡田遣跡ーこの岡田もくせいハイツの足下に、縄文時代に多くの人々が暮らしていた村がありました。それも、日本でも最大級の縄文時代の村と知ったら、みなさんどう思いますか?昭和57年、県営岡田団地の立て替えと共に、発掘調査がはじまり、平成元年まで、延べ8年にわたり行われました。その結果、縄文時代中期(今から約4000年~5000年前ごろ)の巨大な集落址が発見されました。確認された住居の数は、実に500軒を上回るものでした。しかし、確認された500軒をこす住居址も、遺跡全体からすれば1/2から1/3ほどで、全体の住居の数は1000軒から1500軒を推定することができ、全国的にみても縄文時代の住居址としては最大級の遺跡だと言うことができるでしょう。住居の他にも、お墓であると思われる墓壙(ぼこう)(円形または楕円形に掘られた穴)や埋甕(うめがめ)(甕を土中に埋めたもの)等も発見されました。遺跡からは、土器や石器といったものもたくさん発見され、矢じりなどの狩りに使う道具や魚を取る時に使った網のおもりと思われる石錘(せきすい)や土錘(どすい)といったものなども多く出土しました。また、弥生時代後期(3~4世紀ごろ)の住居址や方形周溝墓なども同遺跡からは確認がされています。現在、これらの土器や石器、住居のレプリカ等は寒川町文化財学習センター(一之宮小学校内)で見ることができます。」第7次の調査区全景、調査風景、出土土器の写真。[規模]現在地から100~150mほど東の場所、現在駐車場、畑になっている場所の周囲に3つの環状集落があったのだと。a環状集落址:直径100m~170m程度b環状集落址:東西200m、南北150m程度c環状集落址:東西180m、南北130m程度推定全体住居址数(a+b+c)は、1000軒~1500軒1軒の大きさは、直径4m~6m程度縄文前期は、現JR相模線の北側、岡田遺跡の近くまで入り江が入り組んでいたと思われます(縄文海進)ので、海で魚や貝類を捕っていたと思われます。[岡田遺跡出土品]👈リンク石器、土器、貝類に加え、魚の骨も発見されています。大半は炉内から出土し、すべて焼けて灰白色です。量が多いものは、エイ類、サメ類、イワシ類、コイ科、カツオ、タイ科の魚などです。そして次の「越の山横穴墓群」に向かって東に進む。道路脇には芝桜が。Iphoneの案内に従って進む。山の斜面にあった案内板を見つける。「越の山横穴墓群厚い関東ローム層が浸食されてできた小出川の谷に面する斜面につくられた墓群である。昭和ニ十八年八月、赤星直忠氏による発掘調査でここより北側ニ百メートルの丘腹中程に六基発見された。また、昭和六十年十ニ月の調査によりこの三基の横穴が出土したことから、一キロメートルに及ぶ斜面一帯に墓が分布する可能性が強くなった。この墓は膨張アーチ型横穴とよばれ七世紀のものと推定される。昭和ニ十八年の調査出土した直刀、耳環、刀子、勾玉等は町民センターに展示されている。」「越の山横穴墓」👈リンク を探したが・・・・。昭和60年調査全景、第7号~第9号横穴墓の写真をネット から。本来は横穴はもっと長く、天井もあったが、入口や天井部分の多くが後世の掘削のため失われていたと。古墳時代、第7号横穴墓全景 をネット から。次に訪ねたのが「東守神社(とうずじんじゃ)」。神奈川県高座郡寒川町岡田4丁目17−1。「社殿」。御祭神は「天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)」。扁額「東守神社」。内陣。「東守神社(とうずじんじゃ)(跡地)新編相模風土記稿に「東守権現社 村の鎮守なり、祭神詳かならず、例祭九月九日観護寺持云々」とあります。神社明細書に御祭神は「天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)」と記されており、明治四十二年に菅谷神社に合祀されました。その昔、郷内に疫病がはやった折、村人が祈願を執り行ったところ、たちまちに治った故事があり、 以来疫病平癒の霊験あらたかなる神として信仰されてきました。近年は東守権現の御神徳を慕う人々により、毎年九月十八日にお祭が行われています。」「大山燈籠」に向かって高座郡寒川町岡田4丁目の住宅街を進む。民家の立派な門。この場所に「大山燈籠」があるはずであったが、姿はなかった。神奈川県高座郡寒川町岡田4丁目8−26。これを探していたのであったが、ネットにて調べてみると、『毎年、大山夏山の時期、7月27日頃~8月17日頃にかけて、町内数カ所に、「大山灯籠」が建ちます。』と。普段は「東守神社」等に奉納されているのであろうか。 【https://ameblo.jp/samukawa-kankou/entry-12617169466.html】より大山詣での旅人の道しるべとして、関東圏を中心に、遠くは福島や新潟、長野などにも残っています。寒川町の灯籠は、夕方6時を過ぎたあたりから灯がともり、夜の帳が降りた後も、道行く人をやさしい光で導いてくれます。特にここ岡田の灯籠2基は昔ながらのろうそくの明かりで、時折、風にかすかに揺らめきながら静かに輝きます と。 【https://ameblo.jp/samukawa-kankou/entry-12617169466.html】よりさらに高座郡寒川町岡田4丁目の住宅街の坂道を上って行った。次に訪ねたのが「等覚寺跡」。石碑と石仏が並んでいた。神奈川県高座郡寒川町岡田3丁目6。一段下の場所には広い墓地があった。古い無縫塔・石碑が並ぶ。「元等覚寺先師尊霊」の文字が卒塔婆に。多くの墓石が。「元禄六年癸酉(1693年)正月廿八日」と刻まれた石仏。錫杖と宝珠を持つ石仏。直ぐ近くにあった「塔の塚」。「塔の塚 寒川町指定重要文化財第十号 昭和五十五年十一月一日指定平成十三年・十九年に行われた発掘調査で、中世に造営された塚であることが明らかになりましたが、築造の目的などはわかっていません。地域では、江戸時代に観護寺(安楽寺末、明治三十七年一九〇四年廃寺)の僧が入定した塚と伝えられ、入定塚の別名があります。また、塚の頂に建っていた塔が日光に反射して、相模湾の魚が捕れなくなるので、南湖(茅ヶ崎市)の魚売りが倒しに来たとの伝承もあります。」「塔の塚」を見上げる。別の場所から。この塚の頂に塔が建っていたと。左奥に見えたのが「寒川キリスト教会」。ズームして。「中原街道」に出る。「中原街道」を横切り直進する。前方に「道祖神」と「庚申塔」が現れた」。神奈川県高座郡寒川町岡田2丁目20。「山状角柱型道祖神」左側面には「岡田村氏子中」「世話人」と。風化が進み確認できなかったが右側面に「文政拾年亥十二月吉日」(1827)の銘があったようだ。「庚申塔」。嘉永4年(1851)と刻まれていた。一段上が「大塚児童遊園地」になっていた。ここにあったのが「日枝・八坂神社合祀記念碑」 神奈川県高座郡寒川町岡田2丁目20。手前に蛇の姿の像が。さらに北西方向に進むと現れたのが「寒川小学校前」交差点。その先に「寒川小学校」。交差点の角には水仙の花が。ラッパスイセン。そして「寒川小学校」の桜も開花を始めていた。ソメイヨシノ。「寒川小学校裏」交差点を通過。「高木清方の墓」。この石碑は、当初根岸緑地(宮山36-4)に設置されていたが、区画整理事業にともない、根岸緑地がなくなったため、平成17年(2005)8月に、七堂伽藍跡の礎石と一緒に、寒川小学校に移設されたとのこと。寒川町宮山934。「天正19年(1591)、旗本高木清方は倉見村680石余を与えられると、ここに東西42間(約76m)南北24間(約43m)の屋敷を建て移り住みました。のちに江戸に移住しますが、慶安2年(1649)に没すると、倉見に葬られました。自然石を用いた大きな墓です。」と。右手にあった「宮山遺跡」を振り返る。神奈川県高座郡寒川町宮山。入口には「オリーブの丘公園」の表示板が。「宮山遺跡時代 : 弥生時代後期~古墳時代前期、中世発握調査 : 平成9年( 1997年)マンションの建設工事に伴う発掘調査 : 平成14年( 2002年)宅地造成にともなう発掘調査主な遺構 : 方形周濠墓19基、住居跡 8軒、V字溝 1条主な遺物 : 弥生土器、石器、銅銭、かわらけ※出土土器の一部や遺跡の写真パネルは、一之宮小学校内にある文化財学習センターで見る ことができます。方形周溝墓:弥生時代から古墳時代初期にかけて造られた墓の一つの形です。中心に遺体を理葬する主体部を設け、その周囲に方形の溝をめぐらせて造られました。写真のものは大型のもので、古墳時代になって築かれたものと考えられます。V字溝 : 断面の形がアルファベットのVの字に見えることからこの名が付けられました。弥生時代には集落を囲う「環濠」として盛んに造られました。弥生土器 :出土した土器は、東海地方で用いられたものとよく似た特徴が認められ、当時、この地に住んだ人々が東海地方と深い関わりをもっていたことがうかがわれます。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.07.03
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先日、日光旅行をご一緒させて頂いた岡山のSさんが我が家の大好物の日本酒を送って下さいました。 『まぼろしの米 赤盤雄町米 手造り純米吟醸』 の文字が。ネットで調べてみると「赤盤雄町米(あかいわおまちまい)」は大粒で心白が大きく軟質で日本酒に最適の米とのこと。雄町米が“まぼろしの米”と言われるようになったのは、草丈が1.8メートルほどにまで成長するため強い風に弱く、病害虫にも弱いため、栽培にた いへんな手間がかかり、戦後の機械化優先の農業には不向きとされていたが、「有機肥料・無農薬」で品種改良に成功した米とのこと。そして池田氏の家紋『揚羽蝶(備前蝶、池田蝶)』が大きく金色で。そして『池田侯』 のこれも大きな文字が。約300年に亘って備前岡山藩を治めた池田侯(池田輝政、池田恒興他)。1603(慶長8)年、徳川家康の命を受け始まった池田侯による備前岡山藩はは明治まで続いた名家。箱を開けてみると利守酒造(株)の純米吟醸酒 『池田侯』の一升瓶がどっしりと。気がつくと、既に妻が開栓し、切り子のコップに馴れた手つきで。日光旅行の写真も同封して下さいました。この日は香り豊かでスッキリとした酒を【酒一筋】に二人で楽しませていただきました。 Sさん、いつもながらのお心遣いありがとうございました。
2015.11.02
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大内宿の大型バス有料駐車場には多くの観光バスが列をなし満車状態。バスを降り観光開始。大内宿周辺散策路案内と駐車場の乗務員休憩所。 大内宿を守る住民憲章2.保存優先の原則 保存をすべてに優先させるために、大内宿と旧街道沿いの観光資源 (建物・屋敷・農耕地・山林等)について、「売らない」「貸さない」「壊さない」の 三原則を貫く と。建物の現状変更はすべて申し出ること と。大内宿MAP。人気観光スポットのこの「大内宿」は、福島県南部の人里離れた山間部に30軒以上の茅葺き屋根の民家が立ち並ぶ江戸時代から残り続ける宿場町。約400年以上前、江戸時代には運搬路として重要な道であった会津西街道(日光~会津)沿いの宿場町として参勤交代で江戸へ向かう大名や旅人の宿場町として栄えた。中には、あの伊達政宗が小田原参陣、豊臣秀吉が奥羽仕置きで、この大内宿を通行した記録があるのだと。2時間の自由行動と言うことで、時間に十分余裕があるため、のんびりと宿場町の散策開始。正面の山も紅葉の真っ最中。大内宿は重要伝統的建築物群保存地区。保存地区は旧街道に沿った宿場を中心とする南北約500m、東西約200mの範囲。大内宿は、会津城下と下野の国(しもつけのくに)(栃木県日光市今市)を結ぶ全長130キロメートル(32里の区間)の中で会津城下から3番目の宿駅として1640年ごろに整備された宿場町。会津西街道は関東側からの呼称で、会津側からは下野街道(しもつけかいどう)あるいは南山通り(みなみやまどおり)とも称されていた。会津藩主の18回に及ぶ江戸参勤と江戸廻米の輸送と、当時会津藩と友好関係にあった米沢藩・新発田藩なども頻繁に利用した重要路線であったと。 この日も昼前であったが多くの観光客が。 旧街道の両側には約50cm幅の小川があり清流が勢いよく流れていた。そして真っ赤に紅葉したモミジが迎えてくれた。清流で売り物の飲料を冷やす姿も。 大内宿「本家扇屋」 。大内宿で唯一「蔵」に泊まれる民宿。囲炉裏でおしゃべりしながら美味しい地元の料理をたっぷり楽しめると。黄色のモミジも赤に負けじと。 どの家屋も土産物屋や食堂を営んでいた。多くの本格的手打ち十割蕎麦屋が散在。高倉神社入口の鳥居。木を切り出し皮を剥いただけのような鳥居がそびえ立っていた。この鳥居は、後白河天皇の第2皇子(高倉以仁王)の霊を祀ったとされる高倉神社へと続く鳥居で、一の鳥居から三の鳥居まで続いていた。この大内宿に立っているのは一の鳥居。そして旧街道の反対側には鉄骨製の火の見櫓そしてその上には放送用のスピーカーが。 標高650mの山間の街道の両側に整然と建ち並ぶ宿場情緒を色濃く残す家並みは、タイムスリップの世界であり、思わず溜息がでるほどの景色。 布で作った野菜や果実を土産物として売る店。 大内宿の最奥に向かう。 浅沼食堂。一番見晴らしが良い店。大内宿の最奥の高台に位置し、唯一集落全体を見渡せる食事処。手前に湯殿山と刻まれた石碑が。この高台が湯殿山と呼ばれているのだと。良阿養仙居士?の墓か?。 赤の衣装を纏った地蔵様。 モミジの色のアンジュレーションが見事。 階段を上り大内宿の北端に位置する浄土宗の寺院・正法寺を訪ねる。周囲は黄色く紅葉した銀杏の木々が。大名家などの庇護がなく村内で管理運営し、寺の周囲には子安観音を始め、湯殿山碑などの石碑や石仏が参道附近に安置されていたのであった。大内宿周辺は戊辰戦争(1868年(慶応4)~)の激戦地(大内峠では40名が戦死)となり正法寺は官軍の詰め所になったと。本堂。会津藩の砲兵隊頭取、笹沼金吾は大内峠の戦いで敗退した後も1人で官軍に切り込んだと伝わる人物で壮絶な戦死の後、この大内宿の住民が密かに正法寺境内に埋葬したと伝えられていると。 寄棟茅葺きの子安観音堂。子安観音は、女性や子供の守り神で、子宝や安産、子供たちの健やかな成長を祈る観音様。 林の中にある大内宿見晴場所に向かう。 今もなお当時の状態で30軒以上の茅葺き屋根の民家が立ち並んでおり、江戸時代にタイムスリップしたような光景を楽しむ。林の中も陽光が差し込み空気も赤く染まった感じ。 道のない林の法面を苦労して上り、BEST SPOTを発見。更に進むと小さな社・弁天堂も。弁天堂の手前の急な石段を下りきったところで振り返ると、斜面には庚申塚石塔群が立てられ、その先には三仏堂が建っているのが見えた。六臂青面金剛刻像。紅葉の下に吉村善七之墓と刻まれた墓石。文字庚申塔と阿弥陀仏と刻まれた石碑。大内宿上の山裾にある三仏堂。修験信仰の本尊仏である不動明王、役小角、孔雀明王の三仏が祀られていると。そして道を戻り「桜木姫の墓」を探したが見つからず再び宿場町に引き返したのであった。
2016.11.11
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半僧坊への回廊の天井には多くの十二神将(じゅうにしんしょう)の顔が。十二夜叉大将、十二神明王(じゅうにやしゃたいしょう/しんみょうおう)ともいい、薬師如来および薬師経を信仰する者を守護するとされる十二体の武神である。十二神将は、薬師如来の十二の大願に応じて、それぞれが昼夜の十二の時、十二の月、または十二の方角を守るという。そのため十二支が配当されると。また、十二神将にはそれぞれ本地(化身前の本来の姿)の如来・菩薩・明王があると。勢至菩薩を本地とする伐折羅大将(ばさらたいしょう)は十二支の丑(うし)が配当。よって丑の時の守護神とされるのだ。半僧坊真殿の正面の向拝(こうはい)には明治の彫刻家・後藤岩五郎の作『昇り龍下り龍』の一木彫の彫刻が。向かって左が「昇り龍」、胴体の右端にこちらを向くように頭部が。今にも動き出しそうな迫力と躍動感に圧倒されたのであった。全長は3m近くか。右側の「下り龍」は左端の反対側に頭部が。赤いびんずるさま。明和5年(1768)以来、参道脇の選ばれた十の清絶な境を方広寺十聖境と名づけ今なお伝えられていると。十景第九 玄聖関(げんしょうかん)聖域たる開山廟への玄関。願王塔。本堂裏の回廊からの紅葉と五百羅漢。「らかん乃庭」。与謝野晶子の歌碑も。「奥山の しろがねの気が 堂塔を 阿まねくとざす 朝ぼらけかな」。回廊の奥から紅葉の美しいらかんの庭を。阿弥陀仏?らかん乃庭から階段を上れば上天台舎利殿に。途中の六地蔵。 涅槃乃庭。井伊直政の母君像。方広寺は、直政の母(奥山因幡守朝利(いなばのかみともとし)の女(むすめ))の出身である奥山家ゆかりの寺。こちらは木喰(もくじき)上人作の像。江戸時代の中頃から後半(徳川吉宗から家斉の時代)に生きた僧侶で、身延町古関の生まれ。役行者像(えんのぎょうじゃぞう)。外に出て再び紅葉の後ろの亀背橋を見る。鉄骨製のトラス橋であることが解るのであった。帰路はらかん坂を下る。下り坂で上を見れば杉の林の前にも真っ赤なモミジが。そして下を見れば「散り紅葉」 が。紅葉巡りは上、下と忙しいのであった。 円明閣の前にも。半僧杉。左手にそびえ立つ立派な杉の木は「半僧杉」と呼ばれ、方広寺の鎮守様である「奥山半僧坊」の化身との言い伝えがあると。「大本山 方広寺 もみじまつり」と書かれた行燈(あんどん)そして苔むした岩の周囲には五百羅漢が鎮座。11/21~29まで期間限定のライトアップを行っているよであった。昼の厳かな雰囲気とは趣きの異なる、神秘的・幻想的な世界がここでも拡がるのであろう。十景第六 遊龍窟(ゆうりゅうくつ)羅漢の渡る石橋あり、崖上の瀑布は龍が遊ぶ窟(ねじろ)。アーチ状の石橋と羅漢像。奥山半僧坊 方広寺の不思議のひとつ、石橋上の羅漢像。 日によって見える数が違うと言われているのだと。この日は座像が4体そして中央に立像が1体の合計5体の羅漢像が。この付近の紅葉はこれからか。哲学の道の朱の鳥居は両部鳥居(りょうぶとりい)であることに気がついた。本体の鳥居の柱を支える形で稚児柱(稚児鳥居)があり、その笠木の上に屋根がある鳥居。この荒れ果てた階段を上がると何処へ?ここが昔の参道なのか?十景第五 貝葉谿(ばいようけい)。貝葉(経文)を模した一板橋を渡れば威儀正しい羅漢尊者の聖域。涅槃仏(ねはんぶつ)が。涅槃仏とは、釈迦が入滅する様子を仏像としてあらわしたもの。ほとんどの像容は右手を枕とするか、もしくは頭を支える姿である。基本的には、頭は北向き、顔は西向きとされる。これが後に、一般の俗人が亡くなった時に「北枕」とされる由縁となったのだと。笑顔の五百羅漢が見送ってくれた。赤門が前方に。左手に十景第三 羊膓石(ようちょうせき)。渓流に沿う道は、曲がりくねった(羊膓)岩場道。奥山半僧坊大権現と書かれた入口。ここ奥山公園は桜の名所、3月下旬になればこの池の周りはピンク一色に変わるのであろう。池には「夢の浮橋」と名付けられた木の橋が渡されていて、橋を渡りながら、池の鯉や周囲の木々」の紅葉を眺めることが出来た。ここの紅葉は始まったばかり。カルガモ?もノンビリと。黒門を横から。そして帰路へ。時間は15:45。再び浜松いなさICまで行き新東名高速道路に。そして途中静岡SAにてトイレ休憩。東名高速道から圏央道へ、そして寒川南ICで高速道路から一般道路へおりSさん宅に19:45過ぎに到着。そして私の車にUさんを乗せ地下鉄の駅まで送る。そして20:30過ぎに我が家に帰宅したのであった。今回の走行距離はほぼ1050km、これをSさん1人で全て運転。お疲れ様でした。ありがとうございました。 ---------------------完-----------------------
2017.12.15
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そして今日、2月4日(月)は『立春(りっしゅん)』。立春は寒さが1番ピークの時期で、 立春を超えると寒さが段々和らいで来るのです。日照時間が1番短く、 南中高度(1日で太陽が最も高い位置にある時の地平線からの角度)が最も低いのは、 冬至(12月22日頃)。しかし、太陽からの光で地球が温まるのには約1ヶ月程の時差があるのだと。そのため、一年で一番寒くなるのは冬至(昨年12月22日)の約1か月後の、 大寒(1月20日)~立春(2月4日)なのです。昨年の熱海・糸川桜に戯れていたメジロの写真に『立春』と入れてみました。毎年だいたい2月4日頃が立春となります。頃というのは2月4日に固定されているわけではなく、2月3日や2月5日の時もあります。立春というのは、二十四節気の一つ。二十四節気というのは、1年(約365日)を24等分にして、季節の名称が付けられたもの。24個あるうちの一番目で、冬至と春分のちょうど中間が「立春」と定められています。立春は、その日一日だけが立春と呼ばれることもありますが、2月4日頃次の二十四節気の「雨水」(2月18日頃)の前日までの期間を立春と呼ぶこともあります。また、八十八夜、二百十日、二百二十日と聞いたことがあると思いますが、これらの日にちは起算日の第一日目として立春から数えての日数となっています。立春の文字を見ると、春が始まるようなイメージですが、立春から立夏(5月5日頃)の前日までが、春となります。立春を過ぎると暦の上では春。少し日が長くなり、季節が動いていることを感じますが、寒さはもうしばらく続くのです。今年はインフルエンザが猛威を振るっています。1月31日~2月1日は、南岸低気圧の影響で関東地方などでも雨や雪となりました。ただ、お湿りは限定的で、昨日正午の東京都心の湿度は38%。関東甲信地方を中心に空気のカラカラが復活しているのだと。この先も関東甲信地方を中心に晴れる日が多く、空気の乾燥が続きそうです。手洗いや人混みでのマスクの着用、十分な睡眠をとるなど、インフルエンザ対策が欠かせません。そしてバランスのよい 食事を心がけ寒さを乗り切りましょう。 【http://chugokugo-script.net/koyomi/risshun.html】より『旧東海道を歩く』ブログ 目次そして今日も『旧東海道を歩く(大磯~国府津)』のブログアップを続けます。二宮町・吾妻山を右手に見ながら国府津方面に向かって進む。陽射しも強く12月とは思えない天気の中を歩く。日本橋まで(から)74Km。吾妻山入口交差点から吾妻山を見る。旧東海道はこの先右手を。『旧東海道の名残り』、『約100m先左折 梅沢海岸』と書かれた標柱。ここが吾妻山山頂近くにある「吾妻神社」の参道。この「吾妻神社」の創建年代等については不詳であるが、言い伝えでは日本武尊が東征の折り浦賀水道で暴風にあいそれをおさめるためその妃である弟橘姫命が入水し、その後弟橘姫命の櫛が流れ着き、それを祀ったのがこの神社とされていると。奥には一の石鳥居が。宮戸醤油漬物醸造と書かれた銘板のある入口門の前には大きな釜が。ここ二宮町山西のヤマニ醤油は、この町に1軒だけあった醤油醸造所。天保13年(1842年)に二宮で創業し残念ながら2005年に閉じてしまったとのことだが、町内には峯尾醤油という老舗蔵も存在していたと。江戸時代以降の二宮は、ちょっとした"醤油どころ"だったようだ。坂を上って行く。『真言宗 梅沢山 藤巻寺 等覺院』が右手に。旧東海道、梅澤川に架かっていた梅澤橋跡の袂から見上げる坂を登ったところに梅沢山等覚院、別名藤巻寺という古義真言宗の寺が。本尊は不動明王および両脇侍像で、その他にも多数の仏像が置かれていた。『本堂』。宗派は古義真言宗。小田原市国府津町宝金剛寺の末寺。本尊、不動明王および両脇侍像。『六地蔵』。『水子地蔵尊』。『鐘楼』は二宮町重要文化財。寛永八年(1631)の銘があり、町内に現存する最古の鐘楼であると。『正徳地蔵尊』。『無縁墓地』。『観音堂』推定樹齢約400年を超えるといわれる『白藤』。元和九年(1623)、徳川3代将軍家光が上洛した際、駕籠を止めて白藤を見物したとの言い伝えが残ると。また、寺の名前に関しては、寛文(1661~72)の頃、仁和寺の宮が、関東下向の時、藤の木の根元を見て、『藤巻寺』の別号を与えたと伝えられていると。南無薬師如来の赤い幟。『相模新西国三十三ヶ所観音霊場 第壱番藤巻寺』国道1号線と交差する近くに道祖神の古い石碑があった。『越地の辻の地神塔』。1802(享和2)年の物と。「金目の煮付」の赤い旗も存在感を。旧東海道と国道1号線の合流点を振り返る。この後にふれるオジサンが、ここでも旧東海道ではなく現国道1号線を歩いているのが写真に写っていたのであった。暫くすると、白装束、杖、編笠を被り足早に抜いて行く旧東海道巡りのオジサンの姿が。リュックには『東海道五十三次 徒歩の旅 江戸(日本橋)⇒京都(三条大橋)』と書かれたプレートを取り付け、気合が入っているのであった。日本橋まで(から)75Km。遥か前方に、先程の白装束の男性の姿が。『押切坂上』のバス停。川匂神社交差点に架かる歩道橋が前方に。川匂神社交差点を右折したところにあったのが『茶屋薬師堂』。かつては川勾神社の本地仏であったが、明治時代の神が仏分離令により別管理となったと。木造の『薬師如来坐像 (もくぞうやくしにょらいざぞう)』が安置されていると。像高は261.5センチとかなり大きく、寄木造り・彫眼・漆箔で、江戸時代の作で二宮町指定 重要有形文化財。毎月1日と12日にはお年寄りたちが薬師堂に集まり、念仏を唱えていると。『三界萬霊塔』。三界とは我々が生まれかわり死にかわりするこの世界のことで、欲界、色界、無色界の3種の世界があり、欲界というのは、食欲、性欲、睡眠欲などの欲望の世界で、色界は欲望が無くなった世界、無色界は形のあるものからはなれた純粋な世界を指すと。萬霊とは、欲界、色界、無色界などのそれらすべてを指すのだと。よって、三界萬霊塔とは、この世のあらゆる生命あるものの霊を宿らせ、供養することが目的に建立され、我が家の先祖だけでなく、すべての精霊に供養することの大切さを教えるものだと。多くの石仏も。そして歩道橋から前方の押切坂を見ると先ほどの白装束のオジサンの姿が。実はこの歩道橋の袂から旧東海道は脇道となっているのだが、そのままここでも現在の国道1号線を歩いていたのであった。装束こそは素晴らしいが、甚だ予習不足のオジサンなのであった。リュックの「東海道五十三次 徒歩の旅」のプレートは「現東海道1号線 徒歩の旅」に変更した方が良さそうなのであったが・・・・。『史跡 東海道一里塚の跡 江戸より十八里』。「ここ二宮の一里塚は、江戸日本橋から18番目の一里塚で、大磯宿と小田原宿の中間に位置しています。塚は街道を挟んで両側に築かれ、北側の塚は高さ約3.6m、上には欅(けやき)が植えられ、南側の塚は高さ約3.3m、上には榎(えのき)が植えられていました。周辺には、旅人目当ての茶屋や商店が軒を並べ、「梅沢の立場」と呼ばれて、大変賑わっていました。」私はしっかりと旧東海道を押切坂に向かって歩く。『松屋本陣の跡』。『松屋本陣の跡』は完全に一般住居の庭に立っていたのであった。「江戸幕府の交通政策によって東海道が整備されたことや、参勤交代制などにより、江戸~上方間を往来する人々は増え、旅人の宿泊所、休憩所も街道の随所に設けられました。このあたりは、大磯宿と小田原宿の中間に位置し、大磯宿~小田原宿の距離が16キロメートルと長い上、押切坂、酒匂川を手前に控えていることから、 間の宿(あいのしゅく)として休憩所が設けられ、大友屋・蔦屋・釜成屋など多くの茶屋や商店が軒を並べ、「梅沢の立場」と呼ばれて、大変賑わっていました。その中心的存在となっていたのが「松屋本陣」であり、参勤交代の諸大名・宮家・幕府役人など、特権階級にあたる人達の休憩所に指定されていました。 「松屋」であった和田家には、本陣を利用した人々の記録である「御休帳」が保存されていて、二宮町指定重要文化財になっています。」そして旧東海道『押切坂』の下りが始まる。今は住宅街の中の旧東海道。旧押切坂の途中の右手には可愛らしい道祖神が祀られていた。そして旧&新押切坂の合流点に。合流場所から振り返る。右側が旧東海道。中村川(なかむらがわ)に架かる押切橋が前方に。押切橋は幾度となく架け直された過去があると。流失と架け替えが繰り返された理由として、押切の名が示す通りこの地域は大水(洪水)の常襲地帯で、堤を押し破ることからこの名がつけられたのだとも。『押切橋』と書かれた銘板が欄干手摺に。中村川は、神奈川県足柄上郡中井町および小田原市、中郡二宮町を流れ相模湾に注ぐ二級河川。中村川水系の本流である。延長は10.3km(二級河川部分は9.00km)、流域面積は29.47km2。河口付近では流域の字名に由来して押切川とも呼ばれていると。左手には西湘バイパスとその先に相模湾が。川には多くの鯉が大きな口を開けて。そして小田原市に入る。小田原市のマンホール蓋。【http://sky.geocities.jp/usagigasi1j/kanagawa/odawara/odawara.html】には「歌川広重の浮世絵、東海道五十三次のうち「小田原・酒匂川」をモチーフにしたマンホール蓋です。 江戸時代の酒匂川には橋がなく、特に増水期は、旅人にとって大変な難所でした。 右下のふんどし姿の人影は、当時、旅人や荷物を担いで渡った「人足」と呼ばれる労働者たち。 また、背景にあるのは、酒匂川から望む「小田原城」と「箱根連山」、そしてその奥にそびえる「霊峰富士」です。 小田原市は昭和34年に下水道整備に着手し、現在は酒匂川流域の市町と連携して流域下水道事業を進めています。 「酒匂川から見た雄大な風景を歴史とともに後世に残したい」。 そんな想いが詰まったデザイン蓋です」と。 ・・・その5・・・に戻る。 ・・・つづく・・・
2019.02.04
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次明治天皇宮ノ前行在所跡の先を右に入り、『松原神社』を訪ねる。小田原宿総鎮守。一の鳥居(伊勢鳥居型)とその先に二の鳥居が。ガラス窓を設置した『御神庫』。松原神社例大祭は、漁師の祭を起源とする「小田原担ぎ」という独特の神輿の担ぎかたが特徴で、漁場での作業を陸地で再現した形になっています。神輿を船に見立て、まず神輿を静止した状態で、木遣り(きやり)を唄います。木遣りとは、漁師が船を砂地に陸揚げする時や、漁網を一気に揚げる時など、集中して力仕事を行う時に、船頭が音頭を取って、息を合わせながら作業をするために唄う浜唄で、正式には「浜木遣り」といいます。小田原流の特徴として、平担ぎの時左右にゆっくりと練る動作は、船が沖合で波に揺られゆっくりと左右に動くそれを模しており、見ているものを幻想的な雰囲気にさせるのも他に見ない特徴といえる。全国的にも珍しい点は、民家・商店・祭礼事務所・山車・神社などに木遣り唄の一種である「浜木遣り」と共に神輿を担いだまま走って突っ込む(跳ぶ|突っ駆ける)事である。この「浜木遣り」は漁師の掛け声が元であり、鳶などの木遣師のそれとは異なる。祭礼においてはどっこい担ぎで言えば甚句に相当する。 なお、全国的に“走る神輿”は瀬戸内海の真鍋島や、千葉県の大原はだか祭りなどがあるなど少数ながら存在するが、神輿の合体は全国でも他所では見られないと。二の鳥居(明神鳥居型)その先に拝殿が。記録として残るのは新編相模風土記にある天保年間の記述が最も古いと思われ、主に漁師の祭りとして千度小路、古新宿(こしんしゅく)の漁師を中心に行われてきた歴史を持つ。今では漁業関係者は激減したが、神輿は小田原担ぎ(小田原流)と呼ばれる漁船に見立てた独特な担ぎ方で渡御されるなど、現在でも漁師の祭りとしての名残を見ることができると。『吉兆の大亀』。「天文十四年(一五四五年)三月、小田原の海岸に現れた大亀を土地の者が当社の池に持参したところ、小田原北条三代当主氏康は、これを聞き、吉兆なりとて参詣し舞を奉納した。果たして翌天文十五年、関東管領上杉軍八万の兵を、わずか八千の兵で見事に破り【河越夜戦】、念願の関八州の平定に成功した。この石亀像はその話に由来して作られた(制作年不明・頭部欠損)ものと思われ、現在でも大亀の甲羅を撫でると、社運隆昌・心願成就・開運・勝利(転じて試験合格)にご利益があるとされております。また、亀は長寿を象徴する生き物であることから、賽銭を十円納めると十日、百円納めると百日、千円納めると千日寿命が伸びると言われております。」『境内社』。境内に古くは十二社があったが、現在は住吉神社、鹿島神社、手置神社、叶稲荷神社、佐々木八幡神社の五社が祀られている。左から置神社、叶稲荷神社、佐々木八幡神社。鹿島神社。『小田原宿』と『周辺案内図』交流館の前に掲げられた、旧東海道小田原宿の案内板。 拡大版 案内板に採用されている道中図は「東海道分間延絵図(とうかいどうぶんけんのべえず)」。小田原の町人の町は、主として東海道に沿って宿場町を形成する(通り町)。西から順に山角町(やまがくちょう)、筋違橋町(すじかいばしちょう)、欄干橋町(らんかんばしちょう)、中宿町(なかじゅくちょう)、本町(ほんちょう)、宮ノ前町(みやのまえちょう)、高梨町(たかなしちょう)、万町(よろつちょう)、新宿町(しんしゅくちょう)の九町という、かなり細かい町割りから成った。小田原宿は上方からは箱根を越えてきた旅人の、江戸からは箱根越えを控えた旅人の宿泊地として大いに賑わった。本陣(計4軒)、脇本陣(計4軒)は東海道の宿場町の中ではきわめて多く、宿場の中心である欄干橋町から宮ノ前町までの四町に集中した。町人の町はこれに加えて高梨町からの甲州道(こうしゅうみち)に沿った町(脇町)がある。分岐から順に青物町(あおものちょう)、壱丁田町(いっちょうだちょう)、台宿町(だいじゅくちょう)、大工町(だいくちょう)、須藤町(すどうちょう)、竹の花町(たけのはなちょう)の六町が続く。さらに、通り町に平行する形で茶畑町(ちゃばたけちょう)、代官町(だいかんちょう)、千度小路(せんどこうじ)、古新宿町(こしんしゅくちょう)の四町があった。『江戸時代の小田原の城下町の構成』。ここは東海道沿いの通町で、江戸時代は本町と共に宿場町の中心で、本陣一、脇本陣二、旅籠が二十二あったという。元治慶應年間の宿割帖によると、御本陣一軒、相本陣三軒(清水屋彦十郎・久保田甚四郎・片岡永左衛門)、脇本陣四軒(とらや三四郎・福住や吉助・小清水屋伊兵衛・嶋や太郎三郎)、旅籠宿屋は百余軒あった。小田原なりあい交流館前からの旧東海道。『小田原なりあい交流館』。この施設は、1932(昭和7)年に建設された旧網問屋を再整備し、市民や観光客の皆様の「憩いの場」として2001(平成13)年に開館。ここの建物は、関東大震災(大正十二年)により被害を受けた建物を、再建したもので、小田原の典型的な商屋の造りである「出桁造り」という建築方法が用いられていると。また、2階正面は出格子窓になっていて昔の旅籠の雰囲気を醸し出していた。『本町』。本町は後北条時代には通小路とよばれていました。江戸時代になると、小田原城のちょうど南側にあたり、小田原の街の中心として、街割りもここを基点に割り振られていました。東海道の小田原宿としても本陣が2、脇本陣が2、幕末には旅籠が26軒ほどあったそうです。『久保田本陣跡』。小田原宿に4軒あった本陣の一つ「久保田本陣跡」の碑『御幸の浜』交差点。正面を進んでいくと小田原城の堀に。『薬博物館((株)済生堂薬局小西本店)』。寛永10年(1633年)創業、400年近い歴史を誇る老舗の薬局が所蔵品を公開するミニ博物館。年期の入った百味たんす、薬剤をすりつぶす乳鉢や秤など、薬関係の貴重な骨董品が展示されています。明治時代のかわらぶきの建物(大正時代に復元)が、小田原の歴史を物語ります 。『中宿町』。この町は、「貞享三年御引渡記録」(1686年)に初めて町名が見られます。「新編相模国風土記稿」(1841年)には、この町に小田原北条氏時代(北条早雲、氏綱、氏康、氏政、氏直の北条氏5代(1495~1590年))、この町は、「上の問屋場」が置かれ、高梨町の「下の問屋場」と10日交代で勤めたとあります。 町内には、御用商人の「小西家」があり、嘉永年間(1848~53年)には、脇本陣(わきほんじん:本陣の予備にあてられた街道の宿舎で、本陣にあきのない時に大名などが利用した旅館)1軒、旅篭が11軒ほどありました。 なお、天保初期(1830年代)、町内の戸数は30軒でした。『清水彦十郎本陣跡』「小田原宿には4軒の本陣があり、清 水彦十郎本陣もその一つです。出雲 (島根県)松江の松平家や美濃(岐阜 県)大垣の戸田家などの大名家が定宿としていました。 」。ここは薬と和菓子の『ういろう』。当主は1500年代の初頭、北条早雲に招かれて京から小田原に移り住んだ外郎(ういろう)家。以来、伝統を絶やすことなく小田原の地で生業が続けられてきた。店舗にはういろう博物館も併設されている。『欄干橋町』。北は三の丸の掘、南は茶畑町、西は筋違橋町、東は中宿町・東海道沿いの町人町]この町は、「北条家朱印状」(1572年)に初めて町名が見られます。町名の由来は、この町から城内にかけられていた橋の名前によりついたといわれています。町内には小田原北条氏時代からの旧家「外郎家」があり、江戸時代末期には本陣1、旅籠が10軒ほどありました。天保初期(1830年代)、町内の戸数は39軒でした。外郎家は、永正元年(1504)、北条早雲の招きに応じて京都から小田原に移り住み祖先伝来の秘薬「透項香(とうちんこう)」を製造販売しました。江戸時代には町の名誉職である宿老の地位にありました。また、同家の八棟造は有名で、浮世絵などにも描かれてしますが、大正12年の関東大震災により崩壊してしまいました。『箱根口』交差点。歩いて来た旧東海道を振り返る。箱根口を右折し小田原城の堀を目指す。『 小田原城 箱根口門跡 』江戸時代の櫓門の石垣の一部と土塁が残されていた。戦国時代から江戸時代初期まで大手門として使われたと。『小田原市立三の丸小学校』。小田原城址公園に隣接して建つ三の丸小学校は、幾層も重ねた屋根と白くて広い壁が城の如し。その名の通り城内三の丸にあり、「箱根口門跡」に置かれた校門には立派な屋根も付いている。ここは文成5年(1822)に建てられた藩校・集成館の跡地で、明治5年(1872)の学制発布に伴って小学校「日新館」となったあと尋常小学校などを経て城内小学校となり、平成4年(1992)本町小学校と統合して三の丸小学校となったという歴史のある小学校。ここでは銀杏の古木が黄色の葉を増やしていた。ぐるりを囲む武家屋敷風の塀に沿ってせせらぎが流れ、周囲の景観にも工夫がある。設計は松田平田設計。「三の丸小学校周辺地区」として、平成9年度都市景観大賞を受賞している。小田原市立三の丸小学校の見事な正門。『国指定史跡 小田原城址』神奈川県小田原市小田原町にある平城。その草創は詳細に知られていないが,鎌倉時代に土肥一族の小早川氏が築いたものと伝えられている。応永 23 (1416) 年上杉禅秀の乱が起り,土肥氏もこれに加担し敗れ,戦功により上杉憲方の家臣大森頼明が,足利氏からこの地を賜わった。そののち,明応4 (95) 年藤頼のとき,北条早雲に取られ,以後北条氏5代相継ぎ,この城を本拠にして関東に威をふるった。北条氏は大規模な拡張工事を行い,その結果,防備のすぐれた城として,小田原城の名が知られるようになった。天正 18 (1590) 年,豊臣秀吉のために滅ぼされ,続いて関八州を領有した徳川家康が,譜代の臣大久保忠世を小田原城に封じたが,大久保家は次の代に失脚し,以後,城は江戸幕府の直轄地となり城番がおかれた。そののち,元和5 (1619) 年阿部氏,寛永9 (32) 年に稲葉氏が,貞享3 (86) 年には再び大久保氏が城主に封じられ,10代 182年間続いて明治維新にいたった。現在,城跡には復興天守閣があり,公園となっている。しかしこの場所から天守の姿は見えなかった。二宮尊徳を祀る神社『報徳二宮神社』入口が前方に。二宮尊徳は報徳社を設立して農村の救済・教化運動を行っていたが、尊徳が安政3年(1856年)に亡くなった後も報徳社は存続し、関東・東海地方を中心に活動を行っていた。明治24年(1891年)に尊徳に従四位が贈られると、報徳社員の間で尊徳を祀る神社創建の動きが起き、明治27年(1894年)4月15日、尊徳の生地である小田原の小田原城址内に鎮座した。更に進むと『報徳博物館』が左手に。幕末の疲弊した社会の再建人・尊徳二宮金次郎(1787〜1856)の、「報徳」と呼ばれる人づくり、国づくりの思想とその業績を伝える博物館。『二宮尊徳就学の地』。「二宮尊徳(金次郎)は、若いころ小田原藩家老の服部家(ここから200mほど上った所)に若党(中間(ちゅうげん))奉公をしていました。そして漢学塾へ通う同家の若様のお供をして、小峰坂と呼ぶこの前の道をいつも通っていました。また、この博物館のある場所は、当時、近藤某という書物好きな藩士の屋敷があり尊徳は、時々ここに寄って書物を借りて読んだということです。こうして、尊徳は学問の幅を広げていきましたが、報徳博物館はこうした縁の場所に建っております。」『二宮尊徳像』。坂を上っていくと杉の木の間から小田原城の天守閣の姿が。その先に『清閑邸(せいかんてい)』が。『清閑邸(黒田長成別邸)』。清閑亭は明治39(1906)年黒田長成侯爵の別邸として造られた。黒田長成は豊臣秀吉に仕えた軍師、黒田官兵衛の子孫にあたり、慶応3(1867)年、福岡藩主黒田長知の長男として福岡に生まれ。明治21(1888)年に英国ケンブリッジ大学に留学、帰国して明治26(1893)年から30年間貴族院副議長を務めた。漢詩集『桜谷集』の遺した他、菅原道真や豊臣秀吉の旧跡を保存する、菅公会、豊国会の活動にも尽力した。前方、高台にあるのが『カフェ清閑亭』。ここまで坂を上ると天守閣が良く見えた。『清閑邸周辺の縄文時代の遺跡』。『天神山(てんじんやま)』。坂のピークを越え、民家の中を抜けて下りに差し掛かると、遺跡の跡が。このあたりの丘陵は天神山と呼ばれている。『山角天神社』。地元の人から「天神さん」と呼ばれ、親しまれている山角天神社は、「菅原道真」を祭神とする神社で、創建年代は古く 不明であるが、小田原北条氏時代と伝える城下町図には、すでに当天神社が記されている。 この天神社には、別当威光山長教院三光寺(古義真言宗、蓮上院末、永禄4年中興)があったが、明治初年廃寺となった。 天神社のご神体は木像で、高さ32センチ、台座6センチ。裏に「永禄4年極月吉日」とある。 『山角天神社の菅原道真画像』。この天神社には別当三光寺の什宝「菅原道真画像」がある。この画像は俗にいう「いかり天神」といわれる姿で、北条氏康 から奉納されたという優秀な作品であり、小田原市の重要文化財に指定されている。 また、境内には「紀軽人(きのかるんど)狂歌碑」や「芭蕉句碑」がある。すべて漢字で書かれているが、芭蕉が元禄7年(1694)に詠んだ「梅が香に のつと日の出る 山路かな」である。江戸時代の小田原の人たちも「天神様といえば梅」というわけで、文政3年(1820)に建てられた句碑である。紀軽人(きのかるんど)の狂歌碑もある。「月はさす 花はいたたく 酒宴を 雪より外に つもり人はなし」こちらが山角天神社の参道の階段。 ・・・その5・・・に戻る ・・・つづく・・・
2019.02.13
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「龍長院」を後にし、「鎌倉街道」を左手に進むと左手に「八坂神社」があったが、まずはそこには立ち寄らず更に進んでいくと左手の道路脇にあったのが石鳥居。その周囲に多くの石碑が並んでいた。これが、この後訪ねた八坂神社の鳥居で、現在の道のために参道が分断され、鳥居だけが建っているように見えたが、坂をくだると「八坂神社」の社と境内があるのであった。一番手前にあったのが「東俣野町道路改修工事協力者」碑。「道路改修記念碑」。「鎌倉街道西の道鎌倉街道西の道とも上の道とも言われるこの道は、鎌倉と地方を結ぶ重要街道の一つで新田軍が鎌倉攻略に進撃したのはこの道と伝えられ、歴史ある古道である。元弘三年(一三三三)五月八日新田義貞は上州新田庄の生品神社の境内で鎌倉幕府討伐のため挙兵した。はじめは其の数わずか百五十騎だったが呼応する者が激増し、小手指原(所沢)、分倍河原(府中市)で幕府の大軍を撃破、さらに村岡(藤沢市) 洲崎(大船)で大勝し、鎌倉の包囲網に成功した。新田軍はついに稲村ヶ崎、極楽寺、化粧坂、巨袋、亀ヶ谷の各方面から鎌倉市中に突人し北条高時ら一族門葉八百七十余人が東勝寺で岳火の中に自刃、鎌倉幕府は滅亡した。ときに五月ニ十ニ日、源頼朝が鎌倉人りしてから百五十三年目のことである。平成ニ年十月吉日 大正地区歴史散歩の会、十周年記念建碑」その横にも石碑、庚申塔が並んでいた。「堅牢地神塔(嘉永4年(1851年)銘)」。側面には「天下泰平」と彫られていた。「笠塔型青面金剛庚申塔(延宝8年(1680年)銘)」。「如来庚申塔」(延宝3年(1675年)銘)」。こちらも「笠塔型青面金剛庚申塔」側面右には「右ハ かまくら道」と彫られており、道標を兼ねていたようだ。側面左に「左ハ 八王じ道」と彫られていた。「角柱型 像形・銘不明 一猿」そして「八坂神社」を正面から。横浜市戸塚区東俣野町1637。「八坂神社」の社号標石。「神楽殿」。2世代の狛犬が並ぶ(右側)。2世代の狛犬が並ぶ(左側)。「本殿」。八坂大神(やさかおおかみ)とも呼ばれるこの神社は、神奈川県横浜市戸塚区東俣野町にある神社。単に八坂神社とも、東俣野八坂神社とも。近代社格では村社。現在は御嶽大神の兼務社である。江戸時代中期の享保18年(1733年)、創建されたと伝わる。寛政7年(1795年)3月に社殿造営、江戸時代後期の文政3年(1820年)に覆殿を修造した。明治6年(1873年)、村社に列し、明治13年(1880年)4月には氏子中にて改築した。昭和61年(1986年)、氏子中にて再度改築し、現在に至る。御祭神は素戔嗚尊。例祭は9月15日に近い日曜日。扁額「八坂神社」。「本殿」の龍の彫刻。木鼻(右)。木鼻(左)。「蔵」。「本殿」の右側の石碑群。「庚申塔(延宝7年(1710年)銘)」。「庚申塔(延宝3年(1706年)銘)」。「庚申塔(天保10年(1839年)銘)」。「道祖神」。「石祠」群。「境内社」。「石祠道祖神」。そして「八坂神社」の近くには柿畑が。最後に訪ねたのが「曹洞宗 北谷山 福泉禅寺」。横浜市戸塚区俣野町585。社号標石「曹洞宗 北谷山 福泉禅寺」。「山門」。「六地蔵」。「山門」の扁額は「太祥門」。そして「本堂」。「寺務所」とその奥に「横浜薬科大学図書館棟(旧ホテルエンパイア)」。「本堂」の扁額は「福泉禅寺」。「本堂」前の「道元禅師像」。正面から「高祖道元禅師」。お顔をズームで。「鐘楼」。「梵鐘」。「十三重塔」。泰山木(タイサンボク)の大樹。「名木古木指定 タイサンボク」。「アセビ(馬酔木)」の白い花であろうか。ここは「福泉寺」の墓地への入口であるが、私が子供の頃は、ここから坂を上っていくと旧ドリームランドの旧ホテルエンパイアの近くまで行けたのであったが・・・。「福泉寺」を最後に我が藤沢市に隣接する横浜市泉区の「鎌倉街道上道(かみつみち)」沿いの神社仏閣散策をほぼ制覇し、併せて同じく隣接する戸塚区の社寺仏閣散策に帰路に立ち寄ったのであった。「福泉寺」を後にして、20分ほど坂道を歩き無事帰宅したのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・横浜市泉区・戸塚区 完・・・
2021.04.07
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次「田村通り大山道」を西に向かって進むと、右側には墓地があった。大きな墓石の前には石鳥居が。大きな石碑に書かれた文字は?「志」ではないかと学友から。杉崎家の墓地らしい。杉崎家「墓誌」。「杉㟢家𡳿(之)碑」。杉崎家7名、志村家2名の名が刻まれていた。「金重家」墓石。その手前にあったのが「大山街道句碑」。「大山街道句碑」と。「添田唖蟬坊、杉﨑鳥花句碑」。「春風や いそがぬ人の そでを吹く 鳥花 」「密会の かなしみを泣く 蛍かな 唖蟬坊」 添田唖蟬坊は、明治大正期の演歌師で名は平吉。神奈川県大磯の生まれで一時茅ヶ崎に住んでいたと。号は「歌をうたう唖しの蟬」と自らを称したところから由来すると。そして唖蟬坊は茅ヶ崎で杉崎鍋之進と知り合い、その付き合いから俳句を始めた。この杉崎鍋之進の俳句の号が先の句碑の「鳥花」であるのだと。そして道路に面した場所にあったのが「赤羽根六地蔵堂」。正面から。「赤羽根 六地蔵堂」。六地蔵の右側三体。六地蔵の左側三体。更に西に進む。ここは茅ヶ崎中央商店街。街路灯が洒落ていた。「田村通り大山道」の時代には賑わった場所であったのだろう。そして左折すると左手に小高い山があった。「高田緑地」と。神奈川県茅ヶ崎市高田1-58。石段を上って行くと正面奥に立派な墓地があった。その他は一面、松を中心とした林。立派な墓石は並ぶ墓地であった。「水越家之墓」。先程、「神明大神」の「一之鳥居」の前にあった「長屋門」の家・水越家の墓であるようだ。「水越家は、 江戸時代、このあたりの名主を務め、明治中期から昭和初期にかけて地方自治に貢献した水越良介の生家でもあります。良介は、藤沢の羽鳥にあった小笠原東陽 の「耕余塾」👈リンクに学んだ後、地元の小学校の教師になりました。明治15年(1882)21歳の時、赤羽根村ほか3か村(組合村)の戸長に推され、後に松林村長、 高座郡会議員、神奈川県会議員を務め、大正9年(1920)に茅ヶ崎町長に就任しました。当時、学校改築に端を発し、町政が紛糾していましたが、この解決 に努め町政を安定させました。また、「老桃」の号を持つ俳人としても知られ、同家から近い墓所の碑に「出来稲や 腹かかへゆく 村夫子」という句が刻まれ ています。」と。残念ながら、句碑は撮していなかったが。「水越家先祖代々之精霊位」碑。そして「高田緑地」前の道を南に進み途中で右折し西に向かう。この路地を右折。正面に墓地があり、その後ろに小高い丘があった。丘を上ると頂上に石碑が立っていた。「鶴田栄太郎氏頌徳碑」。1957 年の七堂伽藍跡碑の建碑に尽力したのは、鶴田栄太郎であった。鶴田は 1888(明治21)年に茅ヶ崎市円蔵に生まれ、1968 年に 80 歳でなくなっている。詳しい経 歴は不明だが、戦前期には横浜に出て事業を起こしていたようである。『相武研究』や『郷土神奈川』の編集に携わっており、神奈川県郷土研究連盟では 副会長の要職にあった と。「鶴田栄太郎氏頌徳碑鶴田栄太郎は明治廿一年三月隣邑に生る 資性・・・常に名利を棄て清貧に甘んずるの風あり専ら郷土史研究に身を捧ぐること丗餘年相武の山野君の足跡至らざるなく以って地方文化の向上に寄与するところ大なり君偶と大山街道沿線を踏査するや守谷氏の祖に歌人仁兵衛兼布のあるを見出し之を世に紹介す君のこの譽れは守谷氏の深く感動するところとなりついに守谷氏は君の為に建碑の全をなす蓋君が芳志の現なり而て建碑の地をこの山王山に相したる所以はこの地が嘗て〇〇高田の山王社の鎮座せし所にして君が・・」下部の黒い部分が読めずに残念。「下寺尾の都市資源紹介「人物」 鶴田栄太郎氏( 1888 ~ 1968 下寺尾遺跡群の一画にある「七堂伽藍跡の碑」建立の中心となったのが、鶴田栄太郎氏です。彼は茅ヶ崎生まれの郷土史研究家で、一生を茅ヶ崎の史跡発掘、研究、紹介活動に尽くしました。伝説の七堂伽藍については、本当なのかどうかや時代者証などで多くの議論があり、結論は将来の『研究』にゆだねられました.彼は、この「七堂伽藍」研究を機に、西久保宝生寺の阿弥陀三尊像の発見、東海道ー里塚は、懐島の碑など数々の句碑の建立、大岡祭の開催など茅ヶ崎の文化財保護活動をはじめ、郷土史小冊子「あしかび叢書」を創刊し、郷土史雑誌「武相文化」などにも積極的に投稿し、茅ヶ崎の史跡・文化財を積極的に紹介し読けました。1968年10月20日、講演を終えた後、「これで今日の講座を終わります」と言い終えるや、隣の人に倒れかかり絶命したと言ういきさつは、終生の研究者を象徴しています.近年「古代寺院( 七堂伽藍跡)」の存在が証明され、国の史跡になるにあたり、草むす「碑」のそばに立ら、大いに喜んでおられることでしよう。こんなに素晴らしい宝を探究し伝えてくださった鶴田栄太郎氏に、茅ヶ崎市民として深く感謝いたします。(増田・富水)」「下寺尾の都市資源紹介「民話」 民話 【七堂伽藍】昔、下寺尾に大きな寺がありましたが、火事で焼けて今はありません.この火事は住職の尼さんの比丘尼が、南港の漁師の苦情に耐えかねて寺を焼いたというお話です.今からハ百年ほど昔、現在の茅ヶ崎北陵高校の南の所に、海円院というお寺がありました。大きな規模ですので近在の人々は七堂伽藍とも呼んでいました。比丘尼は、30歳そこそこで、美しく聡明で気立てがよく、近郷の村人にたいへん慕われていました。比丘尼は空腹で倒れていた乞食の助三の看護をして、寺にしばらく住ませていました。お寺の灯明の灯りのせいで魚が取れないという漁師の苦情に思い悩む比丘尼に、助三は心を痛め、本堂を焼いて姿を消しました。海円院の火事の後、南湖の海ではもとどおり豊漁が続くようになりました.身代わりになって役人に捕らえられた比丘尼は、詮議を受け、処刑されたとのことです.「茅ヶ崎の民話劇 第一集」編集 茅ヶ崎民話の会(要約 川合)」 【https://www.city.chigasaki.kanagawa.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/006/155/vol12.pdf】より左手前方に「NTT局舎ビル NTT東日本 茅ヶ崎松林局」の鉄塔が見えた。そしてこの日の最後に訪ねた「高田鎮守 熊野神社 大岡家創建」の案内塔が姿を現した。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.06.08
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「首都高速神奈川1号横羽線」の「みなとみらい出口」への高架道路の下にあったのが「西区の埋め立ての変遷」案内板があった。 神奈川県横浜市西区みなとみらい1。「西区の埋立の変遷江戸時代、現在の桜木町やみなとみらい21地区、横浜駅周辺はすべて海でした。安政6 (1859 )年東海道と開港場をつなぐ横浜道が野毛の山を切リ開いて築かれ、戸部の高台には神奈川奉行所が設けられるなど戸部・野毛の丘は開港期の横浜の発展を担う日本人の拠点となりました。開港後、文明開化が急速に進む中、明治5 (1872)年には、日本初の鉄道が品川一横浜間で仮営業を開始します(本営業は新橋ー横浜間)。鉄道敷設にあたリ、現在の高島町、桜木町周辺の土地が埋め立てられました。輸入した鉄道資機材は横浜港で陸揚げされ、横浜から建設が進められました。その後、貿易の発展に合わせ港の機能充実を図るため、英国人技師のH. S. パーマーの計画をもとに、明治29 (1896)年には船舶錨地150万坪という欧米諸国に遜色ない港が完成しました。築港に並行し京浜有志ー同の発起によりドック建設計画が進められ、明治24( 1891 )年には工場予定地の埋立が許可され、横浜船渠(せんきょ)会社(後の三菱重工業横浜造船所)が設立されました。明治30 (1897)年第ニ号ドックが竣工し、本格的に船舶修繕事業が開始されます。横浜船渠会社は倉庫事業、造船事業とその規模を拡大し、関東大震災や戦災、高度経済成長期に至る激動の時代を越えていきます。昭和40 (1965)年、当時の飛鳥田市長が6大事業の一つとして、関内駅、横浜駅周辺のニつの都心をつなぐ新市街地を創る計画を発表します。地区の埋立は昭和53 (1978)年に始まり、それにともない、横浜造船所は昭和57 (1982)年に移転し、昭和62(1987)年には埋立地はほぼ現在の形となり、みなとみらい21地区となりました。」「西区埋立変遷図」。「安政6(1859)年頃」。「明治13 (1880)ー明治19 (1886)年頃」。「明治41(1908)年頃」。「昭和38(1963)年一昭和40(1965)年頃」。「平成20(2008)年頃の航空写真」。「伊能図(大日本沿海輿地全図第93図「武蔵・相模」)」。「温故知新のみち」とは安政6年の開港以来、横浜の成長と共に大きく変貌してきた西区のまち。立ち止まってよく見てみると、積み重ねられてきた様々な西区の魅力が見えてきます。「温故知新のみち」はそんな西区の歴史資源を楽しむことができる散策ルートです。横浜開港に尽力した偉人たち、みなとまちの発展を支えた地域、西区の歴史に思いをはせながら、少しゆっくり歩いてみてください。きっと新たな発見があリます。」現在地はここ。JR根岸線のガードに向かって進む。手前に単線線路があり、踏切となっていた。この単線路は横浜市内を走る「JR高島線」であると。通る列車はほとんどが貨物列車。湾岸を突っ切るこの短絡線があることで、東海道本線の横浜駅周辺の過密ダイヤを乱すこともなく、貨物列車が旅客ホームを通過する危険性が避けられている。たぶん私と同様に多くの方が知らないと思われる路線ながら、有効に活かされているのだと。この踏切の名前は「三菱ドック踏切」。このあたりには、かつて三菱重工業横浜工場が広がっていたと。この踏切名は、この工場内にあった造船用のドック名が付けられたもの。踏切の名前が、いまはなきドック名のままというのが、横浜らしくおもしろい。JR根岸線のガード下に案内板が姿をあらわした。「横浜船渠会社(三菱重工業横浜造船所)正門」案内板。「横浜船渠会社(三菱重工業横浜造船所)正門かってこの付近には「ハマのドック」の名で親しまれた横浜船渠(せんきよ)会社(後の三菱重工業横浜造船所)の正門があり、数多くの人がこの場所を行き来しました。貨物線の「みつびしどっく踏切」という踏切名称にその名残を見ることができます。みなとみらい21地区には横浜船渠会社の遺構として、日本丸メモリアルバーク(第一号ドック)、ドックヤードガーデン(第ニ号ドック)などが残されています。現在JR根岸線が走る上部の高架は、大正7 (1918)年にニ代目横浜駅(大正4 (1915)年に現高島町駅付近に建設)と桜木町駅(初代横浜駅)の間に建設されました。昭和7(1932)年には高架を海側に増築し、空いた山側の単線は東京横浜電鉄線(東横線の前身)になりました。昭和31(1956)年には、歩道の上に高架を張り出して東京横浜電鉄線が複線化し、現在の高架の形になりました。高架に沿って走る道路は国道16号です。ここには昭和45 (1970)年まで市電が走っており、近くには電停の花咲橋や雪見橋がありました。国道を渡って行くと、戦災復興期に埋め立てられた運河である桜川(現在、桜川新道)、そして横浜船渠会社で働いた多くの人たちが利用した商店街、料亭街として賑わった歴史のある岩亀横丁へとたどり着きます。」「横浜船渠会社全景(大正11年撮影)」。「横浜実測図 明治14(1881)年」「「温故知新のみち」とは上記に同じ。」引き返して、再び「三菱ドック踏切」を渡りながら、桜木町駅方面を見る。この先で高架に合流するのであろうか。この後「みなとみらい大通り」まで戻り、「けやき通り西」交差点まで進む。左手にあったのが名知富太郎作「無限(飛翔)」。名知富太郎氏は1924(大正13)年横浜市生まれ。 作家は、航空機のエンジニアをしていた時、光と動きが現代美術に欠けていることを意識し、ドイツに渡り制作活動に入りました。作品は、リヒト・キネティック(光と動きの彫刻)と呼ばれ、ステンレスの表面が光を反射することで、動きを意識しています。また、周囲の風景をも反射させることによって、実際の色よりも美しい色を出現させています。「みなとみらい21彫刻展ヨコハマビエンナーレ'86」受賞作品。その近くにあった彫刻作品。「愛の変容」工藤健 と。ステンレス・スチールで3.6m高の作品。工藤健氏は1937(昭和12)年秋田市生まれ。 手、胸、眼、胴体、どこまでが男のもので、どれが女のものか分かりますか? 作家は、アブストラクトやキュービズムの思考と技法をもとに、人の体を再構成することで新しい人体象を作り出しています。像のまわりをゆっくり廻って鑑賞して欲しい作品です と。名知富太郎作「無限(飛翔)」越しに「横浜銀行本店営業部」を見る。ランドマークプラザ1Fの中央通路を利用して次に訪ねたのが「旧横浜船渠株式会社第二号船渠(ドック)」。「横浜ランドマークタワー」を見上げる。「第二号船渠(ドック)」に架かる橋から「第二号船渠(ドック)」の北東側を見る。右手巨大なギターがぶら下がっていた。「Hard Rock Cafe」の看板。その奥に見えたのはヨーヨー広場にあるモニュメント「モクモクワクワクヨコハマヨーヨー」。「渠」の文字を中央にデザインした社章入りの係留ロー プを巻き上げるキャプスタン。ロープやチェーンを巻き込むのに用いる巻取り装置(係船装置)の一つ。一般に船舶の船首や船尾部に設けられる。台座の上に垂直に立てた綱巻き胴(バレル)が、中心軸とともに回転するようになっている と。英国人技師パーマーの提言に基づき、明治22年設立の「横浜船渠会社」が建設した施設で、現存最古の民営石造乾船渠。石材は、真鶴・伊豆産の小松石を用いている。ランドマークタワーの建設にあわせて、保存改修を行い、イベントスペースとして活用されている。真鶴・伊豆産の小松石を用いた「第二号船渠(ドック)」の美しい石積みの横壁。写真右側には資材運搬用に使用した と推測されるスロープも見えた。復元された2号ドックと海を仕切る「船扉」の 内側を見る。再びビル3階分に相当する9mの深さの「第二号船渠(ドック)」の最奥を見る。「さくら通り」沿いに案内板が。「横浜船渠会社と検浜市」案内板。「横浜船渠会社と横浜市横浜は開港から明治期にかけて、生糸、茶、舶来品などを取リ扱う外国貿易により発展しました。明治5 (1872)年には日本初の鉄道開業により内陸への貨客輸送が増大すると、これを契機に横浜における外国貿易はさらに活発となり、横浜港はますます重要な港となりました。出入りする船舶は海面を埋めるほどに増加し、船舶を修理するドックが必要とされるようになりました。そこで地元横浜正金銀行頭取の原六郎をはじめ、原善三郎、茂木惣兵衛、大谷嘉兵衛や浅野総一郎東京の渋沢栄一、益田孝ら名士33名が協力して横浜船渠(せんきょ)会社(後の三菱重工業横浜造船所)を設立、本格的なドックを築造し、明治29 (1896)年より船舶修理業が開始されました。明治後期には潮入りドック(明治41 (1908)年完成)、第三号ドック(明治43 (1910)年完成)の増設により、横浜船渠会社は高い修理能力をもつ大工場へと発展しました。横浜船渠会社の設立が神奈川県から認可されたのは明治24 (1891)年ですが、その2年前の明治22 (1889)年、市制施行により横浜市が誕生しました。横浜船渠会社は横浜の発展を支えた地元実業家が設立に大きく関わったこともあり、横浜市と横浜船渠会社は発展を共にした兄弟のような関係とも言われます。それは横浜市の徽章「ハママーク」にドックの「D」を加えた、通称「ハマディー」と呼ばれる社章を横浜船渠会社が使用したことにも象徴されています。横浜船渠会社は横浜の近代工業発展を支えるとともに、「ハマのドック」の愛称でその後長きにわたって横浜市民に親しまれる存在となっていきました。」。「海から臨む横浜船渠会社の様子(明治期撮影)」。「横浜市平面図(明治41(1908)年)」「「温故知新のみち」とは上記に同じ」。現在地はここ。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.09.16
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次日軽蒲原第二発電所を見ながら、更に旧東海道を進むと左手には『蒲原の名所、旧跡』が写真で説明されていた。訪ね損なった『源義経硯水(よしつねすずりみず)』の案内を写真撮影。「1174年(承安4年)に源義経が東に下る時に菩提所の涌き水を使って蒲原神社へ奉納する文と愛知県矢矧(やはぎ)の長者の娘浄瑠璃姫に文を書きました。送られた文を読んだ浄瑠璃姫は源義経を慕い矢矧から奥州に下る途中に病で倒れこの地で亡くなりました。その時以来涌き水が義経硯水と言われるようになりました。1654年(承応3年)に供養塔が建てられました。その後1817年(文化14年)には地蔵尊が建てられ、「いぼ神様」として尊ばれ参詣者が絶えなかったとのことですが旅人が持ち去ってしまいました。現在の地蔵尊はのちに再建されたものです。」『歴史国道』説明。歴史国道とは、歴史上重要な幹線道路として利用され、歴史的・文化的価値を有する道路として国土交通省(建設省)が選定した道路のこと。この時に歩いている道、東海道 岩渕間宿〜蒲原宿〜由比宿(静岡県富士市 - 静岡市清水区)も歴史国道の一つであると。清水区蒲原二丁目の住宅街を歩く。すると左手奥にあったのが『渡邉家土蔵(三階文庫)わたなべけどぞう(さんかいぶんこ)』「木屋(きや)の土蔵市指定文化財(「渡邊家土蔵(わたなべけどぞう)(三階文庫)(さんかいぶんこ)」 渡邊家は、江戸時代末期に問屋職を代々務めた旧家です。また、材木を商っていたことから、「木屋」という屋号で呼ばれていました。 「渡邊家土蔵(三階文庫)」は、四隅の柱が上にいくにつれて少しずつ狭まる「四方具(しほうよろび)」(四方転(しほうころび))という耐震性に優れた技法で建築されています。三階建ての土蔵はあまり例がなく、棟札(むなふだ)から天保9年(1838)2月21日に上棟したことがわかり、市内最古の土蔵であると考えられます。この土蔵の中には、江戸時代の貴重な資料が多く保管されています。 」入口右手にあったのが『木屋稲荷』。木屋稲荷は渡邊金璙(かねよし)が天保9年(1838)に家神社として石祠を造ったと。現在は木屋江戸資料館として公開。運良くこの渡邊家の奥様(館長)が出て来て下さり、正面の入口の南京錠を解いて「木屋の土蔵」内部を案内して下さいました。「中の構造は、二重の梁や隠し階段等の工夫が凝らしてあり建築物としても大変貴重な資料として関係者の熱い視線を浴びているものです。合計23本の通し柱で各階で一寸(3cm)ずつ内側に傾いています。」写真は頂いたパンフレットより転載させていただきました。「この蔵は安政の大地震(1854年)にも耐え貴重な当時の所蔵品や資料を現在に残しています。」『渡邉家の歴代当主』の説明。蔵1回は『木屋江戸資料館』として公開中。資料館内に展示されていた長久保赤水の制作した日本地図。「伊能忠敬の「伊能図」がつくられる四十二年前に緯度と日本版の経線(京都を標準にした等間隔の南北線)を記したかなり精巧な日本地図があった。それが『日本輿地路程全図』(にほんよちろていぜんず)、世に云われた「赤水図」である。この「赤水図」は大阪の出版社によって世に流布され、当時のベストセラーとなり旅人に愛用された。これより四十二年の後、黒船が来航する江戸時代末期に幕命でつくらせた「伊能図」は国家機密とされ、江戸時代には一般人は見ることが叶わなかった。ゆえに、江戸時代中期から明治時代まで広く世に使われたのは「赤水図」だった。幕末の志士吉田松陰も「赤水図」を携えて仙台まで旅し、長州(山口県)への岐路、茨城県高萩市赤浜にある長久保赤水の墓に参詣している。また、かの医学者シーボルトもヨーロッパに持ち出し紹介しており、現在もイギリスのケンブリッジ大学やドイツの博物館など数か所に収められていることを東京大学大学院教授馬場章氏が近年発見している。」と。江戸時代後期に蒲原宿で問屋職を務めた渡辺金璙は、膨大な数の日記や記録を残しており、それがために当時の蒲原宿の様子が現在に伝わっているという貴重な文書を所蔵していると。奥様・館長の渡辺和子さんは説明がわかりやすくて話が面白く、大変勉強になった。地図を広げて『東海道の移り変わり』⬅リンクを熱く説明してくださった。最近では、テレビで活躍中の磯田 道史氏がこの蔵を訪ねて来たと。そして更に旧街道を進む。『一国之十六番 岩戸山』と刻まれた石碑。『龍雲寺』。街道がやや左に折れるところに岩戸山の石柱があり、その脇を入って行くと臨済宗妙心寺派の岩戸山龍雲寺があった。『六地蔵』。『本堂』。承応2年(1653)高松藩の槍の名人大久保甚太夫が蒲原宿西木戸辺りの茄子屋の辻で薩摩藩の大名行列と出会い、槍の穂先が相手の槍と触れたことで乱闘となった。この事件で殺された甚太夫の槍の穂先が残っていると。本堂に掛かる『岩戸山』の扁額。永代供養墓の『涅槃佛』。『聖観音菩薩』。蒲原宿 道標。懐かしい風景。いつの日かモール化を。『馬頭観音』。『「馬頭観音」供養石塔の由来』「かって馬が、貨客の運搬、農作業など、生活の重要な役割を担っていた時代、「馬頭観音」は馬の守り神として、人々の信仰を集めていました。また、路傍に立てられたその石像や供養塔は往還(街道)の道しるべとしても親しまれていました。 江戸時代、このあたりから蒲原宿東木戸にかけての間は伝馬や宿役に使われた馬を飼う家が並んでいますた。 この付近にも昭和の初め頃まで馬小屋があり、馬頭観音が祀られていたとつたえられていましたが、昨年11月、通りの北側の駐車場整備の際、半分土に埋もれた、この馬頭観音供養石塔が発見されました。 そこで、往時の人々の馬に寄せるあたたかい心を偲びその場所に新たに安置して、お祀りすることにいたしました。」『日蓮宗 佛護山 東漸寺』入口。旧八幡町と旧天王町の境目あたりには佛護山東漸寺が。『山門』。明治14年(1881)の題目碑があるので日蓮宗系の寺。元弘元年(1331年)開祖の日蓮宗の古刹。元は西より御殿屋敷付近にあったが、家光上洛時増改築のため現在地に移転した。本陣に近いことから混雑時は臨時の宿舎となったと。『本堂』。「東漸寺は、日蓮上人直弟日興上人の弟子中老僧日目上人の開創と言われ、北条重時の嫡男石川式部入道勝重の発願により、元弘元年(1331)に創建された。はじめはもっと西の御殿跡辺りにありましたが、3代将軍家光の上洛の際に、御殿屋敷を建て替えるために現在地に移転した。境内には推定樹齢400年のイヌマキ、木屋の渡邊利左衛門の起立した文政11年(1828)の法界塔がある。」『手水舎』。桜の樹の後ろに立派な鐘楼が。寺の建造物は安政の大地震(1855年)で悉く倒壊したので、すべてそれ以降のものであると。また、数度火災に見舞われているとも。鐘楼の前には木屋の渡辺利左衛門の起立した法界塔が。『渡邉利左衛門起立の法界塔』説明板。利左衛門周玞(かねのり)が法華経一部、6万9,384文字を一石に一字づつ書写し、それを礎石として利左衛門金璙(かねよし)が文政11年(1828)に起立したと。南妙法蓮華経と刻まれた日目上人 慰霊碑。日蓮大聖人の仏法は、二祖日興上人・三祖日目上人と相伝されたのだと。『なまこ壁と「塗り家造り」の家(佐藤家)』なまこ壁に近寄って。「当家は、元「佐野屋」という商家でした。壁は塗壁で、町家に多く見られる造りですが、このような町家を「塗り家造り」といいます。 「塗り家造り」は「土蔵造り」に比べて壁の厚みは少ないが、防火効果が大きく、昔から贅沢普請(ぜいたくふしん)ともいわれています。もともとは城郭などに用いられた技術であり、一般には江戸時代末期以降に広まったと考えられております。 なまこ壁の白と黒のコントラストが装飾的で、黒塗りの壁と街道筋には珍しい寄棟(よせむね)の屋根とが相俟(あいま)って、重厚感(じゅうこうかん)があふれています。 」『八坂神社』入口。『商家の面影を残す「塗り家造り」(吉田家)』。「当家は、昭和まで続いた「果堂」という屋号で和菓子を作る商家でした。玄関は、なまこ壁の「塗り家造り」で、中にはいると柱がなく広々した「床の間」づくりになっていて、商家らしい雰囲気が残っています。土間には、当時の看板が掲げられており、「中の間」には、らせん城の階段があって、二階に通じています。」「店の間」。『問屋場跡』「問屋場は、幕府の荷物の取り継ぎ、大名の参勤交代の折りの馬や人足の世話をはじめ、旅人の宿泊や荷物の運搬の手配をしたところで、宿のほぼ中央にあたる場所に設置されていた。ここに問屋職、年寄、帳付、迎番、馬指、人足方、下働、継飛脚、御触状、持夫の人々が毎月15日交代で詰めて宿の経営にあたっていた。」『椙守稲荷神社(すぎもりいなりじんじゃ)』。この神社は御殿山南麓に鎮座。参道脇には御殿山への遊歩道案内があり、ここから約10分位で「狼煙場」と呼ばれる頂上に到着出来るようです。入口や参道途中の鳥居には「椙守神社」と書かれていましたが、社殿には「椙守稲荷神社」と書いてあることがカメラズームで確認できましたので、明らかに稲荷神社と思われます。車が停まってないともっと良かったが・・・。問屋場跡の前の小川を左に沿って行くと『蒲原夜之雪』記念碑が建っていた。夜之雪記念碑には碑と共に広重の絵と案内板が掲示されていた。「夜之雪記念碑」と「蒲原夜之雪」「蒲原夜之雪」の絵は、歌川(安藤)広重が、天保三年(一八三ニ)四月、幕府の朝廷への献上使節の一行に加わって京へ上った折、この地で描いたもので、東海道五十三次シリーズの中でも最高傑作といわれています。 昭和三十五年「蒲原夜之雪」が国際文通週間の切手になりました。これを記念して広重がこの絵を描いたと思われる場所にほど近いこの地に記念碑が建てられました。」 広重の「蒲原夜之雪」「歌川(安藤)広重は、天保元年(1829)幕府の内命を受けて、「八朔御馬献上(はっさくおうまけんじょう)」の式典のようすを描くために、初めて東海道五十三次 の旅を体験した。実際に旅したのは、天保三年(1832)のこととされている。「八朔御馬献上」は、江戸の幕府から朝廷へ御料馬(ごりょうば)二頭を献上する年中行事の一つであった。 その時のスケッチや印象をもとにして、広重が五十五図の錦絵に制作したものが保永堂版「東海道五十三次」のシリーズである。この五十五図のうち、特に「蒲原夜之雪」は「庄野の白雨」「亀山の雪晴」とともに”役物(やくもの)”と称され、中でも最高傑作といわれている。 錦絵に使用する越前奉書紙の地色を巧みに生かした夜之雪、二人の駕籠屋(かごや)と一人の按摩(あんま)を配した里の情景など、抒情(じょじょう)豊かに構成された名作との評価が高い。 」『東海道五十三次夜之雪(蒲原) 安藤広重』雪道の坂を下る人は番傘を半開きにして杖を突き、足には雪下駄で、慎重な足取り。背を丸めて坂を上る人々の先頭の菅笠に合羽の男は、小田原提灯で足元を照らしている。完成度の高い構図、ふっくらとした新雪の柔らかさも感じるねずみ色の濃淡で表した雪の量感人間と自然との調和した描写は、地名を超越した普遍的な風景画として強い印象を。旧街道の建物を楽しみながら更に進む。『旅籠 和泉屋(鈴木家)』。自販機は片付けたいと我儘にも。「当家は、江戸時代「和泉屋(いずみや)」という上旅籠(じょうはたご)でした。天保年間(一八三〇~四四)の建物で、安政の大地震でも倒壊を免れました。 今に残る二階の櫛形(くしがた)の手すりや看板掛け、柱から突き出た腕木などに江戸時代の上旅籠の面影を見ることができます。 弘化二年(一八四五)の「蒲原宿商売調帳(かんばらじゅくしょうばいしらべちょう)に、「和泉屋間口間数(いずみやまぐちけんすう)六・一」とあり、現在は鈴木家四・一間、お休み処ニ間のニ軒に仕切られています。 」蒲原宿『本陣跡』「本陣は、大名宿・本亭ともいわれ、江戸時代に街道の宿場に置かれた勅使大名、公家などの貴人が宿泊した大旅籠です。主に大名の参勤交代の往復に使用されました。原則として門、玄関、上段の間(ま)がある点が一般の旅籠と異なりました。ここは当宿の西本陣(平岡本陣)の跡で、かってはここより百m程東に東本陣(多芸本陣(たきほんじん))もありました。本陣の当主は名主、宿役人などを兼務し、苗字帯刀(みょうじたいとう)をゆるされていました。 」 その4 に戻る。 ・・・つづく・・・
2019.04.24
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海老名市河原口3丁目の路地の角には石碑が。ここが「海老名氏記念碑」。海老名氏記念碑(上郷遺跡)は、畑の耕作中に偶然発見された遺跡であると。発掘調査により、五輪塔や板碑、集石遺構が確認されました。板碑は室町時代の年号が彫られたものが大半を占めており、御屋敷などの小字名や宝樹寺(廃寺)などから、この地を治めた海老名氏に関係する墓地ではないかと考えられています。発掘調査により、五輪塔や板碑、集石遺構が確認されました。板碑は室町時代の年号が彫られたものが大半を占めており、この地を治めた海老名氏に関係する墓地ではないかと考えられていると。海老名市河原口3丁目28−5。五輪塔。「昭和四十六年十二月二十六日海老名市国分一、八八七番地寄贈者 齋藤正」碑「誌河原口 上郷あたり一体の有鹿郷は古くから有鹿神社を中心に一大集落を営んでいたと思われます約八百年以前相模守として当地にまいりました源四郎親季を祖とする海老名氏の一族には 孫の源八季定をはじめ武勇をもって聞こえた人びとが数多く輩出したと言われます今日残っているお屋敷道場前等の名称は海老名氏往時の盛況を物語るものでしょう 時流茫々かかる幾多武勇の士の拠ったゆかりの地も今や世人の記憶からその言い伝えさえ忘れられようとしているときこれらの諸霊を慰めその由来を永く後世に伝えるため海老名市が記念碑を建てるにあたりこれを記します海老名市文化財保護委員 児島視□造 撰昭和四十六年三月二十六日 建之海老名市」更に北西に進む。更に相模川に向かって進み川沿いの遊歩道に突き当たりここを左折した。眼下に相模川の姿が見えて来た。そして右側に見えたのがプラットトラスの「上郷水管橋(水道橋)」。1918年3月竣功とのことで100年以上の歴史が。直径20インチ(Φ500mm)の鋳鉄水道管。既に水道管も使われておらず撤去を待つのみであるようだ。ところで、和歌山市は今月3日、紀の川をまたぐ「六十谷(むそた)水管橋」👈リンク が(全長546m)2本の一部が59mにわたり、水面に崩れ落ちたと発表したのであった。昭和50年(1975)3月完成で、46年目で耐用年数を迎えていないと。この「上郷水管橋(水道橋)」は1918年竣工とのことで103年を経過しているのである。いかにその後のメンテナンスが重要であることが理解できるのであった。そして和歌山の橋はアーチ橋と水道管が一体になった構造で、専門家は橋の部材が劣化していた可能性を指摘しているのである。ここ相模川のものはアーチ橋と水道管がそれぞれ独立しているのであった。 【https://www.sankei.com/article/20211005-3MEO6PFK45M65PWLIAJYXCG5YE/】よりそして「有鹿神社(あるかじんじゃ)」に裏から入り正面に向かう。「自然と歴史のさんぽみち」。「有鹿神社」の正面。「海老名總鎮守 有鹿神社」。「石鳥居」。「手水舎」。郷土かるた「あ」「有鹿社は 式内社にて 水守る」.「有鹿」の名は古代の言葉で「水」を意味し、川に近く豊かな水資源に恵まれた土地に感謝して創建された と。鎌倉時代まで広大な境内を持つ大神社であったが、室町時代に戦乱で荒廃して大きく衰退してしまった。戦国時代後期から復興が始まり、江戸時代には大部分の復興を達成。明治以降も地元・海老名の総鎮守として篤い信仰を受け続けている と。「有鹿神社 御由緒有鹿神社(あるかじんじゃ) お有鹿様は、相摸國で最古の歴史と高い社格を有する。創生 遥か遠い昔、相模大地は、海底の隆起により出現する。有鹿谷の泉を水源とし、これより 流れ落ちる鳩川(有鹿河)の流域に人々は居住し、有鹿郷という楽園が形成された。 縄文の頃より、有鹿の泉は水神信仰されてきたが、弥生の頃になり農耕の発展に伴い、 人々は、農耕の安全と豊穣を祈り、水引祭を越し、有鹿大明神と称え、有鹿神社を創建した。 有鹿谷の奥宮、鳩川中流の座間の中宮、相模川に合流する地の奥宮である。発展 奈良平安の頃、相模国府は有鹿郷に所在し、有鹿神社は、国司の崇敬を受け相模国の 延喜式内社中随一の社格を有した。天智天皇3年(664)、始めて祭礼を行い、 天平勝宝6年(754)8年(756)、藤原廣政の社殿の修理と墾田五百町歩の寄進を受け、 貞観11年(869)、従五位上に昇階し、永徳元年(1381)、正一位の極位となる。 広大な境内に美麗な社殿が建ち、条里制の海老名耕地を領有し、また、明神大縄(参道)は、 社人の住む社家を経て寒川に至り、一大縄は、相模国分寺に至る。変動 やがて、国府も移転し、有鹿郷から海老名郷に地名も変わり、有鹿神社は、豪族の海老名氏の 崇敬を受けるに至った。その後、室町の二度の大乱を蒙り、海老名氏は滅亡し、美麗な社殿と 広大な境内や社領も喪失した。 その結果、鳩川中流に鎮座した中宮も現在地に遷座し、有鹿姫の伝説(座間では、鈴鹿明神 創建の伝説となる)として残る。有鹿神社は、農耕を礎とした産業の発展を背景とし、 水引祭りの斉行により、海老名耕地の用水を守り、相模国五宮として人々の崇敬を集めた。現代 明治維新となり、県社に列せられたが、郷柱に留まり、神饌幣帛料供進社となった。 第二次大戦後、宗教法人有鹿神社として神社本庁に属する。有鹿神社は、水引祭を通し、 瑞々しい活力を与え、人々の生活の安全と繁栄を見守り続ける。本宮 大鳥居の跡地(鳥居田)から四百米参道を進むと、鐘楼跡の有鹿姫霊地の碑を傍らに、 松無しの有鹿の森が茂る本宮が鎮座する。鳥居の右側に手水舎、左側に鐘楼と神楽殿、 正面に本殿を覆う覆殿・幣殿・拝殿の三棟一字の社殿がある。本殿の建築と社殿の天井の 龍絵は、海老名市の重要文化財の指定を受ける。社殿の左側に日枝社・稲荷社・諏訪社の三社、 また、社務所の東門近くに有鹿天神社が鎮座する。中宮・奥宮 東方四百米の地に有鹿井(有鹿姫化粧井戸)、更にニ百米の地に有鹿池(有鹿明神影向池)が あり中宮が鎮座する。鳩川に沿って上流に進むと、相模原の磯部勝坂の有鹿谷には奥宮が 鎮座し、その奥には有賀の泉が今も湧き出している。」「鐘楼」。鐘楼が設置されている点も神社としては珍しいポイント。明治時代に神仏分離で多くの神社から撤去されたが、有鹿神社をはじめ海老名・座間周辺の神社は鐘楼が多く残っているとのこと。「梵鐘」。「本殿」創建時期は不明ですが、永和3年(1377)の作成とされる「有鹿明神縁起」では、神亀3年(726)にすでに存在し、天平宝字元年(757)に海老名郷司藤原広政が中心となり再建、鎌倉幕府滅亡時に兵火にかかり、「本殿」以外の付属建物が失われたとしています。「本殿」と拝殿天井画は、市指定重要文化財となっている。「本殿」は春日造り、屋根は檜皮葺だそうで、格式の高い有鹿神社に相応しい造りであった。扁額「有鹿大明神」。「祈祷受付所」。この駅名の如き表示板は?境内左手に「参心殿」と社務所。近年SNS上で話題を集めているのが、有鹿神社の名物「パンダ宮司」。パンダが神職者の装束を着たようなキャラクターで、神社の境内でもたまに見かけることができると。パンダ宮司の「中の人」は神社の禰宜を務める女性で、宮司を務める父の代理として「パンダ宮司」の活動を行っているのだとか。写真の「パンダ宮司」は人形であった。境内にはうっそうと生い茂る社叢があり、ケヤキやムクノキ、イチョウの大木があった。この他にも板根を張ったエノキの大木やカゴノキ、タブノキなどもみられたのであった。そして次に訪れたのが境内社の「有鹿天神社」。「社殿」。学問の神様である菅原道真公をお祀りしていると。入口にあった「郷社 有鹿神社」碑と「相模國十三座内 有鹿神社」碑。延長5年(927年)の『延喜式神名帳』に記載されている相模国の延喜式内社十三社の内の一社(小社)とされ、さらに同国の五之宮ともされるが諸説ある。旧社格は県社格の郷社。。中央にあった「有鹿神社誌」碑。鎮座地 海老名市上郷字宮畑ニ七九一番地 祭神 大日靈貴命創建の時代は詳かでないが祭行事等から東国に水稲栽培伝わった頃と推察され古くから延喜式内相模國十三座の一として住民から崇敬されている。相模國古風土記残本に天智天皇三年紀元一三ニ三年甲子夏五月初めに・・・・・「有鹿神社」の前にあったのが「有鹿姫之霊地史跡」碑。悲恋の姫君が相模川に投身すると、蛇体となり海老名の川辺に流れ着いたので、これを不憫に想い、里人が小祠に祀りました。現在、有鹿小学校の敷地(有鹿神社の元境内地)の一角に「有鹿姫之霊地史跡」の碑が立てられていた。以下ネットから。有鹿姫(あるかひめ) 今から約五百年前、愛川の小沢(こさわ)というところに金子掃部助(かもんのすけ)という武将がいました。金子掃部助は、関東管領 山ノ内上杉家の家来、長尾景春が起こした戦に加わりましたが、武運つたなく破れ、小沢城を捨てて敗走しました。この掃部助と奥方の間には、美しい姫君がいました。姫は早くから有鹿の地、すなわち海老名の河原口に住んでいた郷士の青年と婚約中で河原口にある海老名館に来ていましたが「小沢城危うし!」といううわさに、急いで小沢に戻りました。しかし、時すでに遅く、父は戦死、母は行方知れずと聞き、すっかり生きる望みを失いました。覚悟を決めた姫は、見苦しい姿を人目にさらしたくないと、薄化粧をして、まだ燃えている小沢城を後に、天に向かって手を合わせると、ざぶん!と相模川に身を投げたのでした。するとどうでしょう、美しかった姫の体は、たちまち恐ろしい大蛇に変わり、大きくうねりながら下流に向かって泳ぎ出しました。途中、六倉(むつくら)という所で大きく身震いすると、相模川の水が舞い上がり、中津の原に大きな水たまりができました。 さらに水しぶきを上げながら進み、河原口に近づくと、姫は再び人間の姿に戻り、息絶えて有鹿神社裏の河原に打ち上げられました。神社の氏子らは、海老名の地に嫁ぐ日を夢見ていた姫の死を悲しみ、せめてもにと「有鹿姫」の名を贈り、神社の片隅に、そのなきがらを葬りました。現在、有鹿神社と有鹿小学校の間には、若くして散った有鹿姫をしのぶ碑が建てられています。(こどもえびなむかしばなし第4集より)その先直ぐ右手にあったのが「總持院」。海老名市河原口3丁目11−10。山号は「海老山」。「總持院」。前方に「山門」。「高野山真言宗 海老山 満蔵寺 總持院宗祖 弘法大師(空海) 本尊 虚空蔵菩薩開基 藤原廣政 開山 弘吽大行創建 天平勝寶6年(皇紀1414年・西暦754年)第46代孝謙天皇の御字(奈良時代)に海老名の郷司藤原廣政が霊夢により建立した寺で、周囲に濠を巡らせ、12の坊舎が甍を並べ棟を競っていた.そのため、近年までこの地の小字を「坊中」と称した。元弘の乱(鎌倉末期)の新田義貞の兵火により坊舎をことごとく焼失し、足利持氏がこの地を本陣とした永享の乱(室町時代)に再び大兵火の及ぶところとなるが、天正年間(安土桃山時代)に慶雄大徳により9間四面の大本堂や6間四面の大庫裡などが復興され,小田原北条長氏・氏康らの外護の下に発展し,小田原北条氏滅亡後に関東に入国した徳川家康からは特に他の有力大寺院に先駆けて寺領寄進の朱印状とその後の厚い庇護を受ける。江戸時代に「不入」「葵の紋所」を許され,高座・愛甲・大住の3郡に末寺19寺を持つ中本寺(中本山)となって,法談所・古義真言宗関東壇林本寺として興隆を極め、神仏分離(明治元年)までは有鹿神社の別当寺も務める.明治初年の廃仏棄釈の嵐の中で多くの貴重な寺宝も失われ、威容を誇った大本堂や大庫裡などの建物も関東大震災にて現山門を残して全て倒壊したが、順次復興して今日に至る。」「山門」。石灯籠と石碑。参道にはサルスベリの花が。「六地蔵」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.10.07
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「世田谷城阯」を後にして、次の目的地の「勝光院」へ向かって進む。途中、「烏山川緑道」を横切る場所にあったのが「豪徳寺橋」碑。昔はここに「烏山川」が流れており「豪徳寺橋」が架かっていたのであろう。そしてこの「烏山川」は地下水路となり埋め立てられ「烏山川緑道」となったのであろう。更に進み、再び「東急世田谷線」の踏切を渡る。「勝光院」に向かって住宅街を進む。そして「勝光院」への入口に到着。東京都世田谷区桜一丁目26-35。寺号標石「曹洞宗 延命山 勝光院」。新装なった竹垣・建仁寺垣(けんにんじがき)に沿って参道を進んでいくと直ぐ左にあったのが、墓地への新装なった入口門。入口門の先には、綺麗に掃き清められた墓地そして通路があり進んで行った。目的は「世田谷城主吉良家の墓所」。「吉良氏」👈リンク と言えば、まず忠臣蔵の吉良上野介義央が有名。そのことから、吉良氏の領地は、三河の吉良であるということも良く知られている。よって吉良上野介は三河吉良氏と言われている。一方、世田谷の領主の吉良氏は奥州(武蔵)吉良氏といわれ、系統が異なるのだと。先程世田谷城跡を訪ねたが、14世紀後半に吉良治家が世田谷郷に居館を構えたことに始まるのであった。もともと、吉良氏は、足利氏の一門。鎌倉時代に、足利義氏の長男の長氏が三河国碧海郡吉良荘を本拠としたのを契機に、「吉良」を名乗り出したことが始まりであると。また、足利義氏の四男の義継が、兄の長氏と同じく三河国吉良荘を本拠とし、「吉良」を名乗る。兄の長氏の家系は「三河吉良氏」となり、弟の義継の家系を『奥州吉良氏』というのだと。左手にあったのが「六地蔵」。そして直ぐ右手にあったのが「世田谷城主吉良家の墓所」。「勝光院墓地のほぼ中央に所在する吉良氏墓所には、義祇(明暦3年没、1657年)以降の吉良氏代々の墓が置かれています。墓石の形態は宝篋印塔、五輪塔、位牌型などで、整然と並んだ墓石のほか、区画の隅に集積された古い墓塔があります。同墓所内で最も古い年紀をもつ墓石は、貞和5年(1349年)で、「興善寺殿」の院殿号と「吉良頼氏」の名が刻まれた宝篋印塔です。しかし、その制作は同塔側面に刻まれた寛永19年(1642年)とみられており、江戸時代になって追善のために建立したと考えられています。」とネットから。勝光院は、建武2年(1335)に吉良氏によって、金谿山龍凰寺として創建したが、天正元年(1573)には、吉良氏朝が天永琳達を中興開山として、父頼康の院号より興善山勝光院と改称した。天正19年(1591)には、徳川家康より、30石の御朱印状を拝領した。世田谷区指定史跡の吉良家歴代のこの墓所。大きな百合の花や黃菊の花が手向けられており、品格のある空間をより高めていたのであった。「豪徳寺」の「伊能家墓所」如き墓石の案内がないため、墓石人物の特定は出来なかったが。最奥正面に並ぶ「宝篋印塔」の墓石群。勝光院内のこの吉良家墓所には氏朝の孫・義祗以降の一族の墓が、全28基と、墓所内の隅に集積された墓塔が10数基あるとのこと。正面の右側の墓石群。正面左側の墓石群。「吉良氏墓所吉良氏は清和源氏・足利氏の支族で、三河国吉良荘より起こった。世田谷吉良氏はその庶流で、十四世紀後半、治家の代に世田谷に居館を構えたと伝えられる。室町・戦国期を通じて、吉良氏は足利氏御一家として家格の高さを誇り、世田谷地域を支配していた。十六世紀、頼康・氏朝の代には後北条氏と婚姻を結ぶなどの関係にあった。関東が徳川氏の支配下に入ると氏朝の子・頼久は上総国寺崎村に所領を移され、以後吉良氏は旗本として幕末まで存続したが、その間も勝光院は吉良氏の菩提寺であった。勝光院は天正元年(1573)、氏朝の中興開基で、吉良氏墓所には氏朝の孫・義祇以降の一族の墓が所在する。全28基と、墓所内の隅に集積された墓塔が十数基ある。」正面に向かって右側横の墓石群。正面に向かって左側横の墓石群。「墓所内の隅に集積された墓塔が十数基」がこれであっただろうか。隅っこには行き場がないといった感じで墓石や塔がきれいに並べてあったが。そして幕臣の「廣戸備後正之」も、この寺に葬られていた。廣戸正之は駿河の出身で、今川義元に仕えていた。今川家の没落後に徳川家に仕え、致仕後に世田谷に隠棲した。1612年(慶長17年)に死去し、勝光院に葬られている。なお、勝光院第2世住職観堂宗察も、廣戸氏の一族である。左の墓石には「廣戸備後正之月翁玄之墓」、右手の墓石には「心叟永本居士 廣戸半十郎」と刻まれていたが、一番右側は不明である。そして「勝光院」の墓地を見る。墓地内から「客殿」その奥の「開山堂」を見る。「吉良家の墓所」を後にして、「勝光院」の参道に戻り「山門」に向かって進む。山門の前には竹林を背にして一体の地蔵様が三界萬霊の慰霊碑の上に立っていた。まるで竹林を守るがごとくに。「三界」とは欲界・色界(物質の世界)・無色界(精神の世界)趣きを感じる地蔵様なのであった。そして竹林もきれいに整備されていた。左手にあったのが「客殿」。そして「山門」前まで進む。「山門」を潜り、石段を上って行った。石段を上り終わると右手には竹林を背に「鐘楼」が。ズームして。廻り込んで。「勝光院の梵鐘所在地 世田谷区桜一丁目二十六番三十五号所有者 世田谷区桜一丁目二十六番三十五号指定 平成十二年十一月二十八日製作年代 元禄十一年(一六九八)作者 加藤太郎兵衛吉高材質・構造 銅鋳造総高 一四四・五センチ本梵鐘は、元禄11年、当山第13世隆山傳盛の代に制作されたもので、区内に伝わる梵鐘としては、二番目の古さである。第二次世界大戦に際し供出に応じたが、幸い鋳潰しを免れ、しばらくの間、葛飾区東金町の金蓮院に伝えられていた。昭和52年当寺に返還され、今日に至っている。梵鐘の形姿は、優美で均整がとれ、各所に見られる装飾も堅実な出来栄えであり、工芸品として優れている。制作者の加藤吉高は八王子に本拠をおき、江戸時代をつうじて主に三多摩地方を活動範囲とした所謂「加藤鋳物師」の一人である。本梵鐘は、吉高の力量が窺えるとともに、加藤鋳物師制作の鐘の変遷を考えるうえでも重要な位置を占めている。また、元禄年間頃の当寺について記す史料は、井伊家文書中の「世田谷二拾ヶ村御帳」(元禄8年/彦根城博物館蔵)以外知られておらず、この時期の銘文を有する本梵鐘の存在意義は高い。近世世田谷の歴史を知るうえで、また、世田谷の近世美術工芸品を語るうえでも、本梵鐘は貴重な遺品である。」そして「勝光院 本堂」。現在の「勝光院」宗派は曹洞宗、山号は延命山。案内板によると、建武二年(1335年)に吉良治家氏(法名興善寺殿月山清光大居士)によって創建され、初めは臨済宗の金谿山龍鳳寺と名付けられていたと。「新編武蔵風土記稿」によると、開山は吟峯公禅師となっている。その後は衰退していったようで、天正元年(1573年)に吉良氏朝が天永琳達禅師を中興開山として、父頼康の院号(勝光院殿脱山浄森居士)により興善山勝光院と改称し、この時に臨済宗から曹洞宗に改宗したのだと。天正十年には客殿(旧本堂)の建立を行い、その時に家臣の関加賀守が現在の本尊である虚空蔵菩薩像を寄進したのだと。扁額は「興善窟」か。「本堂」に右側にあったのが「庫裡」。火灯窓・花頭窓が美しかった。こちらの建物は「書院」の玄関。近づいて。「勝光院書院所在地 世田谷区桜一ー二十六ー三十五所有者 延命山勝光院指定 昭和五十七年十二月二十八日建築形式 一重 寄棟造 茅葺規模 桁行 四・五間(八・一八メートル) 梁間 四・〇間(七・ニ八メートル)この書院は、勝光院の旧寺地にあったが、天保四年(一八三三)の諸堂再建の際に曳屋され、現在地に移されたものである(小屋束墨書銘 、大場弥十郎 著「自然賛ー 巻五ー」)。当書院の間取りは、四間取りで、南側の表座敷二室と、北側の裏座敷、納戸座敷の二室からなる。昭和五十二年の改修で内縁を廻らしたが、当初は表座敷二室と南側と西側が外縁の切目線で、東側の表座敷、裏座敷の東・北側は内縁のすのこ縁が廻り、雨戸が建て込まれていた。納戸座敷の北、西側には縁は廻らず、開口部は三本溝で舞良戸二本と明障子一本の建具が入っていた。表座敷二間のうち、西側の八畳が上座敷で、北側に床間、天袋付違棚、西側に平書院を構える。納戸座敷を除く三室はいずれも仕様が同じで、柱、長押、竿縁の各材は面皮付の杉材を使っている。壁は漆喰壁であったが、当初は大津壁(黄土)であった。柱間寸法は六尺(一・八二メートル)、材質は杉が使用されている。建築年代は、柱枘より「文政六年十月二十七日」(一八二三)と記された墨書の他、同年銘の棟札から明らかである。当書院は、江戸時代後期の数寄屋造書院形式を伝える貴重な遺構 である。」この書院は文政6年(1823)に横根村(現在の大蔵1丁目付近)の棟梁・岡庭政右衛門の手で建立されたもので、本堂の裏手に位置している。 【https://setagayadigitalmuseum.jp/collection/21683/detail/51160350/】より寄棟造茅葺の建物で、南側に表座敷二間と北側に裏座敷、納戸座敷を配した四室からなっている。内部は数奇屋風の書院造りで、上座敷には平書院、床脇を備えた床構えがある。 【https://setagayadigitalmuseum.jp/collection/21683/detail/51160350/】よりこの巨大な石から削り出した水盤には水はなく。「勝光院」を後にして進むと、ここが「勝光院」の参道入口。昔は150mほどの参道の両側にはソメイヨシノが植えられていて、ちょっとした桜並木になっていたと。今ではそういった面影は全く無かったが。「禪曹洞宗 勝光院」碑。「瀬田貫井線・都道472号線」を南に向かって進むと都道3号線・世田谷通りと合流する場所にあったのがスーパーマーケット「オオゼキ上町店」。左手にあったのが「東急 世田谷線 上町駅」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.02.06
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2章 地図を作る地図印刷技術者 岩橋教章と岩橋章山【前期】人類は、自らが住まう世界を深く理解するため、地図作りに情熱を注いできた。明治時代の銅版印刷による地図には驚くほどの精緻さで地上の様子が描写され、作り手の尋常ではない姿勢が見て取れる。とりわけ注目すべきは、親子2代で地図作りに携わった印刷技術者の岩橋教章と章山である。父の教章は、1873(明治6)年のウィーン万博へ派遣され西洋の技術を習得すると、帰国後は主に内務省地理局で地図の印刷事業に取組んだ。息子の章山は、日本と台湾を行き来しながら印刷技術の開発にあたり、父の業績を後世へ語り継いだ。当時の最新技術によって作られた地図を通じて、最前線で活躍した人たちの動向に迫る。「鳥の視線で上空から地表面を斜めに見下ろすようにして描かれた地図を鳥瞰図と呼ぶ。大正から昭和にかけて各地て鳥瞰図を描き、一世を風靡した人物が吉田初三郎である。神奈川県内では、早くは1917 (大正6)年頃から鎌倉や箱根で鳥瞰図を手がけ、1932 (昭和7)年には全長約4mの神奈川県鳥瞰図を描いた。その鳥瞰図を丹念に読み込めば、交通網が展開する様子や、関東大震災から復興を遂げようとする状況など、描かれた当時の最前線の姿が浮かび上がってくる。吉田初三郎の弟子であり、戦後に横須賀を拠点にして多くの鳥瞰図を描いた中村慈郎にも注目して、鳥の目で眺めた地域の様子を紹介する。」「吉田初三郎吉田初三郎(1884 ~ 1955年)は、大正から昭和にかけて各地で鳥瞰図を描いた人物である。鳥瞰図とは、鳥の目で地表面を斜めに見下ろしたようにして表現した図を指す。1884 (明治17)年に京都で生まれた吉田初三郎は、洋画家の鹿子木孟郎に絵画を学び師の勧めで商業美術の道を歩んだ。1913(大正2)年に発行された京阪電鉄の沿線案内図が皇太子(後の昭和天皇)の目に留まり、1921 (大正10)年には鉄道省の「鉄道旅行案内」が好評となって一躍その名が知られるようになった。「大正の広重」を名乗った吉田初三郎が残した鳥瞰図は1600点以上ともいい、本展では主に神奈川県域を対象として紹介する。神奈川県内では、早くは1917 (大正6)年から鎌倉や箱根で鳥瞰図を手掛けている。鎌倉では江之島名所図絵[2-56〕のほか大正期のものが複数ある。また、箱根では湯本の老舗温泉旅館である萬翠楼福住に肉筆の鳥瞰図〔2-62〕があリ、早い時期の作品として貴重である。さらに、神奈川県内では大正期に川崎大師〔2-79〕や清浄光寺(遊行寺)〔2-80〕、大雄山最乗寺〔2-81〕といった寺院を対象とした鳥瞰図が出版されている。1923 (大正12)年の関東大震災後には数多く描かれるようになり、なかでもコロムビアレコード川崎工場図〔2-88〕は肉筆のものとして貴重である。日本畜音器商会(現日本コロムビア株式会社)の川崎工場屋上にコロムビアマークのネオン塔が完成したことを記念して描かれたもので、オレンジ色の大きな丸と音符のネオンサインが一際目立っている。」「コロムビアレコード川崎工場図」。「コロムビアレコード川崎工場図吉田初三郎 (昭和6)年 日本コロムビア株式会社」「創立70周年記念 「流行歌のあゆみ」」。「レコード「コロムビアレコード川崎工場図(「創立70周年記念 流行歌のあゆみ」)1980(昭和55)年5月日本コロンビア株式会社 根岸調査局」「上段:川崎大師平間寺図絵 吉田初三郎/大正名所図絵社 1916(大正7)年9月25日 根岸調査局中段:時宗総本山清浄光寺全景 吉田初三郎 1920年代 当館下段:相模鉄道沿線案内 金子常光/相模鉄道 1920~1930年代 神奈川県立図書館」「上段:道了大菩薩鎮座大雄山名所図絵 吉田初三郎/大雄山最乗寺 1922(大正11)年12月5日」富士山、伊豆半島をズームして。「関東震災全地域鳥瞰図絵 1924(大正13)年9月15日」「関東震災全地域鳥瞰図絵 吉田初三郎/大阪朝日新聞社 1924(大正13)年9月15日」「上段:ポスター「南武鉄道開通」」。「神奈川県鳥瞰図」。箱根、富士山をズームして。「神奈川県鳥瞰図1923(大正12)年9月1日の関東大震災で神奈川県域は大きな被害を受けたが、復興の過程で現在に都市の骨格も形作られた。神奈川県鳥瞰図〔2-91〕は吉田初三郎が1932(昭和7)年に神奈川県観光連合会から依頼を受けて描いたもので、復興の様子が概観できる。神奈川県観光連合会は観光の振興を目的とした半官半民の団体で、県内の観光名所を宣伝するために鳥瞰図を作った。神奈川県鳥瞰図には県域を東西に貫く東海道本線や東京と神奈川を結ぶ私鉄網が描かれ、関東大震災から復興する過程で観光を支える交通網が整備された様子が分かる。同図が描かれた1932(昭和7)年までに開通した主な鉄道として、小田原急行鉄道や東京横浜電鉄(1927年)、小田急藤沢線や南武鉄道(1929年)、湘南電鉄(1930年)などがある。吉田初三郎は鉄道沿線の案内図を数多く手掛けたことが知られていて、南武鉄道〔2-84・85〕や小田原急行〔2-86・87〕では大型のポスターと印刷パンフレットが揃って作られた。神奈川県鳥瞰図が完成した翌年の1933(昭和8)年には、同図をもとにした印刷パンフレットの神奈川県観光図絵〔2-92〕が発行された。部数は1万2千部に及び業者を通じて販売されたり、博覧会の来場者に配されたりして世間に神奈川県の魅力を広めた。また、県の道路課や河港課等によって視察団体に対し配布されていた。つまり、神奈川県鳥瞰図や神奈川県観光図絵は、観光に留まらず、県による施策の最新状況を広報する最前線の地図として使われていた。」「上段:湘南電鉄沿線名所図絵下段:横浜市鳥瞰図」「平面図を美化シタル熱海温泉實寫案内圖」「妹尾春太郎鳥瞰図が並ぶ。「箱根山鳥瞰図」。「箱根名所図絵」コーナー。「日本郵船航路図」。「横浜市観光鳥瞰図」。「絵葉書「小田原景勝」原図」。「二宮神社」。「中村治郎(慈郎)中村治郎は1908 (明治41 )年に静岡県下田町(現下田市)で生まれ、1926伏正15 )年頃に吉田初三郎の門下生となった。戦後、独立した中村治郎は1949 (昭和24 )年頃から横須賀市に住み、神奈川県内の各都市をはじめとして数多くの烏瞰図を描いた。作品の落款には「慈郎」の字か新いられる場合がある。ロ際観光都鎌倉市観光烏瞰図[ 2-112〕は横幅約1.5mの画面に肉筆で描かれた作品で、関連する印刷バンフレットに1949 (昭和24 )年の鎌意江之島名勝案内〔2-113 ]がある。同図は鎌市役所観光課が編集し後藤邦栄堂が発行したもので、表紙に「慈郎」の署名がある。後ている〔2-114〕。発行者の後藤邦栄堂は鎌倉の雪の下に店を構えた書店で、絵葉書や名所案内等を出版した。また、相模原市構想鳥瞰図[ 2-118〕は、1951 (昭和26 )年5月に相模原町(当時)の町制10周年を記念して描かれた鳥瞰図である。額をきめて横幅約3.6mの大画面を使い、左手の相模湖から右手の相模湾に向けて大きく湾曲するように相模川が流れ、その内側に町域が丸く描かれている。地形を大きくデフォルメして画面に納める描き方は、師の吉田初三郎から引き継いだ技術である。中村治郎は、このはかに三崎〔2-116〕や横須賀〔2-117〕等の鳥瞰図を手掛け、1966 (昭和41)年に没した。」「相模原市構想鳥瞰図」。「相模原市構想鳥瞰図中村慈郎1951 (昭和26)年5月相模原市立博物館」「国際観光都鎌倉市 観光鳥瞰図」。「国際観光都鎌倉市 観光鳥瞰図中村治郎 1950(昭和25)年頃鎌倉市中央図書館」「鎌倉江之島名勝案内」。「鎌倉江之島名勝案内中村慈郎/後藤宝栄堂 1950(昭和25)年銀倉市中央図書館」「鎌倉」。「鎌倉と江之島」。「3章"homo Mapiens”たち」人類はまた、自らが住まう世界を深く理解するため、地図を使ってきた。ときに、地図を作る人たちと同様の情熱をもって地図を使う人たちがいる。例えば、郷土の歴史を知るため、現在の横浜市域を描いた最も古い地図として知られる武蔵国鶴見寺尾郷絵図を模写した人たちがいた。また、芝浦製作所の電気技術者である岸敬ニ郎は、水力発電の適地を探すために日本各地の地図を座右に置いて愛用した。1950年代に導入された製図技術であるスクライプ法や、地図のデジタルデータを記録した平成はじめのフロッビーディスクなど、技術の移りかわりを物語る資料とともに、"Homo mapiens"たちの諸相を眺める。」「岸敬二郎岸敬二郎は1869 (明治2)年3月に和歌山城下(現和歌山市)で生まれると、1895 (明治28)年7月に帝国大学工科大学電気工学科を卒業した後、芝浦製作所(現東芝)に入った。自身の卒業論文に基づいて開発した二相式誘導電動機は、日本における誘導電動機(モーター)製作の発端として知られている。また、海外視察で得た知見を広く国内に伝えて新たな国産技術を展開させた。例えば、1904 (明治37)年7月から翌年1月にかけて視察のためアメリカへ派遣された際、トーマス社製の碍子を入手し、帰国後に日本陶器合名会社社長の大倉和親にその製造を勧めた。岸敬二郎が後年に王子製紙の嘱託技師としアメリカ等を視察した際の手帳〔3-20〕には、碍子のスケッチが数多く描かれている。電気技術者の岸敬ニ郎は一見すると地図とは何の縁もないように思えるが、両者を結ぶのが水力発電である。岸敬二郎は、発電施設の立地条件を検討するために地図を常に座右に備えていて、これに基づいて河川の流域や落差、雨量等を概算したうえで実地調査を実施した。また、隣家に火事があった際、岸敬二郎は子どもたちを避難させたあとで「一日も身辺を離さなかった参課本部の地図」を持ち出すよう知人に頼んだという逸話がある[ 3-8〕。この岸敬二郎が愛用した地図や関連資料は、2019(令和元)年と翌年にこ子孫から当館と東芝未来科学館へ寄贈された。本展では、これらの資料を初めて公開する。」「陸地測量部地図帳」。「岸敬ニ郎旧蔵陸地測量部地図帳1884 ~ 1908(明治17~41年)」「農商務省地図帳」。「岸敬ニ郎旧蔵農商務省地図帳1898 ~ 1910(明治31~43)年」「日本郵便航路図」。「日本郵便航路図1935(昭和10)年」「移りかわる最前線」。「東京中心部」地図。「1万分1地形図東京中心部1990(平成2)年11月12日」。「数値地図フロッピーディスク」。「数値地図 フロッピーディスク1994 (平成6)年一部修正」「スマートフォンアプリ「東京時層地図」」。「ウイルド T3 経緯儀 ウイルド社」。「土地被覆図 箱根」。「土地被覆図 箱根県立生命の星・地球博物館が衛星画像や数値地図のデータをもとに製作・解析した地図。アメリカの地球観測衛星ランドサットのデータを解析し、数値地図25000 (地図画像)の地形図上に重ね合わせたもので、箱根町周辺の林地や耕作地、市街地といった土地利用の状況を色別に示している。数値地図25000 (地図画像)は2万5千分1地形図の原図を数値化した画像データで、1997 (平成9)年からCDで刊行。2008 (平成20)年にはオンライン提供が開始された。」「海図 JPN1 日本及近海」。「海図 JPN1 日本及近海2021 (今和3 )年8月19日」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.09.06
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1月5日の夜、NHK総合において、世界の考古学者を驚かせた「最古のパピルス」を手掛かりに、ピラミッドの謎に迫る「完全解剖!大ピラミッド七つの謎」を再放送していたので、これを録画し楽しんだので、全てテレビ映像からの写真を引用・掲載させて頂きその内容を紹介いたします。圧倒的な存在感を誇るクフ王のピラミッド誕生の秘密、巨石を積み上げる驚異のテクノロジーなどを考古学者・河江肖剰氏を案内人に登場させて紹介。さらに、幻の古代都市ピラミッドタウンの発掘最前線、ピラミッドがカギを握る社会の大激動、権力者の野望と愛憎が渦巻く下剋上ドラマなど、世界遺産ピラミッドに秘められた謎と歴史ロマンに迫る番組だったのです。世界遺産「三大ピラミッド」は、エジプト、ギザの砂漠にある、3基のピラミッドの総称。英語ではGiza pyramid complex(ギザのピラミッド群)と呼ばれる。隣接するスフィンクスとともに、エジプトを象徴するイメージとなっている。造営時期は現在より約4500年前の、紀元前2500年頃とされ、いずれもエジプト第4王朝に建設されている。古代エジプト王国のファラオの墓陵であり、被葬者の名をとって写真手前からクフ王のピラミッド、カフラー王のピラミッド、メンカウラー王のピラミッドと呼ばれているのである。私がこの地を訪ねたのは、40年以上前であっただろうか。クフ王のピラミッドの頂上に上っている人の姿が。後ろにカフラ王のピラミッドが見える。1864(元治元)年にピラミッドを見物し、スフィンクス前で写真に納まった遣欧使節団の武士たちの姿。随行員の手記に「三角山に登山、入窟の者もあり。この山何の故に作りしやと問うに、仏の為という。山後に又二山あり。その下に石首あり。石首の下に本朝人列立して写真をとる」とあるのだと。今、最新の発掘調査で大ピラミッドの全貌を解き明かす新発見が相次いでいると。再び三大ピラミッドを反対方向から。写真手前からメンカウラー王のピラミッド、カフラー王のピラミッド、クフ王のピラミッド。クフ王のピラミッドを上空から。そして番組タイトル「完全解剖! 大ピラミッド 七つの謎」。およそ4500年前に築かれた巨石建造物・三大ピラミッド。クフ王のピラミッドは三大ピラミッドの中で最大で、高さ146.6m(現在の高さ138.8m)である。クフのピラミッドの底辺の長さは約230m。カフラー王のピラミッド。三大ピラミッドのうち中央に位置する。高さはおよそ136メートル(頂上部分が一部崩れているため、創建当時より低くなっている)。頂上付近に創建当時の化粧石が一部残っている。見かけ上、三大ピラミッドの中でもっとも高いように見えるが、それはカフラー王のピラミッドが立っている岩盤が、クフ王のそれに比べてやや高くなっているためで、実際はクフ王のピラミッドの方が高い。メンカウラー王のピラミッド。三大ピラミッドの中ではもっとも小さい。高さおよそ65メートル。ただしピラミッド複合体の規模としては、ほかの2つのピラミッドに劣らない規模を備えている。ピラミッドの南側には、3基の王妃たちの小さなピラミッドが東西に並んでいる。参道も存在し、東へと延びている。北面には大きな傷跡が残るが、これはピラミッドを破壊しようとしたものが破壊できずに終わったものの名残であるという。クフ王のピラミッドの内部紹介。奥へと巨大な空間が延びている。高さ8m、全長47m、これは大回廊と呼ばれている通路。壁面が7cmずつ内側にせり出すことで重力を分散している。大回廊を登り切ると、その奥に現れるのは地上50mに位置する「王の間」。棺の様なものが置かれているが、中身はカラッポ。クフ王のミイラは未だ見つかっていないのだ。現代の土木技術から考えても驚異的な精度で築かれた大ピラミッド。設計図などの記録は今尚発見されておらず多くの謎で満ちているのだ。そして7つの謎のスタート。①どのようにして巨石を積み上げたか?数々の巨石建造物を残した古代エジプト文明。ピラミッドに使われている石の重さは平均2.5トン。最大のものはおよそ60トン、アフリカ像7頭の重さに匹敵する。建造当時は車もクレーンもない時代、いったいどのようにして巨石を積み上げたのであろうか。その方法を巡って今まで様々な説がとなえられて来たと。1.滑車引き上げ説、しかしこの時代滑車はまだ発明されていなかった。2.担ぎ上げ説、木材の上に石を載せてお神輿のように担ぎ上げる方法。しかし持ち上げに失敗すると、石材が下に落ちて来て非常に危険。それでは実際に行われた積み上げの方法とはどの様なものであったのだろうか。その謎を解く手掛かりは以外なところにあると、それが未完成のピラミッド。クフ王と同時代に建てられた墓には、傾斜路が残っているのだと。墓から延びていたのは傾斜路という坂道。この傾斜路こそがピラミッド構築に欠かせないものであったと。しかし大ピラミッド建造に使われた傾斜路がどの様な形をしていたのか今尚様々な議論が続いているのだと。これまで考えられて来たのは大きく3種類。1.らせん型傾斜路2.ジグザグ型傾斜路3.直線型傾斜路その中で最有力なのが3.直線型傾斜路であると。しかし一つ問題なのが、直線型傾斜路であるレベルまで行った事は解るがそれ以上延ばしていくと角度の問題が発生することが避けられない。よってその後にどのような方法が用いられたかが大きな議論になっていると。傾斜路が延びて行くと、ピラミッドを作る以外にも傾斜路を作る為の大量の土砂と膨大な時間が必要となって来る。傾斜路の角度を急にしても、今度は巨石を引き上げる途方も無い力が必要となるのだ。2018年、その手掛かりとなる大きな発見があったと。エジプト中部の砂漠で進む採石場の発掘調査で、急勾配の傾斜路で路面にいくつもの同じ穴が見つかったのだ。この人が入り込める程の大きな穴。穴に柱が立っていて、この柱にロープをかけて様々な場所から引っ張ったのだと。複数のチームが入れ替わりながら巨石を上へ上へと引き上げて行ったと。この柱の利用により傾斜角12度を超えても引き上げが可能となったのだと。巨石の後ろにいても引き上げが可能な土木システムなのであったと。古代エジプト人は傾斜路利用の「マスター」であり、傾斜路と柱を様々な形で工夫しながら大ピラミッドを建設して行ったことが解りつつあるのだと。②どのくらい時間がかかったのか?大ピラミッドの建造は王の即位とともに始まったことは解っていたと。では完成までにどのくらいの時間がかかったのか。最も有名なのは紀元前5世紀、古代ギリシャの歴史家ヘロドトスが唱えた説。「10万人の人間を使い、20年の歳月を要した」と。20世紀にはエドガー・ケイシーによる「建造期間 100年」説も。この謎に迫る資料が遠く離れた場所で見つかったのだと。大ピラミッドから南東に約200km、紅海沿岸の遺跡・ワディエル=ジャラフ。ここはピラミッドが造られた時代の港であったと。今周辺で遺跡が続々と発見されて注目されている場所である。2013年、この2つの岩の間でとんでもない発見が。見つけたものは1000にも及ぶ細かい紙の破片。エジプト最古の「パピルス」であったと。21世紀最大の発見と称されたほどの、エジプト文明の謎に迫る極めて重要な発掘。書かれていたのはクフ王のピラミッドを表す古代の言葉「アケト・クフ」。そいて大量の細かい紙の破片「パピルス」のジグソーパズルが今も行われていると。この最古のパピルスにはクフ王のピラミッドを建造したチームの記録があると解ったと。「メレル」という人物の存在も。最古のパピルスにはメレルが書き残した日々の作業記録、いわばメレルの日誌があったのだと。メレルは中級の役人で、40名のチームを束ね王に関わる物資の運搬を担当、よって大ピラミッド建造に携わっていた監督で重要な役割を担っていたと。そしてメレルの日誌の中に、大ピラミッドの建造日数を解明するヒントが残されていたと。メレルの日誌にはトゥーラという採石場の記録も。メレルはピラミッドの建造現場と採石場や港など各地を日々移動していたのだと。メレルの自筆に因る生々しい記録。そしてメレルの記録には大ピラミッドの建造期間に迫る2つの重要な手がかりとなる記載も残されていたと。メレルが訪ねた採石場トゥーラは、白くて良質な石灰岩の産地であったのだ。これがピラミッドを覆う化粧板に使われたのだと。もともとピラミッドは滑らかな化粧板で表面全体が覆われ、太陽の下で白く輝く存在であった。化粧板はピラミット建造の最後の仕上げとして使われたのだ。その産地であるトゥーラをメレルが訪ねていたことは、大ピラミッド建設が最後の工程に入ったことを示唆していると。ピラミッドの建造は通常、王の即位とともに始まる。それから何年後に仕上げに入ったかが判れば、大凡の建造期間が判明するのではと。そこで重要になるのが2つ目の手掛かり。クフ王の下で13回目の家畜調査が行われたとパピルスに記述があったと。当時エジプトでは、税金を決めるため家畜の頭数を数える調査が2年に一度行われていたのだと。よってクフ王が即位して26年目かその翌年に大ピラミッドは化粧板で表面を多い完成を迎えたと推測できるのだと。これまでベールに包まれて来た大ピラミッドの建造期間が、監督メレルの残したパピルスによって遂にその謎が明らかになったのだと。 ・・・つづく・・・
2021.01.10
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さらに「井伊家墓所」の散策を続ける。12代藩主井伊直幸・三男、井伊直富・正室(守真院殿)の墓。「守真院殿滿光貞詮大姉」。14代井伊直憲・正室(春照院殿)の墓。「春照院殿宜室妙貞大姉」有栖川宮幟仁親王王女・宜子。12代井伊直亮・継室(耀鏡院殿)の墓。井伊直朗女。「徳應謙道首座塔」と。これは、井伊直弼の墓所を生涯守り、明治34年に79歳で没した元彦根藩士・遠城謙道の墓なのだと。「櫻田殉難八士之墓」。安政 7年 3月 3日に登城中の大老・井伊直弼が桜田門外で水戸浪士等の襲撃を受けた際、主君を護衛し殉難した 8人を顕彰した碑「桜田殉難八士之碑」。殉難した 8人 ( 即死者 4人、後に死亡した者 4人 )、日下部三郎右衛門、河西忠左衛門、沢村車六、小河原秀之丞、越石源次郎、永田太郎兵衛、加田九郎太、岩崎徳之進。裏面には以下の名が順に刻まれていた。(1)日下部 三郎右衛門 ⇒ 森五六郎(水戸浪士)によって、真っ先に切られた人物(2) 河西 忠左衛門 ⇒ 井伊家の剣豪・二刀流、現場で死亡(3) 沢村 車六 ⇒ 森五六郎(水戸浪士)によって、真っ先に切られた人物(4)小河原 秀之丞 ⇒ 有村治左衛門を切るも返り討ちに遭い、腕を切られ眼球が飛び出る(5)越石 源次郎 ⇒ 負傷、帰邸後死亡(6)永田 太郎兵衛 ⇒ 井伊家の剣豪・二刀流、現場で死亡(7)加田 九郎太 ⇒ 斎藤監物(水戸浪士)と切り合い、現場で死亡(8)岩崎 徳之進⇒ 伊賀奉行。負傷、帰邸後死亡ちなみに、命が助かった他の武士達だが、彼らには後年、主君を守れなかった罪を問われ、重傷者は流罪、軽傷者は切腹、無傷だった者はなんと斬罪が言い渡されたのだと。左に「清純院殿誠徳玄意大居士」と刻まれた墓。右に井伊智ニ郎「清霜院殿真月智梅大居士」 井伊智ニ郎正室「清心院殿梅莟慧香大姉」中央に「清明院積操里○大姉」と刻まれた墓。井伊智ニ郎は井伊直弼の三男、井伊直咸(いいなおとも)。最後の藩主井伊直憲の同母弟。近衛文麿の妻・近衛千代子の外祖父。明治時代は士族に列し、智二郎と名乗り滋賀県で過ごしたという。南東方向の墓石。南側隅にあった墓石左には井伊直忠「直心院殿忠山琴堂大居士」。旧彦根藩主井伊家の第14代当主、最後の藩主だった井伊直憲の長男。右には井伊直忠夫人・斎藤ふく「清操院福賢貞順大姉」と。14代井伊直憲(忠正院殿)の墓。「忠正院殿清莭怒堂大居士」。14代井伊直憲・継室(覺正院殿)の墓。「覺正院殿端操恒道大姉」。13代井伊直弼・側室(柳江院殿)の墓。「柳江院殿心月明圓大姉」。2代井伊直孝・四男直時・正室(乾光院殿)の墓。 「乾光院殿桂觀寿昌大姉」。再び歴代彦根藩主や室(正室 、側室 、継室)の墓を見る。北側にも多くの墓石が並ぶ。写真右側に4代藩主 井伊直興・息女(栄寿院殿)の墓。7代井伊直惟・息男 金蔵(梅樹院殿)の墓。 「梅樹院殿幻海法眞大禪定門」。4代井伊直興・息女(榮寿院殿)の墓。 「榮寿院殿圓通智光大姉」。北側の墓石群。北西側の墓石群。こちらの墓石の上には仏様が乗っていますが…首がない。童女とあり幼子の墓。井伊家の墓所の前(右手)の石仏ズームして。「井伊家墓所」をあとにして「三重塔」まで戻る。再び「仏殿」を見る。「仏殿」内部の扁額は「大谿山」。内陣の三仏。ズームしすぎました。「久昌殿(きゅうしょうでん)」葬儀ホールのようであった。「仏殿」を横から見る。「選佛場」と書かれた扁額が掲げられていた。「種月園」と書かれた扁額が掲げられた門。井伊直弼の遺愛の茶屋であった『種月園』の門。種月園は非公開とのことだそうだ。「受付」に位置づけられている建物はいわゆる「庫裡」なのだろう。「總受付」と。ここで「招福猫児(まねきねこ)」が購入できるのであろう。「赤門」の先は修復工事中の「招福殿」。「本堂(法堂)」を見る。本堂は1967年昭和42年に鉄筋コンクリートに改築されたと。「八角燈籠」。火袋の扉4面には雲の中を駆ける獅子、その間の4面には笛や笙(しよう)などの楽器を奏でる天人が、それそれ菱形格子の透かし地に浮き彫りされている。奏楽の天人は音声菩薩(おんしようぼさつ)とも呼はれ、柔らかな表情やしなやかな体つき、風を受けてなびく天衣などが美しく、天平文化の工芸技術を今に伝える。八角の面を時計回りに。火袋の扉4面には雲の中を駆ける獅子の姿が。「横笛」を奏でる音声菩薩。「尺八」。「鈸子(ばっし)」。「笙」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.02.04
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【四国八十八箇所霊場巡り ブログリスト】👈リンク63番札所:吉祥寺(きちじょうじ)62番札所:宝寿寺から国道11号線(讃岐街道)を東に向けて1.4km強を走ると63番札所:吉祥寺に到着。正面に吉祥寺の山門。インドの四天王の一人毘沙門天を本尊とするためか山門の前には一対の「象」の像が向き合っていた。山門の扁額には「密教山」と。宝寿寺から吉祥寺までの走行ルート。吉祥寺 境内配置案内図。「山門を入って左側に鐘楼、手水場があり、少し進んで右に庫裏と納経所、左に本堂、その左に大師堂である。」境内の「巡りゆく思い」と題された作品。伊予之二名島(いよの・ふたなのしま)、胴体が一つで、顔が四つの島、四国、その骨格たる石鎚山、見事な造形であると。福聚閣(ふくじゅかく)。庫裏前のお堀に浮かぶ極彩色の八角堂の福聚閣には本尊の毘沙門天を除いた六福神が祀られており、本尊の毘沙門天を合わせて七福神となる四国七福神は吉祥寺と近辺の横峰寺・宝寿寺・前神寺・西山興隆寺・極楽寺・安楽寺の6ヶ寺を巡るのだと。手水舎。水子地蔵尊。お迎え大師(左)と くぐり吉祥天女(右)くぐり吉祥天女は貧苦を取り除き、富貴財宝を授かるという。お迎え大師。くぐり吉祥天女成就石。本堂付近から目を閉じて金剛杖を持って石が置いてある場所まで歩いて行き、石に開いてある穴(直径約30cm)に金剛杖を突き通すと願いが叶うと伝わると。鐘楼。吉田真照の句碑。「有難や美阿登慕うて二十五歳」弐千回、参千回、八十八ヶ所 百回の文字が刻まれており参拝回数の記念碑か。本堂。寺伝によれば弘仁年間(810年-823年)に空海(弘法大師)が光を放つ檜から毘沙門天・吉祥天・善賦師童子を刻み、安置したのが起源といわれる。当初は坂元山(現在地より南へ約2kmほど登った標高368m地点 )にあったが、豊臣秀吉の四国征伐の際に焼失。詳しくは1585年(天正13年)に小早川隆景が高尾城を攻めたとき、その山中にあった当寺も兵に放火された。万治2年(1659年)に大師堂があった現在地に、坂元山にあった本尊毘沙門天坐像が移され、再建された。四国八十八ヶ所で「毘沙聞天」が本尊なのは、ここ吉祥寺だけと。持国天・増長天・広目天と共に四天王の一尊に数えられる武神であり、四天王では多聞天として表わされます。吉祥寺では「毘沙聞天」と表記する際に多聞天の「聞」の字を使っていますが、通常は「毘沙門天」と「門」の字で書くのだと。本尊・毘沙聞天像は秘仏で60年に一度だけ開帳され次回は西暦2038年とのこと。密教山 胎蔵院 吉祥寺(みっきょうざん たいぞういん きちじょうじ)宗派 真言宗東寺派本尊 毘沙門天(毘沙聞天)(秘仏)創建 (伝)弘仁年間(810年 - 823年)開祖 (伝)空海(弘法大師)所在 愛媛県西条市氷見乙1048本尊真言 ”おん べいしら まんだや そわか”大師堂。大師堂 内部。本堂前からの境内。「念ずれば 花ひらく」、この石碑は別の寺でも見かけた。熱心な信者の奉納か?左から弘法大師千五十回、一千一百回、千百五十回遠忌報恩謝徳也。境内の桜も満開。納経所へ。お遍路の可愛らしい人形が。納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました。「二百回 結願の碑 大本徳森翁」の石碑。ただただ脱帽。松山真講会 40周年記念碑。-----------------------------------------------------------------------------------------------------60番札所:横峰寺(よこみねじ)吉祥寺を後にし直ぐに県道142号線の狭い山道を登っていくと左手に黒瀬湖が姿を見せた。1973年(昭和48年)完成、県下でも有数の水量豊富なダムであり、西条市の産業発展の礎となっていると。鏡のような水面には、時はに「逆さ石鎚」が映り込むと。更に上って行くと、平野林道の料金所が。石鎚森林組合が管理している有料道路(約6km)であり、往復通行料金は普通車1,850円(駐車場代含む)。12月29日より2月末日までは冬季通行止(冬季通行止期間中でもゲートは開いており自己責任で通行は可能であるが、道路修復工事の為途中までで止まることがあり要注意)と。狭い林道を更に上って行く。そして頂上駐車場に到着。吉祥寺から横峰寺までの走行ルート。山の中でWIFI信号が弱いため、往復のルートがズレていますが同じ山道なのです。眼下には瀬戸内海・西条市の臨海工業地帯が望めた。今治造船・西条工場をズームで。現役の頃、この近くにあるアサヒビール四国工場に何度か通ったことを想いだしたのであった。駐車場に車を駐め、更に横峰寺に向かって山道を上っていく。横峰寺への案内表示板。横峰寺 境内配置案内図。「山門を入り参道を進むと右に手水場があり、左に行くと庫裏・客殿・納経所が、右の石段を上がると正面に鐘楼・星供大師があって、その右に本堂が建つ。本堂の向かいの参道を進むと正面に大師堂が、その右に聖天堂がある。 シャクナゲが境内一面に咲きほこる5月上旬はそれ目当ての観光客も来て、ゴールデンウイーク期間は自動車が渋滞するほどである。」境内に入ると星月堂(納骨堂)が左手に。境内への山の斜面には シャクナゲが一面に。5月中旬には写真の如く開花し、平野林道が渋滞するほどに花見客が訪れると。客殿。境内の正面に本堂が。歓喜天堂(聖天堂)。大師堂。参道左手には多くの石仏が並んでいた。弘法大師を近くから。歴史を感じさせる多くの石仏・地蔵尊が並ぶ。鐘楼。正面に大師堂、左手に歓喜天堂(聖天堂)。本堂。「寺伝によれば役行者(役小角)が石鎚山頂で修行をしていたところ、蔵王権現が現れたのでその姿を石楠花の木に刻んで堂に安置したという。その後行基が天平年間(729年 - 748年)に、空海(弘法大師)が大同年間(806年 - 810年)に入山したと伝え、空海が入山した際に大日如来を刻み、これを本尊としたという。前神寺とともに石鈇権現の別当寺であったが、明治4年に廃仏毀釈によって廃寺となり、明治13年に大峰寺の名前で復興、その後、明治42年(1909年)に元の横峰寺の名に戻される。」神社を彷彿とさせる権現造りの本堂に、神仏習合の面影が残っているのだと。大師堂とは参道を挟んで正面から向き合っていた。石鈇山 福智院 横峰寺 (いしづちざん ふくちいん よこみねじ)宗派 真言宗御室派本尊 大日如来創建 (伝)白雉2年(651年)開祖 (伝)役小角所在 愛媛県西条市小松町石鎚甲2253本尊真言 ”おん あびらうんけん ばざらだどばん”星供大師像が正面に。「星供」とは仏教系統の星祭で、『宿曜経』などの説により、北斗七星・九曜・十二宮・二十八宿を供養し、除災・延命・増福を祈る法会。冬至・正月・節分などに行う行事。西日本最高峰・石鎚山系中腹にある札所は古くから遍路泣かせの難所と言われています。開祖は修験僧の開祖・役行者小角(えんぎょうじゃおづぬ)。白雉2年(651)、星ガ森(石鎚山遥拝所)で修行中の役行者小角は、石鎚山頂で蔵王権現のお姿を見て、そのままの姿を石楠花(しゃくなげ)の木に刻んで小堂に安置しました。弘法大師が42歳の厄除け開運祈願の修行の為、この山へ登り星祭りの修行を行い、その結願の日に役行者と同じ権現様の姿を見せました。そこで大師はこの山を霊山と定め大日如来を刻み本尊として安置し第六十番札所に定められたと。星供大師像。標高750mの地でシャクナゲを背に右手に剣、左手に星供に巻物を持って立っていた。鐘楼堂。鐘楼堂を別角度から。納経所への階段を下る。納経所。納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました。仁王門からの参道にある手水舎。山門を見つめる旅友。手水舎前から山門をズームで。車によるお遍路の場合、山門・仁王門を潜らないケースが時々発生するのであった。納経所前から階段上の大師堂方面。大師堂を再び訪ねる。大師堂内部。「聖地巡礼 四国遍路」のポスター。「弘法大師空海ゆかりの札所を巡る四国遍路は、阿波・土佐・伊予・讃岐の四国を全周する全長1400kmにも及ぶ我が国を代表する壮大な回遊型巡礼路であり、札所への巡礼が1200年を超えて継承され、今なお人々により継続的に行われている。四国の険しい山道や長い石段、のどかな田園地帯、波静かな海辺や最果ての岬を「お遍路さん」が行き交う風景は、四国路の風物詩となっている。キリスト教やイスラム教などに見られる「往復型」の聖地巡礼とは異なり、国籍や宗教・宗派を超えて誰もがお遍路さんとなり、地域住民の温かい「お接待」を受けながら、供養や修行のため、救いや癒しなどを求めて弘法大師の足跡を辿る四国遍路は、自分と向き合う「心の旅」であり、世界でも類を見ない巡礼文化である。2015年4月に日本遺産に認定された」と。再び本堂方面の境内を見る。客殿廻りの庭園を見下ろす。そして駐車場にある休憩所・売店へ。アイスクリームを楽しむ。売店の前には多くのアルミ缶製の風車がぶら下がっていた。売店の女性が一つをプレゼントしてくれました。人になれた野鳥・ヤマガラが、餌のヒマワリの種を食べに旅友Sさんの掌に。心温まる瞬間なのであった。 ・・・つづく・・・
2018.05.24
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【四国八十八箇所霊場巡り ブログリスト】👈リンク四国八十八ヶ所お遍路の旅・結願の翌日は高野山に向かう。四国八十八ヵ所のすべて巡礼が終わり結願すると高野山へお礼参りに行く習わしがあるのです。四国遍路は弘法大師の足跡を辿る旅でもあり、無事に八十八ヵ所を巡り終えた同行二人のご報告と感謝の気持ちをお大師様にお伝えするのです。高野山では今でも弘法大師が生きて瞑想を続けられているとされる、奥之院にある弘法大師御廟をお参りし、結願を報告するのです。途中、桜、桃が紅白に咲き乱れ祝福してくれた。そして高野山・大門に到着。高野山の入口である国道480号線に面したところにあった。高野山の総門であり、結界のシンボル。もともと高野山の入口は、鎌倉時代ごろまで九折谷という地区にありその頃は「門」の形ではなく鳥居が立っていたことが分かっていると。当時高野山に建てられたのが、鳥居だった理由としてはもともと高野山が丹生都比売神社の神領であったことが考えられると。現在の門が建てられたのは、今から900年前のことでこの時鳥居から門へと変えられた。また、800年には現在のような2階建ての楼門に建て替えられた。その後戦国時代に焼失したが、応其上人によって再建された。現在高野山に観光で赴いて目にすることのできる大門は、1705年再建。国の重要文化財・世界遺産。左右には金剛力士像が安置されていた。阿形像。大門のスケール感にマッチし非常に大きく日本国内で奈良の東大寺の仁王像に次いで2番目の大きさを誇るのだと。向かって右側に立つのが阿形像でその高さは546.0cm、京都の仏師・康意が造立。吽形像。左側に立つのが吽形像で高さ558.0cm、京都の仏師・運長が造立。大門の中央二本の正面の柱に掲げられた、「日々影向文」(にちにちようごうぶん)。これは高野山に伝わる「入定留身」の信仰の精神を伝える文章が。即身成仏した空海は死してなお多くの人のために祈りを捧げ続けてると言うことで、日々影向文の「弘法大師が高野山の樹下に身を留め、魂は弥勒菩薩の浄土である兜卒天の雲上に遊行し、毎日欠かすことなく、大師に縁ある遺跡に影向し検知する」という内容と同じことになると。大門に掲げられている「不闕日日之影向 (日々の影向を闕かさず)検知處處之遺跡 (處々の遺跡を検知す)」は「毎日欠かすことなく、大師に縁ある遺跡に影向し検知する」の部分に当たりると。高野山 壇上伽藍 配置図。そして次に中門へ。開創1200年を記念する主要事業として、天保14(1843)年に焼失した壇上伽藍の中門が172年ぶりに平成27年4月に再建された。新たな中門は、鎌倉時代の建築様式をもとに設計され、規模は東西25m、南北15m、高さ16m。平成26年10月23日から24日にかけて、四天王像が中門に運び入れられました。従来、中門には持国天と多聞天の二天王が安置されていたが、文化6(1809)年に起こった火災で焼失。その後、文政3(1820)年に中門が再建され、二天王も新たに造立されたが、23年後の天保14(1843)年、再び火災に見舞われ中門は焼失してしまった。しかしこの時二天王は救い出され、損傷の修復を受けた後長らく西塔に仮安置されていた。そして平成11年に根本大塔へと移され、現在に至っていた。今回の172年ぶりの中門再建により、この二天王は再び中門に安置されることに。また加えて、平成の大仏師・松本明慶の手によって現代ならではの作風に仕上げられた広目天、増長天の二天王が新たに中門に安置されることになり、平成の中門には四天王が揃うことになったと。「多聞天像」。上杉謙信の熱い信仰で有名な「毘沙門天(びしゃもんてん)」の別名の仏様。したがって、「毘沙門天(びしゃもんてん)」のこと。多聞天は、北の方角を守護する仏様。「持国天」。東の方角を守護する仏様としても有名。安置される位置に関しては、通例では、御本堂の本尊に向かい、右手前に安置される。持国天像のよく見かける姿は、革製の中国の唐の時代を連想させる甲冑姿に刀剣を手に持っている。「増長天」は平成の大仏師・松本明慶の手による仏。「増長天」は、南の方角を守護する仏様としても有名。胸に昆虫の蝉(せみ)がとまっている。この蝉の意味は蝉の鳴き声は遠くまで響き渡り、悪を退けるという意味合いがあるのだと。また、蝉は上空を飛び回って止まる木を見つけることから、”広くすみずみまで見通せる”の意味合いもあるのだと。「広目天」。「広目天」は、西の方角を守護する仏様としても有名。目を大きく見開いていた。「増長天」と同様に今度は昆虫のトンボがとまっている。これは「断じて悪を通さない、後へは引かない」という意味を持ち、前にしか飛ばない”昆虫のトンボ”で表しているのだと。金堂。高野山開創当時「講堂」と呼ばれていた「金堂」は、平安時代半ば頃より高野山の総本堂として重要な役割を果たしてきた建物。現存する金堂は、7度目に再建されたもので1932年(昭和7年)に完成したもの。内部には仏師・高村光雲による本尊・薬師如来(秘仏)が祀られており、内壁には木村武山による壁画が描かれていると。金堂を境内側から。六角経蔵。六角経蔵は「鳥羽法皇」の菩提(ぼだい)を弔う為に、皇后の「美福門院(びふくもんいん)が、1159年(平治元年)に建立した経蔵。 実は、この六角経蔵は、経蔵の基壇付近(少し高くなっている基礎の上付近)に把手があって、なんと時計廻りに回転させることが出来たのです。山王院。弘法大師は高野山の開創に際して、日本古来の神々と仏教との融和のため、高野山の地主神として、丹生明神(にうみょうじん)と高野明神の分霊を高野山の守護神として「御社(みやしろ)」に祀った。この「御社」の拝殿として山王院は建立されたと。御社。そしてこの小さな山王院本殿には神仏習合の原点ともいうべき重要な意味のある社。山王院本殿は、その重厚感のある造りからそれぞれが立派な堂のように見えるが、御社の拝殿として建てられたものであり、現在の建物は1594年に再建された。山王院本殿は、伽藍大塔の西に約100メートルも離れた少し高い場所に。御社の朱の鳥居。孔雀堂。もともとは鎌倉時代初期の正治元年(1199年)、京都・東寺の延杲(えんごう)が雨乞いを成就させたことがきっかけとなり、後鳥羽上皇の命により建立された。 現在の建物は昭和元年の大火で焼失、昭和58年(1983年)に再建されたもの。准胝堂(じゅんていどう)。弘法大師が得度の儀式を行う際に自ら造立したという本尊、准胝観音を祀る堂。伽藍が建立された当時は食堂に安置されていたと伝わっており、973年(天禄4年)頃にこの堂が建立されこちらに祀られるようになったと伝わっていると。幾度も焼失し現在の堂は1883年(明治16年)に再建されたもの。御影堂。弘法大師の持仏堂として建立されたが、後になって真如親王直筆の「弘法大師御影像」を奉安したことから御影堂と名づけられた。大塔の鐘。弘法大師が大鐘の鋳造を発願され、真然大徳の時代になってようやく完成したと伝わる「大塔の鐘」。火災等により度々鐘楼が焼失し、改鋳が繰り返され現在の銅鐘は、1547年(天文16年)に完成したもの。直径が約2mと非常に大きく、日本で4番目に大きな鐘であったことから「高野四郎」の愛称で呼ばれるようになったと。根本大塔。高野山のシンボル、高さ48m。愛染堂。四海静平、玉体安穏を願い後醍醐天皇の御願により1334年(建武元年)に建立された。本尊として愛染明王を祀り、愛染明王護摩と長日護摩が行われる場所。災害に何度か遭い再建されており、現在の堂は1816年(文化13年)に再建されたと。 不動堂。大会堂。鳥羽法皇の皇女・御辻斎院内親王が父帝の追善のために建立された堂で、元々別の場所からこの場所へ移された。徳川時代から大法会がある時にまずこの堂に会して行列を整える事から大会堂と呼ばれていると。現在の堂は、1848年(嘉永元年)に再建されたもの。本尊に阿弥陀如来を祀り、脇侍に観世音菩薩と勢至菩薩が祀られている。 三昧堂。済高座主が929年(延長7年)に建立した堂で、済高がこの堂で「理趣三昧」と言う儀式を執り行っていたことにより三昧堂と呼ばれるようになった。元々は総持院境内にあり後に伽藍に移された。この時修造に西行法師が関わったと。現在の堂は1816年(文化13年)に再建されたもの。東塔。白河法皇の御願により1127年(大治2年)に創建された塔で、本尊に尊勝仏頂尊、脇侍として不動明王、降三世明王の二尊が祀られている。江戸時代に塔が再建されたが、1843年(天保14年)に焼失し、その後再建されていなかったが、1984年(昭和58年)に現在の塔が再建されたと。手水舎。手水舎前から東塔、大会堂、根本大塔を見る。蓮池の太鼓橋を渡る。弘法大師像。金剛峯寺の参拝に向かう。壇上伽藍の東端のメイン道路に面した金剛峰寺表門。金剛峯寺・正門。金剛峯寺の建物の中で一番古く、文禄2年(1593年)に再建されて以来、今日まで建っていると。金剛峯寺伽藍。主殿は、秀吉が亡母の菩提を弔うために建立した建物「金剛峯寺」という名称は、弘法大師が『金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経(こんごうぶろうかくいっさいゆがゆぎきょう)』というお経より名付けられたと。東西60m、南北約70mのこの主殿(本坊)をはじめとした様々な建物を備え境内総坪数48,295坪の広大さと優雅さを有していると。主殿の中には、歴史に名を残す狩野探幽筆の襖絵『松に群鶴』、豊臣秀次切腹の「柳の間」にある山本探斉筆の襖絵『雪柳白鷺』、豪壮ながら生活感が溢れた台所など見所が多彩。経蔵。天水桶。金剛峯寺の屋根は檜の皮を何枚も重ねた檜皮葺(ひわだぶき)になっていた。その屋根の上に、桶が置かれています。これを天水桶という。これは普段から雨水を溜めておき、火災が発生したときに、火の粉が飛んで屋根が燃えあがらないように桶の水をまいて湿らし、少しでも類焼を食い止める役割を果たすと。鐘楼。金剛峯寺の前身である青巌寺の鐘楼とのこと。そして奥の院入り口まで進む。奥の院参道を進む。奥の院参道ガイドマップ東日本大震災物故者慰霊碑。阪神淡路大震災物故者慰霊碑。花菱アチャコ句碑が右側に。加賀 前田家二代利長墓所。安芸 浅野家 墓所。蓮花院 墓所。結城秀康石廟。肥前島原 松平家墓所。奥の院 御供所に到着。弘法大師の御朱印を頂きました。護摩堂。水向地蔵。高野山奥の院。高野山信仰の中心であり、お大師さまが入定されている聖地。諸大名の墓石や、祈念碑、慰霊碑の数々が樹齢千年に及ぶ杉木立の中に立ち並んでいた。御廟橋より先は写真撮影禁止。正面に大師廟が見えた。そして弘法大師廟にて四国八十八ヵ所のすべて巡礼が終わり結願した事を弘法大師様に報告したのでした。2015年9月3日に日本百名城スタンプラリーと共にスタートした私の四国遍路旅は、この時には1番発願寺そして88番結願寺を含め飛び飛びに11寺の参拝を完了。そして本格的には2017年10月14日にスタートし、1番から26番そして65番から87番札所を巡り残り33寺となっていた。そして今回27番札所:神峯寺をスタートし66番札所:雲辺寺で無事四国拝十八箇所遍路結願を成し遂げることが出来たのであった。88番札所:大窪寺も訪ね、結願証を頂き、また無事に旅を終えたお礼に1番札所に戻ってもう一度参拝する方法が昔から行われおり、この「お礼参り」も完了。更に88ヶ所すべての札所を巡り、お遍路を結願した後に高野山に行く「高野山参り」もこの日に済ませたのであった。お遍路は1200年前に弘法大師空海が四国で修業をした足跡をたどる旅。その流れで、弘法大師が眠る高野山奥之院へ結願の報告をしに行ったのです。昔は世捨ての旅として知られた、全行程1,400Kmにもおよぶ厳しい道のりの四国八十八ヶ所巡り。かつてのお遍路は、家内安全・病気平癒・先祖供養など、現世や将来を願う祈りの旅であった。しかし今回の私の四国八十八ヶ所巡りは健康のため、ストレス解消のため、自分自身を見つめ直すためそして観光としてなどなど、さまざまな目的で巡って来たのであった。日本百名城スタンプラリーそして四国八十八ヶ所巡りも完遂し次は何を・・と考えているのである。そして5月22日~29日まで人気上昇中のウズベキスタンに行くのである。中央アジアの国の1つで何世紀もシルクロードの中心として栄えた古代オアシス都市が多く点在し、かつてはこの地をアレクサンドロス大王やチンギス・ハンが活躍し支配していたこともあるのだ。"青の都"、"イスラム世界の宝石"、"東方の真珠"と数々の異名を持つサマルカンド。あのアレキサンダー大王にもサマルカンドに遠征で到達した時に「話に聞いていた通りに美しい、いやそれ以上に美しい」と言わしめたと。サマルカンド・ブルーの象徴はレギスタン広場にある丸屋根を持つモスクや壮大なメドレセ(神学校)群。他にも巡礼者が絶えないシャーヒズィンダ廟など見どころ満載なのである。古代ペルシャ時代からカラクム砂漠の玄関口として繁栄したウズベキスタン西部の都市ヒヴァ。外敵からの侵入を防ぐために、外壁(デシャンカラ)・内壁(イチャンカラ)と二重の城壁で街を守っていたのだ。城壁内は歩いて数々のモスク、メドレセ、ミナレットが観光するのだ。そびえ立つミナレット(尖塔)に登って一望すると、城壁都市であることが理解出来ると。ウズベキスタンの首都「タシケント」では第二次大戦後、当時、ソ連に抑留された日本兵がナヴォイ劇場を建設した。1966年にタシケントの街が壊滅した大地震が起こったが、なんとナヴォイ劇場は無傷で残っていたことで有名なのだと。18名のツアーであると添乗員から。多いに楽しんできたいのである。(5月20日記載) ・・・完・・・
2018.05.31
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『鎌倉散策 目次』👈リンク「補陀洛寺(ふだらくじ)」を後にして、次に訪ねたのが「最宝寺跡」。横須賀の野比にあった「最宝寺」は、鎌倉の弁ヶ谷から移転して来たと云われています。『鎌倉廃寺事典』(以下廃寺事典)によれば、「風土記稿に五明山高御蔵と号す。浄土真宗、京西六条本願寺末と云い、源頼朝がはじめ鎌倉扇ヶ谷に創建し、明光を招いて開山とする」などとあります。建久六年(1195)に弁ヶ谷に寺を移し、さらに寺伝によれば、小田原北条氏が真宗を弾圧していた時に逃れて移った先が現在の寺地(横須賀野比)であると伝わっています。応永十一年(1404)の『関東管領上杉朝宗奉書』には「野比村薬師堂免田参段 畠二段事」という記述から最宝寺領が野比にあったことがわかっています。ですから野比の最宝寺が鎌倉の弁ヶ谷にあった最宝寺を継承しているのは確かなのだと。光明寺の北方の谷を弁ヶ谷(べんがやつ)と言いこの道を進んで行った。鎌倉市材木座6丁目と8丁目の境の住宅街の坂道を上って行ったが、案内板等は見つからなかったが、この写真の上部が「最宝寺跡」であるようだ。弁ヶ谷には、1195年(建久6年)、源頼朝が建てた天台宗の最宝寺があって、行基の薬師如来が本尊だったという。その後、浄土真宗に改宗され、小田原北条氏による浄土真宗への弾圧で、鎌倉から横須賀の野比に移転したと伝えられているのだと。弾圧によって鎌倉に残った浄土真宗の寺は、小袋谷の成福寺のみであるとのこと。弁ヶ谷(べんがやつ)は紅ヶ谷(べにがやつ)、別ヶ谷(べつがやつ)とも呼ばれたという。そして現在は「紅ヶ谷(べにがやつ)」と呼ばれているようであった。道の曲がり角の右側に「鎌倉青年会の史跡碑」が立っていた。「辨谷(弁谷)」碑。「元亨元年(1321) 相模守高時ノ創建セシ金剛山崇寿寺(すうじゅじ)ハコノ地域ニ在リシナリ 道興准后ノ廻国雑記ニ記セシ紅谷(べにがやつ)ト 田代系図ニ拠リ千葉介ノ敷地トスル別谷(べつがやつ)トハ 共ニ弁谷ニ同ジトスル説アルモ詳(つまびらか)ナラズ」【1321年に、北条高時(たかとき)が建てた金剛山崇寿寺(すうじゅじ)は、この場所にありました。道興准后(どうこうじゅんこう)の「廻国(かいこく)雑記」に書かれている紅谷(べにがやつ)と、田代系図に書かれている千葉介(ちばのすけ)の敷地である別谷(べつがやつ)とは、 共に弁谷に同じであるという説がありますが、詳しいことは分かっていません。】そして次に訪ねたのが「新善光寺跡」。進んで来た道を左に折れ、急な坂道を上って行ったが右手には断崖の上に建つ長い石段のある立派な鉄筋コンクリート造りの民家があった。そしてスマホのマップに従い「新善光寺跡」近くに来ているはずであったが。この辺りが「新善光寺跡」のはずであったが、ここにも何の案内板もなかったのであった。新善光寺(材木座四丁目一一・一ニ)は山号、開基、開山、開創、本尊など、まったく不明の廃寺だが、葉山町上山口字滝ノ坂の不捨山摂取院新善光寺は、天正十八年(一五九〇)以前の弁ガ谷からの移転というから、山号、院号など葉山町のものと同一かも知れない。同時に本尊は木造阿弥陀三尊像で、浄土宗だったことになる。鎌倉時代の文献には、当寺の名が散見されて、鎌倉中期には存在していたことが確認される と。ここ弁ヶ谷の新善光寺屋敷と呼ばれる土地も、坂を登って丘陵中腹に平場という地形。平場はもちろん現在は住宅地となっていたのであった。次に訪ねたのが執権北条高時が創建したと伝えられる「崇寿寺跡(すうじゅじあと)」であったが、ここにも何も案内板等はなかったのであった。「弁谷」の史跡碑に書かれている「北條高時ノ創建セシ金剛山崇壽寺」とは、ここ谷戸の一番奥を北東に上ったあたりのようであったが、何段かの雛段らしきものは感じられたが、住宅地が拡がっていたのであった。私の所有する『鎌倉市跡事典』にとると「正式には金剛山崇寿寺。開基は北条高時。開山は南山士雲。元亨元年(一三二一)開創。臨済禅。いまは廃寺だが、後述の鐘銘によって弁ガ谷に所在したことが知られ、弁ガ谷左手の谷戸北端の谷沢氏宅(四丁目一一・一ニ)の裏手に、その痕跡が窺われる。当寺に関する最高の史料は、『新編相模国風土記稿』所引の嘉暦二年(一三ニ七)十月五日付「崇寿寺鐘銘」である。元亨三年の北条貞時十三年忌の供養には鎌倉中の三十八カ寺から集まった二千三十人の僧のうち、当寺からの僧は十三人だった。」と。そして更に坂を上り「弁ヶ谷東やぐら群跡」を訪ねた。鎌倉市材木座4丁目13−19。住宅の裏山に見える高いブロックの崖あたりにもやぐら群があったという。昭和61年(1986年)度鎌倉市林木座地区急傾斜地崩壊対策工事に伴う発掘調査が行われたのだと。「紅谷旧市営住宅跡」であるようだ。「津波避難所」と書かれていたのであろうか?現在は産廃業者の関連施設になっているようであったが。建物の隙間の擁壁の中にやぐらの如きものがあり、中には二基の石碑が安置されていた。右側の石碑には「馬頭観世音」の文字が。擁壁に掛けられていた「弁ヶ谷東やぐら群」を見つけたが、経年劣化により解読不能であった。ネットで調べてみると、下の写真が2枚。 【https://4travel.jp/travelogue/10777609】より「弁ヶ谷東やぐら群」案内板。「これによると、第1号~第7号まで7個のやぐらがあったようだ。1号やぐらからは、人骨が納められた大甕(口径41.3cm、胴部最大径64.5cm器高67.7cm)が発見されました。大甕は、やぐら内部の中央に掘られた直径1.3m、深さ1.2mの穴の中に納められ、鎌倉石の切石で蓋がされていました。甕内の人骨は身長160cm、壮年~熟年期の男性のものと推定され、火葬されていませんでした。大甕は常滑窯(愛知県常滑市)産で、14世紀前半代に製作されたものです。このような甕を用いて、火葬しない骨が納められている例は鎌倉でも発見例が少なく、葬られたのはある程度身分の高い人だったと考えられます。本やぐら群の付近には、執権北条高時が創建したと伝えられる崇寿寺があったとされており、この寺に関わる者の墓所であった可能性もあります。なお、本やぐら群の出土品および図面・写真等の記録類は、神奈川県立埋蔵文化センターに保管されています。」と。 【https://4travel.jp/travelogue/10777609】よりそして来た道をひたすら戻り次に訪ねたのが「光明寺」。鎌倉市材木座6丁目17−19。入口は「関東總本山」と刻まれた大きな石塔が立っていた。浄土宗 大本山 光明寺 案内図。「総門」に向かって進む。門前右にあったのが「浄土宗第三祖記主禅師遺跡(ゆいせき) 大本山光明寺」と刻まれた石碑。「記主禅師」とは良忠(りょうちゅう)のことで、鎌倉時代中期の僧、石見(島根県)の藤原氏の出。浄土宗第3祖。諱は然阿(ねんな)。「記主禅師」の諡号が滅後7年の永仁元年(1293年)に伏見天皇より贈られている と。「南無阿彌陁佛 五濁(ごじょく)の憂世に生まれしは 恨みかたがた多けれど 念仏往生と聞くときは かえりて嬉しくなりにけり」と。浄土宗三代・記主禅師良忠上人若かりし頃の言葉であると。この世は五濁(劫濁・見濁・煩悩濁・衆生濁・命濁)がはびこる心穏やかにありにくいところです。悩みごと・苦しみごとは絶えないけれど、濁りのない世に生まれ往くことのできるお念佛にお出会いできたことを思うと、嬉しい思いにさせてもらえます と。「総門」。建立は明応4年(1495)、寛永年間(1624~28)に再興。前はもっと大きな門でした。上部構造は桃山時代の様式が感じられ、屋根裏の木組みに注目すると太い大瓶束(たいへいつか)が数本立ち並び、昔の壮観さが偲ばれます。鎌倉市指定の文化財。扁額は「勅願所」と書かれていると。光明寺第九世観誉祐崇(かんよゆうそう)の書。光明寺は、祐崇の時に後土御門天皇より「関東総本山」の称号を受け「勅願所」とされ、「お十夜法要」も勅許された。本堂にも「勅願所」の額が掲げられていた。「大本山 光明寺」「総門」の扉には「寺紋」が。現在の天皇家・日本国の紋である「菊の紋」と開山のころ天皇家が使っていた五七の「桐の紋」が並んでいる「菊桐文(きくきりもん)」が掲げられていた。光明寺(こうみょうじ)材木座に所在する光明寺は、江戸時代には浄土宗関東十八檀林の第一位として格付けされた格式の高い寺院です。開山は記主禅師然阿良忠、開基は鎌倉幕府の第四代執権北条経時で、仁治元年(1240)鎌倉に入った良忠のために、経時が佐助ガ谷に寺を建てて蓮華寺と名づけ、それが寛元元年(1243)に現在地に移り光明寺と改められたと伝えます。元禄11年(1698)建立の本堂は、国指定重要文化財。また、弘化4年(1847)建立の山門は、県指定重要文化財。ことに本堂は、鎌倉で現存する近世仏堂のうちでも最大規模を誇ります。当寺は今なお、建長寺、円覚寺と並ぶ壮大な伽藍を構成しています。10月12日から15日の間に行われる「十夜法要」の行事は今でも、夜市がたち大勢の人で賑わいます。● 宗派 浄土宗● 山号寺号 天照山 蓮華院 光明寺(てんしょうざんれんげいんこうみょうじ)● 創建 寛元元年 (1243)● 開山 然阿良忠上人 (ねんなりょうちゅうしょうにん)● 開基 北条経時(ほうじょうつねとき)そして巨大な「山門」。「大殿(本堂)」は現在大改修工事中であった。「国の重要文化財 大殿令和の大改修 大勧進 大本山 光明寺」と。光明寺の山門(三門)は、鎌倉最大の山門(三門)で、間口16m、奥行き7m、高さ20m。禅宗の五山形式が浄土宗に取り入れられたもので、五本の柱によって間仕切りがされ、中央の3つの間が入口となっている。二階建てで、一階は日本風、二階が中国風の造り。2階部分には釈迦三尊、四天王、十六羅漢が安置されているとのこと。20名以上で申し込みをすると拝観出来ると。現在の山門は、1847年(弘化4年)に再建されたもの。1495年(明応4年)に建立されたときは、さらに大きいものだったという。鶴岡八幡宮の表門だったともいわれるが定かではないと。扁額は後花園天皇の御宸筆「天照山」。「山門(三門)弘化4年(1847)に再建された鎌倉に現存する最大の山門です。建築は和様と唐様の折衷様式で、江戸時代後期の重厚な風格を備えています。「天照山」の扁額は永享8年(1436)の裏書のある後花園天皇の御宸筆です。楼上には次の諸尊が安置されています。 釈迦三尊 四天王像 十六羅漢像 (いずれも江戸時代後期作のすぐれたお像です。) 大本山 光明寺」「山門」を潜ると、右手奥にあったのが「動物霊堂」。その後ろにあった石仏群。「津田部隊 笹島隊 戦没勇士之忠魂碑 津田少将 書」甲府で編成された歩兵第149連隊(通称津田部隊)に属した笹島隊の戦没者忠魂碑。津田部隊は中国戦線で多くの戦死者を出し、太平洋戦争では、グアム島やレイテ島に派遣されほぼ全滅したと言う。この碑は昭和15年秋に笹島隊の一同により建立されたもので、中国戦線での戦没者と思われる73柱を合祀している。碑高325cm、幅124cm、厚さ21cm、台石50cm、基壇17cmそして「高倉 健 蓮華化生」碑。浄土宗と深い関わりを持っていたのだと。『法然上人をたたえる会』の会員であったと。この縁があり、光明寺の境内へ墓碑が建てられる事となったのだと。更にネット情報が。「高倉健さんは、名越流の末裔で鎌倉幕府滅亡時に太守・北条高時とともに自害した北条篤時がご先祖であると。鎌倉幕府滅亡時に京都にいた北条篤時の子孫が西国に移り大内氏に仕えた後に北九州に移り住んだそうで健さんも九州出身なのである」と。高倉健さんの墓碑■ 健さんの立ち姿を表しています。■ 墓碑の高さは健さんの身長と同じ180cmです。■ 墓碑にある段状の意匠は、健さんの映画人生の節目となる年、映画作品数などを表しています。下部の丸い 石は友石と呼ばれ友の姿を表していると。「十萬霊供養塔」。「倶会一処(くえいっしょ)」の文字が。浄土教の往生の利益の一つ。 阿弥陀仏の極楽浄土に往生したものは、浄土の仏・菩薩たちと一処で出会うことができる、という意味であると。そして「鐘楼」。光明寺の梵鐘は、1647年(正保4年)に江戸小網町の由比平右衛門尉正次の寄進。梵鐘を寄進した正次は、軍学者由井正雪の叔父という説がある と。「梵鐘」。鎌倉市内では円覚寺梵鐘、建長寺梵鐘に次ぐ三番目の大きさであると。この鐘楼の前の石碑には「南無阿弥陀仏」と刻まれていたのであろうか。続いて「繁栄稲荷大明神」へ。光明寺の「繁栄稲荷大明神」には、次のような伝説が残されている。開山の良忠がまだ佐助にいた頃、子狐を助けた。すると、夢に親狐が現れて、お礼にと「薬種袋」を残していった。鎌倉に悪病が流行した折、この時の夢のお告げに従って薬種を蒔くと、3日の内に成長し、病魔がたちまちに退散したのだという。「繁栄稲荷大明神当寺開山良忠上人は、この地に当寺を開くまでしばらく佐介ヶ谷に住まわれていました。この時上人は子狐を助けたことがありました。「すると夢に親狐が現れ、あ礼とともに薬種袋を残していったということです。鎌倉に悪病が流行した折、上人はこの時の夢のお告げに従って、薬種を蒔くと、三日の内に成長し、この薬草を服すると薬効顕れ、病魔はたちまちに退散したということです。のちに稲荷大明神として当寺に勧請し病魔退散、豊漁満般、家業繁栄を祈念しています。」「大殿(本堂)」は保存修理の為に全面的に仮設テントで覆われていた。「2019(令和元)年11 月から、10 年計画で本堂(大殿)保存修理工事が始まりました。今回工事を行う本堂(大殿)は、1698(元禄11)年に建立されて以来今日まで320年あまり、この間、1719(享保4)年、1770(明和7)年、1797(寛政9)年、1823 (文政6)年、1950(昭和25)年、1971(昭和46)年など、その時々に修理を行いながら守ってまいりましたが、前回修理から50 年を経て、近年、屋根や柱などに痛みが出てまいりましたので、保存・活用のための修理工事を行うことと致しました。今回の工事は、建物の各部材を屋根から順番に取り解いて骨組みだけにして、破損・腐朽した部分の補修・取替などを行って再び組み上げ、あわせて大地震に対する備えも施します。工事中の本堂(大殿)を風雨にさらすことが無いよう、初めに本堂(大殿)をすっぽりと覆う素屋根を建設し、その中で工事を進めますので、その間のご拝観・ご見学が出来なくなります。」とネットから。以前の「大殿(本堂)」を訪ねた時の写真から。十四間四面。当山五十一世詮譽白玄上人の代、元禄十一年(一六九八)の建立。現存する木造の古建築では鎌倉一の大堂で、本尊阿弥陀三尊ほか諸仏を祀っている。かつては開山上人像を安置して祖師堂と称していた。仏堂でなく祖師堂を本堂とする伽藍形式は、知恩院をはじめとする京都の浄土宗本山の通例。百本柱のお堂としても有名。国指定の重要文化財。大殿右檀には、善導大師等身大立像と弁財天像が安置されている。これは、かつて二尊堂にあって奉安せられていたもの。善導像は、二祖聖光上人より拝受の像と伝えられ、弁財天はもと江ノ島弁天と伝えられている。左檀上には、如意輪観音像と宗祖法然上人像が安置されており、日々の供養が続けられている。「山門」を振り返る。その先に「総門」の姿も見えた。こちらが「開山堂」で現在は仮本堂になっていた。開山をはじめ歴代法主の御影を祀っている。かつては現本堂を祖師堂と称していた。大正十二年の関東大震災で倒潰した阿弥陀堂の本尊を旧開山堂へ遷座して本堂とし、開山堂は、翌十三年、古材等も使用して新たに建てられた。平成十四年、老朽のため再建。本堂(大殿)修理工事につき令和2年2月より大殿(本堂)にお祀りしていた阿弥陀如来および諸尊像は、開山堂にて参拝出来ると。扁額「開山堂」。「内陣」。ご本尊の「阿弥陀如来像」。その後、この日の「開山忌」が始まったようであった。以前の写真であるがこの日もあったのだろうか?「開山堂当寺開山良忠上人(記主禅師)の尊像および歴代の法主(住職)を祀る御堂です。開山の良忠上人は、浄土宗の第三祖(宗祖法然上人から三代目)として関東にお念仏の教えを弘められました上人は島根県那賀郡に生まれ各地で修業と修学を積み正嘉ニ年(一ニ五八)の頃鎌倉に入り、幕府第四代執権北条経時公の帰依を受けて、この寺を開かれました。学徳を備えた高僧で、すぐれた僧侶を育てました。また多くの書物をし、今日の浄土宗の基盤を為るという大きな働きをされ、この功績を称えて、没後、伏見天皇から記主禅師の諡号を贈られました。毎年七月六日のご命日には開山忌法要を勤めています。」そしてこの日は「七月六日」なのであった。靴を脱ぎ「開山堂」の右の廊下から。「記主庭園池」と「大聖閣」が目の前に。江戸幕府の茶人としても知られる庭園デザイナー・小堀遠州作といわれる池泉庭園「記主庭園」と枯山水の二種類の庭園をもつ光明寺。「大聖閣」。光明寺の「大聖閣」は、法然上人800年大遠忌を記念して建てられた。小堀遠州作庭という記主庭園奥の木造二階建ての建物。二階部分は八画で、屋根には鳳凰が乗せられていた。鎌倉で鳳凰が乗せられたお堂は、この大聖閣のみであると。二階の内陣への扉が開かれていて、黄金の「阿弥陀三尊像」の姿が。屋根の頂部には「鳳凰」の姿が確認できた。扁額は「大聖堂」。「阿弥陀三尊像」。「阿弥陀三尊像」をネットから。 【http://koten-kagu.jp/2018/04/05/kamakura-136/】 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.07.28
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そして熊野磨崖仏駐車場に到着。大分県豊後高田市田染平野。「赤鬼がきずいた九十九の石段の話10むかしむかしのお話です。この田染(たしぶ)の里に、毛むくじゃらの赤鬼がやってきて、人間を食べるというのです。それを聞いた熊野(くまの)の権現(ごんげん)さまは、何か良い方法はないかと考えました。そして、いち夜のうちに百の石段をこしらえたら許してやろうと約束したのです。権現(ごんげん)さまは、とうていできるはずはないと思っていたのですが、なんと赤鬼は、ひょいひょいと石を担いで、あっという間に五十段をこしらえました。その早いこと早いこと、みるみるうちに九十九段築いたのでした。おどろいた権現(ごんげん)さまは、百段目の石を担いだ赤鬼の足が山かげに見えたとき、「コケコッコー」と、にわとりの鳴き声をまねしたのでした。赤鬼は、「負けたあ」と最後の石を担いだまま逃げ出していったそうです。熊野山たいぞう寺から、磨崖仏(まがいぶつ)を通って熊野権現(くまのごんげん)さままで続いている石段は、この赤鬼が築いた石段といわれ、今でも多くの人々に親しまれています。」五十段の石段を築いた赤鬼の姿。「豊後高田市観光案内」。①国宝・富貴寺大堂 ②真木大堂 ③熊野磨崖仏 ④世界農業遺産の郷 田染荘⑤天念寺・川中不動三尊像 ⑥鬼会の里 歴史博物館 ⑦長安寺 ⑧豊後高田 昭和の町⑨日本の夕景百景 真玉海岸 ⑩花の岬 長崎鼻現在地はここ。「熊野磨崖仏」への入り口は、豊後高田市田染の田原山(鋸山)山麓にある「今熊野山胎蔵寺」(いまくまのさんたいぞうじ)である。「今熊野山祈願所胎蔵寺」碑。「日本遺産認定~鬼が仏になった里「くにさき」大分県 国東半島・宇佐地域六郷満山開山一三〇〇年の幟が風に閃く。「大分県国東半島一帯にある寺院群の総称を「六郷満山」と呼び、神仏習合の文化が今日まで受け継がれている。六郷は両子山を中心とした山稜の間に開かれた六つの郷、満山はそこに築かれた寺院群を指し、古くから六郷満山と呼ばれる独特の山岳宗教文化が栄え、2018年に開山1300年という大きな節目を迎えた」 のだと。「今熊野山胎蔵寺」には、「熊野磨崖仏」から下山後に訪ねる事とした。「熊野権現の道」を上って行った。熊野権現(くまのごんげん)は、熊野三山に祀られる神であり、本地垂迹思想のもとで権現と呼ばれるようになった。熊野神は各地の神社に勧請されており、熊野神を祀る熊野神社・十二所神社は日本全国に約3千社ある とウィキペディアより。入口の両脇の大きな石灯籠が迎えてくれた。「熊野磨崖仏入口」との案内板。左手には胎蔵寺内に新たに出来た、国東唯一の尼寺、雨風庵(うふうあん)が。入口の紅葉はピークに向けて。そして石段を上って行った。右手の照明ポールの上には監視カメラが設置されていたのであったが・・・。ここにも「熊野権現の道」碑が。そして石段の先に石鳥居が姿を現した。歌碑「よう来たと 汗をねぎらう 磨崖佛 凡柳」。そして石鳥居の先には、鬼が一夜にして積み上げたという伝説が残る自然石を乱積にした石段が続いていたのであった。石鳥居の右前には、三基の寄進石碑が。●一金五萬円也 豊田利鴻●大太鼓壱張 北野嘉雄 昭和三十三年一月一日●一金貮萬五千圓 豊田亀吉 立石町 豊田要右エ門長男 昭和丗一年四月 同 マツここにも「歌碑」が。「磨崖仏 千年が過ぎ 蝶が過ぐ」 岸原清行作 と。「浩宮徳仁親王御誕生記念植樹」碑。「浩宮徳仁親王」とは 1960年(昭和35年)2月23日御誕生の現在の天皇陛下。「歌碑」「信心を 石段で見る 磨崖仏」内藤凡柳(本名 喬木) 別府市不老町出身 十五才大阪井上剣花坊に師事 大正八年頃大阪で岸本水府のもとで川柳詩「番傘」所属 大正十三年帰郷大分に本格川柳を普及平成元年没 八十八才そして石鳥居の前で、ここからの乱積石段を登るために、帰路の参拝客の勧めで杖をもう一本貸してもらい、気合を入れる旅友の姿。鳥居の扁額は破損しており「三社大権現」と刻まれていた。鬼が一夜で築いた、九十九段の乱積石段を私も2本の杖を駆使しながら登って行ったのであった。「国東半島峯道ロングトレイル 熊野磨崖仏→高山寺 11.5km」案内柱。「国東半島で古くから行われてきた六郷満山峯入行(ろくごうまんざんみねいりぎょう)のコースをベースに、トレッキングやウォーキングの醍醐味を味わうことのできる登山道や遊歩道を追加するなどの工夫を加え、楽しく、そして心地よく歩けるトレイルとして再構成したものです。世界農業遺産にも認定されたこの地域には、豊かな自然だけではなく、何世紀にもわたる伝統的な農業が形づくった文化や景観、環境や自然条件を受け入れ適応してきた先人の知恵を見ることができます。また、宇佐・国東半島は神仏習合発祥の地。コースのいたるところにある有名無名の石造文化財や名もなき野仏は、まさに「み仏の里」と呼ばれるふさわしいところです と。そして左手に現れたのが、「熊野磨崖仏」。平安時代末期の作と言われている「大日如来(約6.8m)」(右)と「不動明王(約8m)」(左)の磨崖仏があり、国指定の重要文化財となっているのだ。国内最古にして最大級の磨崖仏であると。また、約10年に一度行われる六郷満山の伝統行事である峰入りの荒行は、この不動明王の前を出発点とし、護摩をたいて行程150km、約10日間の行に入るのだと。「熊野磨崖仏一、所在地 豊後高田市大字平野字登尺一、国史跡指定 昭和三十年二月十五日一、国重要文化財指定 昭和三十九年五月二十六日一、解説大岩に刻まれた仏は向って右が大日如来、左が不動明王で、熊野磨崖仏とよばれている。大日如来は、六・八米、如来にふさわしい端正な顔形で、頭部上方には三面の種子曼茶羅が刻まれている。不動明王は、八米、慎怒相でなく柔和な慈悲相であるのは他の石仏にみられない珍しい例である。六郷満山諸勤行注進目録や華頂要略などにより磨崖仏は藤原時代末期(約九0 0年前)の作と推定されている。厚肉彫りの雄大、荘厳な磨崖仏であるため国指定史跡でありながら美術工芸品としての価値が高いものとして国の重要文化財指定を併せ受けたものである伝説では、磨崖仏は養老二年(七一八年)仁聞菩薩が設立したと伝えられ、近くの山中には「御所帯場」とよばれる作業時の宿泊跡がある。また参道の自然石の乱積石段は鬼が一夜で築いたと伝えられる。」「不動明王像二童子像」向かって左に位置する高さ約8メートルの半身像。鎌倉時代の作とされ、安山岩質の礫混じりの硬い岩壁に造られたため、彫り口がやや浅く、明王像ではあるが口元に柔和な笑みを浮かべているようにも見える。左右両脇には高さ約3メートルの矜羯羅童子像、制多迦童子像の痕跡が認められる。「大日如来像(如来形像)」向かって右に位置する高さ約6.7メートルの半身像。高さ約8メートルのくぼみ(龕(がん))の中に彫り出されている。螺髪等の造形的特徴から、不動明王像よりも制作年代が遡ると推定されている。光背上部の種子曼荼羅は鎌倉時代の追刻。通常の大日如来像は菩薩形(髻を結い、装身具を着ける)に造形されるが、本像は頭髪を螺髪としており、本来の像名は不明である。重要文化財指定名称は「如来形(にょらいぎょう)像」となっている。」お顔をズームして。そして熊野摩崖仏からさらに45mほど鬼の階段を上がると。「熊野神社」の「拝殿」があった。内陣。「本殿」。「拝殿」の右の崖下にあった石仏。赤い衣装を纏って。神殿の崖には磨崖仏はなかったが、岩を削って多くの石灯籠が崖の斜面に鎮座。再び「熊野神社」の「拝殿」を。「熊野神社」境内から見下ろした乱積の石段。これを下りるには慎重にバランスをとりながら下りる。強制的?に渡された追加の1本の杖は、両手が塞がってしまい、手摺を掴めないため、私にとってはかえって危険であると感じたのであった。何とか無事に「胎蔵寺」手前まで辿り着き、「胎蔵寺」の「本堂」の屋根そしてその先の険しい岩肌の山並みを見る。無事に下って来た「熊野権現の道」を振り返る。そして「胎蔵寺」を訪ねた。石仏群そして、トタン屋根の「本堂」を見上げる。「胎蔵寺」の「石造仁王像・阿形像」1863年作製、石材は安山岩で、像高は190cm。胎蔵寺の境内入口に立っていた。。吽形像。金ピカの「仁王像」。「本堂」近くまでは何故か近づけないようになっていた。「本堂」前の常香炉の両脇にも銀ピカの像が。干支の像にもべたべたとシールが貼られていた。胎蔵寺の像はやたらと金ピカ!!。正面に回って観音像の如き姿も。「熊野磨崖仏」の券売所を見下ろす。ここで300円を支払ったのであった。「熊野磨崖仏」入口横の茶屋・土産物屋もようやく開店したようであった。時間は9:48過ぎ。この地には「熊野磨崖仏」の他に多くの「豊後高田の磨崖仏」👈リンク があるとのこと。そして駐車場に戻り、「胎蔵寺」に別れを告げて、次の目的地の豊後高田市の「昭和の町」に向かってスタートしたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.01.20
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名古屋の栄にあるホテルに宿泊し、早朝は『鶴舞公園』までの早朝散歩。鶴舞公園は『つるまこうえん』と読むとのこと。6時過ぎにホテルを出て、IPHONES-5のナビを利用してビル街を進む。ひたすら35分ほど歩き漸く鶴舞公園入り口に到着。名古屋で最初に整備された公園。国の登録記念物に登録されている。日本さくら名称100 選に選定されているとのこと。入り口近くには案内図が。大きな公園であることを実感。朝陽が迎えてくれた。振り返ると朝の陽光がビル群、高架橋を照らしていた。鶴舞公園噴水塔。公園の中央にそびえ立つローマ様式の噴水塔現在も鶴舞公園のシンボルとして親しまれている。市指定有形文化財。名古屋市公会堂。昭和天皇の成婚を記念して、1930年に鶴舞公園内に建てられた。今も現役で、さまざまな催しが行われているようだ。新芽が芽ぶいた柳の葉にも朝の陽光が。踊り子像と後ろには名大病院。髪の形がユニーク、そして見事なバランス。後方の桜は未だ1分咲き。鶴舞公園奏楽堂。1934年(昭和9年)の室戸台風により、倒壊し、伊勢湾台風でも被害を受けたと。現在の奏楽堂は、1997年(平成9年)に創設当時の設計図に基づき復元されたもの。 アールヌーボーを取り入れたイタリアルネサンス風の建造物。奏楽堂の下で、早朝の太極拳を楽しむグループ。胡蝶ガ池南側。中央は中ノ島。 鶴舞公園のシンボル、鶴のオブジェ。羽根を広げて飛び立つ瞬間か?。あるいはダンス?。 さらに歩を公園の奥に進める。この公園のソメイヨシノはこれからが満開。名古屋の地の桜の開花は関東より1週間遅れか。鶴舞公園内の東側にある竜ヶ池浮見堂。酒匂の滝。『竜ヶ池は水の豊富な池でしたが、まわりの下水道整備が進むにつれ補給水が減り、汚れが目立ってきました。そこで昭和30年、近くのビール工場とパイプで結び冷却水の余り水を引くことになりました。池への落ち口は落差4メートルの「酒匂の滝」。名は当時の工場長酒匂常仲氏にちなんだものです。ビール工場は平成十二年に閉鎖されたため、工場からの導水が途絶え、現在は池の水を利用した水景施設となっています。』と説明板が。 大きなソテツの木の前へ。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・続く・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2013.03.24
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ミツバチの巣を襲い、J1群を壊滅させた『スムシ』退治の作業を蜂友のEさんと先週土曜日に行いました。師匠や妻の情報に基づき、ドライアイスによる殺菌操作を行いました。まずは巣箱の内検、依然としてスムシの襲撃が続いています。今回は3群ともスムシにやられていそうな巣枠は全て採りだし、襲撃を受けた部分のハニカム部を切り落としました。ひどいものは全てのハニカム部を切り落とし、巣枠の鉄線のみを残しました。そしてこれらを自宅に持ち帰り、まずは巣枠に残っている蜜を採取しました。さすがに、このハチミツは食用にするには抵抗がありますので、今回絞ったものは越冬用のミツバチの餌にすることとしました。それでも3L程のハチミツを収獲出来ました。色もかなり濃いものが採取出来ました。ドライアイスはオンライン購入、発泡スチロールの箱もホームセンターで急遽購入。ドライアイス、発泡スチロール箱も生まれて初めての購入でした。そして、ハチミツを絞った後の巣礎枠をこの発泡スチロールに入れ、ここにドライアイスを投入し蓋を閉めたのです。妻の調査情報による『神奈川県畜産情報』は下記の如くのことでした。スムシを発生させた空巣脾を一定時間(〇・五、一、二、四及び六時間)冷凍庫で冷凍(マイナス二〇℃)処理後、常温保管。巣脾の被害を肉眼的に確認。また、冷凍処理によるスムシの幼虫及び卵への直接影響についても確認。さらに、巣脾(巣枠)の冷凍処理による劣化の有無についても併せて調査。結果:空巣脾は4時間以上の冷凍処理でスムシの被害は進行せず。〇・五時間の冷凍感作で幼虫は死滅するが、卵は抵抗性が考えられた。また、冷凍処理した巣脾(巣枠)には劣化は認められず、使用が可能 とのこと。よってドライアイスにより巣礎枠の温度を-20℃程度まで下げ、4時間以上放置し、ハニカムの中に未だ残っているスムシの卵や幼虫を死滅させるのです。ドライアイス使用は酸欠状態を作る為と思っていましたが、またまた勉強させられました。群勢が拡大した時に追加できるよう、事前に購入し自宅に保管しておいた新しい巣礎枠もスムシに同様にやられてしまっていました。今週末はこの巣礎枠の整備作業が待っています。鉄線のみの裸になってしまった巣枠が多量に出来ましたので、この冬には来春に備えてこの巣枠に巣礎(薄い蝋板の上に、働蜂房と房壁の一部を規則正しく両面にプレスしたもの)を購入し、これを貼り付ける作業も待っているのです。下記写真は、購入した巣礎枠の写真です。そしてこの姿がこの冬の作業完成の姿なのです。その準備の為に、残っている蝋を熱水で、妻が一つ一つ綺麗に洗ってくれました。既に妻も蜂友に仲間入りしてくれているのです。
2009.09.16
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八達嶺・万里の長城を目指す前に、長城の絶景ポイントでの集合写真撮影の案内があり販売品の説明を聞く。世界遺産に登録されている万里の長城は河北省、山西省、甘粛省、北京、内モンゴル自治区などに所在し、最新の調査で総延長8851kmとされる。着工は紀元前6世紀にまでさかのぼり、秦の始皇帝が建築し、明代に大幅に拡大・延長されて現在の形になった。現存するものの大部分は、明代の建造で明の時代には、西は「嘉峪関」から東は「山海関」、更には遼寧省の北朝鮮国境まで延長された。北京市内から交通の便もよく最も保存状態の良い城壁の一つがこの八達嶺長城で観光ツアーの定番となっているのだ。これから目指す北4桜が一番右手に。入場料は20元。神威大将軍砲。八達嶺長城の入口の馬道に陳列し、合計5台が。当時の先端的な兵器の一つ。そのうち、最も大きな大砲の筒の長さは2.85mで、口径は105mmで射撃距離が千m以上達し、極めて威力があったと。大砲のボディに「敕賜神威大将軍」と書かれて、明時代崇禎11年(1638)に製造。この大砲は、1958年に八達嶺の東より5キロ先の張堡から掘り出されたもの。他の四台大砲は、1957年に万里の長城を修繕するときに出土したもので、同時に数百枚弾丸も掘り出され、どちらも明の時代に作られてものであると。「武備志」によると、「古代には機械で石を発射し、機械は木造でしゃがんだトラの形にしている」。その後、火砲を利用し、ボディは短く太く弾丸を発射し、俗称で「カエル砲」と呼ばれていると。そこから、当時の兵器は一般的なものであると分るのだと。八達嶺長城は南北2つのルートに分かれていた。南に伸びる長城はきつい男坂と呼ばれ往復およよ1時間半程と。北側に伸びる長城は比較的緩やかな坂で女坂と呼ばれ往復40分程と。今回のツアーは女坂を登ることに。右は北城・女坂と左は南城・男坂。手前から北2桜、北3桜、北4桜そして下って北5桜、北7桜、北8桜。左(西)側が外(蒙古)側で、右(東)側が内(中国)側。 五星紅旗がはためいていた。北2楼に向かって登って行った。壁の平均高さは7.8mで、厚さは6.4mで、頂上の幅は5.8mであると。五匹の馬が並んで走り、十人並んで歩くことが出来たのだと。壁の外側に1.7~2mの垣と銃眼が。銃眼の下に射撃穴があり、そこから矢を打つ。同時に、内側に壁垣があり、「むすめかべ」と呼ばれて安全の役割を果たしたと。北2楼に到着。城壁の間のこの建物は敵楼、掩蔽壕と呼ばれる砦で敵を監視する役目。一般的には正方形或いは長方形で、上下二段。上層は望み口と射撃穴があり、花火の信号をつけるところもあると。下層は、門と階段があり、兵士に休憩と兵器を置く場所。万里の長城における重要な軍事施設の一つ。北2楼入口。北2楼内の通路。北2楼を出た直後のやや開けた場所。南方面の長城(男坂)を振り返る。北3楼を目指す。途中左手にあったのは戦台であろうか?戦争の際に、台の上から火器、フランク、大砲で攻撃したと。一か所の戦台に一般的には30名兵士を置き、30名に銃眼に配置し、150キロ火薬を準備。その他、戦台に矢、鉄棒、数えきれない石を用意し、一か月の食糧と水等も保管したと。長城の道幅は5頭の馬が並んで進める広さだと。城壁の高さは南と北で違い、南壁は「北京」の方角に面し、北壁は領土外からの侵略を防ぐため壁麺が高くなっていると。北3楼を過ぎ、北4楼への急な階段をひたすら登る。北5桜、北7桜、北8桜の姿も大きくなって来た。北4楼手前の最後の急な階段に辿り着く。下から見上げる男坂は思っていたより急勾配で、特に角度の高いエリアには、長城の壁際に各一つ、中央部分に一つ、計三つの手摺りがついていた。私も最後は中央の手摺りにつかまり登楼したのであった。「北4楼」の案内板。青空によく映える城楼からの眺めは絶景そのもの。この先の北5桜、北7桜、北8桜へは集合時間の関係で諦めた。北八楼もズームで。北八楼近くまでロープウェイでも登れるルートもあるようであった。ここにも多くの観光客が。北十楼をズームで。この敵楼と呼ばれる砦は頂部に居住設備?も。長城に向かう道路はこの時は大渋滞中。北4楼から南を見るとこちらも長城が龍がうねるが如く延々と。北4楼から登って来た北3楼を見る。そして帰りはひたすら下る。そして長城を後にしたバスの中は、疲れで多くのツアー仲間はこの後は爆睡へ。正面に徳勝門箭楼が見えて来た。北二環路の北側に位置する門。清代の内城には、南に宣武門・正陽門・崇文門、東に朝陽門・東直門、北に安定門・徳勝門、西に西直門・阜成門の計9つの「九門」が設けられていた。多くは城壁の撤去とともに消えたが、徳勝門は正陽門とともに破壊を免れ保存された。徳勝門は明代に城壁の建造とともに設けられ、塞外へ向かう門であったことから軍門とも呼ばれた。12.6mの城台の上に築かれた箭楼は4層構造で19.3mの高さを有し、北に向けて計82の射撃口を備えている。現在は北京市古代銭幣展覧館になっていると。そして夕食会場へ。全聚徳(ぜんじゅとく)は、北京市に本店を置く北京ダックのレストランチェーン。 日本国内では、東京都内に六本木店と新宿店、銀座店の3店を構えていると。 会場入口には順番を待つ多くの客が。この夜ももちろん中華料理。ビールも注文。北京ダックが。コックさんが目の前で北京ダックをさばいてくれた。今回の超格安ツアーでは、私にとっては想定外の光景なのであった。北京ダックというと、北京ダックの皮だけをヤーピンに巻いて食べるというイメージが強かったが、美味しい北京ダックは皮だけでなく、ジューシーな肉が付いていた。ヤーピンにネギとキュウリを乗せ、甜麺醤とよばれる小麦粉を発行させた味噌を載せて。4~5枚を食べたであろうか。美味しくてほぼ完食した我がテーブル。我がホテルへのバスでの帰路でも車窓風景を楽しむ。Jing Du Yuan Hotel (ジン ドゥ ユエン ホテル/京都苑賓館)が右手に。これは西直門(シージーメン)という地下鉄などのターミナル駅のそばにある、双子ならぬ三つ子のビル。雨も落ちて来た。成铭大厦。「中国兵器」と書かれた看板。中国兵器工業集団有限公司は、国務院国有資産監督管理委員会の管理、監督する中国の中央企業である。 銃器、弾薬の開発、製造、及び装甲車、戦車、無人偵察機等の航空機、ミサイル、水陸両用車、爆弾等の軍事製品の製造を主に行うと。そして北京市海淀区西四環北路にある、ライトアップされた我がホテル・北京美泉宮飯店に到着したのであった。時間は20:02過ぎ。 ・・・つづく・・・
2018.07.04
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3日目の朝も早朝起床。ホテルの我が部屋からの朝の太陽。時間は5:32。雲もほとんど無く快晴に近いものの、霧がかかった如しの光景。やはりこの日の北京の街は光化学スモッグで覆われているのか?6:30からの朝食。ホテルの1Fのフロントスペース。バスに乗り7:15に最終日の観光に出発。バスからの宿泊したホテル・北京美泉宮飯店を。西4環北路と阜成路とのジャンクション付近。先には高層アパートが並んでいた。そしてこの朝も渋滞に巻き込まれる。座席の最後部のカーテンの隙間から。街中には緑と花が。「北京北站」の文字が。北京北駅は中華人民共和国北京市西城区西直門外に位置する中国国鉄の駅。2016年11月1日から当面の間は休止中であるとのこと。北二環道路を走る。下の道路は西夏門北大街。街中には既に車が溢れていた。時間は8:25。鼓楼とその先にあって見えない鐘楼。併せて鐘鼓楼と呼ぶ。。明の時代、1420年に建てられたが、火災などもあり、1749年、清の時代に改築されたもの。元、明、清と三代にわたって北京の人たちに時を告げつづけた場所、それが鐘楼と鼓楼。鐘はゴーンという鐘、鼓はドン、ドン、ドンという太鼓。この北京鐘鼓楼文物保管所、故宮の北、北海公園に近いところに建つ鐘鼓楼。北京の子午線とも言うべき「中軸線」の南端は永定門、そして北端がこの鐘鼓楼。鼓楼は1420(明の永楽18)年と1800(清の嘉慶5)年に大規模な修復を受け、現在の建物は東西55.6m、南北34m、高さ31mの威容を誇る。そして鐘楼とはその名の通り鐘がある塔。木造の鼓楼とは対照的にレンガ造りの建物。烟袋斜街。前海と后海の境にある橋周辺から始まる細い路地。北京の古い家をそのまま使って店を開いていると。両脇に食べ物や雑貨の店が並んでいて人気スポットであると。前海沿いを走る。右手に金锭桥(金錠橋、Jinding Bridge)。胡同(フートン)と呼ばれる細い路地の残る地域に、昔ながらの家並みが再現されいた。 胡同は元・明・清の時代の古い平屋の街並みで、再開発前の北京の市民生活の姿。再現以外の部分も含めて、周囲には中国のイメージ通りの街並みが残っていた。景山公園山頂に建つ万春亭が見えた。年配の男女が踢毽子(羽根蹴り、蹴羽根)をやっていた。蹴鞠ではなくて代わりに中国語では、Jian Zi (ジェンズ、毽子)と言い、羽根突きの羽根の4−5倍ぐらいのものを蹴る遊び。Jian Zi (毽子)を蹴ることを踢毽子(ティージェンズ)というと。1980年代、「毽球」とよばれるチーム競技のルールが整備され、1987年に中国毽球協会も立ち上げられた。毽球はバトミントンに似た大きさのネットで仕切られたコートを使って競技する。チームの人数は3人で、ネット越しに相手の陣内に蹴りこむ事を目的とする。自陣内では4回まで蹴ることができる。ゲームは15点を先取した側が勝つ。足を使うため、バドミントンというよりはセパタクローによく似た競技になっていると。羽のJian Zi (ジェンズ、毽子)。下部に蹴ると音が出る仕掛けが。清朝第13代に当たる愛新覚羅恒珏(あいしんかくらこうかく)氏が書と絵実演販売を行っているというアトリエを訪問。アトリエ入口の門には何故か「景山牡丹特色商品展賣」の看板だけが。景山公園は元の時代より牡丹栽培を開始しており、今や北京最大の牡丹観賞園でありその時期には牡丹の花や苗が展示、販売される場所なのであろうか?店に入ると清王朝崩壊の歴史の説明の後 清朝皇族の愛新覚羅一族の末裔であるという愛新覚羅恒珏(あいしんかくらこうかく)氏の書道実演。販売用掛け軸の説明。説明に熱の入る秘書?。今日は「たまたま」!!愛新覚羅恒珏氏がアトリエに来たので、我々は氏に会えて非常にラッキーである、との説明に力が入っていたのであったが??。「福壽康寧」の意味は「幸福・長寿・健康そして心や社会の安寧を祈る」というもの。(康寧=平穏無事であること、福寿=幸福で長命であること)。氏の絵画。愛新覚羅恒珏氏。満州族であり、漢民族名字が関維霖で,1941年に北京で生まれた。清王朝皇室の末裔で、清太祖ヌルハチの十三代目の嫡孫であり、聖祖康熙帝(玄燁)の第二子胤礽直系の九代目子孫で、法名は妙霖居士であると。系譜。愛新覚羅家は清の皇帝として、267年間を統治しており、11代目の愛新覚羅溥儀氏が1911年に退位するまで続いた。愛新覚羅家は現在200名ほどいるが、そのほとんどは天津に住んでいるのだと。最後の皇帝である愛新覚羅溥儀氏には子供はない。溥儀氏の弟である溥傑氏は、1937年に明治天皇のいとこである嵯峨浩さんと結婚し、二人の娘のうちの慧生さんは無理心中をして伊豆で亡くなっているが、もう一人の娘である嫮生さんは現在も神戸におられるとのこと。溥傑氏は1994年に亡くなっている。清の第四代康熙帝の次男で皇后の子の胤礽(いんじょう)がその祖となっているようだ。この胤礽は皇太子として早くから認められていたが反逆のそぶりありとして結局廃嫡されている。その末裔が恒珏氏という系図になっているようであった。その愛新覚羅恒珏氏が、天津に住んでおられるが、週末にはここで書のデモンストレーションと共に書画の販売をしているとのこと。愛新覚羅恒珏氏の紹介。最後の皇帝である愛新覚羅溥儀氏とその弟の溥傑氏の紹介写真がアトリエ(実演販売の店)の外の壁に。最後の皇帝である愛新覚羅溥儀氏の説明パネル。弟の愛新覚羅溥傑氏の説明パネル。アトリエの前の土産物売り場。「鎮山玉緑」と書かれた看板が入口に。アトリエの中庭を再び。清朝の末裔がこの様な場所でひっそりと書画を売って生計を立てている?、その物語そのものが幾ばくかのお金を払って手にするのにふさわしい中国土産のような気がしたのではあったが・・・・。しかしこのツアーの案内書には、この場所を訪れる事には一切触れられていない理由は何なのかと大いに気になったのであったが・・・・・・。そして門やアトリエの入口にも「愛新覚羅」の文字が一切無いのは何故????既に訪れた方そしてツアー仲間の感想は如何に?。そしてバスに乗り王府井に向かう。バスを降り王府井の散策開始。王府井(おうふせい、ワンフーチン)とは、北京中心部東城区にある繁華街。巨大デパートや飲食店が立ち並び一帯は歩行者天国になっている。日本人には「北京の銀座」と呼ばれることもあると。ここでしばしの自由行動、いわゆる「銀ブラ」の開始。王府井は東長安街から中国美術館まで、南北全長約1600メートルにわたる繁華街で、南側の一部が歩行者天国になっていた。かつてここに皇族の屋敷(王府)と井戸があったことから王府井と呼ばれるようになったと。ちなみに、井戸があったとされる場所にはマンホール型の記念碑が埋め込まれ、そこに王府井の歴史や由来の説明が刻まれていた。中国の新型有人潜水艦「蛟竜」が展示されていた。ふと、再び中国と日本の間で海洋資源、特に深海資源をめぐる競争が始まろうとしているのであろうかと。シチズンの時計塔が象徴的な北京市百貨大楼。3頭?の牛の銅彫像。牛は赤みを帯びた青銅だが、綿密に見ると紫、青、赤、緑ですが、その間は色が美しく、牛には不規則な中空の穴が。ダイナミックなシェイプ、鮮やかな色彩なのであったが。この牛の展示の目的は?そして「天福茗茶」へ。中国各地に支店900以上を展開し、中国最大規模を誇る台湾系の茶葉店。王府井大街に近い北京本店は1200m2の広大な建物で、2階には茶葉や茶道の歴史を紹介する天福茶文化館を併設している。龍井茶や烏龍茶など各地の銘茶を扱っており、気軽に試飲することもできたのであった。お土産に抹茶味のお菓子を購入し、集合場所に戻ったのであった。そしてバスにて、このツアーの最後の観光地の「天壇」に向かう。途中、レンタサイクルの片付けの現場が。レンタサイクルを使いたくなったら、まずアプリの捜索機能を使い、近くにあるレンタサイクルをさがし、見つけたらQRコードで自転車のカギを外す。そして、目的地に到着したら、歩道の自転車置き場に置き、カギをロック、アプリで使用料を払って、そのまま乗り捨てが出来るのだと。中国で本格的にレンタサイクルのサービスが始まったのは2016年。わずか2年弱で70を超える運営会社が進出し、過当競争で値下げ合戦が過熱し、業界の淘汰(とうた)が既に始まり倒産も始まっているのだと。 ・・・つづく・・・
2018.07.05
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次一里山橋を渡り、更に小川を渡って緩やかな坂道を上り、大津市一里山一丁目の旧東海道を更に進む。先の信号交差点左角に『一里塚趾』碑が建っていた。ここ『月輪一里塚趾』は江戸日本橋から数えて120里目の一里塚である。「一里塚跡一里塚は、徳川幕府が旅人の目じるしに江戸の日本橋を起点として、東海・東山・北陸の三道に一里ごとに設けた塚です。 ここにあった一里塚は、東海道の大津と草津の間に位置するもので、大きな松の木が植えられた塚でしたが、惜しくも明治末期に取り除かれました。 その場所は旧道と広い市道の交差しているこの地点にあたります。 現在の一里山という地名が一里塚のあったことを物語っています。」『一里山一丁目』交差点が前方に。そして渡った先に◯に十の描かれた石碑が。『一里山一丁目 一里塚前』の現代の道標。『道標』「祈 安全火車往来」と刻まれた、平成22年に篤志家が建立したという道標.道標は十字に刻まれ、上に 「三条大橋迄五里余り」、下に 「江戸日本橋迄百二十里余り」、右は 「膳所藩札場より大萱港常夜燈に至る」、左は 「旧朝倉道信楽より伊勢・桑名に至る」 と刻まれていた。道標の先から緩やかな下り坂となった。交差点を渡り進むと直ぐ左に大きな蔵が。左手民家の庭の常夜燈。大津市大江4丁目の旧東海道を進む。旧東海道を進んで大江四丁目交差点を越えた左手に『地蔵堂』があった。ここにも人の姿は殆どなかった。大津市立瀬田小学校の手前にあったのが『大江の史跡 文化財マップ』。「大江」の地名は、平安前期以来、朝廷の文章道(史学・文学)をつかさどる家柄として知られる貴族であった大江氏(大江千里)が、この地を開発されたことから地名になったと伝承されている。 千里は「ちりんさん」と呼ばれ、村人から敬われた三十六歌仙の一人として著名で、没後、住居の旧跡に小祠(野上社)を建て遺徳をしのんだと。さらに旧東海道を進む。ここにも小さな『祠』、これも『地蔵堂』であろうか。大津市大江三丁目の交差点を渡る。電柱の『旧東海道』道標と左に『大江三丁目 市立瀬田小学校前』道標。。西行屋敷跡西行法師は、俗名佐藤義満といい、百足退治の伝説で知られる俵藤太(藤原秀郷)の後裔で、鳥羽上皇の院御所を警固する北面の武士であったが、 23歳のとき出家し、諸国行脚を重ね、仏道修行と歌道に精進した平安末期の代表的歌人だが、一時この大江の地(瀬田小学校の南の忠魂碑の近く)に住んでいたという伝承がある。」しかし、伝、西行屋敷跡碑や忠魂碑は見当たらなかったが、道路脇の法面全面にシートが敷かれている場所があったが、ここにあったのか?旧家が所々に点在。『祠』。『旧東海道』道標のあった場所を右に曲がり進む。真っ直ぐ進むと『近江国庁跡』へ向かうが、この日は立ち寄らなかった。『近江国庁跡 掘立柱建物跡』。【https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E6%B1%9F%E5%9B%BD%E5%BA%81%E8%B7%A1】より「史跡 近江国庁跡国庁は、律令という中国の法律制度にならって、天皇を中心とする統一国家を作ろうとした頃に、全国68ヶ国にそれぞれ設置された役所で、近江国庁は、奈良時代前半(今から約1300年前)に置かれ、平安時代後半(約800年前)まで存続したようです。ここでは、都から派遣された国司(現在の知事のような役職)を中心として、徴税、裁判、軍事など今でいう県庁、警察署、裁判所、税務署として近江国の統治と都との連絡にあたっていました。国庁は、前殿、後殿と東西の脇殿を中心に、門や築地からなり、東西二町(約216m)南北三町(約324m)の区画をいいます。また、その外側には、九町(約972m)四方の広がりを持つ規格化された街路が広がっています。これを国府といい、役所の所在する市街地にあたるものである。近江国庁は、日本で初めて古代の地方政治の中心地である国庁の全容が明らかになった遺跡です。 【https://myagi.jp/ja/html/travel/travelEt.html】より直進して更に進むと右手に浄土宗の『帰法山 浄光寺』があった。『帰法山 成就院 浄光寺』寺標と『山門』。山門脇の『道祖神』と『大日如来』の小祠。『浄光寺 本堂』。『浄光寺』は寛文元年(1661)に中興された寺院で、木造阿弥陀如来立像は滋賀県の重要文化財となっている。『水子地蔵尊』。『阿弥陀如来標柱』。旧東海道に戻り先に進むと左手に大きな『山桜』の木が立っていた。「大場の桜この山桜は樹齢的二百年の古木です。旧東海道筋にあり毎年美しい花を咲かせています。旧東海道と芦浦街道との分岐点付近にあるこの木は、昔から現在まで人々の様子を見てきた古木です。この桜は、江戸時代には参勤交代で、みやびやかな列をなして、毛槍を振り振り供奴を連れた大名行列が、物々しく西に東に行きかっていたのを見つめていたことでしょう。」小さな祠。左手に金魚鉢をイメージした外装のユニークな民家があった。大場の桜の先でT字路に突き当たる。旧芦浦街道の脇に㈱内田組があり、その前に小さな『地蔵堂』があった。脇には巨大なタヌキ像が建っていた。その手前生け垣の中に埋もれていた石碑が、昭和55年(1980)の『旧芦浦街道』の道標であったのだろう。芦浦街道は、東海道の枝道のひとつで、近江国を南北に貫いていたが、浜街道が整備されると、その役割を譲っていったのだと。㈱内田組の前の信号交差点を渡ると、『高橋川』に架かる赤い欄干の『和田一号橋』があった。左手『高橋川』の堤防の法面(のりめん)には枝垂れ桜が満開。『和田一号橋』を渡ると『建部大社末社 檜山神社』の社号と石鳥居が。左手の小山の上に建部大社の境外末社である檜山神社がある。参道途中には横尾山1号墳があるが、これは京滋バイパス建設に伴って移設されたものだという。『一の鳥居』。しかし、先を急ぐので訪ねることは出来なかった。これが『檜山神社 本殿』であると。 【https://4travel.jp/travelogue/10954624】より右手に日蓮宗『八景山 正法寺』案内板。『正法寺 本堂』をズームで。正法寺は昭和8年(1933)信暢による開基であり、境内には日蓮上人像があり、やや離れたところに鉄筋コンクリート造の本堂があるのだった。『八景山 正法寺』寺標と山門。『日蓮上人』像。正法寺の先で東海道は斜め左の小道に進んで県道16号線に合流する。この分岐に山村石材店があり、この石材店が造ったと思われる道標が建っており、「左旧東海道 右瀬田唐橋」 と刻まれていた。山村石材店の横にも歴史を感じさせる石灯籠が。そして県道16号線に合流。左手奥にあったのが『建部大社』。建部大社は、景行天皇46年(316)に御妃布多遅比売命(ふたじひめのみこと)が神崎郡建部の郷に日本武尊の神霊を祀ったのが始まりと云われ、その後、天武天皇白鳳4年に近江国の中心であった瀬田の地へ遷祀されたという。本殿には日本武尊を祀り、境内には菊花石・菊紋壺・本殿を囲む左右に八つの摂社などがある。『瀬田名物 たにし飴製造元』の辻末製菓舗。もちろん原料が「たにし」ではなく、形が「たにし」に似ているところから、「たにし飴」のようです。ニッキと黒砂糖の味のようです。これが『たにし飴』である。 【https://tabelog.com/shiga/A2501/A250101/25005960/】より歩道には『瀬田の唐橋』が描かれた石版が埋め込まれていた。そして正面の『唐橋東詰』交差点の先に『瀬田の唐橋』が姿を現したのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.05.23
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク県道312号線沿いにある「天嶽院」手前の林の中に鎮座する「秋葉三尺坊大権現」に向かう。「天嶽院」の手前の鐘楼方面への坂道を進んで行くと左手に墓地への階段を上り、墓地の左手奥に進むと山道の如き道があり、山頂に向かって進むことが出来た。山頂に鎮座する「秋葉三尺坊大権現」。最近建て直したようであった。秋葉大権現は火の神様として敬われ、「火防守護」その他七難を除き、除災開運、家内安全、授福繁栄の神様でもある。「秋葉三尺坊大権現」の反対側、墓地の先にも小さな神社が。「秋葉三尺坊大権現」から戻ると天嶽院の「六地蔵尊」が。通りに面し通行人に語り掛けるような優しいお顔で並んでいた。左から、いきいき地蔵・すくすく地蔵・にこにこ地蔵・ふくふく地蔵らくらく地蔵・ほかほか地蔵 と名前が刻まれていた。「温顔和楽」と刻まれた石碑。「和楽」とは なごやかに楽しむこと。互いにうちとけて楽しむこと。常にこのお地蔵様のごとくに「温顔和楽」の日々でありたいが。「天嶽院(てんがくいん)」配置案内図。天嶽院は藤沢市にある曹洞宗の寺院。山号は功徳山。「天嶽院の歴史は真言宗の古寺「不動院」から始まる。源頼朝公が治承四年(1180年)、伊豆に兵を挙げ鎌倉を目指す途中立ち寄り、 不動明王様に大願成就の祈願をされたとの伝説がある。明応四年(1495年)、北条早雲公によって伽藍の一寺が創建され、「不動院」を改め曹洞宗の禅寺とし、虚堂玄白禅師を迎えて開山とした。天正四年(1576年)四世住職の代に伽藍は焼失するが、玉縄城主北条綱成・氏繁公父子によって伽藍が復興された。 更に紀伊大納言徳川光貞卿の信仰篤く、六世住職の代に七堂伽藍が完成された。 この姿が「相中留恩記略」巻之十八に記載されている。なお天正十九年(1591年)十一月、家康公から三十石の朱印地を賜った事実がある。 安政二年(1855年)二月二十六日、二十二世住職の代に再び火災にあい、大伽藍はことごとく焼失した。焼失を免れ現存する総門(山門)は江戸中期に水戸光圀公が建立したと伝えられる。昭和五十一年(1976年)春伽藍復興に着手、二十年余を経て平成十年(1998年)七堂伽藍を室町時代の様式に統一して復興した。」と「天嶽院」HPから。藤沢市藤沢市渡内1-1-1。 【パンフレット】より鐘楼への道の左手のこの石碑は??「継末生流之碑」ではないかと、くずし字に詳しい「先生」から。「出家◯真如」?先ほど、高校時代の友人から「幽鳥弄真如」である旨のLINE書き込みが。そして「古松談般若(こしょうはんにゃをだんず) 幽鳥弄真如(ゆうちょう しんにょを ろうず)」👈リンク という一対の禅語の言葉であると。古い松の木が風に吹かれて悟りの智慧を説き、山奥に棲む鳥が真実の教えを説きながらさえずっている。すなわち、周囲を見渡せば森羅万象が等しく尊い教えを説いている。この世界そのものが悟りの世界にほかならない と。「鐘楼堂」。「庫裡」。「早雲閣」。「六地蔵尊」。「とっても とっても生える雑草 どっちも根気だ 負けないぞ」は我が農園作業も同じ。再び「鐘楼閣」。安永3年(1774年)の銘のある梵鐘。総高161.8センチメートル、口径81.6センチメートル、鐘身111センチメートル。銘文の文中には「功徳山早雲禅寺天嶽院北条氏繁公草創」とある。緑のモミジ葉に覆われた「手水場」。「法堂」への参道。「不動尊」。近づいて。「不動殿」。「不動殿 内陣」。青の「不動明王」。「相生松(あいおいのまつ)」。相生松とは、雌株・雄株の2本の松が寄り添って生え、1つ根から立ち上がるように見えるもの。また、黒松と赤松が1つの根から生え出た松のこと。「浄聖殿」が右手前方に。道元禅師の代表的な歌。「峰の色 渓の響きも皆ながら 吾が釈迦牟尼の 声と姿と」という御歌。峯の色も、谷川を流れる水の音もみなことごとく、天地自然の道理の体現であり、自己本来の面目であり、わが釈迦牟尼の声であり、姿であると。「浄聖殿」。「浄聖殿」内に安置されている本尊「千手千眼観世音菩薩像」。像高34.5センチメートル、総高83センチメートル、玉眼、金色相、寄木造の坐像。室町後期の作と。 【パンフレット】より「中雀門」。「中雀門」からの「法堂」。「法堂」 【パンフレット】より「法堂内陣」。 【パンフレット】より 「庫裡」。「掃除小僧」。「庫裡」玄関。「開山堂」。 【パンフレット】より「葛籠ヶ池と鶴夢楼」。 【パンフレット】より「中雀門」から参道を見る。趣のある見事な参道を「山門」に向かって歩く。深緑のトンネルと切石敷の参道。石畳とその左右に敷き詰められた苔の緑が絨毯のように美しかった。藤沢にも京都の如き雰囲気が。木漏れ日が参道に射し込み。新緑のもみじの下で青々とした苔が美しかったのであった。陽光が苔を輝かせる。山門から境内の参道を見る。山門前から、仁王像の後ろ姿を。江戸中期建立の切妻造茅葺の「山門」は2段になって、瓦葺の袖塀を設けていた。水戸光圀公建立の天嶽院山門、江戸中期の建物で唯一火災を免れた「山門」。「山門」前には阿形吽形の「仁王像」が露座し、仏敵の侵入を防いでいるのであった。石造りの阿行像。ズームで。吽行像。ズームで。「天嶽院」寺標。「見直し 手直し やり直し 思い直して 根気よく」。この我がブログも同じくありたい。山門右脇の高台に「聖観音」。ズームで。既に赤いモミジが美しかった。「聖観音」前から「山門」を見る。境内を出て山門を振り返る。この門柱に書かれている文字も、我が高校時代の友人Sさんから教えて頂きました。「百花至佛境 流水識禅心」ではないかと。心強い我がブログの「校閲」支援者が増えたのです。丘を登ると「湘南霊園」が広がっているとのことで上っていった。新しく整備された霊園中央には大きな地蔵が祀ってあった。「地蔵嘆喝(じぞうたんげ)」地蔵菩薩を讃え捧げる経文であると。優しそうなお顔。「◯地蔵」と。村岡の街並み。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.06.22
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この日は8月7日(金)、1ヶ月程前、東京都江東区の深川、両国地区の散策をし既にブログアップ済み👈リンクですが、この日はその東側の江東区大島周辺からJR亀戸駅までの散策に向かいました。この日も早朝の小田急線を利用し新宿駅に向かう。新宿駅から都営新宿線に乗り換え、「東大島駅」で下車。家を出てから約2時間で到着。「東大島駅」は「ひがしおおじまえき」とにごるのだと。1978年建設された駅、東京都江東区大島9丁目9。「東大島駅」のホームの窓から、「旧中川」と「東京都道・千葉県道50号東京市川線(新大橋通り)」に架かる「船堀橋(ふなぼりばし)」を見る。駅の出入口は川の両端(大島口・小松川口)にある。当駅は都営新宿線の急行通過駅では唯一の高架駅でもある。当駅と船堀駅の間は、極端なゼロメートル地帯である関係上、旧中川・荒川(放水路)・中川を跨ぐ高架となっている。まずは「旧中川」沿いを大島小松川公園(風の広場)に向かって進む。「旧中川」の上にある「東大島駅」を振り返る。前方右にある橋は「中川大橋」。この日は、雲一つ無い快晴、熱くなりそうであったが、帽子、マスクを着用し歩を進める。「旧中川」、「荒川」沿いにある「健康の道」案内板。「健康の道」は一周すると9530mあると。「中川大橋」を右に見ながら「大島小松川公園(風の広場)」を目指して進む。「大島小松川公園(風の広場)」案内板。東京都立大島小松川公園は、防災市街地再開発事業により、設置された公園。江東デルタ地域の東端に位置し、旧中川を挟んで江東区と江戸川区にまたがり、平常時はレクリエーションの場として利用され、災害時には20万人の 避難場所となる防災公園。スポーツ施設を中心としたスポーツ広場、わんさか広場、自由の広場、季節の広場(北側と南側)、そしてこの風の広場の五つのブロックがあるようであった。緑豊かな散策道を進む。左手にあった階段を上ると、目の前に現れたのが「旧小松川閘門(こうもん)」。閘門はロックゲートとも呼ばれるのだ。荒川と旧中川との水位差を調節して船を通行させる為の水門。小松川閘門は昭和5年(1930年)に作られ、昭和51年(1976年)には閉鎖されたのだと。最初に見た時は「こんな丘の上に水門?!」と思ったのだがこの水門は地中深く埋まっているようであった。「風の広場」の中央にある「旧小松川閘門」。風の広場のある高台は元々は平地であったが、残土処分場として土が積まれ、水路も埋立てられてしまったと。金網フェンスには雑草が絡まり、全景が見にくいのであった。堅牢な構造物。別の角度から。次の建設中の写真からするとゲート(水門)部分はほぼ埋まっていることが理解できる。全体の3割くらいしか見えていないのか??。建設中の写真をネットから。 【https://blog.goo.ne.jp/sa194520131207/e/0dd6a23a93e0b349c79c42f8b3bcc13d】からこれもネットから転載させて頂きました。 【http://sc2.s27.xrea.com/hobby/arakawa_komatsu/index.html】より 「旧小松川閘門(きゅうこまつがわこうもん)」この建物は、その昔、小松川閘門と呼ばれていました。閘門とは水位の異なる二つの水面を調節して船を通行させる特殊な水門のことです。川は、現在のように車などの交通機関が普及するまでは、大量の物資(米、塩、醤油など)を効率よく運べる船の通り道として頻繁に利用されました。ここは、その船の通り道である荒川と旧中川との合流地点でしたが、たび重なる水害を防ぐために明治44年、荒川の改修工事が進められ、その結果、水位差が生じて舟の通行に大きな障害となりました。この水位差を解消させるために昭和5年、小松川閘門が完成し、その後、車などの交通機関が発達して、舟の需要が減少し閉鎖に至るまでの間、需要な役割を果たしました。本来、この閘門は、二つの扉の開閉によって機能を果たしていましたが、この建物はそのうちの一つで、もう一つの扉は現在ありません。また、この建物も全体の約2/3程度が土の中に埋まっていて昔の面影が少ないのですが、今後、この残された部分を大切に保存して周辺地域の移り変わりを伝えるのに役立てる予定です。」そしてその横にあったのが、これも巨大なアート作品。安藤泉作 第27回UBEビエンナーレ(現代日本彫刻展)2017「ムー大陸よりⅡ」。「現代文明をはるかに上回る文明を築いていたと言われるムー大陸は、約1万2000年前に突然太平洋の海底に沈んだとされている。悠遠太古のムー大陸からの来訪者は現代の人類社会の現状を、どう評するのであろう。」風の広場から旧中川そして小名木川合流地点を見る。遠くに「東京スカイツリー」が見えた。そして「風の広場」を後にし、来た遊歩道を引き返し「中川大橋」を渡る。左下の旧中川の川岸に見えたのが「多目的スロープ (水陸両用バス発着場)」。その先に「平成橋(へいせいばし)」。この橋は1994年は(平成6年)に開通、旧中川で分断された江戸川区と江東区の往来を容易にし、防災拠点の避難路としても重要な役割を持つとのこと。長さ105mのアーチ橋。橋の先に「江東区那珂川番所資料館」の建物が。再び「東大島駅」を「中川大橋」から見る。旧中川の川岸の公園入口。「旧中川・川の駅」。「中川番所」から「旧中川・川の駅」へ江戸最初の運河・小名木川が開かれました天正18年( 1590 )江戸に城下町を作ることになった徳川家康は、江戸への物資の輸送路として、小名木川を開きました。江戸に通じる最初の運河です。下総国行徳産の塩を江戸へ運ぶために開いたとされていますが、以後米・醤油・野菜など多くの物資や人がここを往復しました。沿岸はしたいに町場となって、現在の江東区の原型が作られていきました。1661年(寛文元年)中川番所ができました利根川をはじめ関東各地の河川が整備され、「奥川筋」(江戸の奥)と呼ばれる水体系となりました。関東一円の「奥川筋」と江戸の運河がつながったことから、人やモノの動きをおさえるため、江戸幕府はこの地に、寛文元年( 1661 )中川番所を開きました。ここが、水路としての江戸への入り口になった瞬間でした。現代版の中川番所をコンセプトに「旧中川・川の駅」を整備この旧中川・川の駅は、かって江戸の入り口として舟運で賑わっていた、中川の風景を復活させることをコンセプトにしております。水陸両用バスが入出水するスロープや、カメー・カヤックなど、地元密着のウォータースポーツが利用可能な乗船場を整備しました。観光船や防災船着場など、多様な水辺利用の拠点として活用していきます。「名所江戸百景中川口」歌川広重江東区教育委員会蔵左下に番所の橋と川への石段が見られます。乗り合い船や材木の筏が行きかい、左上の新川(船堀川)にも荷船が見られます。」左下隅に中川船番所が見える。木材筏が進むのが中川(右方向が江戸湾に通じる)である。番所前には小名木川が流れる(右方向が 隅田川に通じる)。中川をはさんでその反対側は船越川となり、行徳方面へ通じる。「御江戸大絵図」( 1843年・天保14年)人文社江戸市中へ向けて直線に小名木川が流れています。隅田川を越えれば江戸初期からの経済の中心、日本橋本町周辺です。「江戸名所図会中川口」長谷川雪旦( 1836年・天保7年)江東区教育委員会蔵番所のなかには役人が着座し中川に面して穂先に覆いをかふせた10本の槍が立てかけられ、番所の目印となっていました。「水陸両用バス スカイダック」入出水場の写真がパネルに。基本的にはスカイツリーとかが出発ポイントで、ここは折り返し地点であるようだ。日の丸自動車興業(文京区)が、平成25年3月17日から定期運行(東京初)を開始した水陸両用バス「スカイダック」。ボディはアメリカ・サウスカロライナのCAMI社製で、日本の法律に適合した陸用・水上用のエンジンが別々に搭載されているのだと。 【https://05592134.at.webry.info/201305/article_5.html】より定員41名(乗務員含む)、総トン数12tで、最大速力は陸上が100km/h、水上が7kt(13km/h)。全長・全幅・全高は、11.99m・2.49m・3.71m。 【https://boatingintokyo.seesaa.net/article/387773988.html】よりそして渡って来た「中川大橋」を見上げる。再び「平成橋」を。「江東区中川船番所資料館」。大島9丁目1番15号の川っ淵にある資料館。番所のあった場所については。9丁目1番地と推定されていたが、平成7年の発掘調査において柱材や礎石などが出土したことにより、中川番所跡であることがほぼ確定した。資料館は、跡地より北に50mほど離れた場所に建てられている。資料館は、区から財団法人江東区地域振興会に管理運営を委託され、同15年3月22日に開館したのだと。①、「水運」の専門館として、区内を流れる小名木川と中川に接した場所に、江戸時代に設 置された中川番所を主軸に、関東・全国に広がる水運を利用した人・ものの交流や活動 の歴史を紹介する。②、地域に根ざした資料館として主眼を置くとともに、区内既設の資料館と連携を深め、資 料館ネットワーク化の一翼を担う。③、郷土の歴史の理解を促す資料館として、平成7年の発掘調査により所在が確認された中 川番所を、区民が郷土の歴史に親しみ、身近に感じる手がかりとする。④、釣具資料館として、区は、平成12年7月特定非営利活動法人東京釣具博物館から、和 竿など釣具の所蔵品5000点以上の寄贈を受け、これらの展示も行っている。江東区 の歴史を見ると、享保年間に刊行された釣りの本「何羨録(かせんろく)」には江東区 近辺の釣り場が詳細に案内されており、船番所近くはキス、タナゴ、ハゼなどの釣りの 名所であったことが記されており、釣りとの関係が窺えるのだ。開館は、原則月曜日、年末年始の休館日を除く毎日の午前9時から午後5時まで。江戸時代の中川船番所を再現した館内のジオラマ(1)を「ネット」👈リンクから。江戸時代の中川船番所を再現した館内のジオラマ(2)をネットから。【http://www.oceandictionary.jp/scapes1/scape_by_randam/randam16/select1674.html】から振り返ると右手が「旧中川 川の駅」売店。「中川船番所跡」中川船番所は中川関所ともいわれ。小名木川の中川北口にあり、江戸と下総国を結ぶ通船改めの役所だった。広さは東西26間×南北17間余だった。この関所は幕府が江戸を防衛するうえで、ここを出入りする船の取り締まりが必要だった。所謂「入鉄砲に出女」の取締まりだ。当初は隅田川口の万年橋際にあったが、寛文元年(1661)6月本所の掘割の完成に伴い、中川口へ移った訳だが、その年代は不明な点が多い。一説には延宝七年(1679)といわれる。その後関所としての機構が確立し、5000石以上の上級旗本3人が中川御番衆を命じられ、交代で任に就いた。寛文元年の「定」によると中川関所を通る際、乗船者は笠や頭巾などの被り物を取り、屋形船などは内部が見えるように戸障子などを開け放ち、女性は確かな証文があっても通行させなかった。また人が隠れていそうな持ち物や不振を感じさせる舟は全て止めて徹底的に改めた。船番所の広さは、文政六年(1823)の記録では、東西47間×南北30間とあり、明治維新まで存続した。建物のその後は不明だが、震災で倒壊したものと思われる。「中川船番所跡中川船番所は中川番所・中川関所とも呼ばれ、江戸と関東各地を結ぶ河川交通路上に設けられた関所です。寛文元年(1661)に、それまで小名木川の隅田川口にあった幕府の川船番所が移転したものです。建物は小名木川に面し、水際には番小屋が建てられていました。主に、夜間の出船・入船、女性の通行、鉄砲などの武器・武具の通関を取締るなど小名木川を通る川船の積荷と人を改めることを目的としました。また、中川対岸の船堀川から、江戸川・利根川水系へと延びる流通網の要として、江戸中期以降には、江戸へ送られる荷物の品目と数量を把握する機能も担うようになり、海上交通路上における浦賀番所(現横須賀市)と並び、江戸の東側窓口として重要な役割を果たしてきました。明治2年全国の関所が廃止されたのに伴い番所も廃止されました。平成7年に行なわれた発掘調査では、瓦や陶器片などの資料とともに建物の遺構が確認されました。」江戸後期の江戸図 「文政11年分間江戸大絵図」。図下方に中川が流れる(左端に江戸湾がある)。その中央に中川船番所がある。 小名木川は番所のすぐ脇の中川口から流れて隅田川へと通じる。そして小名木川沿いの「遊歩道・塩の道」を上流に向かって進む。全長約5kmの小名木川の護岸の耐震化対策を施された上部が塩の道として整備されていた。今では、川の両岸に江戸時代の石積みをイメージした護岸や和風の防護柵などが整備された塩の道という名の遊歩道が続いていたのであった。小名木川は、徳川家康が江戸入府( 1590年)後まもなく行徳の塩を江戸に運ぶために、小名木四郎兵衛に命じて掘らせたといわれます。当時の海沿いの湿地に掘られた小名木川は、内陸航路として、塩、米、食糧はもとよリ、多くの物資や人々を運ぶ舟運の動脈でした。当初、船番所を隅田川との合流点に設けて航行する船舶を監視しました(のちに船番所は旧中川との合流点に移転します)。明治期には、小名木川の舟運を利用して諸工業が発達します。沿岸にはセメント製造、化学肥料、精製糖工業、醤油製造をはじめとする大小の工場が建設されました。隅田川合流点近くにかかる、広重や北斎の浮世絵にも描かれた萬年橋の北岸には、松尾芭蕉が居を構えていました(近くに史跡展望庭園があります)。前方に最初の橋「番所橋」が姿を現した。「遊歩道・塩の道」から「番所橋」の袂に。案内図。先程訪ねた「風の広場」の階段の上の「小松川閘門」が見えた。「番所橋(ばんしょばし)」交差点。「小名木川」沿いの両側の「遊歩道・塩の道」には柳の並木が。そして所々に木製灯籠と休憩用ベンチが設置されていた。 ・・・つづく・・・
2020.08.15
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次「長福寺」を後にして、本堂前を境内墓地に沿って南に進むと三叉路があった。そこの少し小高い場所に庚申塔3基、馬頭観音と地蔵菩薩各1基、古い墓石2基が立っていた。右側から「青面金剛庚申塔寛政11年(1799)11月6日山伏角柱日月・青面金剛像(合掌・六臂)・三猿右側面「講中連名」・7人の名左側面「寛政十一己巳十一月六日」・8人の名」これも「青面金剛庚申塔享保13年(1728)12月8日唐破風笠付角柱日月(手持)青面金剛像(合掌・六臂)・三猿右側面「庚申講中 菱沼村」左側面「享保十三戊申天十二月八日」「馬頭観世音」嘉永七年(1894)。墓石であろうか。「三猿庚申塔延宝7年(1679)舟型「奉□就庚申」・三猿正面右側「延宝五天」」首の部分が補修されたと思われる「地蔵菩薩」。亨保十五年(1720)。一番左にあったのも墓石であろう。反対側にも石碑が。最近は道路整備などで多くの石仏が移設されているが、以前は四つ辻、三つ辻に立てられることが多かったのだ。道の辻は自ずと人が多く行き交う。昔の人はこのような所には霊魂・亡魂も集まると考えて、それらを鎮めるために石仏を建てたと民俗学では解説している。長福寺南のこの一画は、かつての石仏の祭り方を今もわずかに留めている場所。「双体神祇道祖神天明二年(1782)」オースティン・ニコルズ社が製造するバーボン・ウイスキーの「WILD TURKEY」の飲み掛け?の瓶が奉納されていた。そして茅ヶ崎市松林3丁目の路を進むと、大きな敷地の旧家が点在しているのであった。こちらは屋根瓦の付いた長い塀を持つ農家であろうか。そして「室田通り」に合流し、ここを左折。次に右折して「松林通り」を進むと水路の如き川が路地の先に現れた。近くに石碑群があった。「室田橋」と刻まれている石碑。その横に、道祖神が。文字道祖神茅ヶ崎市室田2-19。石仏。「昭和二年十二月落成」と。別の場所から右側に石碑群を見る。ここが「相模川左岸幹線用水路」・「千ノ川暗渠水路」の出口。地図上ではここから千ノ川が始まっているのであった。地図で千ノ川を下流へ辿ると小出川へ合流し最後は馬入川(相模川)へ流れ込んでいるのだ。相模原市南部の相模川から水を取り入れ、河口の茅ケ崎市域まで相模川東側の624ヘクタールもの広大な水田を潤すのが相模川左岸幹線用水路。用水と排水のネットワークで、太平洋戦争前の1940年(昭和15年)に完成し、今年で82年目を迎えた。そして次の目的地の「永昌寺」に向かって北に進むと右側にあったのがエッグダモンTOTO(株)室田寮。左手には楽器店「パプリカミュージック」。そしてスマホに従って進むと正面にあった石碑。「畜霊供養碑」と刻まれていた。廻り込んで「永昌寺」の山門へ。神奈川県茅ヶ崎市室田1丁目15−44。寺号標石「禅宗 龍澤山 永昌寺」。庚申塔群。「青面金剛像「文化5年(1808)6月板駒型月日・青面金剛像(羂索/人・六臂)・三猿右側面 3人の名左側面「文化五年 辰六月吉日」・4人の名」こちらも四臂青面金剛像か。地蔵尊。山門を潜り境内へ。正面に「本堂」。曹洞宗 龍澤山 永昌寺(りゅうたくさん えいしょうじ)。「本堂」に近づいて。扁額は「永昌禅寺」。歴代上人の墓地。建設中の納骨堂?内陣。反対側から。この幾何学紋は?輪宝紋に似ているが。「本堂」を斜めから。「山門」を境内から。「山門」横の石祠。「本堂」と「寺務所」を振り返る。寺務所を見る。「永昌寺」を後にして「室田通り」を北に向かうと竹林の中にあった神社。鳥居には「正一位」と。石祠。神奈川県茅ヶ崎市松林3丁目3−6付近。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.06.05
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【寒川町の寺社旧蹟を巡る】 目次この日は6月20日(月)、早朝に鵠沼の「はす池」を訪ねた後、茅ヶ崎駅からJR相模線で「宮山駅」で下車し、「寒川町の寺社旧蹟を巡る」の最終回に向けてスタートする。ホームから階段を降りた所に木造の駅舎が置かれていた。駅舎には自動券売機が1台設置。2014年12月26日まで営業していた出札窓口では、長距離乗車券なども発売していた。2016年2月21日より茅ケ崎駅の遠隔管理の下で無人化。無人化前は茅ケ崎駅が管理する業務委託駅(JR東日本ステーションサービス委託)であった。簡易Suica改札機が設置されている。「宮山駅」前の道路を南・「寒川神社」方向に向かって進む。右側の道を進む。ピンクのアジサイが迎えてくれた。右手にJR相模線の「台畑第一踏切」。この先の一軒の大きな民家のみの為?の踏切か。次に「台畑第二踏切」。そして前方に「目久尻川」に架かる「宮山橋」。「みややまばし(宮山橋)」。「めくじりがわ(目久尻川)」。この川の名の由来はいくつかの説がある。一説には、この川が座間市栗原にあった寒川神社の御厨(みくりや)のあたりから流れてくるために下流で「御厨尻川」と呼び、それが転じて「目久尻川」となったという。一方、海老名の伝承によると、昔この川に河童が住み着いて悪さをしていたため、地元の人々はこの河童を捕らえて目を穿り(くじり=抉り)取ってしまった、という出来事から、この川は「目穿川」と呼ばれるようになり、それが転じて「目久尻川」となったという。この伝承にちなんで、海老名市内の目久尻川に架かる「伊勢下村橋」👈リンク には河童の像があしらわれている。「目久尻川」の下流側。この先、平塚市内の相模川に合流する。上流側。先に見えるのが「寒川大橋」。歴史を感じさせる「宮山橋」碑。「宮山橋」を渡り終えると右手にあったのが「地蔵堂」。神奈川県高座郡寒川町宮山3812−2。社殿の前、右側にあったのが「道祖神」。社殿の前、左側にあったのが「庚申塔」。「双体道祖神」。左側の二基の石碑。左の石碑には「安政」の文字が確認できた。「縁起地蔵堂内にニ体の地蔵立像がある。地蔵は一般的に安産、育児、信仰の願いをきいて下さるという。この地蔵も「子育て地蔵」として広く崇敬されており、年ニ回の地蔵講には講中が集まり、町内の子供たちもお詣りをする。道祖神道祖神は、村内に疫病なとが入らないように祀ったもので、他に、交通の神、夫婦和合の神ともいわれる。ここにあるのは文政十一年(一ハニ九)に建てられたもので、一月十四日には団子焼きを行っている。庚申塔庚申の日に徹夜をする習俗を庚申講、庚申待などというが、この講中で建てる石塔が庚申塔である。この塔は嘉永元年(一ハ四ハ)に雷の人々が建てたものである。「右なんご 左あっ木・ハ王子」と刻まれ、道標も兼ねている。馬頭観世音人のために働いた牛馬の供養や、無病思災を願って造立するもの。これは天保十三年(一ハ四ニ)に建てられた。雷の歴史宮山は七つの町内で構成されており、雷はその一つである。南湖よりハ王子へ向かう道が町内を抜けている。寒川神社の社人のうち数軒がここにあり、その家系は天正年間以来、四百年余り続いているといわれ、他の家も同社を崇敬してきた。明治ニ十年頃までは祭礼の時に山車を曳いたといい、その頃の戸数はニ十一戸ほとであったという。大正年間には十三戸に減ったが、平五年一月現在、六十戸を数えるようになった。(昭和五十ニ年三月ニ十四日、寒川町老人文化教室雷グルーフ・皆川起司・金子潔之氏作成の文章をもとに作成した。)」堂内のニ体の「地蔵立像」。「宮山橋」、「寒川大橋」を振り返る。さらに南下すると右手に見えたのが「寒川神社」の「参集殿」。「八重紅枝垂」桜も花を終え新緑豊かに。前回、訪ねた時には満開だった「八重紅枝垂」。そして「寒川神社」の太鼓橋「神池橋」、「三の鳥居」の前から。「神池」の噴水の先には「石橋(しゃっきょう)」が。「寒川神社」👈リンク 内の散策は前回に済ませたのであった。南下すると右手にあったのが巨大な「目久尻川水道管」。横浜・横須賀水道局連名の標語。「限りある水を大切に! 横浜市水道局 横須賀市上下水道局」と。横須賀水道共同施設「寒川取水事務所」で取り入れた水道原水を「小雀浄水場」へ送る導水管。支間長38.5m、口径200cm。銘板が貼ってあった。「目久尻川水管橋 横浜市水道局 昭和39年1月竣工 三菱日本重工業 横浜造船所製作」。共同施設ですが設計施工は横浜市水道局が担当した と。昭和39年と言えば前々回の東京オリンピックの年。その横にあったのが「たんごばし(端午橋)」。橋の袂・東側にあった石碑群4基。一番右の石碑には「◯明橋」と。昔の名前なのであろうか?それとも移設されたもの?庚申塔であろうか?下部に三猿の姿?が。享保7年(1722)の銘。石祠。道祖神碑。「寒川神社参道」バス停近くにあった巨大な「石灯籠」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.07.22
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境内のソテツの木と狛犬を見る。龍の絵と「叶」の文字の絵馬。「老山福壽稲荷社」享保11年(1726)2月勧請。旧西浦賀村宮下店住民。御祭神:宇迦之御魂命(うかのみたまのみこと)。横須賀市 西浦賀1-1-13。「正一位 老山福壽稲荷社」。内陣。神輿が奉納されていた。その隣にも、小さな社・「武雄神社」があった。弘化元年(1844)5月勧請。旧西浦賀村田中住民尾島善四郎心願成就の為。その前にあったのが「大廟参拝記念」と刻まれた石柱。石段脇の石柱には、中央に「金毘羅大権現」、右に「秋葉大権現」、左に「老山 福寿稲荷大権現」と刻まれていた。石段の途中、左には石碑と石仏が。石碑にズームしたが判読不可。本殿を見る。石鳥居の先にも境内社があった。横須賀市西浦賀1丁目1−13。1つの小社の中に4柱の境内社がお祀りされていた。右から「淡島神社」。享保9年(1724)安産・医薬の神として勧請。御祭神は、大名持命、少名彦命。左隣に「大鷲神社」。元鎮守と称し、「叶神社」創立前に勧請されたと言われている。御祭神は、日本武尊、弟橘比売命、天之日鷲翔命。左隣に「三峰神社」。明和7年(1639)旧浦賀町商人諸廻船海上安全の為に勧請。御祭神は、伊邪那伎命、伊邪那美命、日本武尊。一番左に「船守稲荷神社」。元文4年(1739)浦賀港に出入りする船の航海安全を祈念して勘定された。御祭神は、宇迦御魂命。 池と石鳥居の姿が眼下に。更に奥に、本殿の横には真新しい石の鳥居があって、扁額には「福寿辯財天」と。扁額「福寿辯財天」。「福寿辯財天 文政六年(一八二三) 創建」鳥居の奥には、池があり、その奥の擁壁の下に穴祠があり、そこに弁天様がお祀りされているようであった。穴祠をズームして。句碑であっただろうか?池には鯉が。再び拝殿前に戻り、見事に枝を伐採されたイチョウの老木を見る。イチョウの老木を見上げて。一段下がった場所にあった「社務所」前から「西叶神社」の拝殿・本殿を見上げる。「社務所」。「社務所」の白壁にも見事な彫刻が。社務所玄関欄間壁の「鏝絵(こてえ)」。左官職人が、土蔵などの壁の仕上げに鏝(こて)と漆喰(しっくい)で作り上げたレリーフを鏝絵と呼び、江戸時代の中頃から数多く作られ、浦賀にも数点が残されています。干鰯問屋(ほしか)と廻船問屋で栄えた浦賀には、土蔵造りが盛んであったことから漆喰壁を塗る左官職人も多く、中でも川間(西浦賀)に住む石川善吉は「三浦の善吉」として「伊豆の長八(入江長八)」とともに、全国的に知られる漆喰細工の名人でした。浦賀には善吉とその息子吉蔵(9代目)、梅尾(10代目)の作品が残っています。また、岩田辰之助、岩田徳太郎兄弟の作品も残っています とネットから。司馬温公は中国北宋の人。ある日、友人と遊んでいる時、友人が誤って瓶の中に落ちたのを、温公が直ちに石で瓶を壊したという故事を、二間にわたって表したものである。昭和5年(1930年)に社務所建立の際、石川善吉が制作したという。左側には水瓶を割る子。右側には割れた水瓶より流れる水の中から童子が顔を覗かせ、助けられた一瞬の出来事を漆喰で表現しています。ふっくらした丸い顔、いきいきとした漆喰細工は、名人「三浦の善吉」の装飾壁の傑作です と。珍しい色彩のアジサイ・紫陽花の花が既に開花。近づいて。碇もあった。「奉納 碇海洋画伯 飯塚羚見は東京湾特に、浦賀港出人船舶の水難除け・航海安全を願って奉納」「明治天皇駐輦(ちゅうれん)之跡の記念碑」。「明治天皇駐輦(ちゅうれん)之跡の記念碑明治天皇 明治十四年五月一八日観音畸に行幸の際 当叶神社境内に御滞在御休憩せられし御跡の記念碑です文字は当時陸軍大将にして後に明治神宮宮司の一戸兵衛氏の揮亳です」その奥の一段上がった場所にあった石碑群。庚申塔群。神職の先祖代々の墓・「感見家之墓」と。叶神社の神主が1868年の神仏分離前に僧侶だった感応院から「感」を使用したと伝える と。再び本殿前脇から「社務所」を見ながら、「西叶神社」を後にして次の目的地の「東福寺」に向かったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.05.02
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ソメイヨシノの桜が満開となっていますが、我が家の庭のニワウメも負けじと満開を迎えています。樹高は100センチから120センチくらいで棒立状態の小型樹木。ピンク色の小さな花が愛らしい。花は直径2cm以下と小さく、5弁花でピンク色。 花が密集して咲いています。かなり古い時代に中国から渡来した落葉低木。春に葉が出る前に花を咲かせ,夏に赤く熟す果実は,直径が 1 センチほどで小さいですが,食べられるのです。
2014.04.06
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この日・6月12日は、都内に行った折、足を延ばして堀切菖蒲園(ほりきりしょうぶえん)を訪ねました。堀切菖蒲園は、東京都葛飾区堀切二丁目にある葛飾区所管の公園(植物園)。花菖蒲の名所として知られ、京成電鉄 「堀切菖蒲園」駅から徒歩約10分。駅前の線路沿いにある商店街を歩く。『2019葛飾菖蒲まつり』ポスターが期間:2019年5月27日(月曜日)から6月16日(日曜日)まで行われていた。案内に従い、堀切菖蒲園に向かって進む。『2019葛飾菖蒲まつり』の催し物案内ボード。更に商店街を進む。途中、アジサイも美しく咲いていた。青の美しいガクアジサイ。民家の庭にはウチワサボテンの黄色い花が。堀切二丁目緑道に咲いているアジサイを楽しみながら進む。この日が色のピークか?白のカシワバアジサイ。花の細かいアジサイ。青のガクアジサイ。そして『堀切菖蒲園入口』に到着。戦前まで、堀切には武蔵園・吉野園・観花園・小高園・堀切園などの菖蒲園があった。昭和34年(1959年)堀切園を東京都が購入、東京都立堀切菖蒲園として公開。昭和50年(1975年)葛飾区に移管され、現在に至る。貴重な江戸系花菖蒲を中心に200種6000株の花菖蒲が植えられており、見ごろは、この日の6月の中旬。堀切菖蒲まつりの期間は、地元住民・商店街・行政等による運営協議会によって、パレードなどのイベントが行われるのだと。また、公園内には食事(予約制宴会)ができる集会施設「静観亭」がある。堀切菖蒲園 案内図。「堀切菖蒲園」の歴史。・始まりには二説ある。 ・室町時代、堀切村の地頭久保寺胤夫が家臣の宮田将監に命じ、陸奥国郡山の安積沼から 花菖蒲を取り寄せて栽培を始めた。 ・江戸時代百姓の小高伊左衛門が趣味で各地の花菖蒲を集めて庭で栽培したのが始まり。・江戸時代には「江戸百景」に数えられ、名所案内や紀行文、鈴木春信、歌川広重の浮世絵に 登場する。・戦前まで、堀切には武蔵園・吉野園・観花園・小高園・堀切園などの菖蒲園があった・1959年東京都が堀切園を購入、東京都立堀切菖蒲園として公開。 1975年葛飾区に移管され、現在に至る。歌川広重「名所江戸百景」の第56景となる「堀切の花菖蒲(ほりきりのはなしょうぶ)」。前景を大胆に配した広重独特の構図で、ファンに人気の高い作品。「名所江戸百景」は、ゴッホやモネなどに影響を与たことで知られる浮世絵師・歌川広重(うたがわ・ひろしげ)の傑作シリーズ。 安政3年(1856年)から5年にかけて、最晩年の広重が四季折々の江戸の風景を描いた。大胆な構図、高所からの見下ろしたような鳥瞰(ちょうかん)、鮮やかな色彩などを用いて生み出された独創的な絵は、世界的に高い評価を得ている。園内に入り菖蒲園の散策開始。「この1番は今年3年目で、株分けの圃場です。」株にはそれぞれ花の名前が表示されていた。白に紫の縁のある「長生殿(ちょうせいでん)」。白の花菖蒲「沖の波」。ズームで。一面に色彩豊かに咲き誇っていた。「この2番は今年2年目の圃場です。」「この3番は今年3年目の圃場です。」『花菖蒲の系統』。ハナショウブはノハナショウブの園芸種である。6月ごろに花を咲かせる。花の色は、白、桃、紫、青、黄など多数あり、絞りや覆輪などとの組み合わせを含めると5,000種類あるといわれている。系統を大別すると、品種数が豊富な江戸系、室内鑑賞向きに発展してきた伊勢系と肥後系、原種の特徴を強く残す長井古種の4系統に分類でき、古典園芸植物でもある。他にも海外、特にアメリカでも育種が進んでいる外国系がある。「この6番は今年2年目の圃場です。」 ・・・つづく・・・
2019.06.28
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ーーが(その13)の散策ルート。『山手十番館 / 仏レストラン&カフェ』。横浜 外人墓地を臨む山手の丘にある異国情緒あふれる小さな洋館。昭和42年(1967年)明治100年を記念して建てられた「山手十番館」。向かいには日本で初めてビールを醸造したウィリアム・コープランドが眠る外国人墓地があり。結婚式も出来るようであった。横の庭には緑豊かな西洋庭園に客席を設け、ガーデンBBQと共に歴史を感じながらビールを味わえるビアガーデンが。そしてその隣にあったのが『山手資料館』。山手資料館の前庭はバラ園として設えられていたが、バラはほぼ終わっていた。山手資料館は、明治42年に建造された、横浜市内に残る唯一の「和洋併設型住宅」木造西洋館。館内には、チャールズ・ワーグマンのポンチ絵や、ジェラールの西洋瓦等、文明 開化当時をしのばせる展示品など、居留地だった頃から関東大震災までの横浜や山手に関する資料を展示。横浜市の歴史的建造物に指定されている。牧場主として財を成した中澤兼吉の和洋併設住宅のうち、洋館部分だけを1977年(昭和52年)に移設したとのこと。この移設には人気レストラン「山手十番館」のオーナー、故・本多正道が携わっており、この山手資料館は山手十番館の敷地内にある。『山手資料館』建物は明治期に建てられたもので、明治期の木造西洋建築物としては横浜に遺された唯一のものとして知られる。内部には横浜開港期を偲ぶ様々な資料が展示されている。建物の脇には『クリーンベンチとガス燈』が。明治初年、米国よりグリーンベンチが横浜共立学園に送られ「伝道のイス」と呼んで親しまれました。ガス灯は明治5年、横浜・馬車道に初めて点灯されました。庭園内の2基のガス灯は当時のガス灯を復元したものです。ガス灯には灯が灯っていた。山手本通り側から見る。『横浜山手聖公会』。横浜山手聖公会は、文久3年(1863年)に横浜に居住する英米人のために設立された、開国3番目のキリスト教会。創建当時の教会堂は現在の中華街近くにあったが、明治34年(1901年)に現在地に赤レンガ造りの聖堂が建てられた。『横浜山手聖公会』と書かれたプレート。この聖堂は関東大震災で失われ、現在の建物は、昭和6年(1931年)にアメリカ人建築家のモーガン氏の設計で、大谷石造りの聖堂として再建されたものが母体となっていると。2005年1月に放火により大きな損傷を受けたが、同年11月に設計当時の形で美しく蘇った。横浜市認定歴史的建造物に指定。塔の各面に3つづつ並ぶ窓枠は大谷石を蝋燭形にしてある。『自働電話』。エリスマン邸から山手十番館に行く途中にある、灯台のようなレトロな電話ボックス。電話100年を記念して、1990年に設置された公衆電話。公衆電話が初めて設置された当時は、『自働電話』と呼ばれていたと。『山手234番館』。1923年9月1日に発生した関東大震災では横浜の多くの家屋が失われ、山手も瓦礫の山と化した。駐留していた外国人は神戸市や上海など他の都市に移り住む者が相次ぎ、震災前に7650人いた外国人は、震災の翌年には2156人まで減少した。横浜市では外国人に市外から戻ってきてもらうべく、復興事業として山手や根岸に市営住宅を建設した。山手234番館も、市営ではなく民間の事業であるものの、こうした外国人向けの集合住宅の一つである。竣工は1927年で、第二次世界大戦後の占領軍による接収を経て、1980年ごろまで外国人向けアパートメントとして使用された。1989年に、景観の保全を目的として横浜市が建物を取得。1997年より保全改修工事が行われ、1999年より一般公開されている。1999年には横浜市認定歴史的建造物に選定されている。『えの木てい 本店』。山手外国人墓地を過ぎたところにある「えの木てい」。昭和2年(1927)日本人建築家 朝香吉蔵氏が設計した英国式洋館で、アメリカ人検事が暮らしていた。昭和45年(1970)現オーナーのご両親が自宅用として購入。西洋館のリビングを、そのまま喫茶店として利用しています。木製の上げ下げ窓や暖炉をそのまま残したリビングは、当時の面影を残しています。看板商品はチェリーサンド、店舗自慢のテラス席からは目の前に広がるローズガーデンに咲き並ぶ様々な薔薇を眺めながら優雅なティータイムを楽しめると。『エリスマン邸』。スイス人貿易商フリッツ・エリスマンの邸宅として、1925年から1926年にかけて、山手127番地(現在地より南東に400mほどの位置)に建設された。設計はチェコ出身の建築家アントニン・レーモンド。エリスマンの没後は数度所有者が変更となり、第二次世界大戦の被害を免れたものの1982年にマンション建設のため解体された。歴史的価値を見出した横浜市は部材を買い取り、1990年に元町公園内に移築・復元した。2001年には横浜市認定歴史的建造物に選定されている。地上2階・地下1階建の木造建築で、施工は清水組。1階は応接間や台所、居間兼食堂、2階は主に寝室や浴室として使われていた。移築前は和館が併設されていたが、部材が残っておらず復元されなかった。屋根の勾配を緩くし、1階と2階の間に庇を設け、水平性を強調する意匠とした。外壁は、1階は垂直方向の堅羽目板張り、2階は水平方向の下見板張りとして変化を付けている。2階の2か所に壁面を後退させてバルコニーを設け、寄棟造の屋根を雁行させて単調な直方体とすることを避けた。窓など開口部は大きくとられ、青緑色の鎧戸が設えられている。全館にスチーム暖房が採用されていたが、施主のリクエストにより応接間に暖炉が設けられた。エリスマンの妻が日本人であったことから、浴室とトイレはそれぞれ独立した造りになっている。建物の横の塀には、『エリスマン邸』の案内板が。『横浜雙葉中学高等学校』校門。この建物は重厚感溢れるものだが、山手の雰囲気とはちょっと違う?エンタシスの柱が至るところに。『ベーリック・ホール』への入口門。『ベーリック・ホール』。イギリス人貿易商バートラム・ロバート・ベーリックの邸宅として、1930年に建設された。設計はアメリカ出身の建築家・H・モーガンで、山手111番館と並び彼の住宅建築の代表作の一つ。ベーリックの没後はカトリック・マリア会に寄贈され、同会の運営するセント・ジョセフ・インターナショナル・スクールの寄宿舎として使用された。「ベーリック・ホール」の名称は、マリア会の命名によるものである。2000年に同校が閉校となったのちは横浜市が敷地を取得し、建物も市に寄贈された。元町公園の一部として整備が行われ、2002年より一般公開されている。2001年には横浜市認定歴史的建造物に選定されている。地上2階・地下1階建で、地下は鉄筋コンクリート構造、地上部分は木造である。山手地区に現存する、戦前からある住宅としては最大規模。スパニッシュ様式で、クリーム色の壁やオレンジ色のスパニッシュ瓦、アーチ型の玄関ポーチ、クワットレフォイル(英語版)と呼ばれる窓の様式などに特徴が現れている。1階は応接間や食堂、居間とこれに続くパームルームなど、2階は主に寝室として使われていた。食堂と居間には暖炉、横浜港を見渡せるよう北側に作られたパームルームには獅子頭の壁泉が設えられている。2階は主人・婦人・子息と来客用の寝室、それぞれに附属する浴室が設けられている。3連アーチや煙突が印象的な外観と、和洋様々な手法を取り混ぜたインテリアは、建築学的にもたいへん大きな意味を持っているのだと。『横浜ユニオン教会』。1859年10月以来、ジェームス・カーティス・ヘボンが神奈川の成仏寺で合同礼拝を行っていた。横浜で1866年以来合同礼拝が行われ、1871年9月から1872年8月の間に教会として組織された。最初、山手町のアメリカン・ミッション・ホームで行い、次にゲイティ座で行われた。1875年から日曜日の午後に日本の教会を借りて行った。1888年に最初の専任牧師の聖公会の祭司ジョージ・ミーチャムが就任する。1889年から、1907年までユージーン・ブースが奉仕をする。1910年山手町で礼拝堂を建設するが、1923年に関東大震災で倒壊する。現在と同じ場所の、山手町66に再建する。太平洋戦争中は米軍の空襲により完全に破壊される。戦後、進駐軍のチャペル・センターにより礼拝出席者が減少した。1960年代にフェリス女学院礼拝堂で行われた合同礼拝により横浜ユニオン・チャーチは再建された。以前は大きな駐車場で会った場所は更地に。なにが建つのであろうか?『代官坂上』「YAMATE LINER」こと神奈中11系統は、横浜市営バスから引き継いだ路線である。茶色とクリーム色のカラーリングを纏い「YAMATE LINER」のロゴが付いたいつもの神奈中バスとは異なる専用塗装車。『末日聖徒イエス・キリスト教会 山手ワード』大正10年(1921年)に建設され、横浜市指定文化財でもある旧露亜銀行横浜支店の建物(イギリスの建築家バーナード・M・ワードの設計)をリニューアルし、平成23年(2011年)9月に、生演奏の音楽やオルゴールセレモニーなどの音楽の演出ができる結婚式場「la banque du LoA(ラ・バンク・ド・ロア)」としてオープンしている。1830年アメリカ合衆国にてジョセフ・ スミス・ジュニアによって立ち上げられたキリスト教系の新宗教であり、通称モルモン教といわれる。山下町・音の教会と詠っている。末日聖徒イエス・キリスト教会の塔。記念レリーフの銘文。『日本郵船山手クラブ』。日本郵船株式会社は、1885年9月29日に創立された船会社である。三菱財閥の中核企業であり、三菱重工とともに三菱グループの源流企業である。1893年12月15日に株式会社となった。日本の3大海運会社の一つであり、戦後の株式特定銘柄12社の一つでもある名門企業。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.09.27
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次先に進むと右手の筋角に『新善光寺道道標』と明治24年(1891)の『常夜燈』が建っていた。 先にあった『新善光寺道道標』より大きく、道標には 「是より一町餘」 と刻まれ、傍らに新善光寺300mの道路標識があった。『新善光寺道』(左)、『是より一町餘』(右)、『為浄徳妙蓮菩提 施主今里村中』(裏)と刻まれた道標。明治24年(1891)の『常夜燈』。『新善光寺』への道。草津線を渡り進むと、この角から300m程で『新善光寺』へ。旧東海道はこの先の突き当りを左折。先に進んでY字路を右に進むと、左手に『法界寺 地蔵院』があった。「重要文化財 木造地蔵菩薩立像 明治33年4月7日指定 福正寺(法界寺)法界寺の本尊である当像は、僧形の丸い顔で、半眼・閉口し、衲衣の端を右肩に懸け、偏衫と裳を着けて直立する。 現状では右手に錫杖、左手に宝珠を執る。像高96.5㎝ヒノキの一木造。平安時代(10世紀)ころの作とみられる。 ここ六地蔵の地名となった六躯の地蔵像の一躯であると伝わる。」『地蔵院 山門』。大正15年(1926)の『国寶 地蔵尊』碑。『地蔵院(旧法界寺』ごあんない』「当院は奈良時代(聖武天皇)の天平6~7年(734~735年)頃「陀羅尼寺」として創立。その後戦火等で焼失。寛永16~18年頃(1639~1641年)現在地に法界寺地蔵堂として建立された。昭和初期まで尼寺でした。昭和53年8月地蔵院を新築し今日を迎える。本尊の地蔵菩薩立像は平安時代に造られたもので、像高96.5cm、重要文化財に指定されている。『近江興地志略』には地蔵堂六地蔵村にあり。「相伝往古は六体ありと、今僅かに一体存す、長尺三尺三寸、行基菩薩の作なり」とある。」『地蔵堂』。地蔵堂に掛かる『地蔵尊』の扁額。『昭和御大典記念碑』。昭和3年(1928)の昭和天皇即位を記念した御大典記念の碑。『昭和御大典記念碑』のご案内。昭和天皇が即位した御大典の記念事業として建設。朱の鳥居の先には『白龍稲荷大神拝殿』そして内部には『本殿』が。こちらは『愛宕神社』『愛宕神社』の内陣。愛宕さんと呼んで、観しまれている愛宕神社のこの建物は、それ迄のお社が雨漏り等老朽化した為、平成8年8月に新築されました。(鳥居は朽ちて取り外し)。愛宕さんとは、京都に有る山で、山頂(標高924m)に愛宕神社が祀られています。旧称は、阿多古神社。京都の愛宕神社は、全国に約900社を数える愛宕神社の総本宮として京都の愛宕山上に鎮座され、古くより火伏・防火に霊験のある神社として知られています。愛宕の神とされるイザナミは神仏習合時代には、勝軍地蔵を本地仏とし、火産霊命(かぐつち・ほのむすぴ)が祭神とされていました。これ等から、現在でも愛宕さんの縁日は、地蔵さんと同じ毎月24日です。勝軍地蔵を本地仏としたことから、火伏せの神としてだけでなく、武神としての信仰もされてきました。愛宕神社の御祭神は、本社雅産日命(生産水の神)、埴山姫命(土の神)天熊人命(稲司の神)、豊受姫命(五穀の神)、若宮社雷神・伽俱槌命(火の神)、大國主命以下17柱の神々に防火、火伏、鎮火の神としてお護り頂いている愛宕神社のご神体をお祀りし「愛宕講」と呼ばれる講も組織されてきました。六地蔵民は、冬期には山仕事が主になる為、山を火災から守る大切さは肌身に沁み込ませており、更に、家族がよりどころとする家を火災から守ることは、戦の六地蔵大火での恐ろしさも冷めやらずその上落雷も多く有って、火事を起こさない事、延焼させないことは、最も肝要な事でした。当地六地蔵では室町時代(1336~1573)中頃、法界手{現地蔵院・当時は130m北側・JR草津線の走っている所}を陣所に、足利九代将軍側と六角佐々木軍側との大きな戦いがあり六地蔵大火(1487)と呼ぱれる戦災大火があり、法界寺や六地蔵村・隣の今里村は壊霞的戦禍に遇しました。(時は12月・この頃の家は、わら屋根・おくどさんの傍や、家の周囲には 冬の寒さしのぎで、山からの枯れ木や木の葉、田のわらが積まれていた)年代はまだ未確定なれど、小宇野田口道への始点で、山へ行く道筋の入口である葉山川堤防道口、里道との分れとなる、ぜさいや横の角地に、村を火災から守る事は重要な課題で、巨石のご神体が愛宕さん信仰として祀られていた。江戸時代の末期、法界寺中興の祖義陽尼が病で寂され、法界寺は無住職。時代は、直ぐに明治となり新政府方針で、廃仏毀釈が推進(住職や檀家の無い寺は取り壊し、神杜があれば免除)の為、庄屋・年寄・地元民は対策に苦慮し困感するも、愛宕さんを地蔵院へお移しし、神社である事が一目で判るようお社と鳥居を建て、更にお稲荷さんを祀る事で確実に法界寺・地蔵菩薩様・観音菩藍様・諸佛様を御護りし、明治の廃仏殺釈の波を乗り越えてきました。(愛宕さんに移座頂いた後地には、戦禍等で長年ハゲ山だった日向山を私財で明治期に全山松苗を寄贈、今の緑豊かな山・保水の山になった大恩人)のお名前 塚本定右衛門様の顕彰碑を滋賀県が建立、後世にその功績を残す碑があります) 地区民は毎年、当番家を決めておいて。当年度役の家・来年度役の本を持ち廻り順番で、八月二十四日に愛宕さんへのお供え物を欠かす事なくされてきた。役の当たらないお家や自治会も、愛宕さんにご献酒・スルメや野菜、菓子等のお供え物をし、夜には献燈して、日頃の感謝を込めてお祀りしてきました。地蔵院境内へ愛宕さんがお移りあって、宿場所も本堂で行なえ今迄にない団欒も出来、楽しい一日(平成二年迄は毎月二十四日、家廻り順で百灯の燈火を点けていました、硯在は、神事の日のみ点燈)・・お供え物は今も続く。※当地、愛宕さんにも、火伏の神花である樒が有ります。一葉を摘まんで持ち帰り、竃(火元の上部棚)等にお供えし、お祀り下さい=防火の御まじない。(神社ですので、お榊も植えられています。お社の左前と後方に植栽されています)」旧東海道に戻るとここにも旧家が。水路を過ぎた左手に浄土宗の『日向山 印松院 浄玖寺』があった。『浄玖寺』は、天正13年(1585)定玖の開基であり、境内には一石六地蔵尊、男女双体道祖神などがある。『浄玖寺 山門』。『鐘楼』。「六地蔵像地蔵菩薩の像を6体並べて祀った六地蔵像が各地で見られる。これは、仏教の六道輪廻の思想(全ての生命は6種の世界に生まれ変わりを繰り返すとする)に基づき、六道のそれぞれを6種の地蔵が救うとする説から生まれたものである。六地蔵の個々の名称については一定していない。地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人道、天道の順に檀陀(だんだ)地蔵、宝珠地蔵、宝印地蔵、持地地蔵、除蓋障(じょがいしょう)地蔵、日光地蔵と称する場合と、それぞれを金剛願地蔵、金剛宝地蔵、金剛悲地蔵、金剛幢地蔵、放光王地蔵、預天賀地蔵と称する場合が多いが、文献によっては以上のいずれとも異なる名称を挙げている物もある。像容は合掌のほか、蓮華、錫杖、香炉、幢、数珠、宝珠などを持物とするが、持物と呼称は必ずしも統一されていない。」と別のネット情報より。『一石六地蔵尊』。『浄玖寺 本堂』。本堂に掛かる『日向山 印松院』の扁額。『旅立ちの法然様』像。「十三才御姿 父の遺言を胸に最愛の母と別れ比叡山へ旅立たれる幼名勢至丸さま」。続いて右手に真宗大谷派の『高野山 福正寺』があった。『福正寺』の創建年代は不詳であるが、寛政2年(1461)蓮如上人に帰依した住職・正善が浄土真宗に改宗し、その後の大谷本願寺の破却 「寛政の法難」 で逃れた蓮如上人は一時、福正寺に逗留しているのだと。左手参道入口に『蓮如上人御舊跡碑』、右に『真宗大谷派 福正寺』寺標。『福正寺 山門』。『蓮如上人御像』。『常夜燈』。『福正寺 本堂』。『本堂』前にあった『石造多層塔』。「石造多層塔当寺は真宗寺院であるが、元は金勝寺二十五別院の一つ多喜寺の一院で六地蔵を安置していたと言われ、寛政2年(1461)僧正善の時に本願寺蓮如の教化に帰して真宗道場となり、後に親鸞の弟子円鸞が開いた松原興敬寺の配下に入ったと伝えられる。当寺にある層塔は、塔身に四方仏を配し本来九層塔であったと思われ、笠の第4・6・7層と相輪部が失われているものの、鎌倉時代末期の美を今に伝える貴重なものである。」本堂前の枝を広げた見事な枝振りの松。『福正寺』を出ると街道が右にカーブしたところに『史跡旧和中散本舗(大角屋)』が。ここ六地蔵には江戸時代、旅人のために道中薬を売る店が数軒あり、大角家は、その中で和中散という薬を売る「ぜさいや」の本舗として栄えました。薬を売るだけでなく、草津宿と石部宿の「間の宿」として、公家・大名などの休憩所も務めたといいます。和中散という名は、徳川家康が腹痛を起こしたとき、この薬を献じたところ、たちまち治ったので、家康から直々付けられた名前といいます。ここ六地蔵には江戸時代、旅人のために道中薬を売る店が数軒あり、大角家は、その中で和中散という薬を売る 「ぜさいや」 の本舗として栄えたのだと。手前に『史跡舊和中散本舗碑』が建つ『表門』。『史跡 旧和中散本舗』。「国指定名勝 大角氏庭園平成一三年一月二九日指定書院の南庭(離れ家の西庭)である。 正面に芝生張りの大小の築山を配し、背後にツバキ、カエデ、ヒサカキ、カナメモチ、アオキ、マキ、ネズミモチ等の混植の生垣を仕立て外部との仕切りとしている。 背後の日向山を借景とし、築山上からは三上山が眺望できる。 築山の西部に滝石組があり、山裾の東西に細長い池に注ぐ。水は、葉山川から取水していた。 池の護岸は石組でめぐらし、池中には中島と平天の浮石があり、東部には切石橋を設け、築山へ渡れるようになっている。 ただし、中島は明治の後設とされる。建物に沿って大小の飛石を打ち、沓脱石から池畔や石橋へとたどることができる。」小堀遠州作という言い伝えがある池泉鑑賞式庭園の本庭には、東海道という連続した旅情の一場面を切り取った庭という趣が感じられるのだと。『根本梅木 本家 ぜさい』の木製吊り看板。ここが店内への入口であったが、見学は予約制のようで『旧和中散本舗(大角屋)内部』👈リンク に入れなかったのでご興味のある方はリンクにアクセス願います。街道の反対側には『大角屋隠居所』隣に建つ『薬師堂』が。左の塀が見える家が『大角屋隠居所』である。「大角屋住宅隠居所隠居所は、真向かいの本屋が本陣として使用されている間、家族の住居に当てられた建物で、江戸時代中期に主屋に引き続いて建てられたと考えられる。その後、所蔵文書より十数回にわたり小修理が行われたことが明らかで、昭和46年には半解体修理が行われ、玄関屋根や台所部分等が復原整備された。建物は床と付書院を備えた6畳の座敷の南に4畳間を並べ、その奥に仏間と奥の間の4室を配した東西棟に、式台付玄関、台所、土間を配した南北棟がT字形に接続している。この建物は、屋根が二重で、入母屋破風が多く、本瓦葺のため、重厚な外観を呈しており、玄関及び座敷廻りには彫刻欄間を入れる等、江戸時代の豪華な住宅建築の好例であり、貴重である。」『薬師堂』の奥に、先程訪ねた『福正寺』の鐘楼も再び見えた。『旧和中散本舗』、『大角屋庭園』が5月末の土、日を中心に『特別公開』される予定であるとのことであったが・・・・。新型コロナウィルスの影響でどうなるのであろうか?やはり中止。ここは『栗東八景』の『積日の街道と城壁~深緑の日向山と和中散~』の場所であると。漢詩碑があるのが『栗太八景』であり、紛らわしいのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.05.09
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そして「大杉神社」の裏の駐車場に車を駐め散策開始。時間は7:45過ぎ。「大杉神社」は厄除け(やくよけ)祈願神社・金運神社であるので、今年の「厄」情報詳細が掲示されていた。令和3年・2021年 厄年一覧表。厄年はそれぞれ60歳頃が厄年の終わりにあたりますが、これはかつて寿命がまだ短かかった時代、「還暦まで生きたら儲けもの」と考えられていたことが理由なのでしょうか?人生は80年時代から「100年時代」?へと寿命が延びる中、神社も厄年の見直しをすれば、経営上も・・・と。無料シャトルバス「大杉神社」バス停。「あんば天狗の森」案内板。裏山には天狗の住むと伝えられる森があるのだと。停留場前に建つ社号標石「大杉神社」。「あんば七福神」碑。大杉神社の鎮座する場所は現在の霞ヶ浦、常陸川、利根川下流域、印旛沼、手賀沼、牛久沼、鬼怒川下流域、小貝川下流域を内包する常総内湾に西から東に向かって突き出すような地形のほぼ突端に位置している。『常陸風土記』には安婆嶋(あんばじま)として登場するが、半島状地形にもかかわらず、半島先端に比べ、かなり西側でくびれた地形をしていたため遠くから見ると島状の様子を呈していたため、安婆嶋と呼称されたといわれている と。住所は稲敷市阿波958。現在の地名も阿波(あば)と呼び、その名残を窺えるのである と。「あんば七福神」の「弁財天」像がその横に。「ここに祀られております弁財天は大杉神社秋の大祭の神幸祭に下の御旅所が設けられるダメ池に祀られておりました。その後ダメ池は埋め立てられ保育所が建設され久しく祀られないままとなっておりました。水の神様である弁財天を再興したいとの要望から此の度大杉神社の境内一角でありますこの場所に、石像をもって弁財天を再祀することといたしました。俗に弁財天は芸術、知恵、美の神とされ、音楽、美術、舞踊、学問向上、美貌を願う人々の信仰をあつめてまいりました。」と「あんば七福神 辯財天について」碑には。そして更に進んでいくと右手に「大杉神社」の「一の鳥居」現れた。茨城県内で現存する「大杉神社」の分社は7社で合計8社、全国の大杉神社の総本山である「(阿波)大杉神社」がここ。全国での「大杉神社」と名のついた神社は16社あると、ウィキペディアより。しかし「全国に670社ほどある大杉神社の総本宮」とのページも。「大杉神社」入り口の明神(みょうじん)鳥居の両側にあるのは、狛犬ではなく「天狗」の石像。「大杉神社」配置図をネットから。 【http://welfare.so-good.jp/wheelchairtraveling/shrine/oosugi/】より向かって左側の鼻高天狗は「ねがい天狗」と呼ばれていると。これは、常陸坊海尊が身体が大きく、頬ひげと青い目、高い鼻をもち、想像上の天狗に近い容姿だったことから、「海尊は大杉大明神の遣いの天狗だった」という信じられていたことに由来しているのだと。文治年間にその容貌が巨体、紫髭、碧眼、鼻高であった常陸坊海存(海尊)が大杉大明神の御神徳によって、数々の奇跡を示したことから、海存は大杉大明神の眷属(けんぞく)で、天狗であるとの信仰へと発展したのだと。眷属とは、神様にお仕えしており、神様の神意を人へ伝える役目を持っているのだと。神社で、狐、猿、兎、牛、鼠、鹿、狼などの動物の彫刻等が設置されているのを見かけたがこれも眷属であると。右側の烏天狗は「かない天狗」。文治年間(1185-1189年)、源義経の家来常陸坊海尊が大杉大明神の神徳により様々な奇跡を起こした。ここから海存を通じて願をかけると、大杉大明神が叶えてくれるという信仰が生じた。海存の容貌は天狗に似ていたため、その像を通じて天狗信仰が生じ、鼻高天狗と烏天狗が眷属とみなされるようになった。鼻高天狗は「ねがい天狗」、烏天狗は「かない天狗」と役割が決まっている。願い事が叶えられるという神徳から、神社は「日本唯一の夢むすび大明神」と称しているのだと。石造りの「一の鳥居」を潜り境内へ。祭りの際にはこの場所は出店で賑わうのであろう。この奥にも厄年案内板が、そしてその奥の高台に鐘楼が見えた。石段の先に朱の「二の鳥居」。石段の左横には「大黒天」。頭巾を被り、左肩には大きな袋、右手には昔話で有名な打ち出の小槌を持ち、俵の上に立っていた。 また、垂れ下がった耳たぶに、満面の笑みを浮かべた顔も癒やされるのであった。「竿代勘之助翁頌徳碑」。この碑は昭和三十年、当時の稲敷郡内の農家や有志の方々の寄付金で建てられた。勘之助はこの地域の農民のために尽力した人物とのこと碑の建立がきっかけとなって、県の功績賞や藍綬褒章(らんじゅほうしょう)も受賞していると。「竿代勘之助翁頌徳碑」の文字は、当時の茨城県知事、友末洋治の筆によるもの と。様々な石碑が石段横下に並んでいた。右には「御鎮座壹千貳百弐拾年記念」碑。石段の両脇には奉納された石鳥居が並ぶ。「二の鳥居」。扁額「大杉神社」。「悪縁切堂」。旧護摩堂。1804(文化元)年の建立。1798(寛政19)年に焼失した社殿に代わり、現在の社殿が完成するまで仮社殿として使用された。 奥2間が本殿、手前2間が幣殿として使われたという。当初茅葺だったがその後瓦葺き、さらに東日本大震災で損傷激しく、銅板葺となった と。「旧護摩堂(きゅうごまどう)文化元年(1804)完成。桁行二間、梁間四間の寄棟茅葺風銅板葺建物。寛政十年(1798)に焼失した社殿に代わって現社殿の完成まで仮社殿として使用された建造物。奥二間が当初本殿部、手前二間が祈祷殿(幣殿)として使用されていたとみられる。当初は茅葺屋根であったがその後瓦葺に改められた。平成二十三年に発生した東日本大震災により屋根瓦の落下被害が甚大であっため、当初の形状に近似する茅葺風銅板葺の屋根に改められた。当初は社殿東側に並び立っていたとみられるが、その後数度に及ぶ移築を経て現在地に移された。」破損で消失した場所の文字は、ネットで確認。「悪縁を断ってしあわせな日々を」。悪縁切の人形による護摩火焼滅の悪縁切一、授与所で悪縁切の人形を受けます。二、悪縁切堂内に靴を脱いで入ります。三、堂内手前、左の机に座り人形の裏面に願い事を具体的に記入します。四、書き終わったら、奥の間の護摩壇前まで進んで下さい。五、護摩壇の中央に護摩木を井桁に組みます。六、炉の中心に着火剤を火鋏を使って設置します。七、点火器(チャッカマン)で着火剤に点火して下さい。八、炎が見え始めましたら、井桁中央に人形の正面を上に向けて静かに置いて下さい。九、人形が全体に黒く燃えるまで合掌して願い事を心中で唱えて下さい。十、火が燃え残っていても人形が黒く燃えた時点で合掌を解き、堂内から退出して下さい。悪縁切の人形 初穂料 一体 3,000円」。「絵馬掛所(えまかけどころ)」。「絵馬掛所」の向かいには収穫した稲束が奉納されていた。そして正面に「神門」。「神門」に近づいて。神門の色彩豊かな見事な彫刻。木鼻の龍の彫刻。蟇股の龍の彫刻。狛犬が神門の檻に入っているが如くに鎮座。狛犬(阿形像(右))。狛犬(吽形像(左))。見上げると、神門の天井から桃が吊るされていた。手水場には、龍が2体いたのであったが、コロナ禍の影響で水は無く。「社務所」前の柱にも見事な黄金の蒔絵の如き装飾が。御朱印場所は未だ開いていなかった。「四方四隅八方守護 皇城鬼門鎮護之社」碑。ここは江戸城、皇居を守る鬼門にあたる方角を固める防御のための神社であると。『茨城の日光東照宮』とも呼ばれる一つの由縁であると。そして境内に一方足を踏み入れただけで、その理由が解ったのであった。「麒麟門」を境内側から見る。この「麒麟門」を閉めきって鬼門を護っているのだと。開かずの門ということか?開く時があるのだろうか?正徳年間に造営がなされた大杉神社社殿群は、「あんば日光」の異名を持つ絢爛豪華な社殿群であったが、享保13年(1728)に焼失。享保20年(1735)に一部を再建、宝暦4年(1754)に全再建を果たした。しかし寛政10年(1798)再び焼失。寛政12年(1800)再建に着手したが、享和3年(1803)再々建途上に焼失。その後文化3年(1806)起工、文化13年(1816)に遷座となった社殿が現社殿である。宝暦年間に存在した社殿群は当時の記録から本殿、拝殿、唐門を5つ取り付けたとみられる透塀をともなった社殿のほかに神楽殿、神輿舎、回廊、楼門、唐門、総門、土蔵六棟などがみられる。また安穏寺関連の建造物としては他に弥勒堂、護摩堂、仁王門等も存在したことが知られている。中でも楼門は麒麟門と称されていたようで、日光の陽明門を彷彿させる威容を誇っていたとされている。平成22年(2010)3月27日、二階建ての楼門「麒麟門」が完成。本殿、幣殿、拝殿を繋ぐ県内最大の複合社殿への正面入り口として、約280年ぶりに再建。「麒麟門」は当時の文献から櫻井瀬左衛門を棟梁に、嶋村円鉄が彫刻を担当した豪奢な門であったことがわかり、これにならって麒麟、飛竜、獏、獅子など檜や楠材を使った200体以上の彩色豊かな彫刻が施されました。二階部分には子孫繁栄、家内隆昌を願って大杉大明神の尊像が安置されている と。門扉に近づいて。木鼻。正面の彫刻。二層中備(写真上)が仙人・偉人・賢人シリーズ、一層中備(写真下)が唐子遊びシリーズ。二層中備の彫刻・仙人・偉人・賢人シリーズを左から。司馬光(しばこう)司馬光( 1019 ~ 86 )は中国北宋時代の学者・政治家。司馬温公といったほうが有名。中国の編年体史料『資治通鑑』の編さん者として有名だが、幼年期の逸話である「司馬温公瓶割り」が有名。司馬光が幼い頃友達が高価な瓶(かめ)に落ちて溺れてしまった。しかし瓶は高価なもので誰も手を出すことができない中、このままでは落ちた子供は死んでしまうと考え、迷うことなく近くにあった大きな石で瓶を割って子供を助けたのが幼少期の司馬光。司馬光は瓶を割って友達を救った。どんなに貴重な物でも人の命には代えられない、人命の尊さを教える故事。呂尚(ろしよう)・周の文王(しゅうのぶんおう)呂尚(紀元前11世紀ごろ)は中国周時代の軍師。呂尚が釣りをしているところに周の文王か来て「これそ太公(祖父)が待ち望んだ人物」と言って呂尚を登用したと言う。そこで「太公が望んだ人物=太公望」となり、釣りの名人を太公望と呼ぶようになった。周の文王(紀元前11世紀ごろ)は中国周王朝の創始者武王の父。一時代は殷(商)王朝末期、紂王(ちゅうおう)の時に当たる。文王は王朝を立てたわけでないが善政を敷き領土を広げ、有望な軍師として呂尚を迎え入れた。『十八史略』『呂尚という者あり。東海のほとりの人なり。窮困して年老い、漁釣して周に至る。西伯(周文王)まさに猟せんとし、これをトす。日く『龍にあらずチ(蛟のこと)にあらず、熊にあらず羆(ひぐま)にあらず、虎にあらずヒ(豹のこと)にあらず、獲るところは覇王の輔ならん』。果して呂尚に渭水の陽(きた)に遇う。ともに語り大いに悦びて曰く『吾が先君太公より日く、まさに聖人ありて周に適(ゆ)くべし、周因りてもって興らんと。子は真にこれなるか。吾か太公、子を望むこと久し』。故にこれを号して太公望という。載せて与(とも)に倶(とも)に帰り、立てて師となし、これを師尚父という。」黄石公(こうせきこう)・張良黄石公は張良との逸話で出てくる仙人。張良(?~紀元前186 )は前漢の高祖(劉邦)に仕えた軍師・政治家。張良がいなけれは漢王朝が成立しなかったとさえいわれている人物。張良と黄石公(老人)が橋で出会い、黄石公が川に靴を投げ捨て、張良に拾わせようとすると、川から龍が現れ張良が剣でなぎ払おうとする。この後黄石公から兵法の秘伝を教えてもらうという話。その下、一層中備が唐子遊びシリーズの彫刻。左:鬼ごっこ「ことろことろ」。中央:川遊び右:乗馬遊び「麒麟門」の向かって左の脇扉の横の彫刻。ズームして。住吉明神(すみよしみようじん)白楽天(はくらくてん)白居易( 772 ~ 846 )は中国唐の時代の詩人で字は楽天。彼の代表作『白氏文集』は日本文化に多大なる影響を与え、平安貴族の教養に欠かさないものとされた。白居易が日本に来訪しそこで年老いた漁夫に会う。漢詩を作ると漁夫は即座に和歌で返した。漁夫は隠れ、再び白居易の前に住吉明神として現われる。舞を見せたと思いきや白居易を神風で追い返すという逸話である と。門の左右には大きな「御幣(ごへい)」が奉納されていた。左側。右側。「神輿殿」の扉の装飾。引き戸の扉のようであった。「鐘楼」には梵鐘の姿はなかった。神仏分離時になくなったのか?それとも戦時中に供出か?見事な「神輿殿」。1728(享保13)年の火災により焼失。その後長く再建されなかったが、20122(平成24)年、校倉造により再建された。「神輿殿亨保十三(一七ニ八)の大火により消失。その後再建されることがなかった。平成ニ十四年(ニ〇一ニ)に校倉造による神輿殿が再建された。大杉祭の渡御祭に駕輿丁によって担がれる神輿が納められている。」そして「麒麟門」を境内内部から見て、正面左側の瑞垣欄間の彫刻群。道路に向かって様々な動物の姿が彫られていた。道路に沿った瑞垣欄間には。この物語の「案内板」は見つからなかったが。「麒麟門」を正面右側から見る。二層中備の彫刻・仙人・偉人・賢人シリーズを左から。許由(きょゆう)・巣父. (そうほ)許由は中国三皇五帝時代、尭王の治世にいた隠者。尭王は帝位に相応しい人物として許由を候補とした。これを聞いた許由は山籠り、尭王はそれでも許由に位を授けようとしますが、これを聞いた許由は耳を洗い出した。許由にとって位は汚らわしいものでありそれを聞いた耳か汚れたというので耳を洗った許由。巣父は許由とともに中国三皇五帝時代、尭王の治世にいた隠者。許由が尭からの話を聞き耳を洗った川の下流で巣父は牛に水を飲ませようとしていた。しかし許由が汚らわしい話を聞いて耳を洗った水を牛に飲ませるわけにはいかす、牛に水を飲ませないまま帰っていった。位などを求めることなく高潔を保とうとした話として許由と巣父の話はよく語られる。梅妻鶴子(ばいさいかくし)の林和靖(りんわせい)。中国・北宋時代の詩人「林和靖(りんわせい)」が俗世を離れ、清らかで風流な隠棲生活をする人が、妻の代わりに梅を愛し、子の代わりに鶴を愛で一人で清らかに暮らす様を表している。そして「麒麟門」の向かって右の脇扉の横の彫刻。この物語は??琴高仙人(きんこう せんにん)の故事か?自信はないが。琴高仙人とは古代中国の仙人で、琴が巧みで仙術を得意とし、河の龍を捕えるために鯉に乗って水中から現れ人々を驚かせたという。 琴高仙人図は室町時代以降好んで取り上げられた画題で、雪村周継や尾形光琳の作品が有名であるが。「麒麟門」上部の「二層彫刻題材解説」案内板。内容はそれぞれの彫刻に転記済み。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.11.01
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本丸に入る、幅の狭い階段と橋・「廊下橋」が左に。有事の際には、「廊下橋」を落として敵の侵入を防ぐのだと。「廊下橋」を見上げる。本来、本丸に入るには二の丸を通って廊下橋を渡り、幅の狭い階段を登らなくてはならなかった。有事の際には廊下橋を落として敵の侵入を防ぐといわれ、堅固で実践的と評される佐伯城を象徴する施設である。幅の狭い階段を上る。「本丸跡」から下を見る。「本丸跡」碑。本丸跡石段を上がった場所にあった小さな「毛利神社」。毛利神社の社殿は太平洋戦争中の昭和20年4月26日の空襲で破壊されたと。かつては土台に見合う大きさの社があったのだろうが、今は何故か再建されず失われ、社殿跡の中央附近に小さな岩と朱の鳥居そして石祠が祀られていた。寂しい限り。近づいて。石の社は、焼け残った石灯籠等を集めて積み上げたものであろうか。別の場所にも。「本丸跡」からの眺望。右方向。右奥の島は「大島」、中央の島の名は「八島」。同じアングルの眺望案内板。眺望案内板をズームして。「本丸外郭二層櫓台」。「映画 釣りバカ日誌19 ロケ地 佐伯市 城山」👈リンク 案内板。本丸・天守台跡への巨大な石階段。階段を見ても分かるとおり、後年の神社化に伴う参道で、城があった当時はこの階段は無く、こちら側は一面の高石垣で大型の2層櫓が睨みを利かしていたとのこと。独歩碑の道が整備され、こちらから上がってくる人が多くなり、その正面の石垣を壊して階段を造ったのだろう。天守は3層で最上階に高欄があり千鳥破風、唐破風などがあったとされる。石段途中から紅葉を見上げて。さらに。ここにも「独歩碑」があった。明治26年(1893年)、鶴谷学館に教師として招かれた国木田独歩は、後年、佐伯を舞台とした作品を残した。「春の鳥」「源おぢ」の舞台である城山山頂に、佐伯独歩会によってこの「独歩碑」が建立された と。廻り込んで「本丸」の高石垣を見る。「天守台跡」を振り返る。「豊後佐伯城址」碑。見事な石垣が至る所に残されていたのであった。再び佐伯市街を見る。帰路は比較的緩やかな坂道の「独歩碑の道」を利用して下る。そして登山ルートの分岐まで戻る。「しいの実」掲示板には俳句が色紙に書かれて掲示されていた。「城下町さいき散策マップ」。こちらは「大分県観光MAP」。「佐伯城三の丸櫓門」を表から。近づいて。更に。「三の丸跡」碑。「三の丸御殿」のジオラマをネットから。御殿が存在した。この御殿に関しては、古写真も残るのだと。しかも、明治期の解体ではなく、昭和45年(1970年)の解体だけに、非常に残念至極!!解体後に「佐伯文化会館」が昭和46年(1971年)に建ったが、これも50余年で近々解体と!! 【https://eiko-s.dreamlog.jp/archives/12313052.html】より山頂に建つ「佐伯城」を入れて。 【https://livedoor.blogimg.jp/syouanmaki/imgs/8/8/88a0f128.jpg】より「県指定有形文化財 佐伯城三ノ丸櫓門指定年月日 昭和五十一年三月三十日所在地 佐伯市鶴谷七九番地一この櫓門は、三大藩主毛利高尚の時に、藩主の居館を山頂から三の丸に移した寛永十四年(一六三七年)に藩庁の正門として創建された。佐伯城の城郭建築物として唯一現存する遺構として城下町佐伯の面影を伝えている。」再びズームして。「三ノ丸櫓門」に繋がる石垣を櫓門下から見る。そして「三ノ丸櫓門」を潜り、再び2020年10月31日をもって閉館した「佐伯文化会館」を見る。「佐伯文化会館」の外壁に描かれいている鶴のマーク。これは、JALの鶴丸マークではない。佐伯藩主だった毛利家の家紋の一つ「佐伯鶴の丸」。「鶴は千年」というように長寿の象徴。両翼を丸く上に掲げた「鶴丸」が有名だが、二羽を向かい合わせたもの、頭を下に向けて飛ぶものなど様々な意匠がある。「三ノ丸櫓門」を石段を上がって振り返る。「佐伯市章」が建てられていた。佐伯市のイニシャル「S」の文字を図案化したもので、緑豊かな山々と清流、豊かな魚場の豊後水道のなかで、市民が連携し、今までの歴史・文化を大切にしながら未来へ向かっていくことを意味している のだと。市章の色は上段を緑(DIC―173番)、中段を橙(DIC―198番)、下段を青(DIC―179番)を基本とする。「DIC」👈リンク とはDIC株式会社が製造している特色インキのこと。DICカラーガイドという色見本帳があり、希望の印刷色を伝えるために「DIC○○番」という番号を指定するのだ。私も現役中に、この色見本帳で調達品の塗装色を指定したのであった。「野村先生像」。野村越三(1884.6~1925.4.29) 佐伯市山際出身。「野村越三先生は1884年6月佐伯市山際(当時)に生れ、幼いときから秀才の誉れが髙くそのひとがらからは円満誠実で聖者の風格を備え、すべての人にしたわれるまれにみる立派な人であった。若くして佐伯小学校の教師となったがそのすぐれたひとがらは生徒の心をつよくとらえわずかのあいだに全校生徒の尊敬の中心となった。当時わが国の体育、スポーツは黎明期であり、当地方ではまだほとんど行われていなかったが、先生はいちはやくその重要性をみとめ心身鍛錬の手段としてこれを奨励した、かずすくない先覚者であった。指導にあたって先生はつねに生徒とともに行い、その先頭にたって実行したので、生徒におよぼす影響は非常に大きく、そのため体育スポーツ熱は全校にたかまり効果も目をみはるものがあったので、当時としてはきわめてめずらしい、優秀校として文部省から表彰された。1914年退職後は、餘暇をみて青年の指導に力をそそいだので、青年の体育スポーツの普及発達はいちじるしく、県下における先進地としてみとめられるにいたったのである。当地方における体育スポーツの今日の隆盛のもとは先生にあるといっても決して過言ではない。このような、先生のすばらしいひとがらと指導力とがみとめられ、1924年和歌山高商(現和歌山大学)の学生監として招へいされた。先生のすぐれたひとがらは、ここでもきわめて短期間に全学校の絶大の信頼をあつめ敬慕のまととなりその指導の将来性に大きな期待がかけられたのであったが1925年4月29日やまいのため逝去された。行年41才であった。1970年4月29日 教え子有志」三の丸「御下櫓」近くにあった「中根貞彦の歌碑」。「ふるさとの移ろう もうしふる里の かはらふも宇し はしき布る里」歌人は茂吉の弟子で三和銀行(現UFJ)の初代頭取、中根貞彦。そして「佐伯市歴史資料館」に、「続日本100名城スタンプ」をいただきに向かう。近づいて。「佐伯市歴史資料館」。「続日本100名城」の「佐伯城」のスタンプをいただきました。「認定証」。「佐伯城」の「御城印」。横にあった「毛利家御居間」を訪ねた。「佐伯市指定有形文化財 毛利家御居間」案内板。「毛利家御居間 佐伯市指定有形文化財佐伯城内であったこの場所は、江戸時代後期には佐伯藩の役所が置かれ、明治時代に入ると旧藩主毛利家の屋敷地となりました。毛利家御居間は、13代当主・毛利高範子爵の一家が、明治26年(1893 )から明治40年(1907)まで暮らした屋敷の一部で、発見された棟札から明治23年(1890)に建築されたと考えられています。建物は昭和初期から料亭として利用され、しばらくは明治時代の姿を留めていましたが、昭和50年(1975)に御居間と次の間のみを残して、建て替えられました。佐伯市は、歴史資料館を整備するにあたり、建物を保存・公開するため修理を行い、当初の姿に復原しました。修理は、建物の柱や梁などを残して一旦解体し、可能な限り古い部材を残しつつ、傷んだ部材は補強・交換して組み直すという方法で行いました。各部屋は、次の間( 6帖)・御居間( 8帖)・御化粧の間( 6帖)の順に配置されています。御化粧の間は、現代の改修によって失われていましたが、今回の修理で復原しました。この他、基礎工事の前に行った発掘調査で、建物の北西にのびる石列(地覆石)、風呂桶の土台と思われる半円形の叩き士及び便所跡のような丸い穴が見つかりました。古写真をみると同じ位置に小規模な建物が写っており、ここが風呂や便所であったことが推測されます。」「御居間」。奥に「次の間」。御居間8帖(床の間)。左外壁には県選択無形民俗文化財の「堅田踊り」👈リンク を舞う女性の姿が描かれ、周辺の城山の景観に溶け込んでいたのであったが・・・。最後に駐車場から「佐伯城」の「西の丸」、「二の丸」下の石垣を見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.01.13
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国道137号・御坂みちを北上する。左手に南アルプスの山並みを見る。この▢の範囲がみえていたのであろうか。「間ノ岳」、「農鳥岳」をズームして。車窓から、ニセアカシアの花を見る。ライラックの花。「笛吹川」を渡る。そして次の訪問場所ファッション工房・「さいら甲府工房&アンブローズアンドカンパニー㈱ 本社」に到着。山梨県甲府市川田町 アリア202。駐車場から富士山頂を見る。ファッション公房・「さいら甲府工房&アンブローズアンドカンパニー㈱ 本社」山梨県が誇る伝統地場産業の代表的存在であるジュエリー。宝飾品出荷額は全国シェアの約2割を占め、ジュエリー生産量日本一を誇っている。「さいら」とは「彩楽」と。35周年を迎えたオリジナルジュエリーブランド『Ambrose』を展開する会社。東京・銀座でフラッグシップ店を運営する他、全国のホテルで展示会を行うなど60万人ものお客様に質の高い宝飾品をご提供している。創業62年の歴史を持つ企業で、ここ山梨県・甲府の本社工房で企画・製造。入口には、圧巻の巨大な天然の宝石が。「黄水晶 シトリン 三方晶系 二酸化珪素高さ 195cm幅 135cm(中) 135cm(下)奥行き 55cm総重量 1.154kg産出国 ブラジル リオ・グランデ・ド・スル州」水晶に鉄イオンが混入し、放射線による結晶格子欠陥によって黄色に変色したもの。このような変色種の仲間として紫色のアメジストやピンク色のローズクォーツなどがある と。リオグランデ・ド・スル州で採掘されたものはマデイラ島特産のシェリー酒に似た濃いオレンジイエローをしていることから「マデイラ・シトリン」と呼ばれ、価値が高いとされている。近づいて。シトリンは太陽を象徴する石といわれる11月の誕生石。紫水晶(アメジスト)の原石。近づいて。色ガラスのオブジェ。天然石を使った巨大宝石画玄関ロビーには天然の宝石だけを使った重さ300キロの巨大宝石画が。人が見上げる巨大なキャンバスの中には26種類の天然石がびっしり。少し離れて見ると美しい絵画になり、そのギャップに驚くのであった。様々な表彰状が壁一面に。技能グランプリの表彰状。「この鉄箱の中には、プラチナ鉱石が1トン(1000kg)入っています。」「さてこの1トンの鉱石から、プラチナは何g採れるでしょうか?正解者には、この鉱石を1個さしあげます」と。数百g等様々な答えがあったが、私は3gと当てずっぽうに答えたが、これが大正解との事であった。鹿児島県北部に位置している菱刈鉱山は、鉱石1トン中に含まれる平均金量が約20グラムという高品位を誇っていることを知っていたのであった。このブログの書き込み時の田中貴金属のHPによると金:9644円/g プラチナ:5282円/gなのであった。本社及びさいら甲府工房では販売はもちろん、本来であれば中々見ることのできないジュエリーの製作現場で本物の加工の様子を、職人に手が触れそうな距離で見る事が出来たのも魅力の一つであった。もちろん制作現場内はカメラ撮影禁止であった。下記写真はネットから。そしてプレゼンテーション室に案内された。「Ambrose」。会社名:アンブローズ アンド カンパニー株式会社設立:2003年5月1日「アクアプレーズ(Aquaprase) 世界一新しい宝石」と。アクアプレーズは、2014年にアフリカで発見され、2016年にGIA(米国宝石学会)にて正式に認められた新種のカルセドニーになります。天然グリーンのカルセドニーである「クリソプレーズ」はニッケルの影響の発色ですが、アクアプレーズのブルーグリーンの色はクロムの影響の発色になります。また、クロム発色のカルセドニーは、世界的に見ても非常に希少で、現在ではアフリカのごく一部の地域でしか産出されていません と。「アクアプレーズ(Aquaprase)」。アクアプレーズは、2014年にアフリカのジンバブエで発見された新しい鉱物で、2016年にアメリカ宝石学会で新種の宝石として認定された天然石。カルセドニーの一種で、クロムを含むことでグリーンブルーの色味を持つ のだと。説明員が「アクアプレーズ」に光を当てた。すると、天井には星のごとき輝きが一面に拡がったのであった。「永く愛され継承されている指輪です」。「Pt900 K18YG リング ダイヤモンド 0.31ct ラウンド ストライプ」。「アンブローズ」が製作した真珠のネックレス「TAMAKI」👈リンクは、2023年1月22日に開催された第18回HRDデザインアワード授賞式において第2位を受賞した のだと。代表取締役 堀内 信之氏が2020年12月に「チコちゃんに叱られる」に出演したと。そしてプレゼンテーション会場を後にした。そして宝石展示販売コーナーに行く途中の展示品。トルマリンの原石。近づいて。「トルマリンの原石和名:「電気石」あたためる・こする・水に濡らすと帯電し、体に流れる微弱電流と同じ電気を発発生します。●花瓶に入れると、切花が長持ちした●植物や植木などの水やりに使用すると、植物が元気になった、葉の色が濃くなった、 花がたくさん咲いたという報告も多く寄せられています。宝石言葉 希望、安楽、潔白、寛大、忍耐、無邪気、友情、心中の歓喜主な産地 ブラジル・アメリカ・タンザニア」地球を彷彿とする、美しき水晶。「タッツァ・ファルネーゼ(B.C53年)サードニックスで創られた、精巧なグレコ工ジプトの初期のカメオ。人々はエジプトの神々を表わし、裏例にメドゥサの顔が彫られている。かってパウロ2世の手許にあり彼の死後は、メディチ家のロレンツォの所有となる。現在ナポリ考古学美術館所蔵。(直径200mm)」近づいて。そして。最後に展示総数1,000点以上!圧巻の「ジュエリー販売展示場」へ。これは鑑賞品「瑞祥鳳凰」。「金細工画--松竹梅--日本の熟練した職人が生み出す金のアート。薄さ0.5mmの18金のプレートを一枚一枚切削し、丁寧に磨き上げ繊細なラインで季節等のモチーフを表現しています。松竹梅に鶴と亀は、お正月、また1年を通し最高の縁起物として飾っていただけます。ライトをかざし、浮かび上がるシルエットを楽しんでいただくこともできます。¥500,000-(税抜)※シリーズものとして、春(桜月夜)、夏(凱風快晴)、秋(紅葉)がこざいます。」近づいて。金箔の切り絵の如くに。「優駿」。「伝統工芸品 甲州水晶貴石細工山梨県水晶美術協同組合は経済産業大臣指定 山梨県郷土伝統工芸品認定の団体です。」「水晶五重の塔」。近づいて。「ラピスラズリ名石 駿馬八福ラピスラズリには「成功を保証する」という象徴的な力があり、洞察力、判断力を高めて富と強運をもたらす宝石といわれています。産地はパキスタン・ロシアなどで、「駿馬八福」に用いられた名石は、特に変化に富んだ美しさをもっています。」近づいて。ラピスラズリを原料とした青色顔料に天然ウルトラマリンがある。天然ウルトラマリンはラピスラズリを精製して製造する。ウルトラマリンとは「海(ラピスラズリの場合は地中海)を越えて」きたものという意味。なおウルトラマリンの内、青色のものをウルトラマリンブルーと呼ぶ。19世紀にはウルトラマリンは人工顔料として合成されるようになる。また、フェルメールが天然ウルトラマリンを多用し傑作を残した事から「フェルメール・ブルー」として特に称される。さらに「ジュエリー販売展示場」を散策?する。販売員も買ってくれそうな客を探して!!「瑞龍」、¥19,800,000!!と。様々な宝石。再び「アメジスト(アメシスト)」の原石。「アメジスト(アメシスト)伝統的にアメジスト特有の効力とされているのは酔い覚ましだが、1 5世紀には他にも多くの力があると考えられていた。1 5世紀のイタリア人天文学者、カミロ・レオナルドは、アメジストには邪悪な考えを制御し、知性を高め、商才を授ける力があるとみなした。アメジストを身につけると酔いが覚めるが、酔いをもたらす飲み物を何杯も飲みすぎた者だけではなく、愛情で気持ちが高ぶりすぎている者にも効果があった。さらに、兵士をケガから守って敵との闘いに勝利をもたらし、野生動物を捕らえる猟師にとっても大きな助けとなった。他の多くの宝石のように、身につけている人を伝染病から守る力も持っていた。」「このアメジストの突鉱(原石675kg )は1994年ブラジル、リオ・グランデ・ド・スル州のポルトアレグレ市にて仕入れたものです。濃い紫色、形と大きさが整った結晶が集合した大型クラスクーは大変珍しく、放たれる高貴な輝きに一目で惚れてしまいました。アメジストは月の女神ディアナに仕えた美しく汚れなき女性です。今はアンブローズを護る女神として、ここアリアに鎮座しています。皆様もアメジストのカ、輝きを体中に充満させて、落ち着いた心で健康に日々をお送りください。アンブローズアンドカンパニー株式会社 代表取締役 堀内信之」窓から外の新緑を。ここにも「アンブローズ」が製作した真珠のネックレス「TAMAKI」👈リンク は、2023年1月22日に開催された第18回HRDデザインアワード授賞式において第2位を受賞 報告が。ここにも水晶が。そして屋外に出て再び白き富士山の山頂をズームして。石庭には多種の宝石の原石が置かれていた。宝石原石に負けじと花々が。バーベナタピアン?ノースポール。キンギョソウ。そして白のツツジの花。「間ノ岳」をズームして。「間ノ岳」は標高3190mで日本第3位の高峰であり、日本百名山の一つ。北岳、農鳥岳とあわせて白根三山と呼ばれている。白根三山の中央に位置し、山頂、山稜ともに広大で、東面のカールや二重山稜の地球で地球の歴史が学べる。主稜は展望もすばらしく、爽快な稜線歩きが楽しめる。また、北岳とは違う植生も楽しめる。山頂は静岡県との県境であり、大井川の源流を擁している と。先程覗いた楕円形の窓が。再び白のツツジの花を振り返って。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.05.22
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「アンブローズアンドカンパニー㈱ 本社」を後にして県道302号線・石和温泉停車場線にて中央自動車道・「笛吹八代スマートIC」に向かって東に進む。左手に見えたのが「遠妙寺」の山門。山梨県笛吹市石和町市部1098。ここ「遠妙寺」交差点を右折。そして「鵜飼橋北詰」交差点を左折して「笛吹川」に沿って進む。左手に見えたのが「笛吹川(ふえふきがわ)」。笛吹川は、日本三大急流の富士川水系の一級河川。山梨県山梨市北部の甲武信ヶ岳・国師ヶ岳に源を発する東沢渓谷と、国師ヶ岳・奥千丈岳に源を発する西沢渓谷を上流部に持つ。広瀬湖(広瀬ダム)を経て甲州市を下り、甲府盆地の南東を潤し、南巨摩郡富士川町で富士川(釜無川)に合流する。 流域に扇状地を多く形成している。灌漑用水を整備した果樹園ではブドウなどの果実栽培が盛んである。笛吹川の名の由来は、「笛吹権三郎」と呼ばれる民話[1]に語られており、川の音が権三郎の吹く篠笛の音のように聞こえることから、誰とはなしに笛吹川というようになったと言われている。深沢七郎は、この川を題材に小説『笛吹川』を書いた。木下惠介監督によって1960年に『笛吹川』として映画化もされている。左手前方の橋は、国道20号・甲州街道(勝沼バイパス)の「石和橋」。「蛍見橋西詰」交差点を左折して、「笛吹川」に架かる「蛍見橋」を渡る。そして「笛吹八代スマートIC」から「中央自動車道」に入る。「中央自動車道」の本線に向かって進む。再び「間ノ岳」が姿を表した。「境川橋」の先から「坊ケ峯送信所」👈リンク を見る。山梨県笛吹市の坊ケ峰にあるテレビとラジオの送信所。左手の小高い丘の上にあったのが「境川自転車競技場」。1983年(昭和58年)3月に完成し、1986年(昭和61年)第41回国民体育大会「かいじ国体」のトラックレース会場となってから、全国大会などの開催、県内外の個人、団体に利用されている。白で自転車の姿と「さかいがわ」の文字が確認できた。山梨県笛吹市境川町藤垈3279。「笛吹川」に架かる「笛吹川橋」・橋長340mを渡る。右:「北岳」、中央左:「間ノ岳」。「笛吹川橋」から下流方向を見る。「双葉SA」を通過し「甲斐駒ヶ岳」・標高2967m(写真右)を見る。その左手に「北岳」、「間ノ岳」の白き山頂が。「甲斐駒ヶ岳」山頂をズームして。さらに。「甲斐駒ヶ岳」は、山梨県にある標高 2,966mの山。かいこまがたけと読む。山域は南アルプス北部に定められている。百名山、夏油三山、甲信越百名山、山梨百名山、信州百名山、一等三角点百名山、日本百高山、新日本百名山に選定されている山。駒ヶ岳という名がつく独立した山は全国に18座あり、その中で甲斐駒ヶ岳は最高峰である。中央自動車道からの右から「甲斐駒ヶ岳・2967m、「栗沢山」・2714m、「アサヨ峰・2799m、「仙丈岳」・3033mを見る白き右側:「北岳」と左側:「間ノ岳」。「韮崎IC」手前から。ズームして。右から「赤岳」、「横岳」、「硫黄岳」を見る。手前に「北杜サイト太陽光発電所」。ズームして。「横岳」にズームして。さらに。「硫黄岳」。南アルプス国立公園内の赤石山脈(南アルプス)の最北の3000m峰。長野県と山梨県の県境にある北沢峠を挟んで甲斐駒ヶ岳と対峙。「仙丈ヶ岳」・標高3,082.6 m(写真右)を再び。「仙丈ヶ岳」をズームして。左側に「小仙丈ヶ岳」・標高2,864mが。「諏訪南IC」で中央自動車道を降りる。県道197号線・払沢茅野線でJR茅野駅方面に向かう。国道20号線・坂室バイパスの「茅野町」交差点に向かう。そいてここを右折。「上川」に架かる「上川橋」を渡る。「仲町東」交差点角にあった「布袋尊」。この場所にある理由は?そして「蓼科高原チーズケーキ工房」に立ち寄った。「蓼科高原チーズケーキ工房」。長野県茅野市米沢127-1。「生ちーずけーき」コーナー。蓼科高原の自然豊かな美味しい水と空気で育った乳牛のミルク。そこから作られたコクのあるチーズを贅沢に使用。まろやかで濃厚、ふんわりとしたチーズケーキを是非ご賞味あれ と。日持ちしない洋菓子類はコールドショーケース内に陳列されており、常温日持ちする各種焼き菓子やゼリー類も非常に充実しており、店内の商品配置もとても綺麗に整備されていた。また、店内も清潔感が溢れており店舗内外共に非常に居心地の良い感じであった。そして、この時は店内には我がグループだけ。ここにも「生チーズケーキ」。「寒天ゼリー試食コーナー」。「驚き!寒天は薬品としても認められている。」地酒、地ビールも販売されていた。別の場所から地ワインを。店内の造花。地元産の「きくらげ」も売られていた。「TV 全国ネットで紹介 きくらげ ダイエットゴースト血管が生き返る!糖を体外に搬出・便秘解消ふりかけなど食べ方ネットで紹介」「ゴースト血管」とは、血液の循環が悪くなり、末端の毛細血管まで血液が届かなくなり、まるで幽霊(ゴースト)のように血管が見えなくなってしまう現象のこと。近年、この「ゴースト血管」が脳梗塞や認知症など病を引き起こすと言われている。「ゴースト血管」の原因のひとつが「ビタミンD」の不足。きくらげには「ビタミンD」の含有量がとても多いため、食べ続けることで「ゴースト血管」が生き返ったというデータもあるんだ とか。屋外の屋根裏には「ツバメ」の巣作りが始まっていた。私の姿に?警戒する「ツバメ」。巣の材料を咥えて一生懸命に運んでいた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.05.23
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4月に入りましたが、昨日は急激に温度が上昇し、我が家の庭、菜園の花々も賑やかになって来ました。庭梅(ニワウメ)。この時機になると細い枝いっぱいに梅に似た花を咲かせ、初夏に生食もできる赤い果実を楽しめるのです。別の角度で。近づいて。クリスマスローズ(白)。クリスマスローズ(赤)。ボケ(木瓜)。近づいて。赤いチューリップも。ヒヤシンス(白)。ヒヤシンス(紫)。こちらは葉牡丹。開花直前。今年も我が家の庭の各種スイセンが開花しています。 小型水仙 FORTUNE。「黄色花カップ」黄色の花弁にオレンジ色の口紅カップ。ラッパ水仙白、口紅水仙。白い八重の房咲き水仙「ホワイトライオン」。小型のラッパ水仙。「タヒチ」。黄・黄色の八重咲き。大輪の大型。名前の通り明るい陽気な印象の花。「黄色シボリ」。花弁に黄色と白のシボリ模様が入ってます。ペチコート水仙「バルボコディウム 」。八重の黄水仙。「ピンクチャーム」。花弁が白色、副冠が桃色の大カップ咲き。大輪で大型。花弁も副冠も大きくよく目立ちます。房だけ薄い黄色のラッパ水仙。マウントフッドは徐々にクリーム色に変わるスイセン。八重咲きスイセンムスカリ(紫)。アマドコロ。近づいて。そしてユキヤナギ。近づいて。そして我が家の横の、そしてミツバチを飼う菜園の花々です。こちらはブロッコリーの花。我が趣味のミツバチが大好きな花なのです。近づいて。そろそろ、片付けて、トマトやキュウリを植え込みたいのですが、ミツバチ嬢が毎日訪花しているので、なかなか片付けられません。さらに。スナップエンドウ。スナップエンドウの花。こちらは大根の花。白カブの花。近づいて。更に。イチゴも花を付け出しました。イチゴの花。こちらがそら豆。そら豆の花。別の種類のそら豆の花。花の紫の色がやや濃いのです。
2024.04.01
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我が農園のイチゴも収穫期を迎えています。ところが昨日は午後から雨の天気予報でした。この時期イチゴには『灰色カビ病』が発生しやすいのです と言うよりは露地栽培では必ず発生するのです。主に果実に発生しますが、葉、葉柄、花びらにも発生することがあります。果実ではこの時期20℃前後での、収穫近くのものが発病しやすいのです。果実の成熟期に雨が降り、赤い実が雨に濡れたりすると、一斉に発生します。淡褐色の斑点が生じ、これが拡大して果実が腐敗し、表面に灰色のカビが生えるのです。そしてこれを放置しておくとあっと言う間に周囲の実に伝染してしまいます。よってこの時期、収穫と同時にこのようなカビが付いた実の除去も併せて行わなければならないのです。青い実にも伝染し、側に捨てておいては風でカビが飛散しますので、離れた場所に穴を掘って埋めたりしています。防除する方法は極力雨にあたらせない、過塾果実を放置しない、密植栽培しない等があげられますが、なかなか防ぐのが難しいのです。殺菌剤を散布する方法もありますが、イチゴは皮を剥かずに洗うのみで食べるのですから、勿論やりたくありません。スーパーで販売されているイチゴは殺菌剤散布を行っているものが多い、と聞きましたが定かではありません。今年は妻のアドバイスもあり、思い切って雨よけのビニールシートを掛けることにしました。朝一で養蜂場に置いてあるブルーシート(前回は蜂箱の雨除けに使用しました)を自宅へ持ち帰り、これをイチゴの苗の上から掛けたのです。決して我が家から出た発掘遺跡の保護のためではありません。もちろんその前にイチゴの収穫。かなりの量が収穫できました。ブルーシートだけでは足りずに古くなったビニールトンネルシートも利用しました。これで雨は防ぐことが出来ましたが、ビニール下は今までより過湿になったことは確実ですのでその影響による発病も心配なのです。今朝天候が回復していれば即撤去と忙しいのです。イチゴを美味しく長く食べるためにはいろいろな作業がありますね。
2009.05.06
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スペインの旅5日目は、アルハンブラ宮殿観光、昼食後、スペイン第3の都市バレンシアへ。グラナダの昼食会場、そして食事を終えバスへ。バレンシアまでは約450~500kmのバス移動。高速道路脇の山には洞窟が点在。山の手前には鉄道が走る。地中海に近く夏の暑さをしのぐために洞窟の住宅が目立つ。旅の疲れが出たか、バスの中は静かで皆さん爆睡中。車窓の風景を楽しみながら進む。山肌にはオリーブの若木が一面に。トイレ休憩のため高速道路のドライブインに立ち寄りトイレ休憩。ここのトイレの男性表示。赤色では日本人が間違う可能性大。巨大なイベリコ豚。今宵の反省会のためにワインを購入。オリーブの畑の先にはぶどう畑が。高速道路の料金所アリカンテ(Alacant)の街を通過。右手に地中海を見ながら進む。地中海の見える別荘地。地中海に沿って鉄道も走る。空、そして地中海も青。オズボーンの雄牛( Toro de Osborne)は、雄牛のシルエットを模した、全高14mの黒色の看板。シェリー酒の製造メーカー。白に統一されたマンションタイプも建つ。海の向こう(南側)はアフリカ・アルジェリア。トイレ休憩で、Aotglill SA へ立ち寄る。現在地はバレンシアまで約40kmの場所。サービスエリアを出発、この辺りはビルの建設ラッシュ。高層ビルが林立。湾に沿った大きな街並みが。右前方には禿山が。山肌に「クリェラ・CULLERA」とある。料金所を通過。バレンシア手前の下水処理場。バレンシアの宿泊ホテル『EXPO』へ到着。夕食は、バレンシアのホテル近くのレストランで、スペイン名物の ”パエリア” を食べる。この土地の名物料理パエーリャ。鶏肉とロブスターより小ぶりのエビが入ったもの。黄色い色は名物のサフラン。かなりのオリーブ油が入っているようで私にはもう少し具沢山でさっぱりしたものが欲しかった。これもツア-料金の影響か? ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2008.06.11
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青森空港から大阪・伊丹空港へ移動しました。この日は雨の青森空港。 利用便はプロペラ機の通称ボンバルディア “ダッシュ 8”(Dash 8)。機内は片側2列74座席。 2000年に運用が開始され、胴体延長及び74座席に性能向上したバージョン。 車輪、タイヤを点検する地上スタッフ。 型式の正式名称は「DHC8-Q400」 。通称Q400ですが、Qは“Quiet"の頭文字。名前の通り静かな飛行機。プロペラだと風を切る際に気流を乱し音がが大きいのですが、ボンQは気にならなかったのです。機内CAがボンQの写真をくれました。 日本では2003年に日本エアコミューターが運航を開始、その後ANAウイングスも運航を開始したとのこと。 離陸後は一面の雲の世界。 そして機窓からの夕焼けを楽しむ。 雲の切れ間から赤く染まった水田の水面が。 暫くは夕焼けの色と雲の変化を楽しむ。 飛行機で夕日を追いかけるという体験。 そして日没の時間に。 沸き立つ雲の先端が筋の様に輝いていた。 赤の色合いが刻々と変化していくのであった。 飛行機の直下には雪の残った山が。 そして日没に。 だんだん暗くなっていく光景を楽しむ。 朱の世界。夏の夕闇がにわかに濃く迫ってくるそして大阪上空に。 光り輝く街並み。そしてここから着陸態勢に。 伊丹空港に無事着陸し、空港近くのホテルに送迎バスで向かったのであった。
2015.06.12
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