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遊行寺に立ち寄りました。
この寺は浄土念仏門の一流である時宗総本山。
東門を入り坂を少し上ると右側に 小栗判官墓所入口の石碑が。
階段を上がり本堂脇を奥に進むと左手に地蔵様が並んでいた。
酒井忠重逆修六地蔵。
銘文によれば萬治3年(1660)1月15日に酒井長門守忠重が施主となって、
遊行十七世慈光(じこう)上人(遊行三十九代)の代に建立されたと。
施主の酒井長門守忠重は出羽鶴岡城主酒井忠勝の弟で逆修(年老いた者が、
年若くして死んだ者の冥福を祈ること)のために建立されたと。
酒井忠重五輪塔。
この五輪塔には、「寛文六(1666)丙午歳 光岳院殿従五位 前長州太守 鏡誉宗円大居士
酒井長門守忠重 九月十八日」と記されている。
細い道(通称 車坂)をたどると長生院という寺に突きあたる。
左に折れ奥に進むと小栗判官公並びに十勇士の墓。
小栗判官と照手姫の話は人形浄瑠璃でも有名な演目。
照手姫の墓。
応永29年(1422)常陸小栗の城主、判官満重が、足利持氏に攻められて落城、
その子判官助重が、家臣11人と三河に逃げのびる途中、この藤沢で横山太郎に
毒殺されかけたことがあります。このとき妓女照手が助重らを逃がし、
一行は遊行上人に助けられました。その後、助重は家名を再興し、照手を妻に迎えました。
助重の死後、照手は髪を落とし長生尼と名のり、助重と家臣11人の墓を守り、
余生を長生院で過ごしたとされています。
そして私の大好きな文字も刻まれた石碑を発見。
歴代上人御廟所。
中央正面に開山塔、左右に歴代上人の墓塔が。
徳川以前のものは多く宝篋印塔(ほうきょういんとう)で、それが整然と並んでいた。
道を戻ると左手の土手の上に、一際大きな尖塔角柱型の5つの墓碑が。
堀田家三代、堀田正利夫妻・正盛夫妻・正仲の墓の墓碑。
堀田正利供養塔。
堀田正利 ( 正吉 ) ( 1571 ~ 1629 )は旗本・堀田正秀の五男。
母は浅野長一の娘。通称 勘左衛門。
正室は稲葉正成の娘萬。
織田信長、浅野長政、小早川隆景、小早川秀秋に仕えた。
関ヶ原の戦いののち、慶長 10年 ( 1605 ) 江戸幕府に出仕したと。
墓所は、東京都台東区日輪寺。
この供養塔は、孫の堀田正俊が延宝 5年 ( 1677 ) に建立。(案内板より)
堀田正利妻(正室) 萬供養塔。
堀田正盛 供養塔。
堀田正盛は、江戸時代 初期の大名 、老中格 、老中 、大政参与 ( 御側 )。
武蔵 川越藩主、信濃 松本藩主を経て。寛永19年(1642年)7月16日には1万石を
加増されて下総佐倉藩に転封。
よって下総 佐倉藩 初代藩主。堀田家 宗家初代。
奇しくも7月16日は私の誕生日、これも不思議な縁?
堀田正利の長男。母は稲葉正成の娘萬。
母は稲葉正成が最初の妻との間に儲けた女子であり、正成の2度目の妻が春日局。
よって正盛は春日局の義理の孫にあたる。
堀田正盛妻 阿栗供養塔。
阿栗は( 1617 ~ 1674 ) 酒井忠勝の娘。
堀田正仲供養塔。
堀田正仲は、江戸時代 前期の譜代大名 。
下総 古河藩 の第 2代藩主、のちに出羽 山形藩主を経て、陸奥 福島藩の初代藩主。
正俊系堀田家 2代。
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