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次に用田寒川神社へ
用田寒川神社は、藤沢市用田字御手洗水にある神社。
1574(天正2)年、伊豆河津庄の領主伊東氏の子孫といわれる用田の豪族、
伊東家の伊東孫右衛門の勧請により作られた。
1873(明治6)年に村社となり、現在も用田の鎮守として地域の人々人親しまれていると。
境内には速素盛雄命(ではやすさのおみこと)を御祭神とする八雲神社もあり、
八雲神社例大祭では濱降祭に出御したこともある神輿も担がれるのだと。
入り口にある鳥居と狛犬。右にはご神木そして「元村社寒川神社」と
平成九年に建てられた「用田寒川社」の二つの社号標が建っていた。
本堂がある境内まで参道が伸びていた。
手水舎。
神楽殿。
本堂。
ご祭神は品陀和氣命/誉田別命(ほんだわけ)[別名]応神天皇(おうじんてんのう)。
ご祭神の品陀和氣命は通称「八幡さま」と呼ばれ、第15代天皇。
八幡さまは農耕神、海の神 。
ご利益は出世開運、武運長久 他 とのこと。
境内の八雲神社。
階段の先には鐘楼が。
鐘楼。
鐘。
社寺譲受記念碑。
境内には用田公民館が。
鳥居の柱は途中で何段か繋がれていた。
この鳥居は大正十一年建立。
社号標裏面によると平成九年に参道の拡幅に併せて境内の整備を行ったとある。
鳥居の横に立つ巨大な松の御神木
門前に『
『用田(ようだ)』の 地名の由来が書かれていた。
昔、寒川町の寒川神社の所領の御用田があったので用田と呼んだと言われている。
一説に昔角田氏の勢力があったころに、伊豆より伊東氏がきてその勢力に敗れて
「ク(苦?)」を取り用田となった説もあるが、今に残る文書から角田氏が領主のころ、
用田郷の地名が既に見られたといわれていると。
藤沢市用田の用田の辻交差点付近にある史跡である大山街道の道標を訪ねる。
丹沢山地の南東部に位置する大山と大山阿夫利神社は「雨降山、阿夫利山(あふりやま)」と
呼ばれ、五穀豊穣の守護神として崇められ、江戸時代中期には江戸や関東周辺の人々の間で
大山詣が流行した。この大山詣の人々が通ったいくつかの道を大山街道と呼びます。
御所見地区を横断する大山街道は「柏尾通り大山道」と呼ばれ、横浜市戸塚区柏尾町付近で
東海道からわかれ、横浜市中田、藤沢市長後、そして用田、門沢橋を通り相模川を渡り、
厚木市・伊勢原市を通って大山に至るのです。
この道と中原街道が交差する交通の要衝がここ用田の辻。
当時は十数件の旅籠や茶屋が並び宿場町として栄えたと。
用田の辻にあるのがこの不動明王で、1775(安政4)年、「右大山道」という銘が刻まれていた 。
不動明王座像をズームで。
像とその下の道標の材質は異なるようですので、いつの時か
道標の上に載せられたのでしょうか。
不動明王座像の後ろ姿はなぜか寂しそうに感じられたのです。
右下の小さな道標には「西座間村」と書かれているようです。
この日の最後に藤沢市用田地区に入って、県道22号線旧道と43号線が合流する
御所見中学校のそばの歩道橋の下の道標を兼ねた庚申塔を訪ねました。
県道に面して笠塔婆型角柱塔 六手合掌青面金剛が。
元禄15年(1702)建立。
元禄15年と言えば赤穂浪士が討入りした年。
「従是かしをとつかへの道」、裏面には「従是ふぢさわゑのしま」と
刻んであるようですが・・・・。
青面金剛の裏面が摩耗がかなり進んでいました。
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