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交差点を左折し進むと10分ほどで妙本寺(みょうほんじ)総門が見えて来た。
妙本寺は、神奈川県鎌倉市大町にある、日蓮宗の本山(霊跡寺院)。山号は長興山。
この地は比企能員一族が住む谷戸(やと)であったところから「比企(ひきが)谷(やつ)」と
呼ばれている。しかし、比企一族は建仁3年(1203年)に権力保持を目論む北条一族によって
滅ぼされたのだ。その争いを「比企の乱」と呼ぶと。
比企能員邸址と刻まれた石碑。
妙本寺は、日蓮聖人を開山に仰ぐ、日蓮宗最古の寺院。
開基は、比企能員の末子で、順徳天皇に仕えた儒学者比企大学三郎能本。
総門を潜ると右手に大円坊、現在は比企谷幼稚園となっている。
妙本寺境内案内図。
方丈門奥の紫陽花が迎えてくれた。
方丈門から本堂への階段通路は閉鎖中のため横の参道を二天門に向かって進む。
参道の木漏れ日も清々しく。
杉木立の参道を上ると正面に「二天門」。
仏教の守護神である四天王のうち、持国天と多聞天(毘沙門天)を安置していることから
「二天門」と呼ばれている。
ベンガラ塗りの鮮やかな色が印象的であったが逆光。
2011年(平成23年)9月に保存修理が終わり、美しい姿が蘇っていた。
二天門の欄間の飛龍(右側の龍)。ここだけ極彩色。
この下で手を叩くと龍の声が聞こえるという言伝えがあると・・・・????。
向かって左側が多聞天。北を守護、毘沙門天とも。
右側が持国天。東を守護。
境内には大きな日蓮聖人説法像が。
日蓮聖人は、貞応元年(1222年)、安房小湊(千葉県小湊)に生まれ、12歳で清澄寺に入り、
16歳で出家、仏教諸宗が様々広まっている中で、天変地異や飢餓などで人々が苦しんでいる
有様に心を痛め、仏の真実の教えを求め続けて、32歳まで鎌倉諸大寺、高野山、そして比叡山と
諸宗の諸大寺に遊学し、遂に「一切衆生を救う教えは法華経である!」との確信を得て、
今から760数年前、建長5年(1253年)4月28日、立教開宗の宣言。これが日蓮宗の始まり。
日蓮聖人は、当時政治文化の中心であった鎌倉の町の辻々に立って教えを説き、
「法華経こそお釈迦さまの真実の教えである!目覚めよ、人々!」と説いたと。
この銅像は、平成14年、第79世 加藤日暉貫首の代に日蓮聖人立教開宗750年ならび
鎌倉布教750年を記念して建てられたのだと。
手水舎。
祖師堂。
祖師堂は、妙本寺の中心的な建物で、日蓮、日朗、日輪が祀られている。
第二祖の日朗の創建。現在の建物は、天保年間(1830~1843年)に、
第四十七世日教によって再建されたと伝えられている。
鎌倉最大級の木造仏堂建築で 桁行 (正面) 五間、梁間 (奥行) 六間で、瓦葺き入母屋造り。
正面は約 18.7m、奥行きは 約 19.7m の堂々とした建造物。
祖師堂の向背の彫刻も見事。
向背下の龍の彫り物。
獅子の彫り物。
格子の蔀戸(しとみど)(ガラス入り)。
祖師堂内部の厨子。日蓮聖人像が祀られていると。
祖師堂前にはドクダミの花が。
何と八重のドクダミの花。
密集した葉の間から4枚の白い花弁状の苞をパッと広げ、苞の真ん中から
とんがり帽子のような花序を覗かせる八重の花を開かせているドクダミ。
八重のドクダミの花を見るのは初体験。
祖師堂の廻り縁に腰掛け暫し休憩。
目の前には新緑のモミジ葉が陽光を浴びて輝いていた。
向背内部の手挟み(たばさみ)の部分には花の彫刻が。
廻り縁から境内そして二天門を見る。
祖師堂の左側に石段があり山へ上って行く道が。
その石段の上り口脇右に「万葉集研究遺蹟」の碑が。
石碑の上部に篆書(てんしょ)という書体で記されていた。
この地にはかつて新釈迦堂があり、そこの供僧(ぐそう)の仙覚(せんがく)は、
新釈迦堂とその僧坊で寺務のかたわら万葉集の研究をしたと。
仙覚は「万葉集」の本文校訂など業績をあげ「万葉集」の研究者。
建仁2年(1203)の生まれと推測され、出生に関しては不詳だが比企氏ゆかりの者とも。
境内の墓石には城の如き立派なものも。
比企氏一族の墓。
石垣で一段高くなった所に五輪塔が4基並んでいた。
その、右側のものは妙本寺開基の日学夫妻の供養塔、左側のもの比企能員夫妻の供養塔と。
日学は比企能員の末子能本の法名とのこと。
寿福院の逆修塔。
比企氏一族の墓の並び右手にある立派な大五輪塔。
逆修塔(ぎゃくしゅとう)とは生前に死後の冥福を祈って建立した供養塔。
塔の各部に「妙・法・蓮・華・教」の五文字が刻まれ、側面に「加賀太守宰相卿之御母公
寿福院殿日栄逆修」と刻まれていた。(1624建立)。
寿福院は千代といい、加賀前田家藩祖の前田利家の側室で利常を産んだ。
利常が藩主(三代藩主)になると、慶長19年(1614)藩主の生母として、
芳春院(利家の正室「まつ」)と入れかわりに人質としてに江戸へ下ったと。
その後、寛永8年(1631)江戸藩邸にて没した。
日蓮聖人説法像の反対側、墓地前の一画に竹矢来で囲まれた場所が在ります。
一幡袖塚。
3代将軍を約束された一幡は、母親である比企能員の娘若狭の局と共にこの比企邸で暮らして
いたが、北条氏の焼討に遭い討死した。
死体は見つからなかった。
そこで、焼跡から見つかった一幡の着物の袖を埋めて墓とした。
小さく可愛らしい五輪塔であった。
一段高い場所には鐘楼が。
妙本寺本堂。
総門と祖師堂の中間あたりにある本堂。
社務所が右手に。
ご朱印を頂きました。
左手は書院。
そして人の少ない境内の紫陽花の花をゆっくりと楽しんだのであった。
そして最後に蛇苦止堂(じゃくしどう)を訪ねる。
蛇苦止堂は若狭局(わかさのつぼね:讃岐局(さぬきのつぼね)と同一人物と。)を祀っている。
1203年(建仁3年)、比企能員が北条時政邸で暗殺され、比企ヶ谷の比企一族は、
北条義時らに攻められ滅ぼされた(比企の乱)。
二代将軍源頼家の側室であった若狭局(能員の娘)は、家宝を抱えて井戸に飛び込み
自害したと伝えられている。
後に文応元年(1260)のその日の夕刻、後の執権・北条政村の娘が突然錯乱しそして語り始めた。
娘の口をかりて話始めたのは「讃岐局」を名乗る怨霊。
「われは大きな角の生えた大蛇となって比企ヶ谷の土中で火炎のごとき苦を受けている」と。
その場にいた者たちは身の毛もよだつおもいで恐れおののいたと。
その後政村は経典を写し讃岐局を供養した。また加持祈祷をして政村の娘を癒したと。
そこで妙本寺建立にあたって、若狭局(=讃岐局)の怨霊を鎮めるため、
蛇苦止大明神として祀ったと。
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