JINさんの陽蜂農遠日記

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2018.10.25
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カテゴリ: 海外旅行
王宮&シルバーバゴタの観光を終わり、バスに乗り約200km、3時間半の移動を開始する。
左手に先程訪ねた王宮の『チャンチャーヤの館』をバスの車窓から。



昨夜宿泊したホテルの前を通りトンレサップ川沿いを上流に向かって走る。
モスク・Masjid Nurunnaim (K.M 8 Cambodia)



トンレサップ川に架かるプレップ・ポブ橋を渡る。



トンレサップ川の水上住宅。
こうした水上コミュニティには実はカンボジア人ではなくベトナム系の住民が多いと。



国道6号線の湿地帯を北に向かって走る。
このカンボジアの国道6号線は、首都プノンペンからタイ国境に至る全長447kmの主要幹線道路。

緊急的な改修が必要となっていたのだと。2000年以降に未改修となっている約17.5kmの
区間において道路の改修と3橋梁の架け替えを日本がODAとして支援したのだと。



プノンペンのガソリン価格。
レギュラーガソリンは4200リエル、×0.028=118円/L。
日本より35円/L程度安かった。



カンボジアのガソリンスタンンド?
ペットボトルやビンに入れて、道端で販売。
プラスチックは静電気が発生しやすいので危険なはずだが。
最初はハチミツか飲料を販売していると見ていたのですが・・・・。



この辺りは多くの石仏が。
石材屋の多い部落か。




様々な形状の門が道路脇に。



セン川を渡る。
カンボジア中部を流れる全長約  320kmの 川。
同国北部、タイとの国境をなすダンレク山脈に源を発しメコン川とほぼ並行して




この日は長距離移動のため昼食はおにぎり入りの和風弁当をバスの中で楽しむ。



そしてサンポープレイクックに到着。時間は12:58。
チケット売り場で添乗員が入場チケットを購入。



入口の湿地帯には紫の小さな花が一面に。



アンコール(クメール)王朝から遡ること数百年、古代国家「真臘(しんろう)」時代の
遺跡であるサンボープレイクック遺跡群。
森の寺院と称されるサンボープレイクック遺跡群は、数々の貴重なレリーフと共に
木々のなかで今もひっそりと佇んでいた。
「真臘(しんろう)」とは6~8世紀頃に存在した古代国家で、7世紀初頭に「イシャナプラ」を
首都として栄えたといわれ、サンボープレイクック遺跡群はその当時の建築物と考えられていると。
古代国家「真臘(しんろう)」はカンボジアでは、「チェンラー」と呼ばれていたと。
この時期、日本では飛鳥時代にあたり、聖徳太子の政治や法隆寺建立(607年)、
さらに大化改新(646年)などがあった頃。日本が律令国家に向けての国造りに邁進していた時代、
カンボジアではのちの東南アジア最大の国家建設につながる道程にあり、それまでに
類を見ない大都城が出現していたのだ。



入口で現地説明員がバスに乗り込み説明してくれたが、我が添乗員がクメール語を
日本語に通訳。



「豊かな森の寺院」を意味するサンボープレイクックは大きな3つの遺跡群
「プラサット・サンボー」、「プラサット・タオ」、「プラサット・イエイ・ポアン」と
その周囲に散在する100を超える遺跡からなるのだと、現地説明員から。



世界遺産登録証。
アンコール遺跡群、プリア・ヴィヘアに続き2017年7月にカンボジア第3の世界遺産となった
プレアンコール遺跡。



7世紀頃にイサンバルマン一世王により建造。
広さは25平方キロメートル、中心部と多くの寺院が壁に囲まれ、そのうち10個は
東南アジア特有の八角形をしている。また、敷地内の砂岩はアンコール時代の装飾を象徴し、
サンボープレイクックのスタイルとして知られると。
ここでの芸術や建築が、他の地域のモデルとなり、アンコール時代に特徴的なクメール様式の
土台となったと。



サンボープレイクックの発見から世界遺産に登録されるまでの経緯が説明されていた。



サンボープレイクック遺跡群の全体配置図。



遺跡には木の根っこが絡みつき樹木の力を物語る。
石や煉瓦の隙間に入った種子が成長し、大樹となって遺跡を包み込んでいるのだ。



樹木は、本当は遺跡の破壊者なのかも知れないが、同時に、今にも崩れそうな
構造を辛うじて支えているのも事実であろう。樹木の根が包み守っているようでもあり、
中の遺跡が見えなくなるほどに、がんじがらめに締め付けているようでもあった。
人間の創造と自然の営みとが、争いと和解の末に渾然一体となって存在するかの如き姿に、
不思議な畏敬の念を覚えたのであった。



仮設のトタン屋根で保護された遺跡。
雨から守ることで崩壊を防ぐのが目的なのであろうか?
この遺跡を後ろ半分が無いことが分かる。
なんでもヘレニズム文化に影響された彫刻があるので特別に保護しているとのこと。



レンガ造り主体の祠堂が多数残っており、その中でも「空中宮殿」と言われる
美しいレリーフが残っていた八角形の遺跡。
宮殿と思われるレリーフの一番下、床を支えるようにグリフォンが支えていることから
「空中宮殿」と呼ばれるようになったとか。
このレリーフは遺跡の入場チケットにもプリントされているのであった。



貴重なレリーフ「空中宮殿」。
直射日光があまり当たらない北面側の保存状態が比較的良いと。
サンボールプレイクックの幾つかの煉瓦造りの祠堂には、「空中宮殿」の彫刻によって
壁面が飾られていた。
宮殿の一番下では、羽のついた人や馬などが宮殿を支えて様に見える。
宮殿の中央には印を結んだ人物が上半身を覗かせている。
彫刻の一部には、漆喰の跡や彩色の跡があり、建設当時は外壁に漆喰が塗られ、
彩色されていたのであろう。



四角形の塔。




塔入口。



塔入口の彫刻。



上を見上げる。



内部の神棚。
そして下にある四角形の横にあるのが『リンガ』?。



その横にあったのが『ヨニ』。
中央にあるべき『リンガ』自体はこの場所からは失われていたが。

台座のヨニはシヴァ神の妃ドゥルガー(女性)の象徴といわれ、この2つの組み合わせは、
繁栄や豊かさ、平和、不死などを意味していると。
四角いヨニの真ん中に、リンガが嵌まり込むように正四角形の穴が下まで突き抜けて
あいているのだと。また、穴の周りは、儀式の際にリンガに注ぐ聖水を流す溝が掘りこんであり、
四辺の一箇所は、溝がついた突起部があった。
男性のシンボルの形をしたヨニの先から流れ落ちて聖水となった水を使って、身を清めたのだと。



この塔の壁面のレリーフもしっかり残っていた。
帰国後調べたら、この遺跡のレリーフが一番保存状態が良いのではと書いてある
ページが。



盛り上がった場所に立つ遺跡。
観光客もまだまだ少ないこともあり、未だ森の中に眠り続けているような
神秘性をも感じさせる、いにしえの都・ サンボープレイクック。



屋根の部分には雑草が生い茂っていた。



プラット・タオ(Cグループ)の遺跡群の説明板。



前方に塔が姿を現す。



中央エリアのプラサット・タオ。



正面入口の両脇に立つライオン像。



クルクルとした鬣(たてがみ)で大きく口を開けて叫んでいるが如し。



土台の石と一体構造。



C1塔内部。



黄金の神棚。



塔内部から上を見上げる。
天井に向かってぎっしりと積み上げられたレンガは、現代のサイズよりもずっと大きく、
製造方法には謎が残るのだと。



ライオン像を後ろから。
尾を頭の後ろまで上げていた。



扉の閉まられた塔。



入口上の見事な彫刻。



正面から。



四角形の塔がここにも。



プラサット・チュレイ(「N18」)
Nグループ(プラサット・サンボ―)の北側にある建物。
樹齢約200年の木の根が絡み付いていたのであった。



N17の建物は新しく見えるが、初期に造られたとされていると。



爆弾により?かなりの崩壊が進んでいた。



弾痕とのこと。



内部の像。



そしてサンボープレイクックからの帰路に、添乗員から今通過している村に
「アツ小学校・中学校」があるのだと。
日本の​ 中田厚仁 ​さんは、国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC )の下で
厳戒下のカンボジアがはじめて民主化に向けた総選挙が予定されていた。
その選挙監視員としてボランティアとして活動中、何者かによって銃撃されて
1993年4月8日25歳という若さで死亡したのであった。
中田さんが殺害された場所は、事件当時は、無人の地であったが総選挙が終わり、
カンボジアが新たな一歩を踏み出したとき、付近の村々を統合して新しい村が作られたと。
彼らは、1995年この村を「ナカタアツヒト・コミューン」と名付けた。
村人達は、親しみを込めて「アツ村」と呼んでいると。
この村が1998年に洪水により水没した時、中田厚仁さんの父、武仁さんは募金を募り
渡そうとしたが村長は「私達は作物が水に浸かってしまい、食べる米が欲しい。
しかし、今食べる事よりも将来のためにそのお金で学校を作ってください。」と
希望され小学校が建立されたのだと。
現在では中学校も併設されて村の生徒がここで勉強に勤しんでいるのだと。
そして中田厚仁さんの残した言葉の一つに
『だけれども僕はやる。
この世の中に誰かがやらなければならない事がある時、
僕は、その誰かになりたい。』
と添乗員から。
「アツ小学校・中学校」そして中田厚仁さんの墓も校庭奥にあるとのことで
是非訪ねたかったが残念ながら・・・。


   【http://roots-osaka.com/action/guest-house/blog67-atsuhitonakata/】より

                         ・・・​ その7 ​・・・に戻る

               ・・・​ つづく ​・・・





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Last updated  2019.11.01 23:01:34
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