JINさんの陽蜂農遠日記

JINさんの陽蜂農遠日記

PR

Profile

jinsan0716

jinsan0716

Keyword Search

▼キーワード検索

Comments

aki@ Re:秋の神宮外苑、麻布、増上寺を歩く(その4):国立競技場-2(01/18) この様な書込大変失礼致します。日本も当…

Favorite Blog

蓮の花、カラスビシ… New! 隠居人はせじぃさん

山北町の寺社史蹟巡… New! オジン0523さん

【ONCA COFFEE ・ … Gママさん

エコハウスにようこそ ecologicianさん
noahnoah研究所 noahnoahnoahさん

Calendar

2019.01.09
XML

『旧東海道を歩く』ブログ 目次





階段途中からの国道1号線(第2京浜)と東海道線。
本覚寺がある丘陵は、戦国期には砦があったと。
現在は、丘陵を分断して鉄道が走っており、対岸には戦国期の城跡(権現山城跡)が。
おそらく、この丘陵は続いていて、岬のような立地だったと。



「本覚寺は、臨済宗の開祖栄西によって、鎌倉時代に草創されたと伝えられる。
もとは臨済宗に属していたが、戦国期の権現山の合戦で荒廃し、天文元年(1532年)に
陽廣和尚が再興し、曹洞宗に改めた。
開港当時、ハリスは自ら見分け、渡船場に近く、丘陵上にあり、横浜を眼下に望み、
さらには湾内を見通すことのできる本覚寺を領事館に決めたという。
領事館時代に白ペンキを塗られた山門は、この地域に残る唯一の江戸時代に遡る建築である。」



『史跡 アメリカ領事館跡』
江戸時代の末、日米修好通商条約が結ばれるにあたり、この本覚寺にアメリカ領事館が
置かれたと。
三年ほど、この地に領事館がおかれた。初代は有名なタウンゼント・ハリス。
また、生麦事件の時には2名が騎馬で本覚寺に逃げ込み、ヘボン博士(ヘボン式ローマ字で有名)の
手当を受けたとのこと。この石柱は開港100年の記念に立てられたと。



山門の右脇に、レリーフ像をはめこんだ石碑が建っていた。
この石碑は、幕末に横浜の開港を首唱した岩瀬肥後守忠震(いわせひごのかみただなり)の
顕彰碑。
横浜郷土研究会有志により、横浜開港の恩人への感謝の碑として、昭和57年に建立。 
岩瀬忠震は、幕末に海防掛目付に任ぜられた後、外国奉行にまで出世し、開国論の
中心的存在として活躍をした人物。
日米修好通商条約においてはアメリカ総領事ハリスに対し、下田奉行井上清直と
共に交渉にあたり、ハリスの要求した江戸・品川・大坂などの開港希望地をしりぞけ、
幕府百年の計のためにと横浜の開港を首唱したのが岩瀬忠震。
その結果、1859年に横浜が開港し、発展めざましい今日の基を開くことになったのだと。
山門前の戒壇石に「不許葷酒入山門」(葷酒、山門に入るを許さず)が。
葷酒とは仏教の戒律で禁じられた臭気の強い葱ねぎ、韮にら、蒜にんにく、薤らっきょう、
興渠はじかみという五辛および酒のこと。臭の強いものや、酒を持ち込む事は禅宗の修 行に
差し障りがあるのでこれを許さないと。



山門。
当時の領事館員達は、当時日本には存在していなかった西洋塗装法(ペンキ)で、
建物の彫刻等を塗装して行ったと。今でも唐獅子や蛙股などにペンキ塗装の跡を残っていると。



『青木山』と書かれた扁額。



正面に本堂。



『全国塗装業者合同慰霊碑』。
安政三年(1856)アメリカ総領事ハリスは、神奈川宿本覚寺を領事館と定め、本覚寺をすべて
白ペンキで塗らせた。これが元で、本覚寺に「全国塗装業者合同慰霊碑」が建立されたと。



『地蔵堂』。
本尊・地蔵願王菩薩坐像を安置する。
俗に子育地蔵と呼ばれ、子供の成長祈願、病気平癒、安産供養の信仰があると。
地蔵菩薩立像が地蔵堂の前に。



『鐘楼』。



『寺務所』。



本堂を再び。



『水子子育地蔵』。



水汲み場には懐かしい手押し井戸ポンプが。



境内を散策すると本堂左隣にお釈迦様の涅槃像が。



ズームで。



本覚寺を後にし、山門前の階段からの横浜駅方面。



『東横フラワー緑道』
「東横フラワー緑道」は、平成16年(2004)2月の「みなとみらい線」の開通に伴い、
「東急東横線」が地下化されたことから、その上部
を緑道として整備したもの。当時の写真を掲示していた。



『大綱金刀比羅神社』。



この神社は、社伝によると平安末期の創立で、もと飯網社といわれ、
今の境内後方の山上にあった。
その後、現在の地へ移り、さらに琴平社を合祀して、大綱金刀比羅神社となったと。
かって眼下に広がっていた神奈川湊に出入りする船乗り達から深く崇められ、
大天狗の伝説でも知られている。
また江戸時代には、神社前の街道両脇に一里塚が置かれていた。
この塚は、日本橋より七つ目に当たり、土盛りの上に樹が植えられた大きなものだったと。



『神奈川宿 袖ケ浦』
十返舎一九『東海中膝栗毛』よりの文章が掲載。



『歴史の街 神奈川宿』。
田中家のあるこのあたりは、むかしから神奈川台町と呼ばれ、かつては海沿いの景勝地として
広く知られていた。この神奈川は、江戸時代には、東海道五十三次の中の、日本橋から数えて、
品川、川崎に続く第三番目「神奈川宿」として栄えていた。その頃の神奈川宿の様子は
「東海道中膝栗毛」(十返舎一九)にも描かれているが、昼夜を問わず、街道を行き交う人々で
たいへんなにぎわいだったと。
幕末の偉人、坂本龍馬の妻おりょうは、龍馬亡きあと、ここで住み込みの仲居として勤めていた。
月琴を奏で、外国語も堪能で、物怖じしないまっすぐな性格が、ことに外国のお客に評判だったと。
横須賀に嫁いでいき、田中家をやめたあとも、ひいき客からいつまでも話題に上ったと。



坂道を登っていくと旧東海道脇に老舗料亭『田中家』が左手に。



田中家の前身は、歌川広重の浮世絵にも描かれていた。
『田中家』のパンフレットより。



今でこそ埋め立てが進み、国道1号と横浜駅を越えて海に出るまで1キロほどあるが、
昔は探訪絶景で欄干から釣り糸を垂らせたという。
伊藤博文ら明治の元勲や夏目漱石ら文豪も投宿。
日本囲碁界の第一人者、呉清源の対局戦も行われるなど数々の著名人に愛されたと。



『神奈川の台と茶屋』。
「ここ台町辺りは、かって神奈川の台と呼ばれ、神奈川湊を見おろ
す景勝の地であった。弥次さん、喜多さんが活躍する『東海道中
膝栗毛』にも「ここは片側に茶店軒をならべ、いづれも座敷二階
造、欄干つきの廊下桟などわたして、浪うちぎはの景色いたって
よし」とある。二人は立ち寄り、鯵をさかなに一杯ひっかけている。」
「茶屋 うどんそば切有」「そば切ちゃ屋」の文字が見える。



更に旧東海道を進む。



「神奈川台関門跡」「袖ヶ浦見晴所」と刻まれた石碑。



『神奈川台の関門跡』
「ここよりやや西寄りに神奈川台の関門があった。開港後外国人が何人も殺傷され、
イギリス総領事オールコックを始めとする各国の領事たちは幕府を激しく非難した。
幕府は、安政六年(一八五九)横浜周辺の主要地点に関門や番所を設け、警備体制を強化した。
この時、神奈川宿の東西にも関門が作られた。そのうちの西側の関門が、神奈川台の関門である。
明治四年(一八七一)に他の関門・番所とともに廃止された。」と。



「思いきや 袖ヶ浦波立ちかえり こに旅寝を重ねべしとは」
正二位権大納言鳥丸光広(江戸前期の歌人・能書家)の歌。



『ブローテ横浜高島台』が右手高台に。
横浜駅そばの高台にそびえたつブローテ高島台は、バルコニーの青いガラスが目を引く
大型賃貸マンション。2015年度グッドデザイン賞。


『​ 上台橋 ​』を渡る。
かつてこのあたりは、潮騒の聞こえる海辺の道であった。この場所から見えた朝日は、
ひときわ美しかったと。『神奈川駅中図会』にも、その姿が描かれていると。
この地に橋ができたのは、昭和五年(1930)。
開発がすすみ、切り通しの道路ができるとともに、その上に橋が架けられたのだと。



上台橋の上から横浜駅西口方面を見る。
首都高速神奈川2号三ツ沢線が高架で。



『​ 神奈川宿歴史の道
至るおよそ4kmの道のりである。



旧東海道の標識。



これは横浜市西区歴史街道シンボルマークらしい。
「区内には、三つの古道、旧東海道、横浜道、保土ケ谷道が三角形をかたどるように
通っている」のでこのデザインになったのだと。
この辺りの歩道面には、約100mごとにこのマークが。



『勧行寺(かんぎょうじ)』。



法華宗学陽山勧行寺。
越後本成寺末で三ツ沢豊顕寺三世日養をもって開山とする。ご本尊は大曼茶羅、
一塔両尊だが境内にも面白いものがある。まず天然理心流の流祖近藤内蔵之助長裕
(こんどうくらのすけながひろ)の墓。新撰組局長近藤勇は四代目にあたる。

その功績をたたえた水戸藩主の和歌一首が彫られている。
他に作家の北林透馬夫妻もこの墓地で眠る。



浅間下歩道橋上より。





                              ・・・​ その5 ​・・・に戻る

つづく ​・・・





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2020.04.26 15:40:03コメント(0) | コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

© Rakuten Group, Inc.
Design a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: