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『旧東海道を歩く』ブログ 目次
明治天皇宮ノ前行在所跡の先を右に入り、『松原神社』を訪ねる。
小田原宿総鎮守。一の鳥居(伊勢鳥居型)とその先に二の鳥居が。
ガラス窓を設置した『御神庫』。
松原神社例大祭は、漁師の祭を起源とする「小田原担ぎ」という独特の神輿の担ぎかたが特徴で、
漁場での作業を陸地で再現した形になっています。神輿を船に見立て、まず神輿を静止した状態で、
木遣り(きやり)を唄います。木遣りとは、漁師が船を砂地に陸揚げする時や、漁網を一気に
揚げる時など、集中して力仕事を行う時に、船頭が音頭を取って、息を合わせながら作業を
するために唄う浜唄で、正式には「浜木遣り」といいます。
小田原流の特徴として、平担ぎの時左右にゆっくりと練る動作は、船が沖合で波に揺られ
ゆっくりと左右に動くそれを模しており、見ているものを幻想的な雰囲気にさせるのも
他に見ない特徴といえる。全国的にも珍しい点は、民家・商店・祭礼事務所・山車・神社などに
木遣り唄の一種である「浜木遣り」と共に神輿を担いだまま走って突っ込む(跳ぶ|突っ駆ける)事である。この「浜木遣り」は漁師の掛け声が元であり、鳶などの木遣師のそれとは異なる。
祭礼においてはどっこい担ぎで言えば甚句に相当する。 なお、全国的に “
走る神輿 ”
は瀬戸内海の
真鍋島や、千葉県の大原はだか祭りなどがあるなど少数ながら存在するが、神輿の合体は
全国でも他所では見られないと。
二の鳥居(明神鳥居型)その先に拝殿が。
記録として残るのは新編相模風土記にある天保年間の記述が最も古いと思われ、
主に漁師の祭りとして千度小路、古新宿(こしんしゅく)の漁師を中心に行われてきた歴史を持つ。
今では漁業関係者は激減したが、神輿は小田原担ぎ(小田原流)と呼ばれる漁船に見立てた
独特な担ぎ方で渡御されるなど、現在でも漁師の祭りとしての名残を見ることができると。
『吉兆の大亀』。
「天文十四年(一五四五年)三月、小田原の海岸に現れた大亀を土地の者が当社の池に
持参したところ、小田原北条三代当主氏康は、これを聞き、吉兆なりとて参詣し舞を奉納した。
果たして翌天文十五年、関東管領上杉軍八万の兵を、わずか八千の兵で見事に破り【河越夜戦】、
念願の関八州の平定に成功した。
この石亀像はその話に由来して作られた(制作年不明・頭部欠損)ものと思われ、現在でも
大亀の甲羅を撫でると、社運隆昌・心願成就・開運・勝利(転じて試験合格)にご利益があると
されております。また、亀は長寿を象徴する生き物であることから、賽銭を十円納めると十日、
百円納めると百日、千円納めると千日寿命が伸びると言われております。」
『境内社』。
境内に古くは十二社があったが、現在は住吉神社、鹿島神社、手置神社、叶稲荷神社、
佐々木八幡神社の五社が祀られている。
左から置神社、叶稲荷神社、佐々木八幡神社。
鹿島神社。
『小田原宿』と『周辺案内図』
交流館の前に掲げられた、旧東海道小田原宿の案内板。
拡大版
案内板に採用されている道中図は「東海道分間延絵図(とうかいどうぶんけんのべえず)」。
小田原の町人の町は、主として東海道に沿って宿場町を形成する(通り町)。
西から順に山角町(やまがくちょう)、筋違橋町(すじかいばしちょう)、
欄干橋町(らんかんばしちょう)、中宿町(なかじゅくちょう)、本町(ほんちょう)、
宮ノ前町(みやのまえちょう)、高梨町(たかなしちょう)、万町(よろつちょう)、
新宿町(しんしゅくちょう)の九町という、かなり細かい町割りから成った。
小田原宿は上方からは箱根を越えてきた旅人の、江戸からは箱根越えを控えた
旅人の宿泊地として大いに賑わった。
本陣(計4軒)、脇本陣(計4軒)は東海道の宿場町の中ではきわめて多く、
宿場の中心である欄干橋町から宮ノ前町までの四町に集中した。
町人の町はこれに加えて高梨町からの甲州道(こうしゅうみち)に沿った町(脇町)がある。
分岐から順に青物町(あおものちょう)、壱丁田町(いっちょうだちょう)、
台宿町(だいじゅくちょう)、大工町(だいくちょう)、須藤町(すどうちょう)、
竹の花町(たけのはなちょう)の六町が続く。
さらに、通り町に平行する形で茶畑町(ちゃばたけちょう)、代官町(だいかんちょう)、
千度小路(せんどこうじ)、古新宿町(こしんしゅくちょう)の四町があった。
『江戸時代の小田原の城下町の構成』。
ここは東海道沿いの通町で、江戸時代は本町と共に宿場町の中心で、本陣一、脇本陣二、
旅籠が二十二あったという。
元治慶應年間の宿割帖によると、御本陣一軒、相本陣三軒(清水屋彦十郎・久保田甚四郎・
片岡永左衛門)、脇本陣四軒(とらや三四郎・福住や吉助・小清水屋伊兵衛・嶋や太郎三郎)、
旅籠宿屋は百余軒あった。
小田原なりあい交流館前からの旧東海道。
『小田原なりあい交流館』。
この施設は、1932(昭和7)年に建設された旧網問屋を再整備し、市民や観光客の皆様の「憩いの場」として
2001(平成13)年に開館。
ここの建物は、関東大震災(大正十二年)により被害を受けた建物を、再建したもので、
小田原の典型的な商屋の造りである「出桁造り」という建築方法が用いられていると。
また、2階正面は出格子窓になっていて昔の旅籠の雰囲気を醸し出していた。
『本町』。
本町は後北条時代には通小路とよばれていました。江戸時代になると、小田原城のちょうど
南側にあたり、小田原の街の中心として、街割りもここを基点に割り振られていました。
東海道の小田原宿としても本陣が2、脇本陣が2、幕末には旅籠が26軒ほどあったそうです。
『久保田本陣跡』。
小田原宿に4軒あった本陣の一つ「久保田本陣跡」の碑
『御幸の浜』交差点。
正面を進んでいくと小田原城の堀に。
『薬博物館((株)済生堂薬局小西本店)』。
寛永10年(1633年)創業、400年近い歴史を誇る老舗の薬局が所蔵品を公開するミニ博物館。
年期の入った百味たんす、薬剤をすりつぶす乳鉢や秤など、薬関係の貴重な骨董品が
展示されています。明治時代のかわらぶきの建物(大正時代に復元)が、
小田原の歴史を物語ります 。
『中宿町』。
この町は、「貞享三年御引渡記録」(1686年)に初めて町名が見られます。
「新編相模国風土記稿」(1841年)には、この町に小田原北条氏時代(北条早雲、氏綱、氏康、
氏政、氏直の北条氏5代(1495~1590年))、この町は、「上の問屋場」が置かれ、
高梨町の「下の問屋場」と10日交代で勤めたとあります。
町内には、御用商人の「小西家」があり、嘉永年間(1848~53年)には、
脇本陣(わきほんじん:本陣の予備にあてられた街道の宿舎で、本陣にあきのない時に
大名などが利用した旅館)1軒、旅篭が11軒ほどありました。
なお、天保初期(1830年代)、町内の戸数は30軒でした。
『清水彦十郎本陣跡』
「小田原宿には4軒の本陣があり、清 水彦十郎本陣もその一つです。
出雲 (島根県)松江の松平家や美濃(岐阜 県)大垣の戸田家などの大名家が
定宿としていました。 」。
ここは薬と和菓子の『ういろう』。
当主は1500年代の初頭、北条早雲に招かれて京から小田原に移り住んだ外郎(ういろう)家。
以来、伝統を絶やすことなく小田原の地で生業が続けられてきた。
店舗にはういろう博物館も併設されている。
『欄干橋町』。
北は三の丸の掘、南は茶畑町、西は筋違橋町、東は中宿町・東海道沿いの町人町]この町は、
「北条家朱印状」(1572年)に初めて町名が見られます。
町名の由来は、この町から城内にかけられていた橋の名前によりついたといわれています。
町内には小田原北条氏時代からの旧家「外郎家」があり、江戸時代末期には本陣1、
旅籠が10軒ほどありました。天保初期(1830年代)、町内の戸数は39軒でした。
外郎家は、永正元年(1504)、北条早雲の招きに応じて京都から小田原に移り住み
祖先伝来の秘薬「透項香(とうちんこう)」を製造販売しました。
江戸時代には町の名誉職である宿老の地位にありました。また、同家の八棟造は有名で、
浮世絵などにも描かれてしますが、大正12年の関東大震災により崩壊してしまいました。
『箱根口』交差点。
歩いて来た旧東海道を振り返る。
箱根口を右折し小田原城の堀を目指す。
『 小田原城 箱根口門跡 』
江戸時代の櫓門の石垣の一部と土塁が残されていた。
戦国時代から江戸時代初期まで大手門として使われたと。
『小田原市立三の丸小学校』。
藤澤浮世絵館・「御上洛東海道と幕末の浮… 2020.08.14
藤澤浮世絵館・「御上洛東海道と幕末の浮… 2020.08.13
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