JINさんの陽蜂農遠日記

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2019.04.21
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次





旧東海道駿河路は概ね海沿いを通っており、富士市鈴川本町から元吉原宿があって更には
原宿から沼津宿にかけての街道は、海浜砂丘を防波堤代わりに利用した後背地の
海抜2~3m辺にほぼ直線的に作られている。
ところが街道は、元吉原を過ぎると山側へ大きく弧を描くように湾曲しながら

復するのだ。



何故街道が大きく湾曲したのか?
初期の東海道を調べてみると、街道は元吉原を過ぎた辺りで吉原湊があった旧富士川河口を
迂回したのち、本市場方向へ直線的に道筋がついていたようだ。
にも拘らず、その後いかなる理由で今日残るような海沿いを避ける道筋に変更されたのか。
それは江戸期に起きた2度の津波が原因だと指摘されている。
東海道が整備された初期の吉原宿は、現在の田子の浦港に近い海岸沿いにあった。
今でも地名として元吉原が使われているが、寛永16年(1639年)に津波により壊滅し、
和田川を遡った依田原辺りに宿場(中吉原)を移したのだと。

『左富士神社』と書かれた扁額。



溶岩岩にのる狛犬。



社殿。
和田川の東岸、南北に通じる東海道に東面して鎮座し、ふるくから依田橋の氏神として
祀られてきた社。約150m北方の名勝・左富士にちなんで左富士神社と号するが、
明治41年までは悪王子神社と称し、社叢は「悪王子の森」と呼ばれていたと。



延宝8年高潮に関する宝暦5年銘の記念石碑・『義隄記』碑。



『義隄記』。



左富士神社境内に設ける「依田橋村一里塚」碑と一里塚のモニュメント。
吉原宿の2度の移転に伴い一里塚も移され、延宝8年(1680年)中吉原から新吉原へ
宿場が移ったときに、ここ左富士神社の北側に新たな一里塚が築かれた。



「依田橋村の一里塚
慶長七年(1602)、徳川家康は東海道(五街道)に一里毎に塚を築き榎や松を植え、旅人の憩の
場所としました。
『田子の古道』によると、元吉原宿時代には、田嶋村付近(現港湾付近)に一里山を築いたと
あります。その後、寛永十六年(1639)、元吉原宿(現鈴川)から中吉原宿(現荒田嶋付近)に移転、
その時、一里塚は『日本分国絵図』によると、津田村西側付近に描かれています。
延宝八年(1680)、水害により中吉原宿は新吉原宿(現吉原商店街)に移りました。その時、
一里塚は依田橋村の左富士神社の北側に描かれています(東海道分間絵図)。
江戸から三十四番目の一里塚です。
また、依田橋村の一里塚について、『駿河新風土記』は、『左右一つズツあり、駿河より
右の方の塚は、潮除堤の上に、左の方の塚は依田橋田の内にあり、壱畝歩ばかり』とあります。
現在、民有地になっているため、左富士神社の境内に、一里塚跡の石碑を建立しました。
吉原宿と共に、この一里塚は三度所替えした事になります。」



東海道分間延絵図 文化3年(1806)の依田橋村。



境内には様々な写真が展示されていた。



四季折々の姿が。



富士山頂をズームで。



境内にあった道祖神。



『左富士神社』を後にし北に進むとあったこの石碑は?



旧東海道の交差点からの富士山はまだ正面に。



『東海道 名勝 左富士』
「東海道を東から西に行くとき、富士山は右手に美しい姿を見せますが、この辺りは
松並木の間から左手に見えることから”左富士”と呼ばれて、街道の名勝となりました。
この現象は、江戸時代に、災害を逃れるため吉原宿が二度の移転をしたことに由来します。
東から西に真っ直ぐ延びていた東海道が急に北方へまわり込み、道筋が一時的に北東を
向くとこの辺りで、左手に富士山を望む形となります。
江戸時代の著名な浮世絵師・歌川広重が描いた『東海道五十三次内吉原』は
左富士の名画として大変よく知られます。
今日、周辺には工場、住宅が立ち並び、かっての風情はありませんが、
わずかに残る一本の老松は往時の左富士をしのばせてくれます。」



『名勝 左富士
右方に見える黒い山は愛广山である。左に富士山を眺めながら馬に乗った旅人が行く。
前方の馬は背の両脇に荷物を入れたつづらを付け(37.5kgずつ)、その上にふとんを敷いて旅人を
乗せている。この方法はのりじりといい賃銭がかかった。手前は馬の鞍の左右にこたつの
やぐらのようなきくみを取り付け、それに三人の旅人が乗っている。
これを「三宝荒神」といっていた。」



絵にも描かれていた松の木も。



静岡ではお馴染みの夢舞台東海道道標・吉原宿 左富士。



『名勝 東海道左富士』と書かれた道標が。



そして漸く『左富士』が姿を現す地点に。



『安藤広重 東海道五拾三次 吉原 左富士』
この辺りから描いた作品であろう。


  【 https://www.benricho.org/Unchiku/Ukiyoe_NIshikie/hiroshige53tsugi.html 】より

富士依田橋郵便局脇の『馬頭観音菩薩』の石碑。



その隣りにあった祠。



前方に見えて来たのが『平家越え橋』。



橋の入口には『平家越え』と。



『平家越の碑』



「平家越
治承四年(1180)十月二十日、富士川を挟んで、源氏の軍勢と平家の軍勢が対峙しました。
その夜半、源氏の軍勢が動くと、近くの沼で眠っていた水鳥が一斉に飛び立ちました。
その羽音に驚いた平家軍は、源氏の夜襲と思い込み、戦いを交えずして西に逃げ去りました。
源平の雌雄を決めるこの富士川の合戦が行われたのは、この辺りといわれ、『平家越』と
呼ばれています。対岸は平家軍」
絵の右上角には「駿州富治川ニ於源氏勢揃ス水鳥数多立チ平軍羽音ニ驚ク」とある。



『平家越』の石碑。



和田川の上流部。



和田川と富士山。



富士山頂の上空には傘雲が姿を現す。



『依田原山神社』
表参道の鳥居は昭和11年奉献され扁額には「山神社」と。



『手水舎』。



『拝殿』。
旧東海道の南側に、大山祇命をまつる山神社が鎮座。
この界隈は吉原宿の「東木戸」があったところで、これより以西が東海道の宿駅・吉原宿だった。
山神社は火災で古記録を失い、創祀は判然としないが、社伝によると古くから依田原の
氏神として祀られてきたという。中吉原宿を所替えに追い込んだ延宝8年(1680)の
高潮をはじめ、万延元年(1860)大火、明治16年暴風、昭和49年台風26号など
災害で大きな被害を受けたが、そのつど再建されたのだと。



拝殿正面。



神社裏の道路の角にあった『依田原山神社』の灯籠。



前方に岳南電車岳南線の踏切が現れた。
岳南線(がくなんせん)は、静岡県富士市内のJR吉原駅にある吉原駅と岳南江尾駅とを結ぶ
岳南電車の鉄道路線である。



『東海道 吉原宿 東入口 岳南商店街』案内板。



踏切手前を左に入り、『青陽山 陽徳寺』を訪ねた。
右手に鐘楼が。



多くの地蔵様が。
眼病・無病息災などで信仰を集めており本尊の地蔵菩薩が「身代わり地蔵尊」として
近郷近在に知られ、地元では「身代わり地蔵さん」と親しく呼ばれているのだと。



『身代わり地蔵さん』と。
俗称「身代わり地蔵尊」については、次のように伝えられていると。
そのむかし現在の吉原一丁目付近は寺町と呼ばれその界隈で眼病が大流行したことがありました。
町の人々は困り果て、このお地蔵さんに願掛けをしたところ、病状はたちどころに快方へむかい、
その代わり地蔵の目は目ヤニでいっぱいになっていたのだと。



『本堂』。
毎年7月23,24日にはこのお地蔵さんの縁日が盛大に行われ多くの人が訪れます。
本尊のほか、閻魔王や奪衣婆、地獄・極楽を描いた大絵曼荼羅が開帳され、本堂では
新盆の方のご供養が行われると。



『鐘楼』。



『積善供養塔』。
一般的に、「積善」は善行を積むことをいい、「供養」は仏などに供物をささげること。



『南無阿弥陀佛』と刻まれた石も。




                  ・・・つづく・・・






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Last updated  2020.04.28 14:41:47
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