JINさんの陽蜂農遠日記

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2019.04.23
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次

富士川橋交差点を右折し、川沿い側を富士川の上流方面に進むと右手にあったのが
『富士川 間宿 岩渕 渡船場跡』の道標。



そしてこの場所からの富士山。



暫く進むと『角倉了以翁の紀功碑』と『富士川渡船場跡』の石碑が。



『角倉了以翁の紀功碑』。



石碑の道路側面には『昭和十二年春日 富士川町』と。



「角倉了以翁の紀功碑
京都の豪商、角倉了以( 1554 1614 )・素庵( 1571 1632 )の父子は、慶長12年( 1607
同19年( 1614 )両度にわたり、幕府から富士川の開さくを命じられました。
その水路は、岩渕河岸(現在地付近)から鰍沢河岸(山梨県鰍沢町)の間約十八里( 71 km)で、
大変な難工事の末、完成しました。これにより、富士川水運は明治44年中央線が
開通するまでの約300年間、甲信地方と東海道を結ぶ交通の大動脈としての役割を果たし、
岩渕河岸は「下り米、上り塩」の中継地として繁栄しました。
町では、了以の偉業を顕彰し、後代まで伝えようと、昭和12年、田中光顕伯爵の助言を受けて、
富士川橋の脇にこの紀功碑を建立しました。その後、一時町立第一中学校校庭に移転し、
平成2年4月に現在地に再移転したものです。

渡船「上り場」常夜燈
慶長7年( 1602 )6月、東海道往還の富士川渡船が開始され、同19年には甲州三河岸
(鰍沢・黒沢・青柳)との通船が行われました。
東海道を上下する旅行者や通船関係者は、この「上り場」を通って船に乗り、また街道にでました。
「上り場」常夜燈は、富士川渡船と甲州通船の交通安全を祈って、文政13年( 1830 )正月、
甲州三河岸・岩渕河岸商人・富士川渡船関係者らが再建したものです。」



渡船「上り場」常夜灯。



『船形の植樹桝』。



「この「船型」の植樹桝群は、平成元年度県道富士川・身延線の修景工事として完成したものです。 
江戸時代、ここに富士川渡船や甲州との水運の基地としての岩渕河岸がありました。
渡船には、定渡船(長さ10.3メートル、幅1.57メートル)六艘、
高瀬船(長さ13.2メートル、幅1.8メートル)十八艘があり、一方甲州三河岸との通船には
高瀬船(笹船または小廻船とも呼ばれた)三〇〇艘(明治時代には八〇〇艘)があり、
これら多数の船が出入していました。
富士川は街道一番の急流である。東海道では平常は船渡しで、船賃は一人16文(352円)。

満水時には船を止めるが、乾季には徒歩渡り(かちわたり)もできたとのこと。
この「船型」は、定渡船の規模を再現し、それにシラカシの木を帆に身立て、舳先を上流に向けて
富士川を溯った高瀬船をもイメージしています。」



そして道路の反対側にあったのが一里塚の案内柱。
ここから0.97km、徒歩にて17分と。



一里塚の案内柱の先を左折し坂を登って行く。



旧東海道・岩渕宿の街並みが続く。



富士川橋から遠望した『光栄寺』入口。
左に「南無妙法蓮華経」の題目塔が。



『本堂』。
本尊:一塔両尊四士。富士川橋西方の丘陵にある日蓮宗寺院。

万治元年(1658)、門弟日浄が豪商・大村氏の助力によって現在地に移し、山・寺号をつけた。



本堂に掛かる『岩正山』の扁額。



ここにも常夜灯が。



境内から望む富士川橋。



境内から望む富士山。







生け垣のある旧東海道を更に進む。



歴史を感じさせる棟門(むねもん)。
2本の門柱(本柱)に切妻屋根を設けている門。



ここにも常夜灯が。



宿場内には、道路両脇の側溝の蓋に『東海道ルネッサンス』のプレートが。
「東海道は、西暦1601年、徳川家康によって宿駅・伝馬制度が定められて以来、
日本の大動脈として文化交流のうえからも、産業経済発展のうえからも欠くことのできない
主要な交通路となりました。
そして安藤広重の「東海道五十三次」や十返舎一九の「東海道中膝栗毛」に見られるように、
街道と人々の関わりや、多くの歴史的遺産が現在に継承されています。
その後、東海道は、今日に至るまで我が国の最も重要な交通路として、形を変えルートを変え
整備が進められてきました。
「東海道ルネッサンス」は、現代の道、そのルーツともいうべき東海道が地域の発展に寄与した
歴史をたどり、各種の歴史的遺産を保存、活用して、歴史・文化を活かした道づくりを
提案していきます。」



静岡県内の東海道22宿(宿名は広重版画保永堂版による)。
東海道53次のほぼ40%の宿場が静岡県内にあるのだ。



『清源院』への階段。



清源院境内からの富士山の勇姿。



清源院境内からの富士川JR跨線橋とその先には現国道1号線の新富士川橋。
その奥には駿河湾そして伊豆半島が。



清源院境内からの富士山の右側に見える山々。
愛鷹山は静岡県の東部にある山。富士山の南隣に位置する火山である。
最高峰は標高1504.2mの越前岳。狭義には南方にある1,187.5mの愛鷹山峰を指す。
愛鷹山塊や愛鷹連峰とも呼ばれることがある。日本二百名山の1つ。
写真の一番左が越前岳(1504m)、中央が位牌岳(1457m)、一番左が愛鷹山(1188m)。



清源院 本堂。本堂には『清源院』と書かれた扁額も。



鐘楼。



更に境内奥の上の林の中にも神社が。



天満天神宮。



歌碑。
「森こゆる鵜の群れは富士川の冬の出水うへにみたれつ」。



『水子・子育観世音菩薩像』



『南無阿弥陀仏碑・庚申塔・観世音菩薩碑』



『六地蔵尊』。



『富士山と歩く 歴史街道「逢の宿岩淵」散策マップ』。



岩渕宿は、吉原と蒲原の間宿で、旅人の宿泊は許可されていなかったので、
船を待つ人が休む小休本陣と脇本陣があった。ここは小休本陣だった常盤家住宅主屋で、
今でも黒塀で立派な門構えの家。



『小休本陣常盤邸正門』



脇から。残念ながら内部の見学は土、日のみとのこと。



『歴史街道「間宿岩淵」案内』。



『曹洞宗 光福山 新豊院』。



山門への参道。
本尊は釈迦牟尼佛。毎年3月中旬に開催される大観音大祭で知られる曹洞禅刹。



前方、右に急カーブの場所の小高い盛り土の上に大きな樹が。



ここが『岩渕の一里塚』
当時のまま左右二箇所に。この一里塚は江戸から37番目で、岩渕村と中之郷村の村境に
立っていたと。当時この付近には名産の栗ノ粉餅を売る茶店が立ち並んで賑やかであったと。
大きな西側の一里塚に生える榎は江戸時代のものだ、東側の榎は昭和42年に枯れたので、
二代目であると。こちらは1代目の榎。枝の先端が大きく伐採されていたが。



こちらが2代目の榎。



『史跡 岩渕の一里塚』碑。



「県指定文化財第539号
史跡 岩渕の一里塚
江戸時代の築造された東海道の里塚である。
慶長9年( 1604 )2月、幕府は東海道の一里毎に、五間(約9m)四方の塚を築いて
榎を植え「一里塚」と呼び大名の参勤交代や旅人の道程の便を図った。
この一里塚は、起点である江戸日本橋から37里目にあたる。
この地は、岩渕村と中之郷村の村境で、付近には岩渕名産「栗ノ粉餅」を売る茶店が
立ち並んでいた。また、東側の塚の榎は虫害のため昭和42年枯死してしまった。
そこで、昭和45年3月、二代目を植えたものである。」



『富士川 間宿 岩渕 一里塚跡』道標。



ほぼ直角にカーブする場所。



少し離れた場所から、道路の両側に在る一里塚の榎を。
ここもモール化して欲しいのであったが・・・。



1代目の樹齢は約400年?



『東海自然歩道バイパスコース(富士川コース)』案内板。
既存の東海自然歩道ルートは、緑に囲まれた山間部を通過するコースが多くなっているため、
場所によっては坂道が続く、健脚向きのコースや交通アクセスの余り良くない地域がある。
このため、静岡県では、新たにアプローチの良い、比較的平坦なバイパスルートを設定した
のだと。




                             ​ その2 ​  に戻る。

                  ・・・​ つづく ​・・・





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Last updated  2020.04.28 14:50:41
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