JINさんの陽蜂農遠日記

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2019.08.11
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カテゴリ: 海外旅行
『203高地』を後にし、『革新街』をバスは進む。



左手には『大連市大五十六中学』が。



『新华大街』への入口を通過。



『新华大街』を東に進む。



『肃亲王府旧址』。
清朝八大親王の筆頭 粛親王の旧邸宅であると。
1900年にロシア人経営のホテルとして建築。建物面積1058㎡。1904年までホテルとして
使用された後、1905~12年までは関東軍民生部長官が使用。
1912~1945年まで粛親王一族の邸宅として使用した建物であると。

他にも、1932年には新京(長春)移動前の愛新覚羅溥儀が妻の婉容とともに滞在していると。
1945~55年前ではソ連軍進駐管理。1955年に中国返還。以降は人民解放軍が管理していると。



『肃亲王府旧址』。
大連市旅順口区新華大街9号。



『钱幣博物馆』



『中苏友誼紀念塔』。
中ソ友誼記念塔は、旅順の新市街、旅順博物館と旧関東軍司令部の間に建っていた。
1957年の竣工で、高さ22.2メートル。
旅順といえば、日本人にとっては二〇三高地や白玉山塔が定番の名所であるが、
ロシア人にとってはここなのであろうか。



塔には、中ソを代表する建築物や両国の人々が友好を深める場面のレリーフが。







頂上には、ソビエト連邦の国旗に記された鎌と槌そして中国側は「五星紅旗」。
大星は中国共産党と人民の団結を、4つの小星はそれぞれ労働者・農民・知識階級・
愛国的資本家を表わし、黄色は光明を象徴する。また同時に、大星は中国本土を、
4つの小星はそれぞれ満州・モンゴル・ウイグル・チベットを表わすとも言われる。
経済学者でもある曾聯松のデザインによるもので、1949年9月に制定された。




『中苏友誼紀念塔』。



『旅順・旧関東軍司令部』。
旅順新市街に位置し、旅順博物館の向かい側にある建物。建物が観光用に開放されていると。
日露戦争の時、旧日本軍が遼陽にて関東総督府設置したが、1906年に旅順へ移転した、
関東都督府へ改称し、下に陸軍部を設けた。
1919年、都督府がなくなり、陸軍部は関東軍司令部となった。当時の司令官は立花小一郎。
1932年、旧満州国が長春にて成立されたが、同時に関東軍司令部も長春へ移転した。
それまではここが泣く子も黙る関東軍の本拠地だったのだ。
関東軍とは陸軍の一部だが、なぜ関東軍は天皇の意思に反してまで、ここまで暴走することが
出来たのだろうか。昭和天皇は、張作霖爆殺事件の時、その真相について曖昧な説明で
誤魔化そうとした田中義一首相に辞任を求めたり、満州事変からも対米開戦までずっと
平和協調主義をとっていた。にもかかわらず関東軍が強気に出られたのは、
中国大陸の鉱山の利権や満州の農業・工業に日本経済の命運がかかっていたから
なのであろうか。
その様な旧関東軍司令部の建物が今は観光用になり、建物内には当時の物と写真など
が展示されていると。
ここも内部を見たかったが、ツアーコースには入っていなかったのであった。



そして『旅順博物館』。



浄土真宗本願寺22代法王・大谷光瑞は、若い頃イギリスに留学しすっかり西洋かぶれし、
帰国後、門徒にオルガンに合わせて「讃美歌」ならぬ「賛仏歌」を歌わせる傍若無人ぶりを発揮。
さすがに皆の反感を買い、法王の座を弟に譲ると、何を思ったのか突然探検家になると言い出し、
シルクロードへ発掘の旅に出た。ここ旅順博物館は、その大谷光瑞が1902年から1914年に
発掘したお宝をメインに展示している博物館なのだ。
もともとはロシア将校クラブとして起工され未完成のままだったが、1917年に日本が
考古館としてオープンさせたのだと。
近づいて。



全国重要文物保存単位の文字とともに『関東庁博物館旧址』の文字があった真新しい石碑.



右足の下に球を抑え込んだ雄の狛犬。



『旅順博物館』入口。
『旅順博物館』の扁額が懸った建物正面光景。
郭沫若の揮毫のようです。
文化大革命中の1972年からは、一時閉鎖されていたと。



斜め横から。



無料開放の連絡パネルであろうか。



ここ中国遼寧省大連市旅順口区にある1917年開館の旅順博物館は、2006年に
全国重点文物保護単位に指定され、2008年に第1期国家1級博物館に選ばれた。
同博物館は国家1級文物200点を含む文化財6万点余りを所蔵しているのだと。
『旅順博物館平面配置図』。



『铜钟』。
元代(公元1271年~1368年)。
元国は大元元朝とも呼ばれ、中国とモンゴル高原を中心とした領域を支配した。
日本への蒙古襲来は、鎌倉時代の1274年の文永の役と、1281年の弘安の役の2度。
主に九州北部が戦場となった。モンゴル帝国とその属国の高麗王国の艦隊が押し寄せた。
それまでの戦役では、世界史上最大規模の艦隊とされると。



『青銅工芸陳列室』。



商代の青銅器。



『田告罍』。



『铜鼓』。
大きな戦いなどの時に、戦場に持ち込んだ太鼓であろうか、
中国南部からインドシナ半島,インドネシアに分布する青銅製の片面鼓。
起源前2世紀頃に始まり、近代まで作製されていたと。



『戈』。



『陶瓷工芸陳列室』。



『唐三彩』コーナー。



『唐三彩文官俑』。



『唐三彩』の駱駝。



『唐三彩』の馬。



『三彩印牡丹紋图盘』



『緑釉扁身双孔式皮嚢壺』(左)と『緑釉圆身环梁式鸡冠壺(右)』



『粉彩福寿紋長顎瓶』(左)と『粉彩八宝紋盘』(右)。



『青花錦紋綬帯耳扁壺』。










『素三彩双花戏珠紋盘』。



『釉里紅花紋長顎壺』。



シルクロードで大谷が発掘したミイラの展示室を入口から。
内部は撮影禁止。



『大雅斋款黄地墨彩四季花卉图缸』



『静远堂制粉彩梅雀 心瓶



美しい色彩の壺。



こちらも。



美しい仏像。



四天王像。
左は琵琶を手にしているから、『東方持国天』
右は『北方多聞天』。



『南方増長天』。



『西方広目天』。



『羅漢像』。



ズームで。
羅漢像(左側)



ズームで。
羅漢像(右側)。



『佛降魔成道座像』。



1階に飾ってあった仏像。阿弥陀仏銅立像。
余り目にしたことが手印の像。明代(1368〜1644年)の製作。
右手は施無畏印、左手は結与愿印と解説されていた。



剃髪の姿ですから、螺髪が普通の姿である、仏陀とは違う?。



『铜鎏金阿难立像』



中国国内外から収集した青銅器、彫刻、磁器、陶器、仏像などの収蔵品を大いに
楽しむことが出来たのであった。


                              ・・・​ もどる ​・・・

                   ・・・​ つづく ​・・・





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Last updated  2019.11.02 00:09:01
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