PR
Keyword Search
Comments
Calendar
『旧東海道を歩く』ブログ 目次
今回は水口宿から出発し、石部宿、草津宿、大津宿、三条大橋まで3日間の歩きとなりました。
昨日は「大津駅」を7:45に出発し、「大津宿」、「逢坂の関記念公園」を通過し「大津・追分」
から「山科」、そして「天智天皇 山科陵」を訪ね、その後「蹴上インクライン」から
「三条通り」に入り、柳の新緑が美しい「白川」沿いにあった「明智光秀首塚」を訪ね
遂に「日本橋」から492kmを延べ32日間で完歩し、「京都・三条大橋」に13時JUSTに
到着しました。
「完歩」の記念撮影。
東海道五十三次の絵図が描かれた手ぬぐいを持って撮影しましたが、風が強くて。
彌次・喜多で仲良く。
この手ぬぐいは「袋井宿」で購入。
この手ぬぐいには距離:約495kmと。
こちらは出発点の「日本橋」から。
「鴨川」に架かる「三条大橋」。
「三条大橋」を渡る。
渡りきった西橋詰左手に『弥次喜多像』。
十返舎一九の東海道中膝栗毛に登場するお馴染みの人気者の二人が銅像に。
今回の「旧東海道を歩く」は、我々もSさんとの「弥次喜多道中」なのであった。
もちろん、私が「文武に優れ、真面目、世情に疎く、人にだまされやすい」・「弥次」さん!!
そして、旅友のSさんは、「女性好き、喧嘩が強く、豪放磊落な性質」の「喜多」さん。
東海道中膝栗毛とは異なり、実際の年齢は「喜多」さんが大先輩で反対ですが・・・。
『弥次喜多像』の前で記念撮影。
『歌川広重 東海道五拾三次之内 京師 三条大橋』
「江戸・日本橋を起点に始まった東海道五十三次の旅も、この京の玄関口、三条大橋が
終着地点である。鴨川に架かる三条大橋。川の向こうには古都の町並み、その背後には
東山三十六峰が見える。この三条大橋の橋桁は木組みで描かれているが、
実際の三条大橋は石組みだった。この点を含め、リアルに描かれていたのは「三島」あたり
までで、以降の宿場は想像や他の資料に基づく図が多くなっていることから、広重が
八朔御馬進献に同行し京へ上洛したとの説を疑問視するむきもある。
橋の上には雅やかな姿も見られ、そこを渡る人々の取り合わせもおもしろい。
遠景には東山36峰と比叡山が描かれている。
当時、江戸・京都間を普通に歩けば十数日の行程であったという。」
【 http://chisoku.jp/collection/au-0014/i00420/
】より
『弥次喜多像』横から『三条大橋』を見る。
「三条大橋
この橋の架けられた年代については明らかでなく、室町時代前期には、すでにごく簡素な構造を
もつ橋として鴨川に架けられていたものと推定されるが、本格的な橋となったのは
天正十八年(1590)で、豊臣秀吉の命によるえい奉行増田長盛が大改造を行った。
また、擬宝珠は天正と昭和のものが混用されているが、その銘によると、「洛陽三条の橋は
後代に至るも往還の人を化度とせしむるもの也、磐石の礎は地に入ること五尋、切石柱は
六十三本也(以下略)…」とあり、いかに大工事であったかをうかがわせる。
かつてはここが東海道五十三次の西の起点にあたり、重要な交通上の要衝であった。
以後たびたび流失したが、幕府が管理する公儀橋としてすぐ修復された。
元禄以来、たびたびの改造を経てきたが、昭和二十五年の改造によって今の姿に改められた。
現在の橋の長さは七十四メートル、幅十五・五メートル。なお、橋の西詰めは、高札場とされた
ところで、現在も天正年間の大改造の際に使用された石の柱が残されている。」
「四国八十八ヶ所霊場めぐり」では結願の寺となる第88番札所「大窪寺(おおくぼじ)」で
」でしたので自ら「完歩証」を
作って遊んで見ました。
今回の「旧東海道を歩く」のエピローグは後日、ブログにアップさせていただきます。
さて次は何に挑戦するか思案中です。
藤澤浮世絵館・「御上洛東海道と幕末の浮… 2020.08.14
藤澤浮世絵館・「御上洛東海道と幕末の浮… 2020.08.13
藤澤浮世絵館・「御上洛東海道と幕末の浮… 2020.08.12