JINさんの陽蜂農遠日記

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2020.07.02
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カテゴリ: 藤沢歴史散歩
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「貞宗寺」を後にし、県道302号線に再び戻り、先ほど訪ねた「久成寺」方面に歩を
進め、ファミリーマートの先を右に曲がり、緩やかな坂道を上って「玉縄城址」方面に
向かって行った。



神奈中「陣屋坂(じんやさか)」バス停前を通過。
玉縄城が廃城(1619年) になった後に玉縄領を預かった松平正綱が、この辺りに陣屋を
構えたから「陣屋坂」の地名が出来たという。1698年(元禄十一年)正綱の作った陣屋は




左手にあった「陣屋坂公園」の先で「陣屋坂」は大きく左(西)にカーブ。



更にしばらく上って行くとT字路がありその近くの高台のフェンス越しに朱の鳥居が見えた。



「相模陣稲荷神社」。
「相模陣」という地名も、玉縄城の南側を守るための陣屋があったため付けられた名称と
考えられている。1619年(元和5年)、松平正綱が陣屋を造ったといわれている。
「相模陣稲荷神社」は、陣屋坂を上りきる手前にあった。
この「陣屋坂」は、「七曲坂」と「ふあん坂」の間にある坂。
「ふあん坂」は、玉縄城から久成寺へと下る急坂で、玉縄城の防禦にとって重要な
役割を果たした坂。



階段を上がり「社殿」へ。
「社殿」前には、「正一位稲荷大明神」と書かれた幟が対で。




そして更に「陣屋坂」を上って行くとT字路に到着。



右手に進むと「七曲坂」そして「玉縄城跡周辺」にとの案内。



玉縄城方面に向って更に住宅街を進む。



大手門跡、現在の清泉女学院の裏門(?)である。玉縄城の本丸があった場所は、現在は
清泉女学院という中学・高等学校の敷地になっているのだ。学校の正門側にも遺構が

立ち入れないのようであった。
「玉縄城址」案内板。
玉縄城は永正九年(1512)北条早雲(伊勢宗瑞)によって築かれた城です。
城が築かれた場所は古くは鎌倉街道、後に東海道と鎌倉を結ぶ中継地点という交通の要所に
ありました。北は大面川、西に滝ノ川(旧柄沢川)、東から南にかけては柏尾川があり、
水運と同時に天然の水堀の役目も果たしていました。城主は初代氏時、二代為昌と北条本家から
輩出された後に、本家が最も頼りにしていた武将である綱成が継ぎ三代となり、さらに
氏繁、氏舜、氏勝と綱成の家系が続きました。これら名君揃いの城主が守った玉縄城は、
その堅固さから一度も攻め落とされることはなかったが、天正十八年(1590)豊臣秀吉の
小田原攻めの際、徳川家康軍の説得に応じて開城しました。その後、徳川方の城になって、
元和元年の一国一城令により、元和五年(1619)廃城となりました。」



道路の左上、たちいりきんしの先には、清泉女学院中学高校のグランドがあるようであった。



「植木1号市民緑地」案内板。



「16世紀の玉縄城想像図」。



「玉縄城は、永正9(1512)年。伊勢宗瑞(北条早雲)によって築かれました。
天然の要害となる丘陵に空堀や土塁、曲輪などを加えた戦国時代の広大な山城で、
「東国無双の名城」でした。当時をしのぶ地形は、七曲坂、太鼓櫓址、諏訪壇、ふわん坂などに
残っています。玉縄城主として特に有名なのは不敗の名将。黄八幡の北条綱成です。
その一門は玉縄衆と呼ばれ、鎌倉を守る役割を負っていました。天正18(1590)年、豊臣秀吉の
小田原城攻めのとき、六代城主氏勝は徳川家康の説得で無血開城し、元和5(1619)年に
廃城となりました。」



舗装道路が終わり、細い山道状の石段を下って行くのであった。



陣屋坂の上のT字路の一角の、民家の横の小さな空間の草叢の中に、ここが玉縄城址で
あることを伝える石碑があった。、陣屋坂に面した側から小さな階段を登ったところ。
「玉縄城
「玉縄城ハ永正九年十月北條早雲ノ築クトコロタリ 大永享禄ノコロハ北條氏時之ニ居リ
天文初年ヨリ一族北條綱成居城ス 天正十八年小田原北條滅亡ノ際城主氏勝降伏シ
後城ハ徳川氏ノ有トナリ 程ナク廃城トナリシモノナリ」。

【玉縄城は1512年10月に北条早雲(そううん)が築きました。1521年頃から1542年頃までは
北条氏時(うじとき)がこの城主であり、1542年からは一族北条綱成(つなしげ)が城主に
なりました。1590年に小田原の北条氏が亡んだ時、城主の氏勝は降伏し、城は徳川氏のものと
なりました。その後ほどなく、城は廃止されました】



しばらくはひたすら階段が続いていた。



山の斜面にはヤマユリが咲いていた。



最近は、自然のヤマユリはあまり見かけることが、少なくなってしまったのだ。



坂の途中には七曲の防衛の拠点である武者だまりの広場が存在し、休憩スペースとなっていた。
「七曲坂武者だまり址
鎌倉街道中之道や江戸湾(現在の東京湾)から攻め上ってきた敵から玉縄城の中心部を守る
武者たちが防御の拠点にした平場でした。武田や上杉あるいは里見や徳川の軍勢も
攻め込めなかった玉縄城の堅い守りの一つです。」



玉縄城址 歴史の道「七曲坂」。



「玉縄城緑地ボランティア活動日のご案内」。



そして「七曲坂」の出口(入口)にあった冠木門を潜り振り返る。



「鎌倉・玉縄城を偲ぶコースマップ」。



そして更に下って行くと左側にあった丸い建物は「認定こども園 鎌倉みどりこども園」。



更に下っていくと右手にあったのが「玉縄城長屋門」。



現在地元の方の民家・小坂邸の一角に位置し、私有物となっているようで、中に立ち入ることは
出来ないようであった。
この長屋門の辺りは、玉縄番匠跡で城郭や寺社の大工集団が集まっていた場所であると。



長屋門に近づいて。



県道402号線に出て左折して進むと、前方が「諏訪神社前」交差点。



「諏訪神社前交差点」を渡り少し進むと右手奥に諏訪神社の銅製の鳥居が迎えてくれた。



鳥居の扁額には「諏訪・御霊両太神」と書かれていた。



「社務所」が左手に。



境内石段登り口の「由緒」と書かれた石碑。



「由 緒
この神社は、今からおよそ四百二十年前当時の玉縄城主 北条綱成公が、軍神の称ある
信州諏訪の建御名方冨命・八 坂刀売命二座の神霊を玉縄城内の諏訪壇に勧請したものと
伝えられている。
その後、神社は元和年間玉縄城の廃城、さらに幾星霜を経 て現在のこの位置に移された。
この時すでに鎌倉権五郎景 政一門の霊を祀った御霊神社があり、この神社と諏訪神社と
合祀され村民の両大社への崇敬あつく、五穀豊穣、村内 安全と繁栄を祈願する祭典が
毎年行なわれている。
ちなみに北条綱成公は、黄八幡といわれた有名な武将であ ったが、天正十五年七十三才で
没した。公一門の墓は社殿 脇の山頂にある。」



「社殿」。



「大船町」と「玉縄村」の「合併記念」の奉納額が「社殿」に掲げられていた。
昭和8年(1933)玉縄村は大船町に編入、そしてその後、昭和23年(1948)大船町は
鎌倉市に編入されているのであった。



「諏訪 ・御霊 両大神」と書かれた扁額。
諏訪神社の祭神はもちろん建御名方神(たけみなかたのかみ)、もしかすると
妃神・八坂刀売神(やさかとめのかみ)を合祀。
御霊神社の祭神は鎌倉権五郎景政。



そして「社殿」の向かいにあったのが「舞殿」。
「舞殿」に腰掛けてしばしの水分補給の休憩とオニギリを1個、補給したのであった。




                              ・・・​ もどる ​・・・

                   ・・・​ つづく ​・・・






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Last updated  2021.08.01 20:46:35
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