JINさんの陽蜂農遠日記

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2020.07.09
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カテゴリ: 藤沢歴史散歩
​【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】​

​6月23日(火)の早朝に近くにある「相州藤沢 白旗神社」に新車で久しぶりに行って来ました。
手前に「御典橋」とその奥に「鳥居」。



「白旗神社」社号標石。
平成8年8月に建立された。社名の「白旗」は平家の赤旗に対する源氏の旗。
源平の戦いの時に敵味方を区別するものとして使われ、このとき以来、源氏の象徴として
白旗が用いられることになったのだと。



「大御神灯」
慶応元年(1865)6月に建立、高さ17尺(5.1m)、台座の底辺は7尺(2.1m)。




高さ8m、幅6mの明神鳥居で、昭和59年12月に建立された。
地震対策のために軽量で耐久性のあるグラスファイバーを取り入れ、建設時には
新聞、テレビ、週刊誌等で報道されたのだと。



「手水舎」。
この「手水舎」は平成5年7月に建てられた。
手水石は真鶴の銘石、小松石で作られている。参拝の前に身を清める場所。



そして社殿への階段の両側には狛犬が。



「白旗神社
御祭神 寒川比古命 源義経公
配神  天照皇大神・大国主命・大山祇命・国狭槌命
由緒

しかし、くわしくはわからない。
鎌倉幕府によって記録された『吾妻鏡』によると、源義経は兄頼朝の勘気をうけ、
文治5年(1189年)閏4月30日、奥州(岩手県)平泉衣川館において自害された。
その首は奥州より新田冠者高平を使いとして鎌倉に送られた。高平は腰越の浦に着き、
和田義盛・梶原景時によって首実検が行われたという。伝承では、弁慶の首も同時におくられ、

このことを鎌倉(頼朝)に伝えると、白旗明神として此の神社に祀るようにとのことで、
義経公を御祭神とし、のちに白旗神社とよばれるようになった。弁慶の首は八王子社として
祀られた。」



「旧東海道・藤沢宿」案内地図。
​ーー​ が旧東海道。



そしてこの日の撮影の目的の「源義経公武蔵丸弁慶公之像」。
この「源義経公武蔵丸弁慶公之像」は昨年・2019年(令和元年)10月竣工。
源義経公没後830年の「​ 記念事業 ​」👈リンク の一つとして建てられたのだ。



馬に乗る「源義経公」。
平安武将の大鎧を再現した見事な源義経騎馬像。
鎧だけでなく、馬具・轡(くつわ)なども忠実に再現したのだと。



そして「武蔵丸弁慶公」。
武蔵坊弁慶が主君の義経を仰ぎ見る忠義の士の姿。



「義経公・弁慶公の御首は、文治5年(1189)6月13日に腰越の浜で首実検の後、金色の亀に
乗り当地に辿り着いたと伝えられています。義経公の首塚は、現在の位置より北に40メートル、
当社から南に150メートルの場所にあり、その御霊は当社に祀られました。
一方、弁慶公の弁慶塚は藤沢宿 常光寺内にあり、その御霊は常光寺内の八王子社に
祀られていましたが、現在は塚のみを残しています。一般的に神社は南向きか東向きに
建てられていますが、この八王子社に限っては、主君 義経公が祀られている白旗神社の方を
向いていたため北向きに建てられていたと謂います。
此度、令和御大典の嘉年と主従役儀830年の佳節を吉年とし、ここに源義経公・武蔵丸弁慶公の
銅像を建立し、御霊の平安と隆昌を永年に亘り祈り奉ります。」



境内の「令和ニ年庚子歳 干支絵馬」。
この絵馬は藤沢市在住の漫画家 佐野絵里子氏による原画をもとに奉製した絵馬であると。
牛若丸と静御前。夫婦岩を意識した配置となっている。
2020年、令和2年の干支・ネズミが遊んでいる綱が注連縄か。



「湯立神楽 舞台」。



「藤沢市指定重要無形民俗文化財 湯立神楽
白旗神社 を中心に神官 により継承されている神事芸能 。湯立てを伴う神楽で、湯花神楽 、
鎌倉神楽 等の名称で、藤沢 、鎌倉 から三浦半島 一円におよんでいる。古くは、関東 一帯に
分布したとされる神代神楽を源流 とし、鎌倉の鶴ヶ岡八幡宮 の神楽男が伝承し、次第に近隣に
定着したものとされる。「湯立て」という神事手法に組み込まれた神楽には品格があり、舞にも
洗練されたものがある。演目は十一で打囃子、初能、御祓、御弊招、湯上、中入、掻湯、大散供、
笹の舞、弓祓、最後の剣舞・毛止幾で神人共楽の内に終了する。」



「神輿殿」。
昭和54年5月、白旗神社神輿保存会が結成され、これを契機に昭和55年11月に造営された。
中央に儀式殿があり、向かって右に義経、左に弁慶の二基の神輿を収蔵していると。



「御神札授与所・社務所」
昭和51年11月に完成した天平建築様式の社務所。
お神札、お守り、おみくじの頒布、お祓い・お願い事の受付を行っている。



近くにある「​ 義経首洗井戸道しるべ ​」。👈リンク。



「御神札授与所・社務所」前の「義経藤」。



「義経藤」は純白の藤。


   【 https://twitter.com/tanuhashi102/status/1257468445249028096 】より

そして「弁慶松」。



こちらが「弁慶藤」、その手前に「芭蕉句碑」。



「芭蕉句碑
草臥て 宿かる比や 藤の花 文化二年建」。
夕刻、いい加減歩き疲れた。そろそろ宿に入る時分、眼前に藤の花を見ると。
文化2年(1805)に江戸の俳人以足によって建立されたと。



「弁慶藤」は紫。


  【 https://twitter.com/lammy1999/status/1122044834082983939/photo/1 】より

夜になれば。



「弁慶藤」の前から境内の「義経松」、「弁慶松」方向を見る。



境内の反対側には「古神札納所」。



江の島弁財天道標が一番右に。
道標の横には、20数基の庚申塔群があった。



近寄って。
正面に「えのしま道」、側面に「一切衆生」「二世安楽」と刻字されていた。
杉山検校が江ノ島弁財天に祈願し、成就したお礼に藤沢宿から江ノ島まで48基の
道標を建てた。10基が現存し、そのうちの1基。
昭和41年1月17日藤沢市重要文化財に指定された。



藤沢市指定重要文化財となっている「寛文五年庚申供養塔」。



近寄って。



「市指定重要文化財 寛文五年庚申供養塔(有形文化財)
庚申信仰は十干・十二支の組合せによって、六十日に一度めぐってくる「庚申の日」に、
徹夜で無病・息災・長寿を願う信仰である。
「人の体内にいる三尸(さんし)虫が、庚申の夜、天に登ってその人の罪過を天帝に告げるため
生命を縮められる」とする道教の教えに由来している。
この供養塔の中央上の梵字は釈迦如来(主尊)、続く八字ナムアミダブソワーカーの一呪、
下の梵字はここでは青面金剛を表している。
猿像の脚ぼその彫刻は、江戸時代初期のものに見かけられるものである。

「江の島弁財天道標(建造物)
その昔、杉山検校が「多くの参詣者が道に迷うこと がないように」との祈念から
建てられたものと伝えら
れる。もとは四十八基あったといわれ、現在は十基が
残存している。いずれもほぼ同型で、この道標も尖頭 角柱形の三面に「一切衆生」
「金のしま道」、「二世安
楽」と刻まれており、造立者の温情がしのばれる。



「歌川 広重 東海道五拾三次の内 藤澤 遊行寺 」
藤沢は遊行寺の参詣者が多く、江ノ島への分岐点として賑わった。
遠くに北条時宗の本山、遊行寺の伽藍が描かれ、その右手にある家並は道場坂の存在を示し、
大鋸橋を挟んで、江ノ島弁天の鳥居がある。お参りをすませた人々が山門をでて橋を渡り、
鳥居をくぐろうとしている。



奥にあった境内社は共に「稲荷社」。



向かって右。



向かって左はピンボケ。



白旗神社と書かれた白旗には「寒川比古命 源義経公」と。



階段を上がり「拝殿」に向かって進む。



左手に「干支絵馬」。



「拝殿」はもう一つの石段の上に。



境内には義経公に纏わる「鎮霊碑」が。
白旗神社の御首と宮城県栗駒町半官森御葬札所の御骸、両地の魂土を合祀し、義経公の兜を
象った鎮霊碑で1999年(平成11年)に建立された と。



「源義経公鎮霊碑
文冶五年(1189年)閏四月三十日、奥州平泉、衣川の高館で、藤原泰衝に襲撃された
義経公は自害し悲壮な最期を遂げた。その御骸は宮城県栗原郡栗駒町の御葬礼所に葬られ、
また一方の御薗は奥州箆を経て、同年六月十一二日、腰越の浦の首実検後に捨てられたが、
潮に逆流し白旗神社の近くに流れつき。藤沢の里人により洗い清められて葬られたと
語り伝えられる。
本年、源義経公没後八百十年を記念し、両地有志の方々により「御骸」と「御首」の霊を
合わせ祀る鎮霊祭を斎行し、茲に源義経公鎮霊碑を建立する。」



「拝殿」。
現在の社殿は、文政11年(1828)から7年をかけて、天保6年(1835)12月に完成した。
本殿、弊殿、拝殿を連ねた典型的な流権現造り(ながれごんげんづくり)で、外壁部の彫刻は
江戸時代の匠の技が光る貴重な文化財。
昭和55年7月に大改修工事が行われ、平成16年2月に社殿回廊に高欄が設置されたと。



「拝殿」の緻密な彫刻にも目をひかれたのであった。



「拝殿」の横に白旗神社「弁慶の力石」があった。
「カ石 の起源 は、石占 (いしうら)といわれています。神社に置かれた特定の石を、老若男女に
かかわらず願い事を唱え、持ち上げ、その重い・軽いの感触によって願い事の成否・吉凶を
占っていました。
しかし、時代の流れによって娯楽や鍛練のための力試しになったといわれています。
白旗神社「弁慶の力石 」はその昔、神社の西側古美根茶屋 (現、古美根菓子舗 )前に置かれ、
茶屋 で一服する近郊農家や町内の力自慢がこの石を持ち上げカ比べをしたといわれています。
この石は神石 とも呼ばれ、この石に触れろと健康になり病気をしないといわれています。
ご参拝の皆様には、この石に触れ、御加護を頂かれますようにご案内申し上げます。
尚、お参りにこられない方・遠方にお住まいの方のために、「弁慶分石守 」をお頒け致して
おりますので社務所にお越し下さい。
この石に触れると健康になり病気をしないと。
亀の甲羅に似ている石は茶店で一服した農家や町内の若者たちが持ち上げて力比べをしたのだと。」



「拝殿」前より参道を振り返る。



境内から「源義経公武蔵丸弁慶公之像」と「大鳥居」を見ながら、車に乗り込み
帰路についたのであった。






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Last updated  2020.07.09 12:53:45
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