JINさんの陽蜂農遠日記

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2020.12.28
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カテゴリ: 国内旅行
まずは、昨日12月27日の早朝の朝焼けです。時間は7:58。
放射状の陽光が確認できたのであった。



雲も黄色く輝いて。







そして次に車で訪ねたのが「Winning Hotel」。



そして「はるばる来たぜGoto函館」で来たのであるから「北島三郎記念館」に。
ホテルの、1、2、3Fが「北島三郎記念館」になっているとのこと。



駐車場側のホテルの入口にあった「北島三郎記念館」案内。



「函館市電」の通る道路側に進んでいくと、「日和坂」とその先に「函館山」が。







「Winning Hall」入口。
「Winning Hall」の中に「Winning Hotel」と「北島三郎記念館」がある形なのであろう。



入口で「北島三郎 男の勝負」ののぼり旗。
 2016年06月に発売された歌のようであるが・・・・。



「和魂」。
こちらは今年2020年の発売か。



「北島三郎記念館」には入らずに through する。
大人の一般「​ 入場 ​」👈リンク の料金は1,540円(税込)と高額。
レコードジャケットが並ぶ写真をネットから。



市立函館博物館郷土資料館(旧金森洋物店) 」。



「函館は、明治から昭和にわたり、未曾有の大火を経験してきました。明治11(1878)年、
12年の大火では、ほとんどの市街区域を失いました。このため開拓使は、市街の区画整理と
不燃質家屋の奨励に乗り出し、明治12年に被災した初代渡辺熊四郎もその施策に応じ、
明治13(1880)年11月、開拓使の茂辺地煉瓦石製造所の煉瓦を使用した洋風不燃質店舗

当時の金森洋物店は、舶来製の小間物、雑貨品を販売し、明治40(1907)年の大火では、
周囲の不燃質店舗が焼失する中で、金森洋物店のみが難を逃れました。大正14(1925)年まで
金森洋物店として使用された建物は、昭和38年、北海道指定有形文化財とに指定されています。
この建物は、昭和44(1969)年から旧金森洋物店「市立函館博物館郷土資料館」として開館して
していましたが、建築以来、すでに100年以上の年月が経過していたため老朽化が著しく、
平成10(1998)年から休館し、明治13年建設当時の形に限りなく近い形に復元され、
平成12(2000)年10月1日より新しく「市立函館博物館郷土資料館(旧金森洋物店)」という
名称でリニューアル・オープンしました。」



函館観光のメインスポット「金森赤レンガ倉庫」は、渡邊熊四郎が明治13年(1880)に
創業した輸入雑貨店「金森洋物店」から始まったのだと。
「森」と書かれた西洋酒の樽が。



市立函館博物館郷土資料館 」案内。



市立函館博物館郷土資料館 」の前にあったのが「函館市文学館」。
北海道函館市末広町22-5。



函館市文学館は、石川啄木など主に函館市にゆかりのある作家に関連する資料約250点を
収蔵・展示していると。



「函館市臨海研究所」
 函館の歴史的建造物である旧函館西警察署庁舎を,水産・海洋関連事業の技術の高度化や
水産振興に貢献する研究施設として再整備したと。



「函館市臨海研究所」前にあった「函館郵便役所跡」碑。



「函館郵便役所は道内最初の郵便局として明治5年(1812年)7月ここに設けられた。
郵便制度の創始者前島密は幕末期にこの地で学び修め、また箱館戦争の幕軍総裁榎本武揚は後に
初代逓信大臣になる等函館は郵政先覚者ゆかりの地である。
ここに先達の偉業を偲びつつ碑を建てる。
昭和54年(1979年)6月 北海道郵便局長 平林宏次」



「沖之口番所跡
江戸時代、松前藩は藩財政を支える施策の一つとして、福山(現松前)に船舶、積荷、旅人を
検査して規定の税金を徴収する「沖之口番所」を創設した。その後江差と箱館(18世紀の
はじめ頃)にも設けられ、文政4(1821)年沖之口役所と改められた。
明治2(1869)年に「海官所」、さらに翌年に「海関所」と改称された。同8年に北海道諸産物
出港規則が制定され、出港税徴収が開始されると、「船改所」と改称され、その徴収業務を
担当したが、同20年、出港税の廃止とともに船改所も閉鎖された。
なお、明治18年に船改所構内に函館水上警察署が置かれたが、船改所閉鎖後も存続し、
大正15(1926)年に建てられた建物が現存している。(水上警察署は昭和27年に西警察署と
改称し、昭和59年に新築移転した。)」



「景観形成指定建築物等之證」。



岸壁に向かって進むとあったのが「箱館丸(日本初洋式帆船)」
この船は、続豊治(つづき とよじ)が造った日本初の洋式帆船(スクーネル船)。
彼は造船技術を学んでおり、1854年にペリーが箱館に来航した際、箱館奉行から艦内見学を
許可された。その後、スクーネル船の模型を製作。この模型の出来が良かったため、箱館奉行は
続豊治に本物のスクーネル船を作るように命じ、この箱館丸を完成させた。
(1857年)自分で工夫して設計し造り上げた所が凄い。
奉行の堀利煕は江戸に帰るときにこの箱館丸に乗って帰った。
更に2隻目の亀田丸が1859年に完成しロシアへ航海に出た。
この船は本物ではなく、青函トンネル開通記念博覧会(昭和63年)のために復元された
ものを続豊治の6代目、続博さんなどが寄贈してくれたものであると。



幕府は、安政元年3月、日米和親条約を締結、下田・函館の2港が開港されることとなった。
箱館奉行所では、幕府に対し蝦夷地の警備および、開港に伴う外国との交渉上、奉行所所属の
船舶が必要となり、箱館で造ることを申語し許可されたため船大工績豊治に造船の命令をくだし、
安政4年11月完成、船名を「箱館丸」とした。
日本造船界に偉大なる員献をもたらしたこの「箱館丸」は、日本人の創造設計による日本で最初に
造られた洋式帆船であり箱館(函館)の人により箱館(函館)で造られたことに意義深いものがある。」


「箱館丸」



後方から。



重さ56トンの箱館丸は2本マストで、長さが30メートル。



「太刀川(たちかわ)家住宅店舗」。
明治34(1901)年、米穀商初代太刀川善吉が建築した土蔵造り2階建店舗。
煉瓦積み漆喰塗りの不燃建築。国指定重要文化財。



太刀川家は、江戸末期から米穀店、漁業、回漕業を営んで財を成した商家で、この住宅兼店舗は、
1901(明治34)年に建てられたもの。レンガ積みの土蔵造りで、洋風アーチを取り入れ、
左右に卯建(うだつ。防火用袖壁)がついているのが特徴です。明治40年の大火でも難を
免れた防火造りの建物。内部の梁や柱などの木組、欅の大きな一枚戸なども見事です。
明治の商家建築として、1971(昭和46)年に国指定の重要文化財となりました。
函館市景観形成指定建築物。



「佐藤商会」



木造3階建ての洋館。明治40年に開設され、ロシアの鮭鱒を扱う漁業会社だった堤商会の
事務所であった。ライトブルーの下見板貼り、3階正面にバルコニーを持つお洒落な建物。
大幸機動興業所社屋として紹介されている場合が多いのだが、現在は「日用雑貨諸道具類販売
佐藤商会」の看板がかかっていた。函館市景観形成指定建築物の木造3階建て。



現在は「ROMANTiCO・ROMANTiCA」というカフェになっているようであった。



「ペリー会見所跡」。
安政元年(1854年)日米和親条約を締結したペリーはそのまま艦隊を率いて箱館に入港。
有力商人山田屋寿兵衛宅で、松前藩家老松前勘解由らと会見をした。
山田屋跡地にはその会見があったことを示す看板のみが設置されていた。



「ペリー会見所跡
安政元年( 1854年) 3月、アメリカ海軍提督M. C.ペリーは、幕府との間に日米和親条約を締結し、
その直後、5隻の艦船を引きつれて箱館に入港した。ペリーは、この地にあった有力商人
山田屋寿兵衛宅で、松前藩家老・松前勘解由らと会見し、市中の調査や、港内測量などを行って
箱館を去った。
この図は、ペリー著「日本遠征記」の挿し絵のなかの一つで、会見の模様を描いたものである。」



幕府と開港について会談するペリー



「函館土木作業所 マンホール蓋」
北海道庁旧本庁舎の周囲に星のような模様(七光星)の北海道章を描いたデザイン。



「北海道警察官派出所発祥の地」碑。
明治五年六月開拓使函館支庁邏卒分営を 地蔵町(現在地)と西浜町の二箇所に設置し、 
北海道警察官派出所発祥の地となる。
函館市弁天町21−7。



「新選組最後の地」碑。
箱館戦争の折に旧幕府軍に所属した新選組が守備に当たり、最後を迎えた弁天台場跡の
近くにある碑。市電「函館どつく前」電停そばの児童公園内に設置されていた。
箱館戦争時、新選組が中心となった旧幕府軍が陣取っていた「弁天台場(弁天岬台場とも)」が、
新政府軍の攻撃を受けて、1869(明治2)年の旧暦5月15日(現在の暦で6月24日)に降伏。
これにより、京都で名を馳せた新選組の戦いに終止符が打たれたのであった。



この碑の前が
「魚見坂
函館で一番西にある坂で、坂の上から湾岸に押し寄せてくる魚群の発見に便利なところ
だったのでこの名が付いたといわれている。この坂の上の方は昭和40年まで台町という町名
だったので、最近まで「台町の坂」とも呼ばれていた。」



「弁天岬台場跡
西洋列強からの圧力が増してきた江戸末期に、幕府は蝦夷地を2度目の直轄領とした。
安政元(1854)年、箱館奉行竹内下野守と堀織部正は、箱館の警備について幕府へ上申し、
弁天岬台場を築造することになった。
台場は、安政3年、10万両の予算で、現在の函館どつくの一角に着工された。設計・監督は
五稜郭と同じ武田斐三郎によるもので、不等辺六角形(周囲約684m、面積約32,340㎡)を
した台場は、元治元(1864)年に完成した。
この台場が実際に使われたのは、箱館戦争の時であった。台場を占拠した旧幕府脱走軍は、
新政府軍と砲戦を展開したが、新政府軍に圧倒され、明治2(1869)年5月15日、台場に
籠城していた箱館奉行永井玄蕃ほか約240名全員が降伏した。
台場はその後、弁天砲台として陸軍省の所轄となり、函館砲隊が守備していた。
明治29(1896)年、港湾改良のために取り壊されて周囲が埋め立てられたので、
今は昔の姿を知ることができない。」



東南端にはトンネル式通路のアーチ型入口を構えていました。
砲眼15門(60斤砲2、24斤砲13門)を装備し、その中にはプチャーチン搭乗のロシア艦
ディアナ号のものもあったといわれています。土石は主に函館山より切り出し、大手門などの
重要な部分には、大坂から運んだ備前御影石を用いたといわれています。
工事は松川弁之助が請け負い、翌年から井上喜三郎がこれを引き継ぎました。
江戸幕府が安政3年(1856)から文久3年(1863)にかけて、外国船襲来に備えて箱館湾沖に
建設しました。



「みなみ北海道 最後の武士達の物語」ポスター・「 箱館奉行 永井玄蕃



箱館港の要塞 弁天台場
弁天台場は、箱館開港に伴う諸外国船からの防衛拠点として、箱館港人口に築造された。
ペリー来航時に築造された江戸・品川台場の西洋式砲台を手本に、諸術調所教授武田斐三郎が
設計を担当し、1856 (安政3 )年に工事着工、1864(元治元)年9月に完成した。
総面積は9,800坪(約32,340m2)、周囲380間(約684m )の規模であった。
台場砲座に備付けの大砲は、1860 (万延元)年に伊豆戸田村で座礁したロシア軍艦ディアナ号
寄贈の大砲(80斤・24斤カノン砲)が設置された。
幕末開港期は祝砲・答砲のみの使用であったが、箱館戦争時には箱館港海戦の主戦場となり、
明治政府軍艦へ砲門を開くなど要塞としての機能を果たした。1869 (明治2 )年5月15日に
弁天台場を守備した旧幕府軍が降伏し、台場の役割を終えた。箱館戦争終結後は、明治29年
からの函館港湾整備に伴い、明治31年までに解体されて、外面石垣は函館漁港護岸整備に
転用された。」
箱館奉行 永井玄蕃 1816~1891
1816 (文化13 )年生まれ。25歳の頃に旗本永井尚徳の養子となった。名は尚志(なおゆき)。
1853 (嘉永6 )年、幕府の目付に登用後、長崎海軍伝習所総監理、外国奉行、軍艦奉行、
京都町奉行、大目付を歴任。
1867 (慶応3 )年、旗本では最高位の年寄に就任した。
1868 (慶応4 )年、復本武揚と共に蝦夷地へ渡り函館戦争に参戦し、蝦夷地平宗後の仮政権では
箱館奉行として、箱館の統治および外国との交渉を行った。翌年の新政府軍箱館総攻撃時に
弁天台場で陣頭指揮をとって奮戦したが、6月24日(旧5月15日)に新政府の勧告を受けて
降伏した。投獄されたが、1872(明治5)年に特赦で出獄して明治政府に出仕。開拓使御用係、
左院小議官、元老院権大書記官を歴任した。1891(明治24)年に76歳で没した



会計奉行 川村 録四郎 生没年不詳
生没年は不明。蝦夷地仮政権時には会計奉行となり、箱館戦争終結時には海軍取調方として、
箱館奉行永井玄蕃の補佐役を勤めていた。弁天台場降伏の前日の6月23日に、新政府軍
田島圭蔵の願いにより、永井玄蕃とともに五稜郭に赴き、田島と榎本武揚の会見の執り成しを
行った。翌6月24日(旧5月15日)に新政府の勧告を受け入れて、永井玄蕃らとともに降伏した。
特赦で出獄の後、明治政府の逓信省書記官を勤めたとされる。」

新選組頭取 島田 魁 1828~1900
1828 (文政11)年、濃州厚見郡雄綱村(現・岐阜県岐阜市)生まれ。1863(文久3)年、
新選組に入隊し、調役並監察、ニ番組伍長を勤めた。新選組一番の巨漢として知られ、
箱館戦争では、土方歳三の松前攻略に同行するなど各地を転戦した。1869 (明治2 )年6月20日
(旧5月15日)、弁天台場救助のため土方歳三が一本木関門を突破し、異国橋付近で読弾を受けて
戦死した経緯など、箱館戦争の詳細な経緯を「島田魁日記」に記した。5月15日弁天台場で
降伏し、名古屋に送られた。1900 (明治33)年死去。享年73歳。」



「弁天岬台場跡」の前、道路を隔てた場所にあったのが「厳島神社」。
「厳島神社」は、元々「弁天社」という名称であったが、1902年(明治35年)に「厳島神社」と
改称されたとのこと。




手水鉢には奉納 文政六癸未年正月 願主 伊達氏 栖原氏とあり、1823年の事で
願主は当時の場所請負人の名前であると。



近づいて。



一ノ鳥居は天保8年(1837)に、加賀国橋立(石川県加賀市)の船頭たちが寄進した石鳥居。
左:天保八丁酉歳三月吉日 辨天宮講中世話方 池田屋博六 江別屋博右衛門 蛯子長兵衛
右:奉寄進 加州橋立浦廻船中(現在の石川県加賀市地方)
とあり遠く現石川県加賀市から北前船主で運んで来ての奉納したものなのであった。



石鳥居の柱の下にあったのが「方向石」。 
「方向石」とは「方位」を見定める石のことで、一般的には方角石と呼ばれ、 江戸時代から
明治初期にかけて、回船業者や漁師が天候予測のため、港の見える小高い丘に置いたものと、
単に置磁石的なものとして、高い山やある地点に置いたものがあるとのこと。



上面には十二支方位が刻まれていた。



花崗岩製の石鳥居の「扁額」に「嚴島神社」と。



「嚴島神社
この神社は江戸前期に創建された神社で以前は弁天社と称された。場所は何度か移され、
現在地には慶応二年(1866年)に移ってきた。現在の建物は明治四十年(1907年)の大火後、
大正四年(1915年)に建てられたものである。弁天社は明治四年(1871年)に市杵島神社と
改められ、明治三十五年(1902年)に厳島神社と改称された。
境内には寄進された貴重な遺物が多く、文政六年(1823年)の手水石鉢を始め、天保八年
(1837年)に加賀の廻船主たちが寄進した鳥居や嘉永七年(1854年に)海上安全のため
奉納された方位石など古い建造物がある。この神社は古くから海の守護神として地元漁業者
のみならず、松前を始め遠くは北陸、大阪などの商人の尊信を得ていたことが、これら遺物で
わかる。」



「拝殿」。
前方に狛犬(慶応四戊辰年五月吉日、北前船主の奉納。
江戸時代最後の年で1868年10月23日(慶応4年9月8日)には 明治天皇の即位による
改元が行われたのであった。



御祭神は市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、八重事代主命(やえことしろぬしのみこと)
で例祭日は7月20日。
ご利益は、海上安全・商売繁盛・知恵・技芸・音楽・金運アップなどと。



扁額「嚴島神社」。



左は「道祖神」と右に「稲荷社」。



隣に「弁財天・恵比須堂」。



小さな「社務所」。



そして「嚴島神社」の境内を出て「新選組最後の地」の「弁天岬台場跡」を
振り返る。




                              ・・・もどる・・・

                   ・・・つづく・・・





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Last updated  2020.12.28 07:14:14
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