JINさんの陽蜂農遠日記

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2021.08.13
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カテゴリ: 鎌倉市歴史散歩
『​ 鎌倉散策 目次 ​』
【​ 鎌倉の寺社リスト ​】 👈リンク

次に鎌倉、今泉にある 「称名寺」を訪ねた。
「称名寺」は金沢文庫、そして昨年の10月に訪ねた「​ 函館 ​」👈リンク にもあった。
ここ「称名寺」は鎌倉アルプスと呼ばれる北鎌倉(鎌倉市の北部)の山の中腹にあり、
「今泉不動」とも呼ばれている。駐車場に車を駐め、山門に向かって進む。
鎌倉市今泉4丁目5−1。



入口にあった「称名寺墓苑」碑。



「鎌府 金仙廟(れんぷ こんせんびょう)」。




今泉不動の草創は弘仁9年(818年)頃で、弘法大師が金剛峰寺を開いてから2年後と
伝えられている。大師は神仙の棲む金仙山と云うことを悟り、この山に踏み入ると忽然として
現れた翁と媼からお告げを聞いて、即刻二尺八寸の尊像を石で刻み本尊と定め、又同時に
一尺二寸の大黒天を彫り伽藍の守護神として祭った。その後、再び現れた翁と媼は傍の岩を
穿ち陰陽の滝を流し水に困っていた村里に水の恩恵を与えた。以後金仙山を改め今泉山と
称することとなった。この翁は不動明王の化身で、また媼は弁財天の生まれ代わりと伝えられる。
この縁起ではどのくらいの期間を金仙山と号していたかも不明ではあるが、金仙を今泉
(こんせん)と書くようになり、さらに「いまいずみ」と読むようになったと伝えられている。
今泉は村名になり、金仙は戦後になって今泉台の団地造成の際に出土したお地蔵さまの名や寺の
新しい廟名になっている。



「鎌府 金仙廟」の宝塔を正面から。「南無阿弥陀佛」の文字が。







「称名寺墓苑」。



「今泉不動 称名寺案内板」。



ズームして。
今泉不動の開山は弘法大師(818)と伝わっています。
今泉不動の別当 円宗寺(1192)を直誉蓮入上人が再興して
今泉山一心院称名寺を増上寺より授けられ(1705 ~ )現代に至っています。




この板には???。
「今泉山称名寺と号する浄土宗のお寺で、開山は直誉蓮入(じきよれんにゅう)、
本尊は来迎阿弥陀三尊です。このお寺は弘法大師の創建と伝えられます。
境内には石造の大日如来像、三十六童子像があります。」とネットから。



「掲示板」。



「奉納 不動尊参道舗装」碑。



石碑(明治28年)と「南無阿弥陀佛」の石塔。



今泉不動入り口の六地蔵



正面から六地蔵を。
一番左の地蔵菩薩の鼻が、ちょっと異彩を放っていた。何故か異様に大きいのであった。



六地蔵横のやぐらの如き場所には石仏が。



寄付金碑。



「不動明王」碑。



そし小石の敷き詰められた境内へ。



「勢至丸像」。平成13年(2001年)銘。



浄土宗祖法然上人の幼名は、勢至丸と称した。その銅像である。



「勢至丸像
崇徳天皇の代、長承2年(1133) 4月、岡山県久米南條稲岡の庄の押領使、漆間時国の館に
一人の男子が生まれました。
勢至菩薩の生まれ変わりとして勢至丸と名付けられ文武の道に長じておりましたが9才の時
父時国公は敵の夜討に会い、傷が元で亡くなりましたが臨終の折り勢至丸を枕辺に呼び
「父の仇を討つことなかれ、世の中の人の救われる道を求めよ」と遣言されました。
その後、勢至丸は父の言葉を守り、「みほとけ」の道を求め比叡山に登り一心に学問に励んだ末、
遂に43歳の時「世の中すべての人々が何の差別もなく南無阿弥陀佛のお念仏に依って明るい人生を
過ごすと共にやがて極楽国に住生する事が出来る浄土の教え」を開かれました。そしてこの教えに
より多くの人々を救い導き建暦2年(1212) 80歳で西方浄土阿弥陀佛の国へ帰って行かれました。
この勢至丸こそ、浄土宗を開かれました後の法然上人であります。」



「本堂」。



扁額「一心院」。



内陣。



本尊は阿弥陀如来。



庫裡。



「不動堂」の山門の如き石柱の頂部には石仏が。
不動明王に仕える八大童子の中心メンバーである制多迦(せいたか)童子と
矜羯羅(こんがら)童子であろう。



裏面には「當山第十七世融誉随翁上人代」と。



「大正五年十一月廿五日建之」。



頂部の石仏・制多迦(せいたか)童子(左)は手を上げて迎えてくれた。
制多迦童子(せいたかどうじ; 梵語: Ceṭaka) は、不動明王の従者八大童子の第8番目である。
不動三尊の一人であり、矜羯羅童子(こんがら Kiṃkara)と共に不動明王の脇士を務める。
通常は不動明王の右(向かって左)に配置される。
「制多迦童子」とはサンスクリットで奴隷・従者の意。



頂部の石仏・矜羯羅(こんがら)童子(右)。
矜羯羅童子(こんがらどうじ; 梵語: Kiṃkara) は、不動明王の従者八大童子の第7番目である。
不動三尊の一人であり、制多迦童子(せいたか Ceṭaka)と共に不動明王の脇士を務める。
通常は不動明王の左(向かって右)に配置される。
「矜羯羅童子」とはサンスクリットで、何をするべきかを問い、その命令の通りに動く の意。




                              ・・・​ もどる ​・・・


                   ・・・​ つづく ​・・・





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Last updated  2022.05.19 16:10:58
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