JINさんの陽蜂農遠日記

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2021.09.28
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カテゴリ: 海老名市歴史散歩
【海老名市歴史散歩】 目次

「永珊寺」を後にして県道46号線を南に進む。
標識には51号線とあるが?



そして「下今泉中通」交差点を斜め左に折れ進むと路地の角に石仏の姿が。



大山道標?であろうか。「嘉永ニ(1849年)」の文字が。
不動明王像なのであろうか?



正面から。



右手にも石碑が。
右:「此方大山いゝやま阿つキ」(大山、飯山、厚木)

風化が激しくて読み取れないのであったが。



そして近くにあった「三島神社」。
海老名市下今泉5丁目8。



社殿の右奥には「住吉神・・」と刻まれた石碑が。
昭和45年、国道246線の建設に伴い、「住吉神社」と「三島神社」はこの横の
「浅間神社」境内の一角に移り鎮座しているのであった。



「三島神社」を斜めから。







そしてその先にあったのが「浅間神社(あさまじんじゃ)」。
海老名市下今泉5丁目8−15。



社務所。
扁額には「浅間大神社務所」と。



この石碑は??



参道から狛犬、石鳥居を見る。



扁額「浅間大神」。







鐘楼。



梵鐘。



多くの石灯籠が並ぶ先に拝殿が。



「拝殿」。



見事な龍の彫刻。







「浅間大神 略詩」。



一.鎮座地   海老名市下今泉九五一番地
一.祭 神   木花咲哉姫命
一.例祭日   八月一日
一.神事・芸能 例祭日境内に設ける屋台にて神楽囃子を打つ
一.由緒 沿革   延暦元年六月朔日、相模介橘永範富士浅間神社より勧請と傳う。
        領主高橋 右近橘重信 別當海老山法印慶義の勧請文に、領主橘重信は住居家門の
        辺りに道法三丁五十六間 を退いて神祇を卜すとある社地長さ二十六間、廣さ
        九間余、
        右に流れあり黄龍の渡るが如く左は 田野を構えて景趣計るべからざるものあり
        當時の地点と余り変りはない。文永八年九月日蓮上人 佐渡配流の際、當大神の
        加護を感謝し真筆の名號を授けられたので長く懸けてゐた。残存の棟札 に
        享保三年再營、安政三年大破損翌年再建明治四十二年本殿修理大正十二年
        関東大震災に因り 全社殿倒潰、同十四年再建昭和五十一年本殿改築併て幣拝殿も
        銅板葺に替る。明治十三年再建の 鳥居は昭和四十八年再建、正徳元年鋳造の鐘は
        戰時供出のため昭和三十九年再鋳奉納する。明治 六年十一月村社に列し大正九年
        七月神饌幣帛料供進社に指定された
        昭和六十一年十二月吉日   宮司 小島重治記
              奉納者        坪井守三



拝殿の奥に本殿。



「凱旋記念」碑。
明治三十七八年日露戦役の地元の出征軍人の名が刻まれていた。



手前に「本殿改築・屋根替・鐘楼堂修理」記念碑。
奥に參宮記念碑。



境内に咲く赤の彼岸花。



上から。



そして近くにあったのが酒屋。
海老名市下今泉5丁目5−1。



「泉橋酒造」。
創業1857年。神奈川県海老名市にある日本酒の蔵元。
地元で山田錦などの酒米栽培から精米・醸造まで一貫して行う”栽培醸造蔵®"。
古来より海老名耕地(えびなごうち)と呼ばれる地元・海老名をはじめ近隣地区での
酒米作りに自ら取り組んでいるとのこと。



入口には「杉玉」が。
「杉玉」はおおむね2月~3月に飾られるが、この時期は新酒の季節であり、杉玉には
「今年も新酒ができましたよ」という目印になる。吊るされたばかりの杉玉はまだ蒼々として
いるが、やがて枯れて茶色がかってくる。緑色(2月~6月頃)は新酒の季節、薄い緑
(初夏~夏頃)は夏酒、枯れた茶色(秋頃)はひやおろしの季節というように、日本酒造りの
時期と杉玉の色は同調しており、杉玉の色の変化がまた人々に、新酒の熟成の具合を伝える。
今日では、酒屋の看板のように受け取られがちであるが、元々は酒の神様に感謝を捧げるもので
あったとされる。
俗に一休宗純の作とされるうた「極楽は何処の里と思ひしに杉葉立てたる又六が門」は、
杉玉をうたったものである。
スギの葉は酒の腐敗をなおすからスギの葉をつるすという説もある。とウィキペディアより。



酒蔵SHOP「酒友館」はOPEN前であった。



奥に酒蔵、右手の白い蔵が「酒友館」。



「酒友館」
「いづみ橋」の文字が。特選生翫純米大吟醸の人気の酒であるようだ。



工場。
「いづみ橋」のシンボルマークになっている赤とんぼは、泉橋酒造の田んぼを飛び交う姿を
イメージしており、酒米栽培における無農薬・減農薬栽培の約束として使っていると。



直営レストラン「蔵元佳肴」であろうか。



人気の酒「​いずみ橋​」が後日、海老名市役所を訪ねた折、地元の銘酒として展示されていた。



そして近くにあった畳屋。
我が家の畳もここ海老名市内の畳屋からのものであるが店の名前が異なっていた。



田んぼの先の大きな建物は「神奈川県立産業技術総合研究所(KISTEC)」。



海老名市立今泉中学校の横をJR相模線に向かって東に進む。



ここは「おあしす通り」と呼ばれているようであった。
オアシスあいさつ運動の一環として、「おあしす通り」を設置し、挨拶を通して子どもと大人の
ふれあいの場を提供。
市内6つの中学校区にそれぞれ「おあしす通り」を設定し、自動・生徒が描画した啓発看板を
取り付けたと。



「今泉中学校前」交差点の先にJR相模線の踏切が見えて来た。



踏切を渡るとその先に急坂が現れた。



「井戸坂
鎌倉時代、この坂の上に「今泉氏の館」があり、坂の下にその館で使用していた井戸が
あったという伝承からこの名がついたといわれています。」
今泉中学校の東方、相模線の「井戸坂踏切」から東に向かって上る坂であり「今泉氏の館」の
武蔵七党の1つ猪俣党に属する「今泉氏の館」と推測されている。
『吾妻鏡』には、承久三年(1221)の承久の乱で討ち死にした今泉七郎の名がみえる。
しかし室町時代に入ると、今泉氏の名はみられなくなる。
永享十二年(1440)、前年の永享の乱で自害した鎌倉公方足利持氏の奉行人であった
一色伊予守六郎が、今泉館に立て籠もって抵抗を続けた。関東管領の両上杉氏は、
家臣長尾憲景・太田資光を派遣し、今泉館を攻めさせた。伊予守は敗れて下野国へ逃れ、
後の結城合戦へとつながった。
落城に際して、伊予守の妻の護王姫にまつわる伝承が残っている。護王姫は、伊予守脱出後も
館に残っていたが、このとき子を身籠っていた。護王姫も館を脱出して逃れようとしたが、
途中で産気づいてしまい、そのまま出産した。その赤子は敵に捕まり、目久尻川へ
投げ捨てられた。護王姫は何とか星谷までたどり着いたものの、そこで息を引き取った。
この落城により、今泉館は廃城になったものと思われる とネットから。




「井戸坂」を上って行った。



坂の上の路地の角にあった石碑群。
左手には道祖神碑、右手にあったのは庚申塔だろうか。



上って来た「井戸坂」を振り返る。



石碑群の角を北に進むと左手奥にあったのが「クリオ海老名参番館」
この辺りが「今泉氏の館」があった場所のようであった。



そしてその先には小さな社があった。
この社は「今泉氏の館」と何か関係があるのだろうか?
いずれにせよ「今泉氏の館」の遺構は残っておらず、「井戸坂」が唯一の名残なのであった。




                              ・・・​ もどる ​・・・

                  ・・・​ つづく ​・・・





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Last updated  2022.05.18 18:37:24
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