JINさんの陽蜂農遠日記

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2021.10.01
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カテゴリ: 海老名市歴史散歩
【海老名市歴史散歩】 目次

そして「龍峰寺」の「仁王門」前に到着。
「龍峰寺」は臨済宗建長寺派の禅寺として、1340(興国元)年開山円光大照禅師によって
創建された。かつては少し南の台地、現在の市立海老名中学校敷地の一部にあり、北から南へ
ゆったり流れる相模川の向うに秀峰大山を望む。鉄牛和尚(小田原、黄檗宗紹大寺)はこの
絶景をたたえ、龍峰寺八景詩を残している。1928(昭和3)年現在の地に移築した。
境内には旧清水寺の本堂であった観音堂があり、国の重要文化財である千手観音立像が
安置されている。
清水寺はいまからおよそ1300年の昔、国分尼寺境内にあった湧河寺がその前身である。
鎌倉時代になって、1186(文治2)年、源頼朝公によって、千手観音立像と共に
復興された。 その後、1341(興国2)年に龍峰寺開山円光大照禅師によって再建され、

1989(平成元)年に解体修理が施されている。
「龍峰寺」には清水寺の他に、真福寺(天文・南原)、林光庵(慶長・打出)、東福寺
(長禄・望地)の末寺があったが、明治維新の廃仏毀釈に遭い、他の末寺は自ら廃絶に帰したが、
清水寺だけは寺名や寺格を外されたのみで、境外の仏殿(観音堂)として残る法幸を得、古来より
「水堂」の名で親しまれている。今日では、毎年正月元旦と大祭の3月17日の二回、一般公開
されている。
他に、観音堂、仁王門、仁王像、絵馬などが海老名市の文化財に指定されている  と。
海老名市国分北2丁目13−40。



左手前の小高い場所には多くの大きな石碑が並んでいた。



右から
「田野口照蔵之碑




「芳名碑」
日露戦争における戦没者28柱の慰霊顕彰
碑文
 戦没者の御芳名刻印
  大正15年4月15日 建立




「忠魂碑」。
戦没者24柱の慰霊顕彰
碑文
 本村出身殉国諸士の遺烈を仰ぎ 明治39年忠魂碑を建つ 大二は陸軍大将乃木希典閣下の
 揮毫に係る 偶大正12年9月1日 関東大震災は之を倒壊粉砕せり 依て茲に再建の議成るや
 幸に の将軍の原書を存せるあり 以て本碑に刻す
 山田 嘉毅 謹書
 明治39年 建立
  大正15年4月15日 再建
    海老名村 建立



「義勇奉公」碑。
碑文
  昭和9年5月
    海老名村 建立
戦没者の芳名 刻印
陸軍大将 林 銑十郎 書



「英魂不朽」碑。
戦没者 181柱の慰霊顕彰
碑文
 日華事変並びに太平洋戦争殉国諸士の遺烈を仰ぎ 広く町民の浄財に依り慰霊の碑を建立 
 英名を刻み後世に伝え 永く祭祀の誠を致さんとす。
   昭和29年4月
    海老名町 建立



「従軍者氏名」。
明治以来大東亜戦争終結までの従軍者の顕彰
碑文
 明治6年徴兵令が施行され国民皆兵となり 我等が先輩は各戦役に参加
 大正15年4月15日 建立大いに国威を宣揚した。 昭和20年大東亜戦争の終結により70年の
 歴史をとじたが、その遺勲を顕彰するため、有志相諮り明治百年記念事業として茲に従軍者の
 名を刻し永く後世に伝える。
 昭和44年7月 
    海老名町郷友会 建立



参道の反対側には
郷土かるた「き」
「郷土史の 道をひらいた 中山翁」
清水寺公園に、故中山毎吉先生の頌徳碑が建っています。先生は明治二十二年から大正十三年
まで海老名の小学校訓導、校長をされ、また、青年の育成に努められました。
そのかたわら郷土史の研究調査に尽力され「相模国分寺志」などを著し相模国分寺を中心とする
郷土の史跡や文化財を顕彰され、わたしたちに郷土を大切にすべきことを示されました。



「中山毎吉頌徳碑」。



「中山毎吉先生ハ・・・・」と。
「中山毎吉は、明治元年(1868)に高座郡国分村に生まれ、尋常高等海老名小学校長の
かたわら、文化財や植物の研究を進め、相模国分寺跡などの保存に尽力した人物です。
矢後駒吉とともに著した「相模國分寺志」は、国分寺研究の先駆的な研究・報告書として
今日でも評価が高い学術書となっています。
大正13年(1924)、56歳で小学校長職を退いた後、大正15年(1926)に海老名村が
頌徳碑を建てました。撰文は大島正徳、書は鳥海幸助です。
中山毎吉は、昭和17年(1942)に享年75歳で永眠されました。」とネットから。



そして「仁王門」に向かって進む。



寺号標石「臨済宗 建長寺派 龍峰寺」。



「龍峰寺境内伽藍配置図」。



「掲示板」
「船頭が一人しっかりしていれば嵐が来ても船はしずまない」と。
嵐=コロナ 船=日本 と読み替えたい!!船頭=新総理 に期待したい!!
「気づかい気くばり思いやりそしてほどほどの距離」
「子どもには親が望むような才能はなくても 親がわからないような才能があるものです」と。



この寺にも「不許葷酒入山門」碑が。ここも禅宗の寺。



そして朱の「仁王門」。
「仁王門」とこの先にあった「観音堂」は一直線に並んでいた。
「観音堂」と「仁王門」は元禄12年(1699年)にこの地に移ってきたときに建立され、
現在の「観音堂」は元文2年(1737年)に再建されたものである。また、「仁王門」も
寛延4年(1751年)に再建されたもので、かつての清水寺の「仁王門」だったと。



「海老名市指定重要文化財 仁王門・仁王像」。
「この仁王門は元禄十二年(一六九九)この地に観音堂と共に建立され、寛延四年(一七五一)
に再建、昭和五十一年に解体修理されたもので、木造平屋建切妻造りの四脚門です。
中の仁王像は密迹金剛力士(みっしゃくこんごうりきし)で共に魔を払い山内の鎮静を守護する
像で像高約ニ一〇センチメートルです。
寛延四年(一七五一)大仏師薩磨によって作られた忿怒形でよく整った容姿です。」



藤の木が邪魔していて・・・なんとか解読できました。



阿形像。



下から見上げて。



吽形像。



下から見上げて。



「鐘楼」。



「梵鐘」。



そして正面に「観音堂」が見えて来た。



右手には「手水舎(水屋)」。



水盤には「笹竜胆」の寺紋が。



水口の龍。



宝篋印塔の基部であろうか。



こちらにも似たような「宝篋印塔」が。



「句碑
大山の 大きく坐る 刈田かな  九十五齡 竹ニ」。
高台にあり眺めがよく、晴れていれば大山を望むことができるのであった。



「十三重石塔」。



「寶掌地蔵尊」。
合掌した手の中に、宝があるのかもしれません。



「寶掌地蔵尊」碑。



お顔をズームで。



「観音堂」がはっきり見えて来た。



そして正面から「観音堂」を。



扁額は「興徳山」。
旧清水寺の山号であろうか。



「海老名市指定重要文化財 観音堂(水堂) 江戸時代中期
この建物は、相模国分尼寺に縁のある古刹で、旧清水寺の本堂で現在は龍峰寺の仏殿として
使われています。
元禄12(1699)年に清水寺が現在地に移転してきた際に建立され,元文2(1737)年に
再建されたものです.
総欅材で、身舎は単層、桁行・梁行ともに8.25mあり、屋根は向拝付入母屋造、内部天井は
格式高い格天井となっています。
昭和50(1975)年に市の重要文化財に指定され、昭和63(1988)年に解体修理が実施され
現在に至ります。」



「観音堂」の「海老虹梁」廻りの見事な彫刻。



「観音堂」を横から見る。



観音堂(旧清水寺本堂)裏。

観音堂(旧清水寺本堂)裏。

そしてこちらが「本堂」。



石段を上がって。



外の扁額は「瑞雲山」。



内陣にも「龍峰寺」と書かれた扁額が。



「本堂 内陣」
本尊は釈迦如来坐像と迦葉・阿難像とのこと。



手前の読経座。



「内陣」の左側。



「本堂」を斜めから。
大きな花頭窓が確認できた。



そして見事な木組みの下に「殿鐘」が。




                              ・・・​ もどる ​・・・


                  ・・・​ つづく ​・・・





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Last updated  2022.05.18 18:38:42
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