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2021.10.12
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カテゴリ: 海老名市歴史散歩
【海老名市歴史散歩】 目次

右手に拡がる「相模国分寺跡」を見る。



「相模国分寺七重塔跡」の基壇を見る。



「史跡相模国分寺跡環境整備事業
相模国分寺は、741年(天平13)の「国分寺建立の詔」によって全国に建立された寺院の一つです。
819年(弘仁10)と878年(元慶2)に相模国分寺が被災したという記録が残っていますが、
940年(天慶3)には相模国分寺の仏像が汗をかいたという記録があることや発掘調査の結果等から、
平安時代中頃までは修理や再建が行われていたようです。
しかし、平安時代後期には荒れ果て、やがて現在の国分寺の場所に移転したといわれています。
相模国分寺跡は、江戸時代に書かれた「新編相模国風土記稿」の挿し絵にも遺跡が描かれている

明治時代後半から大正時代にかけて尋常高等海老名小学校 (現在市立海老名小学校)の校長であった
中山毎吉が相模国分寺跡や国分尼寺跡などの遺跡を調査して、矢後駒吉とともに「相模国分寺志」
という研究書にまとめました。
こうした中山毎吉等の調査研究や保存運動により1921年(大正10) 3月3日に相模国分寺跡は
「国指定史跡」となりました。
海老名市では貴重な文化遺産である史跡相模国分寺跡を現状のまま保存するだけではなく、
復原・整備をする環境整備事業を平成元年度(1989)から始めました。
1966~67年(昭和41~42 )の発掘調査結果をもとに、1990~1996年(平成2~8)にかけて塔跡、
中門跡、南面廊跡、僧坊跡等の発掘調査を行い、史跡整備に必要な資料をそろえました。
基本的な整備計画は、相模国分寺の創建時の遺構を整備することにしました。
具体的には、塔・堂・講堂の基壇復原、中門・廊跡・僧坊跡等の位置表示を行い、現存する




「新編相模国風土記稿」の「国分寺併旧跡図」(天保年間1830~1841年)。
天保年間1830~1841年には相模国分寺跡は田園と化し、国分寺も奈良期の相模国分寺址から
南東200m程の高台に移転していたことが解るのであった。



「史跡相模国分寺跡 整備予想図」。



「国史跡 相模国分寺跡」案内板。







「​ 相模国分寺復元図 ​」👈リンク。



「奈良時代、聖武天皇は仏教のカで国の安寧を図るため諸国に国分寺の建立を命じました。
相模国分寺もその一つで、8世紀後半には建築が始まったとみられます。
七重塔と金堂を東西に、講堂を北側に配置する法隆寺に似た建物配置をとり、回廊と築地塀で
周囲を囲んでいます。その外側は素掘りの溝で区画され、寺の範囲は東西240m、
南北300m以上と諸国の国分寺跡の中でも有数の規模を誇ります。
七重塔や僧房などの建物は、多くの瓦が出土していることから瓦葺きだったとみられます。
瓦は乗越瓦窯(のりごしがよう 横須賀市)、その後、瓦尾根瓦窯(かわらおねがよう 
東京都町田市)など焼かれたものが使用されています。また、塔跡や金堂跡などの礎石は
中津川上流から運ばれています。相模国分寺跡近くの逆川(さかさがわ)跡は、これらの資材を
運ぶために人工的に開削された運河とみられています。
通常国分寺は国府の近くに建立されますが、相模国では、国府は大住郡(おおすみぐん 平塚市)
国分寺は国府から約12キロも離れた高座郡(海老名市)に置かれました。これは大住郡と高座郡の
郡司が壬生(みぶ)氏という同じ氏族であったからではないかとされてます。
ここから500mほど北には、相模国分尼寺も置かれ、ニ寺が並び立つ様子は壮観だった
ことでしよう。
相模国分寺は平安時代中頃まではこの場所で存続していたとみられますが、中世には判然と
しなくなります。江戸時代には現在の東光山国分寺の場所へと移り、その法灯が受け継がれて
います。」



「史跡相模国分寺跡の整備状況(2019」。



「伽藍配置図」。
国分寺の主要伽藍(建物)配置は、奈良県にある法隆寺と同じ、東側に金堂・西側に塔、
北側中心部に講堂を配し周囲を中門・回廊で囲む「法隆寺式」という配置をとる。
全国の国分寺では大変珍しい配置で数例しか確認されていない。



「史跡相模国分寺跡周辺マップ」。



「相模国分寺七重塔跡」の基壇を西側から見る。
国分寺のシンボルともいえるのが塔跡。
ここ相模の場合は、高さ1mほどの基壇上に建てられている。
塔跡は現在整備され、当時の基壇の様子が復元されていた
塔は古代建築学から復元すると七重で高さが65mもあったと。



「相模国分寺七重塔跡」の基壇を正面から。



石段右に「案内板」。



近づいて。



塔跡
こは741 (天平13 )年の「国分寺建立詔」をうけて建てられた七塔の跡です。国分寺の塔には、
国家の平安を祈る金光明最勝王経が安置されていました
1966 (昭和41)年と1992 (平成4 )年に行った発掘調査で基壇(建物の基礎となる土盛)は、
一辺の長さが20.6m、高さは1.3mの規模であったことが確認されました。残存する礎石から、
塔の初重の広さは、10.8m四方で、塔の高さは約65mあったと推定されています。
塔跡のまわりからは屋根瓦(布目瓦)や水煙等の遺物が出土しています。
また、基壇周辺で発掘された石敷や盛り土から2回の修理もしくは建て替えが行われたことも
分かりました
創建時の基壇は、現在復元されているように、四辺ともに切り石積み(壇正積)でしたが、
後に北側の辺だけが川原石積み(乱石積)につくりにつくり替えられています
石質調査の結果、切り石は相模川上流から、礎石は丹沢方面から運ばれたものと推定され、
両方とも凝灰岩質の石です。
10個の礎石は当時のままですが、失われた礎石は国分寺跡から運び出されたといわれる
礎石3個と新たな石4個を使って復原・補充しました。
基壇の高さは、基壇周辺の遺構を保護するために盛り土したので、創建時の基壇よりも
​約35cm低く復原しました。」



「相模国分寺七重塔想定復元図」。



「塔相輪部分(相模国分寺模型・部分)」
昨日も説明しましたが・・・。



「金銅製水煙の破片(塔跡出土)」。



「壇正積基壇の模式図」。



「発掘された塔跡(平成4年、南上空から)」。



基壇上面の礎石。



角から。
17個の礎石が確認できたが。



中央部分。



西側から「相模国分寺」の「回廊跡」を見る。



中門の東西の回廊の想定CG図。


  【​ http://www.eniguma49.sakura.ne.jp/zisya,teienn/kanagawa/sagamikokubunnzi/sagamikokubunnzi.html ​】より

ここが中門のあった場所。



中門の想定CG図。


【​ http://www.eniguma49.sakura.ne.jp/zisya,teienn/kanagawa/sagamikokubunnzi/sagamikokubunnzi.html ​】より

石碑と案内板。



石碑「史跡 相模国分寺阯 大正十四年三月建造」と。



側面には「史跡名勝天然 念物保存法に依り大正十年三月内務大臣指定」と。



「中門・回廊跡」案内板。



「ここには、塔・金堂など主要な建物を囲む回廊とその中に入るための正門である中門が
ありました。
1966年と1993年に行われた発掘調査の結果、中門は東西21 m x南北11m程の土台(基壇)上
に建つ瓦葺きの建物だったと推定されています。
廊跡からは、礎石上に柱の痕跡があものが7基みつかり、周辺から瓦が多く出土しまた。
回廊は一般的に東西南北に廻らされますが、相模国分寺では東面が築地塀であったことが確認
さており、西面についての詳細は不明です。
現在、遺構は地下に埋め戻して保存し、その上に中門と回廊の範囲を表示しています。」



「中門跡の発掘調査の様子」。



「回廊跡の発掘調査の様子」。



「礎石に残る柱の跡」。



「回廊跡南側で出土した瓦」。



「回廊・中門跡」を東側から見る。



手前に見えるのは「金堂」の礎石であろうか。
「金堂」は塔の東側にあり、塔と同じく版築工法で作られた基壇に礎石が残っており、
礎石の上に金堂の建物が建っていたことがわかる。金堂も塔と同じく基壇を切石で覆って
いたものと考えられていたが、2005年に行われた金堂発掘の結果、石積みであったことが
判明した。また、金堂の建物内に幅2.2メートルの高まりが存在した。これは須弥壇であったと
見られていたが、やはり2005年に行われた金堂発掘の結果、高まりは須弥壇ではなく、
後世相模国分寺跡が畑地として耕作されていた際に耕作されずに残された場所であったことが
判明した と。



金堂の礎石の中に石碑が。



七重塔と金堂の想定CG図。


【​ http://www.eniguma49.sakura.ne.jp/zisya,teienn/kanagawa/sagamikokubunnzi/sagamikokubunnzi.html ​】より

「相模國分寺遺蹟」碑。



この石も礎石だったのだろうか?



黄色のカンナの花。



西洋ミツバチ?も訪花していた。



登校する子供達の姿。
一列に整列して。コロナ対策からの学校&父兄の指示事項か。
おしゃべりしない、密にならない!!



東側から西側に向かって「相模国分寺」を見る。
手前に「金堂」の礎石、そして「相模國分寺遺蹟」碑の奥に「七重塔基壇」
その先に「温故館」が見える。​



2011年まであった海老名市温故館跡



巨木が東側に。



南東隅にあった「史跡相模国分寺跡歴史公園案内板
史跡相模国分寺跡とは
相模国分寺跡は、天平13 (741 )年に聖武天皇の詔によって諸国につくられた国分寺の1つです
相模では、発掘調査や出土遺物の分析によって8世紀後半には創建されていたことが分かって
います」



8世紀後半の時期に、聖武天皇は何故、「海老名」のこの場所に「相模国分寺」を建造したのか、
その理由について更にその詳細を知りたいと思いながら「相模国分寺跡」を後にしたのであった。
「相模国分寺」は元々は現在の小田原市にある千代廃寺であるとして、その後海老名の地に
移転したとの説も出されているとのことだが真相は如何?
                              ・・・​ もどる ​・・・


                   ・・・​ つづく ​・・・





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Last updated  2022.05.18 18:48:11
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