JINさんの陽蜂農遠日記

JINさんの陽蜂農遠日記

PR

Profile

jinsan0716

jinsan0716

Keyword Search

▼キーワード検索

Comments

オジン0523 @ Re:「市制70周年 佐倉花火フェスタ2024」へ(その5)(09/08) 矢張り有料席から見ると正面から見るので…
jinsan0716 @ Re[1]:「市制70周年 佐倉花火フェスタ2024」へ(その3)(09/06) オジン0523さんへ ありがとうございます…
オジン0523 @ Re:「市制70周年 佐倉花火フェスタ2024」へ(その3)(09/06) そして9:20になり、カウントダウンが始ま…
jinsan0716 @ Re[1]:旧芝離宮恩賜庭園 へ(その3)(08/06) オジン0523さんへ 書き込み、ありがとう…
オジン0523 @ Re:旧芝離宮恩賜庭園 へ(その3)(08/06) 根府川山は根府川に関係あるのですかね

Favorite Blog

相模国府祭と寺社史… New! オジン0523さん

オニバスの花、日々… New! 隠居人はせじぃさん

【ランタナ ・ ハマ… Gママさん

水槽用冷却ファンの… noahnoahnoahさん

エコハウスにようこそ ecologicianさん

Calendar

2021.11.01
XML
カテゴリ: JINさんの農園
そして「大杉神社」の裏の駐車場に車を駐め散策開始。時間は7:45過ぎ。
「大杉神社」は厄除け(やくよけ)祈願神社・金運神社であるので、今年の「厄」情報詳細が
掲示されていた。



令和3年・2021年 厄年一覧表。
厄年はそれぞれ60歳頃が厄年の終わりにあたりますが、これはかつて寿命がまだ
短かかった時代、「還暦まで生きたら儲けもの」と考えられていたことが理由なので
しょうか?人生は80年時代から「100年時代」?へと寿命が延びる中、神社も厄年の
見直しをすれば、経営上も・・・と。



無料シャトルバス「大杉神社」バス停。




裏山には天狗の住むと伝えられる森があるのだと。



停留場前に建つ社号標石「大杉神社」。



「あんば七福神」碑。
大杉神社の鎮座する場所は現在の霞ヶ浦、常陸川、利根川下流域、印旛沼、手賀沼、牛久沼、
鬼怒川下流域、小貝川下流域を内包する常総内湾に西から東に向かって突き出すような地形の
ほぼ突端に位置している。『常陸風土記』には安婆嶋(あんばじま)として登場するが、
半島状地形にもかかわらず、半島先端に比べ、かなり西側でくびれた地形をしていたため
遠くから見ると島状の様子を呈していたため、安婆嶋と呼称されたといわれている と。現在の地名も阿波(あば)と呼び、その名残を窺えるのである と。



「あんば七福神」の「弁財天」像がその横に。

ダメ池に祀られておりました。その後ダメ池は埋め立てられ保育所が建設され久しく
祀られないままとなっておりました。水の神様である弁財天を再興したいとの要望から
此の度大杉神社の境内一角でありますこの場所に、石像をもって弁財天を再祀することと
いたしました。
俗に弁財天は芸術、知恵、美の神とされ、音楽、美術、舞踊、学問向上、美貌を願う人々の
信仰をあつめてまいりました。」と「あんば七福神 辯財天について」碑には。



そして更に進んでいくと右手に「大杉神社」の「一の鳥居」現れた。
茨城県内で現存する「大杉神社」の分社は7社で合計8社、全国の大杉神社の総本山である
「(阿波)大杉神社」がここ。
全国での「大杉神社」と名のついた神社は16社あると、ウィキペディアより。
しかし「全国に670社ほどある大杉神社の総本宮」とのページも。
「大杉神社」入り口の明神(みょうじん)鳥居の両側にあるのは、狛犬ではなく「天狗」の石像。



「大杉神社」配置図をネットから。


   【http://welfare.so-good.jp/wheelchairtraveling/shrine/oosugi/】より

向かって左側の鼻高天狗は「ねがい天狗」と呼ばれていると。
これは、常陸坊海尊が身体が大きく、頬ひげと青い目、高い鼻をもち、想像上の天狗に近い
容姿だったことから、「海尊は大杉大明神の遣いの天狗だった」という信じられていたことに
由来しているのだと。
文治年間にその容貌が巨体、紫髭、碧眼、鼻高であった常陸坊海存(海尊)が大杉大明神の
御神徳によって、数々の奇跡を示したことから、海存は大杉大明神の眷属(けんぞく)で、
天狗であるとの信仰へと発展したのだと。
眷属とは、神様にお仕えしており、神様の神意を人へ伝える役目を持っているのだと。
神社で、狐、猿、兎、牛、鼠、鹿、狼などの動物の彫刻等が設置されているのを見かけたが
これも眷属であると。

大杉神社(あんばさま) / 茨城県稲敷市 | 御朱印・神社メモ

右側の烏天狗は「かない天狗」。
文治年間(1185-1189年)、源義経の家来常陸坊海尊が大杉大明神の神徳により様々な奇跡を
起こした。ここから海存を通じて願をかけると、大杉大明神が叶えてくれるという信仰が生じた。
海存の容貌は天狗に似ていたため、その像を通じて天狗信仰が生じ、鼻高天狗と烏天狗が眷属と
みなされるようになった。鼻高天狗は「ねがい天狗」、烏天狗は「かない天狗」と役割が
決まっている。
願い事が叶えられるという神徳から、神社は「日本唯一の夢むすび大明神」と称しているのだと。



石造りの「一の鳥居」を潜り境内へ。祭りの際にはこの場所は出店で賑わうのであろう。
この奥にも厄年案内板が、そしてその奥の高台に鐘楼が見えた。



石段の先に朱の「二の鳥居」。



石段の左横には「大黒天」。
頭巾を被り、左肩には大きな袋、右手には昔話で有名な打ち出の小槌を持ち、俵の上に
立っていた。 また、垂れ下がった耳たぶに、満面の笑みを浮かべた顔も癒やされるのであった。



「竿代勘之助翁頌徳碑」。
この碑は昭和三十年、当時の稲敷郡内の農家や有志の方々の寄付金で建てられた。
勘之助はこの地域の農民のために尽力した人物とのこと
碑の建立がきっかけとなって、県の功績賞や藍綬褒章(らんじゅほうしょう)も受賞していると。
「竿代勘之助翁頌徳碑」の文字は、当時の茨城県知事、友末洋治の筆によるもの と。



様々な石碑が石段横下に並んでいた。
右には「御鎮座壹千貳百弐拾年記念」碑。



石段の両脇には奉納された石鳥居が並ぶ。



「二の鳥居」。



扁額「大杉神社」。



「悪縁切堂」。



旧護摩堂。1804(文化元)年の建立。1798(寛政19)年に焼失した社殿に代わり、
現在の社殿が完成するまで仮社殿として使用された。 奥2間が本殿、手前2間が幣殿として
使われたという。当初茅葺だったがその後瓦葺き、さらに東日本大震災で損傷激しく、銅板葺と
なった と。



「旧護摩堂(きゅうごまどう)
文化元年(1804)完成。
桁行二間、梁間四間の寄棟茅葺風銅板葺建物。寛政十年(1798)に焼失した社殿に代わって
現社殿の完成まで仮社殿として使用された建造物。奥二間が当初本殿部、手前二間が
祈祷殿(幣殿)として使用されていたとみられる。当初は茅葺屋根であったがその後瓦葺に
改められた。平成二十三年に発生した東日本大震災により屋根瓦の落下被害が甚大であっため、
当初の形状に近似する茅葺風銅板葺の屋根に改められた。当初は社殿東側に並び立っていたと
みられるが、その後数度に及ぶ移築を経て現在地に移された。」
破損で消失した場所の文字は、ネットで確認。



「悪縁を断ってしあわせな日々を」。
悪縁切の人形による護摩火焼滅の悪縁切
一、授与所で悪縁切の人形を受けます。
二、悪縁切堂内に靴を脱いで入ります。
三、堂内手前、左の机に座り人形の裏面に願い事を具体的に記入します。
四、書き終わったら、奥の間の護摩壇前まで進んで下さい。
五、護摩壇の中央に護摩木を井桁に組みます。
六、炉の中心に着火剤を火鋏を使って設置します。
七、点火器(チャッカマン)で着火剤に点火して下さい。
八、炎が見え始めましたら、井桁中央に人形の正面を上に向けて静かに置いて下さい。
九、人形が全体に黒く燃えるまで合掌して願い事を心中で唱えて下さい。
十、火が燃え残っていても人形が黒く燃えた時点で合掌を解き、堂内から退出して下さい。
悪縁切の人形   初穂料 一体 3,000円」。



「絵馬掛所(えまかけどころ)」。



「絵馬掛所」の向かいには収穫した稲束が奉納されていた。



そして正面に「神門」。



「神門」に近づいて。

茨城の日光東照宮 大杉神社 : 茨城東海岸

神門の色彩豊かな見事な彫刻。



木鼻の龍の彫刻。



蟇股の龍の彫刻。



狛犬が神門の檻に入っているが如くに鎮座。
狛犬(阿形像(右))。



狛犬(吽形像(左))。



見上げると、神門の天井から桃が吊るされていた。



手水場には、龍が2体いたのであったが、コロナ禍の影響で水は無く。



「社務所」前の柱にも見事な黄金の蒔絵の如き装飾が。
御朱印場所は未だ開いていなかった。



「四方四隅八方守護 皇城鬼門鎮護之社」碑。
ここは江戸城、皇居を守る鬼門にあたる方角を固める防御のための神社であると。
『茨城の日光東照宮』とも呼ばれる一つの由縁であると。
そして境内に一方足を踏み入れただけで、その理由が解ったのであった。



「麒麟門」を境内側から見る。この「麒麟門」を閉めきって鬼門を護っているのだと。
開かずの門ということか?開く時があるのだろうか?
正徳年間に造営がなされた大杉神社社殿群は、「あんば日光」の異名を持つ絢爛豪華な社殿群で
あったが、享保13年(1728)に焼失。享保20年(1735)に一部を再建、宝暦4年(1754)に
全再建を果たした。
しかし寛政10年(1798)再び焼失。寛政12年(1800)再建に着手したが、享和3年(1803)
再々建途上に焼失。
その後文化3年(1806)起工、文化13年(1816)に遷座となった社殿が現社殿である。
宝暦年間に存在した社殿群は当時の記録から本殿、拝殿、唐門を5つ取り付けたとみられる透塀を
ともなった社殿のほかに神楽殿、神輿舎、回廊、楼門、唐門、総門、土蔵六棟などがみられる。
また安穏寺関連の建造物としては他に弥勒堂、護摩堂、仁王門等も存在したことが知られている。
中でも楼門は麒麟門と称されていたようで、日光の陽明門を彷彿させる威容を誇っていたと
されている。
平成22年(2010)3月27日、二階建ての楼門「麒麟門」が完成。本殿、幣殿、拝殿を繋ぐ
県内最大の複合社殿への正面入り口として、約280年ぶりに再建。
「麒麟門」は当時の文献から櫻井瀬左衛門を棟梁に、嶋村円鉄が彫刻を担当した豪奢な門であった
ことがわかり、これにならって麒麟、飛竜、獏、獅子など檜や楠材を使った200体以上の彩色
豊かな彫刻が施されました。二階部分には子孫繁栄、家内隆昌を願って大杉大明神の尊像が
安置されている と



門扉に近づいて。



木鼻。



正面の彫刻。
二層中備(写真上)が仙人・偉人・賢人シリーズ、一層中備(写真下)が唐子遊びシリーズ。



二層中備の彫刻・仙人・偉人・賢人シリーズを左から。
司馬光(しばこう)
司馬光( 1019 ~ 86 )は中国北宋時代の学者・政治家。司馬温公といったほうが有名。
中国の編年体史料『資治通鑑』の編さん者として有名だが、幼年期の逸話である
「司馬温公瓶割り」が有名。司馬光が幼い頃友達が高価な瓶(かめ)に落ちて溺れてしまった。
しかし瓶は高価なもので誰も手を出すことができない中、このままでは落ちた子供は死んで
しまうと考え、迷うことなく近くにあった大きな石で瓶を割って子供を助けたのが幼少期の
司馬光。司馬光は瓶を割って友達を救った。
どんなに貴重な物でも人の命には代えられない、人命の尊さを教える故事。

司馬温公甕割

呂尚(ろしよう)・周の文王(しゅうのぶんおう)

周の文王か来て「これそ太公(祖父)が待ち望んだ人物」と言って呂尚を登用したと言う。
そこで「太公が望んだ人物=太公望」となり、釣りの名人を太公望と呼ぶようになった。
周の文王(紀元前11世紀ごろ)は中国周王朝の創始者武王の父。一時代は殷(商)王朝末期、
紂王(ちゅうおう)の時に当たる。文王は王朝を立てたわけでないが善政を敷き領土を広げ、
有望な軍師として呂尚を迎え入れた。『十八史略』『呂尚という者あり。東海のほとりの人なり。
窮困して年老い、漁釣して周に至る。西伯(周文王)まさに猟せんとし、これをトす。日く
『龍にあらずチ(蛟のこと)にあらず、熊にあらず羆(ひぐま)にあらず、虎にあらずヒ(豹のこと)
にあらず、獲るところは覇王の輔ならん』。果して呂尚に渭水の陽(きた)に遇う。
ともに語り大いに悦びて曰く『吾が先君太公より日く、まさに聖人ありて周に適(ゆ)くべし、
周因りてもって興らんと。子は真にこれなるか。吾か太公、子を望むこと久し』。故にこれを
号して太公望という。載せて与(とも)に倶(とも)に帰り、立てて師となし、これを師尚父という。」
呂尚と文王の邂逅

黄石公(こうせきこう)・張良
黄石公は張良との逸話で出てくる仙人。張良(?~紀元前186 )は前漢の高祖(劉邦)に仕えた
軍師・政治家。張良がいなけれは漢王朝が成立しなかったとさえいわれている人物。張良と黄石公
(老人)が橋で出会い、黄石公が川に靴を投げ捨て、張良に拾わせようとすると、川から龍が現れ
張良が剣でなぎ払おうとする。この後黄石公から兵法の秘伝を教えてもらうという話。
黄石公と張良

その下、一層中備が唐子遊びシリーズの彫刻。
左:鬼ごっこ「ことろことろ」。



中央:川遊び



右:乗馬遊び



「麒麟門」の向かって左の脇扉の横の彫刻。

イメージ 2

ズームして。
住吉明神(すみよしみようじん)
白楽天(はくらくてん)
白居易( 772 ~ 846 )は中国唐の時代の詩人で字は楽天。彼の代表作『白氏文集』は
日本文化に多大なる影響を与え、平安貴族の教養に欠かさないものとされた。
白居易が日本に来訪しそこで年老いた漁夫に会う。漢詩を作ると漁夫は即座に和歌で返した。
漁夫は隠れ、再び白居易の前に住吉明神として現われる。舞を見せたと思いきや白居易を
神風で追い返すという逸話である と。



門の左右には大きな「御幣(ごへい)」が奉納されていた。
左側。



右側。



「神輿殿」の扉の装飾。引き戸の扉のようであった。



「鐘楼」には梵鐘の姿はなかった。
神仏分離時になくなったのか?それとも戦時中に供出か?



見事な「神輿殿」。
1728(享保13)年の火災により焼失。その後長く再建されなかったが、
20122(平成24)年、校倉造により再建された。



「神輿殿
亨保十三(一七ニ八)の大火により消失。その後再建されることがなかった。
平成ニ十四年(ニ〇一ニ)に校倉造による神輿殿が再建された。大杉祭の渡御祭に駕輿丁によって
担がれる神輿が納められている。」


そして「麒麟門」を境内内部から見て、正面左側の瑞垣欄間の彫刻群。



道路に向かって様々な動物の姿が彫られていた。









道路に沿った瑞垣欄間には。



この物語の「案内板」は見つからなかったが。











「麒麟門」を正面右側から見る。



二層中備の彫刻・仙人・偉人・賢人シリーズを左から。
許由(きょゆう)・巣父. (そうほ)
許由は中国三皇五帝時代、尭王の治世にいた隠者。
尭王は帝位に相応しい人物として許由を候補とした。
これを聞いた許由は山籠り、尭王はそれでも許由に位を授けようとしますが、これを聞いた
許由は耳を洗い出した。許由にとって位は汚らわしいものでありそれを聞いた耳か汚れたと
いうので耳を洗った許由。
巣父は許由とともに中国三皇五帝時代、尭王の治世にいた隠者。許由が尭からの話を聞き
耳を洗った川の下流で巣父は牛に水を飲ませようとしていた。
しかし許由が汚らわしい話を聞いて耳を洗った水を牛に飲ませるわけにはいかす、牛に水を
飲ませないまま帰っていった。位などを求めることなく高潔を保とうとした話として
許由と巣父の話はよく語られる。

許由巣父

梅妻鶴子(ばいさいかくし)の林和靖(りんわせい)。
中国・北宋時代の詩人「林和靖(りんわせい)」が俗世を離れ、清らかで風流な隠棲生活を
する人が、妻の代わりに梅を愛し、子の代わりに鶴を愛で一人で清らかに暮らす様を表している。

梅妻鶴子

そして「麒麟門」の向かって右の脇扉の横の彫刻。



この物語は??
琴高仙人(きんこう せんにん)の故事か?自信はないが。



琴高仙人とは古代中国の仙人で、琴が巧みで仙術を得意とし、河の龍を捕えるために鯉に乗って
水中から現れ人々を驚かせたという。 琴高仙人図は室町時代以降好んで取り上げられた画題で、
雪村周継や尾形光琳の作品が有名であるが。



「麒麟門」上部の「二層彫刻題材解説」案内板。
内容はそれぞれの彫刻に転記済み。

イメージ 6

                              ・・・​ もどる ​・・・

                  ・・・​ つづく ​・・・






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2021.11.01 11:47:20
コメント(0) | コメントを書く
[JINさんの農園] カテゴリの最新記事


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: