JINさんの陽蜂農遠日記

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2022.03.11
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カテゴリ: 国内旅行
「願成就院」の散策を続ける。
「大御堂」への参道には巨大な石灯籠が。



近寄って(左側)。



近寄って(右側)。



「願成就院」の看板犬の秋田犬のROCKY(ロッキー)くんも居眠り中か?



扁額「大御堂」。



国宝が鎮座する内陣を「 ネット ​」​👈リンク から。



大御堂にお祀りする運慶作、国宝五身區の仏像群をネットから。
国宝・運慶作・1186年(文治2年) 像高142.0cm
力強い体軀で、圧倒的な重量感にあふれている。深く刻み込まれた流れるような衣文も
流石運慶と思わせる。縵網相の説法印を結び、激動の時代を生き抜かなければならない
当時の武士や民衆を救おうという強い意志を感じさせます。



不動明王・矜羯羅童子・制吒迦童子三尊立像
国宝・運慶作・1186年(文治二年)
像高 不動明王 137.2cm、
羂索をとる左手を、利剣を握る右手と同じ高さに上げた逞しく若々しい上半身、玉眼の両眼を
かっと見開き、眉毛をつり上げた眼光鋭い忿怒の形相の不動明王が、左前にあどけなく、
清浄無垢な愛らしい矜羯羅童子を、右前に手に宝棒を持ち、眉間にしわを寄せ、ロをへの字にした
きかん気で今にも動き出しそうな制吒迦童子を伴って悪に立ち向かう頼もしいお姿は、様々な
難儀、災厄から人々を守ろうとされる強い法力を感じさせます。



制吒迦童子立像(せいたかどうじりゅうぞう)・83.5cm。



矜羯羅童子立像(こんがらどうじりゅうぞう)・74.4cm。



毘沙門天立像
国宝・運慶作・1186年(文治2年)・像高148.2cm
二匹の邪鬼を踏みつけて、玉眼入りで眼光鋭く一点を凝視して立つ雄渾なお姿には、
躍動感、緊張感が巧みに表現されていて、運慶が出合ったであろう東国の若武者のイメージが
彷彿としてきます。守護神として、尚武招福の仏様として、東国武士や民衆に崇められてきた
ことを感じさせます。



本堂の本尊、阿彌陀如来坐像。
県指定文化財・鎌倉前期・慶派作(作者不詳)・像高86.8cm 玉眼入り 願成就院・本堂蔵
十三世紀初頭の作風から、時政公の供養のために、1215年(建保三年) 12月に
二代執権北條義時公が建立した南新御堂本尊阿彌陀三尊の中尊であるとされています。




県指定文化財・鎌倉前期・慶派作(作者不詳)・像高51.6cm 玉眼入り 願成就院・宝物館蔵
像座に「寛喜の銘文」が残り、政子七回忌頃の作で、北条泰時が願成就院に奉納したかと
思われています。



北條時政公肖像
制作年代・作者不詳 玉眼入り 願成就院・宝物館蔵
唯一の北條時政公の肖像であります。



境内の「五百羅漢(ごひゃくらかん)」の表情が楽しいのであった。



「弘法大師御像」。



茅葺の本堂。
願成就院創建六百周年にあたり、1789年(寛政元年)に建立。
時政供養のために1215年(建保三年)にできた南新御堂の後身堂である。
二百三十年の風雲に耐えて本日に伝えられています。



「浅草と願成就院
伊豆の大仁を愛する浅草の住人高坂公一 和田長敬 大塚金太郎の三氏がゆくりなくも当韮山の
願成就院を訪れ荒廃せる堂内に国宝の御佛を拝するに及び痛恨の念に暫し去りやらず茲に護持の
一念発起して浅草の人々の協力を求める篤信の人雷おこし主人穂苅氏を講元に仰ぎ昭和三十年
九月浅山講を創立爾来講費頓に加わりて本年講費壱阡七百名を算する事となる此の信仰の結果は
昭和三十七年二月願成講倉島講元天山講真鍋講元との共同発願に依り不燃建築の護持大御堂を
建立し重要文化財なる御佛の数々を未来永劫に安置し得る大業を了し終りぬ本碑に願成就院が

梅が香の千代に伝へむこの御霊」。



「運慶謹作仏像五体 国宝指定記念之碑」。



「浅山講五十回団参記念之碑」と「五百羅漢」。







「浅山講五十回団参記念之碑
歳月の過ぎゆくは矢の如しというが、浅山講五十年の歩みもまた夢のようである。創講者の
一人である故高坂公一氏は、昭和ニ十九年の晩秋、友人の和田長敬・大塚金太郎の両氏と初めて
願成就院を訪れ、荒廃せる堂内にみ佛を拝観したときのことを後の手記に書き残している。
「阿弥陀如来の慈顔溢れる結構さと、不動明王・毘沙門天の眼光炯炯としてあたりを威圧するが
如き尊厳さを拝し、平伏合掌したのが、私どもの胸の中に今でも強い印象となって残っている。
浅草に帰った私たちは、国宝護持の目的をもって上條貢先生(元台東区長・都議会議長)と相談して
浅草の浅と韮山の山をとり浅山講という信仰団体を創立することにした。講元には篤信家の常磐堂
雷おこし社長徳刈恒一氏の就任をお願いした。第一回団参には約八百名の参加者があった。」
創講から八年後、昭和三十七年ニ月、悲願であった不燃建築の新大御堂の建立が、同志との共同
発願により達成され、願成就院復興の端緒となる。尊きみ佛護持顕彰の創講の精神は、ニ代目
穂刈幸雄講元、三代目穂刈敬子講元に継承され、歴代副講元・世話人・支部長衆の尽力によって
毎年団參が継続実施され、本年五十四回目を迎える。本碑に浅草と願成就院の因縁深きことを
刻して記念とする。 合掌。」



至る場所に五百羅漢が。



池と石橋。




「五百羅漢」とは仏陀に付き従った500人の弟子。またはそれをかたどった像のこと。



私に似た五百羅漢を探すが・・・。



この付近の五百羅漢は眼鏡をかけている方が多かったが。



知人に似ている!!
そして仲良く夫婦で並んで。



十三重塔。



「五百羅漢」を更にカメラで追う。









この後に訪ねた「守山八幡宮」の舞殿が隣奥に見えた。



そして「足利茶々丸公方御墓」を訪ねた。



左手には、俳人石田波郷の句碑があった。
「寂かにて 願成就院 梅雨はれぬ」。



「足利茶々丸公方御墓」。
足利茶々丸は堀越公方足利政知の子。
1493年(明応2年)、北条早雲が伊豆に攻め入った際、願成就院に逃げ込んで自害したと
伝えられている。ただし、近年の研究では、伊豆から追放され、1498年(明応7年)、甲斐国で
自害したとされている と。



父の死後に一族間で内紛を起こして家督を相続するが、伊勢宗瑞(北条早雲)に攻められて
各地を転戦の果てに自殺、堀越公方家は滅亡した。
「茶々丸」は幼名であり、元服をする前に死去したため、成人としての実名である諱は
伝わっていないとされる。



「成就院九成居士」と刻まれていた。



出来たばかりの?五百羅漢。
この場所は工房であっただろうか。



以前は希望すれば、指導の下、自分でこの「五百羅漢」を作成でき、境内に奉納できたようで
あったが現在は??



斜面にこれでもかと。





「永代供養廟」。



「大御堂」(右)と「宝物館」(左)を横から。



「洗心庭」。



「枯山水庭園 洗心庭
中央の右手に阿弥陀如来に見立てた大きな不動石を配し五石の石組をし刈入の木と自然な木を
調和させ優しいやわらかな雰囲気をかもしだす庭園です。白雲上の仏樣たちを想像するなど
見る人それぞれの心でこの庭を鑑賞してください。」



「守山八幡宮」への角に立っていたのが「頼朝公建立 天守君山 願成就院」と刻まれた石碑。



                              ・・・​ もどる ​・・・


                  ・・・​ つづく ​・・・





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Last updated  2022.03.21 06:09:09
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