JINさんの陽蜂農遠日記

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2022.05.23
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カテゴリ: 茅ヶ崎市歴史散歩
【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次

「本堂」前から「浄見寺」の境内を振り返る。
正面に大岡忠相の墓地への石段、そして右手に「六地蔵」が。



「本堂」前を左に入り、枯山水の庭に向かって進む。



入口の石仏(右)。



入口の石仏(左)。後ろにはアセビの花が。



右側には白砂の庭が拡がっていた。



の流れを表しているのだ。



水紋(すいもん)はー滴の水が落ち、そこから広がる波紋を表現しているのだと。



「旧三橋家住宅」の方向から。



ツツジも輝きを増して。



そして芍薬の花も開花。







モミジも春に赤く変身。



墓地への石段を上って行った。



石段の途中から「本堂」を振り返る。



日本庭園の中にある石段を更に上る。



そして大きな墓地が拡がっていた。



大岡越前守一族墓所の南側を見る。



大岡越前守一族の墓石が並ぶ。



再び大岡家の「歴代当主」を。



一番左に「十四代 慈徳院殿 忠輔」の墓。
三河西大平藩大岡家第十四代当主。
「大岡裁き」で名を馳せ、後に時代劇で「大岡越前」として人気を博した大岡家5代当主で、




1924年〈大正13年〉誕生 - 2018年〈平成30年〉12月14日没は、日本の実業家。
三河西大平藩大岡家第14代当主。味の素グループのクノール食品の元社長と。



「十二代 賢性院殿 忠明」と「十三代 誠徳院殿 忠綱」の墓。
大岡忠明は 安政四年 (1857) 五月二十六日誕生 。19歳で夭逝。

大正から昭和期の銀行家、政治家、華族。貴族院子爵議員。



「十二代 賢性院殿 忠明」と「十三代 誠徳院殿 忠綱」。



「十一代 謙徳院殿 忠敬」の墓。
文政11年(1828)生誕、明治20年(1887)死没。
幕末には当初は佐幕派に属したが、鳥羽・伏見の戦い以後は小藩故に多勢に無勢であり、
新政府軍に帰順して挙母藩や田原藩とともに輸送の任にあたった。
明治2年(1869年)、版籍奉還により西大平藩知藩事に就任する。



「十一代 謙徳院殿 忠敬」



そして大岡忠相の墓に向かって、来た道を引き返す。



六地蔵の前を通り大岡忠相の墓に向かって石段を上って行った。



石段の上の両側に石灯籠。
左側の石灯籠の後ろに「オハツキイチョウ」。



右側の石灯籠。



天然記念物「浄見寺のオハツキイチョウ」。

DSC08252_R.JPG

葉の上にギンナンが接して結実する非常に珍しいイチョウの変種。
大岡家の家紋がイチョウの葉を使用しているところから浄見寺の建立時に植えられたと
されている。



葉の上にギンナンが接して結実する非常に珍しいイチョウの変種であるとネットからの写真。


   【http://blog.livedoor.jp/nonko0127/archives/55754372.html】より

浄見寺のオハッキイチョウ
葉にギンナンが結実するイチョウの変種。昭和六十三年に行った年輪幅の調査から樹齢は
ニ百年前後と推定されていますが、並んでいるナギとともに、浄見寺の創建時に稙えられたとも
伝えられています。
浄見寺の寺林
  昭和四十ニ年七月ニ十一日 神奈川県天然記念物指定
相模野の自然樹林が少なくなっている中で、昔の樹林の様子を残す寺林として貴重です。
スダジイ、タブノキなどの照葉樹か多く見られます
浄見寺の大岡家一旋墓所
  昭和三十六年ニ月十四日 茅ヶ畸市史跡指定
浄見寺は越前守忠相で有名な大岡家代々の善提寺で、初代忠勝をはじめとする墓などが
立ち並んています。天正十九年(一五九一)ニ代忠政は徳川家康からこの地、堤村を与えられ、
その後慶長十六年(一六一一)に浄見寺を建立しました。」


墓石の前には多くの句碑、歌碑が並んでいた。



以下、学友が現地に出向き、解読して下さいました。
浄見寺 春めぐり来て 蘇へる 史蹟の墓に 大き公孫樹に ( )  あしかび 」。



句碑。
花守と ( )  な ( ) らばや 月も (  夜頃とて ( )  十八世 鴫立庵芳如八十九 」。

物が ( ) ( ) り  かく ( ) て幾世の  公孫樹の芽 九一 」、飯田九一の句碑。



越前守 大岡公乃紋ところ 銀杏の実こそ 踏むに惜しけり 川田順 」。



「二代 頂源院殿 忠政」、「三代 源忠院殿 忠世」、「四代 真覚院殿 忠真」の墓。
その奥に「五代 松運院殿 忠相」の墓」。



ズームして。



「二代 頂源院殿 忠政」、「三代 源忠院殿 忠世」の墓石。



「二代 頂源院殿 忠政」。



「三代 源忠院殿 忠世」。



「四代 真覚院殿 忠真」の墓石。



「四代 真覚院殿 忠真」。



「五代 松運院殿 大岡忠相」の墓。
8代将軍・徳川吉宗が進めた享保の改革を町奉行として支え、江戸の市中行政に携わったほか、
評定所一座に加わり、関東地方御用掛(かんとうじかたごようがかり)や寺社奉行を務めた。
越前守だったことと『大岡政談』や時代劇での名奉行としてイメージを通じて、現代では
大岡越前として知られている。通称は求馬、のち市十郎、忠右衛門。諱は忠義、のち忠相。
大岡忠相の法名は「松運院殿前越前刺史興誉仁山崇義大居士」。

tadasuke_R.jpg

墓地の内部には入れないので「五代 松運院殿 忠相」の墓の正面からの写真を
ネットから。


   【https://spice.eplus.jp/articles/300299】より

3月17日(木)に大岡越前守・大石忠相の墓地に参拝する歌舞伎俳優の尾上松緑氏。


  【https://spice.eplus.jp/articles/300299】より

「十代 徳元院殿 忠愛」の墓。



そして大岡忠相の墓地入口から「浄見寺」境内を振り返る。



「大岡家一族墓参の方へ」と。



石段を降りて再び「本堂」を見る。



そして境内から「山門」を見る。



「山門」を潜り直進し見上げると墓地の隅に無縫塔が並ぶ歴代住職の墓が見えたのであった。




                              ・・・​ もどる ​・・・


                  ・・・​ つづく ​・・・





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Last updated  2022.06.08 19:11:59
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