JINさんの陽蜂農遠日記

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2022.07.09
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カテゴリ: 寒川町歴史散歩
【寒川町の寺社旧蹟を巡る】 目次

「寒川神社」を後にして、第1駐車場から「寒川神社」の東側の道路に出ると、正面にあったのが
「寒川神社少年館」。
神奈川県高座郡寒川町宮山3916。



「寒川神社少年館」は、昭和五十二年に、いわゆる「鍵っこ」対策の一環として開館した。
以来、多くの子どもたちが立派に成長し、巣立って行った。新聞やニュースで毎日のように
取り上げられているいじめ問題や子供への虐待など、子どもたちを取り巻く社会環境は決して
良いとはいえない。そんな子どもたちの居場所や交流の場の一つとして、歴史と伝統に包まれた
鎮守の森の中で社会生活のルールを学びながら、自然を愛し、人を愛する豊かな心を育む
伝いをしている」と。

毎週月曜から土曜の午後3時から5時まで開講しているとのこと。



「寒川神社 相模塾」
「寒川神社」では神道を通して日本の暮らしや伝統文化を再発見することを目的とした
「相模塾」を開催している。
普段は知ることのできない神社・神道について学ぶことが出来るのだと。



「寒川神社」では、鎮守の森や大自然の中での体験を通して、青少年の豊かな心と健やかな体を
育むボーイスカウトの活動を支援している。昭和四十八年七月に発団し、春夏のキャンプを
はじめとする野外活動や地域住民との交流イベントなど、さまざまな活動をサポートしてきた。



そして南に進むとT字路の角、「興全寺西門」案内の前にあったのが「馬洗戸橋」碑。
歴史の古い寒川神社の流鏑馬は、まず初めに「馬洗いの儀」から始まります。
ご神職が馬に乗り、神社の東側に有る花川用水に架かる「馬洗戸橋」前で馬の足を洗うのだと。
寒川神社の流鏑馬は、一概には、鶴岡流鏑馬の系統とはみなすことができない古式の流鏑馬。



そして「興全寺」の参道入口に到着。



「とんがらし地蔵尊」案内板。

明治時代前の神仏混淆(しんぶつこんこう/神仏習合)時代の名残で、昔は寒川大明神
(寒川神社)を守護神とする神仏混淆の寺院だったのであろうか。



寺号標石「曹洞宗 興全寺」
相模国一之宮、寒川神社代々の神官が祀られており、徳川家康公とも縁(ゆかり)のある
興全寺は寒川神社の東隣に創建された曹洞禅宗(そうとうぜんしゅう)の寺院。




三歳児にもわかるが 八十歳を過ぎたとしても
成すことは なお難しきかな」



「山門」。



「龍寶山」。



「興全禅寺」。



「山門」の扁額「龍寶山」。



そして「常香炉」の先に「本堂」。



「常香炉」。



「本堂」。



「曹洞宗(禅宗)
南無本師釈迦牟尼佛
当山本尊 釈迦如来
大本山 福井県 永平寺 御開山 高祖道元禅師
    横浜市 總持寺 御開山 太祖瑩山禅師
伝統  お釈迦さまより正伝の佛法は達磨大師によって中国へ伝えられ曹洞の曹洞の禅風として
    開花し鎌倉時代道元禅師のお伝えにより日本開宗となす。その教義は螢山禅師によって
    広く全土に実践教化され今日に至る。
教義  人は本来佛性 己に佛心の具え有り 正法の教典を讃仰読誦し、深く黙照して坐し、
    脚下照顧して己の足下を見つめ、自然(宇宙)と一体なる自己を見極めて、活達なる
    人生をいかしきるのが、禅の実践なり。
経典  修証義 般若心経 観音経寿量品等を読誦する。
本堂のご本尊に先ず合掌」



「本堂」前の石仏。



「内陣」。



ズームして。



境内にあった「相模地蔵尊」。



子供たちが親や人生の先達を敬い、自分が人々の力によって生かされていることに感謝する
心をもち、お互いを尊重し合い、心を養うことができるよう願いを込めて建立された と。



お顔をズームして。



「相模地蔵尊」と。



「水子供養 子授け安産御祈祷 相模地蔵菩薩」。



「相模地蔵尊 御案内
子授け安産・学業成就祈願水子供養御祈祷を受け付けております。」



そして「宝篋印塔」が二基。



左をズームして。



「宝篋印塔
※右 貞治七年 北朝年号(一三六八)建立
※左 貞治六年、北朝年号(一三六七)  建立
寒川町指定重要文化財第十一号
昭和六十年四月一日指定
宝篋印塔は「宝篋印経記」によると応和元年(九六一)、中国より日本に伝えられたもので、
「宝篋印陀羅尼経」を塔中に納め礼拝すれば生きている間は災害から免れ、死後は必ず
極楽に生まれかわるという功徳が説かれていたが、鎌倉中期以降墓碑塔、供養塔に変化して
いった。
この塔は地蔵信仰にかかわりのある宝篋印塔で、寒川町内最古のものである。」



境内の「石碑群」。



「畜霊碑」。



「碑の由来について
この畜霊碑は、寒川町内で飼育され人々の食生活のために貢献した家畜に対し感謝し、その霊を
慰めるため昭和四十二年にこの場所に建立したものである。
また、高座豚の元祖であるべンドレーバグルボーイ二世号の功績を讃えた碑が畜霊碑の隣に
建てられているが、ペ号は昭和六年に全国に先駆けて当時の郡農会が品種改良のために英国から
輸入したもので、寒川では昭和九年から管理され種付け頭数も六百余頭に及び全国にその名声を
博せる高座豚の基礎を確立した。
毎春、畜産会員及び関係者により供養のため畜霊祭をおこなっている。」



「べンドレーバグルボーイ二世号」碑。



そして別の日に再び訪ねた「とうがらし地蔵」。



昔からいぼとり地蔵として有名で地蔵の前の線香の灰をイボにつけるとイボが取れるとい
われており、合掌しながらじっと対面すると、心がなごみ、和らぎを感じられるそうです。
イボが取れたお礼には、自分の年の数だけトウガラシを数珠にしてかけることになっています と。



とうがらしが奉納されていたが赤い色は残っていなかった。



「本堂」の西側には墓地が。



墓地の最奥にあった「歴代住職の墓」。



「本堂」を墓地の奥から見る。



永代供養塔 白蓮之塔(合祈墓)。



「東照公御遺訓」として今日に伝えられている
「人の一生は重荷を負いて遠き道を行くが如くいそぐべからず」。
徳川家康ゆかりの寺とあるが具体的には?



「水子地蔵尊」。



そして「西門」近くにあった「子安地蔵」。



そして再び「寒川神社」前の道を東に戻り、「根岸」交差点を右に折れて進んだ所に
あったのが「寒川中央公園」内にある「シンコースポーツ 寒川アリーナ(寒川総合体育館)」。



手前が「メインアリーナ棟」。



右側が「サブアリーナ棟」。



                               ・・・​ もどる ​・・・



                 ・・・​ つづく ​・・・





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Last updated  2023.02.15 23:10:18
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