JINさんの陽蜂農遠日記

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2022.07.12
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カテゴリ: 寒川町歴史散歩
【寒川町の寺社旧蹟を巡る】 目次

右手に「寒川神社」の「一之鳥居」が現れた。右手には「寒川神社参道」碑。
神奈川県高座郡寒川町宮山340−7。



JR相模線の踏切脇にあった「寒川神社」の「一之鳥居」。



「一之鳥居」の手前にあったJR相模線の踏切。



「大門踏切」。
相模線 5K736M 巾員13.4M



そして「一之鳥居」を潜って寒川神社方向に進む。
左手には「かながわの美林50選 寒川神社の森」柱。



一方通行の道路の歩道を北に進む。







「水道記念館・水の広場」の案内板。
利用時間 午前九時三〇分~午後四時三〇分
休みの日
(1)月曜日(ただし祝日・休日の揚合はその翌日)
(2)二月の第四週(月~金)
(3)年末年始 十二月二十九日~一月三日


「水道記念」碑。



近づいて。



「湘南ノ地タルヤ、氣候温和ニシテ名勝史跡ニ富ミ且ツ帝都ニ近ク将来益其ノ發展ヲ
期待セラル而シテ葉山ニハ既に畏クモ御用邸御設置アラサラレ常ニ行幸啓ヲ仰キ御駐輦ノ
長キ他ニ其ノ◯ヲ見ス従テ聖域附近ノ衛生状態ヲ改善シ防火保安ノ完備ヲ期スルハ最モ緊要ト
為シ水道布設ノ議ハ夙ニ官民ノ間ニ提唱セラレ縣ハ蘆ノ湖利用調査ヲ遂ケ或ハ横濱市ト共同ノ
計畫ヲ講シ其ノ他各種ノ立案ヲ試ミタリシカ◯レモ實現スルニ至ラス然レトモ當局者ハ
斷エス本問題解決ノ為ニ益技術ニ財政ニ調査研究ヲ重ネ關系市町村亦縣營水道期成同盟會ヲ
組織シ熱烈ナル運動ヲ開始セリ時ナル哉縣ハ昭和六年遂ニ給水區域ヲ平塚市外九箇町トシ別ニ

依ル最モ經濟的水道布設ノ案ヲ定メ通常縣會ノ議決ヲ經テ八年三月主務局ノ認許ヲ得五月
水源地寒川村ニ於テ起工式ヲ擧ケ爾来日夜工事ヲ薫督シ十季八月全線ノ通水ヲ見本季四月竟ニ
工事ヲ完成シタリ工費實ニ五百五拾五萬圓内百四拾七萬餘圓ヲ横須賀市ノ負◯ト為セリ
抑本水道ノ給水區域タルヤ東ハ茅ヶ崎藤澤片瀬腰越鎌倉逗子葉山横須賀浦賀ノ各市町ニ
及ヒ送水管延長四萬壹千六百餘米西ハ平塚市大磯町ニシテ其ノ延長九千八百餘米ニ達ス蓋シ

懸桉ニシテ調査開始以◯季ヲ関スルコト十有三其ノ間幾多ノ波瀾曲折ヲ經タリト雖克ク
所期ノ目的ヲ達成スルコトヲ得タルハ洵ニ本縣ノ誇リトスルニ足ル爰ニ其ノ沿革概要ヲ
石に勒シテ永ク後◯ニ傳フ
昭和十一年四月
神奈川縣知事従四位勲三等 半井 清 撰」。



裏面を見る。



「縣營水道既成同盟會建之」と。



「水道記念碑について
この水道記念碑は、わが国最初の広域水道として行われることになりました「神奈川県営水道
事業」の最初の工事が、昭和八年五月の起工以来、昭和十年八月の全線通水を経て、昭和十一年
四月に完成したことを記念して、県営水道期成同盟会によって建てられたものです。
この文面からは、当時の人々の県営水道にかける決意、水道管布設に当たっての努力、また、
完成した県営水道に対する誇りが感じられます。

「碑に刻まれている文章を現代文に直したものです。
湘南の地は、気候が温和で名勝史跡に富んでおり、かつ帝都に近く、将来ますますその発展が
期待できます。しかも葉山にはすでに畏れ多くも御用邸を設置いただき、常に行幸啓を仰ぎ
ご滞在の長いことは他にその比を見ません。
従って聖域付近の衛生状態を改善し、防火保安の完備を図ることは最も緊要であり、水道敷設の
議論は、はやくから官民の間で提唱されており、県は芦ノ湖の利用調査を遂げ、あるいは横浜市と
共同の計画を講じ、その他各種の立案を試みましたが、いずれも実現するには至りませんでした。
しかしながら当局者は絶えず問題解決のためにますます技術に財政に調査研究を重ね関係市町村も
また県営水道既成同盟会を組織し、熱烈な運動を開始しましたところ、県は昭和六年についに給水
区域を平塚市外九ケ町とし、別に既成の横須賀市水道に対し、上水供給の目的をもって水源を
相模川下流の伏流水に求め、ポンプでの送水による最も経済的水道布設の案を定め、通常国会の
議決を経て八年三月に主務省の認許を得ました。五月に水源地寒川を挙げ、それ以来、日夜の工事
を監督し十年八月全線の通水を見て、本年四月についに工事を完成しました。
工事は実に五百五十五万円で、うち百四十七万余円を横須賀市の負担としました。そもそも、
本水道の給水区域たるや東は茅ヶ崎、藤沢、片瀬、腰越、鎌倉、逗子、葉山、横須賀、浦賀の
各市町の及び、送水管延長四万一千六百メートル、西は平塚市、大磯町にしてその延長九千
八百余メートルに達します。おそらくは県営水道は我が国史上かって類例なく、全くこれを
もって先駆けとなしたのです。
かえりみますとこの事業は本県の宿年の懸案にして調査開始以来、年を経ること十三年、その間に
幾多の波乱曲折を経ましたけれども、所期の目的を達成することを得ましたことは、まことに
誇りとするに足りここにその沿革と概要を石にきざみこみ永く子孫に伝えます。
神奈川県知事従四位勲三等 半井清 撰 」



「水道記念館・水の広場」への正門。
昭和8年(1936年)に県営水道が創設され、寒川に浄水場が作られた。
当時のポンプ場は水道記念館として一般に公開されているのであった。



「水の広場」と。
ここが当時のポンプ場の正門であったようだ。



桜の老木が花をこれでもかと付けて迎えてくれた。











右手には水の流れる岩の水路・池そしてその奥に四阿が見えた。



池の先に「水道記念館」そして前庭には巨大なポンプが展示されていた。



せせらぎの流れが「水の広場」に。



「水道記念館」の入口に向かって進む。



巨大な横型渦巻きポンプ。



「神奈川県企業庁 水道記念館」と。
 神奈川県高座郡寒川町宮山4001。



館内に入ったが見学者は私のみ。
1Fには アクアプレイランド・水源体験ゾーン・水道まるみええゾーンなどがあった。



右側にあったのが「アルキメデスのポンプ」。
ハンドルを回すだけで水を上までくみ上げられる「アルキメデスポンプ」。
アルキメデスポンプは、今から2300年くらい前に古代ギリシアのアルキメデスという
哲学者(てつがくしゃ)が考えたといわれる発明。
パイプの中には軸(じく)があって、らせんとなったうすい板がついています。
この軸をクルクル回すと水がそのらせんにすくわれて、しだいに上まで運ばれるしくみ。
アルキメデスポンプは、今でもコンクリートミキサーの中などに使われているのだ。

ただし、この日はコロナ禍の影響でハンドル操作は禁止であった。
展示されているその他の遊具も操作禁止であった。



水を入れたガラスの管が音階を奏でる「水のシロホン」。



水の循環をイメージしてボールが館内をかけめぐる「ボールコースター」



「水道記念館」の前庭の「水の広場」の円形の池には「河童」の像が。



「水の広場」の先にある四阿の方向に向かって歩く。



水遊びもできる川が流れていた。何とも涼し気で癒されるのであった。
実はこの小川、相模湖から相模湾に流れるまでの相模川の川の流れを表現していると。
周りには県営水道の給水区域の木々が。楽しく学べる工夫がいっぱいなのであった。



別の場所から。



桜の下で談笑するオバちゃん達の姿も。



桜をズームして。



そして「水道記念館」を後にしたのであった。



再び「一之鳥居」に向かって進む。



銅製の「一之鳥居」。



JR相模線に沿って「寒川駅」に向かって歩く。
民家の庭の木瓜の花。



そして「寒川町観光協会」に立ち寄る。
神奈川県高座郡寒川町岡田1丁目2−31A。



多くの観光用パンフレット。



鎌倉時代風「鎧兜」。太刀も履物も揃っていた。
ボランティアが、長年息子さんの端午の節句で飾ってこられたという立派な「鎧兜」。



岡田遺跡と釣手土器
東京国立博物館で開催された特別展「縄文-一万年の美の鼓動」が連日大盛況だったことは皆さま
ご存知かと思います。また、北海道・北東北の縄文遺跡群が世界遺産候補として世界遺産暫定
一覧表に表記されるなど、世界的評価も高まっています。映画「縄文にハマる人々」、縄文女子の
出現等、今縄文時代が注目を集めています!
そんな熱い縄文時代の遺跡がこの寒川町に、それも、あの有名な三内丸山遺跡にある意味匹敵する
ほどの日本最大級の縄文時代の集落があることをご存知ですか?
日本一の巨大集落 ​ 岡田遺跡 👈リンク
岡田遺跡(寒川町No. 4 5 )は、相模川の支流にあたる目久尻川と小出川に挟まれた標高24mの
相模野台地上、現在の岡田もくせいハイツ及び、その東側の畑に位置する遺跡です。昭和57年より
9回ほど大規模な発掘調査が実施され、今からおおよそ5.000年前の縄文時代中期の巨大な集落址が
発見されました。
縄文時代の集落は、環状に住居を配置する環状集落で、勝坂式期から加曽利E式期の竪穴住居址が
重複等含め600軒以上確認されており、未調査部分も合わせると、推定1000軒から1500軒の
規模になる可能性があり、神奈川県内で最大規模、全国的にみても屈指の住居址数を想定しうる
遺跡です。
環状集落(かんじょうしゅうらく)とは、中央の広場を中心として、その周りを環状に住居が
配置された集落です。お墓と思われる墓坑や、貯蔵用の穴と思われる土坑が中心によった形で
配置されたりしています。縄文時代中期ごろによく見られます。
岡田遺跡では同時期に3つの環状集落が展開していた鼎立(ていりつ)型環状集落と想定されて
います。これは全国的にみても数例しか見られないものです。
さまざまな土器や石器が発見されており、その数はひと教室まるまる収蔵されていて、
整理箱800箱以上にもなりました!」



謎の釣手土器
釣手土器とは縄文時代中期に出現した縄文土器の一種です。浅鉢形で胴体口縁部に把手が
付けられた土器です。把手の部分に動物や人面などの装飾を伴うものや、祭祀に関連したものとの
共伴で出土することもあり、その奇異な形から祭祀に関連した土器とも考えられています。
把手には懸垂のためと思われる孔が設けられていることもあり、内面に炭化物等の付着や
黒色変化が認められる出土例があることから、灯火具(ランプ)や防虫香炉であるとも
考えられています。
釣手土器は、どの遺跡からも発見されるわけではありません。またあったとしても、一つの遺跡に
一つが普通です。それが、岡田遺跡からは5点も釣手土器が発見されています。これは県内で
最多の出土数、全国的に見ても数例しかありません。特に116住居から出土した釣手土器は、
平成24年3月に岡田遺跡を代表する土器として、寒川町指定重要文化財第20号に指定されました。
116号住居から出土した他の土器はもっと新しい時代の土器と思われ、釣手土器は何世代かに
わたって大切に伝えられたものと考えられます。ほぼ完形であり、その見た目は人間や動物の顔や
仮面などを思いおこさせます。また真上から見ても顔のように見えます。
はたして釣手土器の本当のモチーフはなんだったのか?縄文人の芸術とは?何のために大切に
守られていたのか?みなさんも想像してみてください。
町指定重要文化財になっている116号住居出土の釣手土器や、1999年調査時の6号住居出土の
釣手土器は、ほとんど完形であり大切にされていたことがわかります。これに対し1999年
調査1号土坑出土の釣手土器は、バラバラの状態で土坑(穴)から発見されました。他の2点の
釣手土器も一部しか発見されておらず、同じ釣手土器なのに取扱い方が正反対とも言えます。
釣手土器は祭祀や儀式に使っていたとも考えられます。何世代かに渡り大切にされていた
釣手土器もあれば、対してバラバラの釣手土器もあります。バラバラの釣手土器は役目を終え
穴に捨てられたのか?それとも何か呪術的目的で封印されたのか?なぜこんなに沢山の釣手土器が
岡田遺跡には存在しているのか?謎は深まります。」



岡田遺跡出土の釣手土器(116号住居出土)。
寒川町指定重要文化財第20号。


   【https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/206871】より

                               ・・・​ もどる ​・・・


                 ・・・​ つづく ​・・・





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Last updated  2023.09.02 07:14:06
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