JINさんの陽蜂農遠日記

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jinsan0716 @ Re[1]:「市制70周年 佐倉花火フェスタ2024」へ(その3)(09/06) オジン0523さんへ ありがとうございます…
オジン0523 @ Re:「市制70周年 佐倉花火フェスタ2024」へ(その3)(09/06) そして9:20になり、カウントダウンが始ま…
jinsan0716 @ Re[1]:旧芝離宮恩賜庭園 へ(その3)(08/06) オジン0523さんへ 書き込み、ありがとう…
オジン0523 @ Re:旧芝離宮恩賜庭園 へ(その3)(08/06) 根府川山は根府川に関係あるのですかね

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2022.09.06
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カテゴリ: JINさんの農園
2章 地図を作る
地図印刷技術者 岩橋教章と岩橋章山【前期】
人類は、自らが住まう世界を深く理解するため、地図作りに情熱を注いできた。明治時代の
銅版印刷による地図には驚くほどの精緻さで地上の様子が描写され、作り手の尋常ではない
姿勢が見て取れる。とりわけ注目すべきは、親子2代で地図作りに携わった印刷技術者の
岩橋教章と章山である。父の教章は、1873(明治6)年のウィーン万博へ派遣され西洋の
技術を習得すると、帰国後は主に内務省地理局で地図の印刷事業に取組んだ。息子の章山は、
日本と台湾を行き来しながら印刷技術の開発にあたり、父の業績を後世へ語り継いだ。
当時の最新技術によって作られた地図を通じて、最前線で活躍した人たちの動向に迫る。

「鳥の視線で上空から地表面を斜めに見下ろすようにして描かれた地図を鳥瞰図と呼ぶ。
大正から昭和にかけて各地て鳥瞰図を描き、一世を風靡した人物が吉田初三郎である。

には全長約4mの神奈川県鳥瞰図を描いた。その鳥瞰図を丹念に読み込めば、交通網が展開する
様子や、関東大震災から復興を遂げようとする状況など、描かれた当時の最前線の姿が浮かび
上がってくる。吉田初三郎の弟子であり、戦後に横須賀を拠点にして多くの鳥瞰図を描いた
中村慈郎にも注目して、鳥の目で眺めた地域の様子を紹介する。」



吉田初三郎
吉田初三郎(1884 ~ 1955年)は、大正から昭和にかけて各地で鳥瞰図を描いた人物である。
鳥瞰図とは、鳥の目で地表面を斜めに見下ろしたようにして表現した図を指す。
1884 (明治17)年に京都で生まれた吉田初三郎は、洋画家の鹿子木孟郎に絵画を学び師の勧めで
商業美術の道を歩んだ。1913(大正2)年に発行された京阪電鉄の沿線案内図が皇太子
(後の昭和天皇)の目に留まり、1921 (大正10)年には鉄道省の「鉄道旅行案内」が好評となって
一躍その名が知られるようになった。「大正の広重」を名乗った吉田初三郎が残した鳥瞰図は
1600点以上ともいい、本展では主に神奈川県域を対象として紹介する。
神奈川県内では、早くは1917 (大正6)年から鎌倉や箱根で鳥瞰図を手掛けている。鎌倉では
江之島名所図絵[2-56〕のほか大正期のものが複数ある。また、箱根では湯本の老舗温泉旅館で
ある萬翠楼福住に肉筆の鳥瞰図〔2-62〕があリ、早い時期の作品として貴重である。さらに、
神奈川県内では大正期に川崎大師〔2-79〕や清浄光寺(遊行寺)〔2-80〕、大雄山最乗寺〔2-81〕
といった寺院を対象とした鳥瞰図が出版されている。
1923 (大正12)年の関東大震災後には数多く描かれるようになり、なかでもコロムビアレコード
川崎工場図〔2-88〕は肉筆のものとして貴重である。
日本畜音器商会(現日本コロムビア株式会社)の川崎工場屋上にコロムビアマークのネオン塔が完成
したことを記念して描かれたもので、オレンジ色の大きな丸と音符のネオンサインが一際目立って
いる。」



コロムビアレコード川崎工場図 」。



「コロムビアレコード川崎工場図
吉田初三郎 (昭和6)年 
日本コロムビア株式会社」



創立70周年記念 「流行歌のあゆみ」



「レコード「コロムビアレコード川崎工場図
(「創立70周年記念 流行歌のあゆみ」)
1980(昭和55)年5月
日本コロンビア株式会社   根岸調査局」



「上段: 川崎大師平間寺図絵  吉田初三郎/大正名所図絵社 1916(大正7)年9月25日 
    根岸調査局
中段: 時宗総本山清浄光寺全景  吉 田初三郎 1920年代 当館
相模鉄道沿線案内   金子常光/相模鉄道 1920~1930年代 神奈川県立図書館」



「上段: 道了大菩薩鎮座大雄山名所図絵  吉田初三郎/大雄山最乗寺 1922(大正11)年12月5日」



富士山、伊豆半島をズームして。



関東震災全地域鳥瞰図絵   1924(大正13)年9月15日」



「関東震災全地域鳥瞰図絵  
吉田初三郎/大阪朝日新聞社  1924(大正13)年9月15日」



「上段:ポスター「 南武鉄道開通 」」。



神奈川県鳥瞰図 」。



箱根、富士山をズームして。



「神奈川県鳥瞰図
1923(大正12)年9月1日の関東大震災で神奈川県域は大きな被害を受けたが、復興の過程で現在に
都市の骨格も形作られた。神奈川県鳥瞰図〔2-91〕は吉田初三郎が1932(昭和7)年に神奈川県
観光連合会から依頼を受けて描いたもので、復興の様子が概観できる。神奈川県観光連合会は
観光の振興を目的とした半官半民の団体で、県内の観光名所を宣伝するために鳥瞰図を作った。
神奈川県鳥瞰図には県域を東西に貫く東海道本線や東京と神奈川を結ぶ私鉄網が描かれ、
関東大震災から復興する過程で観光を支える交通網が整備された様子が分かる。同図が描かれた
1932(昭和7)年までに開通した主な鉄道として、小田原急行鉄道や東京横浜電鉄(1927年)、
小田急藤沢線や南武鉄道(1929年)、湘南電鉄(1930年)などがある。吉田初三郎は鉄道沿線の
案内図を数多く手掛けたことが知られていて、南武鉄道〔2-84・85〕や小田原急行〔2-86・87〕
では大型のポスターと印刷パンフレットが揃って作られた。
神奈川県鳥瞰図が完成した翌年の1933(昭和8)年には、同図をもとにした印刷パンフレットの
神奈川県観光図絵〔2-92〕が発行された。部数は1万2千部に及び業者を通じて販売されたり、
博覧会の来場者に配されたりして世間に神奈川県の魅力を広めた。また、県の道路課や河港課等
によって視察団体に対し配布されていた。つまり、神奈川県鳥瞰図や神奈川県観光図絵は、観光に
留まらず、県による施策の最新状況を広報する最前線の地図として使われていた。」


「上段: 湘南電鉄沿線名所図絵
下段: 横浜市鳥瞰図



平面図を美化シタル熱海温泉實寫案内圖



「妹尾春太郎



鳥瞰図が並ぶ。



箱根山鳥瞰図 」。



箱根名所図絵 」コーナー。



日本郵船航路図 」。



横浜市観光鳥瞰図 」。



絵葉書「小田原景勝」原図 」。



二宮神社 」。



中村治郎(慈郎)
中村治郎は1908 (明治41 )年に静岡県下田町(現下田市)で生まれ、
1926伏正15 )年頃に吉田初三郎の門下生となった。戦後、独立した中村
治郎は1949 (昭和24 )年頃から横須賀市に住み、神奈川県内の各都市を
はじめとして数多くの烏瞰図を描いた。作品の落款には「慈郎」の字か新い
られる場合がある。ロ際観光都鎌倉市観光烏瞰図[ 2-112〕は横幅約1.5m
の画面に肉筆で描かれた作品で、関連する印刷バンフレットに1949 (昭和
24 )年の鎌意江之島名勝案内〔2-113 ]がある。同図は鎌市役所観光課
が編集し後藤邦栄堂が発行したもので、表紙に「慈郎」の署名がある。後
ている〔2-114〕。発行者の後藤邦栄堂は鎌倉の雪の下に店を構えた書店で、
絵葉書や名所案内等を出版した。
また、相模原市構想鳥瞰図[ 2-118〕は、1951 (昭和26 )年5月に相
模原町(当時)の町制10周年を記念して描かれた鳥瞰図である。額をきめ
て横幅約3.6mの大画面を使い、左手の相模湖から右手の相模湾に向けて
大きく湾曲するように相模川が流れ、その内側に町域が丸く描かれている。
地形を大きくデフォルメして画面に納める描き方は、師の吉田初三郎から引
き継いだ技術である。中村治郎は、このはかに三崎〔2-116〕や横須賀
〔2-117〕等の鳥瞰図を手掛け、1966 (昭和41)年に没した。」


相模原市構想鳥瞰図 」。



「相模原市構想鳥瞰図
中村慈郎
1951 (昭和26)年5月
相模原市立博物館」



国際観光都鎌倉市 観光鳥瞰図 」。



「国際観光都鎌倉市 観光鳥瞰図
中村治郎 1950(昭和25)年頃
鎌倉市中央図書館」



鎌倉江之島名勝案内 」。



「鎌倉江之島名勝案内
中村慈郎/後藤宝栄堂   1950(昭和25)年
銀倉市中央図書館」



鎌倉 」。



鎌倉と江之島 」。



3章
"homo Mapiens”たち
人類はまた、自らが住まう世界を深く理解するため、地図を使ってきた。ときに、地図を作る人
たちと同様の情熱をもって地図を使う人たちがいる。例えば、郷土の歴史を知るため、現在の
横浜市域を描いた最も古い地図として知られる武蔵国鶴見寺尾郷絵図を模写した人たちがいた。
また、芝浦製作所の電気技術者である岸敬ニ郎は、水力発電の適地を探すために日本各地の地図を
座右に置いて愛用した。1950年代に導入された製図技術であるスクライプ法や、地図のデジタル
データを記録した平成はじめのフロッビーディスクなど、技術の移りかわりを物語る資料とともに、
"Homo mapiens"たちの諸相を眺める。」



岸敬二郎
岸敬二郎は1869 (明治2)年3月に和歌山城下(現和歌山市)で生まれると、1895 (明治28)年7月に
帝国大学工科大学電気工学科を卒業した後、芝浦製作所(現東芝)に入った。自身の卒業論文に
基づいて開発した二相式誘導電動機は、日本における誘導電動機(モーター)製作の発端として
知られている。また、海外視察で得た知見を広く国内に伝えて新たな国産技術を展開させた。
例えば、1904 (明治37)年7月から翌年1月にかけて視察のためアメリカへ派遣された際、
トーマス社製の碍子を入手し、帰国後に日本陶器合名会社社長の大倉和親にその製造を勧めた。
岸敬二郎が後年に王子製紙の嘱託技師としアメリカ等を視察した際の手帳〔3-20〕には、
碍子のスケッチが数多く描かれている。
電気技術者の岸敬ニ郎は一見すると地図とは何の縁もないように思えるが、両者を結ぶのが
水力発電である。
岸敬二郎は、発電施設の立地条件を検討するために地図を常に座右に備えていて、これに基づいて
河川の流域や落差、雨量等を概算したうえで実地調査を実施した。また、隣家に火事があった際、
岸敬二郎は子どもたちを避難させたあとで「一日も身辺を離さなかった参課本部の地図」を
持ち出すよう知人に頼んだという逸話がある[ 3-8〕。この岸敬二郎が愛用した地図や関連資料は、
2019(令和元)年と翌年にこ子孫から当館と東芝未来科学館へ寄贈された。本展では、これらの
資料を初めて公開する。」



陸地測量部地図帳 」。



「岸敬ニ郎旧蔵
陸地測量部地図帳
1884 ~ 1908(明治17~41年)」



農商務省地図帳 」。



「岸敬ニ郎旧蔵
農商務省地図帳
1898 ~ 1910(明治31~43)年」



日本郵便航路図 」。



「日本郵便航路図
1935(昭和10)年」



移りかわる最前線 」。



東京中心部 」地図。



「1万分1地形図
東京中心部
1990(平成2)年11月12日」。



数値地図フロッピーディスク 」。



「数値地図 フロッピーディスク
1994 (平成6)年一部修正」


スマートフォンアプリ「東京時層地図」 」。



ウイルド T3 経緯儀 ウイルド社 」。



土地被覆図 箱根 」。



「土地被覆図 箱根
県立生命の星・地球博物館が衛星画像や数値地図のデータをもとに製作・解析した地図。
アメリカの地球観測衛星ランドサットのデータを解析し、数値地図25000 (地図画像)の
地形図上に重ね合わせたもので、箱根町周辺の林地や耕作地、市街地といった土地利用の
状況を色別に示している。数値地図25000 (地図画像)は2万5千分1地形図の原図を数値化
した画像データで、1997 (平成9)年からCDで刊行。2008 (平成20)年にはオンライン提供が
開始された。」



海図 JPN1 日本及近海 」。



「海図 JPN1 日本及近海
2021 (今和3 )年8月19日」。




                              ・・・​ もどる ​・・・



                   ・・・​ つづく ​・・・





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Last updated  2022.09.06 14:43:35
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