JINさんの陽蜂農遠日記

JINさんの陽蜂農遠日記

PR

Profile

jinsan0716

jinsan0716

Keyword Search

▼キーワード検索

Favorite Blog

舞子海上プロムナー… New! 隠居人はせじぃさん

東海道まち歩き (2)… New! オジン0523さん

【恵光院の菩提樹 ・… Gママさん

バイクのシートが裂… noahnoahnoahさん

エコハウスにようこそ ecologicianさん

Calendar

2023.01.09
XML
カテゴリ: 国内旅行
さらに「沼田市観光案内所」の展示物を観る。
延宝五年(1677年)間撰 眞田城町割図 」。



沼田城跡出土資料
鯱の一部であると。



軒丸瓦(三巴文 )
本瓦葺きの天守や櫓等の屋根の軒先端に軒平瓦共に使用された。

左巴文が多い。」



軒平瓦(三葉唐草文)
本瓦葺きの天守や櫓等の屋根の軒先端に軒丸瓦共に使用された。
沼田城で使用されているのは中央を三葉文とし、その両側に三葉唐草文を配置するものが多い。」



赤の甲冑
「真田幸村」(信繁)をはじめとする「真田の赤備え」。



緑の甲冑



赤地 の六文銭の旗 」は、あまりに有名な真田幸村の軍旗。
「大阪夏の陣図屏風」に、その旗が見られる真田の赤備えとして恐れられた。

一緒に埋めるもの。 真田氏は家紋に六文銭を用いることで、戦争や日頃の駆け引きについて、
死をもいとわない不惜身命の決意で望んでいることを示していたと。



上杉憲正の没落と北条氏の進出
天文21 (1552)年、小田原の北条氏康が初めて上野国(群馬県)に侵入してきた。上野・武蔵国境に
ある関東管領上杉憲政方の御嶽城(埼玉県神川町)は、2月に氏康の攻撃を受け全山を焼き払われ、

さらに憲政の本城である平井城(藤岡市)に迫った。
北条氏康方には、那波宗俊のほか、御嶽落城の動揺から北条方に寝返った箕輪長野氏・小幡氏・
安中氏などが味方についた。また、上杉憲政方には足利長尾景長・横瀬成繋・佐野氏・
桐生佐野氏・大胡あい平井城を退去せざるを得なかった。憲政は、横瀬氏や足利長尾氏を
頼ったが、支援を拒まれた。その後、憲政は上野北部のみなかみ町付近に隠れ住み、長尾景虎を
頼って越後に逃れていった。
上野進出を果たした北条氏は、同年中に西上野の小幡氏・安中や東上野の那波氏・赤井氏・
富岡氏などを従属させた。その後、北条氏は敵対した国衆に対して進出し、天文24 (1555)年に
横瀬氏と桐生佐野氏が、弘治2 (1556)年には、足利長尾氏が従属したとみられる。さらに、
永禄元年(1558)には箕輪長野氏・白井長尾氏なども北条氏に従属したという。また、翌2年8月
頃には北条氏が沼田城を攻撃し、沼田氏が北条氏に従属した。このように北条氏は上野国の
支配権を確立していったのである。」



上杉憲政像 」。

沼田氏の内紛
北条氏康の沼田城攻略は、沼田家中で起こった内紛が発端となったようである。沼田一族や
家臣がニ派に分かれ骨肉の争いを繰りひろげた内紛は、次のような事件であった。
天文元年(1532)、関東管領山内上杉氏の重臣であった沼田万鬼斎顕泰は、沼田城(倉内城)を築き、
幕岩城から移った。沼田城主顕泰には、嫡子左衛門三郎(憲泰)、次男弥七郎(朝憲)、三男平八郎
(景義)の三人の息子がいた。永禄初年頃、顕泰は、憲泰と対立してこれを廃嫡し、後に殺害した。
対立の原因は、顕泰が上杉憲政方につき、一方憲泰が北条氏康方についたためという。その後、
顕泰は朝憲に家督を讓り、景義を連れて川場に隠居した。ところが、朝憲は北条方についたため、
顕泰は朝憲も殺害してしまった。しかし、朝憲の妻が、厩橋長野賢忠の息女であったことから、
沼田城は北条方に与する厩橋長野氏の攻撃を受けた。この戦いに敗れた顕泰は、景義とともに
越後に逃亡し、この内紛は終結したという。
永禄2 (1559)年8月頃、北条氏康は沼田城に沼田孫次郎康元を城代として配置した。康元は
北条氏一族の玉縄北条綱成の次男である。康元は、北条氏の沼田城攻略時の軍功により沼田氏の
名跡継承を許され、城代として沼田入部を果たしたのであろう。」



北条氏康イラスト 」。



沼田城攻略
永禄3 (1560)の年8月29日、長尾景虎(上杉謙信)は、上杉憲政を擁して越後の春日山城から
関東へ向けて出陣した。景虎は、9月上旬に越山して上野に侵入しているが、その経路は
明らかでない。おそらく、春日山城から信濃川沿いに東に進み、三国峠を越えたと思われる。
上野に入った景虎は、最初に宮野城(猿ヶ京城)に入城して、利根西(赤谷川流域の地方)を経て
沼田城を目指した。
沼田城に対する景虎の攻撃は、9月上旬から始まった。沼田城は、北条氏の上野支配の拠点であり、
北条氏の有力御一家衆の北条 綱成 次男である沼田孫次郎康元が城主として守りを固めていた。
景虎の攻撃により、孫次郎康元はじめ数百人が討ち取られたというが、康元は落城後も活動が
見られるので、討ち死にではなく城に逃れたと思われる。激戦の末、沼田城は景虎に攻略された。
ついで、景虎は大軍を率いて明間・岩下の諸城を攻め落城させ〇間は碓井群秋間の秋間城主
斉藤氏であり、岩下は吾妻郡岩下城主斉藤氏で両斉藤は同族である。これらの攻撃により、景虎は
利根・吾妻・碓井の三郡を支配した。
その後、景虎は橋に向かい 橋長野氏を降伏させ、さらに那波に向かい那波氏の赤石城や
今村城を攻めた。那波氏は景虎〇に抵抗したが、12月に赤石城などが落とされ、嫡子を人〇
して降伏した。」



上杉謙信イラスト 」。



真田昌幸、要衝沼田城を攻略する
小川城、猿が京城、名胡桃城などを調略した真田昌幸は、武田勝頼本隊の協力を得て上野と武蔵の
国境を押さえた。その後、沼田城下を焼き払い沼田城を完全に包囲した。昌幸からこの報告を
受けた勝頼は、天正8(1580)年8月、諸将に上野出陣を命じた。
昌幸は沼田城の無血開城を実現するために、沼田城代の用土新左衛門尉への調略を行った。
用土新左衛門尉は、武蔵国衆藤田泰邦の分家である用土業国の子であった。用土氏は、北条氏康の
代に北条氏に帰属させられ、その上当主の座は氏康の氏邦に奪い取られた。さらに藤田氏の実務は
富永助盛(後の猪俣邦憲)が執り行っていた。これらのことに用土新左衛門尉は不満を感じていた。
こうした事情に注目した昌幸は、国峯城主木幡信貞を介して用土新左衛門尉の説得を行った。
用土新左衛門尉はこの説得を受け入れ協力を約朿した。
用土新左衛門尉は約束通り、武田軍の攻撃と同時に沼田城内で反乱を起こし北条方を降伏させた。
この沼田開城は8月下旬頃であった。勝頼は、用土新左衛門尉に武田家の通字の「信」を与え
信吉と名乗らせた。さらに藤田への改姓を許して、能登守の受〇を与えた。
また、信吉は引き続いての沼田在城を希望し、勝頼はこれを許した。
沼田城攻略後、昌幸は矢沢頼綱を沼田城に配置して守りを固めた。そして昌幸は岩櫃・沼田・
白井の三城を統括し、勝頼を補佐する役目を命じられた。」



真田昌幸像 」。



沼田平八郎事件
沼田平八郎景義は、もと沼田城主の沼田万鬼斎顕泰の末子である。
沼田氏の内紛によって父顕泰とともに追放され、会津の芦名氏を頼って逃れた。
その後、上野に戻った景義は、新田金山城主由良氏の一族矢羽氏のを妻にして女淵誠主
(前橋市粕川町女淵)
天正9 (1581)年3月1日、景義は由良国繁の支援を受けて沼田城の奪還に向けて動き出した。
3月4日に景義は2千余騎の兵を率いて南越生(昭和村)に着陣した。これを知った沼田衆の多くは
景義のもとに参集し、兵は3千余騎にまで膨れあがった。景義は、軍勢を整えるため、いったん
阿曾の城(昭和村)に入城した。
3月11日、田北の原合戦において藤田信吉、海野長門守幸光ら800騎の沼田城勢は、景義軍に
敗れて沼田城に退去した。この後、景義の叔父金子美濃守泰清は、中山右衛門ら300騎を従えて
町田観音堂で景義に合流した。そして景義に金子美濃守が「沼田城を明け渡し、景義を主君と
する」という偽の起請文を差し出し、降伏を申し入れた。景義は金子美濃守は叔父であること
からこの起請文を信じてしまった。
3月14日、金子美濃守から町田観音堂に呼ばれた景義は、ここで甲胄を脱ぎ、沼田城に向かった。
金子美濃守の案内で水の手曲輪から城内にはいると、迎えとして山名弥惣が姿を見せた。
いきなり山名は景義に斬りかかった。それを合図に金子美濃守も三回左脇を刺して景義を
討ち取ったという。(『加沢記』)
真田昌幸が沼田平八郎景義の首実検をした際に、首を置いたという「平八郎石」が沼田城跡に
残っている。」



沼田平八郎像 」。



織田信長への従属と本能寺の変
天正10 (1582)年、織田信長は、織田信房を主将とする軍勢を上野に3月上旬に派遣した。
これを知った国峯城主小幡信実、安中城主安中七郎三郎らの上野国衆は織田軍に降伏した。
また、真田昌幸と北条氏との折衝を仲介していた長尾憲景も、北条氏から離反して織田氏に
帰属する決断をした。こうした流れを見た昌幸は、織田氏に帰属する決断を下した。
信長は、昌幸の帰属を受け人れ、滝川一益の与力とした。信長は旧武田領国の分割を行い、
滝川一益には、上野国一国と信濃国全県・佐久郡を与え、東国取次を命じた。この時昌幸は、
沼田城と石櫃城などを一益に明け渡した。ー益は厩橋城に入城し、沼田城には甥の滝川儀太夫
益重を城代として置いた。昌幸は信長に黒栗毛の馬を贈り、臣下の礼を取った。信長は喜び、
礼状を送っている。昌幸は、織田家臣として再出発することとなった。
同年6月2日、京都本能寺で信長は明智光秀の謀反により横死した。信長の死を知った上野の国衆
たちは不穏な動きを見せ始めた。沼田城に在城していた元沼田城代藤田信吉は滝川儀大夫〇に
城の明け渡しを迫った。しかし沼田城は武田滅亡時、昌幸が維持し、信長に献上した城であり、
昌幸に返すのが筋であり、〇〇に渡す謂われはないと拒んだ。そして滝川は城明け渡しの〇〇を
始め、昌幸が沼田城を受け取った。昌幸は、沼田城に矢沢〇〇岩櫃城に嫡男信幸を配備して守備を
強化した。
ほどなくして、上野制圧を目指す北条氏直の大軍が上野に向って北上を開始した。ー益は、
6月19日、神流川の合戦で北条氏に敗れ信濃に逃れた。」



織田信長による武田領分割 」。



沼田領裁定
天正10 (1582)年10月29日、徳川家康と北条氏政・氏立父子の和睦が成立して天正壬午の乱は
終結した.この時の徳川・北条両氏の和睦条件の中に、「徳川氏は、北条氏の上野国領有を認め、
真田昌幸が保有する沼田・吾妻領を引き渡す」という合意事項が含まれていた。これにより、
昌幸は徳川・北条両氏より沼田領割譲を迫られたが拒否し、家康と手切れ(断交)を行い、
上杉景勝に帰属した。そして昌幸は、徳川軍を上田合戦で破り、北条軍を沼田城の周辺の
戦いで相次いで撃破した。
その後、昌幸は豊臣秀吉に従属し、また家康も秀吉に従属すると、沼田領問題は棚上げされた。
やがて、秀吉が北条氏に従属するよう交渉を始めると、北条氏政は上洛のための条件として、
沼田領問題を解決を求めてきた。
そこで秀吉は、天正17 (1589)年舂、真田・北条・徳川3氏の言い分を聞いて、載定を下した。
裁定は、「上野沼田・吾妻領のうち沼田城を含む3分の2を北条氏のものとし、名胡挑城を含む
3分の1を真田領として安墸する。割讓分の替え地は徳川家康が補慣する」という内容であった。
北条氏も真田氏もそれぞれ不満であったが、同年6月やむを得ずこの裁定を受け入れ、7年に及ぶ
沼田領問題は解決した。
秀吉は、7月上使を派遣して沼田領割譲を行わせ、沼田城には北条氏邦の家臣猪俣邦憲が入った。
一方昌幸は、旧沼田領の3分の1を統括する拠点の名胡桃城に、鈴木主水重則を配備した。」



沼田領分割図 」。



武田氏滅亡
天正10 (1582)年1月、武田一族の木曾義昌が、織田信長に内通して謀叛を起こした。これを契機に
信長は武田勝頼への攻撃を命じ、武田領国へ侵攻を開始した。勝頼は2月、諏訪の上原城
(長野県茅野市)に布陣して織田軍を迎え撃とうとした。ところが、伊那郡の武田方の諸城は、
織田軍の前に、一戦も交えず開城となるが、城を捨て逃亡を図り、勝頼を支えることが
できなかった。
また2月28日、駿河国江尻城で徳川軍を迎え撃つ穴山梅雪が謀叛を起こしたので、勝頼は甲斐の
新府城(韮崎市)に撤退せざるを得なかった。この穴山の謀叛情報は、武田軍の動揺を招き逃亡者が
続出し、十分な戦闘は不可能になった。
そこで勝は3月2日、新府城に重臣を招集して軍議を開いた。この軍議では三者の意見が対立した。
嫡男信勝は新府城に籠城して敵を迎え撃っべしと主張したが、小山田信茂は岩殿城に移動し、
ここで決戦すべしと進言した。真田昌幸は、岩櫃城に勝頼一族を迎え、ここで決戦するべき
であると主張した。軍議の結果、勝頼は測近の長坂釣閑斎光竪、跡部勝資らの進言を受け容れ、
小山田信茂を頼って岩殴城に移ることになった。昌幸は勝頼と別れて上野岩櫃に向かった。
この時、新府城に置かれていた昌幸の人質はすべて勝頼から返還された。
3月3日、勝頼は新府城に火を放ち岩殿城を目指して出発した。
勝頼はその日のうちに甲府を経て、柏尾山大善寺に着いた。翌4日、勝頼は笹子峠の麓駒飼に
到着したが、信茂の裏切けにより峠は封鎖された。11日、滝川一益軍に追いつめられた勝頼は、
天目山の麗の田野(甲州市)において自害し、武田氏は減亡した。」



武田勝頼イラスト 」。


多くの サイン も展示されていた。



2016年、2018年にTBS日曜劇場で放送され、いずれも高視聴率を記録、熱烈な支持を集めた
「99.9-刑事専門弁護士-」が、ついに映画になってくる!と。



落語家 笑福亭鶴瓶 さんのサイン色紙も。



歌舞伎俳優 二代目 尾上松也 さんのサイン色紙。



そして「沼田市観光案内所」の外に出て、「沼田城公園」入口の黄葉した銀杏の大木を見る。



ズームして。



そして、沼田城内の散策は、明日の早朝として、ホテルに向かったのであった。



この日の宿「ホテル ベラヴィータ」にチェックインし、夕食に向かう。
呑み食い処「磯の」。
沼田市上之町180-3。



魚介料理・海鮮料理の店。



ビール・ハイボールを片手に。



舞茸の天ぷらも。



1.5時間ほどのこの日の反省会を。
店内には「暴力団追放」が。



「ホテル ベラヴィータ」の建物。



2階部の壁の像をズームして。



フロントロビーには既にサンタクロースの姿が。



クリスマスツリーも。



エレベーター前。



部屋は5階に。
エレベーター前の眼を描いた展示絵画。



「モーリンの眼 アラン ウエスト」と。



そしてツインの部屋に。



ホテルの都合により、和室付きのファミリールームに案内して頂いたのであった。



                               ・・・​ もどる ​・・・



                 ・・・​ つづく ​・・・





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2023.01.09 11:22:09
コメント(0) | コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

© Rakuten Group, Inc.
Design a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: