JINさんの陽蜂農遠日記

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2023.04.23
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カテゴリ: 藤沢歴史散歩
この日は先月・3月22日(水)、「 藤沢地名の会 」が主催する【 地名探索
小栗伝説の残る六会を巡る
~亀井野・西俣野地区、春の歴史散策~ 』に参加しました。
集合場所は、午前9:30に小田急線六会日大前駅東口階段下。


そして集合時間の9:30になると、この日の「 藤沢地名の会 」の案内・説明の方がこの日の
散策ルートの説明をしてくださいました。

亀井野村、下土棚村、西俣野村、今田村および石川村)が合併した(結び合〔会〕った)ことに
由来する六会村からと。昭和17年(1942)に六会村が藤沢市に吸収されてたが、その後、旧六会村
の一部であった下土棚村が長後地区へ、さらに今田、円行の大部分が、新たに作られた
湘南台地区に編入されたとの説明あり。
現在の駅名は日本大学の請願により「湘南日大前」という駅名が提案されたことに始まる。
「六会」の地名は駅名にしか残っておらず(付近の住所表記は「亀井野」)、歴史的に
意味のある地名を残して欲しいという要望が高かったことから、近隣住民と協議の末、
「六会日大前」に改称された。なお、駅名改称に関する費用は日本大学が負担されたと。

参加人数は約30名、10人ずつの3グループに分かれそれぞれに5分間隔で時間差スタート。



まずは、今年の元旦に初詣をした地元の「 地神社 」に向かって 小田急線沿いの道
参加者は、ほとんどが50歳以上の方々、そして女性の数が多かった。



右手に見えたのが「 日本大学 生物資源科学部 」の校舎が見えた。



日本大学 生物資源科学部 12号館 」。



日本大学 生物資源科学部 」の校内を横断する一般道路への踏切が。
踏切を渡らずに反対側方向へ左折する。



そして「地神社」の境内への入口の石段を上る。
神奈川県藤沢市亀井野2丁目36−4。
ここの地名の「 亀井野 」は、相模野台地上にあり、八王子街道(滝山街道)及びその古道が南北に
走る。集落は街道に沿って発達し、江戸時代には藤沢と長後の中間地点となる継立場
(つぎたてば・本陣や旅籠屋はなく、人馬の乗り継ぎを行う所)が設けられた。
土地はぼ平坦で、ムラサキ(古代の染料)やミシマサイコ(セリ科の薬草)が自生する広大な原野は、
中世武将たちの狩場であった。関東ローム層の黒土で覆われた土地は地下水位が高く、近世以降は
畑地としても利用されるようになった。また台地に点在する雑木林や草地は、屋根を葺く萱、
家畜飼料の秣(まぐさ・馬や牛などの飼料にするほし草・わら、かいば)そして燃料の木々として
利用された。また新編相模国風土記稿には、漢方薬の原料となる紫胡(さいこ)の自生地という
記載もある。
亀井野の地名は、 源義経の家臣・亀井六郎重清 が不動堂を建てたことに由来するとされる。
その跡地は六会日大前駅西北にあり、今その地には「 亀井神社 」が建っている。
『源平盛衰記』では一ノ谷の戦いで義経の郎党亀井六郎重清として登場する。
『義経記』では 義経最期の衣川の戦いで 「鈴木三郎重家の弟亀井六郎、生年23」と名乗り、
奮戦したのち 兄と共に自害した 。弓の名人であったという。

石段の横には赤の椿が多くの花を落としていた。



落ちた花を。



「地神社」は「 地神の森公園 」内にあった。



境内では、地元の方々が集まって朝の体操を行っていた。



正面に「 石鳥居 」そしてその先に「 狛犬 」、「 社殿 」が。



「石鳥居」を潜って進む。



比較的新しい狛犬の先に「社殿」。



狛犬(右・阿形像)。



狛犬(左・吽形像)。



その先に「 石灯籠 」そして「 手水舎 」。



素朴な形の「 手水舎 」。



そして「地神社」の社殿。
創建年代は不明となるが、寛政年間(1789年〜1800年)には、岡部庄九郎知行の内にて、
山林安全、五穀成就を祈願したという。 文政9年(1826年)には再建 され、さらに安政年間
(1854~60)、当地を知行していた旗本・岡部庄九郎が当社で山林安全、五穀成就を祈願
しているとのこと。
大正12年 (1923年)9月1日関東大震災により社殿が倒潰し、大正15年(1926年)9月に
再建
されたとのこと。
御祭神 は「 埴山比売神(はにやまひめ) 」、 田畑、土壌の神様 であると。
例祭は9月20日。



神明造り 」の「地神社」、屋根の部分の「 千木(ちぎ) 」が、直角となった造りとなっている
ことが特徴。
屋根の両端で交叉させた部材「千木」、屋根の上に棟に直角になるように何本か平行して
並べた部材「 鰹木(かつおぎ )」が確認できた。



扁額「地神社」。



「地神社」と刻まれた碑。



その隣に明和2年(1765)銘の「山之神」と刻まれた碑。
「山之神」の祭神は大山津見神(おおやまつみのかみ)。
平成4年に新築整備された。
明治の神社統合令で、亀井野南部山之神地区にあった「山神社」が、その場所に
「鶴嶋天神社」が祀られた時、この地に移されて地神と合祀されたのだと。
山之神社石廟と秋葉権現社石廟も祀られていた。



そして「地神社」を後にして 「国道467号」に向かって進む



「国道467号」に突き当たり右折する。



亀井野小学校南側 」交差点を左折し「 県道403号・菖蒲沢戸塚線 」へ。



亀井野小学校南側 」交差点の角には「 セブン-イレブン 」が。



そして450mほど歩き、細い路地に入ると「 西俣野地区 」。
「西俣野地区」
に走る。西俣野の東端には境川が流れ、対岸は横浜市戸塚区となる。過去には境川を跨し
に広がる俣野郷があったが、現在は境川西側の藤沢市西俣野と、東側の横浜市戸塚区東
び俣野町(旧上俣野町)に分かれている。西俣野の西側は相模野台地東端で、東側は境カ
た沖積低地となり、その境界の高低差が崖や坂道となっている。
西側の台地上は畑地や疎林、東側の低地は崖からの湧水を利用した水田が広がり、集落は崖下に
沿った道筋に発達した と。
俣野郷は平安時代後期、地名を冠する豪族・俣野氏の支配地となった。鎌倉時代の俣野
三浦氏の支配を経て鶴岡八幡宮の供僧の領地となったが、俣野氏の末裔が引き続き地頭
南北朝時代以降も、俣野氏がこの地の管理者として居住していた模様である。
戦国期は後北条の支配下に置かれ、玉縄城下の管轄地として、俣野は東、西、及び新
分かれてその家臣たちに統治された。江戸時代に入ってからも、後北条時代の分割統治
従って、東西俣野、上俣野の3地区それぞれに旗本知行地(西俣野は当初天領)となった
地名の由来としては、境川を跨いで広がる土地という説と、境川、宇田川の2川が二股
ている土地だからという説がある。



途中の空き地で、案内人のこの後に訪ねた「 花応院 」の「 小栗判官と照手姫についての伝説 」と
旧塩つけ道 」についての説明があった。



遠く富士山の姿も見えた。



さらに「 旧道 藤沢町田線 に向かって進む。



そして「 旧道 」に突き当たる。
その先の道が「 旧塩つけ道 」であるとのこと。
往時金沢、六浦方面から、内陸部に馬で塩を運んだ古道。鎌倉上ノ道と東俣野で分かれ、境川
を渡り、西俣野、亀井野を通って西北に向かい、八王子方面と通じていた。
境川を渡る橋は金沢橋と称し、この道が金沢方面と繋がっていたことを今に伝えている。
塩つけ道が滝山街道と交差するすぐ北側から、「 旧滝山街道 」が右に分岐している。旧道は雲昌寺
の裏や藤沢工業高校の脇を抜け北上していたが、現在は今田、湘南台地区の区画整理の中で消え
ているのだ。今田地区には、古道(ふるみち)の小字名があるのだ。


「旧道 藤沢町田線 」から右斜に分岐した道が「 旧滝山街道 」である。



「旧道 藤沢町田線 」を国道1号に向かって進む。



右手にあったのが「 神奈川県立総合 療育相談センター 」。
発達や障害が心配されるお子さんの支援と障害者更生相談業務を行っている施設。
神奈川県藤沢市亀井野3119。



再び富士山の姿を。



畑の中にポツンと「 」があり 石碑 が立っていた。



石碑の横には「 卒塔婆 」が奉納れていた。
「卒塔婆」には「 大施食為有縁無縁三界萬霊菩薩供養塔 」と。
三界とは我々が生まれかわり死にかわりするこの世界のことであり、万霊とはありとあらゆる
精霊のことであるから、三界万霊はこの世のありとあらゆる精霊を合祀することである。
どの寺でも三界万霊牌を祀っているということは、我が家の先祖だけでなく自地平等、すべての
精霊に供養することの大切さを教えるものである。
ここ西俣野地区側には、北から南に小栗塚、大塚、四ツ塚などの小字名が並ぶ。
往時この辺りは上野原と呼ばれた台地状の土地で、平安、鎌倉時代には何度か!戦闘が行われた。
その戦死者を弔う塚が点在し、これら「塚」のつく小字名が生まれた。
毒殺された小栗判官の従者10人もこの辺りに埋葬されたこととなっており、そのうちの4つの塚が
残ったことから「 四ツ塚 」という地名が出来たとされる。
現在畑中に建っ塚は、昭和51年(1976)に西俣野史跡保存会によって建立さたものとのこと。



そして西俣野を流れる「境川」に向かって坂道を下って行った。



両側の斜面には 竹林 が拡がっていた。



そして「 三世ノ坂 」下の道路「 中道 」の手前右にあったのが
小御嶽神社(こみたけじんじゃ) 」。
「小御嶽神社」の小さな社は道から一段と高くなった樹木の中、昼なお暗い 鬱蒼とした
雑木林と竹林が覆っている森の中に鎮座。

神奈川県藤沢市西俣野1888。



石鳥居の先に小さな社殿が。



小御嶽神社(こみたけじんじゃ)
文永3年(1266) 別当神札寺が建立。
元禄13年(1700)、天明2年(1782) 再建、昭和26年、氏子10軒により再建されました。
神明社の氏子から離れて奉祀されたと言われています。
                六会地区郷土づくり推進会議」



石段の先に社殿。



内陣。
祭神は日本武尊。
本来の「​ 小御嶽神社 ​」👈リンクは富士山の山梨県側5合目の旧火山(小御嶽)の上に
鎮座するとのこと。



そして下の道を左折して進む。



右手前方には「 横浜薬科大学 」の「 図書館棟 」が見えた。
1964(昭和39)年8月1日、日本ドリーム観光株式会社によって戸塚区に「横浜ドリームランド」
が開園した。横浜の大型テーマパークとして栄えていたが、バブル崩壊後経営が悪化し2002
(平成14)年には閉園が決定。
閉園後、横浜市が敷地を買い取り、南部を学校法人都筑第一学園に売却。北部は市が再開発し
俣野公園や市営墓地として利用されている。
南部を買い取った都筑第一学園は、2006(平成18)年に横浜薬科大学を開校する運びとなった。
建物というよりタワーのようなこのシンボルこそが、「横浜薬科大学」の「図書館棟」。
「横浜ドリームランド」当時は最上階は回転展望レストランになっており、床が1時間で
い1回転する構造で、話題を呼んでいたのだ。私も当時、
数回利用した記憶がある。
現在その装置は無くなっているが、自習室として学生が利用しているとのこと。





                                                   ・・・​ つづく ​・・・





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Last updated  2024.08.28 08:19:30
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