JINさんの陽蜂農遠日記

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2023.06.28
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カテゴリ: 国内旅行
​足利 織姫 神社案内図​ 」をネットから。



「足利織姫神社」の「手水舎」が左手に。



石造りの龍の口から手水が。
龍が水を司る神様である事に由来していると。



足利織姫神社
歴史と伝統を誇る機業地足利の守護神として、宝永2年(1705)に天八千々姫命・天御鉾命の
ニ柱の神を勧請しました。明治12年に社殿が建立されましたが、翌年火災で焼失してしまい
ました。昭和9年舂に新社殿建立に着手し、昭和12年に現在
の社殿が完成しました。朱塗りの社殿は緑に映えて美しく、足利のシンボルであり、
平成1 6年には国登録有形文化財に登録されています。産業振興と縁結びの神社と
して、足利市民はもとより、全国から参詣者が訪れています。」



狛犬 」(右)。



狛犬 」(左)。



「​ 社殿 ​」👈リンク を正面から。



ズームして。
正面には、我々のバスガイドさんがご自分のスマホで撮影中。
この神社は初めてであったのだろうか?



社務所 」。



「社務所」の御守り。



こちらにも。



御朱印



七夕期間限定の御朱印 も頂きました。



御神木 」。
この丸く剪定された御神木は「スダジイ」という種類の木で、「3本あると大きな森を形成する」と
いわれているとのこと。







その後ろで「 七色の吹き流し 」がはためく。



足利市の街並みを望む。



「渡良瀬川」に架かる「渡良瀬橋」とその先に「男浅間神社(足利富士浅間神社)」のある
「浅間山」がはっきりと見えた。



「神楽殿」。



再び社殿を見る。



中央の「 拝殿 」をズームして。



「拝殿」の「 内陣 」。



「拝殿」の天井の「 格子天井 」。
足利で織られた華やかな生地が使用されているとのこと。



「拝殿」の両側に翼廊を配し、 拝殿と翼廊を歩楼で結ぶ形 に。



日本古来の寝殿造建築である 平等院鳳凰堂をモデル にしたと。



こちらが「 平等院鳳凰堂 」(ネットから)。



愛の鐘
二人で鐘を鳴らすと幸せになれると。
愛は限りなく広いそして深い 」と。



「鐘」をズームして。



そして帰路は「本坂」の石段を下る。



  • 境内まで 229 段:登れば叶う縁結び
  • 境内まで 182 段: いやに ならずに一段一段
  • 境内まで 153 段: いこうみ んなで織姫の社
  • 境内まで 118 段: いいわ 眺望 関東平野
  • 境内まで 75 段: なご む心で宮参り
  • 境内まで 38 段: に向かってもう一息
  • 境内まで 19 段: 年までも縁結び
「本坂」の石段を降りながら順番に撮影しました。
境内まで19段:幾年までも縁結び



「境内まで38段:宮に向かってもう一息」



「境内まで75段:なごむ心で宮参り



境内まで118段:いいわ眺望 関東平野



境内まで153段:いこうみんなで織姫の社 」。



境内まで182段:いやにならずに一段一段 」。



内まで229段:登れば叶う縁結び 」。



「二二九段登れば叶う縁結び」と。



石段の左奥にあった 石碑群



籾山唯四郎君像 」。
籾山唯四郎 は、1861 文久元年 )に 下都賀郡 間々田 まれました。
1884 明治 17 )に 助戸村 籾山家 養子 となりました。
唯四郎 は、1890 明治 23 )から、 足利町議会議員 となり、 旧助戸小学校
建設 きました。1903 明治 36 )には、 郡会議員 になり、 郡立高等女学校
建設 努力 しました。その 足利 になってからは、 市議会議員 となりました。
また、1920 大正 )には、 県会議員 にも ばれました。
1910 明治 43 )に、「 織物改良組 」をつくり、よい づくりに 努力 しました。 足利織物協同組合 足利染色研究会 役員 をしながら、 自分 織物業 のほかにも、たくさんの
会社 をつくったり、ほかの 会社 相談 けたりしていました。さらに、 学習 のために
ひつようなお をだし、 学生 てていこうと 自分 のお して「 財団法人 籾山育英団 」を
つくろうと 文部大臣 にお いをしましたが、 実現 しませんでした。
 1922 大正 11 )に、 栃木県知事 より 公益事業功労者 くの 役立 仕事 をした
として 表彰 されました。しかし、この 唯四郎 は62 でなくなりました。お は、 助戸 定年寺 にあります」
現在残っているのは台座のみで、像は戦時中に供出されたと。



足利氏の略系 」碑と「 足利と足利織物の歴史 」碑。



足利氏の略系 」碑



足利と足利織物の歴史
足利は中世(鎌倉・室町時代)に活躍した源氏系の足利氏 の所領「足利荘 」です。古代末には
藤原秀郷系 の足利氏も活躍しました。
足利尊氏 は室町時代に京都に幕府を開き日本を治めました。幕府はまた「足利学校 」を興隆に
導きました。
古代の足利は各寺社の記録によれば、東大寺(奈良・平安時代)や伊勢宮(平安・鎌倉時代)へ
織物を納めています。中世では『徒然草』ニー六段に足利氏三代目左馬頭義 氏が、鎌倉幕府執権
北条時頼 に毎年「染物」を贈ったとあります。糸を草木等で染め、織ったもので、量は「三十反」
女性着「小袖 」仕上げです。
中世後半では足利織物の生産量は、鎌倉の関東公方家、三河国の足利一族、京都の足利将軍家
などの需要を背景に高まったでしょう。輸送手段は川・海を利用した水運で、利根水系 には
大きな水運業者もできました。
綿織物の発達は近世足利藩時代で、糸つむぎ、染め・撚り、織り、仕上げの妙は、魅力的な
「足利織 」を産み、江戸中期には全国に知れわたりました。
近代には絹綿交織の発達を経、明治中期以降絹織物の生産が盛んとなり、世界に輸出されました。
昭和戦前期、絹紡糸を入れた柄模様の素敵な
「足利本銘仙 」が日本中の女性を魅了しました。国登録有形文化財 、織姫神社 の社殿は
この時期(1937 年)に建てられました」



頌徳碑 」。



飯塚太郎頌徳碑
織物整理業。大正・昭和期の足利織物業界指導者の一人。特に、昭和初期の織物同業組合
第三部(国内向け)の「足利銘仙会」若手を支援、「足利本銘仙」の開発に貢献。
碑は生前、一九三ニ年、同業組合第六部(当時織物整理業)有志により建立された。
撰文は栃木県立足利工業学校長の高田義親。」



さらにその奥に、トリコット工業協同組合の 初代から3代までの理事長
吉田孫三郎、殿岡利助、三田禧三郎 の3人の胸像。



足利トリコットの歴史
足利市は、昭和ニ十ニ年から四十年代後半に至る問、トリコット(軽メリヤス生地、および当初
「足利ジャージー」、後半スリップ・ネグリジェなどの製品)の生産額で日本最大であった
歴史を持つ。
戦後、国策を積極的に取り人れ、戦前の絹織物に代わりトリコット産業を完成させた。その象徴が
四十一年完成の「足利トリコット工業団地」で、集団化による中小企業近代化のモデルであった。
同産業の発展に寄与された代表的人物が胸像の初代~三代トリコット工業協同合理事長
吉田孫三郎・殿岡利助・三田禧三郎氏である。
昭和四十四年以降、日米間に「繊維摩擦」、「ドルショック」、「円高」などが発生し、
トリコットの輸出は絶たれた。またこの頃から国内需要の主力であったスリップ・ネグリジェの
需要か消えた。
国や業界の諸改革にも拘わらず、トリコット産業は縮小を続けたが、現在ファッション産業の
新たなる展開に向け鋭意努力する現状にある。
              平成ニ十四年十一月 日下部高明 撰文」



視床 長重之 」の作品。
長は東京都出身。1942年に父の故郷である足利市に移り、60年代から地元のガス会社や病院に
勤務しながら制作を始めた と。



創造のひろば
足利トリコットの創製、発展に寄与された3人の銅像、その歴史碑とともに、現代美術家 
長 重之氏の作品「視床ーthalamus」が対峙する創造の空間です。
す誉をいの土間ぐす。
「視床」は領域や境界に関わる作品で、時空を超えて感性に響くとき、思考の領域まで示唆する
作品です。
●黒丸の視点に立ち、足利トリコットの歴史とともに、「視床」を見つめてください。
そして自身の領域を探求しましょう。
人の思考の領域は無限の可能性を秘めて存在します。それに向かってチャレンジする次世代を
担う方々へ、期待を込めたメッセージのひろばです。
                 K HAYAMA」



「創造のひろば」の反対側にあったのが
八木節の碑
チャッポコ、チャカポコと軽快なリズムを刻む八木節は、明治の終りから昭和の初めにかけて
一世を風靡した正真正銘、我が市発祥の民謡であり、日本三大囃子の一つとされております。
八木節の源流は、江戸時代例幣使街道八木宿に伝えられた越後の口説節だと言われていますが、
これは叙事的でゆったりとした瞽女歌のようなものでした。
これを足利市堀込町が生んだ逸材、堀込源太(本名渡辺源太郎 昭・18・12・8没)が、野州気質に
合った高音で、はぎれの良い曲調に改変する等、心血を注いで作り上げた心の歌で、正に民衆の
活力と確固たる執念から生れた結晶が日本屈指の民謡、八木節であります。
初代源太は、幼少の頃から美声で、その素質は若くして四隣を圧したといわれております。
このように、郷土の傑出した人物が創出した八木節を、しかりと保存し、後世に正しく伝承して
事が、現代に生きる私達の責務と考え、昭和五十四年に足利地区愛好者の連携を図る目的で、
市内三十有余のチームを集結、足利市八木節連合会を結成しました。
本年発足三十年を迎えることを機に、一層結束を強め、初期の目的達成を念頭に、郷土を愛し
足利気質から生まれた八木節を守り、更に躍進させることが私達の使命と信じ、会員一同
粉骨砕身精進することを誓願し、この碑を建立するものであります。
       平成二十年三月吉日
            足利市八木節連合会」。



更に、本坂の石段を下って行った。



「229段」の石段を振り返る。



そして「 織姫ハイキングマップ 」。




                               ・・・​ もどる ​・・・



                 ・・・​ つづく ​・・・





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Last updated  2023.06.28 06:38:09
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