JINさんの陽蜂農遠日記

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2023.09.19
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カテゴリ: JINさんの農園
まずは「花應院」の「本堂」の見学をさせて頂きました。
慶長9年(1604年)に開山は国境と開基は祖桂として創建された。
曹洞宗の寺院。山号は西嶺山。
近くにあった「​ ​閻魔堂 ​」👈リンク(法王院 十王堂、浄土宗、常光寺末寺、武蔵国六浦金沢からの
金沢道沿い。小栗判官の墓がある)が天保11年間(1840年)に火災にあい閻魔大王像が
ここ「花應院」に運び込まれた。



天上から大き黄金の「 人天蓋(にんてんがい) 」が下がっていた。
古くはインドにおける日よけ(日傘)がその原型とされる。暑さをさけるため王様や貴人が使用
することから、高貴さや豊かさの象徴であった。のちに、それが転じて、仏や菩薩を守り、
美しく厳かに飾るための道具となった。
お寺の 本堂の中央、導師が立つ位置の天井から吊り下げられるものを
「人天蓋(にんてんがい)」、
仏像の上にあるものを「仏天蓋(ぶってんがい)」と呼ぶ。
箱型、傘型、華型、丸型などの様式があり、いずれも瓔珞(ようらく)や幢幡(どうばん)と
いわれる装飾が施されている。
ちなみに、時代劇などで登場する虚無僧(こむそう)が頭にかぶる笠も天蓋と称する 
とネットから。







大きな「香炉」の台座をズームして。
台座には【五七桐】紋が。
五七桐紋は、中心に7つ、左右に5つの花を立てた桐紋。桐紋の中で最も権威が高く、
『五三桐』よりも格が高い。天皇家の家紋として知られるが、天皇家が自身で用いるより、
足利氏や豊臣氏など政権を担当する家に下賜されて用いられることが多かったのだ と。
花應院と【五七桐】紋の関係は?



祭壇の右側には、この日の「 閻魔祭 」の為の 塔婆 が並んでいた。
閻魔十王 報恩謝徳塔 」、「 照手姫 追善菩提供養塔 」、「 忠光院殿刃空浄居士
追善菩提供養塔 」、 天翁録守信士 」と書かれた塔婆も奉納されていた。
」は小栗判官の戒名。
「天翁録守信士」は この村を水害から救う為にわが身を投げ出し、人柱となってこの土手を
守った浪人・「​ 土手番様(どてばんさま) ​」👈リンク の戒名であるとのこと。



再び「 人天蓋(にんてんがい) 」を見上げる。
天蓋(てんがい)とは、仏像や住職が座っている上にかざす笠状の装飾具のことで、それぞれ
仏像の上にかざすものを仏天蓋(ぶってんがい)、住職の座る上をかざすものを人天蓋




祭壇を更にズームして。



最上段に並ぶ仏像を見る。



左: 曹洞宗 の御本尊の「 釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)
右: 花應院 御本尊の「 聖観音像(しょうかんのんぞう)



総持寺 ​👈リンク を開山した「瑩山禅師(けいざんぜんじ)」像
瑩山禅師は1 2 6 4年( 1 2 6 8年の説もある)、越前にお生まれになり、8歳て永平寺に入り
三世徹通義介禅師のもとで修行を始めました。
1 3歳でニ世孤雲懐弉(こうんえじょう)禅師について正式に僧となると、瑩山と名を改め、
1 9歳になると諸国行脚の志をたて、求道生活に精進されました。
そして3 5歳のとき、義介禅師の後を継いて加賀国(石川県)の大乗寺住職となり、2年後に
「伝光録」をお示しになりました。その門下には優れた人材が集まるようになり、曹洞宗が
発展する基礎が築かれました。また、5 0歳で能登に永光寺(ようこうじ)を開き、そこで
「坐禅用心記(じんき)」を撰述されたといわれています。
その後、5 8歳のとき諸嶽寺(もろおかでら)を寄進されると禅院に改め總持寺と名づけました。
1324年、6 1歳のとき總持寺の住職を峨山(がさん)禅師に譲られ、翌年62歳てそのご生涯
を閉じられました。
曹洞宗には、大本山が2つあります。ひとつは大本山永平寺(福井県吉田郡永平寺町)であり、
ひとつは大本山總持寺(横浜市鶴見区鶴見)です。これを両大本山といいます。
両大本山は曹洞宗寺院の根本であり、信仰のみなもとであります。
大本山の住職の正式な呼び方は貫首(かんしゅ)といい、禅師さまと親しくお呼びしております
とネットから。



曹洞宗の開祖:道元禅師像。
道元禅師は1 2 0 0年、京都にお生まれになり、14歳のときに比叡山にて得度されました。
24歳で仏道を求め宋に渡ると如浄禅師のもとて修行に励まれ、「正伝の仏法」を相続されました。
2 8歳で帰国した後、正しい坐禅の作法と教えをすすめようと「普勧坐禅儀」を著され、
3 4歳のときに宇治に興聖寺を建立し、最初の僧堂を開いて修行者の養成と在俗の人びとへの
教化を始めました。また、仏法の境地と実践を伝えるべく「正法眼蔵」の執筆を続けられ、
4 5歳のときに越前に大仏寺(後に永平寺と改名)を建立しました。
その後も道元禅師は修行の生活を送りながら弟子の育成につとめられ、1 2 5 3年、5 4歳で
そのご生涯を閉じられました。

「払子(ほっす)」を持たれていると、校正の師匠から。
もともとは、お釈迦さまの時代に、蚊やハエを追い払う道具として使用することが許されたのが
はじまり。私たちと同じように飛び回る虫に悩まされていた当時のお坊さん。しかし、むやみに
殺すことはできない…。殺生を禁じる仏の教えを実践するための生活道具だった。
「払子」はその後、中国に伝わりその意味合いが変化する。お釈迦さまの「髪の毛」にみたて、
煩悩や災いを払う功徳を持つと考えた。禅宗では高僧が説法する時や、法要の導師をつとめる時に
手にし、厳かに左・右・前に振るようにして払う動作をする。
その作法とともに師匠から代々受け継がれる尊い法具である とネットから。



そして 市指定重要文化財 座像胎内 の「 石像閻魔大王座像(像高24cm) 」。
この日は「閻魔祭」であり、閻魔大王像の胎内から出されていたので実物を初めて見ることが
出来たのであった。



他にも様々な木彫像が。





本堂の欄干の彫刻も見事。



そして本堂・祭壇の左側の部屋。



そしてこれが「 閻魔大王像 」。
花應院の北には、かつて​ ​閻魔堂 ​👈リンクがあった。
しかし、1840年(天保11年)に火災に遭い、本尊として祀られていた木造閻魔大王坐像は、
ここ花應院に運び込まれたのだと。
それが現存する木造彩色のこの「 閻魔大王坐像 」だという。
普段は、この「 閻魔大王坐像 」の胎内に先程の「 石像閻魔大王座像 」が安置されているのだ と。
そして 罪状を読み上げ、判決文を記録する司命(しみょう)と司録(しろく)という2人の
書記官(しょきかん) が両脇に配されていた。



この閻魔像は、宝冠をつけ道服を着し、沓(くつ)を履いて上畳座に坐していた。
また右膝上に笏(しゃく)をかまえ、眉をつり上げ、目を大きく見張り、口を開けて
忿怒(ふんぬ)を表していた。



お顔をズームして。



司録・司命像 は宝冠をつけ、上衣と膝下で括った袴を着し、沓をはいて立っていた。
左側の 司命(しみょう) は死者の行状を究明するための銘札を持っていた。



右側に位置する 司録(しろく) は、罪状を記録するための筆と巻子を持っていた。



「閻魔大王像」の左隣りの祭壇には多くの位牌が安置されていた。



そして御住職、副住職による「 閻魔祭 」の納経・読経が執り行われた。



立派な木魚の音が本堂内に拡がったのであった。



                                                                                      ・・・​ もどる ​・・・



                 ・・・​ つづく ​・・・








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Last updated  2023.09.19 08:21:57
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