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1. 序章 ふるさとよ
東海の 三浦を分けて
ふるさとよ
大洋(わだつみ)広く 山青く
先史に開く 悠久の
歴史を生きて われ等あり
ああ 横須賀 われ等あり
磯波に 富士を映して
わが街よ
英知を集め 地と人の
栄えを創る 喜びは
自立の誇り 希望(のぞみ)あり
ああ 横須賀 希望(のぞみ)あり
近代の 夜明けを告げし
横須賀よ
試練を越えて 立ちしいま
平和を願う 新たなる
門出の街よ 未来あり
ああ 横須賀 未来あり
2. 黒船 来たる
霧こめし 浦賀の海の
波を巻き
国を開けと 黒船 来たる
大いなる 歴史の朝ぞ
黒船 来たる
波とどろ 浦賀の海の
高鳴りは
目覚めし国の 暁の歌声
大いなる 歴史の街ぞ
黒船 来たる
久里浜よ 浦賀の海を
見はるかす
碑(いしぶみ)高し 時を経し いま
大いなる 歴史の海ぞ
黒船 来たる
4. 谷戸の物語
1
じいちゃんの そのまた じいちゃんと
ばあちゃんの そのまた ばあちゃんが
好いて 好かれた 昔の話
いせき娘の ばあちゃんが ひとり
谷戸の山越え たずねて行けば
じいちゃんの そのまた じいちゃんが
海から小舟で 送ったそうな
褒め申そう 褒め申そう
谷戸の この家 褒め申そう
2
製鉄勤めの じいちゃんが
谷戸の向うの ばあちゃんに
会いたさ 見たさに カンテラさげて
トンネル抜け抜け 走って行った
三年三月で 所帯を持って
淡島さまに 願かけて
わが家の とうちゃん 生まれたそうな
褒め申そう 褒め申そう
谷戸の この家 褒め申そう」
案内。
戦艦三笠を振り返る。
「 東京九州フェリー 横須賀フェリーターミナル
」を振り返る。
米国横須賀海軍基地の住宅をズームして。
「芝生広場」にあった「 野外ステージ
」。
ステージの前には芝生の広場と海が広がり、海に向かって歌うことができるオペラハウス状の
ステージとなっていた。
再び戦艦 三笠を振り返って。
ズームして
「 さざなみの階段
」とアーチ型の「 サブモニュメント
」。
正面から。
昼間はさざなみの音が流れているのであった。
公園の北東の「 モニュメント広場
」には高さ18mもある「 メインモニュメント
」が。
近づいて猿島を背景に。
引き返すと「三笠公園案内図」が。
「中央公園」の正門側の入り口付近。
蒸気機関車が・・・???
「横須賀市緊急用飲料貯水槽(100m3)」と。
蒸気機関車(SL)に似せて造った同市の「緊急用飲料貯水槽」が設置から40年以上を経て
今なお人気を集めているのだと。
「この蒸気機関車は、いつか来る大地震のために、生活には欠くことのできない「水」を
貯えておくための非常用貯水槽(通称100トンタンク)です。大地震が起こったとき、この
三笠公園に避難してくる10,000人の人たちに、一人当たり1日3リットルの水を約3日間配る
ことができるように、100m3 ( 100,000リットル)の水道水が新鮮な状態で循環しています。」
「記念月桂樹」。
「記念月桂樹の由来
昭和36年(1961年)5月27日、記念艦「三笠」の復元記念式に際し、記念艦「三笠」
復元に多大な尽力をされた米国の「チェスター・ニミッツ海軍元帥」、「アーレイ・バーク海軍
作戦部長」、「ジョン・コナリー海軍長官」のお三方の名前で、この地に3本の月桂樹が
植樹されました。
しかしながら、それらは55年の年月を経て立ち枯れ、1本を残すのみとなりました。
「チェスター・ニミッツ海軍元帥」らの功績を後世に伝えるため、後継樹として向かって左側に
新たに1本を植栽しています。
平成28年3月
(公財)三笠保存会」
巨石が施された池は清掃中。
池を振り返って。
正門前花壇。
再び戦艦三笠を。
ズームして。
「東郷平八郎像」と「戦艦三笠」。
手前にあったのは「サイクルスタンド」か?
管理棟内には記念艦三笠の関連品などを売っている売店・土産物屋もあった。
「公園案内」板。
「 横須賀港(新港)の紹介
横須賀市内の北は追浜から南は野比に至る港湾施設のある区域をまとめて横須賀港といいます。
向こうに見える島は東京湾唯一の自然島「猿島」です。伝説によると日蓮上人が上総の国から
鎌倉へ行く途中、嵐に遭い漂着した所といわれています。この島は四季を通して市民が海と
親しめる所でもあり、島内には弥生時代の洞穴住居あとや、かっての要塞、特に明治時代の
赤しンガなどが残されています。
さらに沖合には、第1海堡、第2海堡、水没している第3海堡の人工島要塞あとや千葉の
新日本製鉄(株)君津製鉄所がながめられます。
左に見える記念艦「三笠」は日露戦争の日本海海戦でバルチック艦隊を破り大勝を収めた時の
旗艦であります。大正15 (1926)年三笠公園に保存されることになりました。
ペリー提督の率いる船が浦賀沖に来航して以来、わが国の立ち遅れを痛感した徳川幕府は
勘定奉行小栗上野介忠順に製鉄所(後の造船所から海軍工廠と改称された)の建設を命じ、
それを受けたフランス人技師レオン・ヴェルニーは横須賀湾に着目し、建設しました。
これがきっかけとなって一寒村であった横須賀が大きく発展することとなり、やがて海軍が
その施設を拡張するにつれて貨物船等の横須賀湾内の航行が制約されました。
そこで貨物船等は現在の稲岡町あたり、白浜海岸を使うようになりました。
白浜は漁民の集落でしたが明治11 (1878 )年三浦郡長小川茂周によりこの辺一帯が埋立てられ、
郡長の名をとって小川町と名づけられました。そのころ鴨居「若松屋」の高橋勝七により石松町、
明治22 (1889)年、その北側に後の工機学校敷地、大正(1915)年、肥後富一郎、葦名金之助等に
より大滝町地先に埋立地がそれそれ造成されました。埋立地ができあがると縁ヶ丘にあった
市役所や諏訪小学校、平坂付近にあった警察署をはじめ銀行や商店なども進出、活気のある下町が
形づくられてきました。
昭和5年、今の京浜急行が浦賀まで開通されると埋立地は横須賀の都心としてにぎわいのある町と
なっていき、人々は「中央へ行こう」「下町へ行こう」と言って新しい町に来ることを楽しみに
していました。
造船所開設以央、次第に都市として発達した本市にとって、交通機関の整備は第一の要件であり、
特に谷間の多い地形などによる道路網の不備もあって海上輸送は、物資輸送幹線の上で中心的な
役割を果していました。海軍の施設拡大のため横須賀湾、長浦湾の一般利用が閉ざされてからは、
小川港は近くの安浦港とともに整備され、京浜急行からの生活必需物資や石炭、建築用材等の
港湾貨物の取扱いに重要な役割を果してきました。なお戦後わが国の食料危機救済のため、長浦に
外国貿易港が、また久里浜に遠洋漁業基地及び国内貿易港が、それそれ整備されてきました。
一方戦後の目覚ましい経済成長を背景に、三浦半島及び湘南地域を主とした海上輸送貨物の門戸と
して新港建設に昭和41 (1966)年着手し昭和49 (1974)年完成に至りました。
現在新港では、ソーラス条約に対応し、完成自動車の輸出や、水産物(冷凍マグロ)の輸入が
行われています。平成25年には地場産物総合販売所の「よこすかポートマーケット」がオープンし、
平成27年には官公庁の移転が完了しました。」
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