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今日は2023年の大晦日、今年1年を振り返ってみたいと。前半部分のキャプション・写真等はネットから転載させていただきました。読売新聞の2023年十大ニュースは下記のごとし。[ネットから]【1位】WBC14年ぶり優勝…最強侍 列島沸く野球の国・地域別対抗戦「ワールド・ベースボール・クラシック」(WBC)で、栗山英樹監督率いる日本代表「侍ジャパン」が3月21日の決勝で前回覇者の米国を3―2で破り、2009年以来14年ぶり3度目の優勝を果たした。日本は、大谷翔平選手、ダルビッシュ有選手、ラーズ・ヌートバー選手ら大リーガーと村上宗隆選手(ヤクルト)、岡本和真選手(巨人)らプロ野球トップ選手の混成チームで臨み、「歴代最強」との声も上がった。1次ラウンドを4戦全勝し、グループ首位で突破すると、準々決勝でイタリアに快勝。準決勝のメキシコ戦は逆転サヨナラ勝ちし、決勝へ進出した。決勝では、米国に1点を先取されたものの村上選手の本塁打などで勝ち越し、岡本選手も本塁打で追加点を挙げた。1点差に追い上げられた九回は、3番指名打者で出場していた大谷選手が登板。最後はエンゼルスで同僚のマイク・トラウト選手との対決を空振り三振で締めくくった。大会の観客動員数は、日本や中南米の盛り上がりが全体に波及し、130万人を超えて過去最高を更新。大谷選手は大会の最優秀選手(MVP)に選ばれた。【2位】大谷メジャー本塁打王米大リーグ・エンゼルスの大谷翔平選手が10月1日、44本塁打で日本人初の本塁打王となった。右肘を痛めた影響などで9月3日を最後に欠場したが、2位に5本差でトップを守った。投手としても10勝を挙げ、史上初の2年連続「2桁勝利、2桁本塁打」を達成した。11月16日には、史上初となる2度目の「満票」でアメリカン・リーグ最優秀選手(MVP)に選出。2021年に続き、投票権を持つ全米野球記者協会の記者30人全員が1位票を投じた。今季終了後にフリーエージェントとなり、去就が注目されたが、12月9日にロサンゼルスを本拠地とする強豪ドジャースへの移籍を発表。総額7億ドル(約1015億円)の10年契約は、スポーツ史上最高額とされる。大谷選手は入団記者会見で「優勝を目指し、欠かせなかったと言われる存在になりたい」と決意を述べた。来季は打者に専念する。【3位】ジャニーズ性加害問題ジャニー喜多川氏による性加害問題で、ジャニーズ事務所が9月7日、記者会見を開き、性加害の事実を認めて謝罪した。男性や子ども・若者への性暴力が注目され、芸能界のハラスメントやメディアの対応にも厳しい目が向けられるなど、大きな社会問題となった。藤島ジュリー景子社長は引責辞任し、新社長に東山紀之氏が就任。10月には同事務所が被害者への補償に専念し、完了後に廃業するとして、社名も「SMILE―UP.(スマイルアップ)」に変更した。所属タレントは来年4月に全面稼働する新会社で受け入れる。この問題を巡っては、英BBCが3月、喜多川氏の性加害を告発する番組を放送。翌月、事務所に所属していた歌手のカウアン・オカモトさんが記者会見で被害を公表し、一連の事態が取り上げられるきっかけとなった。また、大手企業が所属タレントのCM起用を見送る動きも広がった。【4位】藤井竜王史上初八冠将棋の王座戦五番勝負の第4局が10月11日、京都市で行われ、挑戦者の藤井聡太竜王(名人、王位、叡王、棋王、王将、棋聖)が永瀬拓矢王座に勝ってシリーズ3勝1敗で王座を奪取し、21歳2か月で史上初の八冠独占を成し遂げた。一夜明けた記者会見では「(八冠になっても)盤を挟めば立場の違いは全くない。これまでと同じ気持ちで臨む」と穏やかに語った。11月11日には、最高棋戦の竜王戦七番勝負を制して八冠初防衛を果たした。出場したタイトル戦で19連覇しており、大山康晴十五世名人の持つタイトル連続獲得の最多記録(19期)に並んだ。来年の記録更新に期待がかかる。【5位】阪神38年ぶり日本一プロ野球の「SMBC日本シリーズ2023」で、阪神タイガースが11月5日に行われたオリックス・バファローズとの第7戦に勝利し、38年ぶり2度目の日本一に輝いた。18年ぶりにセ・リーグ優勝を果たした阪神とパ・リーグ3連覇を飾ったオリックスの対戦は、1964年以来、59年ぶりに関西に本拠地を置く球団同士の顔合わせとなったことから、「関西決戦」としても注目を集めた。岡田彰布監督はシーズン中に選手が意識しすぎないようにするため、リーグ優勝のことを「アレ」と表現し、流行語となった。【6位】闇バイト「ルフィ」逮捕各地で相次いだ指示役「ルフィ」らによる強盗事件を巡り、警視庁は2月7~9日、フィリピンから強制送還された渡辺優樹、今村 磨人きよと の両容疑者ら男4人を逮捕した。4人はフィリピンを拠点とした特殊詐欺グループの幹部で、SNSの「闇バイト」で実行役を集め、強盗を指示していたとみられる。警視庁は、昨年5月以降発生した5都府県の8事件を一連の強盗事件として捜査。12月までにすべての事件で指示役を立件した。【7位】新型コロナ「5類」移行新型コロナウイルス感染症の感染症法上の分類が5月8日、季節性インフルエンザと同じ「5類」に引き下げられた。3年余り続いたコロナ対策は、平時の体制に切り替わった。「マスク着用」「3密回避」など、これまでの暮らしを一変させたコロナ禍は、区切りを迎えた。感染者の全数把握も終了。読売新聞の集計では、5類移行までに国内で累計約3383万人が感染し、約7万人が死亡した。【8位】ビッグモーター不正請求中古車販売大手ビッグモーターで、従業員が車体を傷つけて修理範囲を広げるなどして、自動車保険の保険金を不正請求していたことが発覚。創業者の兼重宏行社長は7月25日、引責辞任を表明した。その後、損害保険ジャパンの白川儀一社長も不正の可能性を認識しながら、ビッグモーターとの取引を再開したとして辞任を表明。金融庁は11月、ビッグモーターに対し、損害保険代理店の登録を取り消す行政処分を出した。【9位】夏の平均気温過去最高気象庁は9月1日、今年の夏(6~8月)の日本の平均気温が、1898年の統計開始以降で最も高かったと発表した。最高気温が35度以上の「猛暑日」の日数は全国38地点で最多となった。熱中症によるとみられる死者も相次いだ。猛暑は農作物にも影響を与え、不作により野菜などの価格が高騰した。夏を過ぎても暑さは続き、今秋(9~11月)の平均気温も統計開始以降、最高を記録した。【10位】処理水放出開始福島第一原子力発電所の廃炉に向け、東京電力は8月24日、同原発の処理水の海洋放出を開始した。放出期間は30年程度に及ぶ見通しだ。反発する中国は科学的根拠を無視して日本産水産物の輸入を停止。中国向けに魚介類を輸出していた水産業者らが打撃を受けた。海洋放出を巡っては、中国発とみられる偽情報がインターネットで広まり、日本への迷惑電話も多発した。11位以下は次の通りと。11位 広島でG7サミット開催 9,057(35.8%)12位 各地でクマ被害、死傷者過去最多 6,588(26.0%)13位 日大アメフト部員、違法薬物で逮捕 6,318(25.0%)14位 歌舞伎俳優の市川猿之助容疑者を逮捕 5,867(23.2%)15位 ガソリン価格過去最高、物価高続く 5,035(19.9%)16位 岸田首相演説会場に爆発物投げ込み 4,740(18.7%)17位 夏の甲子園で慶応107年ぶり優勝 4,711(18.6%)18位 生成AI急速に普及。著作権侵害など弊害に懸念も 4,431(17.5%)19位 旧統一教会の解散命令請求 3,983(15.7%)20位 マイナカードでトラブル相次ぐ 3,965(15.7%)21位 五輪で談合、組織委元次長ら逮捕 3,804(15.0%)22位 音楽家の坂本龍一さん死去 3,093(12.2%)22位 株33年ぶり3万3000円超 3,093(12.2%)24位 宝塚が劇団員死亡で報告書 2,780(11.0%)25位 車いすテニス国枝さんに国民栄誉賞 2,726(10.8%)26位 岸田首相、ウクライナを電撃訪問 2,697(10.7%)27位 ネットで脅迫、ガーシー前参院議員逮捕 2,691(10.6%)28位 日韓首脳会談、関係正常化で一致 2,515(9.9%)29位 消費税のインボイス制度開始 2,054(8.1%)30位 LGBT法成立 2,042(8.1%)【その他】 2023年「今年の漢字」は「税」2023年の世相を表す「今年の漢字」に「税」が選ばれ、世界遺産・清水寺(京都市東山区)で12日、森清範(せいはん)貫主(かんす)が揮毫(きごう)した。「税」が選ばれるのは、消費税率が17年ぶりに引き上げられた2014年以来、2度目。公益財団法人「日本漢字能力検定協会」が毎年公募し、今年で29回目。応募総数14万7878票のうち、「税」が最多の5976票を集めた。増税や減税を巡る議論が活発化し、動向が注目されたのが主な理由で、森貫主は「国民の皆さんがシビアに税の行方を見ていると感じた」と語った。2位は「暑」、3位は「戦」。4位はプロ野球・阪神タイガースの日本一を受けて「虎」だった。私には予想外の「税」でしたが、皆さんはいかがだったでしょうか?個人的には順不同であるが★一度も寝込むことなく健康な1年であった。昨年8月には、【耳下腺腫瘍】の切除手術で8日間の市民病院での入院、その後12月末にも【大腸ポリープ】の切除手術で1泊2日の入院であったが、その後も順調に回復し、1年点検でも両方とも問題はないとの診断結果であった。そして今年の徒歩による散策そしてブログアップを振り返って見た。★1月湘南海岸・片瀬東浜からの初日の出👈リンク元旦の富士山。今年も春を迎えに二宮・吾妻山へ👈リンク★2月熱海・糸川桜へ👈リンク伊豆半島・河津桜を楽しむ👈リンク★3月小栗伝説の残る六会を巡る👈リンク白旗神社へ藤の花を愛でに👈リンク★4月富士芝桜まつり👈リンク甲斐・信州日帰りの旅へ👈リンク★5月江の島に続く砂の道「トンボロ」を歩く👈リンク丸の内ストリートギャラリー👈リンク★6月栃木県・足利市を訪ねる👈リンク富士山周辺を訪ねる👈リンク★7月埼玉・行田を巡る👈リンク茅ヶ崎・浜降祭へ👈リンク★8月佐倉花火フェスタ 2023👈リンク藤沢・花応院へ👈リンク★9月日の入りのダイヤモンド富士を追って👈リンク座間市ひまわりまつり👈リンク★10月隅田川・屋形船の旅👈リンク神楽坂の坂道&横丁ウォーク👈リンク★11月江の島・湘南シーキャンドル2023👈リンク龍口寺・第13回 瀧の口竹灯籠👈リンク★12月箱根~河口湖への紅葉巡り👈リンク藤沢地名の会👈リンクそして日常生活では★7回目のワクチン接種2023年春から続いていたワクチン接種は、高齢者や重症化リスクが高い人などが対象でしたが、9月20日からは生後6カ月以上の全ての人が対象となった。コロナの感染症法上の扱いは2類から5類になったが、「特例臨時接種」として費用は無料。ただし、期間は2024年3月末までで、最後の無料接種になる可能性も。ワクチンの種類は、オミクロン株の派生型「XBB1.5」に対応するものに変更された。冷凍庫で保管していたこれまでのワクチンは廃棄となり、流行するウイルスに合わせた新しいものに切り替わったのであった。★人口36,000人以上の自治会連合会の役員として、今年も参加今年は4年ぶりの制限なしの【ふるさと祭り】、【イルミネーション2023】開催。【ふるさと祭り】【イルミネーション2023】★今年も都内・市内の秋の紅葉を楽しむ。「等々力渓谷」「等々力不動尊」「浄真寺」「傳乗寺」藤沢・「天嶽院」★我がブログも今年も皆勤にて700万回アクセスを通過。 去る12月25日(月)朝に、我がブログアクセス数も700万回を超えました。 そして今年も365日、毎日アップすることが出来ました。 皆様の日々のアクセスに感謝申し上げます。 そして今日・大晦日2023.12.31の13:00過ぎのカウンターは『7013950』を示していました。 これからも毎日の出来事を 『つれづれなるままに、日くらしパソコンにむかひて、心にうつりゆくよしなし事を、 そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ』 の精神で、あくまでも「備忘録」を主眼として、「継続は力なり」の精神でこのブログを 「毎日」書き続けて行きたいと思っています。 文章の表現力も乏しく、誤変換や、内容を理解しにくい表現箇所も多々あると思いますが、 我が儘にもあまり「読んで頂く」事を意識せず、あくまでも『自分を表現するツール』 『学びのツール』そして「備忘録」として日々のブログを書き続けて行きたいと 思っているのです。そして二人暮らしの我が家の重大ニュースは唯一つ①今年の私達夫婦は自宅で風邪や発熱等で寝込むことも全くなく、大晦日の今日の日を 迎えられた事に感謝。 妻は今年もパートの仕事を皆勤、毎週末は趣味を楽しむために、横浜に張り切って行く 日々であった。そして半世紀以上の長年の仕事も11月で卒業したのであった。 独立している子供たち家族も元気に越年、来年も1月7日に長男、長女家族が我が家に来ると。 久しぶりの家族【全員集合】なのである。そして我が家の正月飾りの準備も昨日に完了しました。門松は12月28日までに飾るか、12月30日に飾るのが良いとされています。その理由は、 29日に飾るのは語呂合わせで「29(二重苦)」に通じ縁起があまりよくないとされているからです。また、12月31日に飾るのは「一日飾り」といい、一日前にぎりぎりで飾ると、神聖な気持ちでゆっくりと正月を迎えられないので、その日には飾らないことにするのだと、半世紀以上前に亡き父より。鏡餅は今年も2個購入し組み立てました。神棚。全てを下し濡れタオルで1年の埃を落としました。そして牛蒡注連も新たに購入し奉納しました。橙(だいだい)、裏白(うらじろ)、ゆずり葉のセットも。裏白は長寿、ゆずり葉は子孫の繁栄、橙は家系の繁栄を願ったもの。「心の潔白さ」と「白髪になるまで長生きする」は毎年ソっと裏に隠して飾っています。床の間に。玄関のしめ飾り。今年もシンプルなものに。そして門飾り。松と輪飾りを。短かかった?2023年、大晦日の「年越しそば」と「除夜の鐘」に、世界の平和が確実に実感できる新たな年2024年へ!! との願いを込めて。本日も我がブログへのアクセスありがとうございます。アクセスいただいた皆様も元気に良き新年をお迎えください。そして来年も我がブログをご笑覧いただきたくよろしくお願い申し上げます。そして2024年へのカウントダウン。2024年まで残り9時間。そして元旦は初日の出を見にと!! 2023年 完了
2023.12.31
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「明治郷土史料室」を後にして「神台公園(かんだいこうえん)入口」交差点まで戻る。「児童クラブ交流会」の看板が。(公財)藤沢市みらい創造財団が運営する児童クラブは基本的に小学校区ごとにあり、・児童の成長を促すこととして次の活動を行っているのだと。・児童の安全と健康を守り、豊かな心を育てる活動・遊びを通して自主性・社会性・協調性を培う活動・生活の場を提供し、生活習慣を身につける活動・家庭との日常的な連絡、情報交換・地域活動への参加など、地域の特性を生かした活動・その他、児童の健全な育成を助ける活動多くの子供達が集まっていたが。前方に「湘南藤沢徳洲会病院」。その手前を右折し、藤沢市道・明治457号線を進む。昔の街道・「大山街道」から分岐した「鎌倉江の島道」であったと。前方、路地の角にあったのが「伊勢屋の墓地」。「江戸時代、二ッ屋付近では街道を行き交う旅人相手に立場茶屋が繁盛したといいます。伊勢屋の先祖は伊勢の出身で立場茶屋を営んでいました。明治維新後は茶屋を廃業して酒屋兼雑貨を扱う店を営んでいたことが知られています。」と頂いた資料から。墓石が並ぶ。「乙磨墓」?。「明治郷土資料室」資料から「いつこより 吹来るものか秋風に 草も我身を 枯れそめにけり」「先祖代々の墓」。道路側にも墓石が並ぶ。中央に「三觜家之墓」と。三觜本家からの分家関連の墓地なのであろうか?「墓誌 三觜家先祖代々之諸精霊位」と。そして東海道・国道1号・「大山街道入口」交差点に出る。「大山街道入口」。手前にあった石碑。廻り込んだが、風化が進んで剥落が激しく文字は確認できなかった。頂いた資料には「⑤二ッ谷の辻ニッ谷はニつ家とも書きこの道筋にニ軒の家があったことから起こった地名ともいわれています。またここは北方向への大山道、南方の光明真言道場道(鎌倉江の島道)への分岐点であり、大山での帰りの信者たちが宝泉寺へ参詣し、更に江の島鎌會方面へ行く途中の休憩所として、ニ軒の立場茶屋があったからともいわれています。」そして上記の石碑は◇常光明真言道場道標(国道南側)光明真言道場と呼ばれた宝泉寺への道標で、同様のものが宝泉寺にもある。旧東海道と明真言道場道と交差する所にある。初め寛保ニ年(1741)伊予国出身の回国行者空山が立てたが、朽ちてしまったので文化六年(1809)に再建した。「常光明真言ロロ 寛保ニ壬戌三月廿一日 願主予州沙門空山 辻堂村宝泉寺」と刻まれていたと。「明治歴史資料室」の展示から。正面に「常光明真言」と。塔身石側面 願主寺州沙門空山 辻堂村宝泉寺 寛保ニ壬戌元三月廿一日塔身左側面 于時文化六巳之ハ月日再興そして正面が「大山街道」。ピンクが「田村通大山街道」と説明員の方から。この場所は「藤沢市」と「茅ヶ崎市」の境界付近。ここから「茅ヶ崎市」と。 横断歩道を渡りると、そこにも石碑が転倒した状態で放置されていた。廻り込んで。裏面、右側面にも文字が刻まれているようであった。「西国坂東秩父巡礼塔」であり享和3年(1803)高座郡用田村の人々により道中安全祈願を目的に建立されたものと。頂いた資料には正面 奉巡禮四國坂東秩父供養塔塔身右側面 あふり山 わけいる道に しおり置 つゆのことのは しるべとはなれ塔身背面 相州高座用田村 角田紋右衛門 宮原村 菊池五右衛門 菱沼村 太田口口 赤羽村 古知屋太郎衛門 同 太郎左衛門 安齏兵左衛門 城田治左衛門ニッ谷の立場:ー里塚を挟んて、四ツ谷とニッ谷の立場があった。ニッ谷の辻にある「奉巡礼西国坂東秩父供養塔」は、大山道しるべにもなており、巡礼の物道に迷って困窮した経験から、大山詣ての人々に道しるべを建てたと云われる。※道標左面の銘文(現在は、剥落判読不明の部分)すぎし年 やつがれは都路より西の国々東越道の国々の宮寺詣せしに わかれの岐をもしらで打越しことありき、あるわき道にかつりもうてしをりも侍り幾されば此里人の語り侍るには、大山詣でする人たちを委しくふたつや(ニッ谷)・小わた(小和田)を討ち過ぎ道しるべする人をやといて直格にロロロはた具儘に詣するなりむ者も有とかやしかあれど、此岐みちは細道なれば、ざして大山道と記難き海道しるべにてはべればとて、或人に一首の歌を乞得て書誌ものならし ↑この一首が、右面の和歌ネットより、在りし日の石碑の写真を。ネットより、在りし日の石碑の写真を。そしてこちらが大山道への道。そして東海道を藤沢方面に上ると「二ツ谷公民館前」交差点の先、左手にあったのが「二ッ家稲荷神社」。ニッ家稲荷は二ツ谷とも書くが、道辻に二軒家、二軒茶屋があったとも言わわたことから此の名がと。藤沢市城南1丁目3。「二ッ家稲荷神社」。そして入口左に道路を背に向けて立っていた「寛文十年(1670)庚申供養塔」。「寛文十年(1670)庚申供養塔」。塔身前面 寛文十庚戌年 奉造立庚申供養 九月吉日正面彫物 日月型 三猿像昭和52年(1977)4月13日指定/舟型光背型、総高125㎝、火成岩(安山岩)製/寛文10年(1670)の紀年銘があり、基礎造り出し部分前面に「相州土戸村道行」(辻堂か)として石井権左衛門以下、造立した庚申講中8名の名が刻まれています。「藤沢市指定重要文化財寛文十年(1670)庚申供養塔庚申信仰は、十干・十二支の組合せによって六十日に一度めぐってくる「庚申の日」に、その夜を眠らずに過ごして無病・息災・長寿を願う信仰である。その源流は、「人の体内にいる三尸の虫が、庚申の夜、天にのぼってその人の罪過を天帝に告げるため生命を縮められる」 とする中国の道教の教えに由来している。江戸時代、万治・寛文頃(1658~1672)には、仏教を背景に広く庶民に伝わり、「庚申講」が結ばれて庚申の夜は、講中の人々が当番の家に集まり、徹夜で酒食歓談して過ごす庚申待の行事や、供養塔の造立が盛んになった。二ツ家稲荷神社境内の寛文十年庚申供養塔は、総高百五cm、蓮辧型で、造り出しの基礎部の上に別に台座を作り、その上部箇所に正面向きの三猿像を載せる手法をとっている。」。隣に「道祖神塔」。蓮弁光背型 和合ニ神立像。塔身正面 施主吉田氏権右衛門 天明元年丑年九月吉日「二ッ家稲荷神社」の「一の鳥居」。そして「ニの鳥居」。扁額「ニッ家稲荷」。「ニッ家稲荷神社歴表当町稲荷社ハ昔古ヨリ設立延宝七年六月并ニ天明六年九月再築享和三年二月新築天保九年二月再建是マデ修繕致シ束リ今回大破ニ及ビ氏子一同協議之上新築仕リ度何分少数ナル町民負担ニ堪ヘ兼テ有之有志諸氏多少ヲ不満新築費ノ内御寄付被成下度伏テ願 ヒ奉候也明治三十九年氏子一同協議之上新築明治四十三年其ノ筋ニ依リ無格社ハ可拂ヒノ命令ニ依リ一時川澄忠右エ門氏ノ宅地内ニ五ヶ年程置ク大正四年二月川澄藤之助氏功志ヲ以テ神台四二六番地ニ新築セリ昭和十八年太平洋戦争ニ依リ当時ノ海軍省ノ命令ニ依リ稲荷社ノ敷地(参百坪余)ヲ買収サレ物資不足ノ折リ下内地城南一丁目三番地ニ新築ス昭和六十一年屋根ノ損傷ヒドク瓦ヲ葺替同時ニ外装ヲモ一新ス昭和六十二年氏子有志ニ依リ玉垣ヲ奉献ス 平成八年十一月吉日新築ス 二ツ家稲荷神社氏子中」「狛狐」(右)。「狛狐」(左)。こちらにも。こちらにも。そして「三の鳥居」と「社殿」。扁額「稲荷大明神」。二ッ家集落の鎮守社で、祭神は「保食神(うけもちのかみ)」例祭日二月一日、勧請年月日は不明。延宝七年(1679)に再建され、以降明治三十九年まで度々再建を重ねている。昭和十八年春、海軍衣料廠の拡張にあたって、神台2ー8(国道1号線反対側)より現地に移転した。これが、「寛文十年(1670)庚申供養塔」が道路に背を向けている理由であろうか。ここにも狐様が。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.12.31
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さらに「明治郷土資料室」の見学を続ける。城南にある養命寺の本尊で、国の重要文化財に指定されている「木造薬師如来坐像」。「木造薬師如来坐像」は、今から約821年前、大庭景親所領を与えられた鎌倉幕府の有力御家人、三浦義澄が作らせたと言われている。国の重要文化財となった現在は、鎌倉国宝館に保管されているが、薬師如来や薬師経信者を守る十二神将像は同寺に安置されている。2018年2月1日、曹洞宗・養命寺にある「木造十二神将立像」を藤沢市指定重要文化財に指定。これにより市内所在の指定文化財は、市指定77件、県指定14件、国指定8件となった。十二神将とは、仏教の信仰・造像の対象である天部の神々で、薬師如来・薬師経を信仰するものを守護するとされる12体の武神。鎧に身を包み、手には武具を持ち、頭には干支の動物を付けている。有名なところでは、奈良市の新薬師寺にあるものが国宝に指定されている。市郷土歴史課によると、今回指定した立像は、15世紀(室町時代)に製作されたもので、檜材の寄木造。像高72・4cmから78・5cm(台座除く)で、一般にあるものに比べるとやや小ぶりだが、藤沢・鎌倉地方の中世仏像の指標となるものだという。さらに、立像の中には銘文や修理札が状態良く保存されており、1521年(永正18年)から明治初期におよぶ数回の修理年代や、それに携わった鎌倉や江戸の修理仏師の名が明らかである点も貴重だと評価した と。そして「わがまちの誇り「耕餘塾」」のコーナーへ。「小笠原東陽」と「松岡利紀」。「耕餘塾(こうよじゅく)(1872年~1897年)●耕餘塾の生まれる背景羽鳥村は藤沢宿、四谷宿に近くお酒や賭博に染まり貧しく荒廃していた。こどもたちも、旅人に銭をねだることもあった。羽鳥村を良くするために学問が必要であると三觜家の人は考え、江戸より小笠原東陽先生を招いた。●耕餘塾の誕生1872年(明治5年) 3月、池上本門寺南谷檀林で漢学を教えていた小笠原東陽先生が羽鳥村の三觜ハ郎右衛門家(元名主)と小三郎家(分家)の支援のもとに、廃寺徳性院で教授する。教場は徳性院の名にちなみ「読書院」と命名。●読書院 1872年~ 1876年(塾主:三觜ハ郎右衛門、教員:小笠原東陽)男女生徒が学んだが、学制の施行で児童は羽鳥学校へ移る。特別(中等)教育を始める。 ◯学科 読書、算術、習字、修身、作文の5学科。 ◯教科書 四書、考経、世界国尽、国郡訓義、国史略、十八史略、西洋事情、日本外史、政記、 文章規範、八大家文読本。●耕餘塾 1877年(明治10年) 1月~ (塾長兼教員:小笠原東陽)趣旨は『農家ノ子弟耕耘収穫ノ余カヲ以テ五学科ヲ研究セシム』 ◯学科 読書、算術、習字、修身、作文の5学科 ◯学年 第1学年から第4学年、等級は8級から1級まで、期間は各6ヶ月。 ◯授業 午前6時起業、7時朝食。8時~ 12時・午後1時~ 4時まで9時間授業。東陽先生4時間、 残りは助教が担当。 ◯休日 日曜日、祝祭日、国幣社大祭日、村社祭日、塾主家祭日 ◯入学年齢 原則として、14歳以上。ただし、小学年齢であっても、学力の度合いによって 入学が許可。入学者は男子のみ、寄宿か通学かは自由。予備学科として前期後期1年。 ◯塾生費用 入門費金五拾銭、毎月在籍料 金ニ円八拾銭(随時変更) ※塾費の額について、 現在の額との換算は難しい ◯耕餘集 1880年(明治13年) 10月第一集から、1886年(明治19年) 4月第六集まで発刊。 塾生70人の詩152篇、文章48篇が収められ、文章中の42篇に小笠原東陽先生の 短評が付く。●耕餘英和学校 1885 ~ 1886年(明治18 ~ 19年)頃(塾長:小笠原東陽) 教則を改め、英学大家の平井忠雄先生を招聘(しょうへい)して英学科を増入。英書籍にミルや スペンサー著使用。●耕餘義塾 1890年(明治23年) ~ 1897年(明治30年) 9月9日(塾長:松岡利紀) 寄付などによる公益の体制として「耕餘義塾」と名称が変更。高度な教則のもと授業がなされ、 良家の子弟が学ぶ 校長 小笠原 鍾(1887年~ 1888年の一年間) 塾長兼教員 松岡 利紀(1888年~ 1897年の10年間) 教員 小沢市三郎(英学)・村上(内山)守倫(英学)・田中元次郎(英学)・ 杉野鉾太郎(数学)・對馬運作(数学)・前田定之介(英学)・三觜ハ郎(英学)・ 中島 繁(数学) 管理者 三觜ハ郎右衛門 金子小左衛門 維持者 三觜ハ郎右衛門 金子小左衛門 今福元頴 大嶋正義 平野反輔 小笠原鍾 牧野随吉 梅原良 ほか 賛成員 三觜小三郎 小泉与左衛門など多数 ◯本科3か年、修業6か月で進級 訳読、語学、数学、地理、漢学、作文、英習字、和習字、文法、代数、幾何、植物学、 動物学、簿記、翻訳、化学、経済学、翻議、三角術。洋書籍、漢書籍などが使用 ◯予科では、綴字、訳読、語学、漢学、作文、英習字、和習字。 ◯学費 入塾金1円。授業料70銭。舎費30銭/通学生は20銭。賄および浴湯料2円20銭 (物価の高低で増減あり)●閉塾1897年9月9日夜、大暴風雨のため塾舎倒壊により閉塾。1900年8月31日神奈川県知事に管理者より「閉校之儀御届」提出。」小笠原東陽(おがさわらとうよう)(1830年~1887年)1830年(天保元年) 9月13日、作州(岡山県)勝山藩士の三男として江戸谷中で誕生。3歳で父を失い、姫路藩士奥山家の養子となる。奥山鉄四郎と名乗る。本名は董(ただす)、字は公威(こうい)、号は半漁(はんりょう)。1832年(安政2 )、昌平坂学問所(昌平黌)に入る(26歳)。儒学者の佐藤一斎・安積良斎に、学ぶ。つづいて林家の藕演塾に移る。1861年(文久元年)、姫路藩江戸邸学問所の学頭助となる。その後、姫路藩をはなれ小笠原の本姓に戻る。易占いで生計を立てるが、日々の暮らしは大変貧しかった。1869年(明治2) 6月、池上本門寺の南谷壇林(なんこくだんりん)に招かれ約4年間漢学を教える。檀林の生徒のなかに、羽鳥村の三觜治香(ちか)がおり、羽鳥村に遊ひに来て、三觜家の人々と出合う。1872年(明治5年) 3月、三觜ハ郎右衛門(本家)、三觜小三郎(分家)両家の招聘に応じ羽鳥村に転居。三觜家の多大な支援の下に、「読書院」を開く。同年『学制』の施行により公立耕餘学校と私塾「読書院」(中等教育)の両方て教鞭をとる。1877年(明治10年) 1月、新塾舎が完成し、塾名を「耕餘塾」改称。その後、英学を取り入れ「耕餘英和学校」へと発展させる。1884年(明治17年)舂頃より肺結核を発病、1887年(明治20年) 8月12日、58歳をもって永眠。教育の功績に対し、1877年(明治10年) 9月神奈川県から表彰。1883年(明治16年) 1 1月文部省から表彰。ニ松学舎山長の三嶋毅(昌平坂学問所の同門)は、「東陽のように死後も敬慕されること万分の一ほどでもありがたいものである。東陽は学問の栄光たらんことに力を注き自ら栄光を望まなかった。卓識というべきである。」と述べている。松岡利紀(まつおかとしのり)(1844年~1907年)1844年(弘化元年) 3月8日、美濃(岐阜県)高須藩士の家に誕生。字は大綱、号は拙鳩(せっきゅう)。8歳にて藩校(日新堂)に入り、漢学を修める。1860年(万延元年)林家の藕潢塾(ぐうこうじゅく)に入門し、林晃先生に漢学を学ぶ。小笠原東陽先生は藕潢塾での同門であり師である。その後、京都で漢学修業。1866年(慶応2年)名古屋藩校の鷲津宜光先生のもとで1年半あまり文学を学ぶ。1868年(明治元年) 4月、高須藩の貢士(こうし)(藩から選抜された政府の役人)となる。同年7月行政官、同時に刑法官の辞令を受ける。同年9月神祇官(じんぎかん)御用を仰せつかり、神社との関係が始まり、各地の神社で宮司などを勤める。鎌倉宮宮司時代、小笠原東陽先生の長女りかと結婚。1873年(明治6年) 7月から翌年の11月まで文部省の依頼で、川田剛(子息は辻堂に住んたことのある歌人川田順)のもとで、国史編纂の助手をする。1888年(明治21年) 7月、耕餘塾の先生となる。同年9月に塾長となる。1890年(明治23年)塾名を「耕餘義塾」と改称する。この時期、吉田茂が在籍している。自ら「源氏物語」「平家物語」などを書き写して、教材とし講義する。1897年(明治30年)、耕餘義塾閉塾。1901年(明治34年)中郡立中部学校(金目村堀の内)の教員となる。1907年(明治40年) 9月9日教授中に突然倒れ逝去、享年64歳。「小笠原東陽邸宅」模型。「松岡利紀(としのり)(拙鳩)翁碑銘」拓本。そして「耕餘塾常設展示」へ。右側、正面の展示。近づいて。「はじめに明治の初め私たちの藤沢市の羽鳥に『耕餘塾』という素晴らしい学校がありました。ここでの教育理念は、『人間の育成』で多くの人が高度な中等教育を受け、後に日本の近代化に貢献しました第二次世界大戦後の日本の復興を成し遂げ、名宰相と言われた吉田茂元総理大臣も、11歳からここで5年間学び、政治家となる資質を成長させました。明治5年(1872)に羽鳥村の大地主であった三觜八郎右衛門(本家)と三觜小三郎(分家)が、著名な漢学者小笠原東陽を東京から招き、廃寺を教場に、私塾「読書院」をはじめました。しかし明治政府の(学制)の施行に伴い、翌年「読書院」は公立の小学校に位置づけられました。そこで東陽は学齢の高い子弟には漢学を中心にした中等教育を存続します。明治10年(1877)新し塾舎も新築され「耕餘塾」が誕生しました。塾の名称はこのあと二回変わりますが、ここでは一貫して社会で役に立っ能力を身につけることと、よき人間作りをめざしました。さらに時代の変化とともに英語など西洋の学問を取り入れてゆきます。東陽は、明治二十年(1887)病気のため五十八歳で他界します。その後、娘婿の松岡利紀が塾長を継ぎ、教員を増やし新しい教科を加えるなど内容の充実がはかられましたが、明治三十年(1897)、暴風による塾舎の倒壊で閉塾を余儀なくされました。「読書院」に始まった「耕餘塾」の二十五年で学んだ生徒は、千人を超えていました。吉田茂はじめ、「味の素」の創業者鈴木三郎助兄弟、医者で民権家の平野友輔衆議院議員、山梨半造陸軍大将、外山亀太郎農学博士ほか、多くの政治家、実業家、教育者などがこの塾で学び社会で活躍しました。小笠原東陽と松岡利紀の両先生が私学教育に尽くした功績は不朽のもので、藤沢市民の誇りとするものです。この教育理念を風化させることなく後世に語り継ぎ、教育の大切さを再認識したいと思っています。 明治郷土資料館」下部の写真は「第13代目三觜八郎右衛門(佐次郎)」(左)「旧三觜八郎右衛門家住宅 薬医門」(右)「耕餘塾の始まり 「読書院」から「耕餘塾へ」明治の初め頃、羽鳥村は貧しい家も多く、学問や教養は低く、大人はお酒や賭博に染まり、こどもたちの一部に旅人にお金をねだるという良くない風習がありました。教育の必要性を強く感じていた三觜家の人々は、池上本門寺の南谷壇林で僧侶などに漢学を教えていた小笠原東陽を羽鳥村に迎えることとしました。前年に三觜家に八日間招かれ歓待され、良い印象を持っていた東陽は、快く羽鳥村に移って来ました。明治五年(187)三月廃寺「徳昌院」を教場として『読書院』が始まります。当初は教育の必要性の感じていない人々で、学問を学びにくる人は希でした。三觜家の呼びかけで仕事を終え夜しぶしぶやって来た人々に、東陽は、たくみな話術で水滸伝を語り、論語や孟子の話をしました。その面白さに人々は感動し、親しみを持つ人が増えてゆきました。さすが昌平黌(江戸幕府の昌平坂学問所)出身の先生だ、という評判を聞いた人々が自分の子供を通わせるようになり、ここで学ぶ子供の数が増えて行きました。この年八月には明治政府の学制」が公布され、各地に公立小学佼を作ることになりました。羽鳥村では、翌年「読書院」が「耕餘学校」(のちに「羽鳥学校」)と改称され、現在の明治小学校の前身となる神奈川県で最初の公立小学校となりました。一方、東陽は、広く社会的な教育を考え、学齢の高い子弟に特別に中等教育を続けることとしました。東陽はこの公立と私塾の両方の教師でした。」*三觜家の人々代々羽烏村で名主を務めた大地主の家で、明治時代まで代々三觜八郎右衛門を名乗ってきた。羽島村の農民の4分の3が同家と小作関係を結んでいたといわれている。土地の指導者として、教育にも熟心で、身内の人には教育を受けさせた。三觜八郎や三觜茂市(幼名は治香)が池上本門寺の壇林で東陽から学んでいた。八郎はその後、京都の同志社で英学を修め、耕餘塾で教えた。*小笠原東陽先生の人となり1830 (天保元年) 9月13日、岡山県勝山藩士小笠原忠良の三男として江戸谷中で誕生、三歳で父を失う。姫路藩士奥山家の養子になるが、幕末に小笠原の本姓に戻る。東陽、半漁と名乗るのは、羽鳥村に来てからになる。26歳のとき昌平坂学問所(昌平黌)に入り、高名の儒学者佐藤一斎及び安積良斎のもとで約4年間学び、その後、林家の藕潢塾に移り漢学をめた。1861年姫路藩に戻り、江戸邸学問所の学頭助として教育に従事する。38歳の時、士録を返し平民になる。1869年池上本門寺の南谷擅林で4年間漢学を教える。当時の家族は、夫婦、子ども4人と義母の7人である。生活は、なかなか大変だったようだ。1887年(明治20年) 8月2 0日逝去。「東陽の中等教育は大きな成果を上げ、近隣の村や町から生徒が集まってきました。学年、学科、規則などきちん定められ、高度な教育内容でした。名声が高まるにつれ、寺の教場は狭くなり新しい塾舎を立てることになりました。明治十年(1877)、三觜八郎右衛門が提供した六百坪の土地に塾舎が完成しました。工事費千数百円は、有志によって賄われました。新塾舎は、講堂、寄宿舎、炊事場、浴室、井戸があり、運動場もありました。新塾舎完成を機に、塾は『耕餘塾』と命名され神奈川県に届けられました。「耕耘収穫の余力から耕餘」、すなわち「農作業をしたうえで、なお余ったカで勉学を行う」。労働と学問の両立をめざして付けられたのが『耕餘塾』です。「耕餘塾」では、「読書院」時代よりさらに、学科、教科書、教員など充実させました。年に八十人から百人近くの塾生が学び、社会に出て活躍しました。耕餘塾では、漢学は重要な位置を占めていました。塾生は、漢文で作文を書き、漢詩も作っていました。これ塾生の漢詩や漢文作品を集めて明治十三年から十九年までに、第六集までの『耕餘集』を発刊しています。」「英学を入れての「耕餘英和学校」そして東陽死去文明開化を謳歌する明治時代、政府は欧米の新思想や学問を取り入れることに積極的でした。中でも実証的、経済的なものがもとめられ、ミルやスペンサー系の学風が好まれました。そういう時代の流れをうけ、「耕餘塾」も欧米の語学や思想を教科に取り入れます。明治十八年(1885)、名称を「耕餘英和学校」とし、塾教則を改正し、「本塾は専ら英漢学を修めるものとす」とします。初代文部大臣に森有礼がつき、小学校から大学令までの法令と、新育行政改革によって教育改革が具体化されます。これを受け東陽も塾を改革しました。しかし、東陽は前年ごろから肺の病気にかかり、塾の運営が困難となり、塾を三觜八郎右衛門と金子小左衛門に託します明治二十年(1887)になり、東陽の病が重くなり、八月十ニ日、家族に看取られ五十八歳をもって永眠しました。「耕餘英和学校」の校長には、長男で医者の小笠原鐘がなりました。」「鈴木 三郎助(2代) (1867~1931) 明治~昭和の実業家慶応3 (1861)年12月三浦郡堀内村(葉山町)、米穀酒類商鈴木三郎助(初代)の長男として生まれる。幼名泰助、のち三郎助(2代)を名乗る.明治10 (1877)年羽鳥村(藤沢市)の小笠原東陽の耕餘塾に学び、その後明治13 (1880)年、浦賀の酒商加藤小兵衛商店へ奉公した後、明治(1884)年に家業を継ぎ、酒類や穀物などの販売店を営んだ。この頃、母と妻は昆布からヨードを作る仕事をしており、明治23 (1890)年、弟の忠治(耕餘塾に学んでいる)らと海藻「かじめ」を原料にして沃度の製造を開始した。沃度ホルム・沃度加里・硝石などの製造にも力を注ぎ、明治39 (1906)年3月関東沃度製造同業組合を組織し組合長となる。明治41 (1908)年10月池田菊苗博士が発明したグルタミン酸塩を主成分とする新調味料の製造に着手し、翌42 (1909)年「味の素」として売り出した。大正6 (1917)年、株式会社鈴木商店(味の素株式会社前身)を設立する。一方、同年東信電気会社を創設し電気事業にも尽力した。昭和6 (1931)年没。享年65歳であった。」「耕餘塾に学んだ元内閣総理大臣 吉田 茂10の出来事でたどる吉田茂の生涯(左)1889 (明治22)年に、耕餘義塾に入学。1894 (明治27)年まての5年間在学する。ここでの高度な教育が、名外交官ならしめ、名宰相として戦後の復興の原動力となった。在学当時のことについて、秘書官の杉浦徳氏に「耕餘塾の時、近くにタ食の豆腐の買い物に行かされてね。ところが、豆腐屋と塾の間に溜池があるんだ。そこに狐が出るという噂があった。薄暗いなかを溜池のそばを通り過きる時、さすがに恐ろしくて震えたもんだよ。」ともらした。三觜ハ郎右衛門の長男舜太郎氏(吉田茂と同門の親反)の夫人ヒサさんは、「元気のいい人で、木登りをしていたことを覚えています。子どもの頃の茂さんは頭が良くて、書いた論文が立派だったのが頭に残っています。」と語っている。茂の三女麻生和子さんは著書『父吉田茂』の中て、「スイカを割らずに食べる方法を知っているかい」と聞かれ「ムギワラを突っ込んて吸い出すと、甘い中身だけが吸い出せる」と子ども時代のことを得意そうな顔をして話したと書いている。1967 (昭和42)年逝去。享年89歳。」「小笠原東陽」の筆のものか?そして左側の展示。「多士済々の塾生たち藤沢の羽鳥の地に明治三十年まで二十五年間続いた「耕餘塾」からは、昭和二十年代戦後の復興に貢献し、名宰相と言われた吉田茂を始め、政財界、学術界、自由民権家など明治維新後の日本の近代化に大いに貢献した人材を多く世に送り出しました。小等原東陽の時代からは、平野友輔、牧野随吉、ニ代目鈴木三郎助兄弟などがあげられます。平野友輔は衆議院議員になり、神奈川県で医師会を創立させています。牧野随吉は、神奈川県会議員になり、綾瀬のみならず神奈川県の政治・農政など幅広い活躍をします。「耕餘塾」では優等生で助教や寮長を勤めています。二代目鈴木三郎助は、味の素を売り出し、世界的な会社を創り上げます。松岡利紀の時代の代表は、なんと言っても吉田茂です。「耕餘塾」に十一歳で入塾し、五年間学びます。ここでの勉学が名宰相になる礎を創り上げていったのです。他にも多くの人材を輩出しました。」「新体制なる耕餘義塾明治ニ十一年(1888)、東陽の長女の夫・松岡利紀が塾長となりました。明治〇〇年、名称を「耕餘義塾」と改め、寄付などを集め、充実を図ります。松岡塾長は、自ら「源氏物語」や「平家物語」などを書き写し教材とし、日本の古典文学の教育にも力を入れます。「耕餘義塾」の学科は、中等教育ということですが、高度の教育がなされていました。このころ「慶応義塾」と「耕餘義塾」の関係が密接になります。「慶応義塾」から教師が迎えられたり「耕餘義塾」の塾生が「慶応義塾」へ入塾できるようになっていました。この時代に、吉田茂は「耕餘義塾」で五年間学びます。塾の教育がいかに高度であったかを物語る例として、吉田茂の論文があります。内容といい文章といい素晴らしい論文を今の中学生の年齢で書いています。」写真:松岡利紀先生の墓(汲田墓地)。「「耕餘塾」の諸先生開設当時は、東陽が一人で教えていました。「耕餘塾」の評判が上がり生徒が増えるにつれて、塾生の中から助教師を選び教えるようになりました。牧野隨吉・三觜(飯島)昇・加藤松之助・山梨半造・石上憲定など十数名が明らかになっています。明治十八年頃からは漢学中心から英語や洋学を取り人れ、学科の充実を図っています。この頃から積極的に外部から教授陣を人れるようになります。特に「慶應義塾」出身者が多く教授人に名を連ねています。「慶應義塾」出身者としては、教頭兼幹事を勤められた内山(村上)守倫、小沢(久保)市三郎(英語)、田中元次郎(英語)他がいました。そのほか、「同志社」出身の三觜八郎(英語)、外国語学校出の杉野鉾太郎(数学・英語)、「宮城師範」出の対馬運作(数学)などがいました。」「「耕餘塾」と自由民権運動明治政府は、日本の近代化に取り組んできました。封建時代の士族が没落し、不平氏族が鹿児島の西郷隆盛の下に集まり新政府と戦います:この西南の役後国会開設を求める言論運動が盛んになります。この自由民権運動は、憲法の制定・議会の開設・地租の軽減・言論の自由や集会の自由などの要求を掲げ、明治二十三年の帝国議会開設まで続きました。板垣退助や大隈重信などが活躍した明治の自由民権運動には、「耕餘塾」の塾生や父兄の四、五十名が参加し、日本の近代化に大いにカを発揮しました。主な民権家としては、村野常右衛門、平野友輔、小笠原鍾、武藤角之助、牧野隨吉、大島正義らが挙げられます。東陽は、よく「平民は天民なり、天民は不羈(ふき)なり」と言われていました。(耕餘第二集序)これからは平民の時代だという強い信念を持って指導されました。「耕餘塾」は、若き塾生たちが新しい民権思想を自由に学べる場になっていたのでしよう。」「耕餘塾年表」。●明治5年(1872年)3月 - 羽鳥村の廃寺であった、徳昌院の庫裏を校舎として、名主の 三觜八郎右衛門が、小笠原東陽を招いて郷学校読書院を開設する。●明治5年(1872年)8月 - 学制により、読書院は羽鳥学校(現在の藤沢市立明治小学校)に 改称され、生徒の多くはこちらに移ったが、小笠原東陽は、これとは別に読書院を私塾として 存続させる。●1878年(明治11年) - 入塾者が増加したため、新校舎を落成し、塾名を耕余塾に改め、 変則中学となる。●1887年(明治20年)8月 - 小笠原東陽が没し、松岡利紀(東陽の娘婿)が塾長となり、 耕余義塾に改称する。●1896年(明治29年)11月16日 - 耕余義塾卒業生の慶應義塾高等科第三等第一期への 無試験編入の契約を結ぶ。●1897年(明治30年)9月8日 - 大風で全学舎が倒壊する。●1900年(明治33年)8月31日 - 再建できず、閉塾する。「耕餘塾舎」案内図。「東陽先生旧宅」案内図。拓本「小笠原先生碑」。この石碑は「耕餘塾跡」に立っていたのであった。「養命寺」。養命寺 本尊「木造薬師如来坐像」。「お地蔵物語」。「東海道鐵道寿語録」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.12.30
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「本立寺」を後にして、道路の反対側にある「明治市民センター」に向かう。「明治市民センター」前の黄葉。「明治市民センター(明治公民館)」2階に、地域のボランティアである明治郷土史料室運営委員会により運営されている「明治郷土史料室」があった。東海道筋の歴史や耕餘塾など、藤沢市明治地区の歴史・文化史料を展示していた。明治地区には、藤沢市の教育施設の先駆けとなる耕餘塾という私塾があり、教育者小笠原東陽らが指導に当たった。後年総理大臣となる吉田茂をはじめとし、多くの政治家・実業家・教育者・社会活動家を輩出し、日本の発展に大きく貢献した。ここ明治郷土史料室にて、旧三觜八郎右衛門家住宅、耕餘塾の貴重な資料を見ることができたのであった。資料館の入口にあった灯籠。その下にあったのが「「わがまちの文化財」~仏像と石造物を中心に~展」案内書。「「わがまちの文化財」~仏像と石造物を中心に~展私たちが暮らしている明治地区に残されている仏像や石造物について近年明治地区においては大規模マンション建設や宅地化が進み、石造物の移動や逸散(散逸)が危惧されることから 2019 年に明治地区の辻堂神台・城南・羽鳥と大庭及び稲荷地区の一部にわたり、その現況を再調査し、石造物と地域住民とのつながりや歴史的意義について後世に伝えることを目的に実施し「明治地区石造物調査報告書」としてまとめました。石造物の多くは、江戸時代の庶民信仰の対象として造立され、露座で数百年の風雪に耐え先人の祈りを伝えてくれています。 明治地区には、まだ多くの石造物が残されており、現在では主に神社や寺院の境内に移設され、大切に保存されています。しかしながら年月の経過に伴い、失われていくものも多くあります。今回、石造物調査報告書より主なものを取り上げ、表題「わがまちの文化財~仏像と石造物を中心に~」として企画展示しました。●展示期間:2023年9月5日(火曜日)~2023年11月30日(木曜日)●時 間:午前10時~午後3時●休館日:日曜日、月曜日「わがまちの文化財~仏像と石造物」展。「明治郷土資料室」。「明治郷土史料室の主旨わが住む町明治地区は、歴史に裏付けられた古くから有形無形の文化が育まれてきました。特に明治初期に羽鳥に在った耕餘塾は、戦後日本の再建に多大の貢献をした名宰相吉田茂をはじめ多くの政治家・実業家・教育者・社会運動家等を輩出し、日本の近代的発展のために多大なる貢献をしました。これら耕餘塾を中心とする私たちの誇れる郷土の文化・歴史遺産を風化させることなく後世に残し、日本の教育・社会の発展のための一助となることを多くの住民が強く望んでまいりました。明治地区に残る文化・歴史資料を発掘し、展示することで、この明治地区の文化・歴史を一人でも多くの方々に知っていただきたいと思います。ここに明治市民センターの改築に合わせ明治郷土史料室としてスタートいたしました。 平成19年3月28日 明治郷土史料室運営委員会」入口近くにあったのが「耕餘塾」の模型。正面から。「耕餘塾 制作者:磯谷二郎氏」。そして「旧三觜八郎右衛門家住宅」の模型。「旧三觜八郎右衛門家住宅」は、明治11年(1878年)に13代八郎右衛門が建てたもの。良材をふんだんに用いた質の高い造作で、2階座敷をもつ民家として極めて早期の例であること、洋風意匠を加味した商家風の家構えからは旧東海道沿いの富裕な地域性も反映されている点等が評価され、平成25年(2013年)に国登録有形文化財に登録された。廻り込んで。位置を変えて。「旧三觜八郎右衛門家住宅」1階平面図。「旧三觜八郎右衛門家住宅」2階平面図。2022年に取り壊しされた羽鳥の国登録有形文化財「旧三觜八郎右衛門家住宅」を忠実に再現した50分の1の模型が2021年11月17日、明治市民センターに寄贈された。寄贈したのは大和市の五十鈴中央(株)(本郷正信社長)。本業の自動車や家電の鉄板を扱う三次元測定技術を生かし、3Dデータ化。それを基に保存・活用してもらおうと模型を作った。寄贈式には鈴木恒夫市長や明治郷土資料室運営委員長の三觜清次さんら関係者が出席。本郷社長は「郷土愛あふれる藤沢に向け、子どもたちの興味、関心を持つきっかけになれば」とコメント。鈴木市長は「素晴らしいプレゼントをいただいた」などと感謝を述べた と。2014年1月15日(水) ~ 3月30日(日)の展示期間で開催された「旧三觜八郎右衛門家住宅展」案内書「国登録有形文化財(建造物)指定記念旧三觜八郎右衛門家住宅展今回の展示の趣旨明治初期に建築された「旧三觜八郎右衛門家住宅(主屋・門・石塀)」が、国国登録有形文化財(建造物)として、平成26年1月に認定証が授与されることとなりました.今回、有形文化財認定を記念し建造物を中心に紹介する特別企画展示を開催します。建物を活かし、文化を生かす。わが国には、建造物や絵画・彫刻・考古資料なと、歴史的な価値をもつ有形物のうら、歴史・芸術上、学術上価値の高いものを保護する制度があります。国のほか、各都道府県や市町村も、それぞれの条例によって文化財指定の制度を定めています。指定文化財は、後世までそのままの姿で長く継承する事を目的にしています。指定文化財を補い、もっと幅広く多様な建造物を保護する仕組みとして、国の制度として「登録有形文化財」があります。国に登録して、それを公開することによって社会全体で保護することになります。この度、旧三觜ハ郎石衛門家住宅が、薬医門と石塀と共に「登録有形文化財」に登録されました。明治郷土史料室とは・・・私たちが住むこの明治地区には、歴史に裏づけされた古くからの有形無形の文化が育まれてきました。特に明治期に羽鳥の地にあった耕館塾は、名宰相吉田茂をはじめとする多くの政治家・実業家・教育者・社会活動家などを輩出し、日本の近代的発展のために多大なる貢献をしましに。郷土資料室は、これら耕餘塾を中心とする私たちの誇れる郷土の文化・歴史遺産を風化させることなく後世に残し、教育・社会の発展の一助にとの思いで設置されました。明治地区に残る文化・歴史史料を発掘し、展示をすることで一人でも多くの方に知っていただきたいと思います。 明治郷土史料室運営委員会門 ー薬医門、その他の門いろいろー三觜家の正門は、格式の高い「薬医門」です。昔は、公家や武家屋敷の正門などとして用いられました。扉をなくして医者の門として用いられたのでこの名前が付きました。また矢の攻撃を食い止める「矢食い(やぐい)」から来たとも言われています。この薬医門は、この近隣でも寺院や元名主だった家などに残っています。特徴ある門の種類👈リンク三觜家について「藤沢郷土史」(加藤徳右衛門著)の中で三觜家の事に触れている。当家の三代目三觜出◯は原野を開拓し羽鳥郷を開拓し、三觜家の地位を固めました。十代目の三觜大助という人も優れを人物で三觜本家が「大三觜」と呼ばれるのは、この人に由来するとのことです。江戸時代になって名主制度ができ、三觜家は名主役を明治4年(1871)まで勤めました。13代八郎右衛門(佐次郎) 10代目の大助に劣らず人格に優れ、温厚寡黙な人で、勤めて産業の興隆に意を注ぎました。引地脇の山上の原野に広大な茶畑を作って製茶業を興し、相模小麦の特徴を利用して醤油醸造を開始しました。近代の三觜八郎右衛門家が地域に貢献したした最も大きな事業は、教育活動と言えるでしよう。13代八郎右衛門(佐次郎) は地域の風習が荒んでいることに心を痛め、当時池上本門寺で漢学を教えていた小笠原東陽先生を招聘して、郷学校(幕末から明治初年にかけて民間の有志が設立した学校で廃寺の徳昌院を利用したもの。東陽は読書院と命名)を設立しました。その後、東場は学制の発布によって名称を耕余学舎に変更しますが、明治10年三觜家等の助力で公立の小学校(藤沢市立明治小学校の前身)と別に私立「耕餘塾」を新築しました。塾の名称は東陽没後耕餘英和学校、耕餘義塾と変わり明治33年閉校するまで政治家や実業家、教育者など近隣地域のリーダーとなる数多くの人材を輩出しました。三觜八郎右衛門(佐次郎)は、子息舜太郎を同校に学はせただけでなく、経済的援助を惜しみませんでした。同塾の寄宿舎は、同家の家屋の一部を提供したもので、同家の徳を慕って多くの卒業生が卒業後も訪れています。元内閣総理大臣吉日茂も同塾卒業生で、若き日に三觜ハ郎石衛門(佐次郎)へ宛てた書状に「錦地(耕余塾のあつに羽の地)は小生の第ニの故郷」と記しています。同家1 4代となる舜太郎(1867 ~ 1953 )は明治40年に合併した藤沢町で町会議員(大正3年から1期4年)、同町学務委員(大正8年から1期4年)を務めていますが、地方財界に進出し、地域開発も手がけるなど地域の発展のために尽くしました。明治後期の藤沢では、全国の地方商業都市と同じく地方銀行が設立されますが、舜太郎は藤沢に本拠を置いた「関東銀行」に出資して取締役(重役)になり、またJ R相模線の前身である相模鉄道(大正6年設立)では、取締役から2代社長(大正12年~ 14年)を務めています。地域開発では羽鳥山に「別荘的住宅」羽鳥山住宅を開き、昭和初年に分譲を開始しています。明治早期に13代ハ郎石衛門(佐次郎)によって建てられた三觜家住宅は、現在三觜舜太郎の孫娘である◯◯京子氏が所有され、三觜家の名代として継続して守ってきています。」「登録有形文化財第14ー0182ー0184号この建造物は貴重な国民的財産です文化庁」「わがまちの文化財~仏像と石造物を中心に~展」。「わがまちの文化財~仏像と石造物を中心に~展趣旨私たちが暮らしている明治地区に残されている仏像や石造物について近年明治地区においては大規模マンション建設や宅地化が進み、石造物の移動や逸散が危惧されることから2019年に明治地区の辻堂神台・城南・羽鳥と大庭及び稲荷地区の一部にわたり、その現況を再調査し、石造物と地域住民とのつながりや歴史的意義について後世に伝えることを目的に実施し「明治地区石造物調査報告書(明治地区郷土づくり推進会議歴史文化部会)」としてまとめました。石造物の多くは、江戸時代の庶民信仰の対象として造立され、露座で数百年の風雪に耐え先人の祈りを伝えてくれています。明治地区には、まだ多くの石造物が残されており、現在では主に神社や寺院の境内に移設され、大切に保存されています.しかしながら年月の経過こ伴い、失われていくものも多くあります。今回、石造物調査報告書より主なものを取り上げ、表題「わがまちの文化財~仏像と石造物を中心に~」として企画展示しました。」「藤沢市明治地区の石造物 鶴見大学文学部文化財学科 教授 緒方啓介藤沢市の石造物ついては、昭和58年度から平成五年度までの10年問にわにり実施された藤沢市文化財総合調査によって、ほぼ全市域の悉皆調査が終了しており、その成果は『籘沢市文化財総合調査報告書(以下、『報告書』と省略する)第一集から第十集により出販されている。当時、藤沢市文化財保護委員長をされていたのが石造物の研究者であった故服部清道博士であったため、藤沢市では数多くの石造物や建造物や有形民族文化財として指定を受け、保護されている。筆者は、当時神奈川県社会教育指導員として藤沢市教育委員会に嘱託職員として在籍し、文化財総合調査の事務局兼調査員として仕事をしていた。今回、明治地区郷土づくり推進会議が行った石造物調査は、明治地区の辻堂神台・城南・羽鳥と大庭及び稲荷地域の一部にわたり、その現況を再調査し石造物と地域住民の生活とのつながりや歴史的意義を周知して、後に伝えることを目的としている。明治地区の石造物については、すでに平成元年刊の『報告書』第四集に所収されているが、すでに30年を経過している。この間の明治地区では大規模マンションや宅地化が進み、石造物の移動や散逸が危惧される点からも、今回の調査は意義のあるものといえる。今回行われた石造物調査は、明治地区に残される石造物のごとく一部の確認調査にとどまっているが路傍で風雨にさらされる石造物は日々劣化している現状が確認された。また開発などで散逸したり盗難にあう石仏も出てくる可能性も考えられる。これらを最小限に防ぐ対第にしては、日々地域住民が先人の残した歴史遺産に敬意を払い、未来に守り伝えていく気持ちを忘れないようにすることが大切である。」1、石造物の種類(1)石仏*仏像塔 釈迦・阿弥陀・薬師などの効果、観音・地蔵・弥勒などの菩薩、不動・愛染などの明王などの 仏像に、無病息災や諸願成就などを祈って造立される。また近世においては、 蓮弁型に各尊を浮彫りする像塔に戒名などを刻んで墓石とすることが流行する。さらに 近世には地蔵菩薩への信仰が盛んとなり、街道筋や村の辻に旅人の道中安全を祈って 地蔵菩薩像を造立したり、「縛られ地蔵」・「とげぬき地蔵」・「子育て地蔵」などの民問信仰 も生まれた。また地域の伝承などから生まれた「岩船地蔵」や「舟地蔵」などもある。 その形態は、仏像を丸彫り又は浮彫りにする像塔や尊名を刻む文字等がある。*六地蔵 地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天の六道を司る地蔵として六体の地蔵菩薩を表す六地蔵 がある。墓地に造立される六地蔵は死者の追善や先祖供養を目的としたものが多く、路傍に 造立されるものは村内に厄災が入り込をのを防ぐ目的が多いようである。その形態は、六体の 丸彫像や浮彫像を横一列に並べるものが多いが、四面や六面の石柱に六地蔵を浮彫りする 石幢型もある。*弘法大師像・相模国準四国八十ハカ所霊場塔 真言宗の開祖空海の石像は、真言系寺院で、宗祖として安置される。その形態は、右手に 五鈷杵、左手に数珠をとる丸彫りの弘法大師像で、基壇に造立年や札所名などが記されている。(2)基碑・墓石 *五輪塔 仏教の字宙を構成する「地・水・火・風・空」を表す石造卒塔婆で、平安時代後期から墓石や 供養塔として各地で造立された。その形態は、下から基壇=地輪、塔身=水輪、笠=火輪、 受花=風輪、宝珠=空輪の五石ならなる。また古形式のものは各輪に五大を表す梵字を 刻むのみであったが、室町以降になると地輪に戒名や命日が刻まれるものも多くなる。*宝篋印塔 本来は「宝篋印陀羅尼経」を納めた塔であったが、次第に生前の逆修や死者の追善の ための供養塔として造立されるようになり、鎌倉時代にはすでに墓碑塔としての性格を備え ていた。その形態は、十世紀に呉越王銭弘俶がハ万四千基を造立した阿育王塔が原型と考え られる。下から基礎・反花・基壇・塔身・四隅に隅飾突起を備えた笠部・九輪・受花・宝珠 を表す。*板碑 中世を通じて造立された板状の石造卒塔婆で、本来は供養塔の意味が強いものであるが、 墓石として用いられた例もある。関東地方では群馬県や埼玉県を産地とする緑泥片岩が多く 用いられる。その形態は、仏教宗派でまちまちで、浄上教系では念仏を刻んだ文字塔や阿弥陀 三尊などを浮彫りした像塔、密教系では大日や阿弥陀如来などの種子を刻んだ文字塔、 日蓮宗系では題目を刻んだ文字塔などである。*無縫塔 卵塔とも呼ばれる僧侶の墓石で、鎌倉時代に中国南宋から禅僧により請来された形式と いわれる。その形態は塔頂円形で、室町時代以降は長卵形の無縫塔が宗派を超えて流行した。「辻堂神台」の石仏・石碑・石塔。・本立寺 阿弥陀如来像、開祖佛眼院日顕上人像、石像・伊勢屋墓地 墓碑・光明真言供養塔「城南」、「羽鳥」地区。「城南」の石仏・石碑・石塔。・一の鳥居(大山阿夫利神社)・大山道標不動尊 大山道標・二ツ谷稲荷神社 道祖神塔、庚申供養塔、石狗・山崎家墓入口 地蔵菩薩「城南」の石仏・石碑・石塔。「城南」の石仏・石碑・石塔(1/2)。「城南」の石仏・石碑・石塔(2/2)。石仏・石碑・石塔の写真。「羽鳥」の石仏・石碑・石塔(1/2)。「羽鳥」の写真。「羽鳥」の石仏・石碑・石塔(2/2)。その写真。「大庭」の石仏・石碑・石塔その写真。石造物位置図。調査石造物一覧(1/2)。近付いて。調査石造物一覧(2/2)。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.12.29
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この日は11月25日(土)、「「藤沢地名の会」明治地区(羽鳥・城南)の石造物と史跡を訪ねる」に参加。辻堂駅北口に9:30に集合。「羽島明治地区は、江戸時代までは東海道と大山街道の交通結節点として賑わい古くから交通の要街として発展してきた地区であるとともに藤沢市の教育発展の礎となった「耕余塾」がありました。今回、石造物と史跡を中心に明治地区を訪問します。【主な訪問地】本立寺・明治郷土史料室・ニッ谷稲荷・大山遥拝の大鳥居・四ツ谷不動・汲田基地・羽鳥市民の家(昼食)・耕余塾跡・御霊神社・城明神社・本願寺・おしゃれ地蔵・養命寺」定刻9:30になり、2Grに別れて散策のスタート。まずは今日の予定とこの地域の歴史についてのガイダンスが。「明治という地名明治22年の市制町村制施行時に辻堂 羽鳥 大庭 稲荷の4ヶ村が合併して明治村となり、明治41年に藤沢大坂町、鵠沼村と合併して藤沢町となるまでの間、明治村と呼ばれていました。かって明治村は全国に24ヶ所もありましたが、今は町村合併などで全て消滅してしまっています。現在藤沢市では行政地区のひとっとして城南、羽鳥と辻堂の一部をあわせて「明治地区」と称し、市民センターや公民館にその名を付けています。また市立の小・中学校、市民の家などにも明治という名称が使われその名残をのこしています。」と頂いたこの日の資料から。 「明治15年作成の地図に見る藤沢宿(藤沢駅)と周辺の街道」。まずは「本立寺」に向かって進む。「本立寺」の墓地の角にあった「題目碑」。そしてその前に座像がニ体。『南無妙法蓮華経 日蓮宗 寶光山 本立寺』 と「本立寺開祖 佛眼院日顕聖人像」。釈迦如来像。山門。ここにも題目碑「南無妙法蓮華経 寶光山 本立寺」側面には「除厄日蓮大菩薩 開運大寶光天子 霊場」。「本立寺當山は宝光山と号し日蓮宗に所属する。本尊は日蓮聖人尊定の十界勧請の大曼荼羅で、創立は文禄元年(一五九ニ)、日栄上人に依て清水市興津に創立され爾来三百三十余年経過したが、大正十三年九月三日、日佛法尼、日顕上人に依て現在地に移転し寺号を継承して現在に至る。以下 略」「今月の聖語獅子王は百獣に怖じず日蓮聖人ご遺文 「聖人御難事」=怖れない心=「大丈夫! 自分が今までやってきたことを信じて頑張れ! みんながついてるぞ!」。物事に取り組む時、不安に駆られ、ひるんでしまった経験は、誰にでもあることでしょう。私にも学生時代、試合に臨む時にコーチにそう励まされておじけづいた自分の心を奮い立たせたことがありました。自分の力が信じられなくなったり、自分には味方がいないのだと思い込んでしまうと、人はどんどん弱気になってしまいます。でも人生には勇気を持って突き進んでいかなければならない場面がたくさんあります。そんな時は自分を信じてみましょう。不思議と目に見えない力が働くことがあります。不信感や孤独感に陥ることなく、百獣の王・ライオンのような、いざというときに怖れない心・ひるまない心を養っていきましょう。◎日蓮聖人ご遺文『聖人御難事』日蓮聖人が身延の地から遠く離れた弟子や信徒に対して送られたたくさんのお手紙のひとつです。人びとを思いやり、苦難に遭遇したときの気の持ち方が説かれています。弘安2年(1279)58歳」狛狗(右)とその奥に寺務所狛狗(左)。本堂。近づいて。本堂の扉には「日蓮宗 宗紋 井桁に橘」。本堂の見ごたえある扁額「開運大寶光天子」。本堂・内陣。本堂を斜めから。本堂の「獅子鼻」も見事であった。正面に天水桶。こちらの天水桶には「五三の桐」紋。反対側の天水桶には「日蓮宗家紋」。本堂の壁には花頭窓。右手に「鐘楼」。梵鐘 南無妙法蓮華経 と。境内の右側に二体の仏像。釈迦像。ズームして。「中興開祖 寶光院神通日佛尼」像。近づいて。「當山 昭和五年八月廿八日寶光院神通日佛尼開祖 開祖七十ニ歳之時」。寶光殿遍照廟。遍照廟とは永代供養墓らしい。内陣。本堂前の石像(右)。これまた見たことのないユニークな地蔵狛犬。50cm程度の石像、由来不明。本堂前の石仏(左)。これまた見たことのないユニークな地蔵狛犬。同上。そして「本立寺」を後にして、藤沢羽鳥線の「明治市民センター前」交差点を渡る。再び「辻堂駅」方向に戻る。道路の反対側には、今訪ねた「本立寺」の姿が見えた。参道、山門、本堂を見る。 ・・・つづく・・・
2023.12.28
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「河口湖もみじ回廊」の先にあったのが「一竹美術館」。染色工芸家久保田一竹の作品を集めた美術館。富士山の荘厳な景色を望む庭や茶房も併設。久保田一竹は、室町時代に途絶えてしまった着物の染色技法、「辻が花」の再現に成功した人物。彼は再現に成功した後にさらに研究を重ね、独自の染色技法である「一竹辻が花」を完成させた と。「美術館正門」に向かって進む。インドの古城で使われていた木彫りの扉を再利用した「美術館正門」であると。撮影場所を移動して。正面入り口の扉は古い時代のインドの城門を移築したもの と。扉は分厚く、表面には鉄の突起が埋めてある。侵入者を許さないという意思のデザインなのだ と。正門を囲い込む様にあったモニュメント。モニュメント越しに館内の紅葉を見る。正門前から振り返って。小高い場所には小さい滝の姿が。小滝をズームして。移動して。更にズーム。更に、更に。「茶房 一竹庵」案内板。龍門の滝を見ながら、お抹茶、上生菓子が楽しめると。床には琉球石灰岩(サンゴ等の堆積岩)を敷き詰め、壁はその石灰岩の粉を使用した沖縄漆喰を施し、温かみのある空間を創っている。久保田一竹がインド、アフリカ、東南アジアより集めたインテリアを配し、様々な文化が渾然一体となったその室内は、悠然とした空間を演出しているとのこと。正門を入る。右手に新館、左奥に本館が現れた。新館は、外壁に砕いたサンゴとわらを混ぜて発酵させた沖縄漆喰(しっくい)を使った斬新なデザインの建物。屋根の上には緑がおい茂っていて、自然と調和した独特な美しさが感じられるのであった。そしてなんとなくスペインのガウディの建築を思わせる建物であったが・・・。本館は樹齢千年を超すヒバの木を16本大黒柱として使い、伝統的な職人の技と現代的なログハウス工法を融合して造られたピラミッド型の建物。吹き抜け状の内部からは、複雑な構造の木組みがすべて見えるのだと。本館に近づいて。この円形のモニュメントは?今回は「久保田一竹美術館」内の鑑賞はパスして戻る。「一竹辻が花」の作品をネットから。そして再び「河口湖もみじ回廊」を楽しみながら引き返す。夜にライトアップされると(ネットより転載)。そして「河口湖もみじ祭り」会場本部の公園軽食ブース会場に向かう。メイン会場周辺案内。多くの観光客が英語、台湾語そして日本語で語り合いながら、軽食を楽しんでいた。我々も広島焼きを楽しんだのであった。そして富士山の姿も楽しむ。左側の「河口湖もみじ回廊」を振り返る。そして駐車場に戻り、再び美しい裾野の曲線美を有する富士山の姿を。富士山はその独特の美しさで知られ、その姿はまさに自然の造形美の極み。その裾野から頂上にかけての曲線美は、まるで大自然が織りなす完璧な美のシンフォニー。優美な曲線が富士山の麓から頂上まで広がり、その流れるような形はまるで大地の息づきを感じさせるのであった。日の光や季節の移り変わりによって、富士山の姿は時に神秘的でありながら、常にその完璧な曲線美を誇示しているのだ。その優雅な姿は、まるで自然界の至宝であり、一度目に焼き付けたら忘れられない魅力を持っている日本の象徴の山なのであった。そしてこの日の全ての予定を終え「河口湖もみじ回廊」を後にして帰路につく。助手席のIさんが、富士山を我がカメラで追いかけてくれました。そして箱根を経由して進む。Iさんを箱根湯本駅で別れ、西湘バイパス経由で帰路についたのであった。自宅近くから富士山をズームして。晩秋を赤や黄色に彩る紅葉は、愛でる私の心を魅了したのであった。諸説あるようだは「もみじ」という単語は、「揉み出づ」から生まれた動詞「もみづ」に由来するともいわれているのだ。平安時代にはベニバナなどから染料を揉み出す行為を「もみづ」と呼んでいたとも。この言葉から派生した名詞の「もみぢ」は、イロハモミジなどの植物を示すわけでなく、染料が染み出すように草木が色づくこと自体を表わしているのだと。一般的に植物のもみじはムクロジ科カエデ属の総称で、イロハモミジの他にもオオモミジやヤマモミジなど日本には多くの種類がある。そのため、紅葉が重層的な色彩美を持ち、特に美しいとされているのだ。日本の紅葉・黄葉は日本にしかない紅と黃のBEST-MIXなのである。四季の中でもこの秋は豊かな色の変化から情緒を感じさせる季節。昔の人々も紅葉した葉を見て秋の深まりを感じ、この時期にしか味わえない日本の自然に触れていたのである。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2023.12.27
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我がブログも、昨日8:40過ぎにアクセス回数が700万回を通過いたしました。皆様の日々のアクセスに感謝申し上げます。600万回通過(2022.10.18)から434日目になります。600万回通過時と同様ですが、これからも毎日の出来事を『つれづれなるままに、日くらしパソコンにむかひて、心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ』 の精神で、あくまでも「備忘録」を主眼として、「継続は力なり」の精神でこのブログを書き続けて行きたいと思っています。文章の表現力も乏しく、誤変換や、内容を理解しにくい表現箇所も多々あると思いますが、我が儘にもあまり「読んで頂く」事を意識せず、あくまでも『自分を表現するツール』、『自分の学びのツール』として日々のブログを書き続けて行きたいと思っているのです。本日の我がブログへのアクセスありがとうございます。------------------------------------------------------------------------------------------------------そしてこの日の最後に訪ねたのが「紅葉まつり」が行われている「河口湖もみじ回廊」。河口湖湖畔の「KBH河口湖ボートハウス」近くの駐車場に車を駐め、散策開始。河口湖越しに富士山を見る。 山梨県南都留郡富士河口湖町河口。ズームして。そして手前にあった「山梨県道21号線・河口湖精進線」を渡ると右手に見えたのが「河口湖もみじ祭り」の会場本部。「第25回富士河口湖 紅葉まつり(2023年10月28日~11月23日)」開催中であった。メイン会場周辺案内。そして「もみじ回廊」に向かって進む。「もみじ回廊」河口湖を囲む山々の木々が美しい紅色に染まる秋の恒例イベント、富士河口湖紅葉まつり。メイン会場となる「もみじ回廊」は、梨川沿いに350m続く100本の巨木モミジが見事。また、夜はライトアップされた幻想的な紅葉と富士山の絶景を楽しむことができるとのこと。梨川沿いには、両側に散策路が設けられていた。梨川には水の流れはなく、役目を終えた落ち葉が一面に。写真撮影のスポットとして有名な「紅葉トンネル」。しばらくはキャプションなしで「もみじ回廊」をお楽しみ下さい。そして前方に「梁川橋」が見えて来た。河口湖にそそぐ梨川は大正時代に河川の氾濫を防ぐ目的で住民がモミジを植えたことに始まり、現在では2キロメートルを越える長さでもみじを楽しめる「もみじ回廊」として親しまれている。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.12.26
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「新倉山浅間公園 忠霊塔」にも多くの外国人観光客が。鉄筋コンクリート造で、1962年に完成した高さ19.5メートルの五重塔。戦争で死亡した市内出身者1055柱を合祀するために建てられた。毎年9月に戦没者慰霊祭が行われていると。「忠霊塔の由来Ⅰ 忠霊塔の概要 1 正式名称 富士吉田市戦没者慰霊塔(俗称:忠霊塔) 2 所在地 富士吉田市新倉3360番地の1 市立新倉山浅間公園内 3 構造等 ①鋼板一文字葺鉄筋コンクリート五層建 大阪四天王寺の五重塔を模している ②大きさ 基礎部分7.3m四方 1階床面積4坪(13㎡) ③高さ 19.5m(本体部分13m、相輪6.5m) ④総工費 9,368,884円 (工事費9,210,767円 事務費158,117円)忠霊塔建立の経緯富士吉田市戦没者慰霊塔(通称:忠霊塔)は、明治(1868年)以降の日本国として参戦した戦役(日清、日露、第一次世界大戦及び太平洋戦争)において戦没した市内出身者960余柱(現在1055柱)を合祀するため、市の援護会が中心となり、昭和33年8月12日に富士吉田市長を委員長とする富士吉田市慰霊塔建設委員会が設けられた。委員会は、その建設資金を旧下吉田町在郷軍人林を恩賜林組合に売却した300万円を基礎資金として、その他不足する部分を広く市民の浄財に寄り、昭和34年4月起工し3年間の工事期間を経て昭和37年4月に完成し現在に至る。平成26年7月 富士吉田市慰霊塔奉賛会 富士吉田市遺族会」「新倉山浅間公園周辺案内図」。右手の「富士吉田市」市街を見下ろす。道志山塊の山々・杓子山(1598m)・高座山(1304m)の姿か。そして再び「新倉山浅間公園 忠霊塔」横から富士山を。ズームして。「この展望デッキは、全国の皆さまからいただいたふるさと納税寄附により整備されました。令和2年度「新倉山浅間公園の展望デッキを増設し、多くの皆さんに日本唯一の眺望を楽しんでもらいたい!」をテーマにふるさと納税クラウドファンディングを実施したところ、全国から8,652人という多くの皆さまのご賛同をいただくことができました。 令和4年2月富士吉田市」「展望デッキ」。「展望デッキ」から富士山を追う。『桜(紅葉)・雪の富士山・五重塔』という代表的な日本の象徴を一望できるということで、タイ?のSNSで広まり、あっと言う間に東南アジアに広まったようです。東南アジアでのSNS発信、拡大が十分理解できる「これぞ日本」の光景なのであった。「展望デッキ」を後にして「忠霊塔」横から。頂部の「相輪・九輪」を見る。古くは仏塔の最上部にある塔身の上の覆鉢(ふくばち)に立てられたもので、1~13の重層よりなるもの。日本では塔の最上部におかれる青銅または鉄製の尖塔で、一般に九輪(くりん)という。下記写真はネットから。下から露盤(ろばん)・ 伏鉢(ふくばち) ・ 平頭(へいとう)・請花(うけばな) ・檫管(さっかん)・九輪(くりん) ・相輪風鐸(そうりんふうたく)・水煙(すいえん)・ 竜舎(りゅうしゃ) ・宝珠(ほうじゅ)で構成されている。「殉國之塔昭和三十七年四月二十一日建立」と。展望デッキの東側の法面の下、市街地を見下ろせる場所にあったの「李良枝 (イ・ヤンジ) 文学碑」。富士吉田市で育ち、37歳の若さで亡くなった在日韓国人2世の芥川賞作家、李良枝 (イ・ヤンジ) さん(1955~92年)の功績を後世に伝えようと、李さんの小中高の同級生らが計画した文学碑が同市の新倉山浅間公園に完成し、2016年5月の命日の22日、除幕式が行われた と。碑の言葉は、同級生らでつくる実行委員会の会長で同町の「湖みずのホテル」女将おかみ・山下淳子さん(61)らが選び、李さんが芥川賞の受賞スピーチで話した「韓国語で愛はサランと言い、人はサラムと言う。そして人の生そのものをサルムと呼んでいる」との一節と、その中の「愛」「人」「生」という文字を刻んだ のだと。「富士吉田市出身 第百回芥川賞受賞作家 李良枝 (イ・ヤンジ) 文学碑」。 「新倉山浅間公園 忠霊塔」広場から再び富士山を。ズームして。そして再び、富士山、紅葉・黃葉をカメラで追いながら、398段の「さくや姫階段」を下る。「位置図緩やかな遊歩道あります」と。225段目から階段と坂道と遊歩道に分岐しているのであった。225は「フーフー!!ゴメン」であろうか??紅葉の赤はまるで炎のような輝きを放っているのであった。その色は深く濃厚で、まるで宝石のような鮮やかさが。陽光の中で輝く赤は、木々を一層豊かな色彩で飾り立て、まるで自然が織りなす華やかな絨毯のように。白い雪に覆われた富士山頂付近、まるで天に届きそうなほどの威厳を持ってそびえ立っていた。その頂上の純粋な白さが青空と調和し、神々しささえ感じさせるのであった。風がそよぐたびに葉っぱが揺れ、赤い輝きが光を反射して、まるで大地が燃えるような壮観な景色を作り出していた。その赤は季節の変わり目を告げるシンボルであり、見る人の心に深い感動を。いつまでも留まっていたい空間なのであった。そして大きなヒノキの木。「子育て神木」と。「富士吉田市指定天然記念物新倉富士浅間神社のヒノキ平成六年二月一日指定所在地 富士吉田市新倉三三五三番地所有者 富士浅間神社ヒノキは日本特産種で、用材として優れているため需要が多く、ズギとともに各地で植林されているが、一般的にスギと比べて成長は遅い。この木は地上2.5 mくらいから南北二幹に分岐しており、分岐部には幼いスギの木が着生していることから、いつ頃からかは定かではないが「子育て神木」と呼ばれるようになった。樹勢は旺盛で樹形も良好であり、市内のヒノキの代表的な巨樹である。大きさは次のとおり。 一 根元の周囲 5.05 m ニ 目通り幹囲 3.70 m 三 樹 高 25.5 m 四 枝 張 り 東4.6 m 西5.5 m 南6.7 m 北5.6 m 平成六年三月 富士吉田市教育委員会」「三國第一山 富士浅間神社雨屋殿改建記念碑 平成十四年十一月吉日建之」そして、順序が逆であったが「新倉富士浅間神社」を訪ねた。由緒人皇第四十二代文武天皇の御代慶雲三年(西暦七〇五年)九月九日、甲斐国八代郡荒倉郷へ富士北口郷の氏神として祀られる。第五十一代平城天皇の御代大同二年(西暦八〇七年)富士山の大噴火があり八月二十二日当社に朝廷からの勅使が参向せられ、国土安泰富士山鎮火祭を執行し、その時、平城天皇より三国第一山の称号並びに天皇の御親筆なる大鳥居勅額・金幣・破魔宝面(勅使面)を奉納された。この破魔宝面は現在、富士吉田市の郷土資料館に展示されている。六十年に一度斎行される式年大祭「御更衣祭」は神社で一週間潔斎しながら神様の御召になる衣を織り御更衣する特殊な神事である。富士急行下吉田駅北方新倉山の中腹に鎮座し、緑の森に赤い鳥居が調和良く見える。階段を登ると左に手水舎、右に神楽殿、本殿は流造二間に二間半、拝殿は三間に七間の荘厳そのものである。神域は新倉山浅間公園として内外より親しまれ、多くの信仰を集めている。 赤い大鳥居と戦没者慰霊の五重塔「忠霊塔」は当地のシンボルとして眺望は随一である。 御祭神は・木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)・大山祇命(おおやまづみのみこと)・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと) の三柱の神様。と「新倉富士浅間神社」のHPより。「三國第一山 新倉富士浅間神社」。「手水舎」。龍の吐水口。社殿正面から。神楽殿。社殿に近づいて。新倉富士浅間神社は約1,300年前、文武天皇の御代慶雲3年(705年)に富士北口郷の氏神様としてお祀りされた。大同2年(807年)には富士山の大噴火があり、当社に朝廷からの勅使(天皇からのお使い)が参向され、国土安泰富士山鎮火祭が執り行われた。そして時の天皇である平城天皇より「三国第一山」の称号と御親筆による大鳥居の勅額、金幣、破魔宝面を奉納された。扁額「三國第一山 富士浅間神社」。内陣を見る。内陣を正面から。社殿の見事な彫刻。屋根には鬼の面が見えた。迫力のある形相で魔除けの役割を担うのだと。御朱印 授与所。御朱印を頂きました。「新社務所造営 境内整備事業 御奉賛のお願い当社は、慶雲三年(七〇五年)に創建されたと伝えられ、永きにわたり地域の守り神として御鎮座されております。近年では、富士山と桜と五重塔を一望できる景観が現在、日本を象徴するものとして、国内外から多くの方にご参拝いただいております。現在、当社の社務所は歳月の経過と共に老朽化が進み破損、傾斜が日立ち危降な状態となっており、このまま使用することが困難な状況になっております事から、この度、新社務所の造営、境内整備を計画いたしました。つきましては、時節柄大変厳しい状況の中、恐縮ではございますが、何卒趣旨をご理解頂き、皆様の御奉賛を賜りますようお願い中し上げます。令和四年十ニ月古日 三國第一山 新倉富士浅間神社各位 記一、募財日標額 三千万円一、奉賛金額 一口 金 五千円一、御奉賛に対する待遇 一口以上 境内に芳名を掲示いたします。 ニロ以上 記念品を贈呈いたします ※記念品は事業完了後にお送りいたします。」上記の絵画。以下2枚はネットから。桜の時期には!!桜、富士山、五重塔、これぞ日本の春の姿。神楽殿の右奥にあった「忠魂碑」。見事な紅葉の神社であった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.12.25
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そして次に訪ねたのが「新倉(あらくら)富士浅間神社」。「忍野八海」を後にして、カーナビに従い、富士急行線の踏切を通過し、右に左にと。ここ、新倉富士浅間神社は甲斐国八代郡荒倉郷(現在地:新倉地区)の氏神として705年に創建された神社。807年に富士山の大噴火があった際に、朝廷からの勅使による国土安泰を祈願する富士山鎮火祭が執行されたと伝わっており、その時、時の天皇である平城天皇より三国第一山の称号、並びに天皇の御親筆であり現在大鳥居にある勅額などが奉納されたとされている。この神社の魅力はなんといっても境内の美しい景色。富士山ビュースポットとしても人気で、真っ赤な鳥居から富士山と桜・紅葉が見える光景は思わず息を呑んでしまうほどの美しさ。神社から登った先にある新倉浅間公園にある忠霊塔(五重塔)と合わせて、写真映えするスポットとして国内外からの参拝客が後を絶たないのだと。他にも境内には「子育て神木」と言われる大樹や、美しい参道の石段など見どころ沢山。富士吉田の観光には外せないスポット と。山梨県富士吉田市浅間2丁目4−1。「新倉山浅間公園周辺案内図」係の方の案内で、臨時?駐車場に。そして散策開始。社号標石「三國第一山新倉富士淺間神社」新倉富士浅間神社は戦国時代、武田信玄の父・信虎が北条氏との戦にあたり境内地である新倉山に陣をとり当社で戦勝を祈願し勝利したことで刀を奉納されたといわれている。現在は災除け、家庭円満、安産、子育ての神として地域の人々をはじめ県外に渡って広く信仰を集めているとのこと。標石に近づいて。紅葉の下、「表参道」の石段を上って行った。両側にが桜の老木が。その先に紅葉・黄葉が。見事な紅に輝くモミジを追う。まるで燃えるように鮮やかで、風に舞うたびに優雅に揺れる姿は、季節の美しさを際立たせるのであった。その葉っぱの赤は、日の光を浴びるたびにさらに深まり、木々の中でまばゆい一部となる。その姿はまるで自然が描く最も美しい絵画の一部のようで、見る者を魅了し、心を和ませてくれるのであった。紅の輝きにズームして。鳥居の前の石段の途中には、多くの観光客の姿が。灯籠との和のコラボ。「両部鳥居(りょうぶとりい)」を見上げて。両部鳥居は、本体の鳥居の柱を支える形で稚児柱(稚児鳥居)があり、その笠木の上に屋根がある鳥居。名称にある両部とは密教の金胎両部(金剛・胎蔵)をいい、神仏習合を示す名残。四脚鳥居、稚児柱鳥居、権現鳥居、枠指鳥居などの別名がある とウィキペディア(Wikipedia)より。「境内配置図」。現在地は◯。ここにも見事な紅葉と黄葉のコラボが青空に映えて。そして「両部鳥居」手前から振り返ると。富士山の姿が真正面に。鳥居の扁額「三国第一山」。「三国第一山」とは三国(日本、中国、インド)において富士山は第一の山と言われがあるのだと。鳥居を潜って、鳥居越しに富士山を見る。ズームして。今年は富士山山頂の積雪が少ないのか?公園内広場には、富士吉田市による小型トラックによる「観光案内所」が開設されていた。鳥居の「笠木」越しに富士山の絶景を。正面に、富士山では最も新しい5合目近くの「宝永山の噴火口」の姿が。宝永山は、宝永4年の宝永大噴火で誕生した、富士山最大の側火山である。標高は2,693 m。この宝永の大噴火以降、現在に至るまで富士山は噴火していないため、この宝永山が富士山の最新の側火山になる。広場を移動して。横切るのは、中央高速道路・河口湖線。ズームして。さらにさらに富士山勇姿を移動しながら追う。そして「塩釜神社」。扁額「塩釜神社」。「社殿」。例祭・9月5日安産・子育て・子授けの神様 と。「塩釜神社」の手前右側には「句碑」が。「朴若葉 登(と)のみちからも 富士雲向」。くずし字の師匠に読み解いていただきました。若葉繁る初夏のこの場所からの富士山にかかる雲の動きを詠ったものであろうと。作者は?そして「咲くや姫階段」をさらに登って行った。「咲くや姫階段(398段)」。東南アジアの方々の姿が!!途中、階段の途中で一休みしなが、その都度振り返って。黄葉の石段トンネルを息を切らせながら登る。そして「愛宕(あたご)神社」。例祭・1月25日と7月第3土曜日火防様で火災・盗難除けの神 と。「火防の神 愛宕神社」。愛宕神社に祀(まつ)られている神様は火之迦(ひのか)具土(ぐつち)神(かみ)と申し、火を守る神様が祀られている。火は毎日の食べ物を煮炊(にた)きするため、灯りや暖をとるためなど生活に絶対必要なもの。また、一瞬に住宅が燃える悲惨な火事も火が原因。火は人の生活に必要であり、また、時には不幸な原因となる火を司る、火防の神が愛宕神社の神様である と。「謝恩 松井武君之碑」と。黄葉も負けじと。脇道の先では、結婚式の前?にウェディングフォトを撮る・「前撮り」?が行われていた。さらに「咲くや姫階段(398段)」を頑張って。こちらは紅葉のカオス。シンドくなるたびに、振り返って富士山の勇姿に励まされて。そして「咲くや姫階段(398段)」を制覇すると前方に現れたのが五重塔「新倉山浅間公園 忠霊塔」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.12.24
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翌朝11月22日(水)は5時に目が覚め温泉に向かう。そして7時からの朝食を楽しむ。そして9時になり、来年もこの保養所での再会を約束して、皆と別れる。私は、Iさんと河口湖周辺の紅葉を楽しんで帰ることとし、御殿場方面に我が愛車で向かう。途中、「乙女トンネル」を通過。「乙女トンネル」 日本道路公団所管の乙女道路の一部として造られ、昭和39年(1964年)10月開通。昭和59年(1984年)12月、料金徴収期間は30年の予定だったが、料金徴収を終了し無料開放された。トンネルの標高は810m、名称はトンネル上の乙女峠(標高1105m)に由来。そして「乙女トンネル」を通過すると、右手に富士山の勇姿が現れたので、「FUJIMI CAFE」入口に車を駐めた。静岡県御殿場市深沢1816。箱根外輪山の峠付近からの眺望は、富士山を正面に見据えることができ、眼下にはその裾野に抱かれた御殿場の市街を見下ろせるのであった。ズームして。さらに。今年は、例年より山頂付近の積雪量が少ないと感じたのであったが。そしてデジカメを、助手席のIさんに渡し、富士山の勇姿の撮影を依頼した。東名御殿場ICを通過し、国道138号を山中湖方面に進む。旅友が富士山を追う。東富士五湖道路を利用して進み、次の目的地の「忍野八海」に到着。天然記念物である「忍野八海」は、富士山の伏流水に水源を発する湧水池。富士信仰の古跡霊場や富士道者の禊ぎの場の歴史や伝説、 富士山域を背景とした風致の優れた水景を保有する「忍野八海」は、世界遺産富士山の構成資産の一部として認定されたのだ。山梨県南都留郡忍野村忍草。忍野八海周辺マップ。山梨県で絶滅危惧種に指定されている梅花藻(バイカモ)が忍野八海周辺の川で6月頃になると咲き始めるのだ。写真は御釜池から流れ出ている小川の梅花藻。多年生の沈水植物。葉は濃緑色で分裂し、流れに沿って1m以上に伸びていた。葉身は細かく裂け、糸状の裂片となり、水中で束になって生えている。これは、昔訪ねた時のバイカモの花の写真。そして前方に「水車小屋」。「涌池(わくいけ)」。「富士山世界文化遺産 構成資産番号:17 五番霊場 忍野八海 湧池」。忍野八海を代表する池で、珪藻土からなる水中洞窟からの湧水量は豊富で、セキショウモを揺らしています。昭和58年(1983年)この池の水がNASAのスペースシャトルチャレンジャー号に搭載され、宇宙で人工雪を作る実験に使用されました。木花咲耶姫(このはなさくやひめ)により湧出したという伝説があります。『いまもなほわく 池に守神の すへ(ゑ)の世かけて かわ(は)らぬぞしる』天保14年(1843年)に元八湖再興時に作られた東圓寺の版木を基にした神歌の書き下しです。振り返って、「忍野八海」からの富士山の勇姿を。「池本茶屋」前を歩き「中池」を廻り込んで。忍野八海は、富士山を水源とする8つの池の総称で、国の天然記念物や、世界文化遺産である富士山の構成資産に8つの池がすべて各々認定されている。ただし、この「中池」は忍野八海には含まれないが、観光客が一番集まる中池。実はこの「中池」は人工池であるとのこと。旅館のテニスコートの後に作られた個人の所有する池だとのこと。ここから富士山を背景に写真を撮る人は多いのでは。中池越しに土産物屋「忍野八海池本」を見る。風情あふれる、茅葺き屋根が店の目印。 茅葺屋根の一軒家.。建物は富士山麓の木を使用して造られたと。「日本名水百選地」。中池越しに富士山を。この中池は敷地の奥にある「池本荘」という民宿が掘削した池だと。そして、この中池の側に水車小屋を作りそこの石臼で挽いた蕎麦を出したり、茶屋等も経営しているのだと。ズームして。さらに。場所を移動して。土産物屋には大粒の「シャインマスカット」が並んでいた。そして中池の中心近くにあるのが水深は10m以上の円形の池。なんと忍野八海8つのどの池よりも深いのだと。中池・円形の池を泳ぐこの黄金の魚は鯉ではなくてアルビノの鱒。陽光を受けてとても美しい姿が見られるのであった。周りに立っている人がしっかり映るくらいの透明度。晴れた日の青色のきれいさは言葉が出ない程!!黄金の魚はアルビノの鱒。白子症(アルビノ albinism)とは、からだの色素が生まれつき不足している状態 と。青色はコバルト鱒と。周囲の観光客の姿が水面に映り込んで。池底に映る魚の影。この池が人工池であることを、何人が知っていたのであろうか?そしてこの池への正面からの橋は閉ざされ、土産物屋内を通過しなければ辿り着けない「シカケ」になっていたのであった。なんと建物の下から水が絶え間なくしたたり落ちているのであった。これも人工のもの。吐水口から富士山からの湧水が。これぞコバルトブルー!!旅友とのツーショットを。水車小屋方向を見る。左手前の橋が閉鎖されている橋。近づいて。左手前が閉鎖されているのがわかるのであった。池底から生えている藻の姿を。右手にも水車の姿が。そして次に「濁池」。「富士山世界文化遺産 構成資産番号:18 六番霊場 忍野八海 濁池(にごりいけ)」。文化年間(1804年頃)には、その名の通り濁っていたといわれていますが、現在は透き通っており、隣接する阿原川とともに美しい景観を作り出しています。みすぼらしい行者が一杯の水を求めたが断られ、池の水が濁ってしまったという伝説があります。『ひれふらす 龍の都の あらましき くみてしれとや にごる池水」そして阿原川の水草を帰路にも再び追ったのであった。富士の伏流水、よって湧き出るまでに、数年間?自然のろ過装置を通過した清水。大きな魚も泳いでいた。いつもの事だが、飛び交うのは他国の言葉・中国系の顔の台湾語、英語、そして・・・・。国内の人の何倍の人が来ているのか、他国の言葉が賑やかを通り越して・・・・。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.12.23
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「長安寺」を後にしたが、まだ保養所のチェックイン時間には早いので、芦ノ湖の駅伝ゴール先の広場まで車で向かった。折しも「箱根海賊船」・「ロワイヤルⅡ」が「箱根町港」に到着直前であった。そして「箱根町港」に到着。2013年3月20日(水・祝)に就航。18世紀にフランスで建造され、フランス艦隊の旗艦として活躍した第一級戦艦ロワイヤル・ルイをモデルとし、船内外の装飾、船体後部の特徴的な回廊など往時の雰囲気が再現。総トン数 315t船の長さ 35.00m船の幅 10.00m定員 565名(うち特別船室111名)主機性能 423kW[575馬力(ps)]2基航海速力 10.5ノット(最大速カ11.8ノット)芦ノ湖湖尻湖畔方向を見る。ズームして。天気が良ければ・・・、ネットから。そして暫くすると、乗客を乗せて「ロワイヤルⅡ」が動き出した。元箱根港に向けて出航。芦ノ湖遊覧船「はこね丸」。定員 700名総トン数 265.00トン航海速力 11.0ノット全長/全巾 27.50m/11.60m箱根旅行で多くの人が訪れる風光明媚な湖、芦ノ湖。遊覧船で優雅にクルーズする人も多い。その芦ノ湖には、「芦ノ湖遊覧船」と「箱根海賊船」の2種類の観光船が運航しているのだ。ひとつはこの「芦ノ湖遊覧船」、2023年3月から富士急グループの箱根遊船(株)が運営。十国丸、あしのこ丸、この、はこね丸の全3隻。石碑「The statue of Paul Schmidt」。1896年(明治29年)スイスの精密機械や理化学、医科器具等の代理店としてドイツのパウル・シュミット(Paul Schmitt、1872年 - 1936年)が設立し、後に医薬品のメルクや、光学機械のエルンスト・ライツ(現ライカ)の輸入代理店となった。レントゲンを初めて日本に輸入したのもシュミット商会であると言われている。シュミットは1906年(明治39年)外国人としては初めて芦ノ湖湖畔に別荘を建て、跡地は箱根駅伝の往路ゴール地点脇の箱根駅伝ミュージアムとなっている。1936年、シュミットが出張先の上海にて客死、井上鍾が社長を引き継いだ。そして「箱根駅伝ミュージアム」。「館内」入口。「箱根駅伝ミュージアム」入館案内。「HAKONE EKIDEN MUSEUM」と。そして16時前に保養所に到着しチェックイン。部屋で一休みし、早速久しぶりの温泉でくつろぐ。そして18時からの夕食をこの日の参加者9名でアルコール片手にワイワイと楽しむ。この日の客は我々9名のみで貸切状態。前々日の19日に宿泊された先輩の旅友から、高級焼酎の差入があり、皆でご馳走になりました。この日の献立・お品書き。前菜。造り。サザエの壺焼き。(追加オーダー品)洋皿。チキン塩麹焼き。モチ豚キムチ鍋。部屋に戻る前に記念写真を。そして部屋に戻り、1部屋に9人集まり、持ち込みのアルコールでの2次会で大いに盛り上がったのであった。久しぶりの再会で、近況、体調、妻、孫の話と23時過ぎまで語り合ったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.12.22
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箱根・「長安寺」の散策を続ける。右手にあったのが「子守り地蔵堂」。柱の台座部分にいるのは 邪鬼でしょうか?邪鬼は 奈良東大寺などで 四天王に踏みつけられている姿や 興福寺で灯籠を頭に乗せている天燈鬼や天龍鬼の姿が知られている。柱を支えているこの子たちも邪鬼の仲間ではないかと思いますが 口を開けた子と閉じた子 もしかしたら阿吽の仁王像?こちらは阿形像(右)。こちらは吽形像(左)。棚には多くの小さな地蔵様が奉納されていた。「子守り地蔵」に近づいて。「地蔵菩薩真言オンオカカ ビサンマーエイ ソワカ」お地蔵様の御真言を唱えると、お地蔵様の大慈悲によって救済され、闇黒(地獄)に堕ちることは無い と。さらに山道を上って行った。五百羅漢も、それぞれが異なる表情やポーズを持つことが知られている。例えば、怒っているような厳しい表情や、微笑んでいる穏やかな表情、驚いているような目を大きく開けた表情、または瞑想しているかのような静かな表情など・・・・。彼らはさまざまな感情や状態を表現するために、手や顔、体のポーズを使っているのであった。優しい笑顔で!!紅葉・黄葉の中に五百羅漢がいたるところに。大きな口を横に延ばして。ウサギとともに。ひとつひとつ見ていくと、羅漢さん達は、各々自由な姿勢で佇んでいた。笑っているもの、顔をうずめているもの、怒っているものなど、喜怒哀楽を通り越して、ひとつひとつが表情が豊か、豊かすぎるのであった。祈る姿。ここにも。小さな門も。あどけない表情。「聞か猿」ではなく聞かざる!!山の木々は枝落とし等、手入れも行われているのであろう。「長安寺」の墓地を望む。墓地への手水舎であろうか。扁額「浄水」と。さらに紅葉を楽しみながら五百羅漢を巡ったのであった。悟りの顔のごとし。この羅漢さんも私の知人・〇〇さんに似ているのであった。顔面の苔も表情を穏やかにしていた。耳たぶの大きな羅漢さん。熊ではなく、馬に乗った金太郎の如くに。泣き叫ぶ赤子の如く。瞑想に耽って。こちらも知人に似て。豊川稲荷社。幟「豐川吒枳尼眞天(とよかわだきにしんてん)」。吒枳尼天(だきにてん)の名前は、サンスクリット名「ダーキニー」の音に漢字をあてたもの。古代インドでは、人の肉や心臓を食べる夜叉(鬼神)であったが、大日如来が大黒天に姿を変えて説法し、仏教の善神になったと伝えられている。手摺のない、狭い「豊川稲荷社」の参道を見下ろす。その下には手摺のない急な石段が。慎重に一段一段下る。「豊川稲荷」の朱の鳥居を見上げて。ユーモアがあって、笑いがあって、苦しかったり、悲しかったり。羅漢さんたちの姿は、私たちそのもの!!。「いろんなことがあるから、人生っていいんでしょ。お互い頑張ろう!」といっているかの如くに。仲良く。僕、まいったなぁ!!大きな椀で酒を呑んでいるのか?まあまあまあ、落ち着いて!! と。お賽銭を頂いて。触れてみれば、人の体温を感じさせるのでは!! と。そして最後に「長安寺」の本堂のむかいにあった石仏を。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.12.21
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「強羅公園」を後にし県道733号線・仙石原強羅停車場線を利用してポーラ美術館の前を通り県道75号線沿いにあった「そば処 穂し乃庵」に車を駐めた。駐車場前にあったのは「かながわの景勝50選 秋の仙石原高原」碑。足柄下郡箱根町仙石原817−88。「そば処 穂し乃庵」にて昼食を楽しむ。私は、かき揚げ蕎麦を楽しみましたが、写真を撮り忘れました。昼食後は「仙石原高原」の「仙石原すすき草原」の風景を楽しんだのであった。足柄下郡箱根町仙石原。仙石原といえば必ず訪れたいのが「仙石原すすき草原」。広大な土地に群生するすすきは、その迫力や神秘的な景色から「かながわの景観50選」や「かながわの花100選」にも選ばれているのだ。季節によって姿を変えるすすき。仙石原すすき草原は、例年9月から11月にかけて見頃を迎える。この時期になると穂が黄金色に色づき、キラキラと輝きを見せるのであった。初秋は緑とのコントラスト、晩秋はふわふわと咲き誇り、あたり一面絨毯を敷き詰めたような美しい景色が楽しめるのであった。遊歩道は約700メートルの一本道で、ススキに挟まれたゆるやかな坂道になっていた。上り坂なので、始点からは遊歩道と草原の先まで見渡せて、これぞ圧巻なのであった。「仙石原すすき草原」案内図。「台ヶ岳の麓に広がるすすき草原は「かながわの景勝50選」にも選ばれており、毎年行われる火入れにより草原環境を維持しています。箱根地域では、近年、急激にニホンジカが増え、採食による植生の衰退が深刻化しています。環境省では、関係機関と協力して、国立公園の豊かな自然環境を守るために様々な対策を実施しており、隣接する仙石原湿原にはニホンジカによる植生被害を防止するための柵を設置しています。」そして現在地はココ!!毎年3月中旬から下旬頃、仙石原すすき草原では山焼きが行われている。すすき草原はそのままにしておくと雑木が生えてしまうのだとか。一面焼き払うことで、広大なすすきの景観が守られているのだと。山焼きの写真をネットから。箱根屈指の景勝地「仙石原すすき草原」。台ケ岳の山麓の山麓にススキが生い茂っていて、その広さは約18ヘクタールに及ぶのだと。遊歩道から「仙石原すすき草原」を見る。再び約700メートルの一本道・遊歩道、そして右側の斜面のすすきの草原を望む。ズームして。「金時山」を見る。「金時山」は、箱根山の北西部に位置する標高1,212mの山。別名は猪鼻岳で頂上に猪鼻神社が祀られている。日本三百名山のひとつ。 山名の通り坂田金時(さかたのきんとき、幼名は金太郎)にまつわる伝説が残り、また富士山の展望に優れることで有名。山頂に建つ2軒の茶屋も、人気の一役を担っているのだ。そして県道75号線に戻り、「仙石原すすき草原」を見る。そして次に訪ねたのが、200 体を超える羅漢像が立つ歴史ある仏教寺院で、墓地と木々に囲まれた庭園があった「長安寺」。駐車場に車を駐め、山門への参道を歩く。足柄下郡箱根町仙石原82。参道は紅葉に囲まれて。左手には現代的な仏の姿?の像が。「不許葷酒入山門」と。「くんしゅ【葷酒】 山門(さんもん)に入(い)るを許(ゆる)さず」と。臭気の強い野菜は他人を苦しめるとともに自分の修行を妨げ、酒は心を乱すので、これを口にしたものは清浄な寺内にはいることを許さないということ。その先、左手に「手水舎」。「手水鉢」には「洗心」と。水は古来、清きものの象徴であった。また、時と同じように一瞬たりとも同じところに留まらないもの。洗うと言う漢字を分解しますと、水の先と書く。つまり水の先・奥にあるのものを観るための動作が洗うと言うこととも考えられる。洗うことにより、見えないものが観えるようになり、あるいは神の依り代となると言うことかも知れない。手を洗うことで神を観る力を得、口を洗うことで体内を浄化し、神を宿りやすくする。そしてその無垢な状態で、水底を覗き込むことで何かが観えてくるのでしょう と。手水舎に掲げられている見事な彫刻。参道の先、正面に「山門」。左手の池の小さな島の上には石祠・「弁天堂」が。「弁財天」と刻まれた石碑。池の名は「弁天池」。「弁天池」。その奥の池の中に2体の石仏が。池の水の中にも羅漢像が。ここにも。阿羅漢とは仏教において尊敬や施しを受けるに相応しい聖者のことで、阿羅漢が500人集まって五百羅漢と言う と。紅葉を粧った枝が弁天池の水面を覗き込むが如くに。掲示板には「一日生きることは 一歩進むことでありたい 湯川秀樹」。「山門」。「東国 花の寺 百ヶ寺」と。東国花の寺とは、関東1都6県の「花の寺」と称される寺院の集まりの事で、現在は100か所以上が加盟していると。ここ「長安寺」はイワシャジンと呼ばれる9月下旬から10月中旬にかけて咲く花が有名らしい。扉に仁王様?のレリーフが。扉に仁王様のレリーフが。山門の右側にあった石碑「幸福な人 泣きたい人 詫たい人 悩んでいる人 困っている人 苦しんでいる人 願いのある人おまいりして仏さまに手を合わせてください長安寺」そして山門を潜り歩いて来た紅葉の参道を振り返る。ズームして。そして「本堂」。創建は1356年と言われ、福井の永平寺と横浜の總持寺を両山とする、曹洞宗の名刹。中興は機山労逸大和尚により行われ、昭和60年開始の五百羅漢像の建立は、今尚進行中 と。本堂は、建築は戦後に屋根や壁は改装されたが、それ以外は創建当時のものといわれている。山号 龍虎山宗旨 曹洞宗創建 延文3年 (1356年)本尊 釈迦如来中興年 万治元年 (1658年)中興 機山労逸正式名 龍虎山 長安寺扁額「龍虎山」。見事な盆栽、この木は老鴉柿(ろうやがき)。老鴉柿はカキノキ科カキノキ属の落葉~半落葉低木。雌雄異株。和名は「衝羽根柿」という名前で、盆栽界では姫柿とも呼ばれている。中国原産の小型の柿だが、交配をくり返す中で多くの品種が国内で生み出され、果実の色や形も多様。盆樹では小葉で節が細かく濃紅色の実が成る「楊貴妃」が有名ですが、「木守」「玉環」「紅乙女」など100を裕に超える品種が作出されている とネットから。山門を振り返って。考え込む、いや苦笑する五百羅漢の姿。この参道を進み、奥の裏山の林の斜面には五百羅漢が点在し、小京都のたたずまいが感じられたのであった。「歌碑」と「菅原道真公」・天神様の石像。『東風吹かば匂ひおこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ』樹の間に「薬師如来様」を表す梵字「ベイ」が。「上の文字は薬師如来様を表す梵字です。このコロナ禍の終息を願い病気を治してくださる薬師如来様にお頼みする為制作いたしました。御真言をお唱えしてください。御真言オンコロコロ センダリマトーギ ソワカ」👈リンク。「天神様由来石碑の文字は解読不能・・・」裏山の林の斜面に向かって進む。左手には紅葉に囲まれた鐘楼堂があった。梵鐘をズームして。さらに。「ようこそお参り下さいました」と石仏が。「五百羅漢」碑。五百羅漢とは、お釈迦様の弟子で、仏道修行して阿羅漢という人間として最高位を得た人のことをいい、その阿羅漢を五百人集めたのが五百羅漢である と。碑の上にも阿羅漢様が。そして裏山の斜面に点在する多くの五百羅漢をカメラで追ったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.12.20
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フランス式庭園の箱根強羅公園には中央に「噴水広場・噴水池」があった。周りにはベンチが並んでいるので、休憩で腰を下ろす人が多くいた。噴水や噴水の周りの草花を眺めながら、ベンチに座ってのんびりと過ごす時間は癒しのひととき。噴水池の青と紅葉のコラボは絶景。噴水池の水面の波が陽光に輝いて煌めいていた。噴水池は巨岩に囲まれた場所も。噴水をズームして。移動してデジカメの設定を変えて見ましたが・・・・。坂の下に「一色堂茶廊(いっしきどうさろう)」。箱根強羅公園内、噴水横にあるサンドイッチ料理「一色堂茶廊」。天井の高い居心地の良い空間で「和牛ローストビーフサンド」「フルーツにんじんサンド」といった自然で良質な食材を使ったサンドイッチ料理を用意。コーヒーや紅茶、ソフトドリンクも、サンドイッチ料理にふさわしい、グレードの高いもの と。反対側にあったレンガ造りの建物が「トンボ玉工作室」。色ガラスをバーナーで溶かして、様々な色彩や模様のアクセサリーに仕上げるとんぼ玉制作。2つとして同じものができないオリジナル作品を手軽に楽しむことが出来る場所と。工作室内。ネットから。「強羅遊園開拓之碑」。「強羅遊園開拓の碑強羅公園は、大正三年(一九一四)び開園された、日本ではただひとつのフランス式整型庭園です。強躍公園着工当時、この地には人家も無く、荒凉として石ばかりの風景でした。そのような場所が、別荘地・温泉他として開発されるに到った状況を、この碑文は書きとどめています。建碑者は宮ノ下温泉の旅館主、沢田鋓義で、彼はこの碑の他、箱根各地の各所や旧跡に碑を残してその顕彰につとめました。 箱根強羅公園 園長」バラ園と紅葉のコラボを楽しむ。バラのピークは既に終わっていたが。箱根強羅公園の「シンボルツリー」が右側に。真紅の薔薇の花。純白の薔薇の花。再び紅・黃葉をカメラで追いかける。「箱根クラフトハウス」1階が陶芸教室とガラスの工房、2階がドライフラワーの工房になっているが、その隣で展示されているのがクラフトハウスの講師として活躍するアーティストたちの作品。器、アクセサリー、お香立、オブジェなどのクラフト関連商品が多数展示即売されており、土産としてだけでなく作品づくりのちょっとしたアイデアとしても注目を集めているとのこと。そして正門への帰路へ。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.12.19
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「岡田美術館」を後にして、車で5分強の場所にあった「箱根強羅公園」に到着。正門から入園する。神奈川県足柄下郡箱根町強羅1300。550円で入園券を購入して。「強羅公園」配置案内図。「強羅公園」は、正門は標高約574m、西門は標高約611mという傾斜になっている。季節を通して様々な花が咲く園内には、様々な施設があるのだ。冬でも暖かい熱帯植物館や、歴史ある茶室、カフェ、工芸体験クラフトハウスなど、 1日中楽しむことができる園内 と。まずは「熱帯植物館」に向かって坂を上る。「ヒメツルソバ」の花であっただろうか?見事な紅葉が青空に映えて。青空を背景に紅葉が輝く。「山粧う(やまよそう)」いや「園粧う」。そして「熱帯植物館」を訪ねた。フィリピン原産の常緑小低木。樹の高さは2m前後で分枝が多いで魂濃緑色の大きな蕓をもち、枝先から房状に大きな花を下垂して咲かせていた。色鮮やかな花と独特の姿が南国情緒たっぷり。咲き始めたものをズームして。名前は「熱帯ノボタンメディニラ東南アジア、熱帯アフリカ、太平洋諸島に150種類以上分布する低温にも耐えるが、生育するには、10℃以上の温度が必要です。」と。バナナに似た木であるが。スラッと高く伸びて。「芭蕉」であっただろうか?こちらは「ピンポンノキ」と。「ピンポンノキピンポンのような実がなるので「ピンポンノキ」じゃないよ中国の言葉で「ピンボーノキ」、それがなまって「ピンポンノキ」になったんだ。にてるでしよう?タネを焼けば甘い「栗」のような味がするので「栗子(くりこ)」ともいうよ。白ガラス細工のようなきれいなオハナが咲くよ。」とネットから。花の写真もネットから。こちらが「バナナの木」。太く短いバナナが。「熱帯植物館」内にも小さな滝が設置されていた。「熱帯植物館」内の湿度を上げているのであろうか。赤いツヤのあるハート型の花がユニークな「アンスリウム」。食中植物・ウツボカズラ(ネペンテス?)「アナナス多年草で、果実以外はアナナスと呼ぶこともあります。和名は「鳳梨(ほうり)」」といいます。苗を植えて2年目以降の充実した株に実をつけ、花は紫色の花がまとまって咲きます。このパイナップルは、観賞用で食べられません。花言葉:あなたは完璧 完全無欠」。アナナスの実。この大木は?「強羅公園 標高590M」と。こちらは白の「エンジェルズトランペット」か。「キダチチョウセンアサガオ」とも言うと。朝顔のようなラッパ状の白花を咲かせるチョウセンアサガオ(朝鮮朝顔)の一品種 と。「ブーゲンビリア」。近づいて。ピンクの花も。「ハイビスカス」。「企画展関東大震災と箱根箱根町立郷土資料館令和5.10.14(土)~12.10(日)」「ちびゴジラデジタルパズルラリー!in箱根」。ストレリッチア(極楽鳥花)ストレリッチア(極楽鳥花)は、極楽鳥が羽ばたいているような姿をイメージさせる植物。その花姿はとても鮮やかでエキゾチックな魅力。そして噴水。そして屋外に。「白雲洞茶苑入口」。「「白雲洞茶苑」は、箱根強羅の巨岩怪石の間に、深山のおもむきを保存して、見るからに山家の風情の濃い茶室群です。 ここは大正時代のはじめ、利休以来の茶人と称された鈍翁・益田孝(三井コンツェルンの設立者で男爵)によってはじめられ、特に白雲洞は、翁の創案になる田舎家の席として貴重な茶室とされています。大正11年(1922)、この茶苑は三渓・原富太郎(横浜の富豪で美術品収集家として著名)に譲られ、この時三渓はあらたに対字斎を増築しました。 昭和15年(1940)、茶苑は再び原家より耳庵松永安左衛門(電力界の重鎮、松永コレクション創設者)に贈られ、こうして茶室は、明治・大正・昭和と3つの時代を代表する3人の茶人の間に伝えられてきたものです。」と。「鈍翁・三渓・耳庵の遺席登録有形文化財「白雲洞茶苑」ご案内ここに保存される三棟の茶席は大正時代のはじめ鈍翁・益田孝によって創始され、ついで三溪・原富太郎、耳庵・松永安左ヱ門と近代の三代茶人と称される人々に継承されてきたものです。益田鈍翁による開席当時、ここには不染庵、白雲洞の二席が営まれ、これに寄付と白鹿湯が附属していました。これらは一代の数寄屋師とうたわれた仰木魯堂の設計と言われています。大正11年原三溪に伝えられ、新たに対字斎一棟が増築されました。ついで昭和15年松永耳庵に受け継がれました。耳庵自筆の「白雲洞の主人となるの記」によって知られます。耳庵没後次第に荒廃していましたところ、当社に移譲されより全面的に補修の手を加え昭和57年5月に旧観に復しました。全苑の構成には山中の岩かげに建つ山家の趣が深く、岩上に根を占める巨桜の下に軒を低く佇むのは不染庵です。また囲炉裏に自在釣を掛け粗朶で瀗縁のある田舎家の席は白雲洞です。茶道界に鈍翁創案の田舎家の茶席はあまりにも著名ですが、現在その多くは失われここ白雲洞は唯一の遺構としてかけがえもなく珍重されています。益田鈍翁、原三溪、松永耳庵という偉大な茶人であり、明治・大正・昭和の日本経済に大きな役割を果たした稀代の経済人たちが遺した「白雲洞茶苑」は近代数寄の茶道の風雅を偲ぶ茶室群です。 箱根登山鉄道」。紅葉に囲まれた「白雲洞茶苑」を望む。茶苑は比較的高いところに建てられ、白雲洞、不染庵、対字斋、白鹿湯から四つの席から構成されていると。そして巨岩の間に点在していた。これぞ日本の秋!!ここも!!こちらは「白雲洞茶苑」の裏口門であっただろうか。「パンパスグラス」か? パンパスグラスは、『しろがねよし(白銀葭)』や『しろすすき(白薄)』とも呼ばれている。周囲に「和の植物」があると和風映えし、和風料理店や日本家屋、旅館の庭にもよく映えるのだ。穂が強風?で倒れてしまっていたが。この一面に黄葉した樹の名は?? ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.12.18
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この日は11月21日(水)、会社の同期入社の同僚9人による同期会を仙石原にある会社の温泉保養所にてす開催ることになり、我が愛車で向かう。箱根湯本駅で同僚1名と合流し、箱根の紅葉を楽しんだ後に、温泉保養所に向かうこととし、10時に合流するために自宅を9時前に出発し新湘南バイパスを利用して西湘バイパス方向に向かう。茅ヶ崎料金所を通過。カメラをセットしてリモーと撮影。リモートで、電源・シャッター・ズーム・動画撮影が可能。但し、カメラの位置・向きは手動でしか操作できない。そして海岸に出て、西湘バイパスを進む。前方に箱根の山々が姿を現していた。西湘二宮IC手前を通過。左から下二子山、上二子山、駒ケ岳、神山。二子山が正面に。南側(左)が下二子山1,065m、北側(右)が上二子山1,099mとなる。西湘バイパス「橘料金所」を通過。一時停止し「光る海」・「相模湾」、そしてその右にある「大島」の姿を。そして西湘バイパスから国道1号に入り、予定時間の10時前に「箱根湯本駅」に到着し同僚と合流。最初に「岡田美術館」の庭園の紅葉を訪ねることとした。正月の箱根駅伝と同じ国道1号の箱根の山道をひたすら進む。そして箱駅駅伝の固定カメラが毎年設置される「箱根小涌園ユネッサン」前を通過。そして大きく左にカーブして坂を上って直ぐ右側にあった「岡田美術館」の駐車場に入り散策開始。「施設マップ」足柄下郡箱根町小涌谷493−1。美術館の正面の壁にあったのが岡田美術館の象徴ともいえる縦12m、横30mの大壁画。江戸時代から、俵屋宗達、尾形光琳、酒井抱一など琳派の画家たちに描き継がれてきた「風神・雷神図」・「風・刻(かぜ・とき)」を日本画家・福井江太郎が現代に蘇らせ、開館以来、美術館の守り神として来館者を迎えていると。雷鳴と稲妻をおこす「雷神」。風袋から風を吹き出し風雨をもたらす「風神」。ネットから原画を。風神・雷神の大壁画「風・刻(かぜ・とき)」の正面には、100%源泉かけ流し(加水・加温なし)の足湯が。ゆうくり浸かりたかったが・・・。風神・雷神の大壁画「風・刻(かぜ・とき)」の前に足湯があるのだ。足湯に浸かりながら壁画が鑑賞できるのであった。モニュメント「浪誘(なみさそう)」諸井謙司。ブロンズ、高さ約2メートル、幅1.7メートル、重さ1・3トン。振り返って。廻り込んで。「岡田美術館 入口」。「開館10周年記念展 第2部歌麿と北斎時代を作った浮世絵師2023/6/11(日)≫12/10(日)」喜多川歌麿「深川の雪」の一部。「画狂老人卍 齢八十八歳 「雪中烏図」 1847年」。「葛飾北斎」は晩年「画狂老人卍」と名乗ったのだ。入口から内部を覗いて見た。チケットコーナーか?「現在開催中の展覧会開館10th 記念展 第2部歌麿と北斎時代を作った浮世絵師2023/6/11(日)≫12/10(日)」「ようこそ、岡田美術館へイベントスケジュール■開館10周年特別企画 特別対談 河野氏元昭氏と小林忠館長が語る歌麿・北斎 2023年9月30日(土)午後1時~午後2時30分講師:小林忠田美館長)■講演会 講師:小林忠(岡田美術館 館長) ①2023年7月29日(土) 歌麿の「雪月花」3大幅 中止 ②2023年10月28日(土) 北斎の「富嶽三十六景」と「富嶽百景」 時間: ( 上記2講演ともに) 午後1時~午後2時30分 会場 : 5階ホール 参加費:無料(要入館料)」江戸時代の浮世絵師・喜多川歌麿が晩年描いたとされる浮世絵「深川の雪(ふかがわのゆき)」の一部。2023年秋に開館10周年を迎える岡田美術館では、これまでの展覧会で人気を博した画家4人を選び、2人ずつ2部に分けて展覧会を開催中。第2部では、喜多川歌麿と葛飾北斎を中心に、2人と同時代およびその前後の画家たちの作品など約40件を展示していたのであった。「開館10th 記念展 第2部歌麿と北斎時代を作った浮世絵師2023/6/11(日)≫12/10(日)喜多川歌麿(?~1806)出生地は不明。少年の頃、江戸で狩野派の鳥山石燕に絵を学ぶ。版元の蔦屋重三郎と組み、版画や絵本の挿絵を精力的に発表。生涯に手がけた版画は2000図以上といわれ、美人画の名手として人気を集めた。歌麿を対象とする幕府の禁令にも屈せず、挑み続けた反骨の絵師でもある。葛飾北斎(1760~1849)江戸本所(現在の墨田区)に生まれる。数え年19歳の時、人気浮世絵師の勝川春章に入門して絵を学ぶ。版画、版本、肉筆画制作のすべてに情熱を注いで森羅万象を描き、90歳の長寿を全うした。北斎のほか戴斗、画狂人、卍など度重なる改名、生涯に93回という転居癖をはじめ奇行も多い。岡田美術館は、本年 10月に開館 10周年を迎えます。記念展第 2部に登場するのは、浮世絵師の喜多川歌麿と葛飾北斎。次々と新しいスタイルの作品を生み出し、大衆の心をつかんだ浮世絵界のスターです。2人はほぼ同時期に画壇にデビューしましたが、先に歌麿が美人画で一躍人気を集め、一方の北斎は美人画にとどまらず、風俗画、風景画、花鳥画、武者絵など多彩な分野に挑戦し、90年の長い生涯に数えきれないほどの作品をのこしました。本展では、当館が収蔵する歌麿 3件と北斎 10 件の肉筆画(一点ものの絵)を中心に、北斎の版画の代表作「冨嶽三十六景」や春画の名品「浪千鳥」を一堂に展示します。現存する歌麿の肉筆画は世界に約 40 件ともいわれる中、2012年に再発見された幻の大作「深川の雪」を含む 3件をご覧いただける貴重な機会です。歌麿と北斎に加え、同時代およびその前後の画家の作品を併せた約 40 件の展示をお楽しみください。喜多川歌麿「深川の雪」 江戸時代 享和2~文化3年(1802~06)頃 【展示期間:9/8~12/10】※左記以外は高精細の複製画を展示 歌麿最晩年の傑作は、縦2m、横3.5mの大迫力。左:喜多川歌麿「三美人図」 右:喜多川歌麿「芸妓図」 喜多川歌麿「三美人図」をズームして。江戸時代中期 歌麿だから描けた、遊女たちの素の時間。右:喜多川歌麿「芸妓図」 江戸時代中期 これぞ粋! きりっと決めた芸者の立ち姿。葛飾北斎「堀河夜討図」 江戸時代後期 北斎得意のかっこいいヒーロー像。そして「美術館」を後にして「庭園巡り」へ。見事な紅葉、いや黄葉の世界に迷い込んだのであった。この場所の黄葉は、秋の美しさを静かで温かみのある色合いで表現していた。紅葉が目立つ空間に比べて地味に感じられるかもしれないが、その静かな魅力には心が落ち着き、温かな感覚が広がるのであった。やや赤が混じって。黄葉の美しさは、深い秋の光によって輝き、木々や景色に穏やかな柔らかな色彩を与えるのであった。それは、深い熟成された色調が秋の季節に対する感謝と静かな喜びを表現するようなもの。そして再び黄葉の世界へ。黄葉は、秋の風が木々の葉をやさしく包むような、穏やかで優しい美しさを持っていた。その色は深く濃い黄色から、柔らかな金色や蜜色へと移り変わり、光と影が織りなす幻想的な世界。風がそよぐたび、黄葉の葉たちはしずくのような微かな音を奏で、自然の息吹を感じさせたのだ。そして前方から水のささやきが聞こえて来た。「湯雨竹(ゆめたけ)」と。「竹製温泉冷却装置」であると。「湯雨竹(ゆめたけ)90℃の源泉を数秒で冷却させる竹製の装置です。加水をせずに温度を下げるため、泉質や鮮度を損なうことなく、源泉そのままをお楽しみいただけます。」そしてここが足湯の場所になっているのであろうか?椅子等はなかったが。それとも集湯用の箱か?そして正面に建物が。お食事処「開化亭」と。昔の別荘だった建物を利用したお食事処であると。そしてここ岡田美術館は、明治時代に建設された欧米人向けのホテル「開化亭」の跡地に2013(平成25)年、開館した私設美術館であるとのこと。入口横には石仏が2体。2体の石仏の上の紅葉。「開花亭」は準備中であった。「うどん」のメニューが。庭園入場料は300円とネットにあったが。「お知らせ源泉の工事を行っている関係で一部、通行が出来ないところが午後ざいます。ご迷惑をお掛けいたしますが、何卒ご了承くださいますようお願い申し上げます。なお、工事期間中は入園料を無料とさせて頂きます。」と。さらに紅葉のメッカを赤と黄色の美を求めて歩く。赤やオレンジ、黄色に染まった葉が木々を飾り、まるで自然が鮮やかな絵画を描いたかの如し。紅葉の美しさは季節の移ろいと共に、山々や公園、神社仏閣の周りで人々を魅了し続けているのであった。秋の訪れと共に木々が鮮やかな赤、オレンジ、黄色に染まり、風に揺れる葉が光の中で輝いていた。ここが源泉の場所であっただろうか。四阿の上の紅葉も鮮やかに輝いて。そしてさらにオレンジ色の紅葉を追う。この場所のように、日本の庭園や寺院の周りで見られる紅葉は、静寂と美しさが調和した空間を創り出しているのであった。紅葉の美しさは季節の移ろいを感じさせ、日本の文化や自然と人々のつながりを象徴しているのである。そして「庭園」を後にして、再び「岡田美術館」に戻る。再び「風神」に近づいて。「雷神」。正面の木々がガラスに映り込んで。「輪廻熾(りんねし)」柴雅臣作。そして「岡田美術館」を後にしたのであった。 ・・・つづく・・・
2023.12.17
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船舶の係留所前の岸壁上を歩きフエンスの隙間から「帆船・明治丸」👈リンク を撮影する。左側が船尾方向。1875年(明治8)2月横浜に回航され、灯台視察船として任務についた。当時1000トン以上の船は日本にほとんどなかったことから、76年の明治天皇の東北巡幸に際しては、函館(はこだて)から天皇を乗せて同年7月20日に横浜に帰着した。このため、この日が「海の記念日」として定められた(1996年、「海の日」として国民の祝日となる)。1896年に商船学校(のち東京商船大学。現東京海洋大学)に貸与、翌年移管され、三檣シップ型に改装された。その後長く係留練習船として使用されたが、1978年(昭和53)5月、国の重要文化財に指定され、東京海洋大学に復原保存されているとのこと。「リバーシティー21」の高層マンション群を見る。「明治丸記念館」。「明治丸記念館」は、平成23年に始まった本学の明治丸海事ミュージアム事業である「次世代の海事産業を担う青少年への海事意識啓発活動」、「先端の海事技術講座などのセミナー開催」を目的に平成27年に建設され、平成 28年7月18日より公開している。延床面積462m2の館内には、展示室とセミナー室、準備室を備えている。展示室では明治丸の140年にわたる活躍をパネルで解説するとともに、明治丸で使用されていた食器類などが展示されている。こちらは「東京海洋大学 百周年記念資料館」。明治丸(めいじまる)は、灯台巡視船として日本政府がイギリスに発注し、天皇の乗る御召し船や練習船としても使用された。国の重要文化財に指定されている。当初は外輪船とする計画だったが、スクリュープロペラ船として建造された。帆装は2本マストのトップスルスクーナーであったが、1898年に品川にある緒明造船所で3本マストのシップに改造された。さらに1937年にはミズンマストの腐敗からバークになったが、1983年からの修復工事で再びシップ型に戻された。また、船首と船尾にはアカンサスの文様が描かれている。係留船杭越しに「相生橋」そして「リバーシティ21」高層ビル群を振り返る。タイル敷きの遊歩道から「豊洲水門」そして豊洲地区の高層ビル群を見る。船首部を見る。船首部をズームして。船首には、拳(こぶし)鼻状(ばなじょう)の渦巻文様を持つ頭部とそれに続く膨らみで鳥の形を表し、その後方に長く伸びる縁取りの中に、アカンサス状の文様を嵌め込んで羽根を象徴している。ここにはローマ字で「MEIJI MARU」と船名の文字板が打ちつけられている。即ちこの鳥形が本船のフィギュア・ヘッド(Figure head)・船首像と言うことが出来る。船首近くから「リバーシティー21」高層ビル群を再び。ズームして。船尾方向を見る。煙突にズームして。三段膨張蒸気往復動機関は昭和20年頃まで航洋船の主機関として採用された。現在は全くその姿を消してしまい、旧東京商船大学百周年記念資料館に完全な姿で展示されている本機関は大変貴重なものとなっている。 船尾方向の2本のマスト。中央マストをズームして。上甲板の船首部にはバウスプリット(Bow Sprit 斜檣)が突き出ており、振り向いて上を見れば3本のマストが空に聳えている。前からフォア・マスト(Fore mast 前檣)、メイン・マスト(Main mast主檣)、ミズン・マスト(Mizzen mast 後檣)であり、各マストには夫れ夫れ5本のヤード(Yard横帆桁)が簪(かんざし)のようにならび、それに掛けられた帆に風をはらませた昔日の勇姿を彷彿させるのであった。「明治丸」の船尾部分を見る。船尾にはアカンサス(Acanthus)の横帯文様があり、ローマ字で「MEIJI MARU」と船名が配されていた。マストをこれでもかと。そして「明治丸」を後にして、「通り」に出ると「明治天皇聖蹟の碑」が右手にあった。「明治天皇聖蹟(めいじてんのうせいせき)」と。ズームして。「明治天皇聖蹟」は、明治天皇が行幸で訪れた場所や建物である。そのうち377件が史蹟名勝天然紀念物保存法にもとづいて史蹟に指定された。戦後占領下「史跡の指定が新憲法(日本国憲法)の精神にそわない」とみなされて、1948年6月29日、指定を一斉に解除された。その後、建物が失われても、聖蹟を顕彰する石碑などが残されている場合が多いとのこと。「紀元二千六百年記念建設 昭和十八年十一月三日竣成」紀元二千六百年記念とは、1940年(昭和15年)に神武天皇即位紀元(皇紀)2600年を祝った一連の記念行事を指す。「深川區町會聯合會」と。ここが「重要文化財 明治丸」の入口?であろうか。しかしこの日は見学可能日でないのは承知していた。フェンスの隙間から船尾を正面から。船尾をズームして。中央に漢字で「明治丸」と。マストをズーム。ここが東京海洋大学のエントランス。前身は「商船大学」。明治時代から続く、船の幹部乗組員を養成する学校であった。「東京海洋大学 越中島キャンパス海洋工学部大学院海洋科学技術研究科」。「G.E.O.ラムゼー功徳碑」この碑は、G.E.O.ラムゼー船長の優れた人格に対する尊厳と称賛を永く記憶するために1886年(明治19年)3月の彼の没後1周年に門弟達が建てたものです。ラムゼー船長は、1876年(明治9年) 6月1日に三菱商船学校(本学部の前身)の運用学教員として教壇に立ち、学生に航海術を教えた最初の先生でした。この碑は1992年(平成4年)に江東区登録文化財(歴史資料)に指定されました。「第一観測台1903年(明治36年) 6月建設。赤道儀室と呼ばれ、内部には当時東洋一と言われた天体望遠鏡を備え、教育研究に使用された。1997年(平成9年)12月国の登録有形文化財に指定された。」第一観測台は現存する日本最古の天文台と推定される。商船教育においては天測による船舶の位置を知ることが重要であり、天文学は必須であった。航海用天体暦および 航海天文学教授用として使用された内部には当時東洋一と言われた最新鋭赤道儀望遠鏡を備えていた。望遠鏡は分銅式によって天体の運行に等しい速さで回転するようになっていた。また、屋根の半円形ドームは手動で360度の回転が可能であり、窓は二重になっていた。平成9年12月12日に国の有形文化財に登録された。 「第二観測台1903年(明治36年)第一観測台と同時に建設。子午儀室と呼ばれ、内部には子午線測定用の望遠鏡を備え、教育研究に使用された。1997年(平成9年) 12月国の登録有形文化財に指定された。」第二観測台第一観測台と同時に竣工され、第一観測台と並び現存する最古の天文台と推定されている。内部には子午儀を備え,天体の子午線通過時刻を精密に測定して正確な経度の測定およびそのときの天体の高度から緯度の測定等が可能であった。第一観測台と同様平成 9年12月12日に国の有形文化財に登録された。この先の十字路を右折。「越中島通り」を進む。ここにも入口があったが、鎖で閉ざされていた。この先に横断歩道がないので、歩道橋を利用して道路の反対側に向かう。「越中島通り」の「浜園橋」方向を見る。そしてJR越中島駅に到着。現在地はここ。JR東日本 京葉線の「越中島駅」。そして「東京」駅で下車。「八重洲南口」へと向かう。京葉線に続く連絡通路を彩るステンドグラス「天地創造」は、洋画家・福沢一郎の原画を元に1972年に制作された大型作品。近づいて。壁一面に広がるステンドグラスは、この場所が駅であることを忘れさせるほどの異彩を放っていたのであった。この作品は、パブリックアートを推進する日本交通文化協会が、昭和47年に設置。原画は画家の福沢一郎が描き、当時の国鉄総裁、磯崎叡(さとし)は「洋々たる国鉄の未来を象徴する感動的な絵だ」とほれ込んだという。ステンドグラスは、駅の象徴として長年親しまれてきたが、駅の復元工事のため、一時撤去された。だが、駅利用者から「あの作品はどこにいった」との問い合わせが協会に相次ぎ、工事を終えた平成24年に今の場所に移された。40年以上、駅を見守ってきたステンドグラス。国鉄はJRへと変わったが、作品は設置された当時と変わらず、輝き続けている とネットから。「天地創造 原画 福沢一郎」と。正面左から。中央部分。右側。そして久しぶりの「動く歩道」を3回も乗り継いで。そしてようやく東京駅南口に到着し、山手線でこの日の待ち合わせ場所の品川駅へと向かったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2023.12.16
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正面に「三井不動産レジデンシャルサービス㈱ ピアウエストハウス」が見えた。高級賃貸マンションのようであった。外装工事が行われていた。歩道横には造船所の遺跡の如き赤レンガの建造物が。江戸末期になると、石川島は洋式造船所となる。幕府が水戸藩に命じて作らせたもので日本最初の軍艦「旭日丸」は、ここで建造されたのだ。明治に入り、造船所は民間に払い下げとなり「石川島重工」が誕生、1979(昭和54)年には全工場が豊洲に移転したのであった。「中央区立佃児童館」、「中央区立シニアセンター」。入口。内部。中央区立佃島小学校前の歩道に設置されていた円錐形状のモニュメント・「希望の像」。そして石段を上り、「リバーシティ21 イーストタワーズ 10号棟」南側の広場へ。「リバーシティ21」案内地図。Googleマップによると、ここに「オーロラの門」と呼ばれるオブジェがあるとのことであったが。遊んでいる子供に訪ねると、いつのまにかなくなってしまったと。在りし日の「オーロラの門」をネットから。そして近くにあった巨大な卵の如き建物。「風の卵-Egg of Winds-」伊藤 豊雄作。佃の超高層マンションが林立する大川端リバーシティ21のメインゲートである。メインゲートと言いながら駐車場入り口で、上部に長径16m、短径8mのアルミパネルでつくられた卵型オブジェが浮かんでいた。オブジェは細い斜めの柱によって支えられていて、浮遊感を出すために正面からは柱がほとんど見えないようになっていた。ただ、全てを裏側にするのは無理だったためか1本だけ前から支えていた。ちなみにこのオブジェは内部にプロジェクターが設置されていて、夜になると表面に映像を映し出すようになっていると。中央区佃2丁目2。そしてリバーシティ21・5号棟の中央付近に設置されていたのが「街の鼓動」。中央に釣ってある風車の如きオブジェ。夜になると光るのか?「佃ニ北」交差点が右手に。そして「相生橋」の佃2丁目側の橋の袂に到着。お疲れ気味の「相生橋」案内板。相生橋は、隅田川派川(はせん)に架かる橋で、上流の永代橋に相対する橋として名付けられた。形式は、大正8年(1919)に市電を通すため改築した先々代の橋の姿にならいトラス橋としました。トラス橋は、細長い部材を三角形に組み立てて橋桁とした橋です。新しい相生橋は、隅田川や中の島公園とともに多くの人々の憩いの場として親しまれるように整備ました。橋の長さは149.1m、幅員36.8 mです。平成10年(1998) 12月19日に全線開通しました。新しい「相生橋碑」。「佃島が埋め立てられて月島となって、人々が住む町が開けるとともに、交通の便や、水道が必要になった。そこでまず、深川との間にこの相生橋が架けられた。明治36年(1903)のことであった。その後改修され、中ノ島で、大橋と小橋とに分かれるようになった。隅田川が、ここで左右に、大きく分岐するところの左側にあたっていて、川が湾曲するため、上流から流れてきたものが滞留したところである。関東大震災の時も、今次の大戦の空襲のあとにも、さまざまなものが山のように集まった。ことに震災の時までは木橋であったため、橋も延焼した。現在の橋は、大正15年(1926)11月に、震災復興事業の最初の架橋として完成した。 昭和59年(1984)3月 東京都」トラス構造の「相生橋」。「派川(はせん)」とは1本の川には、一般に多数の川が次々に集まってくるが、水量、河道の長さ、流域の広さなどにおいて有力なものを幹川あるいは本流と呼び、幹川に合流するものを支川(支流)、幹川から分派して直接海に入るか再び幹川に合流するものを派川または派流(分流)という と。現在地はここ。トラス構造に近づいて。名称:相生橋構造種別:3径間鋼トラス桁河口からの距離:0.9km橋の長さ:149.1m有効幅員:31m竣工:2000年(H12)「相生橋」。「永代橋」方向を見る。「清澄通り」と交差する「八重洲通り」の横断歩道を渡る。渡りながら「相生橋」を見る。「隅田川」の「派川」越しに「豊洲1丁目」のビル群を見る。ズームして。ビル群の手前が「豊洲貯木場跡」。「相生橋」の下流側の歩道を進む。右手前方・係留杭の先に3本マストの瀟洒な「帆船」の姿が見えて来た。「豊洲水門」をズームして。門扉型式 複葉ローラーゲート有効幅員 17.4m×2連上空制限高(A.P.) +5.7m竣工年度 昭和37年「豊洲水門」の下流で隅田川派川に豊洲運河が合流。また、隅田川派川の右岸から朝潮運河が分流する。「春海橋」方向を見る。「相生橋」の中央付近を通過。前方、橋の下に石灯籠が現れた。ズームして。「中の島公園 感潮池」にある「石灯籠」。隅田川河口部で本流から分かれ、晴海運河・豊洲運河に通じる派川に架かるのが相生橋で、中央区佃と江東区越中島を結んでいる。両岸の間にあった中州が中の島で、明治36年に初めて橋が架けられた時、島を中継地として2本の木橋が架けられ、佃島側が相生大橋、越中島側が相生小橋と呼ばれた。しかし、これらの橋は関東大震災で焼失し、大正15年に再建、その後、昭和2年に中の島は隅田川唯一の水上公園として整備された。相生橋は木橋の時代から月の名所でもあり、中の島公園も大いに賑わったということだが、隅田川の水質汚染が進むにつれ、訪れる人も少なくなり、昭和48年に公園は閉鎖されてしまった。その後、隅田川の水質も改善し、昭和53年の花火大会の17年ぶり復活に続き、中の島公園も昭和55年に再び開園した。この時、中の島は越中島と地続きになり、園内に新たに池もつくられた。江東区越中島1丁目3−26先。再び豊洲の高層ビル群を見る。左側に「キャナルワーフタワーズW&E塔」、右側に「アーバンドックパークシティ豊洲タワー」。「中の島公園」碑が。「中の島公園」に下りて石灯籠を。「石灯籠」越しに「相生橋」を見る。「感潮池断面見取図」。池は感潮池(潮入の池)で、隅田川との間に通水管が設けられ、潮の干満により水位が変化する仕組みになっているとのこと。この時は潮の干潮時で、池には水が入って来ていなかった。通水菅がこれであっただろうか。石灯籠越しに、この後に訪ねた「帆船・明治丸」を見る。「帆船・明治丸」。左に豊洲の高層ビル群、右に「春海橋」を挟んで月島の高層ビル群。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.12.15
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「住吉神社」を後にして、「中央区立佃公園」の「隅田川」の川岸を上流に向かって歩く。中央大橋の南側に位置する細長い公園である。中央大橋から北側は石川島公園であり、隅田川テラスで繋がっている。公園内には、大川端リバーシティ21の超高層マンションが立つ。また、公園内を佃川支川が流れる。公園内には石川島灯台がある。これは復元されたものであり、1階は公衆便所である。佃公園は、夜景の名所として知られる。この夜景は、大川端リバーシティ21などのマンションの灯や、石川島灯台・中央大橋・東京スカイツリーなどのライトアップによるものである。また、公園内には桜も多く植えられており、桜の名所としても知られる。佃公園は隅田川テラスを擁しており、ロケーション撮影等に使われる機会も多い。佃堀周辺も佃公園の一部として設定されているが、この部分のみは、ジャリ公園と通称される。案内地図。現在地はここ。「石川島人足寄場1790年「鬼の平蔵」として知られる長谷川平蔵の建策によリ、石川島の地に人足寄場をつくり、無宿人等を収容して職業指導をおこないました。明治中期以降は石川島造船所(現、石川島掲磨重工業)の敷地となりましたが、工場は1979年に閉鎖され、その跡地は「大川端リバーシティ」の高層ビル群に生まれ変わりました。」「中央大橋1993年に、佃大橋と永代橋との間に新しく架けられた橋です。高層ビルが立ち並ぶ近代的な街並として生まれ変った佃地区と都心を結ぶ橋として計画されました。形式は近代的な街並にマッチし、地域のシンボルとしての役割を果たすように、タワーを有した斜張橋となっています。隅田川とセーヌ川の友好河川提携を記念して、パリ市の協力によりフランスの彫刻家オシップ・ザッキンが製作したモニュメント「メッセンジャー」像が設置されています。」前方に「中央大橋」が姿を表した。「佃大橋」を振り返る。「聖路加タワー」頂部付近から陽光が。中央大橋は、隅田川にかかる橋で、東京都道463号上野月島線中央大橋支線(八重洲通り)を通す橋である。西岸は中央区新川二丁目、東岸は中央区佃一丁目。1994年1月に開通した架橋であり、隅田川に架かる橋で平成時代に初めて建造された新規の架橋である。夕刻から夜10時までは、白色の水銀灯と暖色系のカクテル光でライトアップされている。隅田川はフランスのセーヌ川と1989年(平成元年)に友好河川を提携しており、中央大橋を架橋する際に、フランスのデザイン会社に設計を依頼した。そのためか、主塔および欄干部分に日本の「兜」を意識した特徴的な意匠が施されている。また上流側の中央橋脚部には当時のパリ市長であったジャック・シラクから東京都に友好の印として贈られた彫刻家オシップ・ザッキン作の「メッセンジャー」と名づけられた彫像が鎮座する。彫像は川側を向いており、橋をくぐる水上バスからの方が見やすい。なお、このお礼にパリ市に「屋形船」を寄贈している。紅葉も始まって。「中央大橋」をカメラで追う。・構造形式 二径間連続鋼斜張橋・橋長 210.7m・幅員 25.0m・竣工 1993年(平成5年)8月26日(レインボーブリッジと同日)・橋桁製作 石川島播磨重工業横浜工場「中央大橋」越しに「東京スカイツリー」の姿が。更に「中央大橋」越しに「永代橋」の姿も確認できた。主塔および欄干部分に日本の「兜」を意識した特徴的な意匠が施されているのだ と。「中央大橋」下を通過し上流側の「メッセンジャー」像を見る。正面に「永代橋」と「東京スカイツリー」。ズームして。「東京スカイツリー」をズーム。これでもかと。隅田川に架かる三大名橋の一つ「永代橋」は、夜にはライトアップされて夜景が美しい美橋で勝鬨橋、清洲橋と共に、国の重要文化財に指定されているのだ。ライトアップされて夜景が美しい「永代橋」をネットから。「石川島公園」内、「リバーシティー21」前、右側にあったのが「あした」重岡 建治。ズームして。この後も重岡 建治の作品がこの付近にはいくつか展示されていたのであった。東京湾クルーズ船が姿を現した。「ジュビリー」であっただろうか?そして「中央区立石川島公園」の先端部に到着。「晴海運河」が前方に。「永代橋」が前方に。「中央大橋」を振り返る。階段を下りて最先端部に向かう。「都市公園コンクール 建設大臣賞」プレート。ズームして。「施工(造園修景)部門中央区立石川島公園平成12年10月27日施工 株式会社 泰正」と。現在地はここ。「晴海運河」の「相生橋」方向を望む。階段の上が「パリ広場」、その後ろに「リバーシティー21 センチュリーパークタワー」。この時は干潮時あったのだろうか?ウッドデッキ上には船の係留用の「係船柱曲柱」が設置されていた。周囲を芝生?に囲まれた階段を上る。ここが「パリ広場」。「パリ広場 PLACE DE PARIS」。佃島の北端、石川島公園の一角にある「パリ広場」。1999年の「日本におけるフランス年」を記念して作られたこの広場には、日本のシンボル桜とパリのシンボルマロニエの木が植えられている。セーヌ川のほとりのような雰囲気を作り出していりのだと。この地形がパリのセーヌ川に浮かぶシテ島に似ているから??このモニュメントは子供たちが手を繋いでいる様子がモチーフだと。「友情から未来へ」と名付けられてるとのこと。「友情から未来へ L'Amtié pour Avenir」。「パリ広場記念碑 「友情から未来へ」1996年、日本とフランスは21世紀に向けて両国の友好と交流の更なる発展を祈念し・・・・???」。以下は転記不可・・・・。台座。台座の絵は何をモチーフにしているのか?ズームして。土台に敷きつめられた中央区の小学生とフランス人学校の児童が描いた250枚の絵。日仏友好の未来が生き生きと表現されていると。子供たちが手を繋いでいる様子 と。「パリ広場」を後にして「晴海運河」に沿って進む。現在位置図。「日本初の民営洋式造船所 発祥の地」案内プレート。中央区佃2丁目1。「初の蒸気軍艦 千代田形米国ペリー艦隊 が来航した1853年(嘉永6年)幕府の命を受けた水戸藩 がこの地に石川島造船所 を創設した。同造船所は洋式帆装軍艦「旭日丸」をはじめ、日本人によって設計・建造された最初の上記軍艦「千代田形」など数多の艦船を次々と建造、造船技術を通じてわが国産業の近代化に大きく貢献した。明治維新後の1876年(明治9年)平野富二 によりわが国初の民営洋式造船所として再スタートしその後1889年(明治22年)には渋沢栄一 などの協力により会社組織となり、有限責任石川島造船所、株式会社東京石川島造船所の社名の下、明治から大正・昭和にかけて、多くの軍艦・商船を世に送り出してきた。この地での造船事業は1939年(昭和14年)造船部門の東京深川区豊洲への移設によって幕を閉じた。その後、石川島重工業株式会社、石川島播磨重工業株式会社と社名が変更される中で、当地は日本屈指の重機械類の専門工場として活躍してきたが、1979年(昭和54年)の工場大移転によりその長い歴史を終えた。」「初の蒸気軍艦 千代田形」。「石川島資料館のご案内」。この日は水曜日であったが訪ね忘れたのであった!!「センチュリーパークタワー」前を進む。正面に「スカイライトタワー」。東京都道463号上野月島線中央大橋支線(八重洲通り)側の「センチュリーパークタワー」入口。「中央大橋南詰」交差点。正面に見えたのが「中央大橋」の支柱。兜をイメージした「中央大橋」の支柱をズームして。「ピアウエストスクエア」。1993年竣工のノースウィングと1991年竣工のサウスウィングに分かれている地上3階建ての賃貸オフィス。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.12.14
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そして正面の「拝殿」。「拝殿」前の石鳥居(右)。「拝殿」前の石鳥居(左)。正面から。さらに「拝殿」に近づいて。賽銭箱は無数に鋲を打った金属製で重厚感に溢れていた。防火の為だろうか、それとも防犯なのか。さらに、天井は格子天井。扁額「住吉神社」。「住吉神社略縁起御祭神 底筒之男命(そこつつのおのみこと)・中筒之男命(ながつつのおのみこと) ・表筒之男命(うわつつのおのみこと)(住吉三神) 息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)(神宮皇后) 東照御親命(あずまてるみおやのみこと)(徳川家康)例祭 八月六日「西の海阿波伎の原の潮路より顕われ出でし住之江の神」とト部兼直の和歌にあるように住吉大神は、遠き神代の昔、筑紫の日向の橘の小戸の阿波伎原に於いて顕われた伊邪那岐大神の御子、底筒之男命、中筒之男命、表筒之男命の三柱の神です。神功皇后三韓征伐の祭、皇后自ら御親祭をなさり住吉三神の御守護により無事達成なさりました。その帰途、摂津国西成郡田蓑島(大阪佃)にお寄りになり住吉三神を遥拝になりました。これが大阪佃の住吉の社(田蓑神社)の起源です。遥か後、天正年問に徳川家康公が摂津の多田の廟に参詣の時、田蓑島(大阪佃)の漁夫達が漁船をもって神崎川の渡船を勤めた由縁で家康公がこの島の住吉の社(田蓑神社)にも参詣し、家康公の漁業の傍ら田も作れとの事で、村名を田蓑から佃に改めさせました。そして田蓑の名を残すため社名を住吉神社から田蓑神社へと改めました。天正十八年(1590)家康公が関東下降の際、家康公の命により摂津国佃の漁夫三十三人と住吉の社(田蓑神社)の神職平岡正大夫の弟、権大夫好次が分神霊を奉戴して江戸に下り、寛永年問に幕府より鉄砲洲向いの干潟を賜り、築島エ事を起こし、正保ニ年に竣工し、元の名から佃島と名付け、住吉明神の社地を定めて、正保三年(1646)六月ニ十九日、住吉三神、神功皇后、徳川家康公の御霊を奉遷祭祀しました。これが佃住吉神社の起こりです。佃島は江戸湊の入り口に位置し、海運業、各問屋組合をはじめ多くの人々から海上安全、渡航安全の守護神として信仰を集めました。その後、月島、勝どき、豊海、晴海と埋め立てが行われ、その地域の産土神(氏神)として信仰されています。」そして境内を戻ると、「水盤舎」の奥にあったのが「鰹塚」碑。「鰹塚鰹節問屋は江戸時代から、住吉大神を生業繁栄の守護神として奉賛してきました。神社建築では、棟木の上に鰹節に似た円柱状の飾り木「堅魚木」が横に並んでいます。わが国最古の法典である「大宝律令」(七〇一年)、「養老律令」(七一〇年)に海産物調賦に、堅魚、岩堅魚、堅魚煎汁(岩詰めたエキス)の記録があるように、大和民族は古来より鰹を食し、保存料、調味料としても利用してきました。東京鰹節類卸商業協同組合は、の御霊に感謝慰霊の意を込め、また豊漁を願い、昭和ニ十八年五月「鰹塚」をここに建立しました。費用は組合邑九十六名の積み立てによる浄財でまかなわれました。塚石は鞍馬石(高さ七尺、幅四尺)、台石は伊予青石(高さ三尺)であります。表面の揮毫は、日展審査委員で組合邑・節問屋「中弥」店主でもある「山崎節堂」氏、裏面の碑文は慶應義塾大学名誉教授「池田弥三郎」氏によるものです。 東京鰹節類卸商業協同組合」歴史を感じさせる石塔。1798年(寛政10年)、江戸住吉構が佃住吉神社に石灯籠を奉納したのだと。基壇には「住吉組」の文字が刻まれていた。藤棚の下の木柱には文字が。近づいたが・・・??藤棚の様子をネットから。その奥に「信」と刻まれた石碑。住吉神社の末社「疱瘡神社」・「疫神社」。祭神 素戔嗚命(すさのおのみこと) 疫神(えきじん)御神徳 麻疹(流行病・疫病)退散。佃島では文久2年(1862)に麻疹が流行し、多くの人が命を落としました。その際には7尺の船を造り、そこへ災いを移した藁の人形(ひとがた)を乗せて、漁師の子供らの手によって沖へ流させたという記録が残っているとのこと。扁額「疱瘡神社」。扁額「疫神社」。こちらは、住吉神社の末社である「船魂神社」が「疱瘡神社」・「疫神社」の左隣りに。1869年(明治2年)、大伝場町(おおでんまちょう)1丁目(現在の東京都中央区日本橋本町2・3丁目)の太物店(ふとものだな)が入船稲荷社を佃住吉神社の境内へと遷座したのだと。太物店とは綿織物・麻織物などの太い糸の織物(太物)を商う店舗を指す。「御大禮記念植樹碑」?が石鳥居の横に。「船魂神社」に近づいて。御祭神 船魂神(ふなだましん) 住吉三神(すみよしさんじん)御神徳 船体安全・大漁満足・航海安全社殿の左右に見事な龍の彫刻。扁額「船魂神社」。末社「入船稲荷神社」。住吉神社の拝殿の右奥にある宮神輿庫の隣りにあった。手前左には、板で塞がった水盤が。明治2年2月27日に鎮座。佃島(佃1丁目)にはこの他に「森稲荷神社」・「浪除稲荷神社・於咲稲荷神社」の三か所四社の稲荷神社が鎮座し、毎年初午祭が行われる と。石鳥居に近づいて。狛狐(右)。狛狐(左)。御祭神 宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)御神徳 五穀豊穣・産業発展扁額「入船稲荷神社」見事な龍の彫刻。そして「新神輿庫」。横壁のガラス窓越しに新旧の神輿を。2011年(平成23年)秋山三五郎が佃住吉神社の八角神輿を新たに制作した。これを機に旧い八角神輿が神輿としての役割を終え、現在は東京都中央区の中央区民文化財として、このコンクリート造りの神輿蔵に鎮座していると。旧神輿は1838年(天保9年)芝大門の大仏師・万屋利兵衛が佃住吉神社の八角神輿を制作した。かつての神輿渡御(みこしとぎょ)は氏子が八角神輿を担ぎ、隅田川や江戸湊の水中に入って執り行った。気密を高めるために、八角神輿の内部は漆で仕上げられている と。こちらは2011年(平成23年)秋山三五郎が新たに制作した佃住吉神社の八角神輿であっただろうか。こちらはネットから。「住吉神社宮神輿 八角神輿【右】天保九年製作 中央区区民有形民族文化財指定【左】平成二十三年製作芝大門の万屋利兵衛により天保九年(一八三八)に製作されました。八角の型は天皇陛下の御座 高御座(たかみくら)を擬したといわれています。古くは海中渡御が行われていたため、内部も漆が塗られ気密性が高められています。一七〇年以上例祭におて使用されてきましたが、保存のため平成ニ十三年に八丁堀秋山三五郎により新しく製作されました。」ネット👈リンク から。【右】天保九年製作 中央区区民有形民族文化財指定【左】平成二十三年製作「入船神社」の奥は水路になっていた。「石井ぎんざ歌碑」「明治は 遠くになっても 江戸が 残る 佃の夏祭り ぎんざ」歌碑の手前にも石灯籠が。「歌川広重 名所江戸百景 佃しま住吉の祭」佃島にある住吉神社のお祭りの風景を描いた作品。画面中央にある氏子旗には「住吉大明神」と書かれ、横には「安政4年6月」と書かれているように、この祭りは6月に行われた。氏子旗の奥には、神輿を担ぐ裸の若衆連中によって海中まで担ぎ込まれている様子が、勇壮に描かれている。初夏の爽やかな空気が感じられる と。お祭りで御輿をかつぐ人々の姿が描かれ、多くの人々で賑わう祭りの様子が伝わって来る と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.12.13
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そして「住吉小橋」の左手にあったのが「住吉水門」。「住吉水門」は佃煮発祥の地として知られる中央区佃にある佃川支川と隅田川の接続部に昭和40(1965)年に設置された幅員4メートルのこじんまりとしたローラーゲート式水門。そもそも佃は徳川家康が江戸入府の際に漁業の先進地だった摂津(いまの大阪)の佃村の漁民を引き連れ、隅田川河口の干潟を与えて埋め立てさせ、居住地としたのが始まりで、これが佃島の地名の由来となっている。この時、漁民たちが故郷の神々の分霊を祀った住吉神社(その後、徳川家康の神霊も祀る)が川べりに鎮座し、水門の名前にもなっているのだ。中央区佃1-1。「住吉水門」。形式:鋼製単葉ローラーゲート径間:4m×1連門扉高さ:5.75m竣工:昭和40年度平成28年度に耐震化工事が完了し門扉等が新しくなった。その先にあったのが「石川島灯台」。東京都中央区佃1丁目、中央区立佃公園のっ南側の一角に建つのが、「石川島灯台」。隅田川河口、品川沖を航行する船の安全ための常夜灯として築かれた石川島灯台を復元したモニュメントで、佃川支川が隅田川に合流する住吉水門近くに建ち、石川島の歴史を今に伝えるシンボル的な存在になっている。ここ、現在の中央区佃1丁目〜佃2丁目は、かつての石川島。寛永3年(1626年)、船手頭の石川家4代・石川八左衛門正次が幕府から1万7000坪の土地を拝領して石川島、八左衛門島と呼ばれるようになったのだ。石川家は寛政4年(1792年)、11代・石川正勲の時代に島を去るまで、石川島に屋敷を構えていた。寛政2年(1790年)には池波正太郎の小説『鬼平犯科帳』でお馴染みの火付盗賊改・長谷川平蔵の提案で、老中・松平定信は石川島に人足寄場を設置し、石川家が去った後に石川島全体が人足寄場となっていた。設置の背景には、天明2年(1782年)〜天明7年(1787年)の天明の大飢饉による政情不安、犯罪の増加があった。人足寄場(にんそくよせば)とは、戸籍から外された無宿人、軽罪人らの収容、社会更正・復帰を目的とした施設で、石川島の佃島側を埋め立て、長谷川平蔵が自ら初代責任者に就任している(ここれが日本における刑務所のルーツです)。人足寄場での仕事は、大工、建具、塗物、紙漉き、米搗き、油絞りなどで、就労すると賃金が支給され、一定の金額に達した場合には、身元引受人を探して(戸籍を付与)釈放され、社会復帰を果たしたのだ。慶応2年(1866年)、人足寄場奉行・清水純崎(しみずじゅんき)が人足寄場で生産した油絞りの益金を利用し、人足寄場の西岸に築いた六角2層の常夜灯がこの石川島灯台。灯台の完成で江戸湾から日本橋方面に入る船の航路、近在漁師の安全が図られたのだ。現在の石川島灯台は、モニュメントで灯台としての機能はなく、公衆トイレになっていると ネットから。「石川島人足寄場」案内板。「江戸時代末期の佃島・石川島」。「佃島は摂津国西成群田村(現在の大阪市西淀川区佃)の漁師達が幕府の許可を得て築造した漁村である。家康が1582年(天正10年)、京都から堺の地に遊んだ時、本能寺の変が伝えられ、急遽踵を返して間道を通り抜け大阪に向かったが、出水のため途方にくれている時に佃村の庄屋孫衛門が多数の舟を出して一行を助け、ここに徳川家と佃漁民の間に固い絆が結ばれることになった。その後、家康が江戸に幕府を開くにあたり、佃村の漁師に対する恩賞として彼らに幕府の御菜御用を命ずべく、老中安藤対馬守を通じて、その出府を促し、1613年(慶長18年)には「網引御免証文」を与え、江戸近海において特権的に漁が出来るようになった。1644年(正保元年)には現在の地に百間四方の土地を埋め立てて築造し故郷攝津国の住吉神社の分霊を奉祝し、島の名を佃島と命名した。石川島の灯台は1866年(慶応2年)、石川島人足寄場奉行清水純崎が隅田河口や品川沖航行の船舶のため、油絞りの益金を割き、人足の手で寄場南端に常夜灯を築かせたもので六角二層の堂々たる灯台であった。このたび佃公園を整備するにあたり、モニュメントとして灯台を建設するとともに、護岸前面に安藤広重の浮世絵をレリーフしたものを3題設置して往時をしのぼうとするものである。平成元年 3月中央区土木部公園緑地課」「石川島灯台」前から「隅田川」そして「パークシティ中央湊ザ・タワー」を見る。「隅田川」の岸にあった少女像。「みどりの風」、作者は・・・。左手前方・隅田川、佃大橋越しに「聖路加タワー」を見る。隅田川の下流方向。左手奥に「亀島川水門」、右手に「霊岸島水位観測所」が見えた。「みどりの風」と「石川島灯台」を振り返る。「みどりの風」と「石川島灯台」のコラボをズームして。「住吉水門」を振り返る。海鼠壁の「石川島灯台」。「住吉小橋(すみよしこばし)」越しに「住吉水門」。住吉小橋は、佃川支川に架かる橋である。橋の両岸とも東京都中央区佃1丁目である。「住吉小橋」越しに「石川島灯台」を振り返る。外観は、木目調である。路面は、煉瓦調である。橋長 : 33.0m架橋 : 1997年(平成9年)4月上部工形式 : 2径間連続鋼床版I桁橋橋種 : 鋼橋管理者 : 中央区「住吉小橋」の中央付近に石川島灯台と潮干狩り風景を描いたタイルが嵌め込まれていた。そして鳥居越しに住吉神社の参道を見る。住吉神社朱の一の鳥居を振り返って。2016年(平成28年)2月、佃住吉神社の総代会が一の鳥居を建立した と。そして「住吉神社」の入口に到着。1646年8月10日(正保3年6月29日)佃住吉神社が創建された。祭神は大坂の田蓑神社の分霊・住吉四神と、東照御親命(あずまてるみおやのみこと・徳川家康)の合わせて五柱で、海運業や問屋組合を始めとする多くの町人から海上安全・渡航安全の守護神として崇敬を集めました。当初は旧暦6月29日を例大祭の祭日とし、現在は8月6日を例大祭の祭日とします。摂津田蓑神社の宮司が19代にあたり、ここ江戸佃住吉神社の宮司が13代にあたるとのこと。田蓑神社の社家が本家にあたり、ここ佃住吉神社の社家が分家にあたり、両家共に現在も同じ姓を名乗っていると。中央区佃1丁目1−14。社号標石「住吉神社」。左手に「住吉神社社務所」。右手に「水盤舎」。「奉獻」と刻まれた天保12年(1841)造立「手水鉢」(区民族文化財)は、海上安全を祈願して木綿問屋組合・白子組が奉納したもの と。住吉神社の水盤舎は、明治2年(1869)に再建した現在の社殿と同時期に建てられ、その後、明治44年(1911)に改築されている。構造は、棟を境にして本を開いて伏せたような形式の切妻造で、中心には四方転びの柱に囲まれるように石造の水盤が置かれていた。水盤舎の細部に目を凝らすと、欅材を用いた欄間や木鼻に見事な浮き彫り彫刻が施されていることに気付きく。四方に見られる欄間彫刻の表面には、石川島の灯台を背景にした佃の渡し風景・帆をはった二艘の廻船・網を打つ小舟・磯辺の風景を題材とした彫刻、内側にも、潮干狩りの風景などの彫刻が施されています。さらに、木鼻には躍動感のある唐獅子の彫刻が見られるなど、風情と風格を備えた水盤舎といえるであった。また、参拝者が利用する石造の水盤は、天保12(1841)に江戸の木綿問屋仲間の白子組(越後屋・白木屋・大丸などが所属)が奉納したもので、背面に「天保12年 丑正月 白子組」の刻銘が見られる。住吉神社境内の水盤舎と水盤は、区内の歴史や文化と関わりの深い文化財であるのだと。切妻造りの手水舎の欄間には、佃島の時代背景が分かる彫刻が施されていた。正面「石川島灯台と佃の渡し」。左側面「網をうつ2艘の小舟」と蟇股。懸魚「雲間を飛ぶ3匹の鳥」。背面だけは両面彫刻で外側「波間で網をかける人など、磯の景色」、内側「潮干狩り風景」。木鼻「獅子」、持ち送り「波と亀」の彫刻。「住吉神社の水盤舎・陶製扁額所在地 中央区佃1-1-14住吉神社は江戸初期に、摂津国西成郡(大阪市)佃村の漁民が江戸に移住した後、正保三年(一六四六)に現在地に創建された佃島の鎮守です。当社は、創建以来、佃島の鎮護のみならす、水運関係の人々から厚い信仰を受けてにぎわいました。水盤舎は欅材の切妻造、瓦葺きの建物です。明治ニ年(一八六九)に再建され、同四十四年に改築されました。水盤舎の欄問は、明治ニ年再建時のものを使ったと推定されています。欄問の正面には石川島の灯台と佃の渡し、側面には帆をはった回船や網をうつ小舟、背面には磯の景色、また内側にも潮干狩など、佃島の風景が彫られています。石造の水盤には「天保十ニ年白子組」と見え、木綿問屋組合が寄進したものです。正面鳥居の上にある篇額は、珍しい陶製で、白地に呉須で額字や雲文を染付けています。明治十五年(一八八ニ)六月に制作され、額字の筆者は有栖川宮幟仁親王です。いました。水盟舎と陶製扁額は、共に中央区民有形文化財に登録されています。 平成九年三月 中央区教育委員会」正面「ニの鳥居」の上にある篇額は、珍しい陶製。「ニの鳥居」は平成元年(1989年)1月15日建立の石鳥居。白地に呉須(ごす)で額字や雲文を染付けている。呉須とは、古くから染付などの磁器に使われている青色の顔料のこと。 江戸時代初期に中国より有田にもたされたと考えられており、今日では、特定の産地にとどまらず広く陶磁器に使われている。 他の絵の具と違い、呉須は素焼きの状態で着色するため、その青が色あせることはないとのこと。明治十五年(一八八ニ)六月に制作され、額字の筆者は有栖川宮幟仁親王 と。狛狗(右・阿形)。狛狗(右・吽形)。右に「神楽殿」。藤棚の手前にあった巨大な青銅製灯籠。1925年(大正14年)10月頃、佃島の住民が佃住吉神社の境内に金子政吉(かのこまさきち)を讃える唐金(からかね・銅や錫などの合金・青銅)の灯籠を建てた と。金子政吉(1857年・安政4年-1934年・昭和9年3月8日)は佃島の親分で、二つ名に「魚河岸の政」がある。製作者は岡崎雪聲という人物。彼は日本橋の麒麟像も手掛けたとのこと。五世川柳 水谷緑亭句碑。五世川柳 水谷緑亭句碑。「水谷緑亭(1787~1858)は、南茅場町(現在の日本橋茅場町1丁目)に生まれ、本名を金蔵といいました。幼い時に父を亡くし、佃島の漁師太平次に養われ、佃島の名手をつとめたと伝えられています。また、養父母に孝養を尽くし、佃島の風俗を矯正した功績などにより、町奉行所から三度にわたり褒章を受けました。文化年間(1804~1818)初めに二世川柳柄井弥惣右衛門の門に入り、川柳を学び、腥斎佃(なまぐさいたつくり)と号しています。二世没後は四世川柳人見周助に学び、天保8年(1837年)50歳の時に五世川柳を継承しました。五世嗣号の翌年には、初世川柳以来続いた『誹風柳多留』が、167編で刊行を終えますが、天保12年(1841年)から『新編柳多留』を刊行し、嘉永2年(1849年)の終刊まで55編を数えました。緑亭は、この間に川柳の式法を作り、晩年に『柳風狂句』と名付けています。編著には『狂句百味篳筒』をはじめ『住吉社奉額狂句会』等があります。文筆業に長じ、川柳とは別に著作も多く、『遊仙沓春雨草子』『祥瑞白菊物語』などの草双紙や、『俳人百家撰』などの伝記物等も著しています。この句碑は、昭和41年(1966年)11月に佃の人々によって建立されたもので、 『和らかで かたく持ちたし 人ごころ』と緑亭の句が刻まれています。 平成9年3月 中央区教育委員会」境内から「ニの鳥居」を振り返る。社殿に向かって左側にあった末社の「龍神社」。扁額「龍神社」。「内陣」。「龍神社龍姫大神(たつひめのおおかみ)(豊玉姫神)於迦美大神(おがみのおおかみ)・竜王弁財天文政五年(1822)住吉神社の境内に水を司る神、龍姫大神(豊王姫神)が龍神社として創建されました。その後佃島に白蛇が現れ、人々はこれを龍神(於迦美大神)と崇め佃の町の中に祠を建てて祀りました。しかしこの祠は漁師が網を渋釜で者る作業場の近くにあったため火熱の害を受け易くある時網元の夢枕に祭神が現れ、住吉神社の境内へ移りたいとの神託(神のお告げ)がありました。これを受けて天保九年(1838)に住吉神社境内社の龍神社に合祀されました。翌年になると日本橋老舗白木屋の守護神として祀られていた大弁財天の御神徳が大き過ぎるため、持ちきれず龍神社へと合わせて祀られました。龍神社と大弁財天を合わせて「龍王弁財天」とお呼びするようになり、今日では開運出世・金運上昇・問売第盛・学業成就・芸能達者・病気平癒の御神徳を持っ神として、崇敬を集めています。また弁財天の縁日が「巳の日」であることから、多くの方々が「の日に参詣しました。現在龍神社の例祭は「さくら祭り」期問中の三月下旬頃行われます。巳成金龍神社の出世開運・金運上昇のお守りとして年間を通して頒布されています。持つ人の身(巳)」に福・金運が訪れるよう祈願されたお守りです。巳の守毎年初めの龍神社の縁日である「初巳の日」に頒布されるお守りです。年の初めにその一年間の個人で家庭の徳・出世・開運を導くお守りです。」拝殿の左・佃川支川側にあったのが「旧神輿庫」。煉瓦ニ階建(イギリス積み)の「神輿庫」。1910年(明治43年)12月に860円を投じて神輿蔵を建てたのだと。イギリス積みは、レンガの長手(長い面)だけの段、小口(短い面)だけの段を交互に積み上げる方式。「旧神輿庫形状:煉瓦ニ階建(イギリス積み)坪数:四坪五合八勺竣成:明治四十三年十ニ月費用:八百六十円住吉神社では明治四十三年(一九一〇)に大規模な修繕・改築等を行い、その事業の一環としてこの神輿庫が新築されました。当時東京府へ提出した工事開始願書には、神輿庫について(下)の様に記されています。神輿庫ノ儀ハ従来神輿ヲ拝殿ノー隅ニ置キ候為ニ平時甚タ不便ヲ感シ候ニ付今回新築致シ神輿ヲ納置シ度(後略)明治四十三年十一月ニ十五日(意訳)神神輿については、今まで神輿は拝殿の隅へ置いてあり、その為普段大変不便を感じていたので、この際新築して、ここへ神輿を納めようと思います。神社境内にレンガ造りの神輿庫は同時から珍しいものだったかもしれません。平成ニ十三年の震災で破損致しましたが、貴重な歴史的建築物として、補強工事を行い現在も使用されています。尚、宮神輿(八角神輿)は現在、社殿に向かって右側のコンクリート造りの庫に安置されており、こちらの煉瓦の庫はその他の祭具が納められています。」「古河神社(ふるかわじんじゃ)」祭神:不詳御神徳:水辺の守護佃島周辺の水辺を守る神様で、石の祠。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.12.12
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「佃天台地蔵尊」を後にして、「佃小橋(つくだこばし)」を渡る。佃小橋は、佃川支川に架かる橋である。橋の両岸とも東京都中央区佃1丁目である。橋長 : 12.5m架橋 : 1984年(昭和59年)3月上部工形式 : PC単純I桁橋橋種 : RC橋管理者 : 中央区外観は、朱塗りである。欄干の柱の上に、装飾として擬宝珠が設けられているなど、歴史的な意匠が施されていた。「佃小橋」の下の、佃川支川の川底には、3年に1度行われる住吉神社の例大祭に用いる「抱木(だきぎ)」(大幟の柱)が、保存のため埋設されているとのこと。佃小橋から見ることができる位置には、佃住吉講によって、このことを知らせる案内板が設置されていた。中央区佃1丁目10−11。大幟の柱や抱木は、空気に触れて木が腐ってしまわないように、三年の間、川底に埋められている。例大祭の際には、水の引く干潮時を狙って掘り起こされるのだと。「此の場所には、江戸時代後期寛政拾年(一七九八年)徳川幕府より建立を許された大幟の柱・抱が、埋設されておりますので立入ったり掘り起こしたりしないで下さい。佃住吉講」。「佃小橋」の先、右側にあったのが「日の出湯」中央区佃1丁目6−7。大栄マンションの1階にあった、男湯と女湯の入口が分かれた銭湯。「本日臨時休業」と。そして次に訪ねたのが「旧飯田家住宅」。佃島は、徳川家康公の命で摂津国(現在の大阪府北部周辺)佃村などから移住した漁師達によって、江戸湊の要・隅田川河口の干潟が造成されて1644年に完成しました。近代になってから、月島の埋め立てなどがありましたが、約400年前の地割りをほぼとどめています。関東大震災や太平洋戦争時の空襲からの被害も免れたので、歴史的な建造物や家屋も多く残っています。開発が進んだ現代の東京では、きわめて稀有な存在と言えます。中央区佃1丁目3−6。「飯田用水」と。「■■■田島邸 荷物撤去についてお知らせ■■■」とあったが・・・???。ネットには「佃島に建つ築100年の魚問屋 旧飯田家住宅は、亡き田島恒夫さんを想い起こす住まいです。」との文章があったが・・・。「旧飯田家住宅」👈リンクは、「佃喜八」という屋号をもつ日本橋魚市場の魚問屋の併用住宅として大正9年(1920)頃に建築されました。佃島の「中通り」に面して建つ2階建の出桁造(だしげたづくり)町家で、魚問屋らしく北側に生け簀(いけす)と手押しポンプの井戸を配した広い土間をもち、南側には住宅への玄関を独立して設けていることが特徴です。土間の入口の鴨居には、商家のステータスとなる背の高い人見梁(ひとみばり)を用い、大八車が入りやすいように敷居が外れるようになっています。また2階には榁(むろ)の変木を用いた数寄屋風の続き間座敷があり、昭和のはじめには、東京宝塚劇場の開設にあわせて阪急電鉄社長の小林一三(こばやしいちぞう)が滞在したとも伝えられています。この銅板には文字があったのであろうか。懐かしい手動井戸ポンプ。振り返って。そして正面に見えて来たのが「佃まちかど展示館」。中央区佃1丁目2。近づいて。「中央区は江戸時代より、わが国の文化・商工業・情報の中心として発展してきた長い歴史と伝統を誇る由緒あるまちです。面積は小さいながらも、江戸五街道の起点である名橋「日本橋」、世界のショッピングストリート「銀座」、日本のウォール街「兜町」、食文化の中心「築地」、佃や月島をはじめとした豊かな水辺等さまざまな魅力に満ちあふれ、多くの人たちが集う活気とにぎわいのまちとして、めざましい発展を遂げてきました。以来400年余り、中央区は歴史と伝統を育み、江戸以来の老舗や地域のお祭りなど、多様な文化資源が脈々と息づいています。この中央区の魅力を皆様に広く知っていただくため、地域の文化資源を「まちかど展示館」として整備し、開設しています。展示館は、小さな老舗内の伝統工芸品を飾ったショーケースから企業のものづくりや歴史を展示したもの、あるいは下町の祭事に使用する神輿など、規模や展示方法はそれぞれですが、中央区が誇る文化の一端をかいまみることができます。中央区の“ちょっとすごい”を是非、お訪ねください。」と。中央区佃1丁目2。内部をネットから。「佃まちかど展示館 👈リンクまちかど展示館は、地域に根づいたまちの歴史や記憶を区民等が自ら掘り起こし、展示や公開をすることで、地域文化の継承や住むまちに誇りや愛着心を育んでいただくため、区が公認し設置しているものです。佃島は、攝津国西成郡(現在の大阪市西淀川区)佃村・大和田村の漁師たちが、大川(隅田川)河口付近の干潟百間四方を拝領し、正保元年(1644年)に埋め立て造成した島です。故郷の名をとり佃島と名づけられました。漁師たちは、移住以来徳川将軍へ日々の鮮魚を献じていました。特に白魚は将軍の食膳に不可欠なものだったといい、今も佃島漁業組合に白魚献上箱が伝えられています。また、住吉神社は正保3年(1646年)に大阪の住吉神社の分霊を移したもので佃から月島一帯の氏神となっています。3年に1度の大祭には、神興が繰り出し月島地域が沸きかえります。佃まちかど展示館には、こうした佃島の歴史や伝統を象徴する千貫神輿や区民文化財である龍虎の獅子頭、佃例大祭の写真などを展示しています。また、この他にもたくさんの貴重な文化資源が残されています。」龍虎の獅子頭は写真が展示されていた。下には龍(左)虎(右)の獅子頭。「この龍虎の頭は制作年代不詳にして最も古きものなり既に天保初年発行の「東都歳時記」夏の條に 六月廿八、九日佃島住吉明神祭礼 龍虎の頭を渡す云々とあるは之れにして江戸時代佃ハ幾多の火災に罹り全島焼土と化したる事もあれと何時もこの龍虎の頭ハ不思議にも其の災いをまぬがれてり大正十年頃迄ハ大祭の時に此の頭を渡せしが大獅子頭新造以来之れを渡さず尚大祭の時ハ此の場所に庭を造り飾る事古例なり佃住吉講」黒駒の獅子頭(左 雄獅子・右 雌獅子)。「黒駒の頭について(中央区指定文化財 指定第七号)制作年代文政ニ年六月で佃島で二番目に古い頭です。獅子の頭ですが漆黒に塗られている為、黒駒と呼称されています。製作完成時に、あまりの出来栄えに、塗りの良否を試そうと、渋釜の煮えたぎった熱湯に漬けられたが少しも剥げる事なく漆黒を保ち、塗りがいかに良いかを示したと言い伝えられています。昭和四十年位までは子供達によって渡御していましたがその後、渡御はぜずに大祭時には安置のみとなりました。尚、平日は紫外線による劣化防止の為、写真での展示となります。」そして「千貫神輿」。もとは終戦後に千葉の寒川神社の宮神輿として新調されたものですが、あまりの重さに200人の怪我人を出したというエピソードが残っています。この神輿があまりの大きさと重量のためにその後、人形町末廣神社を経て、昭和34年に佃住吉講が譲り受けたのですが、担ぎ棒があまりに長く、狭い佃のまちに合わせて短く切ったといいます。3年に一度の住吉神社の例大祭にこの千貫神輿とともに若衆(わかいし)によって担がれるのが、中央区有形民俗文化財に指定されている文政年間作の龍虎と黒駒、2対の獅子頭です。竜虎の獅子はその昔、収蔵された藏が焼けた時、水を吹き鎮火したという伝説が残されていて、佃が震災や戦災を逃れたのも龍虎のお陰と言い伝えられているそうです。展示館の右手には「佃島渡船」の石碑が立っていた。江戸時代から佃大橋ができるまで渡し船が隅田川を行き来していました。そしてこの地がルーツとして知られる佃煮の老舗。町の氏神である住吉神社。さらには戦災を逃れた情緒ある家並みなど、佃には見所がたくさん。歴史ある住吉神社の威勢のいい例大祭はとても有名で魅力的ですが、昭和の面影を色濃く残した日常の静かな佃には格別の趣きがあります。人家の声が聞こえそうな細い路地や、そこに隠れるように祭られた佃天台地蔵尊。とても小さいけれど歴史ある森稲荷神社。古い駄菓子屋のような店構えの漆芸店など、展示館とともに訪れたいまちです。中央区佃1丁目2−10。「佃島渡船場跡所在地 中央区佃1-11-4 湊3-18先佃島は隅田川河口にできた自然の寄洲でした。江戸時代初期、初代将軍徳川家康の招きによって摂津国佃村(現大阪市西淀川区佃)から下ってきた漁師たちは、鉄砲洲東の干潟百間四方を埋立てて佃島を築きました。そしてこの島と対岸の船松町(現在の佃大橋西詰付近)との間に通された渡船が佃の渡しです。佃の渡しは、佃島住民だけでなく、住吉神社への参詣や花見見物などの人々に利用されました。明治時代には渡し賃が一人五厘であったことから「五厘の渡し」と呼ばれました。大正15年(1926)に渡船の運営が東京市に移ってからは定期的に運航されるようになり、昭和2年(1927)以降は有料の手漕ぎ渡船から無料の曳船渡船となりました。同年、渡船場の諸施設が整ったことを記念して、佃一丁目と湊三丁目にそれぞれ石碑が建てられました。昭和31年(1956)には一日平均60往復、1万6000人もの利用者がありましたが、昭和39年(1964)8月に佃大橋が完成したため、佃島の渡船は廃止されました。佃島渡船場跡は、渡船の歴史を記念する区民史跡として、中央区民文化財に登録されています。」「佃島の渡船(昭和30年代)」。「佃渡し跡広場」。中央区佃1丁目2−9前。右側の小さな広場・「佃渡し跡広場」にあった北條秀司句碑。佃まちかど展示館の横手、佃島渡船の碑に向かい合うようにあった。「雪降れば佃は古き江戸の島 秀司」「劇作家北條秀司は佃島が好きであった。新派俳優、花柳章太郎も佃島が好きであった。二人はたえず連れ立って、佃島を歩き、大川の渡船を楽しんだ。その結晶として、「佃の渡し」の芝居作りを企画した。それが昭和32年(1957年)12月の新橋演舞場に脚光を浴び、劇団新派の財産を一つ殖やし、北條の代表作をまた一つ世に残すことになった。」「佃公園のご案内」。テラスへの石段の手前には現在地周辺の地図が。現在地は、「隅田川」に架かる「佃大橋」南側、隅田川の左岸。「佃島の歴史佃島は江戸時代初期、摂津国佃村と大和田村の漁師たちが鉄砲洲沖の干潟を拝領して埋め立て、漁師町を形成しました。漁師たちは将軍に白魚献上の御用を勤めました。佃煮が生まれた地としても知られ、現在も3軒の佃煮屋が営業しています。関東大震災、戦災の難をまぬがれたため、長い年月の変容も受けながらも昔のたたずまいを今に残しています。」「住吉神社住吉神社は、江戸時代初期に摂津国佃村の漁師たちが江戸に移住したのち、大阪の住吉神社を分社し、1646年に現在地に創建した佃島の鎮守社です。以来、佃島の人びと、水運関係の人びとから厚い信仰をうけています。正面島居に掲げられた陶製扁額(区民有形文化財)は、有楢川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)の揮毫によるものです。」テラスから「隅田川」に架かる「佃大橋」、その先にブリッジで繋がる「聖路加タワー」👈リンク。「隅田川」の上流方向。「隅田川」はこの先で「晴海運河」と二手に分かれているのだ。「佃島の街並み」、「佃まちかど資料館」前を引き返した左側にあったのが「佃煮 ㈱天安本店」。店内には様々な種類も佃煮が並んでいた。再び「佃島の街並み」を「住吉神社」の朱の鳥居に向かって歩く。前方に「住吉神社」の朱色の一の鳥居が見えて来た。古い民家。再び「聖路加タワー」。朱の鳥居越しに「住吉神社」の参道を見る。中央区佃1丁目1−18手前。正面に見えたのがこの後訪ねた「石川島灯台」。「佃川支川」を見る。反対側には「住吉水門」があった。現在地はココ。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.12.11
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「月島もんじゃストリート」を後にして「西河岸通り」に出て「新富晴海通り」に向かって進む。前方に再び高架の「新月陸橋」が見えて来た。その先の歩道脇に案内板が。「佃島砲台跡」案内板。中央区月島1丁目1−8。「佃島砲台跡所在地 中央区月島一丁目一・ニ・十三・十四番地域江戸時代末期、佃島 の南に位置するこの場所には、外国船の渡来に対処するための海防施設「砲台 」が築かれました。江戸防衛・海防策の一環で砲台が築造されたのは、嘉永6(1853)年6月にアメリカ東インド艦隊司令長官ペリー が4隻の軍艦を率いて浦賀に来航し、日本の開国・貿易港の開港などを求めた出来事が契機でした。ペリー来航から2か月後の同年8月、幕府は非常事態に備えて品川沖に江戸防衛用の台場 (砲台)築造を始め、翌年11月までの短期間に「第一~第三・第五・第六・御殿山下」の六基(品川台場)を完成させました。佃島の南に砲台が築かれたのは、品川台場の築造から約10年後の元治元年(1864)のことでした。砲台新設の契機となったのは、文久3年(1863)に勃発した薩英戦争 や元治元年の四国(英・米・仏・蘭)連合艦隊による下関砲撃事件 などの出来事でした。幕府は、より強固な江戸湾防備体勢を敷くため、品川から越中島までの間に新たに海岸砲台の設置を計画し、佃島砲台もその一つとして築造されました。佃島砲台の規模は「東京市史稿」の「東京通志」によると「京橋区佃島南端海中ニアリ。東西凡三拾九間(約70メートル)、南北凡四拾間(約72メートル)、面積凡千三百七拾坪。元治元年甲子幕府之ヲ築キ、明治に至リ修理ヲ加ヘ、陸軍省ニ属ス」とあります。明治期には、陸軍省 所管の砲台となりましたが、明治20年(1887)に始まった月島築造工事の際に、佃島砲台を基点として月島第一号埋立地 (現在の月島1~4丁目)の埋立が進められ、工事の過程でその姿を消しました。平成22年3月 中央区教育委員会」明治17年「五千分の一東京図測量原図(部分)」。明治33年頃の佃島砲台。そして「佃公園 佃堀広場(ジャリ公園)」に到着。中央区佃1丁目8−9。その先、左手に神社があった。正面から。江戸時代に33人の漁師たちが昼夜休むことなく造った島。それが佃島あると。かつては東京湾に囲まれ、漁師町として栄えた地域。そんな佃に1つの鳥居を共有する2つの珍しい神社があった。左手が正一位とされている「波除稲荷神社」、右手が「於咲稲荷神社」。中央区佃1丁目8−4。石鳥居の扁額「奉納 於咲 浪除 稲荷大明神」。神社の玉垣(たまがき)。玉垣とは、神社・神域の周囲にめぐらされる垣のこと。周囲の玉垣にはこの神社に深い関わりのある水産業関連の社名や地域の方々の名前が彫られており、地域の人たちにとても大切にされてきたことが分かるのであった。「手水舎」。波除稲荷神社(なみよけいなりじんじゃ)。波除稲荷神社を正面から。江戸開府に伴う江戸市街地の整備工事の最後、激しい波風に困難を極めた海面の埋立工事をピタリと納めた御神徳に「波除」の尊称を奉られ、雲を従える龍・風を従える虎を一声で威伏させる獅子の巨大な頭が奉納され、此を担ぐ事に祭礼も始まったと。御祭神は「倉稲魂命(うがのみたまのみこと)」。扁額「正一位 波除稲荷大明神」。社殿内陣。「さし石」。若者たちの力試し、力競べ用の石。イチョウの木の根元には大きなまん丸の石が。「さし石」と書いてあった。力石は、一般的な力石にみられるような楕円の形で、表面に凹凸が少ない安山岩系の自然石で造られていた。寸法は、概して長径60から64cm・短径36から43cm・厚さ18から23cmほどの石。重さは80~100kgもあろうか?さらに、力石には、「さし石」「奉納」の刻字とともに、「佃大市」「佃辰」「佃清」「吉松」など、実際にさし上げた(持ち上げた)者の名を読み取ることができるのであった。この「さし石」は、佃島の若い力自慢の漁師たちが力比べでさし上げた石であり、漁業を主たる産業としていた佃島の人びとの風俗習慣・信仰・郷土愛の発露によって当稲荷神社に奉納・保存されてきた貴重な民俗文化財といえるであろう。石垣再建碑。碑の裏面には発起人の名が。「於咲稲荷神社(おさきいなりじんじゃ)」。オサキという狐が疫病を退散したと言われており、当時の流行り病を鎮めるために作られたと。この神社はできて300年くらいの歴史があると。当時も現代のように、感染症に苦しめられていたのであろうか。神に祈りたくなる気持ちは今も同じ!!「疫病退散願」と書かれた御札が。祭神:稲荷大神。扁額「於咲稲荷大明神」。「令和八年例祭 住吉講参部 若衆募集」と。「三年に一度、心地良い疲れと充足感ある夏を共に佃住吉講参部では令和八年八月の住吉神社例祭に参加する若衆を募集しています。・中学生から四十代程度まての健康な方・八月の例祭を含む前後約三ヶ月の作業(主に日曜日)に参加できる方入部希望の方、ご質問のある方は下記へご連絡下さい。※募集締切 令和七年十一月末予定 ※面接がございます。※入部の際に入講金一万円貰い受けます。」正面に見えたのが「佃小橋(つくだこばし)」。佃小橋は、佃川支川に架かる橋である。橋の両岸とも東京都中央区佃1丁目である。外観は、朱塗りである。欄干の柱の上に、装飾として擬宝珠が設けられているなど、歴史的な意匠が施されていた。橋長 : 12.5m架橋 : 1984年(昭和59年)3月上部工形式 : PC単純I桁橋橋種 : RC橋管理者 : 中央区中央区佃1丁目8−1。「於咲稲荷神社・波除稲荷神社」の前にあったのが「佃天台地蔵尊 入口」案内板。中央区佃1丁目9−6。近づいて。人がすれ違うこともできないくらい細い路地の奥にお地蔵様がいたのであった。さらに奥に。家と家のスキマのような道を行くと、右側大銀杏の樹の手前に手水場が。近づいて。大銀杏の樹の奥に提灯がずらりと並ぶ立派な御堂が右奥に。佃天台地蔵尊と大銀杏を紹介する東京新聞の記事も掲示されていた。「巨樹古木に合いに行く稲荷(いなり)大明神前の細い路地を入ると、中ほどに灯火が。優しく温かな佃天台子育て地蔵尊の煌(ひ)。家々に挟まれたわずかな空間のお堂。しかし、そこは佃一丁目の人々の深く自然な信仰と心のぬくもりがこもっていた。チリ一つなく、美しく清掃された空間の心地よさ。自然石に刻まれた、とても珍しい地蔵尊も幸せそう。堂内の二抱えあるイチョウの大木も、やはり幸せそう。心豊かな小世界。「かって文化財の指定を遠慮されたので樹木の資料がない」と、中央区役所の話。そうか、なるほど、合点のゆくことです。信仰も大木もあるがまま、佃の人々と一つになって生きている。本来、文化財とは指定されるものではなく、人の心の努力がつくり守るもの。まさに、ここに住む人々の真骨頂を見た。房州通ひか、伊豆ゆきか、笛が聞える、あの笛が。渡わたれば佃島。メトロポオルの燈(ともし)が見える 木下杢太郎」昭和三十九年八月 江戸の名所「佃の渡」は三百十九年間の歴史に終止符打った。だが・・・・」正面から。「皆様へお願い地蔵尊の御影がいたんできましたので永く保存するために手をふれたり水をかけたりしない様にお願い致します。佃天台地蔵尊」小さな石祠も奉納されていた。石板に線刻で描かれたお地蔵様が祀られていた。江戸時代の中期正徳五年(1715)~元文三年(1738)に在住された上野寛永寺崇徳院宮法親王が地蔵菩薩を厚く信仰され、自ら地蔵尊造立を促された。その崇徳院宮法親王が淨名院建立の際に描かれた地蔵尊を後に地蔵比丘といわれた第三十八世の妙連大和尚が八萬四千体石地蔵尊建立を発願され、地蔵尊を拝写して全国の信者に賜ったとのこと。この天台地子育地蔵尊には「天台地蔵比丘妙連」の刻名があり、この地蔵尊もその八萬四千体のひとつではないかと。狭い空間ながらたくさんの奉納提灯も飾られ、近隣の人たちによって守られていることがよくわかるのであった。奉納提灯に近づいて。大きな提灯「佃天台地蔵尊」も。「佃天台子育地蔵尊縁起」。「佃天台子育地蔵尊縁起江戸時代の中期正徳五年(一七一五)~元文三年(一七三八)に在住された上野寛永寺崇徳院宮法親王が地蔵菩薩と厚く信仰され、自ら地蔵尊像を描き江戸府内の寺院にたわまり、地蔵尊造立を促されたと伝えられています。享保八年(一七ニ三年)寛永寺の宮様、大明院宮崇徳院宮、随宜楽院宮の三代にわたり、律院建立と熱願されたことから、寛永寺第六世輪王寺宮の推挙を得て、比叡山に安楽律院、日光山に興運律院、上野東叡山に浄名律院が建立され、その浄名律院(現在、浄名院)建立の際、山内に地蔵尊像と描かれた崇徳院宮法親王が、松をお手植えされたので、地蔵寺といわれるやにも伝えられていますが、浄名院第三十八世に地蔵比丘(びく)といわれた妙運大和尚が、八萬四千体石地蔵尊建立を発願され、崇徳院宮の描かれた地蔵尊を拝写され全国の信者に賜わったことからとも伝えられています。(八萬四千体とは、仏典に『無量壽仏 有八萬四千相十一相客 有八萬四千随形好・・・』に拠る。)妙運大和尚が地蔵比丘といわれる所以は、嘉永3年(1850年)日光山星宮の常観寺に寓した際、地蔵尊信仰の縁ににふれられ一千体の石地蔵建立を発願され爾後、浄名院住職になられ、本格的に八萬四千体建立の大発願をなされたからといわれています。佃天台子育地蔵尊には、天台地蔵比丘妙運の刻銘があり、まさしく拝写されたお姿と同じく左手には如意宝珠、右手に錫杖を持たれております。またこの像を平らな自然石に刻まれていることもたいへん珍しいといわれています。この地蔵尊に天台の二文字があることは妙運比丘が天台宗の僧であったことから。いや天台宗の教義の一つに『一切衆生悉有仏性=人は本来的に仏である』とあることから、いつの頃からか定かではないのですが、こう呼ばれ親しまれてきたのではなかろうかと考えられます。この佃天台子育地蔵尊は頑是ない子供衆の様々なことを御守護下さる本願がおありになりますと同時に長壽延命・家内安全・諸願成就の地蔵尊といわれていることから古くから佃島の人々はもちろんのこと多くの人々に信仰され今日に至っております。平成十年一月佃天台地蔵尊信徒一同」そして再び、人がすれ違うこともできないくらい細い路地を戻ったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.12.10
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さらに「桜の散歩道」を進むと、左手には「電気ケーブル」専用の橋「朝潮運河専用橋」。電線路専用橋のようであった。1960年代初期に架橋されたもので、もちろん立入禁止。再び、「晴海アイランド トリトンスクエア オフィスタワー X棟&Y棟」を振り返る。「朝潮運河専用橋」の歴史を感じさせる橋の基礎の前後には保護杭が設けられていた。右手前方に見えて来たのが「ビュープラザ6号棟」その後ろに「晴海アイランドトリトンスクエアビュータワー1号棟」。いずれも高層マンションのようであった。前方に見えて来たのが「晴月橋(せいげつはし)」。文字通り、晴海と月島を結ぶ橋。「桜の散歩道」の右側の路は「さざなみ通り」。中央区晴海1丁目8。「晴月橋」手前の横断歩道を渡る。中央区月島4丁目18−3。橋銘板「晴月橋」。狭くなった「桜の散歩道」を更に進む。桜の葉も紅葉が始まっていた。前方には「朝潮橋」。中央区晴海1丁目。長さ86m。「朝潮橋」。「朝潮橋」を左に見ながら、手前の横断歩道を渡る。「竣功 昭和二十六年三月 拡巾 昭和三十八年十一月 あさしおばし 朝潮橋」。ここは「朝潮運河親水公園」と。中央区晴海1丁目2−1。「朝潮運河親水公園」は中央区晴海地区にある区の管理する公園。平成21年12月にオープンした公園で、運河を望む眺望スペースが川沿いに長くあり、釣りをする人も大勢いるとのこと。朝潮運河は中央区の勝どき、月島、豊海町と晴海の間を流れていて、ここではハゼが釣れることで有名で、他にセイゴ、スズキも釣れるようです。小型船の停泊場が。ここ「朝潮運河」周辺の橋。屋形船も停泊中。そして「朝潮大橋」。その先に見えたのが「佃水門」。佃水門の機械室。「朝潮大橋」への階段を上る。「朝潮大橋」を進む。振り返ると、「BIPROGY本社ビル」その右に「アーバンドックパークタワーA棟」。遠く「東京スカイツリー」も見えた。さらに「朝潮大橋」を北西・「初見橋」交差点方向に進む。「朝潮大橋」から「朝潮運河」の「朝潮橋」方向を見る。ズームして。「佃水門」機械室。「東京港建設寺務所 佃水門」と。道路を横断できなかったので、「佃水門」のゲート・門扉をネットから。<佃水門>門扉型式 複葉ローラーゲート有効幅員 11.4m×2連上空制限高(A.P.) +6.6m竣工年度 昭和38年中央区晴海1丁目。「朝潮大橋」の先の「新月陸橋」を左に下りて坂を下る。「初見橋」交差点へ。中央区にある清澄通りと晴海通りがクロスする交差点。東京メトロ有楽町線・月島駅が最寄り駅である。現在陸橋(都道473号線・新富晴海線)が通る位置には運河が横たわり、月島と佃島とを分けていたと。「初見橋」は当時月島通りと呼ばれていた大通りがこの運河に架かる橋でした。今では名前だけが往時の記億を留めています。中央区佃3丁目6。「初見橋」。ここに「初見橋」が架かっていた。1919(大正8)年発行の地図の月島部分。この緑の高架橋・「新月陸橋」の下が運河であったのだ。「新月陸橋」に沿って進み左折し「西仲通り」を進むと、交差点の角にはモニュメントが。中央区月島1丁目8。「輝きー月島 2003 望月菊磨」と。その先右側には「月島名物もんじゃだるま 海鮮処」にあった「巨大ダルマ」。下町情緒を色濃く残す「月島」。この街はもんじゃ焼き屋さんが立ち並ぶ「西仲通り商店街(通称・もんじゃストリート)」としても有名なのである。中央区月島1丁目9−15 西仲住宅1F。「もんじゃ 竹の子」。中央区月島1丁目9−15西仲住宅1F。「もんじゃストリート月島西仲通り商店街」案内板。中央区月島1丁目3−丁目。近づいて。もんじゃ焼きは溶いた小麦粉に具を入れて鉄板で焼いて食べる東京のローカルフード。その昔、子どもたちが文字を覚えながら食べていた文字(もんじ)焼がルーツとか。発祥の地、東京の下町、月島にはもんじゃ焼き屋が軒を連ねるストリートがここと。「月島西仲通り一番街」。現在の西仲通りは明治末期にはその原型がつくられ、関東大震災後の復興により、現在のモルタル看板建築の町並みが形成された。帝都復興事業により、明治期の街区に整備された路地には長屋が立ち並んだ。西仲通りに直交する路地を中心に長屋が残り、震災後の町並みを今日に伝えているのだと。「月島西仲通り二番街」。月島西仲通り二番街に面した高層マンションMID TOWER GRANDが竣工したのが2020年10月。コロナ禍も続き、1階店舗の入店も遅れ、営業も制限されていた。しかし、仲見世通りらしいアーケドが残されて、日除け・雨避けのある、公共空間ができた。マンション側の公開空地とともに、西仲通りの午後の歩行者専用時間には、「居心地が良くあるきたくなる」まちなかの暮らしかたを、つくり合ってゆける場であると。「もんじゃ風月 月島店」。中央区月島1丁目19−4。美味そうな「ねぎやき」。「月島西仲通り二番街」を望む。左手に「もんじゃ太郎」。中央区月島1丁目22−1−103。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.12.09
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「朝潮運河」脇の遊歩道から「黎明橋」を見る。晴海通りが通り、南東端の晴海と北西端の勝どきとを結ぶ。橋長88.2m。なおは運河のすぐ北東側・「黎明橋」の先には、動く歩道を備えた歩行者専用の「トリトンブリッジ」が並行して架けられていたのであった。近辺の橋は(上流) - 晴月橋 - 桜小橋 - トリトンブリッジ - 黎明橋 - 黎明大橋 - 朝潮水門 - (下流)「黎明橋」と。「中央区立黎明橋公園」内にあった石碑・「平和之礎」。佃島月島の戦没者400有余名の慰霊顕彰。碑文「副碑」郷土の英霊に捧ぐ祖国の命運を賭けた大戦終わって二十有余年国敗れて山河ありと雖も今日の平和と繁栄あるは戦の庭に華と散つた勇士の賜である。佃島月島地区出身の英霊は実に四百柱に達す その霊を慰め、その功を伝えるのは後に続くものの大いなる責務であることに思いを致し、昭和三十四年以来島友会を中心に同志相計り広く協賛を得て今この碑を中央区晴海公園の一角に建つ。この碑の名は ”平和の礎”諸霊の勇名刻してここに納む 今こそ安らかに眠り給え。そして平和の尖兵となり、永久に郷土を守らんことを 昭和44年9月23日 島友会 建立」と。「平和の礎建設発起人」碑。「晴海通り」に出たが横断歩道がないので、「れいめい橋公園通り」まで戻る。歩道橋を渡る。歩いて来た晴海3丁目方向を見る。「黎明橋」方向。そして「黎明橋」方向に進むと右手にあったのが「トリトンスクエアガーデン」。「晴海アイランド トリトンスクエア オフィスタワー 」入口のエスカレーター。中央区晴海1丁目-8。「Triton Square」塔。トリトン「Triton」とは、ギリシャ神話で、海神ポセイドンの息子。上半身は人間、下半身は魚形または蛇形の姿をとる。「2001年3月31日竣工竣工からの経過時間がデジタル表示されていた。「22年214日13:06」と。季節ごとの花々が目を楽しませてくれる、「晴海トリトンスクエアガーデン」。秋の花が元気に咲いていた。「トリトンスクエアガーデン」案内図。そしてこちらが「トリトンブリッジ」。東京都中央区勝どき2丁目・晴海1丁目、「朝潮運河」をまたぎ、大江戸線・勝どき駅方面と、ここ晴海トリトンスクエアを結ぶ人道橋が、「トリトンブリッジ」。世界的にも稀なのは、内部が動く歩道で、しかも屋根付き全天候型という点。中央区勝どき2丁目 ・晴海1丁目。「INFORMATION」。「トリトンブリッジ」内の「動く歩道」を見る。こちらからの「動く歩道」は「故障中」で停止していた。よって、反対側を停止して徒歩にて相互通行であった?近づいて。再び斜めから。夜は夜景にアクセントを添えているとのこと。ネットから。こちらが「黎明橋」。中央区勝どき2丁目。豪華なアーケード。「晴海アイランド トリトンスクエア オフィスタワー」の「X棟とY棟」を見上げる。中央区晴海1丁目8−11。再び「免震用ブリッジ」を反対側から。「さくらの散歩道」を歩く。中央区晴海1丁目8付近。「さくらの散歩道」。4月の「さくらの散歩道」をネットから。再び「トリトンブリッジ」を。前方にも人道橋が見えて来た。「桜小橋」と。中央区勝どき2丁目。2017年10月に開通した比較的新しい橋。「桜小橋」。「2019年度 土木学会デザイン賞 優秀賞 桜小橋」。「朝潮運河の歴史」案内板。「朝潮運河の歴史朝潮運河は、佃・月島・勝どき・豊海と晴海地区との間を流れる延長約2.2kmの人工水路です。この運河は1931年(昭和6)以降における晴海地区の段階的な埋め立てに伴って形成されました。かっては資材運搬航路として多くの船船が行き交う時代もありましたが、その後の宅地化などにより運河の周辺環境は大きく変貌を遂げています。現在では、新たなまちのにぎわいと古い石積み護岸や行き交う屋形船の風情とが調和し、多様な生物や緑豊かな自然環境をもっ貴重な水辺空間となっています。」その先にも橋?が。「トリトンスクエアガーデン」内を散策に。石段のて手前にあった、花の如きモニュメント。朝潮運河に対して"港町に船が停泊している"をイメージコンセプトに据え、運河沿いに作られた400mほどの桜の散歩道のほぼ中央に、入江に停泊している船をイメージに建てられたトヨタモビリティ東京中央晴海店(レクサス晴海)があり、花のテラス・水のテラス・緑のテラスも広がる。内部はトリトン通り2~3階の2層にわたる吹抜けとなったモール空間で、飲食・物販・サービスなど約60店舗が営業しているとのこと。再び「トリトンスクエガーデン」案内。晴海トリトンスクエアのテラスに架かる赤い橋。橋は湾曲していて曲線的なフォルム。その先に像が立っていた。橋の北東側にあるオブジェは「トリトン像」と。 噴水はトリトン(ギリシャ神話の海神であり、人間の上半身と魚の尾を持つ姿で表される)が、巨大な貝殻の上に座っている姿を描いていた。トリトンスクエアの名前の由来にもなったギリシャ神話の海神で、それを意識してか橋と像のある広場は海底神殿のような造りになっていた。中央区勝どき2丁目。横から。トリトンは右手で貝殻の口を開け、水を噴射すると。下半身は尾っぽを持つ人魚の様な神様。イメージとしては、人魚(姫)の男性版?。筋肉ムキムキの力強い人魚!?彫刻は大理石?で作られており、そのデザインや細部へのこだわりが見事に表現されていた。法螺貝を吹く「トリトン像」。下には勤勉を象徴する蜂をデザインしたバルべリーニ家の紋章が。バルベリーニ家の紋章である3匹の蜂の図柄。足元には目つきの激しい4頭のイルカが睨みを効かせて像を支えていた。裏に廻り込んで。トリトンは海の神様であるので、海を自由自在に扱うのだ。法螺貝を吹いて海の波を立てたり静めたりしているのであろうか。「トリトンの噴水」ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ作 (レプリカ/オリジナルの50%縮尺サイズ)日本におけるイタリア2001年の記念に永久の印を捧げるイタリアより晴海トリトンスクエアへローマ「トリトンの噴水」の由来についてローマ・バルべリーニ広場のトリトン像は1642 ~ 1643年当時、バルべリ一ニ家から唯一法王となったUrbanoⅧ(ウルバーノ8世)に捧げるためベルニーニによって制作された。そのため、トリトンの下には法王の王冠が配され鍵の意匠も法王を象徴する。イルカの間にある紋章は、勤勉を象徴する蜂をデザインしたバルべリーニ家の紋章である。それまで使われていた大理石ではなく初めてトラバーチンを使って作られた彫刻で、1800年代にはローマ絵画の典型的なモチーフとして盛んに描かれた。」様々な角度から。トリトンの姿は、エネルギッシュでダイナミックでありながら、繊細なディテールも見られた。彫刻された大理石の中で、筋肉の力強さや表情の生き生きとした表現が見事に描かれていたのであった。この法螺貝の先端から噴水が出るのであろうか?赤い橋の下には、青いタイルで仕上げた海が広がっていた。曲線美の手摺。青いタイルにも色のうねり・アンジュレーションが。橋の上から。2層にわたる吹抜けとなったモール空間の広場を見下ろして。「桜小橋」、「トリトンブリッジ」が見えた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.12.08
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「晴海緑道公園」を進むと、芝生の中に木製のベンチが数多く置かれていた。「選手村ビレッジプラザで使用された木材を再利用したべンチOlympic Village Plaza Wooden Benchこの木材は、東京2020オリンピック・パラリンピックの選手村ビレッジプラザで活用された木材です。」「東京2020オリンピック・パラリンピック期間中の選手村ビレッジプラザ👈リンク の外観」。前方に見えたのが高層マンション「ザ・パークハウス晴海タワーズクロノレジデンス」。2棟構成・総戸数1744戸の大規模・超高層ツインタワーレジデンス「ザ・パークハウス晴海タワーズ」。「ザ・パークハウス晴海タワーズ」は、クロノレジデンスとティアロレジデンスの2棟構成。いつの時代も色褪せることなく、輝き続ける存在であるように、王冠の意味を持つエスペラント語の「クロノ」、ティアラのエスペラント語「ティアロ」という名がそれぞれの棟に付けられているのだと。この赤い花は「デイゴ」であっただろうか。遊歩道にはヤシの木が。「晴海大橋」。東南アジアにいるが如き風景。「豊洲大橋」、「レインボーブリッジ」を振り返る。高層マンション「ザ・パークハウス晴海タワーズクロノレジデンス」がだんだんと大きくなって来た。三菱地所レジデンスと鹿島建設が手がけた「クロノレジデンス」と「ティアロレジデンス」の2棟からなる総戸数1744戸の大規模・超高層免震ツインタワーマンション。2016年度グッドデザイン賞を受賞したその美しい外観は都心湾岸エリアの美しい水辺都市景観を創造する一部となっており、リゾートを思わせる開放的なガーデンテラスや眺望を楽しめるビューラウンジなど安らぎを感じられる共用施設も魅力のひとつであると。そして「晴海緑道公園」の「晴海大橋」側の入り口。「晴海大橋」下を歩き見上げる。東京の中心部と臨海副都心を結ぶ新たな幹線道路として整備された東京都道304号日比谷豊洲埠頭東雲町線支線(有明通り)の一部。豊洲埠頭と有明1丁目を結ぶ有明北橋とともに2006年3月25日に開通した。橋脚は幅広く造られており、当初より中央部には首都高速10号晴海線の桁が架設できる構造となっている。この区間の10号晴海線は2018年3月10日に開通した。晴海大橋は一般道と首都高速晴海線がセットになった橋梁で、首都高速晴海線が一般道の上下線に挟まれたような構造になっている。現在の首都高速晴海線は晴海大橋の北側でそのまま一般道に降りている(晴海出入口)。晴海大橋の一般道には、2×2箇所の「イカの耳」と呼ばれる延伸準備個所が存在していた。「イカの耳」は形状が似ているからマニアの間でそう呼ばれているだけであるとのこと。すなわち「晴海側のイカの耳は、晴海三丁目交差点の一般道どうしの立体交差の準備」であると。「晴海大橋」を潜ると前方には、江東区豊洲2丁目のマンション群が広がっていた。「豊洲船着場」も前方に見えた。東京都観光汽船の浅草行き「ヒミコ」が発着する豊洲船着場。メモリアルドックと呼ばれるように船が出入りする際には入口の跳ね橋(アーバンゲートブリッジ)が跳ね上がるユニークな構造になっているのだ。左に「跳ね橋(アーバンゲートブリッジ)」、中央の曲線ビル「SMBC豊洲ビル」、写真右に「ブランズタワー豊洲」。左折し、「晴海大橋」下を進む。「ザ・パークハウス晴海タワーズクロノレジデンス」。そして「晴海大橋」の歩道に合流。前方に見えて来たのが「晴海アイランド トリトンスクエア オフィスタワーX棟&Y棟」。オフィスタワーはX・Y・Z・Wの高層ビル4棟が連なっていた。中央区晴海1丁目8−10付近。タワーを見上げる。そびえたつ2棟の最上部のあたりでブリッジが渡る。この「ブリッジ」👈リンク は一見通路のように見えるが、地震が発生した際に重要な働きをする。ブリッジは地震時にビルの揺れに追随、伸縮し、揺れを抑える制震装置となっているのだと。揺れが大きいときにブリッジは最大2.4m伸びるという。この装置、超高層ビルへの適用は世界でも例がなく、地震はもとより強風によるビルの揺れも抑え、安全で快適なオフィス空間の実現に貢献しているのだと。「中央区立晴海臨海公園」内にあったのが「ふるさと晴海資料展示館」。中央区晴海2丁目4−27。「中央区立晴海臨海公園」入り口手前。「有明通り」には防音壁が設置されていた。「中央区立晴海臨海公園」と。中央区晴海2丁目4−27。「ふるさと晴海資料展示館」。内部には入れなかったので、外側から。「ふるさと晴海資料展示館平成23年に造営された大小神輿と曳き太鼓。地域の歴史的写真及び資料、地域活動の写真などを展示。沿革と特徴晴海地域は今も開発が進んでいる中央区の中でも新しい地域です。晴海運河側に「水辺のテラス」やプロムナードを備え、べイエリアの夜景も楽しめ、東京の新しい観光スポットとしても注目される晴海臨海公園。この公園入り口にあるのが「ふるさと晴海資料展示館」です。建物はまるで神輿を模したような方形(ほうぎよう)屋根。屋根の一角には蕨手のように反り返ったデザインを取り人れて、そこに「晴海」の文字が金色に輝いています。展示館には大きなガラス越しに町会の神興3点セット(大人、子供、山車)を見ることができます。これらは晴海の「海」をイメージした青がイメージカラーになっています。この神輿は、成長を続ける町の地域コミュニティーを育むシンボルとなり、これから増大する国内外の観光客の鑑賞に堪える美しさと迫力を備えたものと言えるでしよう。祭り住吉神社の例大祭で、この神興は担がれます。晴海地域は昭和になってから完成した土地で、祭に参加する人が少な過ぎるために、最後まて神輿を担げないこともありました。元々、晴海には自前の神輿がなく、住吉神社の大祭にはレンタル神輿で参加していましたが、40年来の住民の念願が成就し、平成23年に浅草の神興師・宮本重義氏によって晴海の神興が完成しました。また、晴海地域に人口が増えたことで人手不足が解消され、今では地域の子供たちで賑わっています。展示品の紹介■晴海連合町会役半纏■担き半纏住吉神社大祭で着用されます。晴海をイメージしたブルーの生地に背中に晴海の文字を入れています。」「令和五年 住吉神社例祭」👈リンク ポスター。この日は「神輿」は出張中であったのでネットから。「晴海町内神輿由緒この神輿は、昭和四十年来より永年に亘る晴海住民の一途な想いと憧れの心が一つになり造営されたものである。東京浅草聖天町 平成二十三年八月完成台輪寸法 二尺五寸真鍮鋳物製台輪角金具、極上龍巻蕨手を有した屋根唐破風型神輿 白木造彫刻・彫金・螺鈿など随所に江戸神輿の伝統技法が施され更に青染め鍍金を施した透かし金具、七宝焼を施した瓔珞(ようらく)や吹き返し金具などを用いて晴海色を表現。匠の伝統技法と斬新さが融合した総欅造りの逸品である。 平成二十六年六月吉日」提灯タワー「晴海連合町会 住吉連合睦会 晴海睦」と。「大太鼓」には左三つ巴紋(ひだりみつともえもん)が。そして「中央区立晴海臨海公園」から再び「ザ・パークハウス晴海タワーズクロノレジデンス」を。「晴海アイランド トリトンスクエア オフィスタワーX棟&Y棟」を再び。中央区晴海1丁目8−11。「ブリッジ」にズームして。ビルの揺れの全ての方向に対応出来るのであろうか?「晴海三丁目」交差点から「晴海アイランド トリトンスクエア オフィスタワーX棟&Y棟」を見る。北東「春海橋」方向を見る。「中央清掃工場」方向。まずは「朝潮運河 人道橋」を訪ねることに。前方は「中央区立黎明橋公園」。中央区晴海3丁目1−6。「黎明橋公園」交差点を横断。右手に白い橋の姿が。ここは「朝潮運河親水公園」。勝どきと晴海の間を流れる朝潮運河。左右にタワーマンションが立ち並ぶ、このエリアに、新しい白い橋が架けられていたが、未だ工事中のようであった。中央区晴海3丁目6−番7号付近。真っ白で、ひねりの入ったユニークそして印象的なフォルム。「橋の名前を募集します応募期間 2023/10/1 (Sun)~2023/10/31(Tue)」と。既に前日で締め切られていたようだ。どんな名前になるのかも気になるのだが。朝潮運河には、すでに「朝潮小橋」という名の橋がかかっている。また、この辺りは桜並木が美しいのであるが、「桜小橋」という橋もすでにある。使用開始は令和6年4月予定とのこと。中央区勝どき・晴海地区は近年大規模な再開発・まちづくり計画により、多くのタワーマンション群が完成しており、人口が増え歩行者交通量が急激に増加をしている。この橋の完成で勝どきと晴海を行き来する手段が増え、パークタワー勝どきの入口に新設される「都営地下鉄大江戸線・勝どき駅」の入口が近くなり、利便性が向上するのだと。「黎明大橋」そして「パークタワー勝どきサウス」が右手手前に。「黎明大橋」をズームして。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.12.07
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前方に見えたのが「O.GARDEN MEAT & BREAD CAFE」。「O.GARDEN MEAT & BREAD CAFE」のカラフルな看板。海と緑に囲まれたカフェ「オー・ガーデン」。焼き立てパンに切り立ての肉を挟んだミート&ブレッドと美味しいコーヒーが楽しめる店 と。中央区晴海5丁目8。「遊びの広場」には帆船をイメージした遊具が。船の中が探検できるようになっていた。「遊びの広場」。中央区晴海5丁目8。そして前方に「波のエリア」。滑り台になっているエリアが大人気であると。この写真の中に、以前は「晴海客船ターミナル」があったのだが。以前はもちろん、大型車駐車場、その先にも洒落た建物があったのだ。在りし日の「晴海埠頭」の上空からの写真をGoogleマップから。在りし日の「晴海客船ターミナル」をネットから。「晴海客船ターミナル」は2022年2月20日の営業をもって閉館。約30年にわたって東京港のランドマークとして親しまれてきた三角形の屋根が特徴的なターミナル施設は、同年7月から解体工事に入り姿を消した。跡地には中・小型のクルーズ客船に対応した客船受け入れ施設を新たに整備し、お台場の東京国際クルーズターミナルと合わせ、客船バース(係留施設)の2バース体制を確保する予定と。中央区晴海5丁目7。そして「展望広場」に向かって進む。ここはジョギングコースにもなっていた。「展望広場」の下には噴水池が。中央区晴海5丁目8。「展望台」から瀧のごとくに流れ落ちる水。「東京2020 オリンピック&パラリンピック競技大会」選手村Olympic Village 開村期間:2021.7.13ー8.11Paralympic Village 開村期間:2021.8.17ー9.8晴海ふ頭公園選手村は、宿泊棟21棟のほか、24時間営業のメインダイニングホール、全国の自治体から借り受けた木材を活用したビレッジプラザなどの施設で構成され、その広さは44haに及びました。大会期間中は、選手等が安全、安心、快適に生活できる環境を提供しました。」「大会当時の全景①宿泊棟 ②メインダイニングホール ③ビレッジプラザ」①宿泊棟。オリンピック時:18,000ベッド パラリンピック時:8,000ベッド②メインダイニングホール 【メニュー数】 約700種類 【座席数】オリンピック時 3000席 パラリンピック時 2400席③ビレッジプラザ 雑貨店やカフェ等の店舗など選手の様々な生活を支えるサービスを提供「東京2020 オリンピック エンブレム」組市松紋(くみいちまつもん)格子柄は、歴史的に世界中で愛され、日本では江戸時代(1603-1867)に「市松模様(いちまつもよう)」として広まった。日本の伝統色である藍色を使ったこのデザインは、日本の洗練された優雅さや粋を表現している。形の異なる3種類の四角形を組み合わせて、国や文化・思想などの違いを示している。そこには「多様性と調和」というメッセージが込められ、オリンピック・パラリンピックが多様性を認め合い、つながる世界を目指す場であることを表した。デザイナー:野老 朝雄(ところ あさお)氏プロフィール 1969年生まれ 東京都在住 職業:アーティスト 最終学歴:東京造形大学卒業、建築専攻「東京2020 パラリンピック エンブレム」エンブレムの組市松紋は、3種類の四角形(小18、中18、大9の合計45個)を組み合わせたものであり、オリンピックのエンブレムは和を意識した円形、パラリンピックのエンブレムは上昇を思わせる上部が空いた形になっている。両者共にパーツ数は全く同じで、組み替えることでそれぞれのエンブレムができるようになっており、共に同じパーツを使用することで平等を表現している、とも。東京2020オリンピックマスコットが「ミライトワ」。名称 「未来」と「永遠(とわ)」というふたつの言葉を組み合わせて生まれた。 世界の人々の心に希望に満ちた未来をいつまでも輝かせたいという願いが込められている。デザイナー:谷口 亮氏東京2020パラリンピックマスコットが「ソメイティ」。桜を代表する「ソメイヨシノ」と「非常に力強い」という意味の「so mighty」から生まれた名前で、桜の触角を持つ。「展望広場」からの絶景。「O.GARDEN」案内板がここにも。ここにも「晴海ふ頭公園」案内が。「HARUMI Flag Sun Village A棟」、右に「HARUMI FLAG Sun Village F棟」。再び往路と同じ道を、「朝潮運河」を左手に見ながら引き返す。右手に「HARUMI FLAG Sun Village B棟、C棟、D棟」。そして右折。左手にあったのが「三井ショッピングパーク ららテラス HARUMI FLAG」。中央区晴海5丁目2−505。「工事のお知らせ」が絵入りで詳細に。「月島警察署」方向に戻る。「月島警察署」。中央区晴海3丁目16−14。「月島警察署前」交差点を渡る。交差点を渡りながら、歩いて来た方向を振り返って。そして前方には「豊洲大橋」が見えて来た。東京都中央区。下の道を歩き進むと「晴海運河」の堤防が見えて来た。右側には「東京都道484号豊洲有明線支線(環二通り)」が走る。そして「晴海運河」沿いにあった「晴海緑道公園」案内板。「晴海運河」に掛かる「豊洲大橋」。晴海運河をまたぎ、東京都中央区晴海5丁目(晴海埠頭)と江東区豊洲6丁目(豊洲埠頭)を結ぶ道路橋である。東京都道484号豊洲有明線支線(環二通り)が通る。環状第2号線の一部を構成し、橋長は550メートル、幅員は32.3メートル(展望部分では36.1メートル)。並行する晴海大橋と同様、展望部分が歩道上の4箇所に設置されている。本体架橋工事は2008年11月に終了し、2013年前半から街灯の設置や周囲の道路の舗装工事などが行われた。しかし築地市場移転問題等により環状第2号線の開通が延期されたため、東京都は2020年東京オリンピック選手村工事車両に限定して2017年2月より通行可能としていた。2018年11月4日、環状第2号線豊洲 - 築地間暫定開通に伴い、豊洲大橋の一般への供用が開始された とウィキペディアより。「豊洲大橋」下から「晴海運河」の先に「レインボーブリッジ」が。「晴海ふ頭H-Iバース」にも船が停泊中。中央区晴海5丁目7。「鳳翔丸(HOSHOMARU)」と。漁業取締本部配属の漁業取締船で、我が国周辺水域等において、違法な操業及び漁具の設置を行う外国漁船等の指導・取締を行うことを目的にしている。最新鋭の漁業取締船として高い耐航性と容易な操船性を有するとともに、不測の事態に備えて、船橋等を強固な構造とし、航海船橋甲板には統合管制室を設け、悪質・巧妙化する外国漁船への漁業取締活動が効率的に行えるよう最新鋭の取締設備や通信設備などを装備。「鳳翔丸」主要目 ・全長 87.00m ・型幅 14.00m ・型深さ 9.10m ・ 総トン数(国際) 2,515トン ・定員 40名「豊洲大橋」下から「レインボーブリッジ」を。上層部が有料の首都高速道路であるのに対して、下層部は無料で通行できる一般道路である。眺望は上層部に比べ、ゆりかもめの軌道があるため進行方向右側の景色が見えず、左側も橋げた、フェンスがあるため、見通しが悪いなど劣っている。橋げたの高さは、設計当時、豪華クルーズ客船の象徴と言われていた「クイーン・エリザベス2」の通過・晴海埠頭(晴海客船ターミナル)への接岸を想定し、橋げたの高さは52メートルあるが、完成後に、クイーン・エリザベス2がレインボーブリッジをくぐることは一度も無かった。クルーズ客船の大型化が進み、水面よりの高さが60 - 70メートルに達するものも登場しており、パナマックスサイズのクルーズ客船は、レインボーブリッジをくぐることができない(日本最大のクルーズ客船である「飛鳥II」はくぐることができる)。このため、レインボーブリッジ以南の貨物用埠頭である品川埠頭や大井埠頭を利用するクルーズ客船もあった。2020年、レインボーブリッジ以南の青海地区に、大型クルーズ客船の発着に対応した「東京国際クルーズターミナル」が開業。晴海客船ターミナルは2022年2月20日に閉館となり、客船対応の暫定施設を設置した後、将来的には埠頭機能も縮小される予定となっている とこれもウィキペディアより。正面のアンカレイジの基礎は平面寸法:45.1m×70.1m、躯体長:51.0mで当時、世界最大規模のものであったと。アンカレイジとは橋のケーブルの端を定着する大きなブロックのこと。「豊洲大橋」の基礎部分。「晴海運河」の対岸に見えたのが右・「IHIステージアラウンド東京」、その後ろに「東京ガス豊洲スマートエネルギーセンター 」、左・「ホテルJALシティ東京 豊洲」。「晴海大橋」。「晴海大橋」に向かって、「晴海緑道公園」の遊歩道を進む。再び振り返って。「豊洲大橋」。「晴海大橋」。対岸にあった「新豊洲Brilliaランニングスタジアム」。東京ガス用地開発(2019年より東京ガス不動産)が推進する「TOYOSU22」プロジェクトの一環として、膜構造を得意とする太陽工業を建築主として全天候型のランニング施設が建設され、2016年にオープンした。東京建物が創業120周年記念事業として参画し、ネーミングライツを取得して同社のマンションのブランド名であるBrilliaを施設名に冠した。全長108mのトンネル状の構造内部に60mのランニングトラックが6レーン設けられており、障害者スポーツの利用を念頭に置いてシャワー室等は車椅子でも利用できるバリアフリー構造となっている。館長には、為末大が招聘された。隣接するオフィス棟には、Xiborg社による競技用義足の研究所が開設されている と。江東区豊洲6丁目4−1。全長108mのトンネル状の構造内部に60mのランニングトラックが6レーン とネットから。さらに遊歩道を進む。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.12.06
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「朝潮運河」に掛かる「朝潮小橋」を渡る。東京都中央区、臨海部の島状工リアを流れる朝潮連河岸の勝とき六丁目地区と晴見五丁目地区を結ぶ人道橋「朝潮小橋」。途中2カ所のそれぞれ上流側と下流側に計4つのベンチが設置されており、それぞれの方向の夜景が楽しめるようであった。下流側にはレインボーブリッジ、上流側には晴海〜越中島方面が運河越しに眺めることが出来るのであった。中央区勝どき6丁目3。「あさしおこばし・朝潮小橋」。下流側には「レインボーブリッジ」。上流側には朝潮水門そして晴海〜越中島方面が運河越しに眺めることが出来るのであった。先程歩いた「朝潮運河」の右岸を望む。先程、横を歩いた東京海洋大学の練習船「汐路丸」をズームして。「朝潮小橋」から振り返ると、右側には「ザ・トーキョータワーズ シータワー」が。「朝潮水門」の先には「パークタワー勝どきサウス」(写真右)。朝潮運河の「朝潮水門」の先に見えたのが黎明大橋」。晴海通りが通り、南東端の晴海と北西端の勝どきとを結ぶ。橋長88.2メートルの橋。なお、この後に訪ねたのだが、運河のすぐ北東側には、動く歩道を備えた歩行者専用の「トリトンブリッジ」が並行して架けられていたのであった。運河の右側に見えたのが「ドゥトゥール ウエストタワー」。「朝潮小橋」を渡り、「れいめい橋公園通り」に出てここを左折して進む。「晴海通り」に突き当たりここを右折して進むと「月島警察署前」交差点に出た。右側には「中央地区清掃工場」の煙突が再び。「月島警察署」。「補助第314号線」を南西に向かって進む。右に「パークタワー勝どきサウス」左に「ザ・トーキョータワーズ シータワー」。この先には「東京国際見本市会場記念碑」があるはずであったが、工事中の為進めなかったのでネットから。「記念碑 東京国際見本市会場 1959ー1995晴海見本市会場 (東京国際見本市会場)は、昭和34年4月、わが国最大の見本市会場として、この地に誕生しました。以来、数多くの見本市・展示会が開催され、年間600万人を超える来場者で賑わいましたが、平成8年4月、江東区有明に新しい国際展示場「東京ビックサイト」が開場したのを機に、37年間に及ぶ活動の幕を閉じました。平成8年4月 株式会社 東京国際貿易センター 社団法人 東京国際見本市協会中央区晴海5丁目2。在りし日の「東京国際見本市会場」の写真をネットから。当時の晴海見本市会場は、上図のような配置になっていた とネットから。中央にある一直線の通路は、以前、飛行機の滑走路だったという。「中央地区清掃工場」の煙突方向に向かって進む。「中央地区清掃工場」正門。中央区晴海5丁目2−1。「東京二十三区清掃一部事務組合 中央清掃工場」。さらに、補助第314号線の歩道を南西に向かって進む。バス停「ほっとプラザはるみ前」を通過。中央区晴海5丁目2。工事中の為、直進禁止で右折して進む。「歩行者・自転車案内板」。次の目的地の「晴海埠頭公園」には「HARUMI FLAG SUN Village」を廻り込んで行け と。HARUMI FLAG(はるみフラッグ、晴海フラッグ)は、東京都中央区晴海で行われている2020年東京オリンピック・パラリンピック選手村跡地における大規模まちづくり事業のタウンネームであるここ中央区晴海に建設予定の高級マンション「HARUMI FLAG(晴海フラッグ)」は2020年のオリンピック・パラリンピックの選手村として活用された後、新築住宅へ一般向けに販売される予定でしたが、オリンピック中止に伴いイベントの開催を延期するといった対応をおこなった。東京2020大会で建物は選手村施設に活用され、高層階は選手が宿泊施設、低層階は各国のNOC/NPCがオフィスとして利用を計画。大会後に内装工事を施し、2023年(令和5年)3月から入居が始まる予定だった。しかし、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の世界的流行によって、開催は2021年(令和3年)7月 - 9月に延期となった。これに伴って入居等のスケジュールも1年間の順延が生じた。全棟が完成すると総戸数5,632戸(うち分譲4,145戸)、約1万2000人の暮らす街となり、分譲マンションとしては国内最大の住戸数になる。すでに940戸は販売を終え、開催延期で休止となった販売は、2021年11月に再開された。入居は2024年(令和6年)3月下旬以降となる見込みである。総工費は約540億円(特定建築者の整備費を除く)「HARUMI FLAG Sun Village C棟」、「HARUMI FLAG Sun Village B棟」が左手前方に。中央区晴海5丁目5−3。対岸の東京海洋大学の練習船「汐路丸」を再び。ズームして。その先に「晴海ふ頭H-2バース」も。朝潮運河を挟んだ高層マンション群を振り返る。「朝潮ふ頭」に停泊する「大型化学消防艇」。中央区晴海5丁目8。船名は「みやこどり」。「みやこどり」は東京消防庁保有の消防艇の中で最も大きく、広域応援隊として東京湾以遠を航行する能力も有する消防艇。本船はタンカー火災や沿岸危険物施設等の火災に対応するため、毎分70,000Lを放水することが可能な消防ポンプを装備している と。ネットから「みやこどり」の全体写真を。船体形式・構造:V型・鋼/軽合金全長:43.2m船幅:7.5m全深(喫水):2.0m総トン数:195トン巡航速力:約20ノット航続可能距離:約581km(理論値)放水砲毎分15,000L×2基毎分10,000L×2基毎分 5,000L×2基正面に「東京消防庁 臨港消防署」が現れた。中央区晴海5丁目8−20。昭和23年3月7日、自治体消防発足に伴い、消防が警察から分離独立し、同年5月1日に名称を東京消防庁東京水上消防署に変更した。その後、数々の機構改革を経て昭和44年4月1日、船舶災害や重要な港湾施設に対応できる消防力を備えるべく、水上消防署を臨港消防署に改称し、港湾消防として東京湾の海の守りに就いたのだ と。「119 臨港消防署」と。そして目的地の「晴海ふ頭公園」に到着。中央区晴海5丁目8。「晴海ふ頭H-2バース」に向かって進む。前方に再び「レインボーブリッジ」が姿を現した。「晴海ふ頭H-2バース」前からズームして。「晴海ふ頭公園」案内図。晴海ふ頭公園は、東京都中央区晴海にある東京都港湾局が所管する都立の海上公園(ふ頭公園)である。東京港晴海埠頭の南西端に位置する。中央区観光協会から「夜景八選」の一つに選ばれ、レインボーブリッジや東京タワーなどを望むことができ、夜景スポットとして知られている。2020年東京オリンピック・パラリンピックの際には、周辺に選手村(HARUMI FLAG)の整備が計画され、当公園も選手村の一部となるため、2017年(平成29年)10月1日から休園となった。その後、リニューアル工事を経て、2022年(令和4年)10月7日に解放が再開された。 なお、都は開放再開に併せて、当公園において海上公園としては初の飲食店の設置・運営等を行う事業者を公募。フロンティアコンストラクション&パートナーズ(代表法人) が事業者に決定し、カフェとコワーキングスペースからなる「ConnecT HARUMI」(店舗名 O.GARDEN)を運営している。園内では、東京湾大華火祭の花火の一部が打ち上げられていたが、選手村整備に伴い、2016年(平成28年)をもって花火大会は休止となった。また隣接していた晴海客船ターミナルは、2022年2月20日に閉館している。移動して「レインボーブリッジ」をこれでもかと。橋長:798m、中央径間 (主塔間):570m。千葉県方面および神奈川県方面から東京都心へ向かう交通を分散させ、慢性的な交通渋滞が発生していた箱崎ジャンクション・江戸橋ジャンクションや首都高速1号羽田線の渋滞緩和と共に、開発の進められていた東京臨海副都心と既存都心部を結ぶために建設された。橋梁としては芝浦側アプローチ部1465m(陸上部439m+海上ループ部1026m)+吊橋部918m+台場側アプローチ部1367m(海上部905m+陸上部462m)が一体で建設されたが、通常は吊橋部からアンカレイジ部の60m×2を除いた吊橋本体(P22-P25間)の798mをレインボーブリッジと称することが多い。◯の部分が「レインボーブリッジ」なのだと。前方にも船が停泊。「東光丸(とうこうまる)」と。東光丸は、水産庁が運用している漁業取締船。1971年就航で老朽化した東光丸 (2代)の代船として、住友重機械工業で建造され、1996年に就航した。 船名の揮毫は当時の農林水産大臣であった大原一三によるものである。照洋丸の転用までは、水産庁所属の漁業取締船で最大であった。2代目同様、遠洋海域での国際漁業に従事する漁船の指導取締を主な任務とするが、近年の海洋資源管理の国際的な強化により、取締対象海域が北洋海域からインド洋、大西洋海域など広範囲に拡大、特に海況の厳しい高緯度海域で取締の強化が必要とされており、従来より広く海況の厳しい海域で指導取締活動を行うため、新造船は大型化、高速化が求められた。そのため、前船と比較して総トン数が約500トン増加した。北洋での行動を考慮して日本海事協会基準に準じた耐氷構造(ID級)となっており、荒天下の航海を想定して、船体海水の打ち込み防止を図った船首および船尾構造を採用、良好な耐航性、復元性、凌波性を有する。レインボーブリッジを背景に。総トン数 2,071トン(国内) 2,451トン(国際)全長 86.90 m幅 14.00 m機関方式 ディーゼル主機関 1基出力 8,000 PS搭載人員 45名「水産庁」の文字が。「船舶係留許可板占用場所 中央区(晴海埠頭公園前水域)専用面積 5640.00平方メートル占用目的 水産庁所属船舶係留のため工作物の種類 渡り桟橋占用期間 平成2◯年4月1日から 平成◯◯年3月31日まで占用者の住所氏名又は名称 水産庁長官」占用期間が平成??のままになっていたが、その理由は?この日は埠頭入口は閉鎖されていた。中央区晴海5丁目。前方に「晴海信号所」。中央区晴海5丁目7。「レインボーブリッジ」手前の有明側のカーブ橋を見る。「東光丸」を前方から。「晴海ふ頭公園」の先、「晴海ふ頭H-Lバース」前も工事中であった。「花木のテラス」を歩く。たくさんの円形ベンチが設置されていた。中央区晴海5丁目8 都立晴海ふ頭公園内。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.12.05
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「豊海おさかな ミュージアム」を後にして、「清澄通り」を「豊海水産埠頭(とよみすいさんふとう)」に向かって進むと岸壁に突き当たる。岸壁の先には作業・荷揚げ・荷下ろし用の仮設高架道路が走っていた。その先に見えたのが「竹芝埠頭」、「竹芝客船ターミナル」。「豊海水産埠頭」には白い大型船が停泊していた。中央区豊海町14−25。「東京海洋大学」の文字が。現在地はここ。「東京海洋大学」。船の名は「海鷹丸」。練習船「海鷹丸」は主として海上における関係教科目の実習教育にありますが、内外の寄港地での水産、港湾関係機関や施設の見学調査も行っている。調査研究海域は東京湾・相模湾などの沿岸海域から黒潮域、さらには赤道海域・南極海にまで及んでいるとのこと。総トン数:1886t全長:93m航海速力:17.4ノット「豊海水産埠頭」から「レインボーブリッジ」を見る。ズームして。左方向を見ると、台場に建つ「フジテレビ 本社ビル」が見えた。ズームして。パノラマ撮影にTRY。東京都公園協会が運航している水上バスの姿が。「あじさい」号。展望デッキには観光客の姿が。再び「レインボーブリッジ」。「レインボーブリッジ」の「有明JCT」方向を見る。左「日の出桟橋」と「㈱東芝 本社」ビル、右に「東京ガス株式会社 本社」ビル。「日の出埠頭」には停泊中の「シンフォニークルーズ」の船が停泊中。。左・「シンフォニーモデルナ」、右・「シンフォニークラシカ」。その奥に右から芝浦1丁目にあるビジネスセンター「シーバンスN館」と「シーバンスS館」。「晴海ふ頭H-2バース」と「信号鉄塔」。「東京消防庁 臨港消防署」。そして「朝潮運河」の岸壁に沿って進む。前方にも船が停泊中。ズームして。左手に「パークタワー勝どきサウス」、右に「ドゥトゥール ウエスト&イーストタワー」。振り返ると豪華クルーザーが。「レインボーブリッジ」をこれでもかと。「中央清掃工場」の煙突。煙突長は177.5mであり、これは豊島区上池袋にある豊島清掃工場・210mに次ぎ東京都で2番目に高い工場煙突である。卸売業「築地フレッシュ丸都」。マルハニチログループの一員として、各種鮮魚の一次加工・水産物販売を手がけている と。中央区豊海町12−14 大都豊海ビル。多くの巨大な冷凍庫・冷蔵庫が。船の名は「汐路丸(しおじまる)」。この船にも「東京海洋大学」の文字が。「汐路丸」。「汐路丸」は東京海洋大学海洋工学部が管理していた練習船。現在は汐路丸4世がその任務を引き継いでいる。令和3年10月14日より運航を開始。総トン数 :775トン長さ(全長) :60.73m幅(型、登録) :11.10m深さ(型、登録):6.50m(船楼甲板)航行速力 :12ノット定員 :70名道路の角にあったのが「マグロ卸のフィッシャリーズテラス」。中央区豊海町3−13。再び「清澄通り」に向かって進む。そして次に訪ねたのがスポーツジム「シーサイドアネックス」。「朝潮運河」に掛かる「朝潮小橋」が前方に。「朝潮運河」その遥か奥に「レインボーブリッジ」。右手の曲線の建物が「シーサイドアネックス」。中央区勝どき6丁目6−6。「SEASIDE ANNEX・シーサイドアネックス」。朝潮運河沿いにあるガラス張りのアネックス棟。船のような外観であった。廻り込んで。「フィットネスジム」を覗く。ウッドデッキ仕上げの遊歩道を歩く。「朝潮水門」を見る。東京都中央区勝どきと晴海の間を流れる朝潮運河にある水門。1964年(昭和39年)竣工。有効幅員11.4mのものが2連あり、門扉型式はこの付近では珍しいスイングゲートを採用している。東京都が管理している水門は、河川の水門(東京都建設局所管)と、運河の水門(東京都港湾局所管)がある。 この朝潮水門は、東京都港湾局の管理する運河の水門である。朝潮水門が建設された当時は貨物船が航行したため、高さ制限の無い「スイングゲート」が採用されたとのこと。中央区晴海5丁目1−9。「朝潮運河」に掛かる「朝潮小橋」を斜めから。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.12.04
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「中央豊海郵便局」の2階に「豊海おさかなミュージアム」があったので訪ねて見た。中央区豊海町5−1 豊海センタービル2階。現在地はここ。エスカレーターに乗り2階へ。豊海水産埠頭の冷蔵倉庫群の手前に、「豊海おさかなミュージアム」があった。おさかなといっても、水族館ではなかった。ここでは「水産」の視点から学ぶミュージアム。例えば全国の大漁を願う祭り・神事の紹介や漁法の紹介、魚の誕生の瞬間や稚魚の姿など、そのジャンルは歴史・地理・生物など多岐に渡る。大人も言葉では知っていても見たことはないような貴重な映像が多く、親子で学べる場所。自由研究の課題にもおすすめ。図書の数も多く座席もあるのでゆっくり見ることができる。月に1~2回のペースで内容が変わるパネル展示も充実した内容。「ホヤ」「海藻」のように1つのテーマで生態から漁業・食文化まで!フルカラー20ページの解説ノートも頂けるので、帰宅してからも楽しめるようであった。中央区豊海町5−1 豊海センタービル2階 豊海センタービル。11月の特別展示テーマの一つは「ハゼが教えてくれること」と。日本には400種類以上のハゼの仲間が棲んています。その代表がミュージアムの近くの運河にもいるマハゼで、江戸時代から釣りや食用て親しまれています。マハぜなと全国各地のハゼの生態や漁法についてミュージアムで学んでみましょう! と。「GOBIES」は「GOBY:ハゼ」の複数形表記。入口には大漁旗「魚勢丸」が。近づいて。「日本でみかける魚の漢字」と「秋田県で獲れるさかなの漢字」。以前、テレビのクイズ番組で、魚へんの漢字は全部で244個👈リンクあると。「日本でみかける魚の漢字」。「秋田県で獲れるさかなの漢字」。「漢字でわかる魚のかんじ」2023年版👈リンク。「漢字でわかる魚のかんじ」2021年版👈リンクミュージアム館内。ハゼのコーナー。「メスが産んだ卵はオスが守る。マハゼはイクメンの師匠」。卵を産みっぱなしの魚が多いなか、ハゼ類の共通の特徴の一つが、メスが産んだ卵を、孵化するまでオスが面倒を見ることです。「みんな違って、みんないい。ハゼは多様性のお手本」ハゼは」日本産だけで」400種以上。見た目も、生息地もさまざま」。それぞれの環境に適応したものが生き残っていきました。「こんなハゼもすんでいるよ。東京湾奥でよく釣れるハゼ類」。東京湾岸の運河や河口で釣れる主なハゼ類です。ほかにも東京湾には、いろいろな種類のハゼの仲間が生息しています。アカオビシマハゼ、ドロメ、ウロハゼ、マハゼ、アゴハゼ、チチブ。にっぽんのハゼ・東京湾。シロウオ、トビハゼ。にっぽんのハゼ・琵琶湖。ビワヨシノボリ、ウキゴリ、イサザ。にっぽんのハゼ・有明海。ワラスボ、ムツゴロウ。「世界でも珍しい、大衆文化として花開いた江戸の釣り。」釣りが文化として花開いたのは江戸時代、身分も老若男女も問わず夢中になったようで、錦絵にも釣りをする風景が多く描かれています。「東都名所 御茶之水之図」歌川広重。「隅田川両岸一覧 首尾松の鉤船 椎木の夕蟬」。「東都花暦十景 木場魚釣」渓斎英泉。「東都名所 てっぽうづ」歌川国芳。「海のギャラリー豊海おさかなミュージアム・ホームページの海のギャラリーては、海や魚、海藻などの貴重なアート作品とアーティストについて紹介しています。」杉浦千里工ビ・カニの博物画家円谷プロのキャラクターデザインに携わる一方、独自の博物画技法で工ビやカニをテーマに作品を描き続けた。39歳で急逝。作品集に「美しき工ビとカニの世界 杉浦千里博物画図鑑」がある。夢中で生きた少年時代 、大人になってもその熱い心は走り続けた。ウルトラマンをデザインした男杉浦千里(すぎうらちさと)杉浦千里の大型エビの絵図。右から「ウチワエビモドキ」。ウチワエビモドキは、セミエビ科に分類されるエビの一種。インド太平洋の熱帯域に分布し、混獲されたものが食用に供される。中央「イセエビ」。イセエビは、イセエビ科に属するエビの1種。広義にはイセエビ科の数種を指す。別名に外房イセエビ、志摩海老、鎌倉海老など。 熱帯域の浅い海に生息する大型のエビで、日本では高級食材として珍重される。俳句では新年の季語。左「ゴシキエビ」。神奈川県以南に分布する。体長40cmに達する。暗緑色の地に白と黒の複雑な模様があり、腹部には黒色で縁取られた鮮やかな白色黄帯がある。イセエビ類の中では、非常に美しい種類である。魚の缶詰も並んでいた。「おさかな探検 ~調べよう・学ぼう~」。そして最後に2階の「豊海おさかなミュージアム」前から再開発現場の工事状況を見る。東京都中央区豊海町2周辺。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・
2023.12.03
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「新月島川」に架かる「清澄通り」の「新島橋」を渡る。中央区勝どき13 清澄通り。「新島橋(にいじまばし)」。先程下車した都営大江戸線「勝どき駅」方向に向かって進む。「新島橋」から先程訪ねた「浜前橋」そして「浜前水門」を見る。「浜前水門」のゲートは開いていることが判ったのであった。「新島橋」を渡り終えると「清澄通り」の向かいに寺の姿が。横断歩道を渡る。中央区勝どき4丁目12−9。山門の右には石碑と案内板があった。山門左手にあったのが「防災 まなぶ不動尊(不動明王像)」。中央区勝どき4丁目12−9。「防災 まなぶ不動明王尊縁起東京消防庁臨港消防署員 消防指令佐藤学君は、昭和五十七年五月五日深夜 中央区勝どきのマンション火災に出場 猛火を掻いくぐって七階ベランダに突入し 熾烈なる火炎に対し 我が身を母子らの楯とし身を焼かれながらも庇護し 次々と四名の救出に成功した そのあと リフターに自分も乗れば 重量が超過して墜落 する危険があることを考慮し 救出活動と酸素欠乏で極度に疲労した体にむち打ち 一人火炎を分けて無枠のはしご車の先端に飛びついたのであった しかし悲情にもそのはしごは噴出する火炎に赤く焼けていて 灼熱のはしごを握る両の掌は焼けただれ ために握力が弱まっていた所に 一挙に拡大して噴射した火炎と熱風に圧せられて殉職なされた 享年三十才 新婚三ヶ月であった 消防官は命綱を携帯し その訓練を積み 危険にひんすればその場を脱する術を有しながら あえて修羅の場に踏み留どまり最後の最後まで我が身を犠牲とし尊い人命を救助した 同君は先のホテルニュージャパン火災においても宿泊客四名を救助するなど 数多くの災害に出場し 積極果敢に職務を遂行した優秀な消防官であった 同君の殉職に対し全国の未知の方々から赤心溢れる弔慰を受けて感激した遺族が この度私どもが味わった深刻な悲哀を二度と何人にも嘗めさせたくはないという悲願と 志なかばにして倒れた故人のみ霊を その終焉の地に消防官として留どめたいとの念願である事を知り かの熾烈なマンション火災における同君の人間愛と消防官の使命感に燃えたぎる 鬼人も泣く壮烈極まる人命救助の活躍を目撃して感動した一人として これに応え都立瑞江葬儀場に於いて故人を荼毘に付した際に 同所係員が 出炉して来た台上の遺骨のみ仏の扶座するお姿にも似た喉仏を指し「このような形で残ることは極めて稀であって 私どもは 善根を積んだお人に顕れる現象と見ており そしてそのお人は真に成仏なされたものと信じている」と語られた その喉仏を分骨し「妙法蓮華経」第一部八巻と共に不動明王の胎内に納めて 市民を火災及び交通事故など諸々の災難から守り 併せて首都の防衛に任ずる警察、消防関係者の安全を祈願して安置するものである昭和五十八年五月五日 真円山東陽院 第三十世 栗塚正行 謹書」。山門右側に近づいて。寺号標石「眞圓山東陽院」。中央区勝どき4-12-9。「東海道中膝栗毛 作者 弥次喜多道中記 十返舎一九 墓所」碑。台石中央には一九が用いた印形(熊手と(貞)の組合せ)が施されていた。道路沿いにあるこの「十返舎一九 墓所」(徳川夢声筆)は、昭和33年2月、東京映画会社が『弥次喜多道中記』(監督・千葉泰樹、弥次さん役・加東大介、喜多さん役・小林桂樹、十返舎一九・徳川夢声/イーストマンカラー作品)の制作にあたって寄進したものであると。中央区勝どき4丁目12。題目碑「南無妙法蓮華経」追善供養の文字が。「十返舎一九墓」案内板。「十返舎一九墓所在地 中央区勝どき四丁目一二番九号 東陽院江戸時代後期の戯作者として知られる十返舎一九は本姓を重田といい、明和二年(1765)駿河国(現在の静岡県)に生まれました。その後、江戸に出て日本橋の出版業者・蔦屋重三郎(つたやじゅうさぶろう)のもとで黄表紙(きびょうし)を発表し、以後多くの黄表紙・洒落本を書きました。中でも「東海道中膝栗毛」はよく知られ、主人公の弥次郎兵衛と喜多八が日本橋から東海道を旅し、伊勢参宮の後、京都へたどり着くという旅行記の形式をとる物語です。この作品は続編に続編を重ね、一九の代表作となりました。一九は、天保二年(1831)に没し、浅草永住町(現在の台東区元浅草)の東陽院に葬られました。東陽院は関東大震災後、当地に移転し、墓も移されています。なお、墓石には次の辞世の句が刻んであります。此の世をは とりやお暇に 線香の 煙とともに 灰さようなら一九の墓は、区の歴史や文化に関わりの深いものとして中央区民文化財に登録されています。 平成三十年三月 中央区教育委員会」「十返舎一九肖像 歌川国貞画 国会図書館像」。境内を本堂に向かって進む。「百度石」碑。「本堂」手前の右側にあったのが「手水舎」。「南無浄行菩薩」。「南無浄行菩薩」水桶とタワシが。水盤。「本堂」(右)正面。内陣(右)。内陣(左)。石製の蛙が。「本堂」、「手水舎」を見る。「東陽院」を後にして「新島橋」を再び渡ると、その先に「環二通り」の高架があった。「勝どき陸橋」交差点が前方に。東卸豊海住宅1号棟、2号棟跡地は「豊海地区第一種市街地再開発事業」が行われていた。地上54階地下1階建(直接基礎・制振構造)、総戸数2,077戸(予定)の高層マンションが2棟出来るとのこと。反対側の岸壁には「共勝丸」が停泊していた。中央区勝どき5丁目12−9先。株式会社共勝丸が運航する「第二十八共勝丸(きょうしょうまる)」は、東京港月島と小笠原諸島(父島・母島)を結ぶ貨物船。月2~3往復の不定期便の運行予定で、片道約1,000キロを約46時間で運行。一般的な貨物や、定期船「おがさわら丸」では運べないガソリンなどの危険物や、車、廃棄物など資材を運搬している。共勝丸は貨物船であるので、運航はあくまでも貨物優先であるが、定員9名のキャビン(客室)が設けられており、 荷物の付き添いや、小笠原諸島の住民、その他、緊急と認められる場合は乗船可能であると ネットから。そしてその先、道路の反対側・左手にあったのが「中央豊海郵便局」。中央区豊海町5−1。バス停「豊海水産埠頭」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.12.02
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「勝鬨橋」の下を潜り隅田川左岸の「隅田川デッキ」を進む。前方に見えて来たのが、「築地大橋」その奥に広がる緑は「浜離宮 恩賜庭園」。「築地大橋」をズームして。その後ろにゆりかもめの竹芝駅周辺の高層ビル群。隅田川で最も下流に位置する橋梁。2018年(平成30年)11月4日、環状2号線豊洲 - 築地間の暫定開通に伴い接続する豊洲大橋とともに開通した。東詰側は勝どき陸橋と接続しており、朝潮運河に架かる黎明大橋まで高架が連続する。西詰側で築地虎ノ門トンネルと接続する。西詰側は旧・築地市場に隣接している。左手のオフィスビル・「イヌイビル・カチドキ」を見上げる。中央区勝どき1丁目13−1。小舟が高速で隅田川上流へと。「勝鬨橋」を振り返る。赤いビルは「住友生命保険相互会社 東京本社」ビル。その左に「ニチレイ東銀座ビル」。下流側から「勝鬨橋」の重要文化財に指定されている「二葉跳開橋」部分をズーム。現在地案内地図。ズームして。「勝鬨橋(かちどきばし)築地と月島の間を渡していた渡船場が、1905年の日露戦争での戦勝を記念し、「勝鬨の渡し」と命名されました。1930年に架橋が計画され、大型船の通航ができるように、シカゴの双葉跳開橋にならってはね橋とし、1940年に開通しました。1970年から大型船の通航もなくなり、また交通渋滞の緩和のため、「開かずの橋」となりました。隅田川と一体となって地域のランドマークとしての役割を果たすとともに、建設された時代の特色を表していることから、1999年に東京都選定歴史的建造物に選定されました。付近にある「かちどき・橋の資料館」は勝鬨橋を開くために使用していた変電所を改修したもので、この勝鬨橋をはじめ、隅田川の橋について貴重な資料や関連情報を展示、公開しています。」「十返舎一九墓十辺含一九(1765 ~ 1831)は、江戸の滑稽本の代表作である、弥次喜多の活躍する「東海道中膝栗毛」などの作品で知られる江戸時代の作者です。1930年、東陽院の移転により浅草から現在地に移されました。石には5名の名が刻まれており、右から2番目「心月院一九日光信士」が一九の戎名です。左側面に辞世の句「この世をば、どりゃお暇に線香の煙と共に、はいさようなら」が刻まれています。(中央区教育委員会より提供)」勝鬨橋長寿命化工事(塗装)の工事は来年2月末までの予定とのこと。「勝鬨橋」👈リンク の開閉部を再びズームして。「隅田川テラス」の横壁にあった壁画。中央区勝どき3丁目14−10手前。「風」と。隅田川の対岸奥に「東京タワー」が見えて来た。ズームして。さらに。東京タワーの右側は「パークコート浜離宮ザ・タワー」。総戸数572戸、地上37階建て、高さ133mの大規模高層マンション。「1998年1月隅田川(勝どき三丁目中央地区) 築堤修繕工事⬅延長49m 東京都貝島・山九・大成建設共同企業体施工」「隅田川テラス」を「築地大橋」に向かって進む。再び「勝鬨橋」。その後ろに左から「ニチレイ東銀座レジデンス」、「住友生命保険相互会社 東京本社」、「聖路加ガーデン 銀座クレストン」。ここにも壁画が。「水」と。石段の上に「日本紙パルプ商事フォアフロントタワー公開空地」。ポールが6本。中央区勝どき3丁目14。黄葉の始まった樹に囲まれたこのベンチで水分補給。再び「築地大橋」。橋梁形式 : 鋼3径間連続中路式アーチ橋橋長 : 245 m幅員 : 32.3 m - 48.0 m施工主体 : 東京都そして橋の中央にあったのが「浜前水門」。中央区勝どき3丁目15−1。橋の名は「浜前橋」。中央区勝どき3丁目15−1。勝どき3・4丁目と5・6丁目の間を流れ、隅田川と朝潮運河を結ぶのが「新月島川」。明治時代に造成された月島二号地(今の勝どき1~4丁目)の沖に大正2(1913)年に埋立地・月島三号地(今の勝どき5・6丁目)が造成され、二つの埋立地の間にこの運河が誕生した。この500メートルほどの運河と隅田川との接続部に昭和39(1964)年に設置された防潮水門が浜前(はまさき)水門で、有効幅員8.4メートル×1門のローラーゲート式水門。上空制限高はA.P.+4.4メートル。普通、ローラーゲート式水門の上部には操作室があるものだが、この水門にはありません。上流側を見ると前方には「新島橋」。「新月島川」とウッドデッキ。折しも、臨港消防署の「はやて」が訓練中。海上の災害現場で消防部隊の指揮をとる指揮艇 と。「臨港消防署」。「築地大橋」のアーチ部が見えた。ウッドデッキを「新島橋」に向かって歩く。ウッドデッキ上で座って遊ぶ保育園児。前方の高層ビルは「パークタワー勝どきサウス」。中央区勝どき4丁目7−7。「環二通り」の先に高層マンション「ザ・トーキョータワーズ ミッドタワー」。中央区勝どき6丁目3−2。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.12.01
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