JINさんの陽蜂農遠日記

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2024.04.17
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カテゴリ: JINさんの農園
さらに「​ 衣笠城址 ​」👈️リンク に向かって傾斜の急な坂道を上っていった。
周囲には、歴史を感じさせる、瓦葺きの大きな旧家の家の姿が。
横須賀市衣笠町28付近。



上って来た坂道を振り返る。



息が上がるくらいの傾斜。路面には、自動車や歩行者、自転車などが坂の上で滑らないように
するための滑り止めが施工されていた。
鎌倉時代の武将たちになったつもりで進んだのであった。
左手前方に黄色い看板が。



「ローゼンベッカー 榧(かや)の木邸



衣笠城に続く坂道の先にある古民家カフェ。>ケーキやパンを販売していると。



古民家を改造してオープンしたと。



テラスの先の建物は蔵であったのだろうか?

写真 : ローゼンベッカー 榧の木邸 - 衣笠/ケーキ | 食べログ

その先、民家の裏の巨岩が顕になった頂上には石の祠が。
少し下にある窪地にも2基の石塔が鎮座。
現地案内板に「 旗立岩 」という表記があったので、これであろうか
衣笠合戦の際、三浦義明は、旗立岩等、城内に沢山の旗を立て、また篝火が消えないよう、
最後の力を振り絞り、城内を切り盛りして、一族が無事脱出する時間稼ぎをしたのだ と。



ズームして。



扉には南京錠が。



三浦氏の家紋「丸に三つ引



「大善寺」の手前の参道の左側には 大きな井戸 が。



金網・ネットで養生された「 不動井戸 」。



ネットの隙間から井戸の中を覗くと水面が見えた。
水に困った大善寺を創建した行基が杖で岩を穿ったときに湧き出てきたという井戸
衣笠城が築城されてからは、重要な生活用水として使用されていた と。



内部には 「不動明王」像 が祀られていた。



大善寺と不動井戸
この寺は、 曹洞宗に属し「金峯山不動院大善寺 」と称します。
天平元年(728)、諸国行脚中の僧行基が、この山に金峯蔵王権現と、自ら彫刻した不動明王を
祭り、その別当として建てられたのが大善寺である と言われています。そのときおはらいを
する水に困った行基が、杖で岩を打つと清水が湧きだしました。
その場所が、このコンクリートで囲まれた井戸のあたりであると伝えられています。
康平6年(1063)、前9年の役の戦功により、三浦の地を与えられた平大夫為通は、三浦の姓を
名のり、この山のほぼ全域を城としました。それが衣笠城 です。 衣笠城は第7代泰村が、
北条時頼との争いに破れ、一族500余人と鎌倉の法華堂で宝冶元年(1247)に討ち死にするまで
184年間、三浦一族の本城 でした。
大善寺は、蔵王権現、不動堂は、衣笠城のなかにあって、三浦一族の学問や仏教信仰の中心的な
役割を果たしました。とくに不動尊は、第2代為継が後3年の役に出陣したとき、戦場に現れ
敵から射かける矢を打ち払って、為継を守ったと伝えられています。「矢取不動」の名称は、
その伝説によります。
また、行基によって開かれた泉は、衣笠城の重要な生活用水でした。いつのころからか、
「不動尊御手洗池」通称「不動池」と呼ばれるようになりました。
現在、蔵王権現社も不動尊も残っていませんが、不動明王像は大善寺に本尊として祭られています。
今ある大善寺は、明治29年に全焼した本字を昭和10年に再建したものです。」



石段の途中左側にあった「 大善寺門前の庚申塔群 」を見上げて。



神奈川県は庚申塔の密集地で、我が藤沢市内にも多数分布している。
三浦半島でもそのことは同じだが、 三浦半島の特徴は一ヶ所にたくさんの庚申塔があること と。
しかし古くからそうであったのか、あるとき集められてそうなったのかは分からない。
大善寺へ登る石段の脇に、きちんと立つものだけでも10基あった。足場が悪く近づくことが
出来なかったが 、向かって右のものから3基は順に嘉永元年(1848)、文化・・(1804-18)、
宝暦八年(1758)と年号銘を読むことができた。
向かって 右側5基は六臂青面金剛(ろっぴしょうめんこんごう)塔、左側5基は文字塔と区分け されて
いるので、立てられた順に並んでいるのではないことが分かる。あるとき集められたものかも
知れないと感じたのであった。



石段下左には「 箭執(やとり)不動尊 」と刻まれた石碑が。
御本尊の不動明王像は、衣笠城を築城した三浦為通が城内に安置したもので、敵が放つ矢を
受け止めたことから「箭執(やとり)不動」と呼ばれているのだ と。



「大善寺」の境内に向かって、急な石段を上る。



途中、石段右側にあった、苔生した石碑類。



ズームして。



中段の境内に建つブロック製の祠の内部にも地蔵尊石仏が並ぶ。
中央に蓮華座に鎮座する前掛けをした地蔵坐像/右手に錫杖、左手に宝珠を持つ地蔵尊坐。



地蔵石仏が鎮座する中段の境内から眺めた本堂....石垣の雛壇に石仏や石燈籠などがあった。



下の雛壇に立つ2基の石燈籠....宝暦七年(1757)の造立で、笠の上に異形の請花と
宝珠が乗っていた。
石燈籠(右)。



石燈籠(左)。



さらに頑張って石段を上る。



切妻造板葺の手水舎.... 手水鉢に漱盤と彫られ 、柱に「 嗽盤堂 」と書かれた木板が
掲げられていた。



これは井戸?



入母屋造本瓦葺風銅板葺の本堂。本堂は昭和10年(1935)の再建。
【山号寺号】金峯山不動院大善寺
【宗派】曹洞宗
【創建】天平元年(729)
【開山】行基言薩
【本尊】不動明王(不動)
天平元年(729)諸国行脚中の行基がこの地を訪れ、後に衣笠城となる山に、自ら彫刻した
不動明王を祀った不動堂と、金峯蔵王権現を祀った社を建てた。この不動堂と金峯蔵王権現社を
管理する別当寺として建されたのが、大善寺のはじまりとされる。
奈良時代の古刹であり、三浦氏の学問、仏教信仰の中心的な存在であったと言われる。
三浦氏のニ代為継は、後三年の合戦に出陣し、戦いの最中この不動明王が敵の矢を払し、落とし、
為継を守ったという言い伝えがあり、この不動尊は別名「箭執(やとり)不動」という。
また、大善寺で発見された毘沙門天立像は、奥州・平泉の中尊寺金色堂・増長天像との類似性が
認められ、鎌倉文化圏における平泉仏教文化の影響を受けた唯一の仏像でもある。」
と「資料」から。

旅66 横須賀 No.2 (三浦按針の墓 曹源寺 大善寺と衣笠城跡 清雲寺 満昌寺 満願寺 腹切松公園): ハッシー27のブログ

横須賀市指定重要文化財
  木造阿弥陀三尊像
          昭和60年(1985年)4月25日指定
大善寺の阿弥陀三尊像は、檜材の一木割矧造〔一木の材で彫るが、途中で縦半分に割り、
中空としてつなぎ合わせる〕彫眼で、その制作時期は12世紀後半=平安時代末期と推定される。
中尊の阿弥陀如来像は像高89.2 cm、裙〔くん・下半身に巻く一枚の布〕を着け、袈裟を
偏袒右肩〔へんだんうけん・左肩を覆い右肩に僅かにかける〕にまとい、来迎院を結び、右足を
外にして結跏趺坐〔両足の甲を反対の足のももに乗せる座り方〕する。
脇侍の観音菩薩像は像高89.5 cm、死者の魂を乗せて運ぶといわれる蓮台を両手で捧げ持っ姿で、
右足の膝を軽く屈折させて前に出す来迎の動きをみせている。勢至菩薩像は像高91.1 cm、胸前で
合掌する。
本阿弥陀三尊像は江戸時代の後補や破損部分が多いものの、阿弥陀如来像の胸部の造形や背面の
翻波式衣文[ほんばしきえもん・衣の皺を丸波・角波あるいは大波・小波で交互に彫る〕など
平安時代末期の特色を良く表現している。
三浦氏歴代の本拠であった衣笠城跡に建つ大善寺は行基の開創を伝える古刹で、明治以降は
不動三尊像を本尊とするが、それ以前は本阿弥陀二尊像が本尊であった。極楽浄上への往生を
願う阿弥陀信仰は12世紀頃から一般的になるが、本像は三浦半島でも最占の遺存例である。」

横須賀市指定重要文化財
  木造伝毘沙門天立像
       平成25年(2013年)3月11日指定
大善寺の伝毘沙門天立像は、檜材の寄木造で玉眼を嵌める。その制作時期は平安時代末から
鎌倉時代初頭と推定される。
像高92.0 cmで、髪を垂髻〔すいけい・頭頂部で束ね、根本とその上部の2カ所で結い、その上を
垂らす〕に結い、右手を高く振り上げ、腰をひねり、眉をひそめて左斜め下方を向く。このような
姿形は、岩手県の中尊寺金色堂正面壇に安置される増長天立像と様式的に著しく一致しており、
本像最大の特徴となっている。
『吾妻鏡」によれば、源頼朝は文治5年(1189年)の奥州合戦の折に、中尊寺諸院の壮大な伽藍に
感嘆したといわれ、鎌倉に戻り源義経や藤原泰衡らの怨霊鎮魂のため、中尊寺ニ階大堂大長寿院を
模倣して永福寺を建立した。
この合戦には三浦一族も参陣したが、永福寺奉行人の筆頭となる三浦義澄を初めとして、
頼朝同様に平泉の仏教文化に多大な影響を受けたことが、本像制作のきっかけになったので
あろう。
中尊寺金色堂様式の仏像は平安時代末期に平泉を中心として、東北・北関東に分布したが、本像は
その南限であり、鎌倉文化圏における平泉仏教文化の影響を受けた唯ーの仏像でもある。
          平成27年3月31日     横須賀市教育委員会」



木造阿弥陀三尊像 」。

「木造伝毘沙門天立像 」。



本尊矢取不動明王
地蔵尊は衣笠町にあった福壽院という寺が、明治期に廃寺された折り、本尊福壽地蔵菩薩を
当寺に合祀したと伝わるが、詳しい記録が無く、縁起等は不明。



『吾妻鏡」によれば、 源頼朝は 文治5年(1189年)の奥州合戦の折に、中尊寺諸院の壮大な伽藍に
感嘆したといわれ、 鎌倉に戻り源義経や藤原泰衡らの怨霊鎮魂のため、中尊寺ニ階大堂大長寿院を
模倣して永福寺を建立 した。
鎌倉にある 永福寺のイメージをネットから。

特別展】源頼朝が愛した幻の大寺院 永福寺と鎌倉御家人―荘厳される鎌倉幕府とそのひろがり― | 神奈川県立歴史博物館

移動して再び本堂を見る。



本堂の正面。



扁額「大善寺」。



昭和10年(1935)に再建した堂宇の前に一対の江戸期の狛犬がいた。
天明8年12月の奉納 で、 石工源ェ門 とある。
顔の彫りもよいが、前脚の形と首まわりの巻き毛、尻尾の渦毛が盛り上がり重厚な逸品である。
神仏習合の名残を残す一対であろう。
本堂正面右側の狛犬。



後ろ姿。



本堂正面右側の狛犬。



後ろ姿。



                                    ・・・​ もどる ​・・・



                  ・・・​ つづく ​・・・






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Last updated  2024.04.17 04:39:21
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